うたことば歳時記

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童謡『月の沙漠』随想

2017-01-27 14:09:56 | 唱歌
 大学を7年もかかって卒業した後、聖書の舞台を見てみたいと、しばらくイスラエルで生活していました。イスラエルと言っても春には緑の草原があるところもあれば、夏には草一本もない岩沙漠のようなところもあります。出エジプト記の背景も見たいと、シナイ半島の沙漠もあちこち放浪しました。

 気温は何度あったのか、温度計を持っていなかったのでわかりません。そもそも気温は直射日光のもとでは正確に測れませんが、影らしいものは何しろ自分の影しかないのですから、測りようもありません。感覚的に40度以上になることもあったと思います。ただ湿度が極めて低いので、日陰なら耐えられないことはありませんでした。山裾のワジの日陰で野生の西瓜を発見した時は感動しましたね。迷わずかぶりつきましたが、余り甘くありませんでした。それでも「西の瓜」と書くことを納得したものです。

 シナイ沙漠といっても、日本人が思い描くような砂丘はありません。どこまでも果てしなく広がる岩山だらけの岩沙漠です。そこでふと童謡『月の沙漠』を思い出しました。「こんな甘っちょろい歌なのは、本当の沙漠を知らない人が作詞したからだ」と、つくづく思ったことでした。

 事実、帰国してから知ったことですが、作詞者の加藤まさを氏は、外国旅行はおろか、国内旅行もあまりしたことはないそうです。そしてその歌の舞台となったのは、千葉県の御宿の浜辺だということでした。そこで「ああ、やっぱりね」と一人で納得していました。別に歌の歌詞にケチをつけるのではありません。当時は沙漠でそう感じただけです。

 以下、少々童謡「月の沙漠」について書きますが、あくまでも歌の考証ではなく、歌に触発されたとりとめもない沙漠の随想に過ぎません。脱線話が多くなりますが、お許し下さい。

 まずは歌詞を載せておきましょう。

月の沙漠をはるばると 旅のラクダがゆきました 金と銀とのくら置いて 二つならんでゆきました

金のくらには銀のかめ 銀のくらには金のかめ  二つのかめにはそれぞれに  ひもで結んでありました

先のくらには王子様  後のくらにはお姫様    乗ったふたりはおそろいの 白い上着を着てました

ひろい沙漠をひとすじに  ふたりはどこへゆくのでしょう 

おぼろにけぶる月の夜を 対のラクダはとぼとぼと 砂丘を越えてゆきました  だまって越えてゆきました


 まずは沙漠の月ですが、昼間の灼熱の太陽に比べ、穏やかな光は心を和ませることもありました。乾燥地帯の国で太陽をモチーフにした国旗がないのも、現地で納得したことです。それに対して月や星をモチーフにした国旗は大変に多く、三日月がイスラム教のシンボルと理解され、イスラム圏の救急車には、赤十字ではなく赤新月の社章がついています。もっともコーランに根拠があるわけではなく、オスマン帝国が北アフリカから東ヨーロッパ・中近東にまたがる大帝国となり、その国旗であった赤地に三日月と星の国旗が、そのままイスラム教のシンボルに横滑りしただけのことです。

 歌詞には「おぼろにけぶる月」ということばがありますが、湿度が極端に低い沙漠では朧月はありえません。それこそ天球に孔が空いていて、そこから光が注いでいるかのように、煌々として輝く月ばかりでした。月の見えない時期には、天の河がくっきりと見え、それこそ宝石を砂の如くに散りばめたような夜空でした。作詞者は空想してイメージを膨らませたのでしょう。

 童謡の挿絵を見ると、満月や欠けた月もありました。まあどちらでもよいでしょうが、右側が欠けた細い月は少々違和感を覚えました。そのような月は明け方に東の空低くみえますから、イメージがあわないのです。

 次は駱駝について。西アジアにいる駱駝はヒトコブラクダです。それに対して中国やモンゴルなどの駱駝はフタコブラクダです。私が住んでいたところにいたのは、ヒトコブラクダでした。作詞者はアラブ圏の沙漠をイメージしたそうですから、ヒトコブラクダなのでしょう。挿絵を見ると明らかに二瘤というものはありませんので、それでよいと思います。沙漠では馬に代わる乗り物でしたが、一瘤の先端にまたがるので、乗る人の目の位置はかなり高いものでした。駱駝の四つ足を曲げて坐らせ、またがってから立たせるのですが、後ろ足を先に延ばすので、前のめりになります。つかまる物もなく、うっかりすると転げ落ちてしまいそうでした。

