うたことば歳時記

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桜の開花期の今昔

2023-03-26 07:00:17 | 植物
花見雑感の三回目ですが、花の咲く時期について書いてみます。埼玉県で私が小学校に入学した昭和三十一年には、入学を祝うように桜が満開でした。ところが現在では、東京で彼岸の最中に満開になっています。これも温暖化のせいなのでしょうか。そこで昔の花見の時期と比べてみました。文禄三年(1594)に行われた秀吉の吉野の花見は、新暦に直せば四月十七日のことです。また慶長三年(1598)の醍醐の花見は同じく四月二十日です。本気になって公家の日記などを丹念に探せばいくらでもデータは見つかるでしょうが、気軽な雑感ですのでお許し下さい。ソメイヨシノではありませんから、品種による差違があるでしょうし、関西のことですから、地域的な差違もあるでしょう。ですから単純な比較はできませんが、とにかく現在よりも遅いので驚きました。
 それなら江戸時代のならどうかと、『東都歳事記』(1838)を開いてみると、飛鳥山や上野の桜は「立春より六十五日のころより」と記されていますから、四月上旬から咲き始めるということになりますから、満開は中旬でしょう。明治時代ならどうかと思い、明治三十一年(1898)の『風俗画報』を開いてみたところ、東京の桜は、四月二・三日から十日頃に咲くと記されていました。明治四十四年(1911)の『東京年中行事』には、東京は四月中旬、浜離宮の観桜御宴が四月二十日頃と記されています。
 明治期の東京の桜には、江戸時代以来の桜もかなり残っているでしょうが、ソメイヨシノが交じり始めているはずですから、現在の桜の開花期と比較してもよいでしょう。いずれにせよ、現在よりかなり遅いことがわかります。
 現在では、二月一日からの一日の平均気温の合計が四百度になると開花するとか、最高気温の合計が六百度になったら開花するという法則があるそうです。ですから開花期が早まったのは、地球温暖化によるというのもよく説明できます。四月の入学式に桜が満開なのは、現在ならどの地域なのでしょう?我が家では桜の次に咲く野生の山吹が、早くも咲き始めています。

花より団子という諺

2023-03-25 06:35:53 | 年中行事・節気・暦
前回の「花見の三要素」に続き、今回は「花より団子」という諺について。
 白幡洋三郎著『花見と桜』というPHP新書に、「いろはかるた」に「花より団子」が登場するのは嘉永末年(1850年代)のことだというが、安永元年(1772)の『誹風柳多留』十篇に、「花に背を向けて団子を食っている」という川柳があることから、「句が先にできて諺がうまれた」と記されていました。
 ただしこれは誤りです。十六世紀半ばころにできた『新撰犬筑波集』という俳諧連歌集に、「花よりもだんごとたれか岩躑躅(いわつつじ)」(花より団子なんて、いったい誰が言ったのだろうか)という句があるからです。躑躅の花は古歌では必ずと言ってよい程「岩つつじ」と詠まれます。それで「岩」と「言はない」とか「言ふ」を懸けて詠むことが、平安時代からありました。それでこのような句が詠まれたわけです。ですから室町時代には既に「花より団子」という諺があったことを確認できます。ただしこれはたまたま私が『犬菟玖波集』を読んだことがあったのでわかったことであり、著者がたたまたま読んだことがなかっただけのこと。著者の責任として、わざわざあげつらうことではありません。私も上記のいろはかるたの件は知りませんでしたし・・・・。ただ根拠となる史料名を明示していないことは少々残念です。それは第三者が再検証できないからです。それはともかく、もともと全ての文献史料を一人で読むことなど、できるはずはないのですから、お互いに指摘されながら進歩すればよいだけの話です。ただ指摘はしておかないと、誤ったことが歴史事実と思い込まれてもいけません。面白い本を書いて下さった著者には申し訳なく、少々気が咎めるのですが、書いてみたわけです。

