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唱歌「夏は来ぬ」随想

2021-05-06 09:27:49 | 唱歌
 かつて「唱歌『夏は来ぬ』」の題で拙文を公表していましたが、わずかばかりですが書き直しましたので、題名を変えて再度公開します。

 夏になる日とされる立夏は、新暦5月6日頃のこと。猛暑にはまだ早いのですが、季節の区分は気温に因るのではなく、太陽高度に因りますから、5月上旬になればもう十分に夏なのです。歌の題の「夏は来ぬ」について、若い世代には「来ない」という意味に理解してしまう人もいるそうです。それよりある進学高校の若い理系科目の同僚が、「夏は絹より木綿の方がいいのに」と、真面目に話していたのには驚きました。

 ネット上の解説書には、「夏は来た」と、過去形に現代語訳しているものが多いようです。まあまちがいとまで言い切れませんが、「ぬ」は完了の助動詞であって、過去の助動詞ではありませんから、微妙に意味が違います。過去の助動詞ならば、「き」か「けり」でしょう。過去ならば、現在とは切り離された時間を指していますが、完了ならば、過去のことであっても現在と時間は続いています。ですから単に「夏は来た」と言うだけでなく、「夏が来ている」というニュアンスがあるのです。そうでないと、田植えや蛍など、立夏より1カ月も時期が遅いものも歌われていますから、おかしなことになってしまうのです。

 4番までの歌詞をよく吟味してみると、1番は初夏のことでも、2番は梅雨時のことですから、立夏をかなり過ぎています。3・4番も初夏のことでははありませんから、ますます過去形ではなく、完了形として理解しなければなりません。そういう点で、私としては一般に流布している歌詞の解釈に少々不満があります。
 
1、卯の花の匂う垣根に時鳥早も来鳴きて忍び音もらす夏は来ぬ

 卯の花は『万葉集』以来多くの古歌に詠まれ、夏の到来を告げる花と理解されてきました。今でこそ生け垣にされることはありませんが、古には生け垣の植栽として、普通に見られるものでした。古歌には卯の花の垣根を詠んだ歌がたくさんあります。初夏に白い小さな花が枝もたわわに房状に咲くため、古来、雪・月光・白波・四手などに見立てられました。豆腐のおからを卯の花というのも、同じ発想です。またお釈迦様の誕生日とされる花祭には、卯の花を飾る風習があったのですが、現在ではすっかり忘れられているようです。

 「夏になると卯の花が咲く」という理解は、八代集以下の和歌集によく現れています。夏の部の歌の初めの方には、ずらりと卯の花の歌が並んでいるからです。その中の一つを御紹介しましょう。「我が宿の垣根や春を隔つらん夏来にけりと観る卯の花」(拾遺集80)。我が家と隣家の境に卯の花垣があったのでしょう。それが隣家と我が家を隔てているように、春と夏を隔てているように見えるというのです。理屈が過ぎてよい歌とは思えませんが、卯の花が咲けば夏という理解があったことを確認できます

 「卯の花は匂わないのに・・・・」と質問されることがあります。そもそも「匂ふ」という古語には香るという意味もあるのですが、色が美しく映えることが第一義です。ですから、真白い卯の花が眩しいほどに美しく咲いている様子を表しているのです。また「白」という色は、初夏をイメージさせる色でもありました。持統天皇の御製に、「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣乾したり天の香具山」という有名な歌がありますが、「白」という色に夏の到来を感じ取っているのです。新緑の生き生きとした緑色に映えるところに卯の花の美しさがあり、その取り合わせに夏の到来を感じ取っているのです。そう言えば、今盛んに咲いているハリエンジュの真っ白い花も、私にとっては夏の到来を色で教えてくれています。去来の俳諧に「卯の花の絶間たゝかん闇の門」という句があるのですが、月明かりの中で見る白い卯の花を詠んだものでしょう。昼間の卯の花も美しいですが、『枕草子』には「夏は夜」と言われていますから、夜の卯の花も御覧になって下さい。

 蛇足ですが、卯の花の木、つまりウツギは枝がパイプ状で中空なため、曲げる力に対してはかなり丈夫に耐えてくれます。そのため昔から指物家具の木釘の材料となり、庶民や浪人の内職として作られていたものです。私は古典文学はどちらかというと苦手で、日本史が専門ですから、ついつい文学的ではないことに関心があるもので、ついつい脱線してすみません。

