うたことば歳時記

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『一遍上人語録』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2021-01-31 08:01:25 | 私の授業
一遍上人語録


原文
 夫(それ)、念仏の行(ぎよう)者(じや)用(よう)心(じん)のこと、示すべきよし承り候。南無阿弥陀仏と申す外(ほか)、さらに用心もなく、此外(このほか)にまた示すべき安心(あんじん)もなし。諸(もろもろ)の智者達の様々に立おかるゝ法要どもの侍るも、皆諸惑(しよわく)に対したる仮(かり)初(そめ)の要文(ようもん)なり。されば念仏の行者は、かやうの事をも打捨(すて)て念仏すべし。
 昔、空也(くうや)上人(しようにん)へ、ある人、「念仏はいかゞ申すべきや」と問ひければ、「捨てこそ」とばかりにて、何とも仰(おおせ)られずと、西行法師の撰集抄(せんじゆうしよう)に載(のせ)られたり。是(これ)誠に金言なり。念仏の行者は智恵をも愚(ぐ)痴(ち)をも捨(すて)、善悪(ぜんなく)の境界(きようがい)をもすて、貴賤高下の道理をもすて、地獄を恐るゝ心をもすて、極楽を願ふ心をもすて、また諸宗の悟(さとり)をもすて、一切の事をすてゝ申(もうす)念仏こそ、弥陀超世の本願に尤(もつとも)かなひ候へ。
 かやうに打あげ打あげとなふれば、仏もなく我もなく、まして此(この)内(うち)に兎(と)角(かく)の道理もなし。善悪の境界(きようがい)、皆浄土なり。外に求べからず。厭(いとう)べからず。よろづ生(いき)としいけるもの、山河草木、吹く風、立つ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預(あずかる)にあらず。・・・・たゞ愚なる者の心に立返りて念仏し給ふべし。

現代語訳
 ところで、念仏の行者の心得を示してほしいとのこと、承知いたしました。南無阿弥陀仏と申すこと以外には、特に心得ることはなく、その他にまた示すべき安心(あんじん)(確信を得て動かないこと)もありません。多くの先達の僧達が様々に説いた教えなどがありますが、どれもみな諸々の迷いに対する一時的な教えなのです。ですから念仏を行ずる者は、このような教えをも打ち捨てて、念仏を唱えなければなりません。
 昔、ある人が空也上人に、「念仏はどのように心得て唱えるべきなのか」と問うたところ、「一切を捨ててこそ」と言うばかりで、他には何ともおっしゃらなかったと、西行法師の『撰集抄(せんじゆうしよう)』に記されています。これは本当に素晴らしいお言葉です。念仏を行ずる者は、智恵をも愚痴をも捨て、善悪の分別心をも捨て、貴賤上下という社会の道理をも捨て、地獄を恐れる心を捨て、極楽往生を願う心すら捨て、また諸々の宗派の悟りをも捨て、一切の事を捨てて唱える念仏こそが、阿弥陀如来の無上の本願(諸仏の誓願より優れた誓願)に、最もかなうものなのです。
 このようにして声(こわ)高(だか)に念仏を唱えれば、仏もなく我もなくて一つになり、そこには何の理屈もありません。善だの悪だのという分別もなく、みな浄土となるのです。それ以外に浄土を求めてはなりませんし、(仏我一如が浄土そのものなのですから)現世を厭うてはなりません。あらゆる生きとし生けるもの、山や河や草や木、吹く風や立つ波の音までも、念仏でないというものはありません。人だけが阿弥陀如来の無上の本願により、救われるわけではないのです。・・・・ただ愚かな者の心に立ち帰って念仏なさいませ。

