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『閑吟集』現代語戯訳 3 (201番歌以下)

2025-01-01 11:01:05 | 歴史
閑吟集』現代語戯訳 3(201番歌以下)

 室町時代の小歌などの歌詞集である『閑吟集』を、私なりに現代語訳にしてみました。現代語訳はネット上にも多く、出版もされていますから、今さら古典文芸の専門家でもない私が訳す程のことはないので、今もそのまま歌の歌詞になるようにと、五音と七音を活かして訳してみました。その制約があるため、当然ながら大胆な意訳をせざるを得ず、正確な現代語訳にはなっていません。出版されている注釈書と異なることもありますが、もともとが歌ですから、人によって解釈に幅があるのはやむを得ません。高校の日本史の授業の教材研究の合間に、面白半分にやってみただけのことですから、お許し下さい。

 〇は原文、◎は私の現代語訳、◇は私のコメントです。ただ所詮は素人ですから、解釈に誤りがあるかもしれませんし、日本史の教諭が私の本職ですから、目の付け所が文芸的ではありません。 

書き足しているうちに、文字数上限の3万字を越えてしまいましたので、3つに分割しました。随時加筆訂正しています。

〇霜の白菊 移ろひやすやなう しや頼むまじの 一花心や 204
◎露霜の置く白菊は 移ろいやすいものなのね あてにならないあの人の 浮気の心花心 
◇王朝和歌では、霜の置く頃には赤紫に色変わりした白菊は、一年に二度咲くと賞翫されることもありましたが、色変わりすることが心変わりを意味すると理解されることもありました。一般に「花が移ろう」とは花が枯れることを意味していますが、白菊に限っては、色変わりすることを意味しています。ですから心変わりの比喩として、しばしば恋の歌に詠まれたわけです。この歌は、好きな男の心変わりを白菊の色変わりに擬えて嘆きつつ、開き直っていている場面です。『蜻蛉日記』では、夫藤原兼家の浮気を知った妻が、「嘆きつつひとり寝(ぬ)る夜のあくる間はいかに久しきものとかは知る」という歌に、色移りをした菊を添えて遣ったと記されています。古語の「頼む」には現在と同様に依頼するという意味がありますが、頼みに思わせるとか、あてにさせるという意味もあり、この場合は後者の意味でしょう。「花心」は、花の様に移ろいやすい浮気心のことです。なおついでのことですが、菊が枯れることを「舞う」と表現するというネット情報をよく見かけるのですが、とんでもない出鱈目です。私の手許には古歌に詠まれた自然の景物を数年ががかりで主題毎に分類整理したデータがあるのですが、菊を舞うと詠んだ歌は只の一首もありません。

〇えくぼの中へ身を投げばやと 思へど底の邪が怖い  217
◎君の笑顔に 身投げして あずけてしまえと 思うたが えくぼの淵の 底深く 邪鬼が潜むか 蛇が出るか 君の笑顔を信じていいの?
◇外面は菩薩様のように微笑んでいても、内面では夜叉のように邪悪なことを、諺では「外面似菩薩、内心如夜叉」(げめんじぼさつ、ないしんにょやしゃ)と言います。女性を蔑視するつもりは毛頭ありませんが、これは若い僧が女性を見て心が惑うことを諫めた諺です。えくぼが窪んでいることから、「底」という言葉が選ばれているのでしょうが、「邪」は淵の底に潜む「蛇」(じゃ)を連想させます。それにしても「えくぼに身投げ」という言葉は秀逸で、そのまま演歌の歌詞になりそうです。

〇春過ぎ夏闌(た)けてまた 秋暮れ冬の来たるをも 草木のみただ知らするや あら恋しの昔や 思ひ出は何につけても  220
◎春過ぎて 夏が深まり 秋暮れて 冬となりゆく移ろいを 知らせてくれるは 草木のみか 過ぎた昔の思い出は 何につけても懐かしく
◇この歌は、作者不明の謡曲『俊寬』の一節です。安元三年(1177)、僧俊寬の山荘において、いわゆる「鹿ヶ谷の陰謀」と呼ばれる平氏打倒の密談が行われたのですが、露顕するところとなり、俊寬と平康頼と藤原成経の3人が、鬼界ヶ島に流罪となりました。ところが翌年、赦免の使者が来るのですが、俊寬の名前はなく、そのまま置き去りにされ、泣く泣く生き別れとなってしまうという粗筋です。この歌は、俊寬が配所で都を懐かしむ場面です。自然の移ろいに懐旧の情を催すのは、古今を問わず日本人なら誰もが自然に共感できます。それは日本人は季節の移ろいを人生の移ろいになぞらえて理解するからです。「青春」という言葉がある様に、若い頃は春、働き盛りの頃は夏、実りの多い熟年期は秋、そして晩年は冬というわけです。古歌では、心情を自然の物になぞらえて表現することが多いのですが、それは季節の移ろいを単なる自然現象としてではなく、そこに人生を重ねて感じているからなのでしょう。鬼界ヶ島が現在のどの島に当たるかについては諸説がありますが、鹿児島県の離島と考えられていますから、季節の移ろいは、冬には雪深い京の都とは大いに異なっていたはずです。  

〇逢はで帰れば 朱雀の河原の 千鳥鳴き立つ 有明の月影 つれなやつれなやなう つれなと逢はで帰すや  222
◎君に逢えずに 空しく帰る 朱雀河原に 千鳥鳴く 恨み辛みの 有り明け月よ なぜに逢えずに 帰すのか
◇訪ねて行ったのに、なぜか会うことが出来なかった悲しみを、男が月に訴えている場面でしょう。有明月に恨み言を言いたくなるのには、わけがあります。一夜の契りの後に別れるのは「後朝(きぬぎぬ)の別れ」と称して明け方が普通なのですが、その時に月が見えるとしたら、それは有り明けの月だからです。現代語訳の「恨み辛みの有り明け月」の「有り」は「恨み辛み」と「月」に掛けられていて、「恨み辛みのある有明月」という意味です。朱雀大路は本来は平安京の中央を南北に通る大路でしたが、朱雀大路より西側の右京は早くから荒廃していました。それで千鳥が鳴くような自然環境だったようです。千鳥の中には渡りをしない留鳥の種類もありますが、一般には冬の鳥と理解されていました。ですから千鳥の声の寂しげな印象も相俟って、寂しさが増幅されるのでしょう。恋人を訪ねて行くと、河原で寂しげに鳴く千鳥の声が聞こえるというと、すぐに連想されるのは、紀貫之の歌です。「思ひかね妹がり行けば冬の夜の河風寒み千鳥鳴くなり」(拾遺和歌集)という歌なのですが、紀貫之を「下手な歌詠み」と散々に貶した正岡子規は、この歌だけは珍しく褒めています。有名な歌ですから、原歌の作詞者は、貫之の歌にヒントを得たのかもしれません。

〇世間は霰よなう 笹の葉の上の さらさらさつと 降るよなう (231)
◎世の中は 霰のようね 笹の葉に ささらささらと 降るのよね 
◇笹の葉や枯れ葉に降る霰の音は、よくよく耳を澄ませると確かに聞こえます。先入観かも知れませんがサ行の音に聞こえ、笹の葉に霰降る音は笹の音に導かれて、「さらさら」と表されています。また「降る」は同音の「経る」を掛けてかけているのですが、「さらさら」に導かれて「さっと」時の経過の早いことを表しています。要するに世の移り行くことの早さを詠んでいるのですが、短い中に、いろいろ仕掛けがあり、気が付かなければ知らないままに、さらさらさらっと経り過ぎてしまいそう。『閑吟集』の歌にはこの様な仕掛けがたくさんありますので、それを読み取ったり現代語に直すのもなかなか難しいものです。なお『閑吟集』の49番歌では、同じことを「ちろりちろり」と詠んでいます。

〇申したやなう 申したやなう 身が身であらうには 申したやなう  233
◎告白したい 話したい ねえ ほんとは告白したいのに 身の程知れば 話せない
◇胸の内に秘めている焦がれる思いを、本当は話したくて仕方がないのに、我が身の素性を自覚すればする程に、話ができる相応の相手ではないのでしょう。高貴な人に憧れた、哀しい遊女の恋かも知れません。

〇あまりの言葉のかけたさに あれ見なさいなう 空行く雲の速さよ  235
◎やっとのことで声かけたのに 思い余っていらぬこと 見上げてごらんよ 空行く雲の 流れの何と速いこと
◇いつかチャンスがあったら、告白しようと思い詰めていて、勇気を出して声かけたまではよいのですが、その後が続きません。思わず口をついて出た言葉は、頓珍漢なことばかり。それでも却って初々しい恋心が伝わってきます。心も上の空とは、このことを言うようです。かなり脱線しますが、英語教師の夏目漱石が、授業で生徒達が「I love you」を「我君を愛す」や「僕はそなたを愛しう思う」と訳したのを聞き、「日本人はそんなことは口にしない。月が綺麗ですねとでも訳しておきなさい」(「月がとっても青いなあ」と言ったという説もあり)と言ったとされています。もちろん俗説で確証はないのですが・・・・。まあ「空をご覧なさいな」と声をかけられた相手に素養と心の余裕があれば、漱石の様に気の利いた返しもできたことでしょう。

〇薄(うす)の契りや 縹(はなだ)の帯の ただ片結び  245
◎さても契りは薄かった 縹(はなだ)の帯は色あせて すぐに解(ほど)けた片結び
◇「帯で結ぶこと」は契ることの、解くことは別れることの象徴的表現ですから、これは恋人と別れてしまったことを自嘲的に詠んだ歌です。縹色は薄い藍染めの色のことで、露草の花の色と言えばわかりやすいでしょう。普通の藍染めより青色の度合いが薄く、縹色はすぐに褪せするものという共通理解がありました。片結びは解けやすい結び方で、それが縹色だというのですから、契りの浅さが増幅されているわけです。

〇神は偽りましまさじ 人やもしも空色の 縹に染めし常陸帯(ひたちおび) 契りかけたりや かまへて守り給へや ただ頼め かけまくもかけまくも 忝(かたじけ)なしやこの神の 恵も鹿島野の 草葉に置ける露の間も 惜しめただ恋の身の 命のありてこそ 同じ世を頼むしるしなれ  246
◎人はもし 空言(そらごと)の嘘を言うとても 神は偽りなさるまい 縹の色に染めぬいて 二人で誓う常陸帯 神の御前に供え掛け 守り給えと請い願う 畏れ多くも畏(かしこ)くも 鹿島の神の御恵に すがる葉末の露の間も 心に掛かる恋の仲 同じこの世にあってこそ 二人で契る甲斐もある
◇鹿島の神は『万葉集』や常陸風土記にも記された古社で、武神として信仰を集めました。それで出征する兵士が鹿島社に詣でてから旅立つことは、「鹿島立ち」と呼ばれていました。また恋愛成就の神でもあり、恋占いの風習がありました。12世紀前半の歌書『俊頼髄脳』には、女が多くの求婚者の中から一人を選ぶのに、男の名前を書いた帯を神前に供えて祈願すると、神が選んだ男の帯が裏返っているという話が記されています。また同じ頃の『奥義抄』(おうぎしょう)という歌書には、男女が帯に名前を書いて二つ折りにして供えると、神官がそれを結んで恋が成就するという風習があったことが記されています。

〇水に降る雪 白うは言はじ 消え消ゆるとも 248
◎水に降る雪すぐ消える たとえ儚く消えたとて 決して口には出しはせぬ 私の恋は白雪と 
◇「白」は、はっきりしていることを意味する「著し」(しろし)を掛けています。水の上に降る白雪は一瞬に溶けてしまい、白い色は消えてしまいますが、「消え消ゆる」と消えるを重ねることにより、いくら降ってもすぐに消えてしまうことを強調しています。恋が儚く消えたとしても、意地でも口にはださない一途な女心を詠んでいるのでしょうか。

〇人の心は知られずや 真実 心は知られずや  255
◎あの人の 心の中はわからぬものか 本当に 心はわからぬものよ 
◇「知られずや」の「や」は、疑問や反語を表す係助詞か、詠嘆を表す文末の間投助詞か、どちらであるかに因り意味は微妙に異なります。詠嘆の間投助詞ならば、「人の心というものはわからないものだなあ!」と訳せます。係り助詞の疑問ならば、「あの人の心の中がわからないものかなあ、知りたいなあ」という意味になります。反語ならば、「人の心というものは、他の人にはわからないものなのだろうか。否きっとわかるものだ」と訳せます。結局どれがよいかは、受け取る人次第でよいと思います。要するに、「相手の心は十分にわかっていたつもりだったのに、別れを告げられてしまった。そのわけを知りたいのに、人の心というものは何とわからないものだ」、ということなのでしょう。
  
〇忍ぶ身の 心に隙(ひま)はなけれども なほ知るものは涙かな なほ知るものは涙かな  259
◎忍ぶ恋する我が心 隙(すき)など見せぬと思うたが 涙は隙をかぎつけて 思わず知らず漏れてくる
◇恋の悩みは表には出すまいと心に決めていたのに、ふと涙が漏れて、不覚にも人に知られてしまったしいう場面でしょう。「なほ知るものは涙かな」とは、涙を流して泣くことを意味しているのですが、それはもともとは「世の中に憂きもつらきも告げなくにまず知るものは涙なりけり」(古今集 941)という歌に拠っています。また「なほ知るものは涙かな」については、『枕草子』の136段にも関連する逸話があり、歌を詠む程の人なら誰もが知っていることでした。「忍ぶ身の心に隙はなけれども」は、「忍ぶるに心の隙はなけれどもなほ洩るものは涙なりけり」(新古今 1037)という歌を下敷きにしています。ここまで来ると、古歌の知識が不十分な現代人は完全に脱帽です。『閑吟集』を単なる歌謡集と思ってはならないのです。

〇忍ばゞ目で締(し)めよ 言葉なかけそ 徒名(あだな)の立つに 261
◎忍ぶ恋なら眼(まなこ)で殺せ 言葉かければ浮き名立つ
◇「な・・・・そ」は「・・・・してくれるな」という禁止を表しています。短い歌なので状況を絞りきれず、いろいろな解釈がありそうです。他人に知られないように、色っぽい視線を送って、相手を恋の虜にしてしまおうというのでしょうか。あるいは人前では感づかれないように、目で合図をせよ。言葉に出せば、要らぬ噂が立つから、という解釈もできます。どちらにせよ、「目で締めよ」という表現が強烈ですので、現代語訳でも敢えて過激な言葉を選んでみました。

