うたことば歳時記

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『菟玖波集』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面 

2020-06-29 10:29:05 | 私の授業
菟玖波集


原文
①山陰しるき雪の村消(むらぎえ)
 新玉(あらたま)の年の越えける道なれや    後嵯峨院御製(春上)

②たえぬ煙と立のぼる哉(かな)
 春はまだ浅間の岳(やま)の薄霞      前大納言為家(春上)

③その品々やまたかはるらむ
 月霞む果(はて)は雨夜になりにけり    関白前左大臣(春上)

④鳴くにぞ虫の名をも分けたる
 山陰のすゞの笹(しの)屋に機織りて      救濟(ぐさい)法師(秋下)

⑤したはゞ袖の色に出(いで)なむ
 時雨(しぐれ)行くやどのむら萩うら枯て   後鳥羽院御製(秋上)

⑥ひろき空にもすばる星かな
深き海にかゞまる蝦(えび)の有るからに 西行法師(俳諧)

現代語訳
①山陰には、はっきりと雪がまだらに消えている
 それは新年が山を越えて来た跡なのだなあ
                    後嵯峨上皇御製

②絶えることのない煙となって、立ち上ることであるよ 春まだ浅い浅間山には、薄霞がかかっている  藤原為家

③その色々な品は、それぞれに変わってゆくことであろう
 朧月夜は、ついに春雨の降る夜になってしまった  
                       二条良基

④鳴くからこそ、その虫の名を聞き分けられる
 山陰では鈴虫が鳴き、涼しそうな笹葺(ささぶき)小屋では、きりぎり すが機(はた)を織るように鳴いている         救濟(ぐさい)法師

⑤恋い慕うと涙で袖が濡れ、本心が顕(あらわ)れてしまうだろう
 時雨(しぐれ)に濡れて、庭の一叢(ひとむら)の萩の下葉が黄葉(もみじ)に染まることだ               後鳥羽上皇御製