 歌詞では駱駝には金銀の鞍が載せられ、これまた金銀の甕がくくりつけられているという設定です。まあ空想の世界ですから、これでよいのでしょう。もし実際であれば、あっという間に略奪されてしまいます。ただ金銀については現地で思うことがありました。エルサレムの旧市街の市場を歩くと、金銀の装飾品を扱う店が軒を連ねているのです。また沙漠の遊牧民の女性が、そのような装飾品を身に付けているのをたくさん見ました。貧乏暮らしの外国人留学生である私は、ただ冷やかしに覗くだけでしたが、余りの多さに圧倒されたものです。なぜこれ程までに沙漠の民は金銀宝飾にこだわりがあるのでしょうか。

 沙漠の民にとっては、不動産は財産ではありません。水と草を求めて移動しますから、いざというときには全財産を身に付けたり抱えたりして、すぐにでも移動できなければなりません。そんなわけで、金銀宝飾が常に身近なところにあるのではないかと思いました。いつ迫害で追い立てられるかもしれなかったユダヤ人が、ダイヤモンド産業のネットワークをいまだに掌握しているのも、同じような理由でしょう。ユダヤ人にとって歴史的に財産となり得るものは、ポケットに入る金銀宝飾と、頭の中に入る教育だったのです。ユダヤ系の人にノーベル賞受賞者や世界的学者が多いのは、その様なことを背景に理解できます。

 それに対してよくよく日本の歴史を思い返してみると、権力者と雖も金銀宝飾をジャラジャラと身に付けることはありませんでした。秀吉が金ぴかの茶室を作ったり、義満が金閣を作った程度でしょう。天皇陛下が外国の貴賓をお迎えになる部屋には、それらしき物は全くありません。あまりの簡素さに、これが「エンペラー」の部屋なのかと、驚くことでしょう。金銀宝飾に対する理解が、沙漠の遊牧民とは根本的に異なっていることを現地で痛感したものです。

 それにしても金銀の鞍は理解できますが、金銀の甕はあり得ません。金箔や銀箔を貼った鞍はあり得ることです。しかし焼き物の甕に金箔を貼ることはあり得ません。貼ったら蒸散作用がなくなり、水温が上がってしまいます。まして本物の金銀なら重くなりますし、昼間は熱射で水が熱くなってしまいます。私が沙漠を旅した時はアルミの水筒を使っていましたが、遊牧民は羊の革袋を使っていました。

 旅をしているのは「王子様とお姫様」ですが、これは空想の世界ですから、ロマンチックな設定としたのでしょう。要するに若い夫婦が二人きりで旅をしているわけです。実際には危険極まりない行為なのですが、そこは子供の世界のことですし、作詞者自身も考証をして作詞しているわけではありませんから、けちを付けることではありません。

 最後に「沙漠」の表記ですが、現在では一般に「砂漠」と表記されます。本来は沙漠なのですが、砂を意味する「沙」の字が当用漢字ではないために、現代では「砂漠」と表記されています。童謡の題も本来の「沙漠」となっていますから、歌詞が「砂漠」となっているものは誤りです。また「沙」という字は「水が少ない」という文字構造なので、乾燥地帯を表すというネット情報がありましたが、そのような意味はありません。「沙」にも「砂」にも共通して「砂」という意味がありますが、「沙」には「砂原」というニュアンスを含んでいますので、本来の「沙漠」の方がぴったりくるように思います。童謡ゆかりの御宿の浜が海辺にあるので、氵のある「沙」にしたというネット情報もありましたが、これもどうかと思います。「漠は「漠然」と言う言葉があるように、砂原が広がり荒涼としている様子を表していますから、「沙漠」にはぴったりの言葉です。」 古代中国の文字構造事典である『説文』巻十一には、「水に従ひ少に従ふ。水に少しく沙見ゆる」と記されていますから、水と少の会意文字で、水が少ないために砂が見えると説明されています。古代中国の諸文献から「沙」の用例を探し出してみると、元の意味からさらに発展して、細かい砂とか砂地を意味するように用いられています。

