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茅の輪潜りの起原

2024-06-30 08:58:30 | 年中行事・節気
現在の新暦六月三十日には、各地の神社で茅の輪潜(ちのわくぐり)の神事が行われています。茅の輪とは文字通りに解釈すれば茅(ちがや)で作った輪ということになりますが、現在「チガヤ」と呼ばれている草は、茎の太さが数㎜もなく、背丈も五十㎝程度ですから、チガヤだけでは、大人が立ったまま潜り抜ける大きな輪を作ることはできません。「ちがや」の「かや」は漢字では「萱」「茅」と書きますが、「かや」とはススキ(薄・芒)やオギ(荻)などの総称ですから、実際にはススキやオギなどで作られています。
 茅の輪潜りでは、神前に特設されたり鳥居に括りつけられた茅の輪を、右の方から8の字を書くように潜るのですが、茅の輪に罪穢を祓い清める呪力があるという信仰は、奈良時代まで遡ることができます。『釈日本紀』という書物に引用される『備後国風土記』には、次のような説話があります。「武塔(むとう)の神(素盞鳴尊(すさのおのみこと))が、南海の神の娘と結婚するために旅をしている途中、蘇民将来(そみんしょうらい)・巨旦将来(こたんしょうらい)という兄弟のところで一夜の宿を求めた。弟の巨旦将来は裕福であったにもかかわらず宿泊を拒んだが、兄の蘇民将来は貧しいながらも厚くもてなした。その数年後、再び蘇民将来を訪ねたその神は、悪い病気がはやる時には、茅で輪を作り腰に着ければ病気ににらないと教えた」という話です。現在でも素盞鳴尊やその本地とみなされた午頭(ごず)天王を祭る神社では、「蘇民将来」「蘇民将来子孫也」と記した護符が授与されています。この護符の実物が、奈良時代末期に都が置かれた京都の長岡京跡の発掘で発見されています。長さわずかに二七㎜の大きさですが、はっきりと「蘇民将来子孫□」と墨書されていて、上部に孔がありますから、紐を通して持ち歩いていたのでしょう。
 初期の茅の輪は、この説話のように小さなものを腰に付ける程度だったのでしょう。その程度の大きさなら、細いチガヤでも十分作れます。ススキやオギでは太すぎて、かえって環にこしらえることができません。
『堀河院百首歌』(1105年頃)という和歌集には、「沢辺なる 浅茅を仮に 人なして 厭ひし身をも 撫づる今日かな」という歌が収められているのですが、これは「浅茅(茅萱)で人形(ひとがた)をこしらえ、それで穢れた身体を撫でて水無月の祓をする今日であることよ」という意味です。茅の輪ではありませんが、茅萱でこしらえる人形で身体を撫でるというのですから、大きなものではありません。平安時代にはまだ潜るような大きな茅の輪は出現していないようです。
 腰に着ける小さな茅の輪は『風土記』まで遡れますが、人が潜る大きな茅の輪がいつ頃から始まったかはよくわかりません。ただ室町幕府の年中行事を記録した『年中恒例記』には、「六月・・・・晦日夜に伝奏(てんそう 取り次ぎ役)祗候(しこう 近侍すること)候て、御輪に入申され、麻の葉を左の御手にもたれ候て、御むしろの上にて三度輪に入申され候也」と記されています。また『多門院日記』の天文十三年(1544)の六月晦日には「名越輪祝義(儀)これ在り」と記されていますから、室町時代までは遡ることができます。
 室町時代の有職故実書である『公事根源』(くじこんげん)には、輪を潜る際に「水無月の 夏越のはらへ する人は 千歳の命 延ぶといふなり」(『拾遺和歌集』292)という歌を唱えると記されていて、長寿を祈念するものと理解されていたことがわかります。また同書には和泉式部の「思ふこと みな尽きねとて 麻の葉を 切りに切りても 祓へつるかな」(『後拾遺和歌集』1204)という歌も唱えると記されています。「思い悩んでいることは、水無月の祓のようにみな尽きてしまえとばかりに、麻の葉を切りに切ってお祓いをしたことである」という意味なのですが、「みな尽きね」という言葉に「水無月」が隠されていることはすぐにわかるでしょう。前掲の『年中恒例記』には、この歌のように麻の葉を持って潜ると記されています。麻の葉を切って幣として水に流す風習はその後も長く行われ、江戸時代の『俳諧歳時記栞草』には「麻の葉流す」が季語として載せられ、麻のことを「祓草」(はらえぐさ)と称すると記されています。



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