 また『枕草子』に、卯の花は時鳥の宿る木という理解があるように、時鳥の好む木と信じられていました。しかし生態的にはそのような事は全くなく、卯の花の咲く頃に時鳥が鳴き始めるために、相性がよいものと観念的に理解したに過ぎません。同じようなことは橘にも当てはまります。時鳥が花橘を好んで来るという理解もありますが、生態的に橘に来る理由はありません。ただし鴬なら十分あり得ることで、実際にウツギに鳴く鴬を見て詠んだ歌はあります。時鳥が鳴き始めるのは地域によって多少時間差はあるでしょうが、旧暦の4月、つまり卯月になってからです。しかし平安時代には、旧暦五月に鳴くものと、観念的に決めてかかっていたようです。閏五月には鳴くのだろうかという歌が残っているように、「郭公は(旧暦)五月の鳥」と理解されていたのです。しかし実際には卯月にやって来てしまいます。そこで山から下りてきた郭公は、(実際には南方から渡って来るのですが、古人は時鳥が渡り鳥であることを知りませんから、その時期までは山にいると理解していました。)自分の出番である五月を待ちきれず、五月になるまでこっそり忍んで鳴くものと理解したのでした。郭公の忍び音とは、旧暦4月、つまり卯月に郭公が鳴く声のことなのです。

 しかしこの「時鳥の忍び音」について、正しい解説を未だかつて見たことがありません。権威あるはずの辞書にすら、「忍び音」は「その年の最初に聞く時鳥の声、初音」とか、「夜にこっそりと鳴く声」と解説されています。中には「まだ巣立ったばかりで若いため、上手に鳴けず、こっそり鳴いている声」と解説しているものもありました。これらは全てとんでもない誤りです。そもそも初声とは、聞く人にとって「初」なのであって、時鳥にとっては初でも何でもありません。またある人にとっては初でも、前日に聞いた人にとっては、これも初ではありません。このことに関する限り、辞書などいい加減な物だと思います。忍び音については、私のブログ「ほととぎすの忍び音」に詳しく解説してありますから、そちらを御覧下さい。古語辞典の著者は、確認もせずに大家の説をそのまま写しているので、こういうことになってしまいます。そのためか、インターネットで検索すると、『夏は来ぬ』の解説がほぼ例外なしにそのようになっています。時鳥は初夏に日本にやって来て繁殖するのですから、初夏に巣立って鳴くはずがありません。みな自分で確認せず、孫引きをしているのです。そもそも時鳥が枝に止まりながら鳴くことは、まず滅多に見られません。普通は100mくらい上空を、飛びながら鳴いています。またきゃしゃな卯の花の枝は、時鳥の体重を支えることすらできませんから、時鳥が卯の花の陰で五月になるまでひっそりと鳴くというのは、あくまでも古人の観念的理解なのです。

 1番の歌詞について、一般には江戸末期の歌人である加納諸平の歌「山里は卯の花垣のひまをあらみしのび音もらす時鳥かな」のを本歌としていると説明されています。確かに「卯の花の垣根」と「しのび音もらす時鳥」がそろえば、そう説明したくなるのも無理はありません。しかし卯の花の垣根に郭公が来るという理解は、既にお話しましたように、古の共通理解であって、加納氏の発想ではありません。ただ加納氏の歌のひねった部分は、垣根の目が粗いので、そこから声が漏れてくるという趣向にしたことです。「ひまをあらみ」とは「隙間の目が粗いので」という意味で、まあ面白いと言えば面白いのですが、理屈と言えば理屈ですね。作詞者の佐佐木信綱は、明治時代に歌人・国学者として活躍した程の人物ですから、加納氏の歌を知る以前から、卯の花・郭公・忍び音などのことはとっくに理解していました。まあ「もらす」という言葉については加納氏の歌がヒントになったのかもしれません。とにかく「忍ぶ」とか「もらす」という言葉が使われたり、忍び音を忍び泣きと混同してしまうため、こっそりと鳴くなどという誤解が生じるのです。まあとにかく、旧暦五月になれば「忍び音」という言葉は使えませんから、1番は夏が立って間もない旧暦四月、つまり卯月の夏の様子を歌っていることを確認しておきましょう。
 

2、五月雨の注ぐ山田に早乙女が裳裾ぬらして玉苗植うる夏は来ぬ

 2番は、『栄華物語』御裳着(みもぎ)巻の「五月雨に裳裾濡らして植うる田を君が千歳のみまくさ(御馬草)にせむ」を本歌としたものでしょう。これは早乙女が揃いの衣装と笠を被って田植えをしながら歌っていた歌で、豊作を祈念している歌と見てよいでしょう。どこにも早乙女と詠まれているわけではありませんが、「裳」は女性の下半身用の服ですから、早乙女であるとわかります。

 五月雨は梅雨のことで、昔は田植えをするに適した時季でした。現在は品種改良により台風が来る前に収穫してしまうような早生種があったり、灌漑設備が発達しているので、自然の天候に依存しなくても、田植えをできるように田に水を引き入れることができるため、入梅前に田植えを終えることが多くなりました。我が家の近くの水田では、新暦4月下旬から田植えが始まっています。しかし古には旧暦の5月、つまり新暦の6月の梅雨時に五月雨を待って田植えをせざるを得ず、それに伴って収穫も現在よりかなり遅かったのです。とにかく稲作の農作業は、現在よりも全般に遅かったことを確認しておきましょう。