解説
 『一遍上人語録(いつぺんしようにんごろく)』は、江戸時代の宝暦十三年(1763)、伝えられていた一遍(1239~1289)の言葉や書簡や和歌などを集めて編纂された、一遍の言行録です。一遍は臨終に所持していた一切の著作物を焼き捨てたため、『一遍上人絵伝』という国宝の絵巻物が伝えられてはいますが、一遍の思想を表す文献史料は、他の祖師達に比較して少ないのです。
 『一遍上人絵伝』によれば、念仏を摺(す)った小さな紙の札を配りながら念仏を勧めて遊行していた時、ある僧に出会って、「一念の信をおこして南無阿弥陀仏とゝなえて、この札を受け給ふべし」と札を差し出したのですが、「いま一念の信心起こり侍らず。受けば妄(もう)語(ご)(うそ)なるべし」と断られてしまいました。「信心がないのにその札を受け取れば、心を偽ることになるので受け取れない」というのです。
 これにより一遍は、信心のない人の救済という問題に直面しました。そこで阿弥陀如来の垂(すい)迹(じやく)とされていた熊野神社に参(さん)籠(ろう)して、答えを求めました。そして夢に「御(ご)房(ぼう)の勧めによりて、一切衆生初めて往生すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫(じつこう)正覚(しようがく)(遠い昔に正しく悟りに至ったこと)に、一切衆生の往生は、南無阿弥陀仏と決定(けつじよう)するところなり。信不信を選ばず、浄不浄を嫌はず、その札を配るべし」と示されたのでした。「一遍の勧めにより往生するわけではない。一切衆生の往生は既に定まっているのだから、信心の有無にかかわらず、念仏札を配るべし」、というわけです。
 ですから一遍にしてみれば、「信じるという心や、ひたすら念仏を唱えること自体に、既に自力が介在している。衆生の往生は既に十劫(じつこう)の昔(途方もない大昔)から既に決定しているのだから、往生の主体となるのは人ではなく、南無阿弥陀仏という名号である」というのです。法然も親鸞も他力本願を説いていますが、一遍はその「他力」を更に徹底し、法然の説いた「専修(せんじゆ)念仏」さえ自力というわけです。
 ここに載せたのは、ある僧から念仏の心得を問われ、それに対する返事の手紙です。一遍は空也を「我が先達」と称して敬慕していましたが、この手紙の主題の「捨てる」ということは、空也から学んだことでした。「極楽を願ふ心をも捨て」というのですから徹底しています。「仏もなく我もなく」念仏を唱える仏我一如の境地を、一遍は「念仏が念仏を申すなり」(『播州法語集』)と表現していて、時宗の信者に「○阿弥」という阿弥号を持つ者がいることは、これに由っています。
 このような宗教的法悦を、空也は踊念仏で表現しました。『一遍上人絵伝』によれば、一遍一行が長野の善光寺に行く途中、小田切という所で念仏札を配ったところ、民衆が念仏を唱えて踊り出したと記されています。「この穢身(えしん)はしばらく穢(え)土(ど)にありといへども、心はすでに往生をとげて浄土にあり」(『播州法語集』)というのですから、民衆は喜びの余り狂うように踊り出したのでした。踊念仏は布教の方便ではなく、救われた確信を得た歓喜の舞なのです。ただし一遍は空也が踊念仏を始めたと考えていましたが、空也が踊念仏をしていたことを示す確かな文献史料は何一つありません。


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『山家学生式』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2021-01-25 15:49:12 | 私の授業
山家学生式


原文
 国宝とは何物ぞ。宝とは道心也。道心有る人を名づけて国宝と為(な)す。故に古人言はく、「径寸十枚、是(これ)国宝に非ず。一隅千を照らす、此(これ)則ち国宝」と。古哲又云はく、「能(よ)く言ひて行ふこと能(あた)はざるは国の師也。能く行ひて言ふこと能はざるは国の用也。能く行ひ能く言ふは(最澄の直筆では「能く言ひて行ひ能く言ふは」となっている)国の宝也。三品(さんぽん)の内、唯(ただ)言ふこと能はず、行ふこと能はざるを国の賊と為(な)す」と。
 乃(すなわ)ち道心有る仏子を、西には菩薩と称し、東には君子と号す。悪事を己(おのれ)に向け、好事を他に与(あた)へ、己(おのれ)を忘れて他を利するは、慈悲の極(きわみ)。
 釈教(しやつきよう)の中、出家に二類あり。一は小乗の類、二は大乗の類。道心の仏子は即ち此の類。斯(ここ)に今我が東州、但(ただ)小像有りて、未だ大類あらず。大道未だ弘(ひろ)まらざれば、大人(だいにん)興(おこ)り難し。誠に願はくは、 先帝の御願(ぎよがん)、天台の年分、永く大類と為(な)し、菩薩僧と為さんことを。

現代語訳
 国宝とは如何なるものか。宝とは仏の道を求める心である。この心(道心)のある人を、名づけて国宝とする。故に古(いにしえ)の人が言うには、「直径一寸の十個の玉(ぎよく)が国宝ではない。片隅にいても千里を照らす者、これこそが国宝である」と。また古の哲人が言うには、「(仏の悟りを)よく説くことができるならば、(土木や福祉などの菩薩行を)よく実践できなくても、国師(国を導く人)である。(その反対に)それをよく実践できるならば、よく説くことができなくても、国用(国の役に立つ人)である。よく実践するだけでなく、よく説くことができるならば、国宝である。これら三種類の人がいるが、説くこともできず、実践もできなければ国賊である」と。
 すなわち道を求める心のある仏弟子を、西方のインドでは菩薩と称し、東方の中国では君子と呼ぶ。悪い事は自己に向け、好い事は他の人に与え、自己を忘れて人のために働くのは、究極の慈悲である。
 釈迦の教えでは、出家者には二種類がある。一つは小乗の教えの出家者、二つは大乗の教えの出家者である。道を求める仏弟子はこの大乗の出家者である。今、我が国では、ただ小乗のみがあり、いまだ大乗の出家者はいない。大乗の道はまだ弘(ひろ)められていないので、大乗の修行者はなかなか現れないのである。誠に願うところは、先帝(桓武天皇)の勅願により定められた、天台宗の年ごとの出家者(年分度者)を、今後は永く大乗の僧とし、その修行僧とすることである。                            