〇むらあやでこもひよこたま 273
◎あの人は 来ないだろうよ この夜も
◇この歌は逆さ言葉になっていますから、本来は「また今宵も来でやあらむ」なのです。逆に詠まなければ意味が通じないということは、人に聞かせるためではなく、呪文のように一人で称えたのでしょう。逆に称えることにより、歌の内容もまた逆になって、来そうもない人が来るかもしれないというのですから、しばらく訪ねて来なくなった男を待つ女の歌というわけです。『閑吟集』には他にも「きづかさやよせさにしざひもお」 (同上189番)という逆さ読みの歌もあります。これは逆さに読むと「おもひざしにさせよやさかづき」となるのですが、漢字を当てはめれば「思ひ差しに差せよや盃」となります。意味としては「思い入れ(特別な心)をもって盃に酒をついでおくれ」ということですから、酒の席で男が女に迫ったか、逆に女が男から盃を受けて、色っぽく迫った場面でしょう。

〇今結た髪が はらりと解けた いかさま心も 誰そに解けた  274
◎結ったばかりの髪解けた 何もせぬのにすぐ解けた 誰が私に恋をして 道理で私の髪解けた 
◇若い女にとって髪を結うことは、男に対する武装の様なもの。女が髪を結ったり髪を解いたりするのは、プライベイトの行為であり、人にその姿を見せるとしたら、余程に心を許す人の前だけに限られます。ですから自ずと髪が解けたというのは、誰かが思いを寄せた結果であるというのでしょう。「結」と「解」は反対語で、ここでは対になっています。「いかさま」は現代では「いんちき」とか「ぺてん」という意味に用いられています。しかし古語では「如何様」という漢字表記のまま、「どのよう」「どう見ても」という意味ですが、ここでは「如何にも」「なる程」という意味で用いられています。

〇待てども夕べの重なるは 変はる初めか おぼつかな  277
◎待っても今宵も来ないのは 心変わりの徴(しるし)かも 心もとないことばかり 
◇かつてはしばしば訪ねて来た男が、最近来ないのは、心変わりでもしたのだろうかと、女が不安を募らせているわかりやすい場面です。ふと、竹久夢二作詞の『宵待草』「待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬさうな」を連想し、夢二独特の心細そうな表情の女性を思い浮かべてしまいます。

〇あまり見たさに そと隠れ走(はし)して来た まづ放さいなう 放して物を言はさいなう そぞろいとほしうて 何とせうぞなう 282
◎あまりにあなたに会いたくて そっと隠れて走って来たの まずは放して下さいな ねえ それではものも言えないわ とにかくあなたが恋しくて 私どうにかなりそうよ ねえどうしましょ
◇男の胸に飛び込んだ女が、話もできない程に強く抱きしめられ、もがいている場面です。普通は男がこっそり通ってくるのですが、ここでは逆になっています。余程に積極的・情熱的な女性なのでしょう。忍ぶ恋など振り捨てて、心のままに行動できる女性の姿は、室町時代ならではのことと思います。江戸時代にはその様な女性像は息を潜めることとなり、それが再びよみがえるのは、与謝野晶子や平塚雷鳥まで待たなければなりません。

〇来し方より今の世までも 絶えせぬものは 恋といへる曲者(くせもの) げに恋は曲者 曲者かな 身はさらさらさら さらさらさら 更に恋こそ寝られね 295
◎神代より 今の世までも 絶えないものは 恋という名の曲者よ まことに恋は曲者なのよ 曲者よ この身はさらにさらさらに 恋に焦がれて眠られぬ
◇恋というものを「曲者」と表現しています。「曲者」は、現代では怪しげな者・不審者という意味で、「悪」の印象を伴います。しかし古語では変わり者とかしたたか者という意味で、微妙にニュアンスが異なります。この場合も、「恋をしてしまったのは私のせいではなく、恋という曲者のせいなのよ」と、手に負えない「曲者」に取り付かれた自分自身を、突き放して少々ユーモラスに、また自嘲気味に見ているわけですから、恋は怪しげな不審者ではありません。末尾の「ね」は、係助詞「こそ」を受けて打消の助動詞「ず」が已然形となったものです。「さらさら」は「更に」を導くために語調を調えているのですが、古歌には、霰や時雨が笹の葉にさらさら音を立てて降るという趣向があり、その影響があると思われます。この歌は恋を主題にした謡曲の『花月』からそのまま採られています。

〇爰(ここ)はどこ 石原嵩(いしわらとうげ)の坂の下 足痛やなう 駄賃(だちん)馬に乗たやなう 殿なう  299 
◎ここは何処(どこ) 石原峠の坂の下 私あんよが痛いのよ お馬に乗せてよ ねえあなた
◇若い二人がこれから峠道を越えようとするのですが、くたびれるので馬に乗りたいと、女が男を手こずらせるように甘えている場面です。峠の麓には客待ちの駄賃馬がいるのでしょうか。室町時代には、交通の要衝には馬借という運送業者が大勢いて、年貢米の米俵などを輸送していました。ですから交渉次第では人も乗せてくれたことでしょう。これはこれで微笑ましい場面なのですが、これと正反対の歌が『万葉集』(3317)にあり、比べてみると、なかなか面白いものです。「つぎねふ山背道(やましろじ)を他夫(ひとづま)の馬より行くに己夫(おのづま)し徒歩(かち)より行けば 見るご とに音(ね)のみし泣かゆそこ思(もふ)に心し痛したらちねの母が形見と我わが持てるまそみ鏡に蜻蛉領布(あきづひれ)負ひ並(な)め 持ちて馬買え我が背(せ)」、「馬買はば妹徒歩ならむよしゑやし石は踏むとも我は二人行かむ」という歌です。

〇花見れば袖濡れぬ 月見れば袖濡れぬ 何の心ぞ  305
◎花を眺めりゃ涙に濡れる 月見上げても涙に濡れる 涙のわけを教えてよ
◇美しいものを見ると、訳もなく涙が溢れてくるものです。でも涙の訳は、花が美しいからではなく、月が澄み切っているからでもありません。花も月も、きっかけに過ぎないという経験は、誰にでもあると思います。307番歌と並べてみると、「涙の訳は、そんなの言わなくてもわかるではありませんか。あなたのせいに決まっているでしょ」と言いたいのかもしれません。

〇泣くはわれ 涙の主はそなたぞ 307
◎泣くのは確かに私だけれど お前は私の涙の主 泣かせるお前が悪いのよ 307
◇泣いている「われ」はたぶん男でしょう。「涙の主」の解釈はなかなか難しいのですが、ここでは「涙の拠ってくるところ」と理解しました。『閑吟集』には対句が効果的に用いられる歌が多いのですが、差し詰めこの歌は、その中でも究極の対句でしょう。余分なものは極限まで削ぎ落とすという美意識は、俳諧・水墨画・能楽・枯山水・書院造りなど、室町文化の特徴の一つであり、現代日本人もその美意識を継承しています。す。 




『閑吟集』現代語戯訳 2 (101~200番歌)

2025-01-01 10:56:22 | 歴史
閑吟集』現代語戯訳 2(101~200番歌まで)

 室町時代の小歌などの歌詞集である『閑吟集』を、私なりに現代語訳にしてみました。現代語訳はネット上にも多く、出版もされていますから、今さら古典文芸の専門家でもない私が訳す程のことはないので、今もそのまま歌の歌詞になるようにと、五音と七音を活かして訳してみました。その制約があるため、当然ながら大胆な意訳をせざるを得ず、正確な現代語訳にはなっていません。出版されている注釈書と異なることもありますが、もともとが歌ですから、人によって解釈に幅があるのはやむを得ません。高校の日本史の授業の教材研究の合間に、面白半分にやってみただけのことですから、お許し下さい。

〇は原文、◎は私の現代語訳、◇は私のコメントです。ただ所詮は素人ですから、解釈に誤りがあるかもしれませんし、日本史の教諭が私の本職ですから、目の付け所が文芸的ではありません。 
書き足しているうちに、文字数上限の3万字を越えてしまいましたので、3つに分割しました。随時加筆訂正しています。

〇雨にさへ訪はれし仲の 月にさへなう 月によなう 106
◎雨の夜も 訪ねてくれた仲なのに まして月夜になぜ来ない ねえ なぜ来ない
◇かつては雨も厭わずに訪ねて来てくれたのに、月夜には来てくれないと、女が疎遠になった男を恨み辛みを言う場面で、大層わかりやすい歌です。古来、逢瀬の時間は夜と決まっていましたから、二人で共に眺める月夜は逢瀬の最高の舞台設定なのです。ですから美しい月夜なのに来てくれないと女が嘆くのはもっともなのですが、男にしてみれば、煌々と月が照る夜は、夜とはいえ仲が知られてしまう心配があるのかも知れません。

〇宇津の山辺の現(うつつ)にも 夢にも人の逢はぬもの   113番歌
◎宇津の山辺のうつつじゃないが うつつにさえも逢ってはくれぬ 私のことなどもう忘れたか 夢の中にも現れぬ
◇この歌は、『伊勢物語』第九段「東下り」にある「駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり」とほぼ同じで、『新古今和歌集』(904番歌)にも収められています。「東下り」の冒頭部には、「その男、身はようなきものに思ひなして」と記されていますが、「我が身は役に立たないものと思い込んで」という意味ですから、事情はわかりませんが、傷心を癒やすため、一時的に都を離れる旅だったのでしょう。「宇津の山辺」は静岡市の宇津ノ谷から藤枝市岡部坂下に抜ける山道です。「現」とは目が覚めている現実の状態のことですから、都に留まっている女性に逢えないのは当然のことです。当時の旅は命懸けですから、女性が共に出かけなかったのは無理もありません。ですからせめて夢の中にでも逢えないものかと、嘆いているわけです。恋しい人の夢を見たいという心は、現代人も普通に共有できますが、古歌において恋しい人の夢を見るということは、現代人とは少々事情が異なります。人が眠ると、魂が肉体から抜け出して、心惹かれる方にゆくという理解があったのです。「あこがれ」という言葉の語源ともなる「憧る」(あくがる)という言葉は、そのような強烈な心の状態を表しています。ですから夢の中にさえ逢えないことは、その女が自分のことをもう恋しいとは思ってくれていないのではないかという不安を意味しているわけです。『万葉集』には多くの夢の歌がありますが、恋に関わる歌が多く、そのような感性は古くからあったことがわかります。そしてそれは平安時代から鎌倉時代になっても継承されたわけです。まあ『伊勢物語』の東下りの話には、かきつばたや都鳥の有名な和歌が含まれていて、高校の古典の授業で学習することでしょう。ですから『閑吟集』のこの歌を見れば、東下りの場面を連想する現代人は少なくないはずです。しかし室町時代の庶民が共有していたとなると、その古典文芸の教養には、ただ驚くばかりです。


〇ただ人は情あれ 夢の夢の夢の 昨日は今日の古 今日は明日の昔  114
◎何はなくても思いやり 所詮この世は夢の夢 昨日(きのう)の今日はもうきのう 今日も明日にはもう昨日
◇「情」という言葉の意味は幅が広く、その意味は前後の文脈の中で理解されなければなりません。この歌の前後には「情」を主題とする歌が5つ並んでいて、それらを読み比べてみると、「情けをかける」の「情」ではなく、男女の「情愛」という意味に理解した方がよさそうです。過去・現世・来世の三世の中でも、思い返せば、辛かった過去は悔やまれることばかり。待ち焦がれる明るい未来は、いつになったら来るのやら、どうなるかわからぬ不安ばかり。一瞬にして過去になる現在は儚い夢のようなものだから、何はなくても情愛(愛情)だけは失わずにいたいものだ、といったところでしょうか。原歌の「古」を「昔」と訳すと、刹那に三世が移ろう面白さを表しきれませんので、一瞬首をかしげたくなるような現代語訳にしてみました。

〇情けは人のためならず よしなき人に 馴れそめて 出でし都も偲ばれぬほどになりにける 出でし都も偲ばれぬほどになりにける  118
◎情は人のためでなく 自分のためにもなるものね 縁もゆかりもない人に ついほだされて馴れそめて 遠く都を離れたが 偲ぶことさえなくなって 懐かしいとも思わない
◇「情けは人のためならず」という諺は、「誰かに情けを掛けると、巡りめぐって自分によい報いがある」という意味ですが、この場合の「情け」はその様な教訓的な意味ではなく、114番歌と同様に、男女の「情愛」のニュアンスがあると理解した方がよさそうです。現代語訳に「情に引かれて」という意味の「ほだされる」という言葉を選んだのも、「情愛」の印象があったからです。「よしなし」とは、「理由がない」とか「つまらない」という意味です。何か縁があって、「由なき人」に「情」をかけ、それが縁となって都から遠く離れた地方に移り住んだのでしょう。しかしその「情」は結局は自分にとってもよい結果となり、今さら都が懐かしいとも思わなくなった、と理解してみました。はじめは「由ある人」と思い込んで地方に下ったが、「由なき人」であったことが露顕して、「離れた都を懐かしむほどになった」という意味に理解する説もありますが、それなら原文が「偲ばるるほどに」「偲ばれぬるほどに」となっていなければなりませんから、その説は採りません。なお「情けは人のためならず」という諺は、私自身は原典では未確認ですが、鎌倉時代の仏教的説話集である『沙石集』にも見られるそうです。

〇ただ人には馴れまじものぢゃ 馴れての後に 離るるるるるるるるが 大事ぢゃるもの 119
◎人に馴染(なじ)むは考えものよ 一度馴染んでしまったらならば 離れられないらりるるるれろ いやじゃいやじゃと大騒ぎ
◇「離るる」を強調したいのでしょう。「るるるるるるるる」が何とも愉快なのですが、歌の歌詞だからこそこんなことができるのであって、『閑吟集』が歌謡の歌詞集であることがよくわかります。そう言えば「夜明けのスキャット」とかいう懐かしい歌謡曲に、「ララララララ・・・・・ルルルルル・・・・・」を延々と歌う歌詞がありました。意味のない音声をまるで楽器の音のように即興的に歌うことをスキャットと言うそうです。経験豊富な女がまだ若い女に、「安っぽく男を好きになるものではないよ」と恋の指南をしている場面なら、こんな会話もあったことでしょう。

〇何となる 身の果てやらん 塩(潮)に寄り候 片し貝 123
◎何とまあ ついには果てる我が身かも 鳴海の潮の寄る浜の 片割れかなしき片し貝
◇渚に打ち寄せられた片方だけの貝殻を見て、成ることのない片思いの行く末を予感し、自虐的に詠んだ場面でしょう。「なる身」は「鳴海」を掛けているのですが、鳴海は濃尾平野の東端にあった干潟のことで、干潟の千鳥で知られた歌枕です。鳴海は干満の潮の流れが速いことでも知られていましたから、渚には貝殻が沢山打ち寄せられていたのでしょう。片割れの貝殻が片思いを表すことは、平安時代末期に始まった貝合の遊びと関係あると思われますが、「鮑の片思い」は『万葉集』にも見られます。ただしアワビは一見して片貝に見えますが、分類上は巻き貝です。現代語訳の下句は、「の」と「か」の音を連ねて、語調を揃えてみました。