 現在は機械で田植えをしてしまいますが、古には田植えは最も重要な農耕儀礼の一つでした。神に豊作を祈るわけですから、田植えは神に奉仕する女性の仕事でもあったのです。早乙女が田植え作業をしている間、男達は面を被り、鼓を打ち、笛を吹き、ささらをならして田楽を舞っていたことが、前掲の歌とともに記されています。室町時代の田植えを描いた月次図屏風にも、同じような場面が描かれています。揃いの衣装で、歌に合わせながら同じ動作をしています。この日はハレの日ですから、それに相応しい衣装を身に着けるものとされたのです。一般には紺の単衣に赤い襷をきりりと締めて、真新しい菅笠を被ります。そして早乙女たちが雁行して斜めに少しずれながら、苗を植えてゆきます。田の外では、田楽の伴奏があり、男たちが面を被って踊ったりしました。田楽は平安時代には田植えの神事から独立して、芸能として発達し始めますが、農耕儀礼として特別の衣装を着て田植えをするという習俗は、その後も長く継承されて来ました。ですから、早乙女たちが着物の裾を濡らしながら田植えをしている場面を歌っていますが、単なる日常的な野良着を着ているわけではないのです。晴れ着姿ですので、絵になるのです。

 玉苗の「玉」は、この場合は美しいこと・神聖なことを表す接頭語でして、「玉串」と同じことです。田植えは神事でもありますから、このような表現も生まれるわけですが、稲を大切にした日本人の心をも表しています。

 2番は田植えの場面ですから、夏も半ばの水無月、旧暦五月、新暦ならば6月のことです。


3、橘の香る軒端の窓近く螢飛び交い怠り諫むる夏は来ぬ

 橘は柑橘類の古い総称です。柑橘類の花は、卯月から五月にかけて咲き、爽やかに香ります。橘は好んで庭に植える木と理解されていました。ですから「橘香る軒端」という表現ができるわけです。同じようなことは梅にも当てはまりますが、桜は野生のものを見に行く木でしたから、「軒端の桜」は歌にはなりません。橘は万葉の時代から、好んで庭に植えられていたらしく、「我が宿の花橘」は慣用句となっています。また『徒然草』でも、「家にありたき木」に数えられています。ですから「軒端に香」っているわけです。ただし現在のミカン類の花は新暦5月には咲き始めます。ただし小ミカンや金柑の仲間はすこし開花が遅れますから、橘の花は新暦ならば6月でもよいのかもしれません。ゲンジボタルならば新暦の5~7月、ヘイケホタルならば6~8月に見られますから、花橘と蛍が同時に見られるとすると、やはり旧暦の五月、新暦の6月くらいがよいのでしょうか。どちらにしても立夏から1カ月以上後のことです。

 蛍が飛び交うというのですから、これは夏の夜の情景でしょう。夜は花の色が見えませんが、香りは暗くてもよくわかります。否、見えないからこそ香りが強調されるのです。爽やかな花橘の香りが漂って来れば、鬱陶しく感じる五月闇もまた一興なのです。蛍については、『枕草子』の冒頭で、「夏は夜。・・・・・蛍のおほく飛びちがひたる」と述べられ、夏の夜の風情として賞されています。「怠り諫むる」が「蛍雪の功」を踏まえていることはすぐにわかります。


4、楝散る川辺の宿の門遠く水鶏声して夕月涼しき夏は来ぬ

 楝(おうち・旧仮名ではあふち)は初夏に薄紫色の小さな花を密集して咲かせ、卯の花と共に夏の到来を告げる花です。別名「栴檀」とも言いますが、「栴檀は双葉より芳し」の栴檀とは別物です。その諺を誤解してなのか、別物を承知の上なのか、小学校の校庭に好んで植えられていたものでした。しかし花には芳香があり、万葉時代には、端午の節句に飾る薬玉の材料として不可欠でした。薬玉の材料は菖蒲・橘・楝などですが、いずれも芳香があることが共通しています。この芳香が邪気を除くと信じられたのです。『枕草子』には、「木のさまにくげなれども、楝の花いとをかし。・・・・必ず五月五日にあふもをかし」と記されています。薄紫色の小さな花が群がって咲くので、藤の花と同様に、遠景が阿弥陀如来が来迎するときにたなびく紫色の瑞雲に見立てられることもありました。

 「宿」とは、現在では宿泊するところという意味に理解されていますが、古語では自分の家を指しています。「我が宿」「埴生の宿」の「宿」は明らかに自宅のことです。決して旅の宿ではありません。よくそのような解説を見ることがあるので、少々残念です。

 水鶏は現在のヒクイナという鳥で、水辺に生息しています。夏に南方から渡ってきて、夕方によく鳴きます。その鳴き声が戸を叩くように聞こえ、水鶏が鳴くことを、「叩く」と特別な表現をします。また「来(く)」という音を含むため、古人は誰かが尋ねてくることを連想したものです。それでわざわざ「門」という言葉が意図して選ばれているわけです。夜に活発に行動しますから、夏の夜の景物と理解されていました。ただし和歌の世界では恋人の来訪などに見立てる擬人的に詠み方が主流で、写実的な歌は多くはありません。

