菟玖波集
原文
①山陰しるき雪の村消(むらぎえ)
新玉(あらたま)の年の越えける道なれや 後嵯峨院御製(春上)
②たえぬ煙と立のぼる哉(かな)
春はまだ浅間の岳(やま)の薄霞 前大納言為家(春上)
③その品々やまたかはるらむ
月霞む果(はて)は雨夜になりにけり 関白前左大臣(春上)
④鳴くにぞ虫の名をも分けたる
山陰のすゞの笹(しの)屋に機織りて 救濟(ぐさい)法師(秋下)
⑤したはゞ袖の色に出(いで)なむ
時雨(しぐれ)行くやどのむら萩うら枯て 後鳥羽院御製(秋上)
⑥ひろき空にもすばる星かな
深き海にかゞまる蝦(えび)の有るからに 西行法師(俳諧)
現代語訳
①山陰には、はっきりと雪がまだらに消えている
それは新年が山を越えて来た跡なのだなあ
後嵯峨上皇御製
②絶えることのない煙となって、立ち上ることであるよ 春まだ浅い浅間山には、薄霞がかかっている 藤原為家
③その色々な品は、それぞれに変わってゆくことであろう
朧月夜は、ついに春雨の降る夜になってしまった
二条良基
④鳴くからこそ、その虫の名を聞き分けられる
山陰では鈴虫が鳴き、涼しそうな笹葺(ささぶき)小屋では、きりぎり すが機(はた)を織るように鳴いている 救濟(ぐさい)法師
⑤恋い慕うと涙で袖が濡れ、本心が顕(あらわ)れてしまうだろう
時雨(しぐれ)に濡れて、庭の一叢(ひとむら)の萩の下葉が黄葉(もみじ)に染まることだ 後鳥羽上皇御製
⑥広い空なのに、身を窄(すぼ)めるすばる星があるのだなあ
深い海にも、身をかがめる海老(えび)もいるのだから 西行
解説
『菟玖波集(つくばしゆう)』は、南北朝期に関白であった二条良基(にじようよしもと)(1320~1388)が、連歌師の救濟(ぐさい)に命じて編纂させた連歌集で、正平(しようへい)十一年(延文元年、1356)に成立し、翌年には綸旨により準勅撰とされました。また当代の連歌ばかりではなく、古代からの連歌の集大成であり、和歌の余戯と見做されていた連歌を、文芸として地位を確立させた、連歌史上の記念碑的連歌集です。また二条良基は、連歌の規則を定めた『応安新式(おうあんしんしき)』を著していますから、連歌を大成したのが飯尾宗祇(いいおそうぎ)とすれば、文芸としての連歌を確立したのが二条良基と言えます。
「つくば」は、倭建命(やまとたけるのみこと)(日本武尊)が常陸国の筑波を経て、甲斐国の酒折宮(さかおりのみや)に着いたとき、「新治(にいはり)筑波を過ぎて幾夜か寝(いね)つる」と歌で問いかけたのに対し、御火焼翁(みひたきのおきな)が「日々並(かがな)べて夜には九夜(ここのよ)日には十日を」と応答したという神話上の故事が、連歌の起源と理解されていたことによる呼称です。
そもそも連歌というものは、五七五の長句に、別の人が七七の短句を付けたり、またその逆の、短連歌から始まりました。鎌倉時代より前の連歌は、ほぼ短連歌と見てよいでしょう。ただし連歌集の中では短連歌に見えても、五十句、百句も続く長連歌から、部分的に抽(ぬ)き出されたものもあります。句の下に名前が記されていないのが前句で、記されているのが作者のわかる付句です。
連歌は、二人で前句と付句を合わせ詠むとはいっても、二人で一つの和歌を合作するわけではありません。前句と付句はそれぞれ完結した内容を持っていて、前句と付句を合わせてようやく意味が通るのは、認められません。また連歌の面白さは、前句の内容を承(う)けて、如何に優雅に、あるいは機知のある付句を詠むかという付合(つけあい)にあり、付句の創意工夫に評価の観点があります。そのため連歌は人々が集って詠む「座」の文芸ですから、集う人々の歌学的教養のレベルが揃っていないと、付句の面白さを共有できず、連歌を楽しめません。そのため現代に連歌を楽しむことは、なかなか難しいのです。
連歌には、優雅や幽玄を旨とする格調高い和歌的な有心(うしん)連歌(正風連歌)と、言葉遊や機知を旨とする座興的な無心連歌(俳諧連歌)とがありました。『菟玖波集』には両者が含まれています。室町時代には有心連歌が流行(はや)り、『水無瀬三吟(みなせさんぎん)
百韻(ひやくいん)』はその最高峰です。しかし末期になると、滑稽で平易な語句を用いる庶民的な無心連歌が流行り、『犬筑波集』はその典型です。そのような滑稽な連歌は「俳諧連歌」とも呼ばれるのですが、「俳」も「諧」も「戯(たわむ)れ」という意味です。このような俳諧連歌の、五七五の句だけを独立させた庶民的文芸が、江戸時代の俳諧というわけです。
①は、後嵯峨上皇御製の付句で、山肌の雪が斑(まだら)に融(と)けているのを、年(春)が山を越えて来た足跡であると見ているわけです。ただ自然を擬人的に理解するのは王朝和歌以来のことですから、必ずしも俳諧連歌とは言えません。
