うたことば歳時記

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

『新論』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2021-02-23 20:01:25 | 私の授業
新論


原文 謹んで按(あん)ずるに、神州は太陽の出づる所、元気の始まる所にして、天日(てんじつ)之(の)嗣(し)、世(よよ)宸極(しんきよく)を御(ぎよ)し、終古易(かわ)らず。固(もと)より大地の元首にして、万国の綱紀(こうき)也。誠に宜しく宇内(うだい)に照臨し、皇化の曁(およ)ぶ所、遠邇(えんじ)有ることなかるべし。而(しか)るに今、西荒(せいこう)の蛮夷、脛足(けいそく)の賤(せん)を以て四海に奔(ほん)走(そう)し、諸国を蹂(じゆう)躙(りん)し、眇視(びようし)跛履(はり)、敢へて上国(じようこく)を凌(りよう)駕(が)せんと欲す。何ぞ其(そ)れ驕(おご)れる也(や)。

 是(ここ)において諳厄利(いぎりす)、突然として来りて長崎を擾(みだ)し、浦賀に闌入(らんにゆう)し、常に洋中に往来渟泊(ていはく)す。夫(そ)れ鄂羅(ろしや)の禍心(かしん)を懐きて、百方窺伺(きし)すること、殆(ほとん)どまさに百年ならんとして、飈去(ひようきよ)電滅し、影響を見ず。諳厄利(いぎりす)は、是より先(さき)其の来(きた)ること甚だ疎(そ)なりしが、しかも忽(たちま)ち鄂羅(ろしや)と相代り、人の側(かたわら)に偪(せま)り、人の懐(ふところ)を捜(さぐ)る。亦甚(はなは)だ怪しむべからざるや。

 蝦夷の地は、世俗より之を視れば、之を得るも益なく、之を棄つるも損なきものゝ如し。然れども我棄つれば則(すなわ)ち彼取るは、必然の勢也。異日(いじつ)、虜(りよ)をして盤拠(ばんきよ)して以て巣窟(そうくつ)と為(な)し、以て松前に逼(せま)らしむれば、則ち奥羽必ず騒動せん。往来に沿岸を寇せば、則ち天下も亦騒動せん。故に我棄てゝ彼取らず、特(ひと)り以て棄地と為さば、則ちなほ未だ大害と為(な)さゞるも、虜をして之を有せしめば、則ち彼に大利ありて、我に大害あり。力を尽くして之を守らざるを得ざる所以(ゆえん)也。

現代語訳
 謹んで考えるに、神国日本は太陽の昇る所、(万物の根源となる)「気」の生ずる所であり、天照大神の子孫である天皇が代々皇位を継がれ、永久に変わることがない。もともと全世界の元首であり、全ての国々を統括するものである。実に天皇の御威光は世界中に照り輝き、その徳化の及ばない所はないであろう。ところが今、西洋の蛮国が、脛(ずね)や足に位置する賤しい国であるにもかかわらず、世界の海に乗り出して諸国を侵略し、身の程も知らず、わざわざ我が国を凌いで脅(おど)そうとしている。何と驕(おご)り高ぶったことではないか。

 ここに至って突然にイギリスが我が国に来て、長崎で騒擾を起こし、また浦賀にも侵入し、常に海上を往来しては停泊している。そもそもロシアは我が国に野心を懐き、隙を窺って百年にもなろうとしているが、旋風(つむじかぜ)の如くに来ては、稲妻の如く消え去り、暫(しばら)く音沙汰がない。しかしイギリスは、以前はたまにしか姿を見せなかったが、たちまちロシアに代わり、我が国の近く迫り来きては様子を探っている。実に怪しむべき事ではないか。

 蝦夷地は、世俗の人から見ればこれを得ても利益はなく、放棄しても損失がないようなものである。しかし我が国が放棄すれば、ロシアが取るのは必然の勢いである。いつか奴等が占拠して巣窟とし、松前(北海道の最南端地域)にでも押し寄せてくれば、必ず奥羽地方は大騒ぎとなるであろう。往き来して我が国の沿岸に侵攻でもすれば、必ず全国も大騒ぎとなるであろう。そういうわけで、我が国が蝦夷地を放棄し、ロシアも放棄して、ただの放棄地とするならば、大きな害とはならないが、奴等の所有となれば、直ちにロシアには大きな利益であり、我が国には大きな損失である。これが力を尽くして蝦夷地を守らなければならない理由なのである。

