うたことば歳時記

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百舌鳥(鵙)

2015-09-28 13:51:28 | うたことば歳時記
秋になると特徴的な鳴き方をするので、誰の目にも留まるはずであるのに、『万葉集』には百舌鳥は次の二首しか詠まれていないのは意外である。
 ①春さればもずの草ぐき見えずとも我れは見やらむ君があたりをば (万葉集 1897)
 ②秋の野の尾花が末に鳴くもずの声聞きけむか片聞け我妹 (万葉集 2167)
 ①の「もずの草ぐき」とは、春になると百舌鳥が草むらに潜って姿が見えなくなることで、生態としては、平地から山に移るだけで草に潜るわけではないが、古人はそのように理解していたのである。私の住む比企丘陵では、春になっても百舌鳥の姿を見ることができる。ただ秋のような高鳴きをしないため、目につきにくいのは確かである。①では、「もずの草ぐき」は「見えず」を導く序詞となっていて、春になれば百舌鳥が草に潜って見えないようにあなたのことが見えなくとも、私はあなたの住むあたりをいつも見ています、という意味である。
 ②は、秋の野の尾花(すすき)の穂先に鳴いているもずの声を聞きましたか。よくよく聞いてごらんなさい、という意味である。ただそれだけでは歌としてあまりにも単純すぎるので、何か寓意があるかもしれない。 毎年9月になると、梢や杭の天辺で甲高い声で鳴くので、その姿はすぐに見つけることができる。体長の割には頭部が大きく、長い尾を回転させるようにして鳴いている。これは縄張の侵入者に対する威嚇であるという。
 王朝時代になっても百舌鳥はあまり歌に詠まれないのであるが、基本的には①のように「もずの草ぐき」か②のように目立つところで高鳴きする様子を詠む二つの流れができる。
  ③もずの居る櫨の立枝のうす紅葉たれ我が宿のものと見るらん   (金葉集 秋 243)
これは、百舌鳥がとまっているどこかのお屋敷の櫨(はぜ)の木が美しく紅葉しているのを見た歌人が、それを羨ましがって詠んだ歌である。百舌鳥はおそらく木の天辺にとまって高鳴きしているのであろう。この歌がよく知られることとなり、これ以後、歌の数としては多くないが、「もずの居る」が慣用的に詠まれるようになった。
  ④鵙のゐるまさきの末は秋たけてわらやはげしき峰の松風     (風雅和歌集 693)
  ⑤もずのゐるはじの立枝のひと葉よりさそひそめぬる秋の木がらし  (伏見院御集 896)
  ⑥もずのゐるはじの立枝は色付きて岡辺さびしき夕日影かな     (飛鳥井雅親、原典未確認)
④の「まさ木」が今日の正木であるならば、樹高は知れている。しかし⑤⑥の(はぜ・はじ)は大木となり、しかも秋には美しく紅葉するから、百舌鳥の高鳴きとと組み合わせて詠むにはうってつけの樹木である。
 一方、「もずの草ぐき」は、「もずの居る」より例歌が多い。
  ⑦頼めこし野辺の道芝夏深しいづくなるらん鵙の草ぐき       (千載集 恋 795)
  ⑧たづぬればそことも見えずなりにけり頼めし野辺の鵙の草ぐき   (続古今和歌集 恋 1271)  ⑨甲斐なしや教えしままの言の葉も今は枯れ野の鵙の草ぐき     (新千載和歌集 恋 1542)
⑦は、また逢いたいと約束してあてにさせた恋人と逢うこともなく、道の芝草が伸びてしまった。いったいどこにいるのだろうか。鵙の草ぐきのように姿を見せなくなってしまった、という意味である。⑧は、恋人に逢いに訪ねてみたが、鵙が草むらに隠れてしまうように、場所もよくわからなくなってしまった、という意味であろう。⑨は今一つ解釈に自信がないが、⑧とほぼ同じことであろう。
 こうして見ると、「もずの草ぐき」は『万葉集』以来一貫して、見えない恋人を案じたり、その消息を尋ねたりするさいの観念的な常套表現になっている。

