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チコちゃんを叱る「お年玉の玉ってなーに」

2020-01-18 22:09:42 | 年中行事・節気・暦
またまた「チコちゃんに叱られる」の出鱈目が止まりません。正月早々、とんでもない出鱈目な内容を放送していました。テーマは「お年玉の玉ってなーに」ということで、答は「年神様の魂」ということだそうです。

 まずは放送で実際に使われた言葉を活かしながら、その粗筋を御紹介しましょう。

 お正月には年神様が各家庭にやって来ます。そしてその年の幸せや五穀豊穣を運んでくると考えられていました。お正月に行われる様々な行事は、年神様をお迎えするためのものなのです。そしてお正月の間は、年神様は鏡餅に宿ります。鏡餅にはその歳を活きるための魂、つまり年魂も宿っているわけです。お正月になるとその家の家長が年魂の宿っている鏡餅を御年魂として家族に分け与えます。このお年魂をお雑煮として食べることで一年分の力を授かることができると言われていました。つまりお年玉とは、年神様の魂の事なのです。それが高度経済成長の時期に現金になり、現在のお年玉になったというわけです。

 この番組内容を指導したのは、自称「和文化研究家」の三浦康子氏です。三浦氏の年中行事の解説はネット上に溢れているのですが、どれもこれも「・・・と言われています」ばかりで、確たる根拠を示したものは何一つありません。三浦氏に限らないのですが、伝統的年中行事の解説で、まともなものはめったにお目にかかれません。

 随分と過激なことを言うものだと思われるかもしれませんが、チコちゃん説がいかに出鱈目であるか、以下に証拠をずらりとならべてお見せしましょう。

 年玉に関する近世の文献史料は数多く残っています。まずは『日葡辞書(にっぽじしよ)』(1604年)という日本語とポルトガル語の辞書には、「Toxidama(トシダマ)、新年の一月に訪問したおりに贈る贈物」と記されています。北村季吟(きぎん)という国学者が著した『増山之井(ますやまのい)』(1663年)という俳諧書には「としだま、年始の持参礼物をいへり」、『日次紀事』(1676年)という京都の歳時記には、「凡(およそ)新年互に贈答の物、総じて年玉と謂(い)ふ」と記されています。『俳諧歳時記栞草(しおりぐさ)』(1851年)という江戸時代最大の歳時記にも、「新年の賜(たまもの)と云なるべし」と記されています。

 滝沢馬琴の『馬琴日記』には、正月の半ば頃まで連日のように知人が「年礼のためとし玉持参」と記されていています。一般的には歳暮は下位の者から上位の者へ、年玉はその逆と理解されていますが、流行作家として著名な馬琴に、連日のように年玉をもった上位の来客があるとも思えません。年玉は上位の者が下位の者に与える物という理解は、当時はなかったのです。余りにも多いのでこの辺で止めておきますが、年始の挨拶である「年礼」に添える品物を年玉という史料は書ききれない程あるのです。一方、お年玉の年神霊魂分与説を裏付ける文献史料は何一つありません。反論があるなら見せてほしいものです。長年歳時記の研究をしていて、江戸時代の歳時記などはほぼ読み尽くしていますが、何一つありません。

 このような年玉の理解は、明治時代になっても続いています。明治時代中期の『東京風俗志』(1899年)には、「商家などには華客(とくい)さきざきを賀し、年玉とて染手拭、摺暦(すりごよみ)、或は品物などを配りて、相変はらずの御贔屓(ごひいき)を頼みありくも多し」と記されています。また明治時代後期の『東京年中行事』(1911年)にも、「年玉・年賀・・・・普通の人々の間に於ても、年礼(ねんれい)と同時に、その家の小供にお年玉といって手土産を贈ることが行はれて居るが、最も盛に行はるるのは、平生(へいぜい)出入りの商人が年礼の序(ついで)に、得意先に配って歩くお年玉で有らう。そのお年玉の種類は素(もと)より一定して居るのではないが、多くは自分の商売品中のものか、或はそれに関係の品で、乃至(ないし)は手拭、略暦、盃なんどが最も普通のもので有る」と記されています。現在では新年の挨拶に「お年賀」「お年始」と称してタオルやカレンダーを配ることがありますが、これこそがかつての年玉なのであって、断じて年神の霊魂を表す餅ではありません。