 月の美しさは四季それぞれでしょうが、夏の月は、昼間が暑いだけに、涼しげであることが喜ばれました。前掲の『枕草子』でも、「夏は夜」と述べられ、涼しい夜が夏の風情のあるところと理解されているのです。


5、五月闇螢飛び交い水鶏鳴き卯の花咲きて早苗植えわたす夏は来ぬ

 五番の歌詞は、それまでの歌詞の要点を並べただけで、特に解説も要らないでしょう。



追記
 今日(令和3年5月14日)の授業で、卯の花を一枝持って行き、生徒に見せました。「夏は来ぬ」の歌を知っていた生徒は40人中たった一人、卯の花であることがわかった生徒も同じ生徒で一人だけ。まさかここまで少ないとは思いませんでした。ついでのことに卯の花和えについて話し、豆腐のおからを知っているか聞いたところ、数人だけしかいませんでした。埼玉県でも有数の男子進学校でこの有様です。勉強はそこそこできるのでしょうが、生活体験が怖ろしいまでに希薄なのです。試しに地歴科の先生に卯の花を見せてもわかりませんでした。

童謡『みかんの花咲く丘』

2019-02-14 11:00:22 | 唱歌

 童謡『みかんの花咲く丘』は、昭和21年8月25日、NHKのラジオ番組『空の劇場』で東京の本局と静岡県伊東市立西国民学校を結ぶラジオの「二元放送」で発表されたもので、12歳の川田正子が歌って大ヒットとなりました。作詞者の加藤省吾が取材のために作曲家の海沼実の家をたまたま訪ねた時、翌日に伊東市で行われるのラジオの生放送で、川田正子が歌う曲がまだできていないので、何か詩を書いてほしいと言われ、その場で20分で書いた詩に、海沼が伊東に向かう列車の中で曲をつけたそうです。

 1、みかんの花が咲いている  思い出の道丘の道
   はるかに見える青い海  お船がとおく霞んでる

 2、黒い煙をはきながら  お船はどこへ行くのでしょう
   波に揺られて島のかげ  汽笛がぼうと鳴りました

 3、何時か来た丘母さんと  一緒に眺めたあの島よ
   今日もひとりで見ていると  やさしい母さん思われる

 みかんの花が咲くのは、新暦5月から6月の初夏のことです。歌の中の作者はみかん畑のある丘にたたずみ、遙か海の沖を眺めています。作詞者がそのような設定にしたのは、海沼自身が、「伊東の丘に立って海に島を浮かべ、船には黒い煙を吐かせてほしい」という注文をしたためでした。

 1番と2番は絵画的な場面で、これだけでも十分に美しいのですが、3番の歌詞があることがこの歌をさらに素晴らしいものにしました。注目したいのは3番の「やさしい母さん 思われる」の部分です。この歌詞だけからは、「母さん」は既に故人であるかどうかは判断できませんが、自分が幼い頃の母を懐かしく思い起こしているのです。

 作詞者の体験としては、小学校5年生の時に、父が相場に手を出して失敗し、両親が4人の子供を残して失跡してしまい、一家離散となってしまったそうです。のちに彼は両親と再会し、母を引き取って最後まで介護したそうですが、この歌を作詞した時点では、母は消息不明であったとのこと。そのような自己体験がこの詩に深みを与えているのでしょう。

 三番の歌詞は、一時的に「やさしいねえさん思われる」になおされたことがありました。それは戦争で母を亡くした子が多いであろうという配慮があったそうです。姉さんならお嫁に行ったと言えるからなのでしょう。その後今の歌詞になったとのことです。どちらがよいかと言えば、それは「母さん」の方でしょう。姉がいない子は珍しくありませんが、母のいない子はいないからです。多くの共感を喚ぶためには、母さんでよかったのです。

 古典的和歌の世界では、橘の花の香が歌に詠まれました。当時の橘は、現在の小蜜柑のようなものですから、花の香りはみかんと同じであったはずです。ただし『万葉集』には花の香を詠む歌は極めて少なく、奈良時代の人は花の香に関心がありませんでした。古歌の世界で香のよい花と言えば梅と橘で、『古今集』以後にはたくさん詠まれています。何しろ平安時代には着物に香をたきしめて異性の歓心をを惹き付けようという香の文化がありましたから、花の香にも敏感だったのでしょう。

 古典和歌の世界では、橘の香は、懐旧の情、特に昔の恋人を懐かしく思い出す心を刺激するものと、共通理解されていました。作詞者は自分の体験を重ねて、わずか短時間で書き上げたということですから、「懐旧の花橘」のことを意図していたかどうかはわかりません。明治期の文学的教育を受けた人にとっては常識だったのですが、さすがに昭和期にはそうではなかったでしょう。たぶん作詞者がみかんの花の香から、母を懐かしく思い出すことを連想したのではないでしょう。しかし偶然かもしれませんが、結果としては「懐旧の花橘」になっているのです。

 歌というものは、原作者はそういうつもりではなかったと思っても、作者の手を離れ、歌う人の体験も重ねられて、色々に解釈されるものです。「懐旧の花橘」を短歌に詠む現代人は極めて稀でしょうが、この童謡を知っている人は現代でも多いはずです。是非とも古典的な理解を重ねて味わいつつ歌ってみて下さい。

