うたことば歳時記

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

蓮の開花

2018-08-12 09:10:22 | 植物
 盂蘭盆も近づき、自然に蓮の花が目に留まります。毎朝四時には起床し、四時半から犬を連れて散歩に出かけます。その頃にはまだ蕾のままのものもありますが、六時頃には開き始めるでしょう。でも一日目の花は朝の内にすぐつぼんでしまいます。二日目には夜中には開き始め、昼頃にはつぼんでしまいます。三日目にも夜中から開き始めますが、昼過ぎになっても完全には閉じません。そして四日目になると花弁が落ちてしまいます。花が咲く時にポンと音がすると言われますが、密閉されているわけでもありませんから、あり得ないことです。牧野富太郎はじっと観察したそうですが、そんなことはなかったと何かに書いてありました。花は四日間の命なのですが、その間に開いたり閉じたりするので、あの「開いた開いた 何の花が開いた 蓮華の花が開いた 開いたと思ったら いつの間にかつぼんだ」という童謡の歌詞になるのでしょう。確か二番は「つぼんだつぼんだ 何の花がつぼんだ れんげの花がつぼんだ つぼんだと思ったら、いつのまにか開いた」だったと思います。子供の頃は蓮華ではなく、豆科のレンゲのことと思っていました。蓮の花をじっと観察していて、本当に開いたり閉じたりするのを見て、改めてその歌詞を見直したわけです。

 四日目には散ってしまう花ですが、散った花びらも面白い。よく中華料理や鍋料理で使われる匙は、れんげと呼ばれていますが、正しくは「散り蓮華」といいます。匙の形が散った蓮の花によく似ているからなのですが、そう思って改めて見直すと、それはそれで風情があると思いました。

 満開の花には、蜂がたくさん集まっていました。蓮の台(うてな)が蜂の巣のように見えるので、古くは「はちす」と呼ばれていたことはとっくに知っていましたが、ひょっとしたら実際に蜂がたくさん寄ってくることもヒントになったのかもしれません。

彼岸の牡丹餅・お萩

2018-08-09 20:28:04 | 年中行事・節気・暦
 彼岸には牡丹餅・お萩を食べる風習は、江戸時代からのものですが、最近はお盆にも店頭に並び、仏事の行事食となっています。もっとも店頭では牡丹餅よりお萩という表記が多いようですが。これは江戸時代後期に始まった風習で、滝沢馬琴の『馬琴日記』に記述があります。彼は甘いものが大好きだったと見えて、日記には菓子の記述がしばしば見られます。

 彼岸に牡丹餅やお萩を食べる理由として、ネット情報には、「小豆の赤い色には魔除けの効果があると古くから信じられており、邪気を払う食べ物としてご先祖様にお供えされてきた」とか、「もち米とあんこの二つの物を合わせることが、ご先祖様の心と自分たちの心を合わせるという意味があるから」などと説明されていました。小豆が邪気を退ける呪力を持つと理解されてきたことは事実で、奈良時代の初め頃に中国から伝えられた『荊楚歳時記』という書物によって、日本の風習に採り入れられました。ですからそれ以来、慶事・凶事・節供などに際して、小豆粥や赤飯を食べる風習が現在まで伝えられています。凶事にも食べたことなど信じてもらえないかもしれませんが、江戸時代の書物にはそのように記されています。凶事を慶事に転じたいからこそ、南天を難を転ずると理解して添えていたわけです。

 話を元に戻しましょう。小豆が魔除けであったことは事実ですが、それによって先祖に供えたことなどあるはずがありません。なぜなら、江戸時代には彼岸は参詣する日ではあっても、墓参をするという風習はまだなかったからです。また先祖に牡丹餅を供えることを記述した史料など、未だかつて見たことがありません。これがライフワークですから、相当な量の文献を探索していますが、その私も見たことがないのです。もっとも見落としがあるかもしれませんから、絶対とまでは言いませんが・・・・。


 また「二つの物を合わせる」とういう説に到っては、出鱈目もこれ程までとはと、ただただ呆れるばかりです。二つの物からなる食物など、無制限にあるではありませんか。そのように書いている人は、その目で根拠となる史料を確認したことがあるのでしょうか。あるというなら示してもらいたいものです。仮にあったとしても、広く共有されていなかったことは動きそうもありません。