解説
 『山家学生式(さんげがくしようしき)』は、弘仁九年(818)から翌年にかけて、最澄(767~822)が、奈良の寺院とは別に、比叡山で独自に僧を養成するため、その制度の確立許可を三回にわたり嵯峨天皇に奏請した文書の総称で、六条式・八条式・四条式の三つから成っています。そして「学生式」とは、正式な僧侶を目指す「学生」の守るべき生活・修行の規律のことですから、「山家」とは、この場合は天台宗や延暦寺を意味すると理解できます。
 最澄の悲願は、大乗戒壇の設立でした。得度(とくど)(正式に僧となること)するためには、受戒(授戒)が必須でしたが、十人の高僧の前で二五〇戒に及ぶ具足戒(ぐそくかい)を守ることを、誠実に誓約しなければなりませんでした。それに対して大乗仏典の『梵網経(ぼんもうきよう)』に基づく戒は、在家と出家の区別なく、五八戒が説かれていました。これを大乗戒(菩薩戒)と言います。
 延暦二十五年(806)、最澄の奏請に応えて、桓武天皇の勅により、毎年得度する僧の人数が南都六宗と同様に、天台宗にも二名が割り当てられました。これを「年分度者(ねんぶんどしや)」といいます。これは天台宗が宗派として公認されたことであり、最澄にとっては大きな成果でした。しかし期待に反し、東大寺で受戒する弟子の多くが延暦寺に戻らず、南都六宗へ移ってしまったのです。ですから比叡山に独自に大乗戒を授ける戒壇を設立し、自らの手で僧を養成したいと最澄が考えたのは、自然なことでした。ただし六条式の第二条に、「大戒を受け已(おわ)らば、叡山に住せしめ、一十二年、山門を出(いで)ず、両業(りようごう)(天台の諸経典を修学する止観(しかん)業と、密教を修学する遮那(しやな)業)を修学せしめん」と記されているように、大乗戒を受けた後、比叡山で十二年間の厳しい修行を定めていますから、戒の数が少ないからといって、決して安易なものではありません。
 しかし南都寺院が猛烈に反対し、朝廷の許可は得られません。それに対して弘仁十一年(820)、最澄は南都仏教の批判に反論する、『顕戒論(けんかいろん)』を著して朝廷に奏上したのですが、結局、弘仁十三年(822)、最澄は五六歳で亡くなってしまいます。しかしその七日後、嵯峨天皇の勅により大乗戒壇の設立が認められました。そして延暦寺に戒壇院が設立されたのは、天長四年(827)のことでした。最澄、以て瞑すべし。
 ここに載せたのは、『山家学生式』の六条式の前書きの部分です。「国師」とは、仏法の奥義をよく語れる僧のことです。また六条式の第六条には「国用」の任務などについて、「池を修し、溝(用水路)を修し、荒れたるを耕し、崩れたるを埋め、橋を造り、船を造り、樹を殖(う)ゑ、苧(からむし)(麻の一種)を植ゑ、麻を蒔(ま)き、草を蒔き、井を穿(うが)ち水を引き、国を利し人を利する」ことと説明されています。要するに奈良時代の行基のように、社会福祉的菩薩行をする実践的な僧のことです。そして「国宝」とは、国師と国用のどちらにも優れた僧というわけです。ですから六条式の第五条に、「能く行ひ能く云ふは、常に山中に住して衆の首となし、国宝となす」と記されているように、「国宝」とは、「衆」(延暦寺の諸僧)の首長となれる程の、傑出した僧のことなのです。そして最澄は国家のための「国師」と「国用」となる僧、さらには「国宝」とも言うべき特に秀でた大乗僧を養成したいと考えていました。『山家学生式』は、あくまでも延暦寺における大乗僧養成に関する文書であり、断じて一般庶民を対象としたものではありません。
 ところが「国宝」の解釈について、原文では「照千一隅、此則国宝」となっている句を、「照于一隅」と理解して「一隅を照らす」と読み(「于」は場所を示す語)、「求道心を持ち、社会の片隅にいながら、社会を照らす人こそが国の宝である」という解釈が、広く行われています。しかし「天台法華宗年分縁起」とインターネットで検索すれば、最澄の直筆を見られますが、それには「照千一隅」と書かれていて、「千」を「于」と読むことは、一目瞭然、絶対に不可能です。つまり「一隅千を照らす」が本来の読み方であり、「一隅にあっても遠く千里まで照らす有為な人材こそ国宝である」という意味なのです。
 この句は本来は、『史記』の故事に拠っていています。「魏の恵王が斉(せい)の威王に、『我は馬車十二乗を照らす玉(ぎよく)の宝を十個も持っているが、威王はどの様な宝を持っているか』と尋ねた。すると威王は『玉の宝はないが、優れた家臣がいて、この者が千里を照らす宝である』と答えると、恵王は恥じて立ち去った」というのです。また原文の「古哲又云はく」の部分の出典『摩訶止観(まかしかん)輔行伝弘決(ぶぎようでんぐけつ)』には、斉の威王の故事も引用されていて、最澄は直接『史記』から引用したのではなく、ここからほぼそのまま孫引きしています。そしてそこにははっきりと、「守一隅・・・・照千里」と記されているのです。
 社会の「一隅を照らす」こと自体は結構なことです。しかし最澄の筆跡、「国師」と「国用」を兼ねた「国宝」となる傑出した僧を養成したいという六条式全体の趣旨、斉の威王の故事、『摩訶止観輔行伝弘決』の記述などを総合すれば、最澄の言う「国宝」とは、千里を照らす人物であることは明白なのです。宗門の説くことより、宗門とは関係の無い者が説くことの方が、宗祖の言葉をよく理解できるとは、何という皮肉ではありませんか。比叡山関係者の反論を聞いてみたいものです。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『山家学生式』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。