⑥広い空なのに、身を窄(すぼ)めるすばる星があるのだなあ
 深い海にも、身をかがめる海老(えび)もいるのだから    西行

解説
 『菟玖波集(つくばしゆう)』は、南北朝期に関白であった二条良基(にじようよしもと)(1320~1388)が、連歌師の救濟(ぐさい)に命じて編纂させた連歌集で、正平(しようへい)十一年(延文元年、1356)に成立し、翌年には綸旨により準勅撰とされました。また当代の連歌ばかりではなく、古代からの連歌の集大成であり、和歌の余戯と見做されていた連歌を、文芸として地位を確立させた、連歌史上の記念碑的連歌集です。また二条良基は、連歌の規則を定めた『応安新式(おうあんしんしき)』を著していますから、連歌を大成したのが飯尾宗祇(いいおそうぎ)とすれば、文芸としての連歌を確立したのが二条良基と言えます。
 「つくば」は、倭建命(やまとたけるのみこと)(日本武尊)が常陸国の筑波を経て、甲斐国の酒折宮(さかおりのみや)に着いたとき、「新治(にいはり)筑波を過ぎて幾夜か寝(いね)つる」と歌で問いかけたのに対し、御火焼翁(みひたきのおきな)が「日々並(かがな)べて夜には九夜(ここのよ)日には十日を」と応答したという神話上の故事が、連歌の起源と理解されていたことによる呼称です。
 そもそも連歌というものは、五七五の長句に、別の人が七七の短句を付けたり、またその逆の、短連歌から始まりました。鎌倉時代より前の連歌は、ほぼ短連歌と見てよいでしょう。ただし連歌集の中では短連歌に見えても、五十句、百句も続く長連歌から、部分的に抽(ぬ)き出されたものもあります。句の下に名前が記されていないのが前句で、記されているのが作者のわかる付句です。
 連歌は、二人で前句と付句を合わせ詠むとはいっても、二人で一つの和歌を合作するわけではありません。前句と付句はそれぞれ完結した内容を持っていて、前句と付句を合わせてようやく意味が通るのは、認められません。また連歌の面白さは、前句の内容を承(う)けて、如何に優雅に、あるいは機知のある付句を詠むかという付合(つけあい)にあり、付句の創意工夫に評価の観点があります。そのため連歌は人々が集って詠む「座」の文芸ですから、集う人々の歌学的教養のレベルが揃っていないと、付句の面白さを共有できず、連歌を楽しめません。そのため現代に連歌を楽しむことは、なかなか難しいのです。
 連歌には、優雅や幽玄を旨とする格調高い和歌的な有心(うしん)連歌(正風連歌)と、言葉遊や機知を旨とする座興的な無心連歌(俳諧連歌)とがありました。『菟玖波集』には両者が含まれています。室町時代には有心連歌が流行(はや)り、『水無瀬三吟(みなせさんぎん)
百韻(ひやくいん)』はその最高峰です。しかし末期になると、滑稽で平易な語句を用いる庶民的な無心連歌が流行り、『犬筑波集』はその典型です。そのような滑稽な連歌は「俳諧連歌」とも呼ばれるのですが、「俳」も「諧」も「戯(たわむ)れ」という意味です。このような俳諧連歌の、五七五の句だけを独立させた庶民的文芸が、江戸時代の俳諧というわけです。
 ①は、後嵯峨上皇御製の付句で、山肌の雪が斑(まだら)に融(と)けているのを、年(春)が山を越えて来た足跡であると見ているわけです。ただ自然を擬人的に理解するのは王朝和歌以来のことですから、必ずしも俳諧連歌とは言えません。
 ②は、藤原為家(定家の子)の付句で、煙から浅間山を連想して春がまだ浅いことを掛け、さらに煙から連想で、春の立つ徴である春霞を詠んでいます。
 ③は、『菟玖波集』の編者である二条良基の付句です。長連歌の一部だけを切り取っているので、前句の背景はよくわかりませんが、良基は前句の「品々」から『源氏物語』「帚木(ははきぎ)の巻」の有名な「雨夜の品定め」の場面を連想し、「雨夜」を付合としたものです。当時の教養人なら「雨夜の品定め」を知らない人はいませんから、これで笑いをとれたわけです。
 ④は、二条良基と共に、『菟玖波集』を編纂した救濟(ぐさい)の付句です。「すゞ」は「涼」と鈴虫(現在の松虫)を掛け、「機織」は機織虫(はたおりむし)(現在のきりぎりす)を表していて、秋の虫の鳴き声を、秋の侘しい風景に転換させたところが見せ所です。機織虫は、キリギリスの「チョンギース」「ギーッチョン」という鳴き声が、機織の音に似ているため、その名で呼ばれていました。
 ⑤は、後鳥羽上皇御製の付句です。前句の「色に出づ」とは、恋心などの本心が表に出ることの常套表現です。付句では前句の「したはゞ」(慕はば)を「下葉は」と理解して、萩の下葉が黄葉(もみじ)することへ転換させています。付句には色変わりしたことは詠まれていませんが、時雨が木の葉を染め、特に萩は下の葉から黄葉(もみじ)するということは、当時の教養人なら知らない人はいない常識でした。恋の歌から秋の歌へ転換して見せた有心連歌です。
 ⑥は、西行の付句です。昴(すばる)星は古くから「六連星(むつらぼし)」とも呼ばれ、星がまとまって見えることから、「統(す)ばる」(一つにまとめること)と呼ばれていました。前句では「統(す)ばる」を「窄(すぼ)む」にこじつけて、「空は広いのに、なぜ身を窄(すぼ)めている星があるのか」という謎掛(なぞか)けに、西行が「深い海にも身を屈(かが)める海老(えび)がいるではないか」と戯(おど)けて応じたわけです。このような言葉遊びの歌を俳諧歌(はいかいか)と言い、連歌の会が歌会の余興であったことをよく表しています。


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『折たく柴の記』(1)高校生に読ませたい歴史的名著の名場面 