解説
 『新論(しんろん)』は、水戸藩の学者である会(あい)沢(さわ)安(やすし)(1782~1863)が、文政八年(1825)に著した政治思想書です。内容は、建国の理念である忠孝、外寇への対応、民生安定などを論じた「国体」、欧米諸国の急激な国力伸張を論じた「形勢」、欧米諸国の東洋侵略を論じた「虜情」、和・戦の方策を論じた「守禦(しゆぎよ)」、国家の安全自立策を論じた「長計」の章から成っています。  会沢安は下級の水戸藩士の子でしたが、十歳で水戸学の学者である藤田幽谷(ゆうこく)に学び、十八歳で江戸藩邸にある『大日本史』編纂所である彰考館(しようこうかん)に勤務、二六歳で藩主の子斉昭(なりあき)の侍講となりました。後には藤田東湖(幽谷の子)と共に、徳川斉昭の藩政改革を補佐します。
 『新論』執筆の動機の一つは、異国船が水戸藩領沿岸にしばしば接近したことで、文化五年(1822)から文化八年(1825)までの三年間に、十数回もありました。中でも直接の契機となったのは、文政七年(1824)五月、水戸藩領の大津浜にイギリスの捕鯨船が近付き、水や食糧を求めて十二人がボートで上陸した大津浜事件でした。この時、彼は筆談役を命じられ、「此土をも彼が属地となさんとの云の意なるべし」(『諳夷(あんい)問答』、「諳」は諳厄利亞(アングリア)の略)と報告しています。また八月にはイギリスの捕鯨船が薩摩の宝島に上陸して牛を略奪する宝島事件が起きます。そしてこれらの事件が契機となり、翌年二月には幕府が異国船打払令を発令され、その翌月の三月には『新論』が書き上げられるのです。
 彼はロシアの千島進出に危機感を抱き、ロシアの東方進出を論じた『千島異聞(いもん)』を著していたのですが、足下に「外夷」が現れて上陸したのですから、危機意識は一気に高まりました。水戸藩が尊王攘夷論の震源となったのは、海岸線が長く、しばしば列強が近接したことと無関係ではないでしょう。
 『新論』は、水戸藩主である徳川斉脩(なりのぶ)(斉昭の兄)に捧呈されましたが、公刊は許されず、著者名を隠すように命じられました。そのため著者は「無名氏」と記され、写本の形で流布しました。それでも著者が会沢安であることは暗黙の了解であり、久留米藩の真木和泉(まきいずみ)や長州藩の吉田松陰は、水戸に遊学して会沢安に学んでいます。幕末の尊攘論者で、『新論』を読んだことのない者はいなかったことでしょう。そして安政四年(1857)に出版されると、さらに広く読まれるようになり、『新論』は尊王攘夷運動の指導理論書となりました。
 ところが文久二年(1862)に『時務策』を著し、「今日に至ては、また古今時勢の変を達観せざることを得ざるものあり。・・・・外国を尽(ことごと)く敵に引受けて、其間に孤立はなり難き勢なれば、寛永の時とは形勢一変して、今時外国と通好は已(や)むことを得ざる勢なるべし」と、一転して開国を主張します。これは激化する尊王攘夷論者にとっては、許し難い変節です。しかし彼にしてみれば、開国後の諸情勢の変化に対応したのでしょう。彼の説く攘夷論の究極目的は人心の国家的統合であって、単純な攘夷そのものではありませんでした。要するに『新論』が主張していることは、列強侵攻の危機である今こそ、天皇を中心とした日本独自の国のあり方である国体を再認識して人心を統合させ、併せて富国強兵により、内憂外患が山積する政治的危機を克服する、千載一遇の機会であるということなのです。
 ここに載せた前部は序論の冒頭部で、『新論』では最もよく知られています。中部は「虜情」の章で、文化五年(1808)にイギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入した事件と、文政元年(1818)にイギリス船ブラザース号が浦賀に来航して通商を求めたことに言及しています。後部は「守禦(しゆぎよ)」の章で、蝦夷地に対するロシアの脅威について述べています。会沢安はイギリスをロシアの属国と考えていて、イギリスの背後にはロシアがいると理解していました。そのイギリスが水戸藩領に上陸したのですから、ますます蝦夷地のことが心配になったわけです。それにしても、もし蝦夷地がロシア領となっていたら、近現代史は激変していたことでしょう。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『新論』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。