〇舟行けば岸移る 涙川の瀬枕 雲はやければ 月運ぶ 上の空の心や 上の空かやなにともな  127
◎舟が進めば岸移り 涙の川の瀬も速い 空を仰げば雲の川 流れも速く月運ぶ 私の心は上の空 空なる心を何としょう 何ともしようもないかもね
◇恋故に心が地に着かず、上の空になっていることを詠んでいますが、実際に月夜に雲が流れる空を仰いで、溜息をついた場面なのでしょう。「舟」は「涙川」の序詞となっており、「舟行けば岸移る 涙川の瀬枕 雲はやければ 月運ぶ」の部分は、「上の空」を導くための序となっています。また「涙川」や「枕」が恋を暗示しているなど、なかな手の込んだ歌となっています。作詞者は相当に歌ことばに慣れた人だったのでしょぅ。月を舟に、流れる雲を川になぞらえることは、古歌にしばしば見られます。「瀬枕」とは、早瀬の水が水中の石などに当たって盛り上がり、枕のように見える所のことですが、「瀬に枕する」と言えば舟中に寝ることを意味しますから、夜舟での感慨かもしれません。

〇歌へやうたへ 泡沫(うたかた)の あはれ昔の恋しさを 今も遊女の舟遊び 世を渡る一節(ひとふし)を うたひていざや遊ばん 128
◎歌えようたえ うたかたの はかない昔を偲びつつ 今も遊女は舟遊び 仮の宿りの世を渡る 歌を一節歌いつつ 遊び倒してさあ囃せ
◇この歌には長い長い背景があります。西行が摂津の天王寺に詣でる途中、俄に雨となり、淀川河口の港町として栄えていた江口で宿を借りようとしたことがありました。ところが対応した遊女「玅」(たえ)は、これをことわってしまいます。その時の歌の応答が『新古今和歌集』に収められていて、古くからよく知られていました。それは次の様な歌です。「世中を厭ふまでこそ難(かた)からめ かり(仮・借り)の宿りを惜しむ君かな」、「世を厭ふ人とし聞けばかりの宿に 心留(と)むなと思ふばかりぞ」。西行の歌は、「世を厭い出家することまでは難しいかもしれませんが、宿を貸すことくらいはできそうなのに、あなたはそれさえ惜しむのですか」という意味です。それに応えた遊女の歌は、「世を厭い出家されたとうかがったものですから、世俗の我が家(遊女の家)などかえって申し訳なく、お気に留められませぬようにと思うばかりでございます」という意味です。そして室町時代の観阿弥が、この逸話を素材にして謡曲を創作し、それを息子の世阿弥が「江口」という謡曲に改作しました。ある旅の僧が、西行と同じく天王寺に参詣途中、江口で西行の故事を思ってその歌を口ずさむと、それを聞いたある女が、遊女(江口の君)が断った真意を説きます。それで僧がその女の素性を問うと、当の遊女の幽霊であると言って見えなくなってしまいました。それで僧が夜に遊女を弔っていると、遊女と二人の侍女の霊が船に乗って現れ、かつての華やかな舟遊びの様子を見せます。『閑吟集』に載せられたこの歌は、この場面の歌なのです。そして遊女は罪業の深い実でありながらも、執着を離れれば悟りを得ると説いて、普賢菩薩の姿に変身し、舟は普賢菩薩の乗り物とされている白い象に変化して、白雲にうち乗って西の空に消えていってしまったという粗筋です。現在、大阪市東淀川区南江口には、「江口の君堂」とも呼ばれる寂光寺があり、この逸話の故地とされています。
 謡曲「江口」の中では悟りに至ることの前提となっていますが、そこから切り取られてしまえば、宴会の席では享楽的な歌として遊女達が歌い、客の男達が囃し立てたことでしょう。それは自然なことですが、当時の庶民の中に、謡曲の内容まで知っていた者がいることに驚きます。演歌歌手八代亜紀に「泡沫」(うたかた)という歌があります。「歌えや歌え うたかたの 夢幻や この世はざれごと 歌えば この世は中々よ・・・・」という歌詞なのですが、作詞者の野村 万之丞(まんのじょう)は和泉流の能楽師ですから、「江口」のこの歌を本歌として作詞したことは明白です。『閑吟集』は言わば現代のカラオケ歌詞集のような側面があったと言ってもよいと思っています。
 冒頭部は「う」の頭韻が効いていますから、それを活かさざるを得ませんでした。

〇人買舟は沖を漕ぐ とても売らるる身を ただ静かに漕げよ船頭殿 131
◎私を買った人買舟は 波にもまれて沖を漕ぐ どうせ売られてしまう身なのよ せめて静かに漕いどくれ ねえ 船頭さん
◇貧民が借金を返せず、子女を手放すことによる人身売買は、古から現代に到るまで、世界中で行われてきています。律令時代には奴婢が売買されたことは、高校の日本史の授業でも学習します。『吾妻鏡』の延応元年(1239年)五月一日の条には、妻子や所従(下人)、果ては自分自身を売ることを禁止することが記されています。禁令が出されたということは、裏を返せば中世には普通に行われていたということなのでしょう。室町時代に流行した能楽の脚本である謡曲には、子供の身売りを主題とした「自然居士」 (じねんこじ)「隅田川」「桜川」などがあります。よく知られているところでは、「安寿と厨子王」の原話も室町時代に成立していました。買われた若い女性の中には、遊女のような職業に就かざるを得なかった者も少なくないはずです。宴席でこの歌を歌った女性自身の哀しい体験談かもしれません。「静に」という言葉には、運命とあきらめ、それを黙って受け容れざるを得ない寂しさが表れています。

〇沖の鴎は 梶とる舟よ 足を櫓にして  134
◎沖の鴎は 梶とる小舟 足を櫓にして 波越えて
◇あまりにも短くて、現代語訳に直しきれず、原歌とほとんど変わらなくなってしまいました。それでも都々逸と同じ七七七五の音数律にして、軽快さを際立たせてみました。「梶」も「櫓」も舟を漕ぐのに欠かせない道具で、水に浮かぶ鴎を小舟に見立てているわけです。海辺や舟の歌が続いているのですが、港は威勢のよい男達の仕事場であり、このような歌が好んで詠まれたのでしょう。・

〇また湊へ舟が入(い)るやらう 唐櫓(からろ)の音が ころりからりと 137
◎またも港へ舟が来る 唐艪の音をころがして からりころりと舟が来る 
◇入津する舟の艪を漕ぐ音を、舟の男達を相手にする女達が聞きつけた場面でしょうか。唐櫓とは「中国風の櫓」と言うことなのでしょうが、具体的にどの様な櫓であるかはわかりませんでした。「からろ」の訓に合わせて「ころりからり」の句が選ばれているのは明らかです。このように音を大切にしている歌が多いのですが、それはもともと声に出して歌うものであったからで、決して文字で読む文芸ではありませんでした。現在では短歌などの伝統的文芸は、すっかり文字を目で追う文芸になってしまったのが残念です。

〇今憂きに 思ひくらべて古の せめては秋の暮もがな 恋しの昔や たちも返らぬ老いの波 いただく 雪の真白髪(ましらが)の 長き命ぞ恨みなる 長き命ぞ恨みなる   140
◎今の辛さを古と 思い比べてみるならば せめては秋の暮れ頃の 恋しい昔にもどりたい 寄せるばかりの老いの波 再び返すこともなく 頭に雪を積む程の 長い齢(よわい)が恨めしい 長い齢が恨めしい 
◇人生はよく四季に喩えられます。ただしこれは四季の区別が明瞭な日本だからこその比喩で、諸外国ではどうなのか。興味のあるところです。作者はかなりの高齢なのでしょう。春や夏とまでは望まないが、せめて秋の暮れ頃に返す術はないものかと嘆いている場面で、「もがな」は願望を表す終助詞です。秋が暮れればあとは冬しかありませんから、現在を辛く寂しい人生の冬と感じているわけです。

〇葛の葉葛の葉 憂き人は葛の葉の 恨みながら恋しや  143
◎葛の葉よ 風に裏見せる葛の葉よ つれない人を葛の葉の 恨みはしてもうら恋し 
◇葛は「真葛原」(まくずはら)と呼ばれるほどに、原野を一面に覆い尽くします。そこに秋風が渡ると、葉の裏が表よりやや白っぽいため、葉が裏に返って、風紋のように風の渡るのがわかります。王朝和歌にはこの様子を、秋風ならぬ飽きの風が吹くと恋心が裏返り、恨んでもなお恨めしく思うという情趣で詠まれていました。「秋風の吹き裏返す葛の葉のうらみてもなほ恨めしきかな」(古今和歌集823)という歌は、それをよく表しています。要するに「葛の葉」は裏を見せることから、「恨み」を連想させたのです。また「うら寂し」「うら哀し」などの様に、「うら・・・・」を接頭語とする言葉を導くこともありました。この歌は、辛く当たる人を恨めしく思いながらも、恨みきれない微妙な女心を詠んだものでしょう。現代語訳の「うら恋し」という言葉は、もちろん「裏・恨」に引かれたものですが、もともと「心の中で恋しく思う」という意味です。

〇身は破れ笠よなう 着もせで 掛けて置かるる   149番歌
◎我が身は破れた笠なのよ ねえ 誰も着てはくれなくて 掛けたまんまで捨て置かれ
◇この歌は謎掛けになっています。我が「身」を「破れ笠」と解く。その心は、誰も「着」ることなく掛けて放置されている笠のように、誰も訪ねて来もせずに相手にされない我が身だから、というわけです。「着」が「来」を掛けているのはすぐにわかります。また「着」たり「掛け」たりする「笠」というのですから、umbrellaの傘ではなく、簑傘であることもわかります。誰も来てくれないというのですから、男の来訪を待つ女の歌というわけです。『閑吟集』には、「身は・・・・・」から始まる謎掛けの歌が他にもありますから(130・132・155番歌)、当時流行った小歌の型なのでしょう。この歌は寂しい心を慰めるように、独りで歌ったものではないと思います。それは「なう」という終助詞が、同意を求める時によく使われるからです。喩える物を替えれば、即興で無限に歌詞はできるのですから、宴席で聞いていた者達が気の利いた謎解きの心を聞いて、その場が盛り上がったかもしれません。

〇笠を召せ 笠も笠 浜田の宿(しゅく)にはやる 菅の白いとがり笠を 召せなう 召さねば お色の黒げに  150番歌
◎笠を召しませ 召しませ笠を 浜田の宿では大はやり 召しませ白いとんがり菅笠 召さねばお顔が黒くなる
◇笠を被ることを勧める歌ですから、山形県の花笠音頭のように、笠を持って踊る歌かもしれません。「浜田の宿」がどこか確定はできませんが、「宿」というのですから街道沿いの集落であり、現在の島根県浜田市の可能性があります。白っぽい菅笠を被れば、陽に焼けて肌が黒くならず、白いままで美しいというのでしょう。

〇ふてて一度言うてみう 嫌(いや)ならば 我もただそれを限りに  157
◎なるように なるから一度 言ってみよう ともかく言うだけ言ってみよう それでもいやと言うならば それですっきり諦める 
◇「ふてて」の原形である「ふつ」は、現在の「ふて腐れる」にもつながる言葉で、不満があり、相手に逆らうような反抗的態度をとることです。中途半端な付き合いがだらだらと続いたのか、煮え切らない相手に対して、これが最後になるかも知れないと腹を括って、本心を問うてみようと決意した場面でしょうか。身に覚えのある人も少なくないことでしょう。『閑吟集』が古典的和歌集と異なり、現代でも多くの人に気軽に読まれているのは、現代人も共有できる心情が詠まれているからだと思います。

〇一夜馴れたが、名残惜しさに 出でて見たれば 奧中に 舟の速さよ 霧の深さよ  165
◎一夜の逢瀬の名残惜しさに 後ろ姿を見にでれば 沖へ漕ぎゆく舟の速さよ あれ 怨めしい朝霧よ
◇港の女が、早朝、一晩馴れ親しんだ男と別れた後、それでも名残惜しさに後ろ影だけでもと思って、舟に乗って帰る姿を遠くから見送る場面でしょう。舟の別れは、普通ならばいつまでも互いに視認できますが、秋の海霧が立ちこめているのでしょう。すぐに見えなくなってしまいました。こんな時の舟は、舟足が早く感じられるものです。167番歌には「後ろ影を見んとすれば 霧がなう朝霧が」という、同じ様な場面があります。また現代の歌謡曲にも霧中の別れの歌はいくつもありますから、古今を問わず、霧は別れを演出するのにうってつけのアイテムのようです。現代ならば霧笛が聞こえるというだけで歌になるのでしょうが・・・・。

〇めぐる外山に鳴く鹿は 逢うた別れか 逢はぬ怨みか 170
◎めぐる里山 小夜鳴く鹿は 逢えて別れを惜しむのか 逢えずにひとり怨むのか
◇鹿の鳴き声はまるで悲鳴のようで、遠くまでよく聞こえます。特に独り寝の床に聞こえる声は、その哀愁を帯びた声の印象も相俟って、妻問いの声と理解されていました。動物の鳴き声を人の言葉に置き換えて理解することを聞きなしというのですが、古歌では鹿の鳴き声は「甲斐よ」(かいよ)と詠まれることがあります。「秋の野に妻なき鹿の年を経てなぞわが恋のかひよとぞ鳴く」(古今集 1034)という歌は、妻のない鹿が、長い間恋い慕ってもその甲斐がないと嘆いて鳴いていると理解しているのです。私も何度も聞いたことがありますが、「カイヨー」と聞こうと思えば聞けないことはありませんでした。もともと聞きなしとは、聞きたいように聞こえるものなのでしょう。この歌は男の来訪を待っている女の歌で、別れを惜しむ鳴き声には羨み、逢えない悲しみの声には共感している場面と理解するのが自然です。