 牡丹餅ではありませんが、彼岸に菓子を供える風習は江戸時代の初期からありました。『日次紀事』(1676年)という詳細な歳時記には、京の風習として、彼岸の最中に親戚に法要があれば茶菓を供え、また互いに贈り合うことが記されています。このように彼岸に供えたり相互に贈る菓子の一つとして、後に牡丹餅が流行るようになったものなのです。その史料を載せておきますので御覧下さい。


史料「彼岸に供える茶菓」
「凡(およそ)京師(けいし)の俗、彼岸の中、偶々(たまたま)親戚の忌日に逢はば、則ち茶菓を供してこれを祭る。その祭余の菓を以て互に相贈る。或は親戚朋友を請て茶菓を饗す。彼岸の中、菓子を称して茶子(ちやのこ)といふ。茶を点ずるを茶を立るといふ。麩(ふ)の焼(やき)を食ふを経を読むといふ。倭俗彼岸の中、専(もつぱら)仏事を作(な)す。」(『日次紀事』二月)


 麩(ふ)の焼(やき)とは、水で溶いた小麦粉を薄く焼き、表面に味噌を塗って経巻の形に仕上げた物でその形により、これを食べることを「経を読む」といいました。千利休の茶会にもしばしば登場する京の銘菓です。


 ついでのことですが、春の彼岸は牡丹餅、秋の彼岸はお萩というように、季節によって呼称を使い分けていたと思っている人が多いことでしょう。実はこれがとんでもない出鱈目なのです。私は長年歳時記の研究をしていますが、現在流布している歳時記などの理解には、とんでもない出鱈目な説が多いものですが、その中でも最たるものがこの牡丹餅とお萩の季節による呼称の使い分けです。出鱈目と言われて腹が立つなら、文献史料の根拠を示して欲しいものです。それが確かなものなら、潔く降参します。しかしそれを示せないなら、出鱈目の垂れ流しは止めてもらいたい。自分では何も調べもせず、食物史事典やウィキペディア程度の情報を検証もせずに摘まみ食いするのでその様なことになってしまうのです。

 まずはブログ「うたことば歳時記 牡丹餅とお萩 流布説の誤り」を御覧下さい。流布説がいかにいい加減なものであるか、よく理解できるはずです。ネット情報は玉石混淆です。利用する側の力量も試されているわけです。  



和泉式部の葛の葉の歌について

2018-08-02 20:35:32 | うたことば歳時記
 先日、私のブログ「うたことば歳時記」の読者の方から、2015年8月9日に投稿した「葛の裏風」という拙文の和泉式部がらみの歌についてご質問がありました。忙しさにかまけてご返事が遅くなり、申し訳ありませんでした。忙しさに変わりはないのですが、わざわざのお問い合わせですので、わかる範囲でお答えいたします。

 お問い合わせの歌は 「うつろはでしばし信太の森を見よかへりもぞする葛の裏風」(新古今 雑 1820)
という歌です。これにはいろいろな背景があるのですが、それを省略してしまったので、お問い合わせがあったようです。

 御存知のように和泉式部は恋多き情熱的な歌人という評価が定着しています。まあ事実そうなのですが、同時に二股をかける奔放な恋狂いというわけではなさそうです。彼女は初めは和泉の国司であった橘道貞の妻となりました。「和泉式部」という女房名は、この夫の官職に拠っています。後に歌人としてよく知られる、小式部内侍はこの二人の娘ですから、夫婦関係は最初の頃は順調だったのでしょう。小式部内侍は母より前に亡くなりますが、娘に後れた母の哀しみを歌った歌には、胸を打つものがあります。夫とは疎遠になったものの、娘に対する愛情は人一倍強いものがありました。

 その後和泉式部は冷泉天皇の皇子である為尊親王と恋愛関係になります。どちらかといえば、親王の方が積極的だったのでしょう。為尊親王はかなりのイケメンで知られていて、その道での軽々しい行動が顰蹙をかうこともあったようです。しかしこのカップルは、身分家柄が釣り合わず、式部は親から厳しく叱責されました。片方は親王であり、他方は大江氏という由緒ある氏族出身とはいえ、国司の娘です。国司の官位は四位か五位ですから、中級貴族にすぎません。ところが二人の関係は長くは続きませんでした。為尊親王は伝染病にかかり、26歳で病死してしまったからです。

 ところが為尊親王の死がきっかけになったのでしょうが、一年後、為尊親王の弟である敦道親王と相思相愛の関係になりました。兄弟ですから、敦道親王も相当のイケメンだつたのでしょうし、式部にしてみれば為尊親王の面影を感じ取ったのかもしれません。敦道親王は式部に相当の熱を上げたようで、藤原氏の正妻がいるにもかかわらず、式部を自邸に住まわせ、結果的に正妻は家を出てしまいます。さすがの式部にしても、藤原氏の正妻を追い出してしまうことは不本意だったでしょう。二人の間には男の子が一人生まれています。ところが偶然にも敦道親王も26歳で亡くなってしまいました。