 この歌に触発されて、私も一首詠んでみました。「胡の姫も髪挿したるか金銀の鞍つなぎたる唐草の花」。ちょっと説明しないとわけがわからない、自己満足的な歌ですみません。これは初夏に白と黄色のらっぱ状の花をつけるスイカズラという花を詠んだものです。スイカズラは忍冬唐草(にんとうからくさ)とも呼ばれ、唐草模様のモチーフのもとになった蔓草とされています。咲き始めは白いのですが、何日か経つと次第に黄色く色づいて来ます。そのため「金銀花」という異名もあります。甘い香りが心地よく、子供の頃には花を採って蜜を吸って遊んだものです。スイカズラという名前も、そのことに拠っています。「胡」とはペルシアのことで、「胡の姫」は童謡『月の沙漠』の「お姫様」にイメージを重ねたもの。ペルシアの姫君も、きっとこのスイカズラの花を髪に挿したことでしょう。金と銀の鞍をつなげているように見える唐草(スイカズラ)であるなあ、という意味です。スイカズラは初夏には日当たりのよい里山でどこにでも見られますから、ネットで検索して探してみてください。私は花を乾燥させて、お茶に入れて楽しむこともあります。



友待つ雪

2017-01-22 21:43:07 | うたことば歳時記
 雪の話を書こうと思っていますのに、こちらはさっぱり雪が降りません。降りすぎてお困りの地域の方には、何とも申し訳ないことです。埼玉県では雪が降るのは専ら立春過ぎてからで、私にとっては雪は早春のものなのです。

 さて雪が少し降ると、次の日もしばらく溶けずに残ることがあります。我が家の周辺では、年に一回くらいは一尺くらい積もることがあり、雪かきでもしない限りは数日間残っています。そのように消え残っている雪を、古い歌ことばでは「友待つ雪」といいます。雪には雪の友達がいるというのです。あとから降ってくる雪を待っているかのように消え残っているというのでしょう。我々の祖先たちは自然の動植物を擬人的に理解していましたが、生物でもないものまで擬人的に理解していました。それでも太陽・月・星・風・海・石・木などに神格を与えるのは、何も日本に限らず世界中にあることでしょう。要するに崇拝の対象になり得るものは、擬人化されやすいものです。幼児なら「雪の子供」「雪のペンキ屋さん」などと、こどもの世界で擬人化することはあるでしょう。しかしさすがに大人が雪を擬人化することは珍しいのではないかと思います。

 「友待つ雪」を詠んだ歌をいくつか並べてみましょう。

①白雪の色わきがたき梅が枝に友待つ雪ぞ消え残りたる (家持集 284)
②春の日のうららに照らす垣根には友待つ雪ぞ消えがてにする (堀河院百首 残雪 91)
③降り初めて友待つ雪はうば玉のわが黒髪の変はるなりけり (後撰集 冬 472)
④訪はるべき身とも思はぬ山里に友待つ雪の何と降るらむ (新拾遺集 冬 657)

 ①は『万葉集』にはありませんが大伴家持の歌ですから、「友待つ雪」が万葉時代以来の古い表現であることがわかります。白梅が咲いている枝に、白梅と見分けが付かないように、白雪が跡から降るであろう雪を待っているかのように消え残っているのです。

 ②は春の残雪を詠んだもので、「かてに」「がてに」とは「・・・・することができないで」という意味ですから、垣根に降り積もった雪が、消え残っているのは、友を待っているからだと理解しているのです。今度、白梅の咲く枝に白雪が積もり、次の日も残っていたら、そんな気持ちで眺めてみましょう。

 ③には「雪の朝、老を嘆きて」という詞書が添えられています。降りはじめて、後から降って来る雪の友を待って消えずにいる雪は、私の黒髪が白髪に変わるのを待っているのと同じだというのです。先に降った雪が雪の友を待っているように、黒髪が白髪を待っているというのでしょう。友待つ雪とは関係なくても、白髪を白雪や霜に見立てることは、白髪を「頭(かしら)の雪」というように、常套的な理解でした。

 ④は、山里で人恋しくても誰も訪ねてこない寂しさを、「友待つ雪」になぞらえて詠んだものです。私は友を待っても訪ねてくるあてもないのに、雪はどのような気持ちで友を待つといって降っているのだろう、というわけです。古には雪に道を閉ざされてしまうと、訪ねたくても訪ねようがなくなり、人恋しさが募るものでした。ですから、雪を見るだけで友が恋しくなるのです。どんなに雪に閉ざされても、電話一本で話はできる現代人には、そのような心はもうわからないのでしょう。