〇逢夜(おうよ)は人の手枕 来ぬ夜は己(おの)が袖枕 枕あまりに床(とこ)広し 寄れ枕 此方(こち)寄れ枕よ 枕さへ疎(うと)むか 171
◎逢う夜はあなたの腕枕 来ぬ夜は己(おのれ)の袖枕 一人寝の床(とこ)広過ぎて 枕に此方(こちら)と誘っても 枕も私を袖にする
◇共寝をする歓びを経験すればする程、独り寝の夜は寂しく、床の幅が広さがその寂しさを増幅します。その寂しさを枕に当たって紛らわしている場面でしょう。「枕も私を袖にする」という訳は、「袖枕」に引かれたものですが、原歌は寂しいながらもどこかユーモラスなので、現代語訳にもその雰囲気を活かしてみたわけです。「手枕」と「袖枕」の対比が効果的です。

〇人を松虫 枕にすだけど 寂しさのまさる 秋の夜すがら 176
◎夜もすがら 来ぬ人を待つ枕辺に 人待つ虫の 声の寂しさ 
◇通ってこない男を待つ女が、松虫の声に寂しさを募らせている場面です。古歌では「鳴く」は「泣く」を掛けることが多く、実際に鳴いているのは虫であっても、人が泣いていると理解されました。古の松虫は現在のスズムシ、鈴虫は現在のマツムシであるという有力な説があります。その当否についてはここでは深入りせず、説の紹介に止めておきましょう。それはともかくとして、王朝和歌では「松」と「待つ」を掛けて、「人待つ虫」と詠まれるのが常套で、秋の夜長にね来るべき人の来ない寂しさや、人恋しい情趣が詠まれましたが、ここでもそのまま継承されています。現在ではスズムシやマツムシの声はすっかり珍しいものになってしまいましたが、外来種のアオマツムシなら、草むらではなく、樹上でうるさい程に鳴いています。しかし来ぬ人を待つ寂しさを感じさせる情趣はなさそうです。「すだく」は漢字では「集く」と表記し、本来は群がり集まることを意味しているのですが、そこから派生して虫が鳴くことをも表す様になりました。

〇咎(とが)もない尺八を 枕にかたりと投げ当てても 寂しやひとり寝  177
◎罪科(つみとが)のない尺八を 枕に打ち付け八つ当たり それでも気分は晴れなくて やっぱり独り寝寂しいわ
◇独り寝の寂しさを尺八に八つ当たりしている場面です。「咎もない」とわざわざ言うのですから、八つ当たりであることは本人も十分わかっています。それでもそうせざるを得ない程に寂しいということなのでしょう。次の178番歌にも枕に八つ当たりする歌がありますが、枕を訪ねて来ない男になぞらえていますから、男専用の枕があったようです。また「かたりと投げ当て」というのですから、枕は硬い木枕だったかもしれません。尺八を置いてあるというのですから、男はしばしば通ってきていたと思われます。ただ当時の尺八が現在の尺八と同じであったかどうかはわかりません。一般には尺八は16世紀末に、一節切(ひとよぎり)と呼ばれた竹の笛から生まれたことになっています。しかし一節切は竹の管の中間部を用いるため、長さは1尺少々しかなく、1尺8寸もありません。『閑吟集』が成立したのは1518年ということですから、時期が合わないのですが、その辺りのことになると、もう私の手には負えませんので御容赦下さい。

〇一夜来ねばとて 咎(とが)もなき枕を 縦投な投げに 横な投げに なよな枕よ なよ枕  178
◎たった一晩来ないといって  あっちこっちに放り投げ  罪ない枕に八つ当たり  ちょいと枕よ おい枕
◇場面の情景については説明は不要であり、何とも言えないユーモアが魅力です。ただし当時の枕は木製の箱枕であった可能性が高く、179番歌にもたぶん「木枕」が詠まれていますから、そんなに乱暴に放り投げたら壊れてしまいかねず、当たれば怪我もしそうです。枕に八つ当たりしたわけは、もちろん来るはずの男専用の枕がすぐ隣にあったからなのでしょうが、他にもわけがありそうです。それは181番歌にもあるように、枕は恋の行方を知っているものという理解があったからだと思います。

〇恋の行方を知るといへば 枕に問ふもつれなかりけり 181
◎恋の行方を知るという 枕に尋ねてみたけれど 枕は素知らぬふりをする
◇この歌を含めて、枕と恋を詠んだ歌が約十首も並んでいます。ここでは枕が恋の行方を知っているというのですが、そのような理解は早くも『古今和歌集』に詠まれています。「わが恋を人知るらめや敷玅の枕のみこそ知らば知るらめ」(504)という歌で、人は私の恋を知らなくても、枕こそは知っているという意味です。『閑吟集』の180番歌にも「来る来る来るとは 枕こそ知れ」という歌がありますから、枕と恋の関わりが古来受け継がれていることがわかります。「つれない」という言葉は現代では「冷淡な」という意味に理解されていますが、古語の「つれなし」は「何か尋ねても反応がない」という意味で、微妙にニュアンスが異なりますので、現代語訳でもそれを意識して訳してみました。

〇衣々(きぬぎぬ)の砧(きぬた)の音が 枕にほろほろ ほろほろと 別れを慕ふは 涙よなう 涙よなう  182
◎一夜限りの 衣々の 別れも迫る しののめの 砧の音が 枕辺に ほろほろほろろと 聞こえれば 堰きもあえない 我が涙 こぼれて濡らす 袖枕
◇砧とは、板の上で衣を槌で叩いて皺を伸ばしたり柔軟にしたり、また艶を出すための道具のことです。衣を砧で打つことは、特定の季節に限られる家事ではないのですが、古歌では、秋の長夜に、妻が不在の夫を案じたり、女が男の来訪を待ちながら打つという設定がかなりありますから、砧の音は恋に関わる歌ことばになるわけです。後朝(きぬぎぬ・衣々)の別れが近い時間にその音が聞こえると、次の逢瀬が不安になるというのでしょう。砧を打つ音を「ほろほろ」と聞いていますが、もちろんこれは涙を導くためです。「きぬ」の音の頭韻を、現代語には訳せないのが残念です。歌の末尾が「・・・・なう」という余情のある表現は、『閑吟集』にしばしば見られます。

〇君いかなれば旅枕 夜寒の衣うつつとも 夢ともせめてなど 思ひ知らずや怨めし  183
◎あなたは旅の草枕 私はひとり砧打ち あなたの衣を調える 現(うつつ)までとは思わぬが、せめても夢の中くらい 思いを馳せてくれないの 秋の夜寒が怨めしい 
◇砧で衣を打つ歌が続きます。この歌は世阿弥作の謡曲「きぬた」の一節です。筑前にある夫婦が住んでいたのですが、夫は訴訟のために都に上り、そのまま3年間も妻の元に帰りません。夫は侍女に年末には帰郷すると言い含めて帰らせると、妻は一人暮らしの悲しさや生活の苦しさを訴えます。そこへどこからともなく、砧を打つ音が聞こえてきました。異国にいる夫を思いつつ妻が砧を打ったという中国の故事を聞き、妻も砧を打っては舞うのですが、そこへ年末にも帰れないとの知らせが届き、妻は夫の心変わりを嘆いて病となり、遂には死んでしまいます。その後帰郷した夫が妻を弔うと、妻の亡霊が現れ、『閑吟集』のこの歌を以て夫に詰め寄ってさめざめと泣きます。しかし夫が合掌すると、法華経の功徳により妻は成仏した、という粗筋です。 「衣うつつとも」の部分では、「うつ」が「打つ」と「現(うつつ)」をかけているのはすぐにわかります。法華経が誦経されるのは、法華経巻五は女人成仏を説いていると理解されていたからでしょう。

〇千里の道も 遠からず 逢はねば咫尺(しせき)も千里よなう  185
◎逢えるなら 千里の道も なんのその 逢えぬなら 近くにいても 遠いもの
◇これはもう下手な解説は不要でしょう。若い時には、誰もが似たような経験があったはず。年を重ねて振り返ってみると、少々気恥ずかしいものです。『枕草子』に「遠くて近きもの、極楽、舟の道、男女の仲」と記されていますが、男女の仲は遠いようでも近く、近いようでも遠いものなのでしょう。「咫」も「尺」も短い長さの単位で、「咫尺千里」は、近くにいても、心が通わなければ千里の遠さに感じられることを意味する四字熟語となっています。もともとは唐の詩人李白の詩の一節「高唐咫尺如千里」まで遡るのですが、それが五山僧に広まり、更に庶民に恋愛歌謡として受け容れられる様になったものです。禅僧が好んだ詩句であるのに宗教臭が稀薄なのは、もともとが宗教的真理とは無関係に、漢詩や朱子学の知識が禅僧の教養の一つであったことに拠っています。

〇君を千里に置いて 今日も酒を飲み ひとり心をなぐさめん  186
◎いとしい君は 千里のかなた 僕は寂しく独り酒 今宵も心を慰める
◇飲めば心が慰められるかと飲んではみるものの、かえって寂しさは募るもの。まるで歌謡曲のようなと思い探してみると、石川さゆりの「独り酒」、ぴんから兄弟の「ひとり酒」、伍代夏子の「ひとり酒」など、たくさんありました。歌詞を読んでみると、置かれた状況は異なっていますが、それでもこの歌に題を付けよと言われたら、誰もがみな同じく「ひとり酒」とするでしょう。既に何回もお話しましたが、『閑吟集』は現代もなお歌謡曲の歌詞のヒントになっているのです。

〇南陽県の菊の酒 飲めば命も 生く薬 七百歳を保ちても 齢(よわい)はもとの如くなり  187
◎南陽県の菊酒は 長寿の薬と言うけれど 七百歳になったとて 齢は何もかわらない
◇この歌は、田楽能「菊水」の一節そのままだそうです。平均寿命の短かった古は、誰もが長寿を請い願いました。しかしたとえ七百歳の長寿を得たとしても、老齢であることに変わりありません。「南陽県の菊酒」については、平安時代に唐文化に憧れた官僚達が、百科事典のように座右において重宝した『芸文類聚』(げいもんるいじゅう)という唐の書物の薬香草部の菊の条に、『風俗通』という書物を引用して、「南陽の酈県(なんようのりけん)に甘谷(かんこく)あり。谷水甘美なり。云ふ、其の山上大いに菊あり。水は山上より流れ、下は其の滋液(じえき)を得。谷中、三十余家あり。また井を穿(うが)たず。悉く此の水を飲む。上寿は百二三十、中寿は百余、下は七八十なり。之を大夭と名づく。菊華は身を軽くし気を益すが故なり」と記されています。菊水を飲めば長生きできるが、七八十歳は若く、百二三十歳で漸く長生きであるというのです。重陽の節句に、盃に菊の花を浮かべて菊酒を飲む風習がありましたが、それはこのような菊の理解に拠っています。また縁起のよい菊酒にあやかって、現在では「菊」の字を含む清酒の名前が、全国には数え切れない程あります。現在では菊の花は葬儀用の花という理解がありますが、かつては長寿を寿ぐ花だったのです。敬老の日の菊の花は、縁起でもないと忌避されることがあるそうなので、ついつい菊の花を応援したくなりました。

〇このほどは、人目を包む我が宿の 人目を包む我が宿の 垣穂(かきほ)の薄(すすき) 吹く風の 声をも立てず忍び音に 泣くのみなりし 身なれども 今は誰をか憚りの 有明の月の 夜ただとも 何か忍ばん時鳥(ほととぎす) 名をも隠さで 鳴く音かな 名をも隠さで鳴く音かな  194
◎これまでは 人目忍んで侘び住まい 人目忍んで侘び住まい 垣根のすすきにそよとさえ 音も立てない風のごと 忍んで泣いていたけれど 今は心の向くままに 有明月のほととぎす 誰に憚ることもなく 忍び音に鳴くこともなく 名前隠さず名乗り鳴く     
◇歌の主人公がなぜこれ迄は忍び泣いていたのか、そして今後はそうではないのか、それなりの事情がありそうですが、蓋し、夫の喪に服す期間があけたのかも知れません。それは、王朝和歌には、家の側の荻(外見はすすきと酷似)の葉にそよ風が吹くということは、男が女を訪ねてくることを表すという設定の歌が数多くあること。時鳥は死出の山から越えて来るという理解が共有されていて、死を連想させること。また卯月にはひっそりと忍び音に鳴き、五月になると公然と鳴くものとされていましたから、喪があけたので忍ぶ必要がなくなったと理解できるからです。またホトトギスは夜も鳴くことから、有り明けの月と時鳥は相性のよいものとして共に歌に詠まれてきました。時鳥が「名をも隠さで鳴く」というのは、平安時代に、時鳥は自分の名前を名乗って鳴くと理解されていたこと、つまりその鳴き声が「ホトトギス」と聞きなされていたことに拠っています。ただし末尾の「す」の音は、きぎす・うぐいす・ほととぎす・からすなどに共通する様に、鳥であることを示す末尾語の可能性もあります。

〇せめて時雨よかし ひとり板屋のさびしきに  196
◎来ぬならば せめて時雨よ 降っとくれ 独りの寂しさ紛らわす 板屋打つ音 たたく音
◇「せめて時雨くらいは」というのですから、人を待っても訪ねて来ない状況であることがわかります。「時雨は降るのに、なぜあなたは来てくれないの」という気持ちなのでしょう。時雨は晩秋から初冬にかけて降る冷たい通り雨のことで、「過ぐる」という言葉から派生しました。ですから本来の時雨は、何日も降り続くような雨ではなく、急にパラパラと断続的に降ってくるものでした。「時雨」という表記は、「時鳥」と書いて「ほととぎす」と読み、夏の訪れを感じさせるように、「時雨」と表記されたのは、時雨が冬の到来を示すものと理解されていたからです。当時の家屋の屋根は、武士階級でも板葺きでしたから、決して粗末な家とは限りません。天井がなければ、夜に急にパラパラと降ってくる時雨が、板屋根や枯れた木の葉を打つ音はよく聞こえたようで、古歌にもそのような趣向の歌がたくさん詠まれています。静寂の支配する夜は聴覚が過敏になりますから、微かな時雨の音が、寂しさを増幅させるのでしょう。「ひとり板屋の」は「独り居」(ひとりゐ)を掛けています。板屋の「い」と独り居の「ゐ」は本来は異なる音ですが、室町時代には区別がなく統合されていますから、独り居の寂しさを時雨の音で紛らわしているわけです。


『閑吟集』現代語戯訳1 (100番歌まで)

2023-09-06 08:27:00 | 歴史
『閑吟集』現代語戯訳 1(100番歌まで)