 その後式部は藤原道長の家臣で、20歳も年上の藤原保昌と再婚し、保昌は丹後の国司となり、一緒に任国に赴いています。しかしこの結婚も長続きはしなかったようです。『後拾遺集』の1162番歌に、「男に忘られて侍りける頃、貴船に参りて御手洗川の螢の飛び侍りけるを見て詠める」という詞書きが添えられた、「物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づる魂(たま)かとぞ見る」という式部の歌があります。この歌については、私のブログ「うたことば歳時記 遊離魂の螢」と題して既に投稿してありますから、そちらを検索して下さい。

 まあざっと式部の恋の遍歴をお復習いしてみました。そこで御質問の歌の件ですが、実はこの歌は友人の赤染衛門という女性が式部の恋に関わって送って寄こした歌なのです。その歌は、次の如くです。

 「うつろはでしばし信太の森を見よかへりもぞする葛の裏風」。これには「和泉式部、道貞に忘られてのち、程なく敦道親王かよふと聞きてつかはしける」という詞書きが添えられています。友人の式部が夫から疎遠にされているのを心配していたところ、敦道親王との恋が表沙汰になったので、さらに心配になって歌を詠んで寄こしたというわけです。歌の意味は、心変わりすることなく、しばらくは信太の森の様子を御覧なさい。葛の葉を裏返す風が吹いて、また返ってくるかもしれないから、ということです。ここで信太の森が重要なのですが、信太の森は当時は和泉国の歌枕として誰もが知っている所でした。式部の夫が和泉の守であったことはお話ししましたが、ここでは信太の森はその夫道貞を表しているのです。つまり歌の本当の意味は、葛の葉を裏返す裏風のように、夫が戻ってくるかもしれないから、敦道親王などに心を寄せずに、もうしばらく夫の帰りを待ってごらんなさい、ということなのです。恋多き式部を、やんわりとたしなめたのかもしれません。

 それに対して式部が赤染衛門に返した歌が次の歌です。「秋風はすごく吹けども葛の葉のうらみ顔には見えじとぞ思ふ」。意味は、秋風は恐ろしいばかりに吹いているが、風に裏返って裏を見せる葛の葉のように、恨んでいるとは見られないようにと思います、ということです。「秋風」は当時の歌の世界では「飽きる風」、つまり恋に飽きが来たことの象徴でした。「すごい」と言う言葉は現在では「とても」とか「大変に」とか言うように、善し悪しに関係なく程度が著しいことを表しますが、本来は寒々しい、ぞっとする、恐ろしいというような、あまり嬉しくないことが著しいことを表す言葉です。ですから私などは「すごく嬉しい」などと言われると、それこそものすごく抵抗感があり、素直に受け取れない言葉です。しかし現在ではそんなことを感じる人の方が少ないので、仕方がないと思いますが、自分自身の言葉遣いとしては、「すごい」「すごく」と言う言葉は、マイナスのイメージの時しか使わないように心掛けています。

 その秋風がすごく吹くというのは、夫の道貞が妻の式部に飽きがきて、冷たく当たっていることを意味しています。そして風に吹かれた葛の葉は裏に返って裏を見せるので、「返る」や「恨み」(裏見)を連想させます。そのように飽きる風が吹いて夫が冷たくするので、それを恨みに思って敦道親王に心を寄せていると思われないようにしましょう、ということになるわけです。

 まあそうは言っても結果としては敦道親王に入れ込んで行くのですが、それはともかくとして、当時の教養ある人の歌は、なかなか手がこんでいて、理解するのが難しいものです。現代短歌を詠む人たちは、このような手の混んだ歌を退けるでしょうが、私自身はむしろこのような歌を詠めるようになりたいものと思っています。

 連日猛暑が続き、先日は41度を超えてしまいました。我が家は猛暑で知られる埼玉県熊谷のすぐそばですから、ほぼ同じ暑さです。それでもクーラーが無いので、扇風機だけで過ごしています。開け放った窓からは、ちょうど葛の花やクサギの花の甘い香が漂ってきます。窓を閉め切っていたらわからない風情でしょう。葛の花を摘んできて、酢の物に添えたりしてこの季節を楽しんでいます。