②は、藤原為家(定家の子)の付句で、煙から浅間山を連想して春がまだ浅いことを掛け、さらに煙から連想で、春の立つ徴である春霞を詠んでいます。
③は、『菟玖波集』の編者である二条良基の付句です。長連歌の一部だけを切り取っているので、前句の背景はよくわかりませんが、良基は前句の「品々」から『源氏物語』「帚木(ははきぎ)の巻」の有名な「雨夜の品定め」の場面を連想し、「雨夜」を付合としたものです。当時の教養人なら「雨夜の品定め」を知らない人はいませんから、これで笑いをとれたわけです。
④は、二条良基と共に、『菟玖波集』を編纂した救濟(ぐさい)の付句です。「すゞ」は「涼」と鈴虫(現在の松虫)を掛け、「機織」は機織虫(はたおりむし)(現在のきりぎりす)を表していて、秋の虫の鳴き声を、秋の侘しい風景に転換させたところが見せ所です。機織虫は、キリギリスの「チョンギース」「ギーッチョン」という鳴き声が、機織の音に似ているため、その名で呼ばれていました。
⑤は、後鳥羽上皇御製の付句です。前句の「色に出づ」とは、恋心などの本心が表に出ることの常套表現です。付句では前句の「したはゞ」(慕はば)を「下葉は」と理解して、萩の下葉が黄葉(もみじ)することへ転換させています。付句には色変わりしたことは詠まれていませんが、時雨が木の葉を染め、特に萩は下の葉から黄葉(もみじ)するということは、当時の教養人なら知らない人はいない常識でした。恋の歌から秋の歌へ転換して見せた有心連歌です。
⑥は、西行の付句です。昴(すばる)星は古くから「六連星(むつらぼし)」とも呼ばれ、星がまとまって見えることから、「統(す)ばる」(一つにまとめること)と呼ばれていました。前句では「統(す)ばる」を「窄(すぼ)む」にこじつけて、「空は広いのに、なぜ身を窄(すぼ)めている星があるのか」という謎掛(なぞか)けに、西行が「深い海にも身を屈(かが)める海老(えび)がいるではないか」と戯(おど)けて応じたわけです。このような言葉遊びの歌を俳諧歌(はいかいか)と言い、連歌の会が歌会の余興であったことをよく表しています。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『菟玖波集』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。
原文
①山陰しるき雪の村消(むらぎえ)
新玉(あらたま)の年の越えける道なれや 後嵯峨院御製(春上)
②たえぬ煙と立のぼる哉(かな)
春はまだ浅間の岳(やま)の薄霞 前大納言為家(春上)
③その品々やまたかはるらむ
月霞む果(はて)は雨夜になりにけり 関白前左大臣(春上)
④鳴くにぞ虫の名をも分けたる
山陰のすゞの笹(しの)屋に機織りて 救濟(ぐさい)法師(秋下)
⑤したはゞ袖の色に出(いで)なむ
時雨(しぐれ)行くやどのむら萩うら枯て 後鳥羽院御製(秋上)
⑥ひろき空にもすばる星かな
深き海にかゞまる蝦(えび)の有るからに 西行法師(俳諧)
現代語訳
①山陰には、はっきりと雪がまだらに消えている
それは新年が山を越えて来た跡なのだなあ
後嵯峨上皇御製
②絶えることのない煙となって、立ち上ることであるよ 春まだ浅い浅間山には、薄霞がかかっている 藤原為家
③その色々な品は、それぞれに変わってゆくことであろう
朧月夜は、ついに春雨の降る夜になってしまった
二条良基
④鳴くからこそ、その虫の名を聞き分けられる
山陰では鈴虫が鳴き、涼しそうな笹葺(ささぶき)小屋では、きりぎり すが機(はた)を織るように鳴いている 救濟(ぐさい)法師
⑤恋い慕うと涙で袖が濡れ、本心が顕(あらわ)れてしまうだろう
時雨(しぐれ)に濡れて、庭の一叢(ひとむら)の萩の下葉が黄葉(もみじ)に染まることだ 後鳥羽上皇御製
⑥広い空なのに、身を窄(すぼ)めるすばる星があるのだなあ
深い海にも、身をかがめる海老(えび)もいるのだから 西行
解説
『菟玖波集(つくばしゆう)』は、南北朝期に関白であった二条良基(にじようよしもと)(1320~1388)が、連歌師の救濟(ぐさい)に命じて編纂させた連歌集で、正平(しようへい)十一年(延文元年、1356)に成立し、翌年には綸旨により準勅撰とされました。また当代の連歌ばかりではなく、古代からの連歌の集大成であり、和歌の余戯と見做されていた連歌を、文芸として地位を確立させた、連歌史上の記念碑的連歌集です。また二条良基は、連歌の規則を定めた『応安新式(おうあんしんしき)』を著していますから、連歌を大成したのが飯尾宗祇(いいおそうぎ)とすれば、文芸としての連歌を確立したのが二条良基と言えます。