 ところが友を待つ雪の心を何とも奥ゆかしく採り入れた、「友待つ雪」という和菓子があります。
京都の亀廣脇という店で作られている冬限定の菓子なのですが、見かけは三段重ねで、下から芋餡・黒糖餡・こなし(白漉し餡に小麦粉を混ぜて蒸したもの)が重なっています。下の芋餡は芋の色、中の黒糖餡は黒砂糖の色、上のこなしは真っ白で、消え残っていた芋餡の上に、少し時間をおいて真っ白なこなしの白雪が友を慕って降ってきたように見えるというのでしょう。「雪」と名付けられていますから、季節外れには売れません。しかし冬に風情のわかる友を招いて、共に過ごすときには、打ってつけの銘菓だと思いました。しかしせっかく「おもてなし」しても、その名前の意味するところが解らなくてはせっかくの名前が泣いてしまいます。名前の由来でも語り合いながら、「雪の中わざわざお運びくださりありがとうございます。お越しになるのをお待ちしておりました。このお菓子はかくかくしかじかで・・・・」と会話がはずめば、きっと楽しい時間を過ごすことができるでしょう。それにしても亀廣脇の御主人、お主、なかなかやりますなあ。とてもよい名前ですぞ。


大寒

2017-01-15 17:17:21 | 年中行事・節気・暦
 昨日からこの冬最強の寒波到来というので、寒さに強い私も対に降参してストーブを点けてしまいました。いまこうして書いている部屋も室温2度でしたので、冷蔵庫の方が暖かいほどです。それでも設定温度は10度もあれば十分です。さすがに大寒が近くなってきたことを実感しています。大寒は新しい年が始まる最初の節気である立春の15日前、一年で最後の節気です。当分の間は1月20日頃のようです。大寒から立春の頃が一年で最も気温が低い頃ですから、生活の実感と節気とはあまりずれはなさそうですね。

 大暑の行事食や行事がないように、大寒にもこれと言った伝統行事は見当たりません。そういう意味ではあまり面白くないのかもしれません。小寒以来寒の内ですから、寒稽古や寒中見舞いを書くくらいのものでしょうか。味噌を仕込む家庭では、今が寒仕込みの時期なのでしょうが、私は経験がありません。素人考えではこんなに寒いと発酵しないのではと思ってしまうのですが、雑菌の繁殖がないのでかえってよいのでしょう。

 そう言えばこの時期に汲む水は、「寒の水」と称されて、長期保存がきくとか、薬になると言われているそうです。「そうです」といかにも他人事ですが、体験としては知らないからです。いつ頃まで遡るのかはわかりませんが、小林一茶の句に「見てさへや惣身にひびく寒の水」がありましたので、江戸時代にはそのように言われていたのでしょう。冷たそうで見るだけで震えてしまうというのですから、飲んでいたということなのでしょう。

 ただ私の経験では、寒中の井戸水は温かいものという経験があります。高校時代に地学部に属していて、井戸水(地下水)の水温の変化を、一年を通じて観測していました。地下数mの井戸水は、一年中15度前後でしたから、凍えるような気温の時は、ほっとするほどに暖かいのです。江戸時代の飲料水は住む場所によっては井戸水であったり沢の水であったり、水道の水であったり様々だったことでしょう。ですから「寒の水」といっても、感じ方は色々あったのではないかと想像しています。現代の若い人達は、井戸水が温かいなんて知らないでしょうね。冷たい水しかないのですから。そうすると「寒の水」についての理解も、少し変わってきているのかもしれません。

 この時期の初候は「款冬華」で、「ふきのはなさく」と読んでおきましょう。蕗の薹の花が咲くというのですが、これも場所によって様々でしょう。確かにもう蕗の薹を採ることはできます。私も散歩のついでに採って来ますから、あるところにはあるのです。しかし花が咲くかと言われれば、いくら何でも早すぎます。蕾が姿を見せると理解しておきましょう。

 次候は「水沢腹堅」ですが、何と読みましょうか。ネット情報では「さわみずこおりつめる」と読むのが圧倒的に多いのですが、そのようには読めません。どうしてこういうことになってしまうのでしょうか。誰も疑問に思わないのでしょうか。「水沢」は「みずさわ」であって「さわみず」とは読めません。「腹堅」を「こおりつめる」と読めるはずがありません。私が石頭なのかもしれませんが・・・・。「腹」とは膨らんでいる様子を表す言葉で、「あつい」と読むことはできます。「堅」はそのまま「かたい」でしょうから、沢の水が厚く凍って固くなっていることを意味していることは理解できました。

 末候は「鶏始乳」で、これまた何と読んでよいのかわかりません。ネット情報では「にわとりはじめてとやにつく」ともっともらしく書いてあります。これも飛躍しすぎですね。「とや」は「鳥屋」で、鶏小屋の意味です。「乳」は「ちち」という意味の他に「子を育てる」という意味がありますから、鶏が鶏小屋には行って卵を産み、雛を育てはじめる、という意味に理解できます。意味はわかるのですが、「乳」の読み方は私にはお手上げです。現在の鶏は品種改良により毎日一つ産卵しますが、昔はそうではなく、自然の摂理に従っていたはずです。鶏のことは知りませんが、我が家の周辺にいる雉の産卵は、3月頃から始まります。1月下旬に鶏が産卵し始めるというのは、少し早いような気もしますが、私にはわかりません。江戸時代の鶏は惣だったのでしょうか。


