新論
原文 謹んで按(あん)ずるに、神州は太陽の出づる所、元気の始まる所にして、天日(てんじつ)之(の)嗣(し)、世(よよ)宸極(しんきよく)を御(ぎよ)し、終古易(かわ)らず。固(もと)より大地の元首にして、万国の綱紀(こうき)也。誠に宜しく宇内(うだい)に照臨し、皇化の曁(およ)ぶ所、遠邇(えんじ)有ることなかるべし。而(しか)るに今、西荒(せいこう)の蛮夷、脛足(けいそく)の賤(せん)を以て四海に奔(ほん)走(そう)し、諸国を蹂(じゆう)躙(りん)し、眇視(びようし)跛履(はり)、敢へて上国(じようこく)を凌(りよう)駕(が)せんと欲す。何ぞ其(そ)れ驕(おご)れる也(や)。
是(ここ)において諳厄利(いぎりす)、突然として来りて長崎を擾(みだ)し、浦賀に闌入(らんにゆう)し、常に洋中に往来渟泊(ていはく)す。夫(そ)れ鄂羅(ろしや)の禍心(かしん)を懐きて、百方窺伺(きし)すること、殆(ほとん)どまさに百年ならんとして、飈去(ひようきよ)電滅し、影響を見ず。諳厄利(いぎりす)は、是より先(さき)其の来(きた)ること甚だ疎(そ)なりしが、しかも忽(たちま)ち鄂羅(ろしや)と相代り、人の側(かたわら)に偪(せま)り、人の懐(ふところ)を捜(さぐ)る。亦甚(はなは)だ怪しむべからざるや。
蝦夷の地は、世俗より之を視れば、之を得るも益なく、之を棄つるも損なきものゝ如し。然れども我棄つれば則(すなわ)ち彼取るは、必然の勢也。異日(いじつ)、虜(りよ)をして盤拠(ばんきよ)して以て巣窟(そうくつ)と為(な)し、以て松前に逼(せま)らしむれば、則ち奥羽必ず騒動せん。往来に沿岸を寇せば、則ち天下も亦騒動せん。故に我棄てゝ彼取らず、特(ひと)り以て棄地と為さば、則ちなほ未だ大害と為(な)さゞるも、虜をして之を有せしめば、則ち彼に大利ありて、我に大害あり。力を尽くして之を守らざるを得ざる所以(ゆえん)也。
現代語訳
謹んで考えるに、神国日本は太陽の昇る所、(万物の根源となる)「気」の生ずる所であり、天照大神の子孫である天皇が代々皇位を継がれ、永久に変わることがない。もともと全世界の元首であり、全ての国々を統括するものである。実に天皇の御威光は世界中に照り輝き、その徳化の及ばない所はないであろう。ところが今、西洋の蛮国が、脛(ずね)や足に位置する賤しい国であるにもかかわらず、世界の海に乗り出して諸国を侵略し、身の程も知らず、わざわざ我が国を凌いで脅(おど)そうとしている。何と驕(おご)り高ぶったことではないか。
ここに至って突然にイギリスが我が国に来て、長崎で騒擾を起こし、また浦賀にも侵入し、常に海上を往来しては停泊している。そもそもロシアは我が国に野心を懐き、隙を窺って百年にもなろうとしているが、旋風(つむじかぜ)の如くに来ては、稲妻の如く消え去り、暫(しばら)く音沙汰がない。しかしイギリスは、以前はたまにしか姿を見せなかったが、たちまちロシアに代わり、我が国の近く迫り来きては様子を探っている。実に怪しむべき事ではないか。
蝦夷地は、世俗の人から見ればこれを得ても利益はなく、放棄しても損失がないようなものである。しかし我が国が放棄すれば、ロシアが取るのは必然の勢いである。いつか奴等が占拠して巣窟とし、松前(北海道の最南端地域)にでも押し寄せてくれば、必ず奥羽地方は大騒ぎとなるであろう。往き来して我が国の沿岸に侵攻でもすれば、必ず全国も大騒ぎとなるであろう。そういうわけで、我が国が蝦夷地を放棄し、ロシアも放棄して、ただの放棄地とするならば、大きな害とはならないが、奴等の所有となれば、直ちにロシアには大きな利益であり、我が国には大きな損失である。これが力を尽くして蝦夷地を守らなければならない理由なのである。
解説