童謡『夕焼け小焼け』随想

2019-02-10 15:49:39 | 唱歌
 我が家は西に視界の開けた丘の上にあるので、夕日が殊の外美しく見えます。秩父の山の端に沈む太陽を眺めながら、暫く見とれていることがしばしばあります。そんな時に思い浮かぶのが、童謡『夕焼け小焼け』の歌です。
歌詞は次の如くです。
1、夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘がなる
  おててつないでみなかえろう からすといっしょにかえりましょ
2、子供がかえったあとからは  まるい大きなお月さま
  小鳥が夢を見るころは 空にはきらきら金の星

 この歌は、1919年(大正8年)に発表された中村雨紅の詞に、草川信が1923年(大正12年)に曲をつけたそうです。作曲者の草川信は、「揺籃のうた」「汽車ポッポ」「どこかで春が」「緑のそよ風」などがあり、作曲者名は知らなくとも、これらの童謡を知らない高齢者はいないことでしょう。日本中どこにでもあった情景ですから、どこで聞いても共感できるためか、全国の自治体の夕方の時報の曲として、今も流れているそうです。特に雨紅の故郷は現在の東京都八王子市では、ここに歌われた情景は八王子であるとして、八王子では何かにつけてこの曲のメロディーが流れ、曲名を冠した呼称があり、また歌に詠まれた「山のお寺」をめぐる論争もあったそうです。どうしてこういう対立が生まれるのか、情けないことと思います。特定の地名が詠み込まれているわけではありませんから、どこでも良いではありませんか。作詞者が聞いたら、きっとがっかりすることでしょう。

 さて「夕焼け小焼け」という言葉ですが、「小焼け」の意味がわかりません。おそらく「小焼け」という独立した言葉はなさそうです。「仲良しこよし」と同じように、「こ」は語調を調えるための接頭語であるという説がありますが、私もそれに賛成します。古歌の世界では「夜」でよいところをわざわざ「小夜」と詠んだりして、音節を調えることはしばしば見られることで、同じようなことだと思います。

 お寺の鐘の時刻ですが、夕方六時の鐘という説明がありました。現在ならばそうなのでしょうが、私としては暮れ六つの鐘と思いたいところです。ただし「暮六つ」は日没時ではなく、日没より約30くらい後のことです。ちなみに明け六つは日の出前約30分くらいの時間です。つまりもう夕日は見えないのですが、残照のために西の空はまだ夕焼けに染まっていて、明るい星が見え始める頃のことでしょう。

 また「からすといっしょにかえる」ということについて、深く考えることがあります。子供達は夕焼けを見ているのですから、烏は西の方に飛んで行くことになります。古代中国には、太陽には三本脚の烏が住んでいるという理解があり、烏が太陽の象徴と理解されることがありました。それは早くから日本にも伝えられ、知識階級にとっては誰もが知っていることでした。謀叛の疑いで処刑された大津皇子の辞世の詩には、夕日が傾いて西の家々を照らしているということが、「金烏西舎臨(て)らひ」と詠まれています。「金烏」が夕日を意味しているわけです。そのような理解は子供には関係ないことですが、この年齢になると、夕暮れを人生の晩年に見立て、烏は自分の還るべき所に還って行くのだなあと、つくづく思い、一首詠んでみました。

 七十年(ななそとせ) 残る齢になづらへて 入り日に還る からす数ふる

あと余生は何年あるかわかりませんが、そう長くはありません。入り日の方に向かって帰ってゆく烏を数えながら、自分に許される年を数えたわけです。私の魂は還るべきところに還ることを願っています。夕烏を眺めながら、ふとそんなことを思いました。「か」の音を並べたのは意図してではなかったのですが、結果としてそうなりました。

 日没後に月が上ってきたというのですから、これは満月かそれに近い月齢です。空には金の星というのですから、宵の明星かもしれません。太陽と月と星に見守られていることを、実感できる歌詞になっていることに、あらためて気付きました。

 このメロディーはいわゆる「四七抜き音階」(よなぬきおんかい)によって作られています。簡単に言えば、ファとシの音がない、日本の伝統的な音階です。この歌が日本人の感性に訴える力が強いのは、歌詞だけではなく、曲にも秘密があるわけです。

滝廉太郎作曲『花』 歌詞の解説

2019-02-07 09:35:05 | 唱歌
『花』

 日本では「花見」と言えば桜の花見と決まっている様に、日本人の桜に対する思い入れは、なみなみならないものがあります。滝廉太郎が作曲した歌曲『花』は、歌曲『四季』の1曲目で、他に第2曲『納涼』、第3曲『月』、第4曲『雪』があるのですが、他はあまり知られていません。これらの4曲はそれぞれ四季に当てはめられていますから、『花』は春に当てはめられます。つまり春を「桜」によって象徴しているわけです。「雪月花」とそろえば、日本の美しい自然の移ろいを象徴する言葉ですから、組曲『四季』は全体としてそのような美しさを表そうという意図に基づいて生まれました。『花』の作詞は日本女子大学教授の武島羽衣で、歌人としても知られていましたから、随所に古典文学の詩句が散りばめられています。