 一年かけて二十四節気について書いてきましたが、これでようやく書き終わりました。率直なところ、世の中に出回っている二十四節気の解説は、つくづく実体験を伴わない机上の解説だと思いました。特に立春と立秋について、正しく解説しているものに出会ったことがありません。七十二候に至っては、その読み方には無理があるものが多いにもかかわらず、疑問に思うことなく「コピペ」をしているものが圧倒的に多いのです。可能な限り原典に当たり、辞書で検索し、体験に裏付けられて理解することの大切さを改めて思ったことでした。


小寒

2017-01-03 15:53:19 | 年中行事・節気・暦
 元日を迎えると、すぐに小寒の日となります。例年は1月5日か6日のことです。この日を寒の入りと称し、大寒の日を経て節分までを寒の内といい、一年で最も寒い時期ということになっています。このことはまあ全国的に見てだいたい当たっているのではないでしょうか。東京の最近30年の冬の最低気温を調べてみると、11月は8.3度、12月は3.5度、1月は0.9度、2月は1.7度、ついでに3月は4.4度でしたから、確かに1月の大半が「寒中」であることを納得しました。北海道の人にとっては、「そんなに暖かいの!」とびっくりされそうですね。寒さにめっぽう強い私も、この頃は夜にはそろそろストーブを点けようかなどと思っています。書斎の室温は夜は5度くらいですので。

 ネットでは小寒の時期の伝統的行事として、七草粥を上げていることが多いので驚きました。しかも「お節料理を食べすぎて疲れた胃腸を労わる七草粥」、「凍りついた大地から芽吹く若芽を食べることで、その年一年の無病息災を願う日本の伝統行事」などと表現されているのを見ると、がっかりしてしまいます。そもそも「七草」は旧暦の1月の行事ですから、新暦の1月の行事ではありません。また「胃腸にやさしい粥を食べて」などという解説は、本来の七草からはずれてしまっています。新暦で「七草」をしようとするからそういうことになってしまうのでしょう。また「無病息災を願う」というのも少々はずれています。七草の本当の意味については、私のブログ「うたことば歳時記」に「春の七草」「本来の七草」と題して公表してありますから、そちらを御覧ください。

 寒中には、寒さを活かした食品づくりが行われます。凍り豆腐・寒天や、味噌や酒などの仕込みが行われます。まだ現役の教員の頃、何事も体験とばかり、豆腐を冷凍しては天日で乾燥させ、「凍り豆腐」のまがい物を作ったことがあります。そんな経験も授業ではとても役に立ちました。

 また寒稽古が行われるのもこの頃です。息子が剣道部に所属していて、早朝6時には登校するというので、定時制勤務の私は大変困ったことがありました。父は修験道の家に育ったため、私もまねごとをして寒中に滝浴びをしたことがありますが、終わった後は気分爽快でした。

 寒中見舞いを出すのもこのころですね。昨年秋に父が天寿を全うしましたので、仕来りにより年賀状は書きませんでしたが、年末に形ばかりの喪中挨拶の葉書を送るのもためらわれ、まだ何もしていません。それよりは松の内を過ぎてから、ゆっくりと寒中お見舞いの葉書で御挨拶した方がよいと思い、そろそろ書き始めるつもりです。

 小寒の時期の七十二候は、初候が「芹乃栄」で、「せりすなわちさかふ」と読みましょう。芹がよく生育するというのでしょうが、まだまだ時期的には少し早すぎるかもしれません。そもそも「せり」という呼称は、競り合って生長することによるという説があるくらいで、我が家の周辺では、4月頃には鎌で刈り取るくらいに繁茂します。しかし暖かい地方ではそうなのかもしれませんが、「栄」と言うのは、少なくとも東京周辺ではこの時期には無理でしょう。昨日も試しに芹を摘みに行きましたが、日当たりのよい水路で少しだけ見つけてきました。それでも七草粥に入れる程度の量なら、もう摘むことができそうです。

 次候は「水泉動」で、素直に読めば「すいせんうごく」となるのですが、ネット情報では「しみずあたたかをふくむ」と読ませるものがたくさんあります。しかしどうやってもそんな風には読めません。こじつけもいいところです。そもそも「あたたか」という言葉は形容動詞ですから、それを名詞のように用いることは、何か日本語表現として違和感を感じます。私は文法には素人なので、専門家に言わせれば可笑しくないのかもしれませんが、普通は使わない表現です。「あたたかさをふくむ」ならわかりますが・・・・。

