秋になると特徴的な鳴き方をするので、誰の目にも留まるはずであるのに、『万葉集』には百舌鳥は次の二首しか詠まれていないのは意外である。
①春さればもずの草ぐき見えずとも我れは見やらむ君があたりをば (万葉集 1897)
②秋の野の尾花が末に鳴くもずの声聞きけむか片聞け我妹 (万葉集 2167)
①の「もずの草ぐき」とは、春になると百舌鳥が草むらに潜って姿が見えなくなることで、生態としては、平地から山に移るだけで草に潜るわけではないが、古人はそのように理解していたのである。私の住む比企丘陵では、春になっても百舌鳥の姿を見ることができる。ただ秋のような高鳴きをしないため、目につきにくいのは確かである。①では、「もずの草ぐき」は「見えず」を導く序詞となっていて、春になれば百舌鳥が草に潜って見えないようにあなたのことが見えなくとも、私はあなたの住むあたりをいつも見ています、という意味である。
②は、秋の野の尾花(すすき)の穂先に鳴いているもずの声を聞きましたか。よくよく聞いてごらんなさい、という意味である。ただそれだけでは歌としてあまりにも単純すぎるので、何か寓意があるかもしれない。 毎年9月になると、梢や杭の天辺で甲高い声で鳴くので、その姿はすぐに見つけることができる。体長の割には頭部が大きく、長い尾を回転させるようにして鳴いている。これは縄張の侵入者に対する威嚇であるという。
王朝時代になっても百舌鳥はあまり歌に詠まれないのであるが、基本的には①のように「もずの草ぐき」か②のように目立つところで高鳴きする様子を詠む二つの流れができる。
③もずの居る櫨の立枝のうす紅葉たれ我が宿のものと見るらん (金葉集 秋 243)
これは、百舌鳥がとまっているどこかのお屋敷の櫨(はぜ)の木が美しく紅葉しているのを見た歌人が、それを羨ましがって詠んだ歌である。百舌鳥はおそらく木の天辺にとまって高鳴きしているのであろう。この歌がよく知られることとなり、これ以後、歌の数としては多くないが、「もずの居る」が慣用的に詠まれるようになった。
④鵙のゐるまさきの末は秋たけてわらやはげしき峰の松風 (風雅和歌集 693)
⑤もずのゐるはじの立枝のひと葉よりさそひそめぬる秋の木がらし (伏見院御集 896)
⑥もずのゐるはじの立枝は色付きて岡辺さびしき夕日影かな (飛鳥井雅親、原典未確認)
④の「まさ木」が今日の正木であるならば、樹高は知れている。しかし⑤⑥の(はぜ・はじ)は大木となり、しかも秋には美しく紅葉するから、百舌鳥の高鳴きとと組み合わせて詠むにはうってつけの樹木である。
一方、「もずの草ぐき」は、「もずの居る」より例歌が多い。
⑦頼めこし野辺の道芝夏深しいづくなるらん鵙の草ぐき (千載集 恋 795)
⑧たづぬればそことも見えずなりにけり頼めし野辺の鵙の草ぐき (続古今和歌集 恋 1271) ⑨甲斐なしや教えしままの言の葉も今は枯れ野の鵙の草ぐき (新千載和歌集 恋 1542)
⑦は、また逢いたいと約束してあてにさせた恋人と逢うこともなく、道の芝草が伸びてしまった。いったいどこにいるのだろうか。鵙の草ぐきのように姿を見せなくなってしまった、という意味である。⑧は、恋人に逢いに訪ねてみたが、鵙が草むらに隠れてしまうように、場所もよくわからなくなってしまった、という意味であろう。⑨は今一つ解釈に自信がないが、⑧とほぼ同じことであろう。
こうして見ると、「もずの草ぐき」は『万葉集』以来一貫して、見えない恋人を案じたり、その消息を尋ねたりするさいの観念的な常套表現になっている。
①春さればもずの草ぐき見えずとも我れは見やらむ君があたりをば (万葉集 1897)
②秋の野の尾花が末に鳴くもずの声聞きけむか片聞け我妹 (万葉集 2167)
①の「もずの草ぐき」とは、春になると百舌鳥が草むらに潜って姿が見えなくなることで、生態としては、平地から山に移るだけで草に潜るわけではないが、古人はそのように理解していたのである。私の住む比企丘陵では、春になっても百舌鳥の姿を見ることができる。ただ秋のような高鳴きをしないため、目につきにくいのは確かである。①では、「もずの草ぐき」は「見えず」を導く序詞となっていて、春になれば百舌鳥が草に潜って見えないようにあなたのことが見えなくとも、私はあなたの住むあたりをいつも見ています、という意味である。
②は、秋の野の尾花(すすき)の穂先に鳴いているもずの声を聞きましたか。よくよく聞いてごらんなさい、という意味である。ただそれだけでは歌としてあまりにも単純すぎるので、何か寓意があるかもしれない。 毎年9月になると、梢や杭の天辺で甲高い声で鳴くので、その姿はすぐに見つけることができる。体長の割には頭部が大きく、長い尾を回転させるようにして鳴いている。これは縄張の侵入者に対する威嚇であるという。
王朝時代になっても百舌鳥はあまり歌に詠まれないのであるが、基本的には①のように「もずの草ぐき」か②のように目立つところで高鳴きする様子を詠む二つの流れができる。
③もずの居る櫨の立枝のうす紅葉たれ我が宿のものと見るらん (金葉集 秋 243)
これは、百舌鳥がとまっているどこかのお屋敷の櫨(はぜ)の木が美しく紅葉しているのを見た歌人が、それを羨ましがって詠んだ歌である。百舌鳥はおそらく木の天辺にとまって高鳴きしているのであろう。この歌がよく知られることとなり、これ以後、歌の数としては多くないが、「もずの居る」が慣用的に詠まれるようになった。
④鵙のゐるまさきの末は秋たけてわらやはげしき峰の松風 (風雅和歌集 693)
⑤もずのゐるはじの立枝のひと葉よりさそひそめぬる秋の木がらし (伏見院御集 896)
⑥もずのゐるはじの立枝は色付きて岡辺さびしき夕日影かな (飛鳥井雅親、原典未確認)
④の「まさ木」が今日の正木であるならば、樹高は知れている。しかし⑤⑥の(はぜ・はじ)は大木となり、しかも秋には美しく紅葉するから、百舌鳥の高鳴きとと組み合わせて詠むにはうってつけの樹木である。
一方、「もずの草ぐき」は、「もずの居る」より例歌が多い。
⑦頼めこし野辺の道芝夏深しいづくなるらん鵙の草ぐき (千載集 恋 795)
⑧たづぬればそことも見えずなりにけり頼めし野辺の鵙の草ぐき (続古今和歌集 恋 1271) ⑨甲斐なしや教えしままの言の葉も今は枯れ野の鵙の草ぐき (新千載和歌集 恋 1542)
⑦は、また逢いたいと約束してあてにさせた恋人と逢うこともなく、道の芝草が伸びてしまった。いったいどこにいるのだろうか。鵙の草ぐきのように姿を見せなくなってしまった、という意味である。⑧は、恋人に逢いに訪ねてみたが、鵙が草むらに隠れてしまうように、場所もよくわからなくなってしまった、という意味であろう。⑨は今一つ解釈に自信がないが、⑧とほぼ同じことであろう。
こうして見ると、「もずの草ぐき」は『万葉集』以来一貫して、見えない恋人を案じたり、その消息を尋ねたりするさいの観念的な常套表現になっている。