 室町時代の小歌などの歌詞集である『閑吟集』を、私なりに現代語訳にしてみました。現代語訳はネット上にも多く、出版もされていますから、今さら古典文芸の専門家でもない私が訳す程のことはないので、今もそのまま歌の歌詞になるようにと、五音と七音を活かして訳してみました。その制約があるため、当然ながら大胆な意訳をせざるを得ず、正確な現代語訳にはなっていません。出版されている注釈書と異なることもありますが、もともとが歌ですから、人によって解釈に幅があるのはやむを得ません。高校の日本史の授業の教材研究の合間に、面白半分にやってみただけのことですから、お許し下さい。
 〇は原文、◎は私の現代語訳、◇は私のコメントです。ただ所詮は素人ですから、解釈に誤りがあるかもしれませんし、日本史の教諭が私の本職ですから、目の付け所が文芸的ではありません。 



〇いくたびも摘め 生田の若菜 君も千代を積むべし  2番歌
◎いくたびも摘んであげましょ 生田の若菜 菜を摘むほどに齢(よわい)も積んで 目出度く千歳となればよい
◇新春に野辺で若菜を摘み、それを贈って相手の長寿を祈念する歌ですから、この歌は年始のめでたい席で歌われたものでしょう。若菜の葉を「摘む」ことと、「年の端(は・葉)」を「積む」ことを掛けていますが、それは若菜を摘めば摘む程、「年の端」(年齢のこと)を積んで長生きできると信じられていたからです。この様に長寿を祈念して若菜を摘む歌は、王朝和歌には枚挙に暇がありません。新春の若菜摘みや七草粥は、現在では厄除けのためと説明されていますが、文献史料で見る限りでは、室町時代以降のものです。本来はこの歌にあるように、長寿を祈念するまじないでしたから、それが室町時代にも継承されていることを確認でき、歴史学的には重要な史料です。現代語訳とはいうものの、原歌は「いくたび」と「生田」の頭韻「いくた」をそろえていますので、現代語訳でもそこは崩すわけにはいきませんでした。生田は現在の神戸市にある歌枕で、王朝和歌では若菜摘みで知られていました。韻をそろえたり同音異義語による掛詞を用いたり、内容も王朝和歌に倣ったものであることからすれば、『閑吟集』を深く読むためには、古歌の知識が不可欠であることがよくわかります。これ以後も古歌を踏まえた歌がたくさん登場しますので、納得していただけることでしょう。

〇木の芽春雨降るとても 木の芽春雨降るとても なほ消えがたきこの野辺の 雪の下なる若菜をば 今幾日(いくか)ありて摘ままし 春立つといふばかりにやみ吉野の 山も霞みて白雪の 消えし跡こそ路となれ 4番歌
◎木の芽も張るの春雨降れど 野辺の白雪まだ残る 埋もれて見えない雪間の若菜 幾日待てば摘めるのか
 春が立ったというならきっと 吉野の山にも春霞 山の白雪ようやく消えて 消えたそばから路となる 
◇この歌は伝世阿弥作の謡曲「二人静」のほぼ冒頭に近い部分から、そのまま採られています。「二人静」の粗筋は次の様なものです。吉野山の勝手神社の女(菜摘女)が、正月七日の七種の神事に必要な若菜を摘みに行くと、里の女が現れて、自分を供養してくれるように頼みます。神職にこのことを告げると、供養を頼んだ女の霊が菜摘女にのり移り、静御前の霊であると称します。そして神社に伝えられていた静の舞装束を身につけて菜摘女が舞い始めると、同じ姿の静の霊が現れ、義経と雪の吉野山で別れた悲しみを語り、再び供養を頼んで消えてしまったと言う話です。「二人静」という題は、この舞の情景から採られているわけです。
 この歌は、多くの古歌を踏まえていて、古典和歌に詳しい人なら、思い当たる歌がたくさんあることでしょう。「木の芽はる(張る)」は木の芽が膨らむという意味なのですが、春には木の芽が膨らむことから、「春」に掛かる枕詞となっていて、「木の芽はる雨」は慣用的に歌に詠まれていました。また春雨が降ると野辺の緑が色濃くなるので、「春雨は野辺のかぞいろ(両親のこと)」と詠み、春雨は野辺を育む親であるという理解が共有されていました。要するに春雨と野辺の緑は相性のよい取り合わせだったのです。「雪の下なる若菜をば 今幾日(いくか)ありて摘ままし」の部分は、「春日野の飛ぶ火の野守出でて見よ今幾日ありて若菜摘みてむ」(古今和歌集』19)が下敷きになっていることは明らかです。また雪の消えやらぬ野辺の若菜は、「雪間の若菜」と称して、白と緑の対比が美しく、雪と若菜を一緒に詠むことが、若菜摘みの歌の常套でした。「春立つといふばかりにやみ吉野の 山も霞みて」の部分は、「春立つといふばかりにやみ吉野の山も霞みて今朝は看らん」(『拾遺和歌集』1)を踏まえています。吉野は雪が早く降り、いつまでも消え残る所という理解があり、春が立つと都人は吉野山の雪はどんな様子かと、思いを馳せるものという理解も共有されていました。雪がまだらにとけてくると、山肌が見え始めるのですが、現代人にはただ単に山肌が見えるようになったということに過ぎませんが、自然を擬人的に理解していた古人にとっては、それは春や新年が山を越えてやって来る道であり、またその足跡であるという理解することがあったのです。

〇めでたやな 松の下 千代も引く千代 千代千代と  6番歌
◎めでたいことよ 千代松の下 千代を祈って 小松を引けば 千代千代千代の 後までも
◇古来、新年には長寿を記念する様々な風習が行われてきましたが、現代も続く門松はその一つです。この歌も4番歌と同じ様に、新春のめでたい席で歌われたものでしょう。平安時代には門松を立てる風習に先立って、小松引きという行事が行われていました。その年最初の子(ね)の日に、野辺に出て芽生えて間もない小松(若松)を根ごと引き抜いて持ち帰り、長寿を祈念して植えるのです。これは「子の日の小松」「小松引き」とか、単に「子の日」と呼ばれました。この歌の「千代も引く」の「引く」とは、明らかにこの小松引きに拠る言葉で、5番歌にも「小松引けば」と詠まれています。そして11世紀中頃には門松の風習が派生します。ただし松の長寿にあやかるという発想は、早くも『万葉集』(1043番歌)に見られます。そして唱歌「荒城の月」に「千代の松ヶ枝」と歌われている様に、「千代松」の理解は、現在まで継承されているわけです。門松について一般には年神を招く依り代であると説明されることがあるのですが、そのような信仰を示す古文献は皆無であり、とんでもない出鱈目です。なお「めでたやな」の「な」は詠嘆を表す終助詞です。

〇誰(た)が袖ふれし 梅が香ぞ 春に問はばや 物言う月に 逢ひたやなう  8番歌
◎どなたの袖が触れたのか 梅の移り香なお残る  昔恋しい春の夜 月に問うてはみたものの 
◇どこからともなく梅の花の香りが漂って来る春の夜、月を見ては昔を思い起こす場面のようです。微かな香りだけを記憶に残して別れてしまった恋人に、なお心惹かれている歌かもしれません。この歌は、「梅の花誰が袖ふれし匂ひとぞ春や昔の月に問はばや」(新古今 46)を本歌としています。微かな梅の花の香りを香をたきしめた衣の香に擬えたり、月を見て昔を懐かしく思い起こすのは、王朝和歌にしばしば見られる趣向です。懐旧の月の歌としては、阿倍仲麻呂が唐から帰国を前にして詠んだ「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」という歌がよく知られています。古歌には梅と月を共に詠み込んだ歌が数え切れない程あります。夜は暗いため、視覚より嗅覚が敏感となり、梅の香が際立つものなのですが、その様な美意識は、室町時代には継承されていたわけです。『閑吟集』全体に言えることですが、流行歌とはいえ、しっかりと古歌の知識に裏付けられていますから、当時の庶民の歌学的知識は、相当に豊かなものだったことがわかります。「・・・・なう」という終助詞は、中世以降に使われるようになったもので、相手に同意を求めるような余韻があり、『閑吟集』には多く用いられています。これは『閑吟集』の歌には、宴席で歌われた歌が多いということと無関係ではないでしょう。

〇只(ただ)吟ジテ臥スベシ 梅花ノ月 仏ニ成リ天ニ生マルルモ惣(すべ)テ是(これ)虚(きょ)  9番歌
◎浮き世では 月影に浮かぶ梅を愛で 床に臥しては歌を詠み 思うがままにするがよい 西の彼方の極楽に 仏と成って生まれても いったいそれが何になる
◇梅の香の漂ってくる春の月夜、床に横たわりながら独り静かに、それこそ「閑吟」する場面でしょう。漢文に直せば「只吟可臥梅花月 成仏生天惣是虚」という漢詩なのですが、これに類する詩句は五山僧の詩文にたくさんあるそうです。本来は五山の臨済宗で生死も世間の一切のものも全て空であると、「空」の境地を説いた偈(禅僧が悟境を表した韻文)なのでしょう。「天に生まれるのも仏になるのも、全て虚である。ただ梅花の月に吟ずべし」という理解は、本来は仏教的「空」の思想に基づいた自然理解であって、虚無的な享楽主義・刹那主義を説くものではありません。しかしその境地を理解できない凡人は、逆説的真理には心が及ばず、「来世のことより現世のこと」と、刹那的・享楽的に理解してしまうのです。月夜の梅は、それ程に美しい情趣なのでしょう。それにしても現代人は、昼間の梅を愛でこそすれ、月影に浮かぶ幻想的な白梅の美しさを愛でることは少ない様に思います。少々脱線しますが、羊羹で知られる和菓子の老舗である虎屋に、「夜の梅」という銘菓があります。羊羹を切ると、断面に黒っぽい餡の色を背景に、小豆の粒が白く朧に浮かんで見えるのですが、それがまるで夜の梅の花のようだというのでしょう。店の説明によれば、元禄年間以来のものというので驚いたのですが、何とも典雅な名前を付けたものと感心しました。

〇梅花(ばいか)は雨に 柳絮(りゅうじょ)は風に 世はたゞ嘘に揉まれゆく  10番歌
◎梅の花が雨にこぼれてゆくように 柳の絮(綿・わた)が空に乱れてゆくように 私の恋も嘘にまみれて消えてゆく
◇季節の移ろいが儚い様に、世の中ことは偽りに翫ばれているというのですが、「世」とはこの場合は「男女の仲」と理解した方がよさそうですから、恋の儚さを嘆いているわけです。「嘘に揉まれる」というのですから、恋に振り回される程の葛藤があったのでしょう。現代語訳では、梅の花が散ることを少々気取って「こぼれる」と表現しましたが、古歌にその様な表現があるわけではありません。柳絮とは現代人にはあまり馴染みがありませんが、柳の綿状の種子のことで、柳の仲間のポプラや湿地に生い立つ川柳(ネコヤナギ)の類によく見られます。ポプラの多い札幌では、舞い上がった柳絮が道路や公園に降り積もり、まるで初雪の様に見えます。ただし柳には雄株と雌株があり、柳絮は雌株にしか見られません。柳絮が飛び散るのは晩春から初夏にかけての頃ですから、夏の到来を感じさせる景物です。日本では歌に詠まれることは少ないのですが、柳はもともと漢人好みの樹木で、漢詩にはよく詠まれています。その影響でしょうか、五山僧の詩文からは、「花落絮飛」に類する句が夥しく見つかります。ただし春の景色として詠むのではなく、禅問答や宗教観・人生観を表す句として詠まれています。この歌の作者はその様な禅宗の知識を知っていて、それを庶民感覚で捉え、恋の歌に仕立て直したわけです。綿毛をよくよく観察すると、芥子粒ほどの種子が隠れているのですが、風に吹かれると、一斉に空に溶けるように見えなくなってしまいます。それと同じ様に、世の中のことは空虚に過ぎないというのでしょう。

〇吉野川の花筏(いかだ) 浮かれてこがれ候よの 浮かれてこがれ候よの   14番歌
◎私ゃ吉野の花筏 浮いて浮かれて流されて 漕いで焦がれているばかりなの
◇恋い焦がれても結局は流されてしまう恋を、自虐的に詠んだ歌でしょう。この歌は一種の謎解きになっています。それは原歌に「身は」を補ってみるとよくわかります。我が身を「吉野川の花筏」と解く。その心は、「筏は浮かれて漕がれ」るが、我が身は「浮かれて焦がれる」というわけです。「よの」は感動を表す間投助詞で、念を押して同意を求める場合に用いられました。現代語に直せば「・・・・だよね」といったところでしょうか。同じ様な働きを持つ「なう」と共に『閑吟集』に多く見られるのですが、それは宴席で歌われた歌であった可能性が高いことを暗示しています。吉野川は吉野山と共に桜の名所です。川面に浮いて流れる花びらは、筏になぞらえられて「花筏」と呼ばれるのですが、「筏」からの連想で、「漕がれる」に「焦がれる」が掛けられています。「浮」は「恋い焦がれて浮き浮きする」という意味にも、「さだめなき浮き世に流される」という意味にも理解できます。どちらにしても、川に浮き身を任せて恋に流されてゆくというのでしょう。

〇人は嘘(うそ)にて暮(くら)す世に なんぞよ燕子(えんし)が 実相を談じ顔なる  17番歌
◎人は皆 嘘にまみれて暮らす世に 梁(はり)の燕(つばめ)は 悟りすまして
◇この歌では、嘘と実相(仮の姿の奥にある真実の姿)が対句となっているところが眼目です。禅僧の語録や詩文には、「梁の燕、実相を談ず」「燕、真常を説く」「燕、禅を談ず」「燕子、般若を談ず」などという詩句がいくつもあり、燕が禅的真理を悟っているという理解が、禅僧に共有されていました。「世」には「世間」とも「男女の仲」という意味もありますから、真理を悟ったような顔つきが殊更に小面憎く見えるとして、梁の燕に当たっている場面でしょうか。そうであればこそ、「嘘」と「実相」の対句が活きてくるわけです。「梁の燕」と言えば、斎藤茂吉に、「のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳ねの母は死にたまふなり」とい短歌があります。彼は正岡子規の説いた「写生」をさらに昇華させて、「実相観入」(実相に観入して自然・自己一元の生を写す)を主張しました。茂吉はなぜ母の死の歌に梁の燕燕を詠み込んだのか。なぜ燕でなければならなかったのか。家の中というなら、壁にヤモリが張り付いていたでもよかったのではないか。いろいろ疑問が湧いてきます。しかし茂吉の歌の解説をいくら探しても説き明かされていません。しかし私は、確証があるわけではありませんが、精神科医でもあった茂吉はこの禅語を知っていたのではないか、母の死の場面にたまたま燕がいたというのではなく、梁の燕に何らかの宗教的意味を感じ取ったのではないかと思っています。