 また「すいせんうごく」についても、「地中で凍った泉が動き始める」という解説が多く見られます。これも現実にはあり得ません。地中の温度が0度以下になるのは余程のことで、日本で地下水が凍ることが普通に見られるのでしょうか。我が家の側の湧き水はそのまま飲めるくらいにきれいなのですが、一年中枯れることなく滾々と湧きだしています。

 末候は「雉始雊」で、「きじはじめてなく」と読めます。我が家の周辺には一年中雉がいますが、確かに11月から1月はめったに鳴きません。ただし夜に地震があると必ず鳴きます。地震の前に鳴いてくれると予知ができていいのですが。早春になると確かによく鳴くようになります。まあ末候の内容は、暖かい地方では実際にもあり得るかも知れません。

「日の丸」の歴史

2017-01-01 15:26:38 | 歴史
 今日は平成29年の元日ですので、めったに日の丸を門口に揚げることがないのですが、今朝は初日の出を見られましたので、急に思い立って日の丸の歴史について簡単にお復習いします。

 日本の国旗は正式には「日章旗」といいます。一般には「日の丸」の方が馴染みがありますね。太陽をかたどっていますから、まずは私たちの祖先が太陽をどのような気持ちで見ていたのかを確認してみましょう。

 日本人の祖先は、紀元前4世紀以前から、稻の栽培によって生活する農耕民族でした。稻を作る人にとって最も嬉しいことは、米がたくさん収穫できることです。そのために人は一生懸命働くのですが、太陽が然るべき時に十分に照り、雨が然るべき時には十分に降らなければ、人がいくら働いても豊作とはなりません。太陽に象徴される自然が一たび怒りを発すれば、人の努力などいっぺんに吹き飛んでしまうのです。人の力は自然の前には本当に微力です。特に災害の多い日本では、人は自然を改造するより、自然を畏れつつも共に生きることを学んできました。そういうわけで、稻を作る人にとっては、太陽は単なる天体の一つではなく、豊作のめぐみをもたらして下さるありがたくも畏れ多い存在として、神聖視されてきたのです。今でも初日の出を特別な気持ちで眺めたり、太陽を「お天道様」「お日様」と親しみを込めて呼んだり、「人は見ていなくても、お天道様は見ているよ」と言って、悪いことをしないように戒めたり、「お天道様は分け隔てなく全ての人を照らして下さる」と思うのは、その名残と言うことができるでしょう。

 『古事記』『日本書紀』に記された神話には、「天照大神」(あまてらすおおみかみ)という太陽に象徴される女神が登場します。邪馬台国の女王「卑弥呼」を「日御子」「日巫女」と理解すれば、ひょっとして関係があるかもしれません。まあ「卑弥呼」については推測の域を出ませんが、「天照大神」が太陽の女神であり、皇室の祖先に当たると理解されていたことは重要です。

 また神武東征の神話には、次のような話があります。神武天皇が生駒山を越えて大和国に入ろうとした時、長髄彦(ながすねひこ)と戦いになったのですが、兄の五瀬命(いつせのみこと)が致命傷を負ってしまいます。その時神武天皇、もちろんその時はまだ即位前なのですが、「私は日の神の子孫でありながら、日に向かって敵を討つのは天の道に背くことであった。・・・・日の神の威(いきおい)を背に負いつつ戦えば、敵は自ずから破れるであろう」と言います。そして紀伊半島を大きく船で迂回して熊野から上陸し、東から西に向かって大和に攻め入るのです。この話には、古人の太陽観がよく現れていますね。太陽に敵対する者は滅び、太陽を味方にする者は勝利するという理解です。

 607年に派遣された遣隋使の小野妹子が隋にもたらした国書に、日本のことを「日出づる国」、隋のことを「日没する国」と表現したことはよく知られています。日本から見て西にある隋を、「日没する国」とすることと対比させる表現ではありますが、後の国号「日本」につながる理解が、この頃既にあったことになります。そして7世紀後半の天武天皇か持統天皇の頃には、「日本」という国号が使われるようになりました。

 太陽を神聖視することは、その後の歴史にも現れています。戦場には武将たちは必ず日の丸を描いた扇を小道具として持参していました。ただし白地に赤の日の丸ではなく、赤地に金の日の丸や、金地に赤の日の丸でした。