『新論(しんろん)』は、水戸藩の学者である会(あい)沢(さわ)安(やすし)(1782~1863)が、文政八年(1825)に著した政治思想書です。内容は、建国の理念である忠孝、外寇への対応、民生安定などを論じた「国体」、欧米諸国の急激な国力伸張を論じた「形勢」、欧米諸国の東洋侵略を論じた「虜情」、和・戦の方策を論じた「守禦(しゆぎよ)」、国家の安全自立策を論じた「長計」の章から成っています。 会沢安は下級の水戸藩士の子でしたが、十歳で水戸学の学者である藤田幽谷(ゆうこく)に学び、十八歳で江戸藩邸にある『大日本史』編纂所である彰考館(しようこうかん)に勤務、二六歳で藩主の子斉昭(なりあき)の侍講となりました。後には藤田東湖(幽谷の子)と共に、徳川斉昭の藩政改革を補佐します。
『新論』執筆の動機の一つは、異国船が水戸藩領沿岸にしばしば接近したことで、文化五年(1822)から文化八年(1825)までの三年間に、十数回もありました。中でも直接の契機となったのは、文政七年(1824)五月、水戸藩領の大津浜にイギリスの捕鯨船が近付き、水や食糧を求めて十二人がボートで上陸した大津浜事件でした。この時、彼は筆談役を命じられ、「此土をも彼が属地となさんとの云の意なるべし」(『諳夷(あんい)問答』、「諳」は諳厄利亞(アングリア)の略)と報告しています。また八月にはイギリスの捕鯨船が薩摩の宝島に上陸して牛を略奪する宝島事件が起きます。そしてこれらの事件が契機となり、翌年二月には幕府が異国船打払令を発令され、その翌月の三月には『新論』が書き上げられるのです。
彼はロシアの千島進出に危機感を抱き、ロシアの東方進出を論じた『千島異聞(いもん)』を著していたのですが、足下に「外夷」が現れて上陸したのですから、危機意識は一気に高まりました。水戸藩が尊王攘夷論の震源となったのは、海岸線が長く、しばしば列強が近接したことと無関係ではないでしょう。
『新論』は、水戸藩主である徳川斉脩(なりのぶ)(斉昭の兄)に捧呈されましたが、公刊は許されず、著者名を隠すように命じられました。そのため著者は「無名氏」と記され、写本の形で流布しました。それでも著者が会沢安であることは暗黙の了解であり、久留米藩の真木和泉(まきいずみ)や長州藩の吉田松陰は、水戸に遊学して会沢安に学んでいます。幕末の尊攘論者で、『新論』を読んだことのない者はいなかったことでしょう。そして安政四年(1857)に出版されると、さらに広く読まれるようになり、『新論』は尊王攘夷運動の指導理論書となりました。
ところが文久二年(1862)に『時務策』を著し、「今日に至ては、また古今時勢の変を達観せざることを得ざるものあり。・・・・外国を尽(ことごと)く敵に引受けて、其間に孤立はなり難き勢なれば、寛永の時とは形勢一変して、今時外国と通好は已(や)むことを得ざる勢なるべし」と、一転して開国を主張します。これは激化する尊王攘夷論者にとっては、許し難い変節です。しかし彼にしてみれば、開国後の諸情勢の変化に対応したのでしょう。彼の説く攘夷論の究極目的は人心の国家的統合であって、単純な攘夷そのものではありませんでした。要するに『新論』が主張していることは、列強侵攻の危機である今こそ、天皇を中心とした日本独自の国のあり方である国体を再認識して人心を統合させ、併せて富国強兵により、内憂外患が山積する政治的危機を克服する、千載一遇の機会であるということなのです。
ここに載せた前部は序論の冒頭部で、『新論』では最もよく知られています。中部は「虜情」の章で、文化五年(1808)にイギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入した事件と、文政元年(1818)にイギリス船ブラザース号が浦賀に来航して通商を求めたことに言及しています。後部は「守禦(しゆぎよ)」の章で、蝦夷地に対するロシアの脅威について述べています。会沢安はイギリスをロシアの属国と考えていて、イギリスの背後にはロシアがいると理解していました。そのイギリスが水戸藩領に上陸したのですから、ますます蝦夷地のことが心配になったわけです。それにしても、もし蝦夷地がロシア領となっていたら、近現代史は激変していたことでしょう。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『新論』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。