『三教指帰』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2021-01-23 19:56:40 | 私の授業
三教指帰


原文
 こゝに亀毛(きもう)等・・・・良(やや)久しくして二目(じぼく)に涙(なんだ)を流し、五体(ごてい)を地に投げて、稽顙(けいそう)再拝して曰く、「吾等久しく瓦(が)礫(れき)を翫(もてあそ)び、常に微楽(びらく)に耽(ふけ)る。譬(たと)へば辛(から)きことを蓼葉(りようよう)に習ひ、臭きことを厠屎(しし)に忘れ、盲目を覆(おお)ひ以て険(けわ)しき道に進み、蹇駑(けんど)を騖(は)せて冥(くら)き途(みち)に向ふが如し。投(いた)らむ所を知らず。陥(おちい)らむ所を知らず。今、偶(たまたま)高論の慈誨(じかい)に頼(よ)りて、乃(すなわ)ち吾(わ)が道の浅膚(せんぷ)なることを知りぬ。臍(ほぞ)を噬(く)ひて以て昨(きのう)の非を悔(く)い、脳(なずき)を砕(くだ)きて明(あす)の是(ぜ)を行はむ。仰ぎ願はくは、慈悲の大(だい)和(わ)上(じよう)、重ねて指南を加へ、察(あきら)かに北極を示せ」と。
 仮名(かめい)が曰く、「愈(しか)り。咨咨(ああ)、善(よ)き哉(かな)。汝等遠からずして還(かえ)れり。吾、今重ねて生死(しようじ)の苦源を述べ、涅(ね)槃(はん)の楽果(らくか)を示さむ。其(そ)の旨(むね)は則ち、姫(き)・孔(こう)の未だ談ぜざる所、老・荘の未だ演(の)べざる所なり。・・・・諦(あきら)かに聴き、能(よ)く持(たも)て。要(よう)を挙(あ)げ綱(こう)を撮(と)りて、略(ほぼ)汝等に示さむ」と。亀毛等並(なら)びに席を避け、称して曰く、「唯々(いい)として、心を静め耳を傾けて、恭(つつし)むで専ら説を仰がむ」。・・・・・・
 是(ここ)に亀毛(きもう)公(こう)等(ら)一たびは懼(おそ)れ、一たびは辱(は)ぢ、且(また)は哀しみ、且(また)は笑ふ。舌に任せて俯(ふ)仰(ぎよう)し、音(こえ)に逐(したが)ひて方円なり。喜歓(きかん)踊躍(ようやく)し称して曰く、「我等幸(さいわい)に優曇(うどん)の大阿(あ)闍(じや)梨(り)に遇(あ)ひ、厚く出世の最訓(さいくん)に沐(ぼく)す。誰昔(むかし)にも未だ聞かず。後(こう)葉(よう)にも豈(あに)有らむや。