『二宮翁夜話』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2021-02-10 20:44:59 | 私の授業
二宮翁夜話


原文
 翁(おう)、床(とこ)の傍(かたわら)に不動仏の像を掛(かけ)らる。山内董正(ただまさ)曰く、「卿(けい)、不動を信ずるか」。翁曰く、「予、壮年、小田原侯の命を受て、野州(やしゆう)物井(ものい)に来(きた)る。人民離散、土地荒(こう)蕪(ぶ)、如何(いかん)ともすべからず。仍(より)て功の成否に関せず、生涯此(こ)処(こ)を動かじと決定(けつじよう)す。仮令(たとい)事故出来(しゆつたい)、背に火の燃付(もえつく)が如きに立到(たちいた)るとも、決して動かじと死を以て誓ふ。
 然るに不動尊は、動かざれば尊しと訓(くん)ず。予其(その)名義と、猛火背を焚(やく)といへども、動(うごか)ざるの像形を信じ、此(この)像を掛けて、其(その)意を妻子に示す。不動仏、何等の功(こう)験(けん)あるを知らずといへども、予が今日に到るは、不動心の堅(けん)固(ご)一つにあり。仍て今日も猶(なお)此(この)像を掛て、妻子に其(その)意を示すなり。

現代語訳
 尊徳翁は、床の間の傍(かたわら)に不動明王の絵像を掛けておられた。そこで山内董正(ただまさ)(桜町陣屋に派遣された幕府の代官)が、「貴殿は不動明王を信じているのか」と尋ねた。すると尊徳翁が答えて言われるには、「私は若い頃(三六歳)、小田原侯(小田原藩主大久保忠真)より(村を再建せよとの)命を受けて、下野国桜町の物(もの)井(い)に来た。そこでは人々は村を捨てて離散し、農地は荒れ果て、手の施しようもなかった。そこで成功するか失敗するかにかかわらず、生涯ここを動くまいと決意した。たとえ難儀して背に火が燃え付くような事態となっても、決して動くまいと、命を掛けて誓ったのだ。
 ところで不動尊という言葉は、『動かざれば尊し』と訓(よ)む。その仏の名前の意味と、猛火に背を焼かれても、決して微動だにしない不動明王像の姿を信じ、この絵像を掛けて、妻子にその決意の程を示しているのだ。不動明王にどの様な霊験があるかは知らぬが、私が今日までやってこられたのは、不動心一つを堅く持っていたからに外(ほか)ならない。それで今もなおこの絵像を掛け、妻子にその決意の程を示しているのである」と。