 それなら年玉は実際にはどのような物だったのでしょうか。文献史料から拾い出せる物は、総じて各々の身分に相応しい物や、家業で取り扱う物、あるいは縁起物が多いようです。何を年玉として配るかにより、その家の身分や家業がおよそわかるのです。前掲の『日次紀事』には、「商家は必ず得意先に年玉を持って新年の挨拶に行くこと。医者は普段扱っている丸薬や軟膏類」、また「諸民に至りては各作業の物を相贈る。高貴の如きは太刀、馬代、時服等、贈答の物、枚挙に及ばず」と記されています。また江戸時代末期の風俗を叙述する『江戸府内絵本風俗往来』には、「年玉の進物の大方は扇子なり」と記され、正月二十日以後になると、この扇の入っていた空箱を買い集めに来る者さえいたと記されています。とにかく最も目につくのは扇なのです。『馬琴日記』からは、落雁・煎餅・扇子・かんざし・白粉・茶碗・粟餅・砂糖・納豆などを拾い出せます。納豆は僧侶の配る年玉の定番です。芭蕉の門人である許六に「糞とりの 年玉寒し 洗い蕪」という俳諧があります。都市近郊の農民が、糞尿肥を汲み取らせてもらう代わりに、野菜を置いてゆくことを詠んでいるのですが、これなどは年玉が家業を表すよい例でしょう。

 その他に江戸時代の様々な文献から、鼠半紙(漉き返した灰色の半紙)・箸・貝杓子・樽酒・茶・保存のきく昆布・干鱈・するめ・牛蒡(ごぼう)・蒟蒻(こんにやく)・軽粉(白粉)・凧・蝋燭・掛軸・熊皮などを拾い出すことができた。『風俗画報』224号(1901年)には、明治時代の年玉の品が列挙されています。それによれば、「菓子・砂糖・酒類・鰹節・海苔・蜜柑・柿・林檎・昆布・茶・玉子・小間物(花簪・頭掛・香油・石鹸の類)・呉服・手拭・扇・紙類・筆墨類・文房具・陶器類・漆器類・盆栽・挿花・桶類・籠類・その他日常品」などがあげられ、陶器類が最も多いと記されています。江戸時代より種類は増えていますが、日常の品であることに変わりありません。個々の場合なら現金や餅のこともあったかもしれませんが。しかし本来の年玉は子供への贈り物や餅ではなく、大人の社会の付き合いや主従関係の中で、新年の挨拶に添える品物だったのです。

 いかがですか。これだけ確かな根拠を並べても、まだ年神霊魂分与説が正しいと思われますか。百歩譲って、仮に正しいとしましょう。もしそうしたら上記の史料に記された「年玉」はいったい何になるのですか。説明ができますか。江戸時代以来明治時代に至るまで、年玉に関する文献史料は、ここに示したもの以上にたくさんあるのです。それを否定できるのですか。もし確かな根拠を示してくれるのならば、潔く降参しましょう。しかしそれができないのであれば、日本の正しい歴史をねじ曲げることはもう止めてほしいのです。三浦氏もさることながら、NHKの責任も大きなものがあります。

 なおチコちゃんを叱ると題して、私がかつて公開した文を御紹介します。チコちゃんがいかに出鱈目な説を垂れ流しにしているか、よくよくわかることでしょう。

①うたことば歳時記 チコちゃんを叱る「牡丹餅とお萩」、
②うたことば歳時記 チコちゃんを叱る「お盆の盆ってなーに」、
③うたことば歳時記 チコちゃんを叱る「なぜ桜の下でどんちゃん騒ぎするの」
④うたことば歳時記 チコちゃんを叱る「お握りはなぜ三角形」
⑤うたことば歳時記 チコちゃんを叱る「雑煮の雑ってなーに」

以上のように検索すると見られますから、まずは御覧下さい。



1 コメント

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Unknown (笹木)
2023-10-21 00:36:04
「チコちゃんに叱られる」
結論が、解説をだいぶ超訳しているなと思うことはあっても、内容はちゃんと調べたものだろうと信じていました……。こちらのブログを拝読して勉強したいと思います。
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