菊の被せ綿

2015-09-19 14:55:23 | 年中行事・節気・暦
 9月9日は重陽の節句であるが、「菊の節句」とも言われ、平安時代以来、菊の花を飾って長寿を祈るさまざまな行事が行われていた。その行事の一つに、「菊の被せ綿」というものがある。前日の8日、菊の花に真綿を被せておく。そして翌朝、夜露に濡れ花の香の移ったその綿を取って身体を拭い、長寿を祈るのである。この場合の綿は、もちろん真綿のこと。木綿の綿が日本に伝えられるのは室町時代のことであるから、それ以前に綿と言えば、真綿しかなかった。また菊の花の色も白菊ばかりである。菊の花の色のわかる古歌では、私の経験では99%が白菊である。「しろがねとこがねの色に咲き紛ふ」という歌(夫木和歌抄05906)があることから、極めてわずかに黄菊があったことがわかるが、それ以外の色の菊は、どうしても見当たらない。
 白菊の上に真っ白い真綿を乗せたのであろうか。白梅に積もる白雪のようで、それはそれで美しいとは思う。しかし『夫木和歌抄』に「いろいろに菊の綿きぬそめかけてまだきうつろふ花はなとこそ見れ」という歌があるから、赤に近い色に染めた真綿があった可能性もある。白菊は霜に当たって赤紫に変色するが、そのことを「菊の花が移ろふ」として賞することがあった。被せ綿をのせた菊を、早くも花が色変わりしていると詠んでいるからである。

 この菊の被せ綿について、『枕草子』は次のように記している。
  「正月一日、・・・・九月九日は暁がたより雨すこし降りて、菊の露もこちたうそぼち、おほひたる綿など   もてはやされたる。つとめてはやみにたれど、曇りて、ややもすれば降り落ちぬべく見えたる、をかし。」
夜明けに雨が降り、濡れた被せ綿が花の香に一層よく香る。早朝には止んで曇っているが、綿がずり落ちてしまいそうに見えるのが面白い、という意味である。
 また『紫式部日記』にも次のような記述がある。
  「九日、菊の綿を兵部のおもとの持て来て、「これ、殿の上の、とりわきて。いとよう老いのごひ捨てたまへと、のたまはせつる」とあれば、
     菊の露わかゆばかりに袖ふれて花のあるじに千代はゆづらむ
   とて、かへしたてまつらむとするほどに、あなたに帰り渡らせたまひぬとあれば、ようなきにとどめつ。」
これは、紫式部が藤原道長の妻の倫子から「老いを拭いとって捨てなさい」と菊の被せ綿を贈られたのであるが、「被せ綿の露で身を拭えば、千年も寿命が延びるということですが、私は若返る程度に少しだけ袖を触れさせていただき、千年の寿命は、花の持ち主のあなた様にお譲りいたしましょう」という意味の歌を添え、遠慮して花をて返したという話である。
 『弁内侍日記』の1246年(寛元4年)9月8日の条にも、次のように記されている。
   「中宮の御かたより菊のきせわたまいりたるが、ことにうつくしきを、朝かれゐの御つぼの菊にきせて、夜のまの露もいかがとおぼえわたされて・・・・」
重陽の節句の前日、被せ綿を頂いたので、清涼殿の朝餉(あさがれい、天皇の日常の食事)の間の西側の小庭の菊に載せたが、夜露が置くだろうかと思われて・・・・、という意味である。
 被せ綿を詠んだ歌は大変少ないが、次の歌がみつかった。
  ①垣根ねなる菊の被せ綿今朝見ればまだきさかりの花咲きにけり(夫木和歌抄 05991、新撰六帖)
旧暦9月9日、新暦ならば10月上旬頃の重陽の節句でも、菊の花の盛りにはまだ少し早い。それで被せ綿を載せた菊を、早くも盛りとなったと詠んでいるのである。この歌の場合は、被せ綿の色は白であった可能性が高い。なぜなら先程も述べたように、当時の菊の色はまずほとんどが白と考えられるからである。