 歌詞は次の如くです。
1、春のうららの 隅田川 のぼりくだりの 舟人が 櫂のしづくも 花と散る  ながめを何に たとふべき
2、見ずやあけぼの 露浴びて  われにもの言ふ 桜木を 見ずや夕ぐれ 手をのべて  われさしまねく 青柳を
3、錦おりなす 長堤に くるればのぼる おぼろ月 げに一刻も 千金の ながめを何に たとふべき
 
 1番には本歌があります。『源氏物語』「胡蝶」の巻にある「春の日の うららにさして 行く舟は 棹のしづくも 花ぞちりける」という歌です。この歌は光源氏の正妻である紫の上の御殿である六条院で、池に舟を浮かべて遊ぶ場面を詠んだものです。本歌では「櫂」ではなく「棹」になっているのは、貴族の館の池は、池底に栗石を敷き詰めて作られた人工の池で、水深が極めて浅いため、棹で操っていたからであって、隅田川では自然と櫂に直されたのでしょう。本歌では「さして」となっていますが、「日がさす」と「さす棹」を掛けていますから、そのようなことからも本歌では「棹」でなければなりませんでした。当時の隅田川は現在の荒川なみに川幅のある大河でしたから、棹くらいでは川底に届きません。明治31年の『風俗画報』の挿図を見ても、棹ではなく櫂をを使っているのがわかります。

1番の「うらら」は「麗しい」と語源を同じくする言葉ですが、特に春の日の長閑な様子を表す時に使われる言葉です。明治33年に発表された歌ですから、当時の隅田川の水運はまだまだ盛んで、かなり大きな船も運航されています。「舟人が」の「が」は主格を表す格助詞ではなく、体言を修飾する格助詞ですから、「舟人が持っている」という意味で、「我が宿」の「が」と同じです。そして体言の「櫂」に続いていますから、「舟人の操る櫂のしずく・・・・」というようにつながるわけです。「櫂」を「オール」と理解し、競艇の様子を詠んでいるという説があります。この歌が発表されたのは明治33年で、明治44年の『東京年中行事』という書物の「三月暦・・・・端艇競漕」には、明治30年代の初めから盛んに行われていたことが記されていますから、そのような場面はあったかもしれません。しかし「舟人」という言葉は、競艇は似合わないような気がします。もちろんあくまでも歌詞全体の印象による個人の感想に過ぎませんが。

「隅田川」が現在のどの川であるかは、なかなか難しい問題です。河川の流路は時代によって大きく変わるからです。江戸時代初期から昭和初期までは、荒川の下流が漠然と隅田川と呼ばれていました。ですからこの歌ができた時の隅田川は、現在より川幅も広く、水量もはるかに多かったはずです。ところが昭和初期に荒川の岩淵水門から荒川放水路が分岐され、隅田川と荒川放水路が分かれます。そして昭和40年に荒川放水路は荒川の本流と認定され、現在は隅田川と荒川は独立する別の川になってしまっています。当時の隅田川の景色は、現在のそれとは相当に異なっていたはずです。ですから現在は隅田川の景色は、作詩者が見ていた景色とは異なります。「花」に歌われた隅田川と、現在の隅田川が同じではないのです。

「櫂のしづくも 花と散る」というのですが、「と」は並列を意味するのではなく、比喩を表しています。つまり「花と共にしずくが散る」という意味ではなく、「花の散る如くにしずくが散る」という意味です。もちろん「しずくも散る」と表現していますから、花が散っていることは連想できます。どこにも「花が散る」という直接的な表現がないのに、花が散っている情景を思い浮かばせるのはさすがと言うほかはありません。

 「ながめを何に たとふべき」というのは、「そのような麗らかな景色を、いったい何に喩えられるというのか。いや喩えようもないではないか」、という意味です。「べき」は推量の助動詞「べし」の連体形で、ここでは可能を意味しています。「何にたとふべし」ではなく「何にたとふべき」となっているのは、本来は「何にかたとふべき」であるべきものが、係助詞の「か」が省略された形で、係り結びの法則によって「べし」が連体形の「べき」になったものでしょうか。ですから、「・・・・だろうか、いや・・・・ではない」と、反語を表しているわけです。

 現代人の感覚からすれば、このように本歌そっくりの作詞は盗作と思われるかもしれませんが、和歌の世界では有名な古歌を下敷きにすることは、非難されることではありませんでした。

 なお隅田川堤が桜の名所となったのは、将軍徳川吉宗がたくさんの桜を植えさせたことによるもので、他に王子の飛鳥山、小金井堤、御殿山など桜の名所として知られているところは、みな吉宗が桜を移植させたことに始まっています。また「長命寺餅」とも呼ばれる桜餅は、隅田川堤に近い向島にある長命寺前の山本やで享保年間に発売されたもので、隅田川堤の花見の名物となっていました。