解説
 『二宮翁夜話(にのみやおうやわ)』は、二宮尊徳(1787~1856)の門人である福住正兄(ふくずみまさえ)(1824~1892)が、尊徳の言葉を書き留めた言行録です。尊徳と七年間行動を共にした福住正兄は、その間に書き留めたことを二三三のわかりやすい話にまとめ、明治十七~二十年(1884~1887)に出版しました。
 二宮尊徳は天明七年(1787)に小田原の栢(か)山(やま)村で生まれ、幼名を金次郎といいます。五歳の時、酒匂川(さこうがわ)が氾濫し、二宮家の耕地の大半が流出。十四歳の時には父が、二年後に母が亡くなります。そしてその年に再び洪水で耕地が流出したため、十三歳と四歳の弟を親戚に託し、自分自身は親族の万兵衛に引き取られました。金次郎は十六歳の時には、親もなく耕地もなく、兄弟は離散してしまったのです。
 学問好きな金次郎は、夜に『論語』『大学』などを読んでいたのですが、万兵衛から「夜学の為に燈油を費す事、恩を知らざるもの也。汝、家もなく田圃(たんぼ)もなし。人の扶助を得て以て命を繋(つな)ぐ身の、学問して何の用を為(な)す。速(すみやか)に之を止(や)めよ」(『報徳記』巻一)と叱責されました。そこで菜種を空地(あきち)に植え、秋に収穫した種を油屋に持って行って燈油に代えてもらい、勉学を再開しました。また開墾地は三年間は年貢が課せられない、鍬下年季(くわしたねんき)の制度を活用し、二四歳となった文化七年(1810)には、一町四反余(約1.46㏊)の耕地を所有するまでに回復したのです。
 このような勤勉な尊徳の活躍に目を付けたのが、小田原藩家老服部十郎兵衛でした。尊徳は服部家の使用人となり、その財政再建を依頼されます。そして著しい成果を収めたことから、文政五年(1822)、三六歳の時、小田原藩主大久保忠真(ただざね)の分家の旗本宇津(うつ)家の領地である、下野国桜町の再興を命じられます。そして苦労の末に成果を収めると、各地の農村復興を依頼され、南は小田原藩領から北は東北の相馬中村藩領まで、その成果は約六百村に及びました。
 尊徳の農村復興手法は、合理的な根拠に基づいていました。まず農民の暮らしを徹底的に調査します。石高・家族・農具・馬の有無・備蓄食料・借金・病人の有無・便所など、民力を示すデータを正確に把握します。さらに過去の年貢高の平均値を割り出し、領主にはそれ以上の収奪をしない様に約束させます。そして収入に見合った計画的支出を「分度」と称して守らせます。農民に対しては、収穫高から平均年貢高を差し引いた余剰を、再建のための費用として還元します。ただし農民にも「分度」を要求し、余剰を浪費することを厳に戒めます。尊徳は「分度を守るを我道(わがみち)の第一とす」(『二宮翁夜話』165)と説いています。
 桜町復興を命じられた翌年の文政六年(1823)、尊徳は田畑や家財を全て処分して退路を断ち、一家をあげて桜町に赴任しました。しかし農民は余所者(よそもの)から指図されることを快く思わず、小田原から派遣された役人も、農民と共に何かにつけて妨害してきました。そして文政十一年(1828)、洪水の被害を受け、さすがの尊徳も辞職を願い出るのですが、それも認められません。思い余った尊徳は、翌年正月早々、年始の挨拶のため江戸に出向いた帰路に、突然行方不明になります。
 尊徳は絵像を掛けて信心していた、不動尊で知られる成田山新勝寺で、二一日間の断食をしていたのですが、ただならぬ雰囲気に恐れをなした宿の主人が、江戸の小田原藩邸に問い合わせ、藩邸からの情報でそれと知った農民が迎えに来たのが、満願の四月八日でした。そして簡単に粥を食べた後、すぐに桜町まで二十里を歩いて帰りました。身長六尺(約1.8m)、体重二五貫(94㎏)の大男ですが、長期の断食の直後ですから、さすがに気力だけで歩いたことでしょう。批判していた役人や農民は、いざ尊徳がいなくなると、その存在と覚悟の程を再認識しました。その後次第に村の協力体制が構築され、成果が目に見えて現れるようになったということです。この断食の逸話は、同じく門弟の尊徳言行録である『報徳記』巻一に詳しく記されています。
 ここに載せたのは、巻之二の第五十話、「不動尊の像に就(つき)ての説」です。なお桜町陣屋跡がある地域は、現在は尊徳の業績を記念し、真(も)岡(おか)市「二宮町」と称しています。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『二宮翁夜話』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。

『源氏物語』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2021-02-06 20:32:35 | 私の授業
源氏物語