 その後の菊の被せ綿の史料をを見たことがないが、17世紀の『後水尾院当時年中行事』には被せ綿の色やその載せ方などについて、いろいろと述べられている。宮内庁書陵部の写真版で確認したが、白菊には黄色の綿で、黄色の菊には赤い綿で、赤い菊には白い綿で覆うとされていた。さらに花を覆った真綿の中心に、小さく丸めた綿をちょこっと乗せて蘂(しべ)とすると定められている。江戸時代までには様々な色の菊が品種改良され、被せ綿の色についても、それこそ色々な仕来りができたのであろう。

 この記録をもとにして、東京都杉並区の大宮八幡神社では、毎年新暦の9月9日頃、菊の被せ綿の行事が復活されている。ただ写真で見る限りでは、花が大きすぎるように思う。品種改良が進み、現在は大きな菊が当たり前になっているが、平安時代にはなかったはずである。また個人的な趣味の問題ではあるが、色の取り合わせが強烈すぎるので、もう少し淡い色に染めた真綿を使った方が、上品に見えるのではないかと思う。
 なお、京都の上賀神社・貴船神社・市比売神社でも菊の被せ綿の行事が行われているという。(現地でまだ確認していない)。五節句のうち、菊の節句には特に何も特別な行事や食べ物がなく、伝統的行事が復活するのは大いに結構なことだと思う。脱線話であるが、9月9日が敬老の日であったらよかったのにと思う。菊を飾り、菊酒を飲み、菊の被せ綿で拭い、菊をかたどった和菓子を食べて長寿を祈る。重陽の節句と敬老の日の趣旨がうまく合致してよかったのにと思うのである。まあ今さらどうにもならないのであるが・・・・・。




浜千鳥

2015-09-16 12:38:56 | 唱歌
たまに童謡や唱歌について駄文を書いていますが、歌がどのようにしてできたのか、作曲や作詞の経緯については、私は全くの素人です。ただ少々、和歌に興味があるので、歌詞の背景について私の心にかかることについて、とりとめもない感想などを書いています。

 古い和歌に詠まれる鳥は、それほど種類は多くありません。春は鶯と雲雀、夏は郭公(和歌の世界では、カッコウを指す「郭公」と書いて「ほととぎす」と読みます)、秋は雁と百舌鳥、そして冬は鴨と千鳥です。
和歌の世界では冬の景物になっていますが、イカルチドリやシロチドリは一年中見られる留鳥で、コチドリは日本で冬を越すこともありますが、夏に飛来する夏鳥です。ですから見ようと思えば、一年中見られるわけで、特に夏には多いのですが、なぜか冬の歌に詠まれるのです。

 唱歌『浜千鳥』の作詞は鹿島鳴秋、作曲は弘田龍太郎で、雑誌『少女号』大正九年一月号に発表されたそうです。
  1、青い月夜の浜べには    親をさがして鳴く鳥が
    波の国から生れ出る    濡れた翼の銀のいろ
  
  2、夜鳴く鳥の悲しさは    親をたづねて海越えて
    月夜の国へ消えて行く   銀の翼の浜千鳥

 童謡や唱歌について精密な史料批判により追随を許さない成果を上げておられる池田小百合氏は、「夜啼く千鳥の声は、親のない子が月夜に親を求めて探しているのだという昔からの言い伝えがあります。」と述べていらっしゃいます。ただ寡聞にしてそのような言い伝えを聞いたことはありません。少なくとも伝統的和歌では見たことがありません。そもそも一般論として「言い伝え」なるものは眉唾ものが多く、確かめようもないので困ります。「言い伝えによれば」と言われると、それ以上追求できないばかりでなく、さもそれが事実であるかのように独り歩きしてしまう例がたくさんあるからです。もちろん一般論であって、この『浜千鳥』の言い伝えがあるのかどうかとは別の問題です。どなたがご存じでしたら、是非教えて下さい。