 2番の意味はそれ程難しくはなく、堤に植えられている桜や枝垂れ柳を、擬人的に詠んでいます。「見ずや」の「や」も係助詞で、「・・・・だろうか、いや・・・・ではない」と、反語を表しているわけです。ですから、「見ない人がいるだろうか、いやいないであろう」という意味ですが、「見てごらんなさい」と理解すればよいでしょう。朝には露に濡れて光る桜が語りかけてくる。夕には風になびく柳の枝が手招きをしている、というわけです。朝に対して夕が、桜に対して柳が対句になっていることも注目しておきましょう。桜と柳が対句になっているのにはわけがあるのですが、それは別にお話します。柳は水を好む樹木ですから、堤防の補強も兼ねて、古くから川沿いに植えられていました。

 桜がものを言ったり、柳が招いたりすると歌われていますが、自然を擬人的に表現したり、何か別のものに見立てたりするのは、古歌の世界では普通に見られる技法です。風になびくすすきを手招きしていると見たり、風になびく柳の枝を春風が春の女神の髪を梳いていると見たり、溶け残っている雪を更なる雪の友を待っていると見たりするのは、みなこのような例なのです。現代人は自然を自然として客観的に見ますが、日本の伝統的自然理解は、自然を人の心を持っているものの様に感じ取るという特徴があります。作詞者は国学を学んだ人ですから、そのような擬人的表現はよく理解していたはずです。

 3番の「錦おりなす」は、『古今集』に収められた素性法師の「見渡せば 柳桜を こきまぜて 都ぞ春の錦なりける」という歌を下敷きにしています。それで2番では桜と柳が対句となっているのです。都大路に植えられた桜と青柳の配色が、まるで錦の織物のようだというのですが、錦に喩えられるのは、一般的には秋の紅葉ですから、「春の錦」と詠んでいるわけです。古典的和歌の知識のある作詞者が春の歌で「錦」と詠む際には、反射的に素性法師の歌を思い浮かべたはずです。

 「くるれば」は「暮るれば」で、已然形の活用ですから、「日が暮れたので」という意味です。「暮れれば」となると未然形ですから、「日が暮れたら」という意味で、まだ暮れていないことになってしまいます。「日が暮れたので上る月」は、満月かそれに近い月齢です。満月の朧月とそうでない朧月とでは、印象が全く異なります。夜の場面という解説が多いのですが、それでは「暮るれば」という言葉を正しく理解していないことになってしまいます。夕暮時に上る月は、蕪村の「菜の花や 月は東に日は西に」の句にも詠まれているように、丸い月なのです。四季それぞれに月の美しさがありますが、古来春の月は朧月が美しいとされてきました。「げに」は「実に」「本当に」という意味です。「一刻も千金のながめ」は、中国北宋時代の詩人、蘇軾(そしょく)の七言絶句「春夜」の初句「春宵一刻値千金」(しゅんしょういっこく あたいせんきん)から採られていて、ほんの一時でも金には換えられない、春の宵の美しさを表しています。

 全体的に言えることですが、一般に流布している「花」の歌詞の解説はあまりにも表面的すぎます。国語辞書を片手に、一つ一つの言葉の意味を逐語的に調べて並べているだけなので、その様なことになってしまうのでしょう。現代の歌ならともかく、作詞者は明治時代の教育を受けた歌人なのですから、古典的和歌を熟知しています。明治期の歌謡の歌詞解釈には、この点に十分留意しなければなりません。「柳・桜・錦」と三つ揃えば、明治期の歌人なら反射的に素性法師の歌が浮かぶでしょうし、「暮るれば上る月」が満月に近い月であることに気付かない歌人など、誰一人としていないのです。また隅田川と言っても、現代の解説者は、現在と明治期では別の川であることに関心がありません。歌の歌詞の解釈には、古典文学だけでなく、総合的な視点が必要だと思います。




















































































冬景色

2018-12-12 21:35:29 | 唱歌
寒さが一段と厳しくなり、里山の雑木も次第に丸裸になりつつあります。そんな時期に思い浮かぶ唱歌と言えば、『冬景色』があります。大正二年の『尋常小学唱歌』第五学年用に載せられたのが最初ということで、大正生まれの母の大好きな歌でした。情報源は覚えていませんが、確か皇后様もお好きな歌とうかがったことがあります。

まずは歌詞を載せておきましょう。

1、さ霧消ゆる湊江の  舟に白し朝の霜  ただ水鳥の声はして   いまだ覚めず岸の家
2、烏啼きて木に高く  人は畑に麦を踏む  げに小春日ののどけしや  かへり咲の花も見ゆ
3,嵐吹きて雲は落ち  時雨降りて日は暮れぬ  もし灯火の漏れ来ずば  それと分かじ野辺の里

 難解という程のことはありませんが、現代の小学五年生にはわからない言葉がたくさんあります。まず全体としては、題は「冬景色」でも、真冬ではなく初冬であることを確認しておきましょう。まだ雪は降っていませんし、霧・霜・時雨・小春日などの言葉がそれを示唆しています。