「つくば」は、倭建命(やまとたけるのみこと)(日本武尊)が常陸国の筑波を経て、甲斐国の酒折宮(さかおりのみや)に着いたとき、「新治(にいはり)筑波を過ぎて幾夜か寝(いね)つる」と歌で問いかけたのに対し、御火焼翁(みひたきのおきな)が「日々並(かがな)べて夜には九夜(ここのよ)日には十日を」と応答したという神話上の故事が、連歌の起源と理解されていたことによる呼称です。
そもそも連歌というものは、五七五の長句に、別の人が七七の短句を付けたり、またその逆の、短連歌から始まりました。鎌倉時代より前の連歌は、ほぼ短連歌と見てよいでしょう。ただし連歌集の中では短連歌に見えても、五十句、百句も続く長連歌から、部分的に抽(ぬ)き出されたものもあります。句の下に名前が記されていないのが前句で、記されているのが作者のわかる付句です。
連歌は、二人で前句と付句を合わせ詠むとはいっても、二人で一つの和歌を合作するわけではありません。前句と付句はそれぞれ完結した内容を持っていて、前句と付句を合わせてようやく意味が通るのは、認められません。また連歌の面白さは、前句の内容を承(う)けて、如何に優雅に、あるいは機知のある付句を詠むかという付合(つけあい)にあり、付句の創意工夫に評価の観点があります。そのため連歌は人々が集って詠む「座」の文芸ですから、集う人々の歌学的教養のレベルが揃っていないと、付句の面白さを共有できず、連歌を楽しめません。そのため現代に連歌を楽しむことは、なかなか難しいのです。
連歌には、優雅や幽玄を旨とする格調高い和歌的な有心(うしん)連歌(正風連歌)と、言葉遊や機知を旨とする座興的な無心連歌(俳諧連歌)とがありました。『菟玖波集』には両者が含まれています。室町時代には有心連歌が流行(はや)り、『水無瀬三吟(みなせさんぎん)
百韻(ひやくいん)』はその最高峰です。しかし末期になると、滑稽で平易な語句を用いる庶民的な無心連歌が流行り、『犬筑波集』はその典型です。そのような滑稽な連歌は「俳諧連歌」とも呼ばれるのですが、「俳」も「諧」も「戯(たわむ)れ」という意味です。このような俳諧連歌の、五七五の句だけを独立させた庶民的文芸が、江戸時代の俳諧というわけです。
①は、後嵯峨上皇御製の付句で、山肌の雪が斑(まだら)に融(と)けているのを、年(春)が山を越えて来た足跡であると見ているわけです。ただ自然を擬人的に理解するのは王朝和歌以来のことですから、必ずしも俳諧連歌とは言えません。
②は、藤原為家(定家の子)の付句で、煙から浅間山を連想して春がまだ浅いことを掛け、さらに煙から連想で、春の立つ徴である春霞を詠んでいます。
③は、『菟玖波集』の編者である二条良基の付句です。長連歌の一部だけを切り取っているので、前句の背景はよくわかりませんが、良基は前句の「品々」から『源氏物語』「帚木(ははきぎ)の巻」の有名な「雨夜の品定め」の場面を連想し、「雨夜」を付合としたものです。当時の教養人なら「雨夜の品定め」を知らない人はいませんから、これで笑いをとれたわけです。
④は、二条良基と共に、『菟玖波集』を編纂した救濟(ぐさい)の付句です。「すゞ」は「涼」と鈴虫(現在の松虫)を掛け、「機織」は機織虫(はたおりむし)(現在のきりぎりす)を表していて、秋の虫の鳴き声を、秋の侘しい風景に転換させたところが見せ所です。機織虫は、キリギリスの「チョンギース」「ギーッチョン」という鳴き声が、機織の音に似ているため、その名で呼ばれていました。
⑤は、後鳥羽上皇御製の付句です。前句の「色に出づ」とは、恋心などの本心が表に出ることの常套表現です。付句では前句の「したはゞ」(慕はば)を「下葉は」と理解して、萩の下葉が黄葉(もみじ)することへ転換させています。付句には色変わりしたことは詠まれていませんが、時雨が木の葉を染め、特に萩は下の葉から黄葉(もみじ)するということは、当時の教養人なら知らない人はいない常識でした。恋の歌から秋の歌へ転換して見せた有心連歌です。
⑥は、西行の付句です。昴(すばる)星は古くから「六連星(むつらぼし)」とも呼ばれ、星がまとまって見えることから、「統(す)ばる」(一つにまとめること)と呼ばれていました。前句では「統(す)ばる」を「窄(すぼ)む」にこじつけて、「空は広いのに、なぜ身を窄(すぼ)めている星があるのか」という謎掛(なぞか)けに、西行が「深い海にも身を屈(かが)める海老(えび)がいるではないか」と戯(おど)けて応じたわけです。このような言葉遊びの歌を俳諧歌(はいかいか)と言い、連歌の会が歌会の余興であったことをよく表しています。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『菟玖波集』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。