原文
宵(よい)過ぐるほど、少し寝入り給へるに、御枕(まくら)上(がみ)にいとをかしげなる女居(い)て、「己(おの)がいとめでたしと見たてまつるをば尋ね思(おも)ほさで、かく殊(こと)なることなき人を率(い)ておはして、時めかし給ふこそ、いとめざましく辛(つら)けれ」とて、この御かたはらの人をかき起さむとす、と見給ふ。
 物に襲はるゝ心地して、 驚き給へれば、火も消えにけり。うたて思(おぼ)さるれば、太刀を引き抜きて、うち置き給ひて、右(う)近(こん)を起し給ふ。これも恐ろしと思ひたるさまにて参り寄れり。「渡殿(わたどの)なる宿直(とのい)人(びと)起こして、『紙(し)燭(そく)さして参れ』と言へ」とのたまへば、「いかでかまからむ。暗うて」と言へば、「あな、若々し」とうち笑ひ給ひて、手をたゝき給へば、山彦の答ふる声いとうとまし。人、え聞きつけで参らぬに、この女君いみじくわなゝき惑ひて、いかさまにせむと思へり。汗もしとゞになりて、我かの気色(けしき)なり。・・・・
 「いとうたて乱り心地の悪(あ)しう侍れば、うつぶし臥(ふ)して侍るや。御前(おんまえ)にこそわりなく思(おぼ)さるらめ」と言へば、「そよ、などかうは」とて、かい探り給ふに、息もせず。引き動かし給へど、なよ〳〵として、我にもあらぬさまなれば、「いといたく若びたる人にて、物にけどられぬるなめり」と、せむ方(かた)なき心地し給ふ。
 紙燭(しそく)持て参れり。・・・・召し寄せて見給へば、たゞこの枕(まくら)上(がみ)に、夢に見えつる容貌(かたち)したる女、面影に見えて、ふと消え失(う)せぬ。昔の物語などにこそ、かゝることは聞けと、いとめづらかにむくつけゝれど、まづこの人いかになりぬるぞと思ほす心騒ぎに、身の上も知られ給はず添ひ臥(ふ)して、「やゝ」とおどろかし給へど、たゞ冷えに冷え入りて、息は疾(と)く絶え果てにけり。言はむ方(かた)なし。

現代語訳
 (光君(ひかりのきみ)は)宵を過ぎる頃に、少しお眠りらなられたのですが、(夢の中で)枕元に大層美しい女がいるのを御覧になりました。その女は「私があなた様を、大層素晴らしいとお慕いいたしておりますのに、(その私を)訪ねようともなさらず、このように格別なこともない女を、連れ込んでかわいがっていらっしゃるとは、あまりに心外で恨めしいことでございます」と言って、すぐ横に伏せっている女(夕顔)をかき起こそうとしているように見えました。
 物の怪(け)に襲われる心地がして驚いて目が覚めると、灯(ひ)も消えています。不気味に思われるので、(魔除けの)太刀を引き抜いて側に置き、右近(うこん)(夕顔に仕える女房)を起こされると、右近も怖がっているようで、お側に参りました。「渡り廊下にいる警備の者を起こし、紙燭(しそく)(照明用松明)を点(とも)して持って来るように言いなさい」とおっしゃったのですが、右近は「暗いので、どうして参れましょうか」と言う。光君が「ああ、まるで子供のような」とお笑いになり、手を叩かれると、山彦のように応える音がとても不気味なのです。聞きつけて参る者とてありません。ここにいる女君(夕顔)はひどく震え脅(おび)えて、どうしてよいかわからない様子です。そして冷汗もびっしょりとかいて、正気を失っている様子です。・・・・
 (光君が寝所に戻って右近を引き起こすと、)右近が「どうにも気味が悪く、うつ伏しておりました。それより姫君こそ、ひどく怖がっていらっしゃることでございましょう」と言うので、光君は「そうだ。どうしたというのか」と、夕顔をお探りになると、息もしていません。揺すって御覧になるのですが、ぐったりとして気を失っている様子です。とても幼げな人ですから、物の怪(け)に憑(つ)かれたのかもしれないと思い、光君はどうしたものかと、途方に暮れるばかりでございました。
 そしてようやく紙燭を持って参りました。・・・・紙燭を受け取って夕顔を御覧になると、枕元に光宮が夢で見たのと同じ姿の女が、幻の如くに見えるや否や、ふっと消え失せてしまったのです。このようなことは昔話には聞くことはありますが、実際にあると思うと、光宮は薄気味悪く思われました。しかしそれよりも夕顔がどうなってしまったのかと不安になり、自分のことなどさて置いて寄り添われ、「おいおい」と目覚めさせようとなさるのですが、身体はますます冷たくなり、息はとっくに絶えてしまっていたのです。光宮は言葉もありません。