原文 謹んで按(あん)ずるに、神州は太陽の出づる所、元気の始まる所にして、天日(てんじつ)之(の)嗣(し)、世(よよ)宸極(しんきよく)を御(ぎよ)し、終古易(かわ)らず。固(もと)より大地の元首にして、万国の綱紀(こうき)也。誠に宜しく宇内(うだい)に照臨し、皇化の曁(およ)ぶ所、遠邇(えんじ)有ることなかるべし。而(しか)るに今、西荒(せいこう)の蛮夷、脛足(けいそく)の賤(せん)を以て四海に奔(ほん)走(そう)し、諸国を蹂(じゆう)躙(りん)し、眇視(びようし)跛履(はり)、敢へて上国(じようこく)を凌(りよう)駕(が)せんと欲す。何ぞ其(そ)れ驕(おご)れる也(や)。
是(ここ)において諳厄利(いぎりす)、突然として来りて長崎を擾(みだ)し、浦賀に闌入(らんにゆう)し、常に洋中に往来渟泊(ていはく)す。夫(そ)れ鄂羅(ろしや)の禍心(かしん)を懐きて、百方窺伺(きし)すること、殆(ほとん)どまさに百年ならんとして、飈去(ひようきよ)電滅し、影響を見ず。諳厄利(いぎりす)は、是より先(さき)其の来(きた)ること甚だ疎(そ)なりしが、しかも忽(たちま)ち鄂羅(ろしや)と相代り、人の側(かたわら)に偪(せま)り、人の懐(ふところ)を捜(さぐ)る。亦甚(はなは)だ怪しむべからざるや。
蝦夷の地は、世俗より之を視れば、之を得るも益なく、之を棄つるも損なきものゝ如し。然れども我棄つれば則(すなわ)ち彼取るは、必然の勢也。異日(いじつ)、虜(りよ)をして盤拠(ばんきよ)して以て巣窟(そうくつ)と為(な)し、以て松前に逼(せま)らしむれば、則ち奥羽必ず騒動せん。往来に沿岸を寇せば、則ち天下も亦騒動せん。故に我棄てゝ彼取らず、特(ひと)り以て棄地と為さば、則ちなほ未だ大害と為(な)さゞるも、虜をして之を有せしめば、則ち彼に大利ありて、我に大害あり。力を尽くして之を守らざるを得ざる所以(ゆえん)也。
現代語訳
謹んで考えるに、神国日本は太陽の昇る所、(万物の根源となる)「気」の生ずる所であり、天照大神の子孫である天皇が代々皇位を継がれ、永久に変わることがない。もともと全世界の元首であり、全ての国々を統括するものである。実に天皇の御威光は世界中に照り輝き、その徳化の及ばない所はないであろう。ところが今、西洋の蛮国が、脛(ずね)や足に位置する賤しい国であるにもかかわらず、世界の海に乗り出して諸国を侵略し、身の程も知らず、わざわざ我が国を凌いで脅(おど)そうとしている。何と驕(おご)り高ぶったことではないか。
ここに至って突然にイギリスが我が国に来て、長崎で騒擾を起こし、また浦賀にも侵入し、常に海上を往来しては停泊している。そもそもロシアは我が国に野心を懐き、隙を窺って百年にもなろうとしているが、旋風(つむじかぜ)の如くに来ては、稲妻の如く消え去り、暫(しばら)く音沙汰がない。しかしイギリスは、以前はたまにしか姿を見せなかったが、たちまちロシアに代わり、我が国の近く迫り来きては様子を探っている。実に怪しむべき事ではないか。
蝦夷地は、世俗の人から見ればこれを得ても利益はなく、放棄しても損失がないようなものである。しかし我が国が放棄すれば、ロシアが取るのは必然の勢いである。いつか奴等が占拠して巣窟とし、松前(北海道の最南端地域)にでも押し寄せてくれば、必ず奥羽地方は大騒ぎとなるであろう。往き来して我が国の沿岸に侵攻でもすれば、必ず全国も大騒ぎとなるであろう。そういうわけで、我が国が蝦夷地を放棄し、ロシアも放棄して、ただの放棄地とするならば、大きな害とはならないが、奴等の所有となれば、直ちにロシアには大きな利益であり、我が国には大きな損失である。これが力を尽くして蝦夷地を守らなければならない理由なのである。
解説
