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端午の節供では菖蒲はどのように使われていたの?

2022-05-05 06:50:34 | 年中行事・節気・暦
端午の節供では菖蒲はどのように使われていたの?
 端午の節供は「菖蒲(あやめ)の節供」とも言われるように、菖蒲が重要な役割を果たしています。菖蒲が用いられるのは中国伝来のことで、奈良時代に日本に伝えられた『荊楚歳時記』には、端午の節供で菖蒲の葉を刻み、酒に浮かべた菖蒲酒を飲んで邪気を払うことが記されています。
 ところがこの植物としての「菖蒲」を、正しく見分けるのはなかなか難しいのです。古くは「菖蒲」と書いて「あやめ」と読んでいましたから、青紫色の美しい花が咲く「花あやめ」だと思い込んでいる人がかなりいます。こどもの日の風習を描いた絵図には、よくこの花あやめが描かれているのですが、これは本来は端午の節供とは全く関係ありません。花あやめの葉は端午の節供の菖蒲と区別ができない程よく似ているのですが、香りが全くありませんし、乾燥気味の土地に生育します。
 それに対して端午の節供の菖蒲は、茎を揉(も)んで嗅いでみると、爽やかに香ります。とくに薄いピンク色の地下茎の部分がよく香ります。また湿地や池沼に群生します。花は緑色の蒲(がま)の穂やヤングコーンのような形で、花あやめとは似ても似つかない地味なものです。しかもサトイモ科であるというのですが、里芋の葉とは全く似ていません。最近は新暦五月になると店頭に並んでいますが、田舎の湿地には持て余すほどに生育していて、店で買うものではありませんでした。決して珍しいものではありませんから、是非探してみて下さい。
 『万葉集』には菖蒲を詠んだ歌は12首もあります。ただし「あやめ」とか「あやめぐさ」と読みます。そのうち4首は「縵」(かずら、鬘・蘰)にすることを、6首は薬玉に作る(「玉に貫く」たまにぬく)ことを詠んでいます。蘰というものは、花や枝葉を髪や冠に挿して、長寿や魔除けの呪いとするもののことです。この縵について、奈良時代の歴史書である『続日本紀』の天平十九年(747年)五月には、大変興味深い記事があります。「昔は五月五日には菖蒲の蘰を用いていたのに、この頃は行われなくなったので、今後は菖蒲の蘰(縵)を着けていない者は宮中に入ってはならない」という、元正上皇の詔が記されているのです。高齢の元正上皇が「昔は」というのですから、7世紀にはそのように行われていたのでしょう。この風習は後々まで伝えられ、江戸時代には女の子が菖蒲の葉を髪に挿す風習がありました。
 また菖蒲は薬玉の材料にもなりました。当時の薬玉は現在のものと異なり、菖蒲の葉や地下茎・蓬・橘や楝(おうち)の花などで球状にこしらえ、五色の糸を垂らしたものです。現在の薬玉を割ると、中からカラフルなテープが現れますが、これは五色の糸が変化したものです。生花は傷みやすいので、後には造花に変わりました。これも縵(かづら)と同様に長寿や魔除けの呪いとするもので、明らかに中国の端午の節供の風習にならったものです。『荊楚歳時記』には、女性が五色の糸で「長命縷」(ちょうめいる、「縷」は糸や紐のこと)を作り腕に懸けると記されていますが、薬玉にも五色の糸があり、長命縷にならったものです。平安時代には、貴族はこの薬玉を柱に魔除けの呪いとして、5月5日から半年間、柱に懸けておいたものです。また親しい人に贈る風習があったことを示す歌も残されています。薬玉を御所の柱などに懸ける風習はその後も江戸時代まで続きますが、『日次紀事』に「端午日児女の玩具なり」と記されているように、女の子のおもちゃにもなってしまいます。
 16世紀から江戸時代末期まで、天皇に奉仕する女官達が書き続けた『御湯殿上日記』という記録があるのですが、それには端午の節供に匂袋を贈答したことが数え切れない程記されています。薬玉の材料とされたものは、奈良時代には香りのある菖蒲・蓬・花橘・楝の花などで、平安時代になると、貴族の経済力によって丁子(ちょうじ)・麝香(じゃこう)・白檀などの高価な香料を包んだ袋を造花で飾ったものに変化しますが、一貫して香りのあるものが主体でした。ですから匂袋は薬玉が変化したものなのです。まあ薬玉は「和製ポプリ」と言うことができるのでしょう。
 平安時代には、端午の節供に菖蒲と蓬を軒先に挿すという風習が、身分の別なく広く行われていました。『古今和歌集』以後の和歌集には、軒の菖蒲を詠んだ歌が、数え切れない程残されています。また『枕草子』には、「内裏のような高貴な建物から、庶民の家に至るまで、軒先に隙間なく菖蒲や蓬を葺いているのがとても趣がある」と記されています。これは「軒のあやめ」と呼ばれ、江戸時代までは普通に行われていました。
 現代では菖蒲湯という風習が行われています。これも江戸時代までは「あやめゆ」と読まれていました。5月5日に、菖蒲と蓬を浮かべた湯に入るのですが、自宅ではやらなくとも、銭湯では新暦でまだ普通に行われています。菖蒲湯がいつまで遡るかは不明ですが、室町時代の公家の日記である『建内記』(15世紀前半)や、『年中恒例記』(1544年)という室町幕府の年中行事を記録した書物ににも記されていていますから、公家や在京武家の風習として定着していたようです。一般庶民に広まったのは、もちろん江戸時代のことでしょう。江戸時代には川柳などにも詠まれていますから、庶民の間に普及したようです。
 菖蒲湯の起原は古代中国の「蘭湯」(らんとう)にあると考えられます。この場合の「蘭」とは、秋の七草の藤袴のことで、葉を揉むと芳香があります。しかしいかにも東洋的な香で、西洋の香水に慣れている人にとっては、良い香りとは感じないかもしれません。『荊楚歳時記』には五月五日が「浴蘭節」であると記されています。日本にも早い時期に伝えられたことでしょうが、藤袴の「蘭湯」の風習は日本では定着せず、同じ香草の菖蒲が専ら用いられてきたわけです。
 その他には「菖蒲枕」と称して、菖蒲の葉を枕の下に敷くことが平安時代以来行われていました。菖蒲には爽やかな香りがあります。これは簡単にできますから、菖蒲の葉が手に入るのなら、試してみるとよいでしょう。
 端午の節供では菖蒲ばかりが注目されますが、蓬(よもぎ、艾)も重要な役目を持っています。『荊楚歳時記』には蓬で人の形に作り、門に懸けて邪気を祓うと記されています。蓬には薬功もあり、その葉からもぐさを作って灸を据えますが、そのことも『荊楚歳時記』に記されています。


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