現代語訳
 そして亀毛(きぼう)達は・・・・やや暫(しばら)くしてから両目に涙を流し、身体を地面に投げ出し、平伏礼拝して言った。「我等は長い間、瓦礫(がれき)の如きつまらぬ物を信じ、いつも小さな楽しみに満足していた。それは譬えてみれば、蓼(たで)喰う虫が辛(から)さに慣れ、厠(かわや)の蛆(うじ)が糞尿の臭さを忘れ、盲者が目を覆い隠して険しい道を歩き、びっこの鈍(のろ)間(ま)な馬を走らせて、夜道を行く如きものであった。それではどこへ行き着くか、どこで落ちるか、知れたものではない。
 今たまたま素晴らしく慈悲深い教えを聞いたおかげで、我等の説いていた道が浅はかなものであることに気付いた。これからは臍(ほぞ)を噛む思いで、これまでの過ちを悔い、頭を振り絞って考え(粉骨砕身)、これからは正しい道に進もうと思う。仰ぎ願わくは、慈悲深い大師よ、さらに教え導き、明らかに究極の仏の道をお示し下され」と。
 すると仮名(かめい)が言った。「さようか。ああ、結構なことである。そなた達は遠くまでは行かずに、よくもまあ戻って来たものよ。我は今、重ねて生死の世界の苦しみの根源を述べ、解脱(げだつ)する仏の悟りの賜物について話そう。そのことについては、(儒教の聖人である)周公や孔子もまだ語ったことはなく、(道教の)老子や荘子もまだ説いたことはない。・・・・よく我が話を聴き、しかと守り行え。要点を挙げ、大筋をかいつまみ、仏の教えの概略をそなた達に示そう」と。亀毛達はみな椅子から降り、賛嘆して言った。「承知いたした。心を静め耳を傾け、お話を拝聴いたそう」。・・・・・・
 (仮名の話を聞いた)亀毛達は、或いはおののき、或いは恥じ入り、不明を悔いつつも、喜び微笑んだ。そして仮名の語るままに俯(うつむ)き或いは仰ぎ、仮名の声のままに、水が器の形に従うように、教えに従った。そして喜び躍(おど)り上がり、賛嘆して言った。「我等は幸いなことに、稀有(けう)な大師に会うことができ、懇ろに最も優れた仏の教えに潤された。このようなことはかつて聞いたことはなく、今後もないであろう」と。

解説
 『三教指帰(さんごうしいき)』は、延暦十六年(797)、空海(774~835)が著した、戯曲的な宗教小説で、実物は高野山に秘蔵されています。「三教」は儒教・道教・仏教のこと、「指帰(しいき)」は「教えの最終的に帰着する所」という意味で、仏教の優位を論証しています。空海は十八歳で上洛し、官吏養成機関である大学で明経道(儒学専攻科)を学んでいましたが、二~三年で辞めてしまいます。そしてある修行者との出会を契機に、私度僧として仏道に入りますが、その経験が執筆の背景となっています。
 執筆の動機は、出家に反対する親族へ、出家の決意を表明することでしたが、もう一つ隠れた動機がありました。序文によれば、空海の母方には、放蕩(ほうとう)する甥がいました。それで彼を戒めるために、儒教・道教・仏教を代表する架空の役者を揃えて戯曲とし、「唯、憤懣(ふんまん)の逸気を写せり」(やり場のない憤りをぶちまけるようにして書いた)と告白していますから、若い空海の甥に対する愛情表現でもあるのです。
 三教の理解が不十分であるとか、三教を比較すること自体無理があるいう学者の批判がありますが、二四歳の空海の思想の出発点なのですから、批判する方が無理というもの。それより、各種の経典から多くの故事を、知らなければ読み過ごしてしまう程自然に散りばめ、対句や押韻を含んだ華麗な名文を、この若さで書けた空海の桁外れの能力は、驚嘆すべきものです。
 登場人物は、儒家の亀毛(きもう)、屋敷の主人の兎角(とかく)、主人の甥で不良青年の蛭牙(しつが)、道家の虚亡(きよぼう)、空海の投影でもある修行僧の仮名(かめい)の五人です。「亀の毛」と「兎の角」は共に「存在しない物」の比喩。「虚亡」は如何にも道教の隠士らしく、不良青年を「蛭の牙」で表すなど、人を喰った空海らしいユーモアです。
ある日、亀毛が兎角を訪ねると、兎角は蛭牙を教誨(きようかい)するよう依頼します。亀毛が忠孝仁義礼信の徳を説き、学問を修めて官僚として栄達することを、徳と利の両面から説くと、彼は素直に悔い改め、儒教の教えに従うことを誓います。次に話を聞いていた虚亡が、儒教と亀毛を批判し、不老不死の仙薬の調剤法を語り、無為無欲で悠久に生きる生き方こそが、物欲と愛情に一喜一憂する儒教に優ると説くと、三人は儒教の教えを棄て、道教の教えに帰依することを誓うのです。
 そこへ托鉢に来て立ち聞きしていた仮名が、亀毛と虚亡の議論を、「利欲の談を競ふ」俗世の弁舌であると切って捨てます。そこで改めて仮名の話を聞こうということになり、仮名が釈尊の教えを説くと、皆がその教えに感心して前非を悔い改め、仏の教えに帰依するという筋書きです。ここに載せたのは、亀毛達がいよいよ仮名の説く仏の教えの本説を聞き、改心するクライマックスの場面です。


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『増鏡』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2021-01-21 15:32:38 | 私の授業
増鏡