『新論(しんろん)』は、水戸藩の学者である会(あい)沢(さわ)安(やすし)(1782~1863)が、文政八年(1825)に著した政治思想書です。内容は、建国の理念である忠孝、外寇への対応、民生安定などを論じた「国体」、欧米諸国の急激な国力伸張を論じた「形勢」、欧米諸国の東洋侵略を論じた「虜情」、和・戦の方策を論じた「守禦(しゆぎよ)」、国家の安全自立策を論じた「長計」の章から成っています。 会沢安は下級の水戸藩士の子でしたが、十歳で水戸学の学者である藤田幽谷(ゆうこく)に学び、十八歳で江戸藩邸にある『大日本史』編纂所である彰考館(しようこうかん)に勤務、二六歳で藩主の子斉昭(なりあき)の侍講となりました。後には藤田東湖(幽谷の子)と共に、徳川斉昭の藩政改革を補佐します。
『新論』執筆の動機の一つは、異国船が水戸藩領沿岸にしばしば接近したことで、文化五年(1822)から文化八年(1825)までの三年間に、十数回もありました。中でも直接の契機となったのは、文政七年(1824)五月、水戸藩領の大津浜にイギリスの捕鯨船が近付き、水や食糧を求めて十二人がボートで上陸した大津浜事件でした。この時、彼は筆談役を命じられ、「此土をも彼が属地となさんとの云の意なるべし」(『諳夷(あんい)問答』、「諳」は諳厄利亞(アングリア)の略)と報告しています。また八月にはイギリスの捕鯨船が薩摩の宝島に上陸して牛を略奪する宝島事件が起きます。そしてこれらの事件が契機となり、翌年二月には幕府が異国船打払令を発令され、その翌月の三月には『新論』が書き上げられるのです。
彼はロシアの千島進出に危機感を抱き、ロシアの東方進出を論じた『千島異聞(いもん)』を著していたのですが、足下に「外夷」が現れて上陸したのですから、危機意識は一気に高まりました。水戸藩が尊王攘夷論の震源となったのは、海岸線が長く、しばしば列強が近接したことと無関係ではないでしょう。
『新論』は、水戸藩主である徳川斉脩(なりのぶ)(斉昭の兄)に捧呈されましたが、公刊は許されず、著者名を隠すように命じられました。そのため著者は「無名氏」と記され、写本の形で流布しました。それでも著者が会沢安であることは暗黙の了解であり、久留米藩の真木和泉(まきいずみ)や長州藩の吉田松陰は、水戸に遊学して会沢安に学んでいます。幕末の尊攘論者で、『新論』を読んだことのない者はいなかったことでしょう。そして安政四年(1857)に出版されると、さらに広く読まれるようになり、『新論』は尊王攘夷運動の指導理論書となりました。
ところが文久二年(1862)に『時務策』を著し、「今日に至ては、また古今時勢の変を達観せざることを得ざるものあり。・・・・外国を尽(ことごと)く敵に引受けて、其間に孤立はなり難き勢なれば、寛永の時とは形勢一変して、今時外国と通好は已(や)むことを得ざる勢なるべし」と、一転して開国を主張します。これは激化する尊王攘夷論者にとっては、許し難い変節です。しかし彼にしてみれば、開国後の諸情勢の変化に対応したのでしょう。彼の説く攘夷論の究極目的は人心の国家的統合であって、単純な攘夷そのものではありませんでした。要するに『新論』が主張していることは、列強侵攻の危機である今こそ、天皇を中心とした日本独自の国のあり方である国体を再認識して人心を統合させ、併せて富国強兵により、内憂外患が山積する政治的危機を克服する、千載一遇の機会であるということなのです。
ここに載せた前部は序論の冒頭部で、『新論』では最もよく知られています。中部は「虜情」の章で、文化五年(1808)にイギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入した事件と、文政元年(1818)にイギリス船ブラザース号が浦賀に来航して通商を求めたことに言及しています。後部は「守禦(しゆぎよ)」の章で、蝦夷地に対するロシアの脅威について述べています。会沢安はイギリスをロシアの属国と考えていて、イギリスの背後にはロシアがいると理解していました。そのイギリスが水戸藩領に上陸したのですから、ますます蝦夷地のことが心配になったわけです。それにしても、もし蝦夷地がロシア領となっていたら、近現代史は激変していたことでしょう。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『新論』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。