 1番の「さ霧」ですが、「さ」は名詞や動詞や形容詞の頭に付いて、語調を調える接頭語です。「語調を調える」というのは、要するに歌を詠む時に字数を合わせたり、優雅な印象を付与する効果があります。「小夜」「早百合」「小百合」「小牡鹿」「さ霧」「狭衣」「さ走る」「さ迷う」「さ曇る」などはこの例です。百合よりも小百合・早百合の方が可愛らしい感じがしますね。霧という気象現象は、視程が500m以下の時に使われる気象用語ですが、古歌では秋の景物とされ、春霞に対応するものとされていました。もちろん冬の霧もあるでしょうが、伝統的季節感からすれば、霧と言えば晩秋から初冬のイメージが強いものです。

 朝霧が少しずつ消えてくる早朝の港の様子が歌われています。「江」というのですから、海岸線が緩やかに湾曲しているのでしょう。舟の霜が見えるというのですから、作詞者は舟のそばにいます。しかし近くの民家では、まだ家人は目覚めていない様子です。「ただ」というのですから、聞こえてくるのは水鳥の声だけです。ウミネコの仲間なら、鳴き声も大きく、よく聞こえることでしょう。

 2番では、烏が高い木にとまって鳴いています。遠くには麦踏みをする農夫の姿が見えます。作詞者の目は、一転して遠くを眺めているのです。私の住む埼玉県は、かつては麦の生産が盛んで、霜柱で持ち上げられてしまった麦を踏みつけて、根が浮かないようにしていたものです。今でも麦の栽培は見られますが、人が行う麦踏みはすっかり見られなくなってしまいました。代わりにトラクターが重いローラーを引いています。あんな重い物で麦は大丈夫なのだろうかと、心配になるくらいですが、この時期には根を張ることが最優先で、上に伸びる時期ではないのです。踏まれるほどに逞しくなるなんて、見習わなければりませんね。

 「げに」という言葉に漢字をあてはめるとすれば、「実に」ということですから、「いかにも・全く・本当に・確かに」という意味です。「小春」とは旧暦10月の異称、「小春日」は旧暦10月の春のように暖かい日のことで、『徒然草』にも見られる古い言葉です。「のどけしや」の「や」は詠嘆の間投助詞で、作詞者の心の感動を表しています。「げに」と「や」をセットにして理解すべきものでしょう。「かへり咲き」とは季節外れに花が咲くことですが、一般には春に咲く花が初冬に咲く場合に用いられる言葉ですから、この場合は桜か山吹でしょうか。山吹の返り咲きはしばしば見られるものです。のどかな小春の暖かさに誘われて、二度咲きしているのでしょう。作詞者の観察眼は実に細かいところまで行き届いています。

3番の「雲は落ち」は、急に風が嵐のように強まって、雲が低く垂れ込めている様子でしょう。「時雨」とは、晩秋から初冬にかけて、急にぱらぱらと降ってはまた止み、また降っては止む通り雨のことです。季節感の濃厚な雨ですから、「時雨」と書くわけです。ついでのことですが、「時鳥」と書けばホトトギスを意味するのと同じですね。時雨が降れば冬になったこと、ホトトギスが鳴けば夏になったことがわかるというので、「時」という表現をするわけです。一日中降り続くような降り方ではありません。通り過ぎる雨ですから、「過ぐる」から「しぐる」という変化をします。古い和歌集では、時雨の歌は初冬か晩秋に集中して位置づけられるものです。

 時雨が急に降ってきて、日も暮れました。冬の日暮れは早いものです。灯りが漏れてこなかったら、人家があることがわからない程に暗くなってしまった、というのでしょう。「ば」は「・・・・ならば」という順接の仮定条件を意味しますから、「来ずば」は「来ないならば」という意味になります。「分く」ははっきりとわかるという意味ですから、「分かじ」はその打ち消し推量で、わからないだろう、という意味です。「野辺の里」というのですから、家の数は一軒ではなく、小さな集落があるのでしょう。

 私が勝手に考えているのかもしれませんが、作詞者は視覚と聴覚によって作詞をしています。1番は霜や霧と水鳥の声、2番は返り咲きの花と烏の声、3番は雲や灯火と時雨の音、という具合です。現代人は時雨に音を感じないでしょうが、古歌では時雨は音に風情を感じ取るものでした。特に板屋根や枯れ葉を打つ音は、しばしば歌に詠まれています。


 1番は早朝で、人はまだ寝ています。2番は昼間で、人は働いています。3番は晩で、人は仕事を終えてくつろいでいるのでしょう。また1番は港、2番は麦畑、3番は人里というように、作詞者の観察する場所も移動しています。作詞者が意識したかどうかはわかりませんが、一日の時間の経過と人の動きを、人生に喩えるという理解も有り得るでしょう。それは私の考えすぎかもしれませんが、とにかく3番までそろって初めて物語が完結しているのですから、歌う時には3番まで歌って初めて深く味わえるものです。