原文
 泰時を前に据(す)ゑて言ふやう、「己(おのれ)をこの度(たび)都に参らする事は、思ふ所多し。本意(ほい)の如くきよき死をすべし。人に後(うしろ)見えなんには、親の顔又見るべからず。今を限りと思へ。賤(いや)しけれども、義時、君の御為(おんため)に後めたき心やはある。されば、横ざまの死をせん事はあるべからず。心を猛(たけ)く思へ。己うち勝つならば、再び足柄(あしがら)・箱根山は越ゆべし」など、泣く〳〵言ひ聞かす。「まことに然(しか)なり。又親の顔拝まむ事もいと危(あやう)し」と思ひて、泰時も鎧(よろい)の袖をしぼる。互(かたみ)に今や限りとあはれに心細げなり。
 かくてうち出でぬる又の日、思ひかけぬ程に、泰時たゞ一人、鞭(むち)をあげて馳せ来たり。父、胸うち騒ぎて、「いかに」と問ふに、「戦(いくさ)のあるべきやう、大方の掟(おきて)などは、仰(おおせ)の如くその心を得侍(はべり)ぬ。もし道のほとりにも、はからざるに、忝(かたじけな)く鳳輦(ほうれん)を先立てゝ、御旗(みはた)をあげられ、臨幸(りんこう)の厳重なる事も侍らむに参りあへらば、その時、進退(しんだい)はいかゞ侍(はべる)べからむ。この一事(ひとこと)を尋ね申さむとて、一人馳せ侍き」と言ふ。
 義時、とばかりうち案じて、「かしこくも問へる男(おのこ)かな。其の事なり。まさに君の御輿(みこし)に向ひて弓を引く事は、如何(いかが)あらむ。さばかりの時は、兜(かぶと)を脱ぎ、弓の弦(つる)を切りて、偏(ひとえ)にかしこまりを申(もうし)て、身をまかせ奉るべし。然(さ)はあらで、君は都におはしましながら、軍兵(ぐんぴよう)を給(たまわ)せば、命を捨てゝ、千人が一人になるまでも戦ふべし」と言ひも果てぬに、急ぎ立ちにけり。

現代語訳
 (父義時が嫡男の)泰時を前にして言うには、「そなたをこの度(たび)上洛させるに当たり、色々思うことが多い。予(かね)て覚悟しているとは思うが、(討死するなら)潔く死なねばならぬ。敵に背を見せて逃げ戻るようでは、再び親の顔見てはならぬ。今日が最後と思え。この義時、賤しい臣下の身とはいえ、帝(みかど)の御為には、後ろ暗い心などあるはずがない。されば、無様(ぶざま)な死を遂げることがあってはならぬ。心を強く持て。そなたが勝つならば、また足柄の関・箱根の関を越えられるであろう」などと、泣く泣く言い聞かせたことであった。
 (泰時も)「実に仰せの通り。再び親の顔を拝することもおぼつかない」と思い、鎧の袖で涙を拭った。そして(義時も泰時も)互いにこれが今生の別れかもと、つくづく心細く思ったことであった。
 こうして出発した翌日、思いがけなく泰時がただ一騎、馬に鞭を上げて、急いで馳せもどって来た。父の義時は驚き心配して、「いかがしたか」と尋ねると、泰時は、「戦のやり方や事態の処置の概要は、父上の仰せの通り心得てございますが、もし途中で思いもかけず、畏れ多くも鳳輦(ほうれん)を先頭に、錦の御旗を押し立てられ、上皇様御自らお出ましになられることでもございましたら、その時の身の処し方は如何いたすべきでございましょう。この一事をお尋ねいたしたく、一人馳せ戻りました」と言う。義時は暫く考えてから、「よくぞ尋ねてくれた。さすがは我が子ある。いかにもその事である。まさしく君の御輿に弓を引き奉ることは、是非もない。左様な時には、兜(かぶと)を脱ぎ、弓の弦(つる)を切り、ひたすら畏まり申し上げ、身の御処置をお任せ申し上げるがよい。しかし左様ではなく、上皇様は都に在らせられて、ただ軍兵だけをお遣わしになられたというならば、命を捨て、千人の者が皆討ち死にして、ただ一人になるまでも戦うがよい」と諭すと、その言葉の言いも終わらぬうちに、泰時は急いで出発して行ったことである。