 千鳥を詠んだ歌は『万葉集』に26首もあります。その中で、『浜千鳥』の千鳥に関わりのありそうな歌が一首あります。
  ①さ夜中に友呼ぶ千鳥物思ふとわびをる時に鳴きつつもとな    (万葉集 618)
作者は夜中に物思いに沈んでいるとき、はぐれた千鳥が仲間を呼んでやたらに鳴いている、という意味です。私の寂しい心を知りもしないで、よくまあ鳴くものよと、千鳥の声を聞くほどに寂しさが増幅されているのでしょう。
 同じようにはぐれた千鳥の歌は、『古今集』以後の王朝和歌にも詠まれています。
  ②夕されば佐保の河原の川霧に友まどはせる千鳥なくなり     (古今集 冬 238)
  ③霧晴れぬあやの川辺に鳴く千鳥声にや友の行くかたを知る    (後拾遺 冬 387)
  ④夜や寒き友や恋しき寝て聞けば佐保の川原に千鳥鳴くなり    (堀河百首 冬 989)
②と③では霧の川辺ではぐれた千鳥が鳴いています。②と④では、夕から夜の佐保川の千鳥が詠まれています。佐保川は平城京の東北を流れる川で、古くから霧や千鳥が詠まれる歌枕でした。このように千鳥は群れて飛ぶものであり、どうかして一羽だけ鳴いていると、仲間からはぐれてしまって寂しげに鳴いていると理解されていたことがわかります。特に霧の中から聞こえてくると、そのような印象を強く感じたことでしょう。次の⑤⑥のように、群れて飛ぶ千鳥を「友千鳥」と呼ぶことも、一羽で鳴く千鳥を「友を捜して鳴く」と理解したことと関係があるでしょう。
  ⑤友千鳥群れて渚に渡るなり沖の白州に潮や満つらん       (堀河百首 冬 979)
  ⑥解けて寝ぬ須磨の関守夜や寒き友呼ぶ千鳥月に鳴くなり     (新後拾遺 冬 507) 

 親を探して鳴くという歌は見当たりませんが、友にはぐれて寂しげに鳴くという伝統的千鳥理解を、『浜千鳥』の作詞者の鹿島鳴秋は知っていて、影響を受けたのかもしれません。彼が6歳の時に父が家出をして父を失い、母は再婚し他家に嫁いだので、祖父母に育てられたそうです。ですから親の愛情に飢えていたことは間違いないことでしょう。親を探して泣いた経験が、この詩となって現れたのだと思います。知らなかったとしても、結果としてそのような寂しい心を表す素材として、月夜の浜辺に鳴く千鳥は最適なものであったと言えます。

 千鳥が親を探して鳴くという詩想は、北原白秋の童謡『ちんちん千鳥』にも見当たります。

  1、ちんちん千鳥の 啼く夜さは 啼く夜さは
    硝子戸しめても まだ寒い まだ寒い

  2、ちんちん千鳥の 啼く声は 啼く声は
    燈(あかり)を消しても まだ消えぬ まだ消えぬ

  3、ちんちん千鳥は 親ないか 親ないか
    夜風に吹かれて 川の上 川の上

  4、ちんちん千鳥よ お寝(よ)らぬか お寝らぬか
    夜明の明星が 早や白む 早や白む

 ここでは冬の夜に川辺で鳴く千鳥が歌われています。一羽とはなっていませんが、親を捜して鳴いていると理解できますから、一羽なのでしょう。この歌は大正10年1月の『赤い鳥』に掲載されているそうですから、『浜千鳥』より1年遅れています。詩の発想に何らかの関係があるのかどうかは、私にはわかりません。

 話は突然かわりますが、「青い月夜」とはどのような月夜なのでしょうか。私の高校時代、今から半世紀以上も昔の記憶ですが、『月蒼くして』というアメリカの喜劇映画のことを本で読んだことがあります。書名は思い出せないのですが、原題は「The Moon Is Blue」で、アメリカでは「あり得ないこと」という意味であるのに、日本語に翻訳する際にその意味を知らなかったと見えて、詩的に「月蒼くして」と訳され、1954年に日本でも公開されたといいます。そのような誤訳の面白さを述べた本であったように記憶しています。また一月に満月が2回見られることが稀にありますが、そのような月を「ブルームーン」と言い、今年の7月に見られたので話題になりました。