〇吹くや心にかかるのは 花のあたりの山颪(やまおろし) 更(ふ)くる間を惜しむや まれに逢ふ夜なるらむ このまれに逢ふ夜なるらむ  22番歌
◎風吹けば 心にかかるは山風の 花を散らして吹き下ろすこと 夜更ければ 惜しまれるのはまれにしか 逢えない夜の もう明けること 逢えない夜の明けること 
◇稀にしか訪ねて来ない男との逢瀬の夜を惜しむ心を、強い風に散らされる桜花を惜しむ心になぞらえている場面で、全体が対になって構成されています。「吹く」と「更く」が掛けられていることはすぐにわかります。深刻な内容でも、宴席でこの様な言葉遊びにしてしまえば、やんやの喝采を浴びたことでしょう。

〇散らであれかし桜花 散れかし口と花心  25番歌
◎散るを惜しむは桜の花よ 散るを待つのは浮かれる花よ
◇人は美しくも儚く散る桜の花を、咲くまでは今日か明日かと心待ちにし、咲いてからは散るのを惜しむものです。桜を詠んだ歌では、咲くのを待つより、散るのを惜しむ歌の方が圧倒的に多いのですが、このことは、儚いものに心を寄せる日本人の感性に拠っているのでしょう。一方、好意を寄せる相手の言葉は、とかく口先だけのことが多く、どこまで信じてよいのやら、本心とは限らないものです。口では甘い言葉を語っても、恋心は移ろいやすいもので、すぐに散ったり色移りする花になぞらえて、古くから「花心」と呼ばれました。桜の花が散ることは惜しまれますが、移ろいやすい心の花が散ることは、ただ恨めしさが残るだけです。そんなに簡単に散ってしまう花なら、いっそのことさっさと散ってしまえというわけです。終助詞の「かし」は、柔らかい物言いで念を押すことを表し、現代語ならば「・・・・だよね」といったところでしょう。全体が「散れ」と「散るな」の対句になっていますので、現代語訳でも「惜しむ」と「待つ」の対句にしてみました。

〇神ぞ知るらん春日野の 奈良の都に年を経て 盛りふけゆく八重桜 盛りふけゆく八重桜 散ればぞ誘ふ誘へばぞ
散るはほどなく露の身の 風を待つ間のほどばかり 憂きこと繁くなくも哉 憂きこと繁くなくも哉 28番歌
◎神しらしめす神代より 春日(はるひ)のどかな春日野の 奈良の都の八重桜 盛りも過ぎた姥桜 花散るほどに風誘い 風が誘えば散り急ぐ 露のこの身もほどもなく 同じく風を待つばかり 憂きことなくと祈るのみ
◇古来、奈良は八重桜の名所として、王朝和歌にはしばしば詠まれていました。「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」の歌はよく知られています。また『徒然草』139段には、「八重桜は、奈良の都にのみありけるを、この比ぞ、世に多く成り侍はべるなる」と記されていて、奈良ゆかりの花と理解されていました。因みにこれらのことが縁で、八重桜は奈良県・奈良市の花に選ばれています。「八重」には年を重ねるという老齢の印象もあったのでしょう。老体を奈良の八重桜の古木になぞらえて、短いであろう余生に憂きことのないようにと願う場面です。上句は「春日野に若菜摘みつつ万代(よろづよ)をいはふ心は神ぞ知るらむ」(古今和歌集357)に拠っていると思われます。

〇花ゆゑゆゑに あらはれたよなう あら卯の花や 卯の花や 30番歌
◎花にもまさるあなたのせいで 知られてしまった恋の中 ああ卯の花の卯の字のせいで 憂えがまさるなおまさる
◇世間に知られない様に隠していた恋仲が、世間に知られてしまって困惑している歌と見ました。「花ゆゑに」を「あなたが花のように美しすぎるため」と理解してみたのですが、「花を見に行って」「花がきっかけで」と解釈できないこともありません。しかしそれでは恋の色気が全く感じられないので、その説は採りません。女が自らを「花」とは言わないでしょうから、男が詠んだ歌だと思います。卯の花は唱歌「夏は来ぬ」にも詠まれているように、初夏の花です。おからを卯の花と呼ぶように、真っ白な小さな花が房状に咲きますから、初夏の新緑に映えて、初々しい美しさがあります。王朝和歌以来、垣根の植栽として好まれていたのですが、近年では生け垣に植えられることは滅多になくなってしまいました。古歌では花そのものが詠まれるだけでなく、「う」という音により、「憂え」(うれえ)を導く序詞にもなっていました。ここでも露骨に「憂え」とは詠まずに、心配事を意味する「憂え」を、上品に卯の花で表しています。それは「卯の花」と言えば、当時は誰もが「卯の花の憂え」を連想するだけの歌の知識があったから可能だったのです。現代の若い人ならば、卯の花そのものを知らない可能性が高く、中には「豆腐のおからとどんな関係があるのか?」とすら思ってしまうかもしれません。私が指導した高校生は、豆腐のおからさえ知りませんでしたから。

〇新茶の若立ち 摘みつ摘まれつ 挽(ひ)いつ振られつ それこそ若い時の 花かよなう  32番歌
◎新茶の若芽の若立ちを あなたと摘んだらつねられて 臼で挽いたら袖引かれ 篩(ふるい)振ったり振られたり 若い今だけ花が咲く
◇この歌は、若いカップルが茶摘みや製茶をしながら、戯れている場面で、「摘み」の「つ」に引かれて、「つ」の連続に心地よいリズムがあり、人だけでなく、歌そのものも活き活きしています。完了を表す助動詞では、「ぬ」と「つ」がよく似ていますが、「ぬ」が無意志的であるのに対して、「つ」は意志的動作に用いられますから、若い男女が茶摘みをしつつ、承知でじゃれ合っているのでしょう。こんなことができるのも、若いうちだけだというわけです。新茶には若い芽だけが摘まれますから、茶葉の「若立ち」と娘の「若い時」には、共通する音と意味があります。「若芽を摘む」「臼で挽く」「篩でふるう」などはいずれも製茶の過程であり、室町時代には、喫茶の風習が庶民にも普及していたことがわかる歌です。

〇かれがれの 契りの末は あだ花の 契りの末は あだ花の 面影ばかり 添ひ寝して あたり寂しき 床の上 涙の波は 音もせず 袖に流るる 川水の 逢瀬はいづくなるらん 逢瀬はいづくなるらん  34番歌
◎かたい約束したはずなのに 二人の仲は今にもかれて 実を結ばずに散る花よ 添い寝するのは面影ばかりで 独り寂しい床の上 袖しぼらせる涙の川を 渡る逢瀬はどこにある
◇この歌は、疎遠になってしまったことを嘆いて、おそらくは女が涙を流している場面でしょう。「かれがれ」は漢字で表現すれば「離れ離れ」であり、これで「かれがれ」と読みます。「かる」とは表面では「枯れる」ですが、裏では「離れる」こと、つまり関係が疎遠になることを意味しています。それは百人一首に収められた「山里は冬ぞ寂しさまさりける 人目も草もかれぬと思へば」という歌を思い出せば、納得していただけることでしょう。「末の契り」というのですから、将来を堅く約束したはずだったのに、男が訪ねて来なくなり、添い寝をしてくれるのは、以前の面影ばかりだというのです。それでもまだ「逢ふ瀬」がありそうですから、歌の中の二人は、完全に別れてしまったのではなく、何か訳あって距離が離れているのかもしれません。「袖に流るる川」という言葉がありますから、縁語の「逢ふ瀬」という言葉も活きてくるわけです。

〇おもかげばかり残して 東(あづま)の方(かた)へ下りし人の名は しらしらと言ふまじ 35番歌
◎面影だけを残しおき 逢坂山の関越えて 往ってしまったあの人の 名前は胸に秘めおいて 決して口には出しませぬ
◇この歌は、東国に下っていった男を追いかけたくても、何かの事情でそれが叶わず、都に留まらざるを得なかった女の恋慕の情を歌ったものでしょう。「東国」は現代人にとってはただ単に東の地域に過ぎませんが、古には山城国と近江国の境にある逢坂の関より東方のことでした。そして東国へ往く人との別れは逢坂の関と決まっていましたから、古の人にとって「東国」と聞けばすぐに「逢坂の関」を連想しました。また「逢」という字が用いられているため、逢坂は恋に関わる歌枕として、『万葉集』以来多くの歌が詠まれてきました。「相坂の関し正(まさ)しきものならば飽かず別るる君をとどめよ」(古今集 374番歌)という歌は、「逢坂」が東国への入口であり、別れの場所でもあったことをよく表しています。また百人一首に収められている「これやこの行くも帰るも別れつつ知るも知らぬも逢坂の関」(後撰集1089番歌)の歌も同様です。「しらしら」は「はっきりと」という意味です。

〇さて何とせうぞ 一目見し面影が 身を離れぬ  36番歌
◎さては何としたものか ちらりと見かけただけなのに 姿が心に焼き付いて 私の身から離れない 
◇女を一目惚れしてしまった男の、自分でもどうしようもないもどかしい心を詠んだのでしょうか。もちろん男女が逆になってもよいのですが。そもそも一目惚れは、その場限りの勘違であったという危険を孕んでいますから、危うい恋の始まりです。「忘れられない」というのではなく、その人の「面影」が、自分の意志とは関係なく我が身から離れてくれないという突き放した表現には、滑稽さと深刻さがあります。「焼き付く」のは普通は「脳裏」なのでしょうが、言葉の印象が堅くなるので選びませんでした。

〇柳の陰に御待ちあれ 人問はゞなう 楊枝木(ようじぎ)切るとおしあれ  42番歌
◎柳の陰で待っててね 誰を待つのと問われたら 楊子にする枝切ってると ねえ そういうことになさってね
◇男と女がこっそりと逢う約束をして、待っているのを怪しまれた時の言い訳を、女が男に教えている場面です。楊子は文字通り楊(柳)で作るのでその名がありますから、尤もらしい理由になるわけです。柳の陰というところに、何とも言えぬ色っぽさが滲んでいます。私の考えすぎかもしれませんが、柳の枝を折ることは、中国では再会を期待するまじないに用いられていました。日本でも料亭や遊郭の入口に柳が植えられることがありましたが、その名残かもしれません。「おしあれ」(おしある)は「言う」の丁寧な表現で、現在ならば「おっしゃれ」(おっしゃる)となりますから、現代語訳でも丁寧な女言葉になるように留意しました。 

〇雲とも煙(けぶり)とも 見定めもせで 上の空なる 富士の嶺にや  43番歌
◎高嶺の雲か火を噴く煙か よく見定めてごらんなさいな 思いこがれの富士の山見て あなたの心は上の空
◇言葉の数が少ないので、解釈にはいろいろな可能性がありそうです。恋い焦がれる余りに、女に心が奪われている男を、女が「富士山のように高くて、あなたには及びでない」とからかっている場面にも見えますし、高嶺の花に憧れる余りに、盲目となっている男をからかっている場面とも理解できます。またじっくりと見定めもしない一目惚れの恋を、危ういと心配しているともとれます。『閑吟集』が成立したのは永正十五年(1518)ですが、直近の富士山の噴火は永正八年(1511)とのことですから、爆発はともかく、噴煙くらいは実際に確認できていたのでしょう。因みに『閑吟集』の仮名序文には、編者は富士山の近くに住んでいたことが記されています。「上の空」は、男の心が舞い上がってしまっていることと、富士山が空高くそびえて見えることを掛けていると理解してよいのでしょう。

〇な見さいそ な見さいそ 人の推(すい)する な見さいそ  45番歌
◎見ないでね ねえ 見ないでね いろいろ噂をされるから お願いだから見ないでね 
◇「な・・・・そ」は禁止を表しています。「さい」は珍しい表現で、古語辞典に拠れば、「軽い敬意をもって相手に要求する」助動詞で、「・・・・なさい」という意味であるとのこと。「推する」は「推しはかる」という意味ですから、二人の仲が世間に知られ邪推されたくない女の歌だと思われます。何を見て欲しくないのかは人それぞれであり、詮索は無意味でしょう。

〇世間(よのなか)は ちろりに過ぐる ちろりちろり  49番歌
◎世の中は ちらりという間に ちらりと過ぎる ちらりちちらり ちらちらり
◇考えれば深刻な人の世の儚さを、「ちろり」という惚けたような言葉で表すあたりが何とも面白い歌です。ただし「世の中」には「男女の仲」という意味もありますから、そのように解釈すれば、「世の中なんて、『ちろり』という間に過ぎてしまう。男女の仲もそんなものさ」と、歌に奥行きができます。そこでこの「ちろり」が問題になるのですが、これがなかなにか難しい。狂言の小舞謡(こまいうたい)の『暁の明星』(暁)という演目に、次のような詞章があります。「暁の明星は西へちろり東へちろり ちろりちろりとするときは 扇おっ取り刀差いて 太刀の柄に手打ち掛け・・・・」。すまた長唄の『吉原雀』(明和5年)にも「暁の明星が西へちろり東へちろり ちろりちろりとする時は・・・・」という詞章があるとのことです。そうすれば「ちろり」は、光がピカッと輝く瞬間のことを意味していると理解できそうです。ですから現代語訳では、「ちろり」という音も意識しながら、「ちらりという間に」と訳してみました。また「ちろり」の音の連続が耳に心地よく、諦観をユーモアに転換させているように感じましたので、現代語訳でもその雰囲気を出せるようにと工夫してみました。まあ所詮は「戯訳」ですので、御容赦下さい。「ちろり」は日本酒を温める酒器で、それに絡めて訳す説があります。しかしそれが成り立つためには、室町時代に既にその様な酒器があったことが確認できなければなりません。ですからそれができない以上、その説は採りませんでした。

〇何ともなやなう 何ともなやなう うき世は風波の一葉(いちよう)よ  50番歌
◎何とも仕方のないことよ どうにもならないことなのよ はかない浮き世の波風に 木の葉のように遊ばれて 
◇この歌は、儚い現世を波にもまれる木の葉に喩えています。「憂き世」を「浮き世」と見て、水に浮く木の葉や浮き草を連想するのは、古来の常套表現です。「何ともなやなう」という句は、『閑吟集』にはいくつもあります(51・127・205・293番歌)。これをどの様に解釈すればよいのでしょうか。文字通り、「何でもない」、「別に大したことではない」と軽く考えることもできます。しかしこれらの歌に当たってみると、本当は何ともないわけではなく、大層辛く悲しいのに、無理して強がっていると思えるのです。そこで反語的に理解してみました。