 『源平盛衰記』の屋島の戦いの場面には、那須与一が扇の的を射る話があり、そこには次のように書かれています。「扇の紙には日を出したれば恐あり、蚊目(かなめ)の程をと志て兵(ひょう)と放。浦響くまでに鳴渡、蚊目(かなめ)より上一寸置て、ふつと射切たりければ、蚊目は船に留て、扇は空に上りつゝ、暫中にひらめきて、海へ颯とぞ入にける。」扇の中央には太陽が描かれているので、それを射るのは畏れ多いとして、わざわざ難しい要を狙ったというのです。ここにも太陽を神聖視する当時の武士の太陽観を見ることができます。ただし『平家物語』にはそのような表現はありません。

 また「蒙古襲来絵巻」「真如堂縁起絵巻」などの絵巻物には、中世の武将たちが戦場において日の丸の扇を持っていたことがはっきりと描かれています。織田信長の鉄砲隊が活躍した長篠合戦図屏風には、白地に日の丸の旗印がいくつもはっきりと描かれています。また室町時代の「月次風俗図屏風」の田植えの神事の場面にも描かれているように、江戸時代に至るまで、神事や慶事の席で日の丸の扇を使う習慣があったことは、数えきれないほどの絵画史料によって証明されています。

 また江戸初期、多くの朱印船が貿易のために東南アジアまで渡航しましたが、航海の無事を感謝して清水寺に奉納された朱印船の絵馬には、日の丸の旗が掲げられています。また江戸幕府の御用船には、日の丸(朱の丸)の旗を掲げることがあり、絵画史料もたくさん残っています。

 なぜこのように戦や神事や慶事で日の丸の扇や旗が必要とされたのか、私にはそれを論証する力がありません。しかし推測ですが、太陽が味方に付いていることを表したり、またそれによって自己を正当化する狙いがあったのではないかと思っています。また朱印船の場合は、国籍を示すという目的があったのでしょう。

 ただしこれらの日の丸の旗には、「国旗」という概念はありませんでした。朱印船はともかくとして、外国船と日本船を国旗によって識別するという必要性がなかったからです。しかし欧米列強の船が日本近海に出没するようになると、否応なくその必要性が認識され、江戸幕府は異国船に紛ぎれないように、「日本総船印ハ白地日之丸幟(はた)」と定めました。アメリカ使節ペリーの黒船が来航した翌年1854年(安政元)のことです。そして1859年(安政6年)、幕府は「大船ニハ御国総標(みくにそうじるし)日之丸幟(はた)」という触れ書きを出しました。これによって船の国籍識別のための旗が、事実上の「国旗」になったのでした。

 1860年(万延元年)、日米修好通商条約の批准書交換のため、幕府使節団がアメリカ軍艦ポーハタン号に乗って渡航するのですが、随行した咸臨丸には、もちろんこの日章旗が掲げられていました。一行がニューヨークをパレードした時も、歓迎の日章旗が掲げられていました。日章旗が海外で日本の国旗として掲げられたのは、これが最初のことです。

 明治になってからは、江戸幕府の取り決めがそのまま受け継がれ、1870年(明治3)、太政官布告によって「御国旗」として定められました。そして太平洋戦争まで国旗として扱われてきたのですが、1945年(昭和20)の敗戦後、日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)の指令により、日章旗の掲揚は禁止されてしまいました。GHQ最高司令官マッカーサーの声明により日章旗の自由使用が認められたのは、1949年(昭和24年)1月1日のことです。

 ただ戦後は、日章旗が侵略戦争のシンボルであったという理解により、国旗として掲揚することについて、特に教育界を中心としてさまざまな主張がぶつかり合いました。私が勤務していた学校でも大きな混乱がありました。私が国旗掲揚について職員会議で賛成意見を述べたことから、猛烈な嫌がらせが始まりました。職員室の机上には、毎朝のように個人を非難する「組合ニュース」が配られていました。個人名はなくとも、イニシャルで誰のことかすぐにわかるので閉口しました。また私の日本史の試験問題が組合員の監督者によって抜き取られ、密かに組合員に回覧されていました。たまたま回覧の現場を目撃して取り押さえたのですが、謝罪も何もありませんでした。それには「分会員回覧」と赤字で大きく書かれていました。それは今も記念に保管してあります。また自分の授業中に私のことを「あいつは右翼だ」と生徒に言いふらす組合員もいました。生徒が報告に来ますので、誤魔化しようがありません。最近はこのような陰湿なことは経験していませんが、広島県のある高校では、校長が国旗掲揚問題で自殺に追い込まれるほどの事件もあったくらいですから、お察し下さい。

 日章旗を国旗とするという明確な法律がなかったことも、混乱が生じる原因でした。そのため1999年(平成11年)に「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法)が制定されて法律的根拠が確立し、同日施行されて現在に至っています。