 「青い月」「青い月夜」という句は、歌の題にもあったような記憶があり、少し調べただけでもいくつも見つかりました。『青い月夜だ』、『月がとっても青いから』、奥村チヨの『青い月夜』、山本リンダの『青い月夜の』、石川さゆり『青い月夜の散歩道』などがあります。またドラエモンの『青い月夜のリサイタル』という話もあるとのこと。日本人は余程「月」と「青」との取り合わせが好きなようです。

 では実際に「青い月夜」があるのでしょうか。そう思ってしばしば夜空を眺めたものです。結論から言えば、実際に青いわけではないのでしょうが、満月前後の月齢の月夜は、確かに黒ではなく青く感じました。月その物の色ではなく、空の色です。また日没後や夜明け前の空も、「青」を感じました。それはまるでシャガールの絵のようでした。歌の世界は理屈ではありません。

砧(きぬた)

2015-09-10 15:45:44 | うたことば歳時記
 秋の夜は歌詠みの心をいたく刺激するようで、鳴く虫・月・露・鹿・もみぢ・落ち葉・雁など多くの景物と取り合わせた古歌が伝えられている。その中の一つに、現在ではほとんど見られない砧というものがある。東京都世田谷区には砧という地名があり、「きぬた」「砧」を冠した店や企業などがあり、和菓子の名前ともなっていたり、「きぬた」「砧」という呼称は珍しくないのであるが、本来の砧となると、日本では博物館で見るものになってしまっている。
 そもそも砧とは、洗濯して干した布や衣がまだ生乾きのうちに、それを叩いて皺を伸ばしたり艶を出すための道具のことである。まあ簡単に言えばアイロンに相当するものであるから、炭火を使う火熨斗が登場すると、廃れてしまう運命にあった。まして電気アイロンが登場すると、その存在意義はほとんどなくなってしまった。
 その形状には二通りの形がある。一つは直系1尺以上はあろうかという丸太を輪切りにして台状に拵えたもので、重さは10㎏以上あるかと思われる。この台の上に衣を畳んで載せ、横槌と呼ばれる木槌で叩くのであるが、槌の重さは2~3㎏はあると思われる。もう一つは綾巻と呼ばれるもので、横軸に布をバウムクーヘンのように巻き取り、坐繰製糸の器械のように、その軸を受ける構造になっているが、綾巻を台に直接置いて叩くこともあったらしい。
 『万葉集』を斜め読みで見落としているかもしれないが、「砧」とはっきり詠まれている歌はない。しかし衣を打つことを連想させる歌(巻12-3009)があり、砧は万葉時代から用いられていたとしてよいと思う。
 砧打ちは洗濯物の仕上げとして行われることであるから、本来ならば季節に関係ないはずであるのに、私が整理したところでは、八代集には砧を詠んだ歌が十余首、『堀河百首』に16首あるが、すべて秋の夜の歌として詠まれている。昼間に洗濯して干し、よく乾ききっていないうちに打つから、自然と夜の作業になる。また日常的な洗濯物を打つのではなく、冬に備えた衣料品や寝具を打つことから、秋の歌に詠まれるのであろう。
 秋の夜の砧を打つ歌をいくつかあげてみよう。
  ①小夜ふけて砧の音ぞたゆむなる月を見つつや衣打つらむ  (千載集 秋 338)
  ②恋ひつつや妹が打つらん唐衣きぬたの音のそらになるまで、(千載集 秋 339)
  ③秋風は身にしむばかり吹きにけり今や打つらん妹がさ衣  (新古今 秋 475)
  ④ふけにけり山の端近く月冴えてとをちの里に衣打つ音   (新古今 秋 485)
  ⑤秋風は涼しくなりぬ唐衣たがためにとて急ぐなるらん   (堀河百首 秋 804)
  ⑥頼めおきしほど経るままに小夜衣うらめしげなる槌の音かな(堀河百首 秋 815)
③⑤では、秋も深くなってきた頃に打っていることが詠まれていて、冬に備えた秋の作業であることがうかがわれる。①④は月と共に詠んでいるが、他にもそのような歌は大変多い。秋の月は格別に美しいものとされていたから、砧の歌は秋の月と共に詠むものという共通理解があったものと思われる。②③では女性の作業として詠まれている。⑥では、夜に訪ねて来ると約束した時間を過ぎても男が来ないので、砧の音が恨めしげに聞こえるというのであるから、これも女性の作業として詠んでいる。②でも、女性が砧を打ちながら待っているとされている。これらの歌を総合して考えてみるに、冬支度のために、女が月を眺めながらいつ来るともしれない男を待ち焦がれつつ、秋の夜長を徹して打つものというのが、砧の歌の基本的な詠み方であったと言えよう。
 もっともこのような常套的な詠み方は、日本独自のものではない。李白の詩として有名な「子夜呉歌」(しやごか) 其の三 秋には次のように歌われている。