花見の三要素「群桜・群集・飲食」

2023-03-23 13:00:33 | 年中行事・節気・暦
まだ彼岸の最中というのに、東京の桜は満開になってしまいました。入学式までは待ってくれそうもありません。そこでお花見について、三回に分けていろいろ思い付くままに書き散らしてみようと思います。

花見の三要素
 先日、白幡洋三郎著『花見と桜』というPHP新書を読みました。そこでは花見の三要素として、「群桜・飲食・群集」の三つを上げて、花見の定義としていました。そして海外では花を観賞することはあっても、これらの三要素はそろわないので、所謂花見は「日本独特の行事」であるとしています。海外の情報を持ち合わせていないので、「そういうものなのか」と、興味深く読んだことです。私がイスラエルに留学中、桜の代わりに桃の一種であるアーモンドの花が咲くと、その木陰で弁当を食べながら花見を楽しんだことはありますが、確かに他には誰もいませんでした。
 しかし古歌を学ぶことが趣味の私としては、花見は、「群桜」と「群集」でなければいけないのか、一本の桜でも、集う人が少なくても、立派に「花見」でよいのではないかと思いました。それによって花見の起原が全く異なってくるからです。そもそも花を愛でて飲食することは、『万葉集』に見られ、唐文化摂取の窓口である大宰府で、官僚達が観梅の宴を楽しんでいる歌がいくつもあります。桜ではありませんが、これも立派な花見ではありませんか。古代中国では、花見の宴は早くから行われていたのではと思います。すぐに思い付くのは、紀元三世紀に三国時代を終わらせて中国を統一した晋朝の時代、河南省の黄河沿いにあった孟県に、潘岳(はんがく)が県令となって赴任し、至る所に桃や李を植えて、花の名所として知られていたことです。花見の宴とは書かれていませんが、それがあったと考えるのが自然でしょう。もっと本気になっって探せばあるとは思いますが、漢籍は得意でないので、今すぐには思い付きません。
 それに倣ったのが唐に憧れた嵯峨天皇で、山城国乙訓郡の大山崎に桃・李・梨・柳を植え、しばしば行幸して花見の宴をしていたことが、『日本後紀』『続日本後紀』などの歴史書や、『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』などの勅撰漢詩集に、数え切れない程記録されています。まだ桜が中心ではありませんが、これも立派に花見になっています。そして同じく嵯峨天皇の弘仁三年(812)二月十二日には、神泉苑で観桜の宴が催され、『日本後紀』という歴史書には、「花宴の節、これに始まるか」と記されています。「二月」が時期的に早いのではとも思いますが、弘仁二年には閏十二月がありますから、「二月」でも事実上三月のようなものですから、不自然ではありません。また五世紀の華中の歳時記を記録した『荊楚歳時記』には、三月三日の上巳の節供に、人々が「桃花水の下」で禊(みそぎ)をして曲水の宴を催すことが記されています。これが桃の節供の起原になるわけですが、これも立派に花見です。また『古今和歌集』以下の和歌集には、桜の花を愛でる歌が夥しく記されています。和歌では「群桜」か「群集」であるかは判断しかねますが、明らかに複数の人がわざわざ桜を見るために出かけたとわかる歌がいくつもあります。当然そこには「飲食」もあったことでしょう。要するに「群桜」「群集」がなくても、「観桜の宴」は、木の数や人数に関係なく、「花見」と理解してよいと思います。ただ「群桜」「群集」「飲食」の三要素が、日本人の花見の大きな特徴であることは、間違いありません。



『広益国産考』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2023-03-21 08:32:55 | 私の授業
広益国産考