解説
 『増鏡(ますかがみ)』は、南北朝期に成立した歴史書で、嵯峨の清凉寺(せいりようじ)に詣でた百歳の老尼が、昔を回想して語るという設定で書き始められています。このような歴史書は、「歴史物語」と呼ばれ、平安時代の『大鏡』『今鏡』、鎌倉時代の『水鏡』、そしてこの『増鏡』を合わせて「四鏡(しきよう)」と呼ばれています。作者は不明ですが、朝廷の内部事情に詳しくなければ書けない内容であり、関白の二条良基(よしもと)という説が有力です。内容は、後鳥羽天皇の即位から、隠岐に流された後醍醐天皇が京に戻るまでの約百五十年のでき事や宮廷の生活が、公家の立場から叙述されています。「増」とは「真澄(ますみ)」のこと、「鏡」はこの場合は「過去を映し見る物」を意味していています。
 ここに載せたのは、第二巻「新島守(にいじまもり)」の承久の乱の場面です。この故事は『増鏡』にしか記述がなく、朝廷や公家の立場で書かれた歴史物語ですから、朝廷の威光には武家もひれ伏したというこの話は、史実ではない可能性があります。また乱後に後鳥羽上皇や順徳上皇を、隠岐や佐渡に配流するという厳しい処分を下した北条義時が、上皇には恭順せよと諭したというのは理解しがたいものです。しかしその様に伝えられていたこと自体は歴史事実ですから、条件付きで理解すればよいでしょう。
 「御旗(みはた)」については、『太平記』巻三の「笠置(かさぎ)軍事(いくさのこと)」に、「城の中を屹(きつ)と見上げければ、錦の御旗に日月を金銀にて打て着けたるが、白日に輝きて光り渡りたる」と記されていますから、鎌倉時代に既に天皇在陣を表す「錦の御旗」があったことを確認できます。ですから『増鏡』の「御旗」は、『太平記』に記された「錦の御旗」に近いものであったと推定することは許されるでしょう。太陽と月を象(かたど)った「御旗」は、大宝元年(701)の文武天皇朝賀の儀式以来用いられ、現在の天皇即位式にも飾られています。
 『吾妻鏡』には幕府軍の進発について、政所と問注所の長官であった大江広元と三善康信は、日時がたつと異論が出るので、「大将軍一人は先ず進発さるべきか」と主張したため、承久三年(1221)五月二二日、「武州(武蔵守泰時)、京都へ進発す。従軍十八騎也」、つまり泰時主従十八騎が鎌倉を出発したと記されています。しかし泰時が鎌倉を発(た)ったと聞き、他の御家人達は遅れてならじと追いかけ、最終的には十九万人の大軍となったと記されています。十九万人は誇張ですが、大軍勢に膨れあがってからでは、総大将が一時的に姿を消すことはできません。しかし初日ならまた戻れたのでしょう。

昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『増鏡』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。






『浮雲』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2021-01-17 12:53:56 | 私の授業
浮雲


原文
 「どうしたものだろう」ト文三再び我と我に相談を懸けた。
「寧(いつ)そ叔母の意見に就(つ)いて、廉耻も良心も棄ててしまッて、課長の所へ往(い)ッて見ようかしらん。依頼さえして置けば、仮令(たと)えば今が今どうならんと云ッても、叔母の気が安まる。そうすれば、お勢さえ心変りがしなければまず大丈夫と云うものだ。かつ慈母(おつか)さんもこの頃じゃア茶断(ちやだち)して心配してお出でなさるところだから、こればかりで犠牲(ヴィクチーム)に成ッたと云ッても敢て小胆とは言われまい。コリャ寧(いつ)そ叔母の意見に……」
 が猛然として省思すれば、叔母の意見に就こうとすれば厭(いや)でも昇に親まなければならぬ。昇とあのままにして置いて独り課長に而已(のみ)取入ろうとすれば、渠奴(きやつ)(あいつ)必ず邪魔を入れるに相違ない。からして厭でも昇に親まなければならぬ。老母の為お勢の為めなら、或は良心を傷(きずつ)けて自重の気を拉(とりひし)いで課長の鼻息を窺(うかが)い得るかも知れぬが、如何に窮したればと云ッて苦しいと云ッて、昇に、面と向ッて図大柄(ずおおへい)に「痩我慢(やせがまん)なら大抵にしろ」ト云ッた昇に、昨夜も昨夜とて小児の如くに人を愚弄して、陽(あらわ)に負けて陰(ひそか)に復(かえ)り討に逢わした昇に、不倶戴天(ふぐたいてん)の讎敵(あだ)、生ながらその肉を啖(くら)わなければこの熱腸が冷されぬと怨みに思ッている昇に、今更手を杖(つ)いて一着(ちやく)を輸(ゆ)する事は、文三には死しても出来ぬ。課長に取入るも昇に上手を遣(つか)うも、その趣きは同じかろうが同じく有るまいが、そんな事に頓着(とんじやく)はない。唯是もなく非もなく、利もなく害もなく、昇に一着を輸する事は文三には死しても出来ぬ。
 ト決心して見れば叔母の意見に負(そむ)かなければならず、叔母の意見に負くまいとすれば昇に一着を輸さなければならぬ。それも厭なりこれも厭なりで、二時間ばかりと云うものは黙坐して腕を拱(く)んで、沈吟(ちんぎん)して嘆息して、千思万考、審念熟慮して屈托(くつたく)して見たが、詮(せん)ずる所は旧(もと)の木阿弥(もくあみ)。
「ハテどうしたものだろう」