 同法によれば、旗の形は縦が横の3分の2の長方形。日章の直径は縦の5分の3、その中心は旗の中心と同じで、日章が旗棹の方に寄るということはありません。ですから日章旗は上下・左右が対称で、掲揚する際に向きに気を付けなければならないという心配はありません。また色地は白で、日章は紅色ということになっています。またこのとき日章の位置が少々変更になりました。それまではほんのわずか日彰が棹の方に寄っていたのですが、このときに旗地の対角線の交点と日彰の中心が一致するようになりました。まあ見た目にはほとんどわからないことでしたが。

 日彰の「紅色」とはどのような色なのでしょうか。また「赤」とどのように違うのでしょうか。「赤」と言う言葉は、「暗い」から「黒い」という言葉が生まれたように、「明るい」から生まれた言葉です。ですからもともとは光り輝く様子を意味していました。現在では「赤」は橙色・赤茶色・赤紫・ピンク色・紅色など、幅広く赤系の色について使われています。つまり一口で「赤い」といっても色調には幅があるのです。それに対して「紅色」は本来は紅花という花の染料で染められた色で、赤の中でもピンクがかった鮮やかな赤色を指しています。

 日の丸の国旗についていろいろ意見や主張があるのは十分に理解できますが、もし国号が水に関わるものであれば水を、木に関わる国号であれば木を意匠化した国旗がふさわしい。しかしこの国の国号が「日本」である以上、太陽を意匠化した国旗であることは、ごく自然なことだと思います。「日本」という国号が嫌だというなら仕方ありませんが・・・・。

 形も色づかいも大変に単純ですが、物事を単純化して象徴的に表現することは、日本人の感性と言いましょうか、日本の伝統文化の特徴の一つです。漢字を省略して平仮名や片仮名にしたり、絵の具の色を墨一色にして水墨画を描いたり、役者の動きや舞台背景・舞台装置を極限まで簡略化した能楽を演じたり、草木の極端に少ない枯山水の庭園を造ったり、5・7・5音の極端に短い詩である俳句を詠んだりするのは、みな日本の伝統的な美意識や感性の表れでしょう。そういう意味で、「日の丸」のデザインは実に日本らしい旗と言うことができると思います。

 なお日章旗の起原について、『続日本紀』文武天皇の大宝元年(701年)元日の朝賀の記事を根拠に、8世紀にはもう使われていたとするネット情報がたくさんあります。しかしこれが後世の日章旗に発展する旗の起原であるとするのは、明らかに誤りです。

 『続日本紀』には次のように記されています。「大宝元年春正月乙亥朔。天皇御大極殿受朝。其儀、於正門樹烏形幢。左日像・青竜・朱雀幡。右月像・玄武・白虎幡。蕃夷使者、陳列左右。文物之儀。於是備矣。」

 元日の祭儀において、大極殿前の庭に幡(縦長の旗)が立て並べられているのですが、青龍・朱雀・玄武・白虎などの四神の幡と共に、太陽と月の幡が左右にセットで立てられているのです。これは明らかに唐伝来の世界観を表したもので、太陽の旗が単独で掲揚されているものではありません。確かに太陽を象ってはいますが、多くの幡の中の一つに過ぎず、日本古来の太陽観とはまた異質のものなのです。ただ困ったことにウィキペディアに書かれているため、みな原典原文を確認せずにコピペをしているのでしょう。

 また後冷泉天皇が下賜したとされる11世紀の日章旗や、後醍醐天皇が下賜したとされる14世紀の日章旗が伝えられています。もしこれが事実であれば、「白地赤丸」の日の丸の起原となる大変貴重な証拠になるのですが、それを確実に証明することはできません。伝承では証拠にならないからです。頭から否定するつもりはありませんが、根拠に基づかないことは書けませんので、敢えて触れませんでした。


 なお日章旗を掲揚する場合は、一般には、白黒段だら模様に塗られた旗棹の頂部に、金色の玉を取り付けて掲げられる習慣があります。これは神武天皇が熊野から大和に攻め入る時、金色の鳶が神武天皇の弓弭(ゆはず、弓の上端)に舞い降りたため、敵はまぶしさに目がくらんでしまったという神話に基づいています。白黒段だら模様の棹はその弓を、金の玉は金色の鳶を表しているのです。

 日の丸や国旗については、個人によって色々な主張があるでしょうが、この場は個人のブログですので、私の思うところを率直に書きました。不毛な議論はかつての職員会議でもう十分ですから、あまり反論されても困ります。まあ事実の誤りはどうぞ御教示下さい。