原文
 夫(それ)、国産の基(もとい)を発(おこ)さんとならば、其事に熟したる人をかゝへ入て、其者にすべての事を任(まか)し、耕し種(ううる)ならば、二三反或(あるい)は四五反の田畑(でんぱた)をあてがひ、心のまゝに仕立させ見給ひなば、農人おのづから見及びて、其作り方を感伏(かんぷく)せば、利に走(わし)る世の中なれば、我も〳〵と夫(それ)にならひて、仕付(しつけ)るやう成べし。
 始(はじめ)より領主の威光を以て教令しては、却(かえ)りて用ひず、弘まりがたきもの也。此(この)趣(おもむ)きをもて取扱ひなば、終(つい)に一国に広まりて、農家の益となるに違ひなかるべし。是第一、民を賑(にぎ)はすの道理にあたり、然して其品の捌口(さばけくち)をよく調へ候やうに、専ら御世話あらせられなば、国産とも御益ともなるべし。始(はじめ)より領主の益となさんと、人数(にんじゆ)多くかゝりて行(おこなわ)せらるゝは、得(う)る所少なくして、費す処(ところ)多ければ、益となさんとてする事、却(かえり)て損となる事も有ゆゑに、只その部下に作らせて其締(しまり)をよくする時は、理に叶(かな)ひて其益また広大也。

現代語訳
 そもそも国の産物の基盤を作ろうとするならば、その事に熟達した人を迎え入れ、その人に全てを任せ、それが農耕に関することであるならば、二三反(約20~30a)、あるいは四五反(40~50a)の耕地を預け、自由にやらせてみるべきである。農民達が自分でその様子を見て、そのやり方に感心すれば、誰もが利に走る世の中であるから、我も我もとそれを真似てやるようになるだろう。
 最初から領主の力で強制しては、かえって受け容れられず、普及もしないものである。このことをよく弁(わきま)えて扱えば、ついには領国中に普及し、農家の益となることは間違いないであろう。これこそが民を豊かにする第一の心得である。そして(領主が)その生産物の販売・流通に心を配り、十分に処置をなさるならば、その領国の産物・産業とも、利益ともなるであろう。最初から領主の利益にしようと大人数で行えば、得るものは少なく、出費ばかりが増えて、利益を得ようとしたはずが、かえって損失となることもあるから、ただ下の者に生産させ、(領主は)管理だけをうまくやれば、理にかなって、その利益がますます大きくなるのである。

解説
 『広益国産考(こうえきこくさんこう)』は、江戸時代の三大農学者の一人とされる、大蔵(おおくら)永常(ながつね)(1768~1861)が著した農書です。彼は未刊のものも含めて、生涯で約八十もの農書を著しました。よく知られているのは、副業を勧め、蝋燭(ろうそく)の原料である櫨(はぜ)の栽培について述べた『農家益(のうかえき)』を手始めに、農具について詳述した『農具便利論』、鯨油を用いて稲の害虫の退治することを説いた『除蝗録(じよこうろく)』、各地の綿花栽培について述べた『綿圃要務(めんぽようむ)』があります。そして弘化元年(1844)には、それまでの著作の集大成とも言うべき『広益国産考』を著しています。ただし出版されたのは、安政六年(1859)でした。書名の意味は、「広く利益を生む、地域の物産についての考察」といったところでしょう。
 総合的な農書としては、既に十七世紀末に宮崎安貞が著した『農業全書』がありました。これは栽培百科全書であり、農作物の栽培法の視点から叙述されています。しかし大蔵永常の活躍した時代には、貨幣経済がいよいよ農村に浸透し、加えて凶作・飢饉が頻発し、農村は疲弊していました。大蔵永常は、困窮する農民を救済するためには、中心となる穀物の増産は言わずもがな、副業的な商品作物(工芸作物・換金作物)の栽培と加工により、多角的農業経営を行うことを説いたのです。そして単に農家に現金収入を得させるだけでなく、領主の管理・奨励により地方特産物が育成され、地域産業の活性化まで視野に入れるものでした。
 具体的には「国産」として、油菜・紅花・藍・麻・煙草・藺草・綿・葛・蕨・芋(里芋)・蕃藷(ばんしよ)(薩摩芋)・蜜柑・柿・梨・梅・葡萄・杉・松・檜・桐・桑・漆・楮・三俣(みつまた)・櫨(はぜ)・茶・蜂蜜・砂糖などが取り上げられています。
 このような発想については、永常の父が農民でありながら、蝋燭を作る職人でもあったことが大きく影響しているのではないかと思います。永常は十一人兄弟の次男で、父が農産物の加工により現金収入を得ていることが、どれ程子沢山の家計を助けてくれるかを、身を以て体験していたはずです。
 ここに載せたのは、一之巻の総論の「国産の基(もとい)を発(はつ)するに損益の心得ある話」の一部です。農産物栽培は熟練者や農民にまかせ、領主は製品の販売や買い上げのお膳立てに専念すべきであると説いています。他にも総論には、「領主より買上場などを立給ひて取集め、都会に出して売捌(さば)き給はゞ、其時は御益にもなるものなり」とも記されていますから、藩の専売まで考えていたことがわかります。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『広益国産考』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。