解説
 『源氏物語(げんじものがたり)』は、言わずと知れた紫式部(?~?)が著した、平安時代中期の長編小説です。主題は、権力争いや季節の移ろいを背景に描き出される、平安王朝貴族社会における、男女や家族関係の悲しみや喜びといったところでしょうか。成立時期については、それを推測させる記事が『紫式部日記』の寛弘五年(1008年)十一月一日にあります。『和漢朗詠集』の撰者である藤原公任(きんとう)が紫式部に、「あなかしこ、このわたりにわが紫やさぶらふ」と声をかけたというのです。「恐れ多いことですが、我が紫さんはおいでかな」とおどけて呼んだというのですから、『源氏物語』は、既に公卿達の間で評判になり、続篇を期待されていたことがわかります。
 『源氏物語』は、局部的に見るならば、単なる好色貴族の女性遍歴物語に見えます。しかし俯瞰(ふかん)するならば、光源氏を中心として、その周辺の個性的な人物らにより織りなされる、壮大な人生ドラマの集積なのです。そして七九五首もの秀歌が散りばめられていますが、『古今和歌集』が千百余首であることを考えれば、これがどれ程のものであるか理解できます。何色もの糸により模様を織りなした高級絹織物を錦と言いますが、『源氏物語』は平安王朝時代の錦の織物なのです。
 『千載和歌集』の撰者である藤原俊成は、『六百番歌合』の判詞において、「源氏見ざる歌詠みは遺恨(残念)の事なり」と語っています。また室町時代に「日本無双の才人」と称された一条兼良は、『源氏物語』の注釈書である『花鳥余情』を著し、その冒頭部で「我国の至宝は源氏物語にすぎたるはなかるべし」と賞賛しています。
 式部は藤原宣孝(のぶたか)と結婚し、娘の賢子を出産。夫没後の寛弘三年(1006)頃に、藤原道長の娘彰子に仕えます。高貴な女性に近侍する女房は、いわば家庭教育係でした。これだけの著述がありながら、当時の慣(なら)いとして本名はわかりません。「紫式部」という女房名については、「式部」は父為時が式部省の官僚であったことによること、「紫」は光源氏の理想の女性であった紫の上に由来するとされています。
 ここに載せた「夕顔」の巻は、光源氏十七歳の夏から立冬にかけての物語です。その頃光源氏は、亡くなった先の皇太子の妃であった六条(ろくじようの)御(み)息(やす)所(どころ)のもとに、こっそりと通っていたのですが、年上で気位が高く、嫉妬深い彼女に気疲れしていました。ある時、藤原惟光(これみつ)という従者の母で、光源氏の乳母でもあった女性の見舞いに行くのですが、隣家の垣根に夕顔の花が咲いていました。光源氏がその花を採らせようとしたところ、隣家の女(夕顔)が香を焚きしめ歌を書き添えた扇に、夕顔の花をのせてよこします。その洗練された対応に驚いた光源氏が興味を持ち、こっそりと通うようになりました。夕顔は三位中将の娘で、光源氏の義兄である頭中将(とうのちゆうじよう)のかつての側室だったのですが、互いに素性を明かさないまま逢瀬を続けていました。そして八月十五日、中秋の名月の夜、光源氏は夕顔とその侍女の右近を、近くの荒れ果てた館に連れて行き、そこで初めて顔を見ることになりました。ここに載せたのはその晩の場面です。月影に照らされる白い花には、幻想的な美しさがあり、世の人は夕顔の如き女性の儚さを、「佳人薄命」と言います。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『源氏物語』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。