〇たゞ何事もかごとも 夢幻や水の泡 笹の葉に置く露の間に あぢきなの世や 52番歌
◎恨み辛みも何事も 儚い夢か幻か 淀みに浮かぶ泡沫(うたかた)か 笹の葉末に置く露の 儚く消えるつゆの間の 詮無い世ながら さりながら
◇上記の50番歌と同じように、儚い現世を諦観するこころを水面の泡や葉末の露に喩えていています。水の泡と言えば、『方丈記』の冒頭部「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたかは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし」が思い浮かびます。また葉末の露と言えば、豊臣秀吉の辞世「露と落ち露と消えにし我が身かな浪速のことは夢のまた夢」を思わせます。露は日が昇れば儚く消えてしまうため、「つゆ」には「わずかなこと」「わずかな時間」という意味が派生し、それを掛詞のように用いるのも、古来の常套表現です。「かごと」は漢字では「託言」と表記され、古語辞典では「恨み言」とか「ぐち」という意味とのことです。そのような「かごと」の意味を活かすならば、「思えば、この世の出来事は全て、辛いことさえも儚い夢幻のようなものさ」という意味に理解でき、「何事も夢幻」というよりは、少し深みがあるような気がします。「あぢきなの」は、この場合は無益なことを意味する「あぢきなき」のことでしょう。現代語訳の末尾に「さりながら」と付け足したのは、『閑吟集』では現世を儚いものと諦観しつつも、どこかに享楽的な視点があるということを意識したものです。

〇燻む(くすむ)人は見られぬ 夢の夢の夢の世を 現(うつつ)顔して  54番歌
◎見ちゃあおれない 根暗な奴(やつ)は この世は夢のまた夢なのに 真面目くさった顔してさ
◇「燻む」とは、地味で冴えないという意味です。次の55番歌にも言えることですが、謹厳実直であることをひやかし、享楽的・刹那的であることをもて囃すことは、『閑吟集』を貫く一つの歌風です。現世を儚いものとする理解は、平安時代の浄土信仰以来のものですが、それを来世への希望につなぐことなく、良くも悪くも開き直って力強く生きようとするのは、室町文化の庶民性を物語っています。個人的には、人生への姿勢として共感できないこともあるのですが、ここまで開き直られると、呆れつつも感心してしまいます。

〇何せうぞ くすんで 一期(いちご)は夢よ たゞ狂へ 55番歌
◎真面目くさって何になる 所詮は儚い夢なのさ 開き直って狂うだけ
◇「くすむ」という言葉は54番歌にもありますが、色が冴えないことを意味しますから、室町時代に流行した、派手で人目を驚かせる風潮を意味する「婆娑羅」(ばさら)の対極にあります。文献上はあまり目にしない言葉なのですが、「生真面目な」という意味に理解してよいと思います。「一期」とは「一生」という意味で、生まれてから死ぬまでの間のことです。憂き世を深刻に考えず、開き直っているあたりが、神仏なき現代人の共感をよぶのでしょうか。『閑吟集』では特によく知られ、人気のある歌です。ただ何に「狂う」かによって、刹那的とも熱狂的とも解釈できます。蓋し、この歌の前後には人生の諦観を詠む歌が続きますから、婆娑羅に共鳴して、刹那的・享楽的・耽美的に狂うと理解するのが自然かと思います。

〇強(し)ひてや手折らまし 折らでやかざさましやな 弥生の永き春日も なほ飽かなくに暮らしつ 56番歌 
◎桜の枝を折りとるか 折らずに髪に挿そうかと 春も弥生の一日を 心ゆくまで楽しめた
◇春の日永一日、桜の花見に興じた最後の場面でしょうか。助動詞の「まし」は助詞の「や」を伴って、ためらいの心を表していますから、折ろうか折るまいか迷っているのでしょう。『徒然草』一三七段では、「片田舎の人・・・・酒飲み連歌して、はては大きなる枝、心なく折り取りぬ」と嘆いていますが、冠や髪に挿す程度なら風情を解する「心ある者」のすることであり、マナー違反ではありません。髪に挿すということから、「髪挿し」、更に「かんざし」という言葉が派生するわけです。・このような行為は、古には神事に行われた呪術的風習で、後には行楽や饗宴でも行われるようになりました。「永き春日」と言いますが、昼間の時間が実際に長いのは夏至の頃です。反対に「秋の夜永」という言葉もありますが、実際に永いのは冬至の頃です。これらは実際の永さをもんだいにしているのではなく、日に日に永くなることに驚きを感じるからなのでしょう。「飽かなく」は「飽きることがない程に」という意味です。末尾が完了を表す助動詞「つ」で終わっていますが、同じ完了の助動詞「ぬ」が無意志的な完了であるのに対して、「つ」は意志的な完了を表しています。ですから、たまたま桜の花を見たのではなく、わざわざ花見をしようと野山に入り、日永一日、花を愛でたということがわかります。

〇卯の花襲(うのはながさね)な な召さひそよ 月に輝き顕(あらわ)るゝ   57番歌
◎卯の花襲をお召しになるな 月に照らされ目立つから
◇この歌は、夜に逢いに来ることが露顕しないようにと、女が男に目立つ服装を注意する場面を歌ったものです。「卯の花襲な」の「な」は、語調を調えるための間投助詞のようですから、特に意味はなさそうです。「な・・・・そ」」は禁止を表し、「さい」は45番歌にもあるように、軽い敬意をもって相手に要求する時に用いられますから、「な召さひそよ」は「お召しなさいますな」という意味になります。「卯の花襲」は表が白で裏が青緑の色目で、初夏に選ばれる色の組み合わせでした。源義経の愛妾静御前が、頼朝の命により鶴岡八幡宮の神前で舞った際、義経を敬慕する歌を歌ったため、頼朝の怒りをかいました。その時妻の政子が取りなしたため、頼朝は卯の花襲の衣を褒美として与えたことが、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』に記されています。それは旧暦四月、つまり卯月のことでした。この逸話は、教養ある文化人なら知っていたでしょうから、「卯の花襲」といえば、その悲恋の物語を連想したことでしょう。また月影に卯の花の白さが際立つことは、古来、「卯の花月夜」と呼ばれて和歌に詠まれ、枚挙に暇がありません。月夜の白い花には、妖しげと言いましょうか、幻想的と言いましょうか、得も言われぬ美しさがあります。 

〇我が恋は 水に燃えたつ蛍蛍 物言はで笑止(しょうし・しょうじ)の蛍  59
◎私の恋は水辺の蛍 見ずに焦がれてお恥ずかしいわ ものも言わずに忍ぶだけ
◇この歌は謎解きになっていて、「我が恋」を「蛍」と解いています。その心は「蛍が水(水辺)に燃え立つように、私は見ずに燃えて恋い焦がれる」。更に「蛍がものを言わないように、私もものを言わずに忍ぶだけ」というわけです。忍ぶ恋を蛍に見立てるのは、王朝和歌以来の常套です。蛍が鳴かないことは、ものも言わずに忍んでいること、尻尾が光ることは、恋い焦がれていることの現れと見るわけです。「音もせで思ひ(火)に燃ゆる蛍こそ鳴く虫よりもあはれなりけれ」(後拾遺和歌集 216)、「なく声も聞こえぬもののかなしきは忍びに燃ゆる蛍なりけり」(詞花和歌集 73)など、たくさん詠まれていて、小歌といえども、古歌のこころを踏まえていることに感心させられます。「笑止」という言葉は、「困ったこと、気の毒なこと、笑うべきこと、ばかばかしい事、恥ずかしいこと」など、様々な意味に用いられます。まあ自分でそう言っているのですから、自虐的な意味で理解すればよいと思います。

〇宇治の川瀬の 水車(みずぐるま) 何とうき世を めぐるらう  64番歌
◎宇治川の 八十瀬(やそせ)にかかる水車 うき世に何を 思いめぐらす
◇この歌は、止まることなく回り続ける水車に、人の世の流転を連想することを詠んでいます。水車もめぐり、世もめぐるというので、「めぐる」が効いています。鎌倉時代末期から室町時代には灌漑用具として水車が普及するのですが、1429年に来日した朝鮮使節が、灌漑用の水車に驚き、製造法を調査して持ち帰ったことが、『朝鮮王朝実録』という書物に記されています。当時としては先端技術だったのでしょう。朝鮮では作ることが困難で、導入には失敗しています。また『徒然草』の51段には、宇治の水車について次のような話が記されています。嵯峨の亀山殿の池に大井川(大堰川)の水を引くために、土地の者に命じて水車を作らせたが、一向に回らない。そこで宇治の里人を召し出して作らせたところ、いとも易々と完成させ、思い通り回って水を汲み上げた、というのです。そして結論として、「よろづに、その道を知れる者は、やんごとなき(尊い)ものなり」というのです。鎌倉時代末期から、宇治川にはいくつも水車が掛かり、よく知られていたようです。末尾の「らう」は、現在推量の助動詞「らむ」が転じたもので、室町時代以後に用いられるようになったそうです。道理で王朝文芸では見たことがありませんでした。

〇生(な)らぬあだ花 真白に見えて 憂き中垣の夕顔や  67番歌
◎仲を隔てる中垣に 真白に浮かぶ夕顔は 実を結ばないあだ花か 
◇「中垣」とは隣家との境に設けられた垣根のことですが、この場合は男女の仲を隔てる垣根でもあります。そこに夕顔の蔓が絡んで、真っ白い浮かび上がって見えています。どこにも夜とは書かれていませんが、夕顔ですから夜の場面に違いありません。「憂き」は「浮き」を掛けていると理解することもできるでしょう。月影に浮かぶ真っ白い花には幻想的な美しさがあり、歌の作詞者は『源氏物語』の夕顔の巻を連想していたことでしょう。「あだ花」の「あだ」とは「頼りにならない」とか「無駄な」という意味ですから、「生らぬあだ花」は「実が成らない無益な花」という意味です。また「実が成る」ことは「男女の仲が成る」ことを掛けています。実際には夕顔は瓢箪の仲間ですから、実が成ります。果肉を薄く長く剥いて乾燥させると干瓢ができます。干瓢がいつまで遡るかは不明ですが、文献上では15世紀までは確認できるそうです。 

〇忍ぶ軒端に瓢箪(ひょうたん)は 植ゑてな置いてな 這(は)はせて生(な)らすな 心のつれて ひよひよら ひよひよめくに  68番歌
◎忍んで通う家の軒 瓢箪なんぞを植え置いて 蔓を這わすな生らせるな 蔓(つる)に釣られてひよろひょろ 彼方(あちら)此方(こちら)靡(なび)くから 
◇「忍んで通う女の家の瓢箪」とくれば、夕顔は瓢箪の一種ですから、当時は誰もが『源氏物語』の夕顔の巻を想起したことでしょう。また蔓を這わせることは「夜這い」を連想させ、蔓が心の向くまま気の向くままに揺れるのを、男の浮気心と理解することもできそうです。「ひよひよら ひよひよめく」という表現が何とも滑稽で、和歌では到底表現しきれない境地です。「ひよひよら」という擬音語は「ひょうたん」の音に誘われたのかもしれません。

〇待つ宵は更けゆく鐘を悲しび 逢ふ夜は別れの鳥を怨む 恋ほどの重荷あらじ あら苦しや  69番歌
◎待てば待ったで甲斐もなく 夜明けを告げる悲しみの 鐘の音ばかり響きくる
 逢えば逢ったできぬぎぬの 別れを迫る怨めしい 鶏の声聞こえくる
 思えば逢おうと逢うまいと 恋ほど切ないものはなく 恋ほど苦しいものはない 
◇この歌は、「待つ宵に更けゆく鐘の声聞けば飽(あ)かぬ別れの鳥は物かは」(新古今和歌集 1191)を本歌としています。本歌では、男の来訪を待っても来ない悲しみと、後朝(きぬぎぬ)の別れ惜しむ怨みとでは、惜しむことの方が大したことではないと詠んでいますが、この歌ではどちらも恋の「重荷」であると詠んでいます。鶏が鳴くと一夜の逢瀬も後朝の別れとなるという理解は、古く「常陸国風土記」香島郡の「童子(うない)の松原」の伝承に記されているように、早くからありました。当時の時刻の知らせ方については、恐らくは平安時代の『延喜式』に定められた方法を基本として継承されていたと考えられます。『延喜式』の「陰陽寮」には、「諸時擊皷」の方法として、子午の刻には太鼓を九つ、丑・未の刻には八つ、寅・申の刻には七つ、卯・酉の刻には六つ、辰・戌の刻には五つ、巳・亥の刻には四つ打つこと。またそれぞれの刻を四分割し、それを鐘の数で知らせると規定されています。その他には寺院の鐘が時報の役目を果たしていたこともあったようですから、いわゆる明け六つの鐘の音だけでなく、まだ暗い夜明け前の暁(あかとき)にも鐘の音は聞こえたことでしょう。

〇和御料(わごりょう)思へば 安濃津(あののつ)より来たものを 俺(おれ)振りごとは こりや何事  77番歌
◎お前のことを思うからこそ 安濃津からでも来たものを ああそれなのにどういうつもり この俺様を振るなんて
◇「和御料」(我御料・和御寮)とは親しみを込めた二人称の呼称で、男女共に用いられました。「安濃津」は伊勢国の港町で、現在の津市にあたり、東国から京の都に物資を輸送するため、京の外港として繁栄しました。鎌倉時代前期編纂され、その後改訂されつつ江戸時代まで行われた『廻船式目』(廻船についての慣習法的法令集)には、天正年間に「三津」と称して、「伊勢姉津(安濃津)・博多宇津・泉州境(堺)津」が上げられています。つまり安濃津は、室町時代後期には日本三代港に数えられていましたから、港の粋な男達がたくさんいたはずです。それでも、プライドの高い都の女には振られたのでしょうか。三津(三箇の津)についてネット情報では、堺の代わりに薩摩の坊津を上げていますが、室町時代にはその重要性は薄れ、日明貿易で栄えた堺が数えられていました。

〇何を仰るぞせはせはと 上の空とよなう こなたも覚悟申した  78番歌
◎何をおっしゃる せかせかと あなたの心は上の空よね 私も覚悟を決めたわよ
◇この歌は77番歌の返歌で、もてて当然と舞い上がっている自分本位な男に愛想が尽きた、京女の強烈なしっぺ返しです。
「せはせは」は漢字ならば「忙々」と表記しますから、落ち着きのない様子を表しています。「こなた」(此方)はややこしい言葉で、一人称にも二人称にもなるのですが、この場合は「そなた」(其方)に対応する二人称の代名詞です。一般には改まったニュアンスを含む時に用いられますから、「覚悟申した」という言葉を際立たせる効果があると思います。