  子夜呉歌  其三 秋 李 白
長安一片月    長安 一片の月         長安の空には一片の月がかかり
万戸擣衣声    万戸 衣を擣(つ)くの声    万戸から衣をつく音が聞こえる
秋風吹不尽    秋風 吹いて尽きず       秋風は吹き止まず
総是玉関情    総て是これ玉関の情       思いを玉関の彼方に馳せる
何日平胡虜    何れの日か胡虜を平らげ     いつになったら胡虜を平らげ 
良人罷遠征    良人 遠征を罷めん       夫は遠征をやめて戻ってくるのだろうか

秋の月夜、妻が夫の帰りを待ち侘びて衣を打つという、基本的要素は共通している。

鹿の鳴き声

2015-09-08 14:21:06 | うたことば歳時記
 居るところにはたくさん居て、農業や林業に大きな食害を与える鹿であるが、生息する地域も減ってきているのであろう。比企丘陵の末端にある我が家の周辺には、狸・兔・雉はいても、鹿を見たことはない。私はかつて埼玉県の川口の貝塚から鹿の歯を拾い、こんな所にも鹿が居たのかと驚いたものである。大きな獣の少ない日本においては、鹿は猪と並んで身近な動物であった。そのことは『万葉集』に68首も鹿を詠んだ歌があることからもわかる。そしてそのうちの多くが牡鹿が牝鹿を呼んで鳴くことを詠んでいる。鹿の姿を詠んだ歌がないわけではないが、人々の関心は、姿よりもっぱら鳴き声にあった。
 それならば、鹿は何といって鳴くのだろうか。というより、人は鹿の鳴き声をどのように聞き取っていたのであろうか。『播磨国風土記』によると、応神天皇が狩に出かけた際に、鹿が比々(ひひ)と鳴いたことを哀れに思って、狩を中止したことが記されている。「ひひ」という音を、殺されるものの悲しみの声と感じたのである。
 また和歌にも鹿の声の聞き成しを詠んだものがある。
  ①秋の野に妻なき鹿の年を経てなぞわが恋のかひよとぞ鳴く    (古今集 雑 1034)
これは、秋の野に、妻のない鹿が、長い間なぜ自分の恋には効きめがないのかと、「かいよ」と嘆いて鳴いている、という意味である。つまり鹿の鳴き声を「かひよ」(かいよ)と聞き、「甲斐よ」「効よ」と理解しているのである。
 鹿が「かひよ」と鳴くと共通理解されていたとすれば、次の歌も関係がありそうである。
  ②かひもなき心地こそすれさ雄鹿のたつ声もせぬ萩の錦は     (後拾遺 秋 283)
鹿と相性の良い萩の花が盛りになっているのに、鹿の声が聞こえないのでは、せっかく咲いた甲斐がない、という意味である。萩の花は鹿の妻であるという理解さえあったのだから、妻が夫を待つ歌と理解することもでき、「かひもなき」の表現が生きてくる。とにかく、どこまで共通理解されていたかその広がりを確認する材料が乏しいが、鹿の鳴き声を「かひよ」(かいよ)と理解されることがあったことを確認しておこう。
 それなら実際に「かひよ」と聞き取れるであろうか。実際に聞いた友人の感想では、女性の悲鳴のように聞こえたという。私も何度も聞いたことがあるが、「カイヨー」と聞こうと思えば聞けないことはなかった。 松尾芭蕉に「びいと啼く尻声悲し夜の鹿」という句があり、「びい」と聞いている。中国の『詩経』の「小雅」に「呦呦(ゆうゆう)」と鳴き声が表現されている。しかし動物の声を人の言葉として聞き取る聞き成しというものはもともと主観的で、どうにでも聞き取ることができるものである。例えば、ホトトギスならば、一般には「テッペンカケタカ」とか「特許許可局」と聞き成されている。「ホトトギス」という名称すらその鳴き声に因っているのであるから、聞き成しとは、もともとばらつきのあるものなのである。