『北槎聞略』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2023-03-13 19:03:21 | 私の授業
北槎聞略


原文
 予(かね)て療病院より庄蔵を磯吉が旅宿へ呼び寄せおきしが、わざと発足(ほつそく)の事をば隠しおき、立(たち)ぎはに俄(にわか)に暇乞(いとまごい)をなしければ、庄蔵は只呆(あきれ)て物をも言はず、茫然としたる体也(ていなり)しが、光太夫(こうだゆう)立寄り手をとりて、「今別れて、再び会べきともおぼへず。死して別るゝも同じ道なれば、よく〳〵互(たがい)の面(おもて)をも見おくべし」と、懇(ねんごろ)に離情をのべ、いつまでも惜むとも尽きせぬ名残なれば、心弱くては叶(かな)はじと、彼邦(かのくに)のならひなれば、つと寄りて口を吸ひ、思ひきりて駆け出(いだ)せば、庄蔵は叶(かな)はぬ足にて、立あがりこけまろび、大声をあげ、小児の如く泣叫び、悶(もだ)へこがれける。
 道のほど、暫(しばし)のうちは、その声耳に残りて、腸(はらわた)を断計(たつばか)りにおぼえける。同じ国土のうちにて、しばしの別れだにも生き別離(わかれ)ほど悲しきはなきならひなるに、まして此(この)年月の辛苦をしのぎ、生死(しようじ)を共にとたのみしものゝ、しかも不具の身となりて、同行の者に別れ、異邦に残り留(とどま)る事なれば、さばかりの悲しみも理(ことわり)なり。

現代語訳
 (一七九二年五月、イルクーツクを出発する日) 前もって、磯吉が病院から庄蔵を宿舎に連れて来ていたが、(日本に向けて)出発することはわざと隠しておき、間際になって急に別れの挨拶をしたので、庄蔵はただ呆れるばかりで物も言わず、茫然とした様子であった。光太夫が近寄って手をとり、「今ここで別れたら、再び会えるとも思えない。死んで別れるのと同じことだから、よくよくお互いの顔を見ておかなければ」と、心を込めて別れを惜しむ気持ちを話した。しかしいつまで惜しんでも名残は尽きないので、弱気になってはいけないと(心を鬼にして別れようと)、ロシアの習慣に従い、つと近寄って接吻してから、思い切って走り出すと、庄蔵は不自由な足で立ち上がり、転んで倒れ、大声を上げて子供のように泣き叫んで悶えた。
 道中暫くは、その声が耳に残り、断腸の思いであった。同じ国の中のしばしの別れでさえ、生き別れるように悲しいのが世の常であるのに、ましてこの長い年月の辛苦を耐え忍び、生死を共にして助け合って来たのに、しかも不自由な身体となって仲間と別れ、異国に残り留まるのであるから、その悲しみはいかばかりか、無理のないことである。