解説
 『浮雲(うきぐも)』は、小説家の二葉亭四迷(ふたばていしめい)(1864~1909)が明治二十~二三年(1887~1890)に発表した、日本最初の近代写実主義の小説です。写実主義文芸とは、社会の現実や物事を理想化や美化せず、主観を抑制してありのままに描写する作風の文芸で、最初に坪内逍遙(つぼうちしようよう)により提唱されました。彼は『小説神髄(しようせつしんずい)』(明治十八~十九)を著し、「人情」(心理)を「模写」(写実)することこそ小説の神髄であると説いています。そしてその理論を実践して『当世書生気質(とうせいしよせいかたぎ)』を著すのですが、できあがった小説は江戸時代の戯作文学に近いものでした。逍遙が勧善懲悪的であるとして批判した『南総里見八犬伝(なんそうさとみはつけんでん)』には、ヒーローが悪を懲らしめても、そこには登場人物の深い心理描写はなく、読者を惹き付けたのは、壮大なスケールで劇的に展開する物語のストーリーなのです。
 逆に『浮雲』は手に汗握る場面はなく、日常生活しか描かれていません。主な登場人物は、東京の叔母の家に下宿する要領の悪い内海(うつみ)文三(ぶんぞう)、叔母のお政と娘のお勢、文三の同僚で世渡りの上手(うま)い本田昇の四人だけです。刻苦勉励して官職に就いた文三は、英語を教えてくれるお勢に密かに心を寄せ、お政も二人の仲を黙認していました。しかし上司のご機嫌をとるのが下手(へた)な文三は、免職になってしまいます。その家に出入りしていた昇は、文三の要領の悪さをあざ笑うのですが、文三が復職できるように働きかけてやると、恩着せがましくお政とお勢に話したところ、日頃から昇を快く思っていなかった文三は、言葉の行き違いから絶交を言い渡してしまいます。そしてそれを契機に、お政は文三に冷たく接するようになります。それでもお勢との関係に希望を持っていた文三は、問い詰めたお勢の口から「ハイ本田さんは私の気に入りました・・・・それがどうしました」という言葉を聞いて愕然とします。お政は昇とお勢を結婚させようとするのですが、お勢は今一つはっきりせず、そのうち何があったのか、昇に対して余所余所(よそよそ)しくなります。それを察した文三は、またかすかな望みを抱くようになるのです。
 話はここで未完のまま終わってしまいますので、最後まで、クライマックスはありません。作者自身が第三編の冒頭で、
「固(も)と此小説はつまらぬ事を種に作ったものゆえ、人物も事実も皆つまらぬもののみでしょうが、それは作者も承知の事です。・・・・心理の上から観みれば、智愚の別なく人咸(ことごと)く面白味は有る。内海文三の心状を観れば、それは解ろう」と述べている如く、苦悩する登場人物達の心理描写こそが『浮雲』の面白さなのです。
 『浮雲』の写実性を際立たせているのは、心理描写だけではなく、「言文一致体」と呼ばれた文体でした。伝統的な日本の文芸は、話し言葉と書き言葉が区別して叙述されていました。しかし『浮雲』は全てが口語に近い文体で書かれています。これは今では当たり前でも、当時は画期的なことでした。
 ただし口語と言っても、現代人には読み仮名がないとそうとは読めない漢字語がたくさんあります。それでも、「傷心恨事」(かなしいこと)・「慈母」(おふくろ)・「僕」(あたし)・「我他彼此」(がたびし)・「服飾」(こしらえ)・「金鍍金」(メッキ)・「慄然」(ぶるぶる)・「摺附木」(まっち)「洋燈」(ランプ)などのように、読み仮名なしでは読めそうもない独特の漢字表記の言葉が散りばめられていて、読み仮名の付け方の面白さを味わう楽しみもあります。またお勢が英語を習っているという設定からか、随所に混じる英語は、当時の社会に欧米文化に対する憧れがあったことの影響でしょう。
 ここに載せたのは、「第十一回 取付く島」の部分で、昇と言い争った文三が、叔母の言うことに従い、課長に取り入って復職を頼むために昇に謝罪するかどうか、お勢との関係も絡んで煩悶する場面です。人物の動きとしては、文三が腕組みをしながら二時間も溜息をついているだけですから、登場人物の外的動作は何一つなく、絵になる面白さはありません。ただ心理描写だけで読者を惹き付ける、写実小説らしい場面です。なお「浮雲」という言葉は、不安定なことの比喩ですから、揺れ動く文三の心の象徴として題名に選ばれたのでしょう。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『浮雲』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。