 ただ鳴き声の印象は、共通しているようだ。
  ③奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声聞くときぞ秋はかなしき     (古今集 秋 215)
  ④さもこそは都恋しき旅ならぬ鹿の音にさへ濡るる袖かな     (金葉集 秋 225)
  ⑤山里のあか月がたの鹿の音は夜半のあはれのかぎりなりけり   (千載集 秋 319)
  ⑥寂しさを何にたとへん牡鹿鳴くみ山の里の明け方の空      (千載集 秋 323)
いずれの歌も鹿の声に寂寥や哀れを感じている。鹿は夜も盛んに動き回るからだろうから、特に宵から明け方にかけて鳴くため、聞く人の感情が昼間より増幅されるのであろう。ただ『万葉集』には68首も鹿の歌があるにもかかわらず、寂寥を感じさせる鹿の歌は極めて少ない。このことは他の歌にも共通していて、平安時代に日本人は新しい感性を持つようになったことを意味している。
 しかし万葉時代から王朝時代に変わらぬ、鹿の鳴き声理解もあった。それは牡鹿が牝鹿を呼び、妻問して鳴いているという理解である。
  ⑦山彦の相響(あひとよ)むまで妻恋ひに、鹿鳴く山辺に独りのみして  (万葉集 1602)
  ⑧このころの秋の朝明に、霧隠り妻呼ぶ鹿の声のさやけさ       (万葉集 2141)
  ⑨秋なれば山響(とよ)むまで鳴く鹿に我劣らめや独り寝る夜は    (古今集 恋 582)
  ⑩秋はなをわが身ならねど高砂の尾の上の鹿も妻ぞ恋ふらし      (後拾遺 秋 287)
  ⑪妻恋ふる鹿ぞ鳴くなる独り寝のとこの山風身にやしむらん      (金葉集 秋 222)
⑦⑨で「響む」(とよむ)という程に、静寂の中で突然聞こえる鹿の鳴き声は、遠くまでよく聞こえる。また⑦⑨⑪では独り寝の床で聞いているので、妻問いの声がなおさら切なく聞こえるのである。
 インターネット上には、暗闇の中で突然に得体の知れない声を聞き、恐ろしかったという感想がたくさん見当たる。鹿の声を全く知らない人が初めて聞けば、無理もないことである。しかし妻問いに鳴くという予備知識を持って聞けば、今もしみじみとした「もののあはれ」の心をもって聞くことができるであろう。

 話は突然とぶが、鹿の鳴き声といえば、「鹿鳴館」という明治中期の外交接待のための建物が思い浮かぶ。その命名の由来は、先程もあげた古代中国の『詩経』「小雅」の鹿鳴篇にある。これは賓客をもてなす時に歌われた詩だそうで、漢文の素養のない私には手に負えない。参考までにインターネットから引用して載せておこう。
  呦呦(ゆうゆう)(鹿の鳴き声)と鹿鳴き、野の苹(へい)(よもぎ)を食(は)む。
  我に嘉賓(かひん)あり、瑟(しつ)(こと)を鼓し笙を吹く。
  笙を吹き簧(こう)(笛の舌)を鼓す、筐(きよう)(はこ)を承(ささ)げて是れ將(おこな)う。
  人の我を好(よみ)し、我に周行(至美の道)を示す。           以下略
賓客をもてなす和やかな雰囲気が溢れていることぐらいは伝わってくる。ここでは鹿の鳴く声に寂寥感はない。想像ではあるが、それは古代の日本人と中国人の感性の相異に因るのかもしれない。