解説
 『北槎聞略(ほくさぶんりやく)』は、漂流してアリューシャン列島まで流れ着き、シベリアを横断してロシアの都まで行き、約十年後に帰国した、伊勢の船頭である大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)(1751~1828)の体験を、幕府の侍医であった桂川甫周(かつらがわほしゆう)が、将軍徳川家斉の命により聞き取って叙述した、ロシア帰還漂流民の記録です。「北槎」の「槎」とは筏(いかだ)のことですから、ここでは北方に漂流したことを意味しています。
 本書は十一巻と付録一巻、地図十枚他から成り、とうてい漂流民からの聞き書きとは思えない程の、充実した内容です。巻一には、遭難船の大きさ、全ての乗員の名前・出身・年齢、及び途中で死亡した者については、その日付と場所。また送還船の大きさ、全ての乗員の名前、年齢、役職や階級が、詳細に記されています。巻二・三は、遭難や送還の経緯について記されていますが、地名、人名、距離、謁見の様子、下賜品、餞別の品々まで、まるで日記の如く詳細を極めています。巻四から巻十までは、ロシア滞在中の見聞情報で、ロシア博物誌とも言える詳しさです。巻十一には、一二六二のロシア語を片仮名で表記し、日本語訳をつけた辞書となっています。また地図には地球・ヨーロッパ・アジア・アメリカ・アフリカ・ロシア・日本の各全図などがあります。光太夫は毎日詳細な記録をとっていたのでしょう。これだけ詳細な情報を持ち帰った、光太夫の並外れた学力と強い意志の力を見ると、運も健康も必須ですが、生還できたのも納得できます。
 大黒屋光太夫の船は、天明二年(1782)十二月十三日、乗員十七名で伊勢の白子(しろこ)浦を出帆しましたが、駿河灘で遭難しました。転覆を恐れた船頭の光太夫は、帆柱を切り倒し、流されるまま翌年七月二十日にアリューシャン列島西端のアムチトカ島に漂着しました。実に七カ月も漂流したのですが、積荷の米などがあり、水には苦労しましたが、食料はなんとかなりました。彼等はここで、先住民や毛皮商のロシア人に助けられながら四年間生活し、難破船の材木を寄せ集め、一年がかりで作った船でカムチャッカに渡ります。そして寛政元年(1789)、バイカル湖に近いイルクーツクに到着します。しかしその間に仲間が何人も病死し、六名になっていました。
 何としても帰国したい光太夫は、イルクーツクにあるシベリア総督府に帰国嘆願書を三回も提出しますが、何の音沙汰もありません。それで一七九一年、ついに皇帝に直訴するため、光太夫と磯吉と小市の三人は、首都ペテルブルグまで行きます。すると女帝エカテリーナ二世は喜んで、手ずから慰労の品々を下賜し、帰国を許可し援助を約束しました。そして翌一七九二年五月に、三人がイルクーツクを出立することになります。帰国が許可されたのは、日本人漂流民を教師とした日本語学校が、すでに開校されていたことでもわかるように、漂流民送還を口実に、皇帝の親書を持った使節を派遣し、日本との交易を始めたいという目的があったからです。
 ここに載せたのは、凍傷で片足の膝下を切断し、また改宗して帰国を断念した庄蔵との離別の場面です。キリスト教徒になったからには、帰国できません。その後光太夫達はロシア使節のラックスマンと共に、寛政四年(1792)九月五日、蝦夷地の根室に到着しました。しかし小市は根室滞在中に亡くなり、残る二人が役人に預けられたのは、日露会談後の翌年のことでした。その後光太夫は江戸に屋敷を与えられ、桂川甫周や大槻玄沢ら蘭学者と交流し、蘭学発展に寄与しました。
 寛政六年閏十一月十一日は、西暦一七九五年元日に当たり、蘭学者の大槻玄沢邸では太陽暦の新年会が催されました。その様子は「芝蘭堂(しらんどう)新元会図」に描かれているのですが、そこには二八人の蘭学者に交じり、洋装で一人椅子に坐る光太夫が描かれています。

昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『北槎聞略』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。