『東海道中膝栗毛』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2021-02-02 19:44:28 | 私の授業
東海道中膝栗毛


原文
北「コレ〳〵、女中。煙草盆に火を入れて来てくんな」
弥「ヲヤ、手前(てめえ)もとんだ事をいふもんだ」 
北「なぜ〳〵」
弥「煙草盆へ火を入れたら、焦げてしまハア。煙草盆の中に ある火入れの内へ、火を入れて来いと言ふもんだ」
北「エゝ、御前(おめえ)も詞咎(ことばとがめ)をするもんだ。それじゃあ日の短い 時にゃア、煙草も喫(の)まずに居にゃアならねへ」
弥「時に腹が北山(きたやま)(腹がすくこと)だ。今、飯(めし)を炊(た)く様子だ。埒(らち) のあかねへ(話にならない)」
北「コレ、弥次さん。おいらよりゃア御前(おめえ)、文盲なもんだ」
弥「なぜ」
北「飯を炊いたら粥(かゆ)になってしまうわな。米を炊くと言へば いゝに」
弥「馬鹿ぬかせ、ハゝゝゝ」
と、此内(そのうち)、女、煙草盆を持って来る。
北「もし、姉(あね)さん、湯が沸(わ)いたら這入(へえ)りやせう」
弥「そりゃ、人のことを言ふうぬ(お前)が、何にも知らねへ な。湯が沸いたら、熱くて入られるものか。それも水が湯 に沸いたら、這入(へえ)りやせうとぬかし居れ」
此内(そのうち)、また宿の女
女「もし、お湯が沸きました。お召しなさいませ」
弥「おい、水が沸いたか。どれ、入(はい)りやせう」

解説
 『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゆうひざくりげ)』は、滑稽本の作家である十(じつ)返(ぺん)舎(しや)一(いつ)九(く)(1765~1831)が著した通俗小説です。主人公の弥(や)次(じ)郎(ろ)兵(べ)衛(え)(弥次郎)と喜(き)多(た)八(はち)(北八)が、江戸から伊勢神宮に行く旅行記で、続編には、木曽街道(中山道)を経由して江戸に帰着するまでが叙述されています。「栗毛」とは「栗毛色の馬」のことで、「膝栗毛」とは、自分の膝を馬の代わりにして徒歩で旅をすることを意味しています。初編の出版は享和二年(1802)で、江戸から箱根までだったのですが、好評を博したたため、三年がかりで、伊勢から奈良・京都・大坂を巡り、ここまでが正編。さらに讃岐の金比羅宮(こんぴらぐう)から安芸の宮嶋まで足を延ばし、木曽街道(中山道)の善光寺・草津温泉を経由して江戸に帰るまでが続編の『続膝栗毛』となっています。そして文政五年(1822)に、二一年がかりで漸く完結しました。
 人気の理由は、「旅は恥のかき捨て」とばかりに醜態を繰り広げたり、馬鹿馬鹿しいできごとの連続や、ギャグの応酬が読者の笑いを誘ったことでした。また貸本屋が増えて、庶民が長編小説を自由に読めるようになったことや、伊勢参宮や札所巡りなど、庶民の旅行が盛んになったことなども、人気を得た背景でした。
 一般的には、滑稽で愉快なお笑い道中記と思われていますが、実際にはかなり深刻な場面があります。そもそも弥次郎と喜多八は男色関係でした。また結婚詐欺でまんまと手に入れた持参金で、験直(げんなおし)に旅に出るという設定です。しかも行く先々で、次々に女性を相手にした男の身勝手がまかり通る場面があります。ですから教育的には、ただ愉快な場面ばかりを摘まみ食いしたり、きわどい場面は程々にやり過ごすことになるわけです。
 ここに載せたのは、小田原宿の場面です。現代語訳は省略しましたが、それはこの頃の会話は、現代人が聞いてもほぼ理解できる程、現代語に近いということでもあります。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『東海道中膝栗毛』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。