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北条政子のお百度詣 日本史授業に役立つ小話・小技 48

2024-06-21 18:56:30 | 私の授業
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

48、北条政子のお百度詣
 日本史の先生に、お百度詣でと聞くと直ぐに思い浮かぶことは何かと質問すると、日露戦争に出征する夫の無事を祈る妻の心を詠んだ、「お百度詣」という詩を上げることでしょう。明治38年(1905)1月に雑誌「太陽」に掲載された大塚楠緒子の厭戦詩です。一応、全文を載せておきましょう。

「ひとあし踏みて夫(つま)思ひ ふたあし国を思へども 三足ふたたび夫おもふ 女心に咎ありや  朝日に匂ふ日の本の  国は世界に只一つ  妻と呼ばれて契りてし  人も此の世に只ひとり  かくて御国と我夫と  いずれ重しとちはれなば  ただ答へずに泣かんのみ  お百度詣ああ咎(とが)ありや」

 この妻の心情については、一切の解説は却って邪魔になるでしょう。ところでこれと同じ様な状況でお百度詣をしたのが北条政子です。文治5年(1189)7月19日、頼朝は奥州平泉の藤原泰衡討伐のために出陣しました。『吾妻鏡』の同年8月10日には、「今日鎌倉に於て御台所御所中の女房数輩を以て、鶴岡百度詣で有り。これ奥州追討の御祈請なり」と記されています。静御前が八幡宮の神前で、義経を慕う歌を詠んで舞を奉納し、頼朝の怒りをかった時、政子は石橋山の戦いに際して、消息不明の頼朝を心配したことを、「石橋の戦場に出で給ふの時、独り伊豆山に残り留まり、君の存亡を知らず、日夜魂を消す」と語ったことが『吾妻鏡』に記されていますが、その時と比べれば、奥州出征は身の危険が迫る程のことはありません。しかし妻の心情として、夫の帰還を祈る心に変わりはなかったのでしょう。頼朝が鎌倉に帰着したのは10月24日ですから、留守にしていたのはほぼ100日です。政子ほどの立場では、連日鶴岡八幡宮に参拝するわけにもいきませんから、実際に百日も詣でたわけではないでしょう。近侍する女房の代参であったかもしれませんが、気持ちとしてはお百度詣だったのだと思います。『吾妻鏡』には、お百度詣の記述が他にもあり、鎌倉時代から行われていたことがわかります。建久5年(1194)3月5日には、「三嶋社千度詣での為に、女房上野の局を差し進せらる。殊なる御願なりと」記され、 仁治2年(1241)7月6日には、「北条左親衛・同武衛等、鶴岡上下宮に於て百度詣で有り。これ祖父息災延寿の御祈請と」と記されています。これは北条経時と北条時頼らが、祖父泰時の息災と長寿を祈るのが目的でした。それにしても、鎌倉時代に「百度詣で」という言葉が既にあったことに興味を持ちました。

 話は一気に江戸時代後期まで飛んで、文政年間から天保年間にかけて、肥前国平戸藩主松浦静山が隠居後に書いた随筆『甲子夜話』巻20-7には、政子のお百度詣に言及し、「今児女の百度参と称して行ふも、此頃より権輿(事の起こり、発端)するか」と記されています。お百度詣・お百度参は、江戸時代には婦女子の信仰的習俗として、広く行われていたと推察されます。
 出征している夫の無事の帰還を祈る妻の心情は、今も昔もかわることがありません。ウクライナ防衛のため、祖国に踏みとどまって戦う夫・父・親の無事を祈る妻子達は、同じ気持ち、否、もっと切羽詰まった思いでしょう。


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