〇思ひやる心は君に添ひながら 何の残りて恋しかるらん 84
◎あなたを思ふ私の心は すべて添わせて遣ったのに 何が残っているからなのか どうしてこれほど恋しいの
◇「思ひやる」と言うのですから、二人は今は遠く離れているのでしょう。「心を添える」とは、現代では「親身になって注意する」という意味ですが、古には本当に心が身体から抜け出して、相手に添わせてと共に往かせることを意味していました。ですから離別の歌にはしばしば詠まれていますので、一例を挙げておきましょう。「たらちねの親のまもりとあひ添ふる心ばかりは堰きなとどめそ」(古今集 離別 368)。『閑吟集』の291番歌には、「羨ましやわが心 夜昼君に離れぬ」という歌があるのですが、心と身体が分離するものという理解が前提となっています。心が惹かれる余りに、心が身体から抜け出してしまうという理解も古くからありました。これを「あくがる」と言うのですが、後に「憧れる」という意味に多少変化します。自分の心が既に抜け出して恋する人のもとに往ってしまったのに、まだ恋しいというのは、何か残っているからなのだろうか、という意味です。

〇思ひ出すとは忘るるか 思ひ出さずや 忘れねば 85
◎思い出すというのはね 忘れていたの言い訳よ あら 思い出すわけないじゃない だって忘れはしないから  
◇理屈っぽい歌ですが、ここまで美事に決まると、言葉の対応の面白さに感嘆するばかりです。そう言えば浜崎あゆみのHANABIという歌に、「君のこと思い出す日なんてないのは 君のこと忘れた時がないから」という一節がありました。ひょっとして作詞者は『閑吟集』を読んだのかもしれませんね。実際、『閑吟集』には恋の歌が多く、現代歌謡の歌詞のヒントになりそうな歌がたくさんあります。王朝時代の和歌集には「恋歌」の部がありますが、古語に馴れていないと読み辛いものです。その点で『閑吟集』は、現代人には古歌よりも取っつきやすく、作詞をする人ならば必読の書だと思います。

〇思ひ出さぬ間なし 忘れてまどろむ夜もなし  86
◎君のこと 思い出さない時はない 君のこと 忘れて眠る夜もない
◇「間」は、「まどろむ夜」に対応していますから、昼間のことなのであり、一日中忘れられないというのでしょう。この歌の一つ前の85番歌に続き、「思い出す」と「わすれる」が対になっていますから、もともとは唱和する形で歌われていたのかもしれません。どちらの歌も、恋しくて決して忘れないことを言いたいのですが、85番歌ではわざと理屈っぽく表しているのに対し、86番歌は素直に表していて、その対比に面白さがあります。

〇思へど思はぬ振りをして しゃっとしておりゃるこそ 底は深けれ 87
◎恋していても知らんぷり しゃきっとすればする程に あなたの心は深いのよ
◇「おりゃる」は「お入りある」が転じたもので、「いらっしゃる」「おいでになる」という意味です。本心では恋しいくせに、わざと素っ気ない態度で接し、相手の気をひいたり、反応をうかがおうとしているのか、恋心を表には微塵も見せない男の姿に、かえって惹き付けられているのでしょうか。まさに恋の駆け引きの場面です。しかし余りに度が過ぎると、次の88番歌「思へど思はぬ振りをして なう 思ひ痩せに痩せ候」のように、実際に身が細ってしまいます。痩せ我慢も程々に。

〇扇の陰で目をとろめかす 主(ぬし)ある俺(おれ)を何とかしょうか しょうかしょうかしょう 90
◎扇に隠れてうっとり見つめ 夫(つま)ある私に一目惚れ いったい私をどうするつもり どうするどうするどうする気?
◇「とろめかす」とは何とも色っぽい言葉です。「目で殺す」とか「悩殺」という表現がありますが、色っぽい目つきで相手を惹き付け、夢中にさせてしまうのでせしょう。「俺」は鎌倉時代までは少年の自称でしたが、室町時代には性別にかかわらず広く使われました。それでも女性が使うと、どすが効いているとでも言いましょうか。迫力があります。江戸時代以後は女性はあまり使わなくなりましたが、地域によっては女性の自称として残っているそうです。既婚の女性が横恋慕する男のことを詠んでいる場面なのでしょうが、「何とかしょうか」と畳みかけていますから、まんざらでもなさそうです。危うい恋の始まりは、いつもこんなものなのでしょう。

〇人の心の秋の初風 告げ顔の 軒端の荻も恨めし  93
◎あの人の 心の飽(あき)を告げるのか 秋の初風そよ吹けば 軒端の荻さえ恨めしい
◇古来、古歌の世界では、秋の初風は音もなく荻の上葉(うわば)に吹くものとされ、秋風が男を、荻が男の来訪を待つ女を表すことがありました。「さりともと思ひし人は音もせで荻の上葉に風ぞ吹くなる」(後拾遺和歌集321)、「いつしかと待ちし甲斐なく秋風にそよとばかりも荻の音せぬ」(後拾遺和歌集949)という歌は、それをよく表していて、同類の歌は大層多く伝えられています。また「秋」は「飽き」に通じるため、「心の秋」「人の秋」と称して、秋は恋の終わりを予感させるという理解も共有されていました。王朝和歌では、人の心情を直接露骨に表現せず、自然の物になぞらえて表すことが多いのですが、この歌などは、その様な情趣がそのまま継承されています。



灯籠流しの起源

2021-08-13 20:34:36 | 歴史
灯籠流
 毎年八月十五日の終戦記念日前後には、戦没者の供養のために、火を点じた手製の小さな灯籠を川に流す
灯籠流が行われることがあります。また戦没者供養に限らず、慰霊を目的に行われるので、精霊流と呼ばれることもあす。

 このような風習は、もともとはお盆の行事として江戸時代に始まったことです。『華実年浪草』(かじつとしなみぐさ)という歳時記には、宇治の万福寺で盂蘭盆会に際して、「水灯会」(すいとうえ)が行われているとが記されています。それによれば七月十六日の夜、白蓮華の造花を三六〇個も造り、それに艾(もぐさ)の芯を立て点火して宇治川に流すのですが、まるで蛍火のようで、多くの観客が押しかけたということです。また中国の伝統的年中行事を記録した『月令広義』という明代の書物に、同様の風習が記されているとも記されています。『華実年浪草』を直接確認したい方は、ネットで「国会図書館デジタルコレクション『華実年浪草」と検索し、その巻9(秋の部巻一)の第25コマ目に載っていますから、一度御覧になって下さい。万福寺は明僧隠元が開山ですから、明の風習が送火の風習と習合したものなのでしょう。

 長崎では毎年八月十五日の旧盆に、現在も精霊流という風習が行われています。長崎出身の歌手さだまさしの歌で、「精霊流し」という名前はよく知られていますが、よく灯籠流と混同されています。歌の「精霊流し」は哀愁のあるメロディーと歌詞で、どこか寂しげな印象なのですが、長崎の精霊流は爆竹が鳴り響き、耳栓を欠かせない威勢のよい祭です。新盆を迎えた故人の関係者が「精霊舟」と呼ばれる舟形を引き廻し、故人の霊を送る盂蘭盆の行事で、歌の「精霊流し」しか知らない人が初めて見ると、余りにも印象が異なるので驚くことでしょう。舟の大きさは二~三mの小さな物から、十m程度の部分を数個連結させた、まるで「デコトラ」のような派手な物まであり、魔除けのためと称して、銃声と紛う程の爆音を響かせながら市内を練り歩きます。その様子はユーチューブで見られます。

 実はこの風習にも江戸時代以来の伝統があります。十九世紀末、寛政年間に書かれた『長崎聞見録』という書物には、「藁にて船を作り、生霊(精霊)祭りたる種々のものを皆積み、この船にも小さきぼんぼりを多く掛つらねて持行き、大きなる船は一二間も有、人拾人弐拾人もかかる。また貧家の船は小さく壱人にて持たるもあり。大波戸(おおはと)といふ海浜にて火を付て推流す。その火海面にかがやきて、流れ行くさま夥しきなり。この夜はみなみな寢る人なく、暁比までかくの如くさわぎて賑々(にぎにぎ)しきなり。」と記されています。

 また明治44年の『東京年中行事』には、お盆過ぎに東京各地の寺で、水難者や日清日露戦争戦没者供養のため、川施餓鬼が行われると記されています。それは阿弥陀如来を刷った紙や、経木塔婆を川に流す風習です。また江戸時代末まで、お盆の頃牛島の弘福寺で、都鳥の形の灯籠100余をつないで、小舟で引いて川に流す流灯会が行われていたと記されています。水灯会がお盆の送り火の行われる7月16日に行われていることからもわかるように、これらの行事はみなお盆の供物を川に流す風習が変化したものと考えるのが自然でしょう。このように灯籠流しの風習は、江戸時代から行われていたのです。

 ところがネット情報や年中行事の解説書には、「灯籠流は8月15日に行われるとは限らないが、広島が発祥地とする新しい風習である。精霊流は長崎で行われるもので、精霊船を引いて歩き、最後には解体するものである」と説明されています。終戦記念日に広島で行われることがニュースなどで放映されることから、検証すらすることなく、安易に広島起源であると思い込んでいるのでしょうか。そのように説いている人は、江戸時代の文献など全く読まず、おそらくは年中行事事典の類や先行する類書を適当に摘まみ食いしているのでしょう。このように年中行事の起源を調べるには、古い文献を読むことが不可欠なのです。慣れていないと江戸時代の文献を読むのは難しいかもしれません。しかし『東京年中行事』などは年中行事研究の基本中の基本図書であり、図書館で普通に閲覧できます。それすら読んでいないようです。たぶん年中行事事典の類を参考にしているのでしょうが、多くは民俗学的視点から書かれていて、信用できません。何故なら、民俗学では伝承を重視するあまり、文献史料が考察の材料として読まれていないからなのです。伝統的年中行事の歴史的理解がどれ程捏造されたものであるか、本当に残念でなりません。悪意があるとは思いませんが、歴史の一部なのですから、歴史的根拠によって裏付けられなければならないのです。

 灯籠流はもともとはお盆の行事でした。ただし全国的には行われていなかった可能性があります。それを記述している文芸や歳時記類が少ないからです。8月15日頃に行われることが多いことには、理由があります。もともとお盆は旧暦7月15日に行われていましたが、太陽暦の採用により新暦で月遅れの8月15日に行われることが多くなっていたのですが、たまたま終戦記念日と重なったため、戦没者慰霊も祖先供養も慰霊ということで、広島の灯籠流が注目されることになりました。決して広島起源ではなく、もともとお盆の風習の一つだったのです。ただし明から渡来した水灯会で、灯籠が用いられていたかどうかはわかりません。それでも灯を点じたものを蛍火と見紛う程に川に流したのですから、似たようなものであったことは間違いありません。また長崎の精霊流しでは、江戸時代の文献では灯を点したまま海に流していますから、全く別物ではなさそうです。なぜなら、隠元は初めは長崎の中国人の寺に住職として渡来し、後に宇治に移ったのであって、長崎での風習も、明由来のものであると考えられるからです。

 本来は慰霊のためとはいいながら、最近では観光的な意味も付加されされているようです。しかし川に流してしまうということから、環境保全の視点から、流しっぱなしというわけにもゆかず、いろいろ制限されるようになっているのは、やむを得ないことなのでしょう。

日本鉄道の父モレルの墓

2021-01-12 18:46:29 | 歴史
横浜の外人墓地に、「日本鉄道の父」英国人エドモンド・モレル(1840~1870)の墓があります。来日したのは1870年(明治3)4月9日で、横浜・新橋間の鉄道敷設工事を指導するためでした。しかし健康を損ね、完成を見ることなく、20ヶ月目の71年11月5日(明治4年旧暦9月23日)に肺の病気、恐らく肺結核で亡くなってしまいました。満30歳の若さでした。そして何とその12時間後の6日に、妻のハリエット夫人も満25歳で亡くなってしまいました。死因は連日不眠不休の看病による疲労と、精神的ショックでしょう。日本政府は彼の功績を大きく評価して、7日に行われた葬儀の費用は政府が負担し、明治天皇は悔み状を添えて金1,000ポンドを下賜しています。

 話は突然それますが、この話を知って、私は聖徳太子を思い浮かべました。太子には妃が何人か居るのですが、膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)は622年に聖徳太子と同時に病となり、太子が亡くなる前日に亡くなりました。モレルとは順が逆ですが、相次いで亡くなっています。

 閑話休題、ところが一般にはモレルの妻は、大隈重信家の家政婦であったキノという女性であったという説が流布しています。実はこれはとんでもない出鱈目なのです。その出鱈目を創作したのは、小説家の南条範夫で、『驀進』という小説にその様に書いたことに因っているのです。そして困ったことにその後この捏造があたかも事実であるように、鉄道史関係の書物に紹介されたため、今ではほとんど定説となってしまっています。

 武内博著『横浜外人墓地』という書物には、夫人の死去は半年後であると、これまた事実と異なることが書かれています。ただこれは意図的な物ではなく、半日を半年と見誤ったのかもしれません。私自身何冊も本を出版していて、うっかりミスはよくあるものです。モレルの生年については、日本のほとんどの書物は1841年になっていますが、正しくは1840年です。

 墓に詣でたことがあるのですが、傍らには一本の木に紅白の花が咲く梅の木が植えられ、「連理の梅」と呼ばれていました。(この場合の理とは木目のこと)。「連理」とは唐の詩人である白居易の長恨歌の一節に、「天に在りては願わくは比翼の鳥となり、地に在りては願わくは連理の枝とならん」と詠まれたことから、夫婦の契りの堅いことの比喩とされてきました。夫婦のあまりにも劇的な最期に心動かされた人が後に植えたものなのでしょうが、それにしてももちろん当時のものではないでしょう。2代目なのかもしれません。

 新橋の旧駅舎跡は、史跡として整備されています。もし見学することがあれば、モレル夫妻の純愛に少しの時間思いを馳せていただきたいものです。ハリエット夫人の名誉のために、モレルの妻は日本人ではないことを、声を大にして言いたいものです。

 そこで夫妻を偲んで歌を詠みました。
○鉄の道 つくれる勲 今もなほ 花とかをれよ 外つ国の丘に
○後れては ある甲斐もなし 梅の花 香をだにのこせ 苔はむすとも

「後れる」とは愛するものに先だたれて、独り残されることを意味しています。遅れることではありません。

 なおモレル夫人の日本人説については、林田治男氏が「モレルの経歴に関する諸説」という論文を著し、緻密な考証によって反論の余地がないほどに誤りであることを論証していますから、詳しく知りたい方はネットでご覧下さい。大きな敬意を表しつつご紹介いたします。