2020-06-23 18:36:39 | 私の授業
折たく柴の記

原文
 我八歳の秋、戸部(こほう・とべ)の上総国にゆき給ひし後(あと)にて、手習ふ事を教へしめらる。其冬の十二月半ば、戸部帰り参り給ひしかば、常に傍(かたわら)にさぶらふ事もとの如し。明けの年の秋、また国にゆき給ひし後にて、課を立てられて、「日のうちには行草の字三千、夜に入りて一千字を限りて書き出すべし」と命ぜられたり。冬に至りぬれば、日短くなりて、課いまだ満たざるに、日暮んとする事たびた〳〵にて、西向なる竹縁のある上に机をもち出(い)でゝ、書終りぬる事もありき。
 また夜に入りて手習ふに、睡(ねぶり)の催して堪(たえ)がたきに、我に付けられし者と密(ひそか)にはかりて、水二桶づゝ、かの竹縁に汲置かせて、いたく睡(ねむり)の催しぬれば、衣ぬぎすてゝ、まづ一桶の水をかゝりて、衣うち着て習ふに、初(はじめ)ひやゝかなるに目さむる心地すれど、しばし程経(へ)ぬれば、身あたゝかになりて、また〳〵眠くなりぬれば、又水をかゝる事、さきの事の如くす。二たび水をかゝりぬるほどには、大やうは課をも満(み)てたりき。これ、我九歳の秋冬の間の事也。
 かゝりしほどに、此比(このころ)よりは、我父の、人に贈り給ふ文(ふみ)をば、かたの如くには書きたり。十歳(写本によっては十一歳)の秋、また課を立られて、庭訓往来を習はしめられ、十一月に至て、「十日がうちに浄写(じようしや)してまゐらすべし」と命ぜられ、命ぜられし如くに事を終へしかば、冊になして戸部に見せまゐらす。褒(ほ)め給ふ事大かたならず。十三の時よりは、戸部の人と贈答し給ふ程の文ども、大かたは我に命ぜられき。

現代語訳
 私が八歳の秋のこと、殿(上総国久留里(くるり)藩主土屋利直(としなお)、「戸部(こほう)」は官職である民部少輔の唐名)が領地の上総国に行かれた後、(殿は父に命じて私に)手習いを教えるようにさせられた。その年の冬の十二月半ば、殿がお戻りになられたので、また以前のようにお側にお仕えした。翌年の秋、また上総国に行かれた後、(殿は)私に日課をお立てになり、「日中には行書と草書を三千字、夜には一千字をきっちりと書いて出すように」とお命じになられた。冬になると日が短くなり、日課がまだ終わらないうちに日が暮れようとする事がたびたびあったので、(少しでも明るい)西向きの竹の縁のある所に机を持ち出して、ようやく書き終えたこともあった。
 また夜になって手習いをしていると、眠気をこらえきれないので、私につけられた係の者とこっそり相談し、水を二桶ずつ、その竹の縁に汲んで置かせ、大層眠気を催す時には、着物を脱ぎ捨ててまず一桶の水をかぶり、また着物を着て手習をする。初めは冷たくて目が覚めるような気持ちがするが、しばらくすると身体が温かくなり、またまた眠くなったので、さき程と同じように水をかぶる。そして二度目の水をかぶる頃には、日課も大体は終わった。これは私が九歳の秋から冬の事である。
 そのようなことで、この頃から父上が人様に出される手紙を、一とおり書いたものである。十歳(十一歳)の秋には殿がまた課題をお立てになり、庭訓往来を習わせられ、十一月になると、「十日間で清書して提出するように」とお命じになられた。そして命じられた通りにやり終え、冊子に綴じて殿にお見せしたところ、お褒めになられること大層なものであった。それで十三歳になってからは、殿が人とやりとりされる手紙は、たいてい私に書くように命じられた。

解説
 『折たく柴の記(おりたくしばのき)』は、儒学者であり、第六・七代将軍徳川家宣(いえのぶ)・家継に仕えた新井白石(1657~1725)が著した自叙伝です。自叙伝とはいえ、将軍の側近として、政権の中枢にいた人ですから、勘定吟味役の設置、荻原重秀の罷免、元禄小判から正徳小判への貨幣改鋳、長崎貿易制限法である海舶互市新例などに関する当事者の記録として、政治的にも極めて重要な内容が含まれています。
 享保元年(1716)、白石は第八代将軍の徳川吉宗により罷免されますが、その半年後から『折たく柴の記』の執筆を始めました。あくまでも身内のための家訓として書いたものですから、儒学者の著述とは思えない程わかりやすい文で書かれています。巻末には、「百年にして公議定まらむ日、天下の人の議しなむところこそ恥かしき事なれ」と書いて筆を置いていますから、子孫のために書き残すとはいえ、いずれは公表されるであろう事、また今は評価されなくても、いずれその業績が評価されることへの期待がありました。
 書名は『新古今和歌集』の後鳥羽上皇御製「思ひ出づる折りたく柴の夕煙むせぶもうれし忘れ形見に」から採られています。これは「夕方に亡き人を思い出すと、手折って焚く柴の煙にむせて涙が出るのも、亡き人の忘れ形見だと思えて嬉しいものである」という意味です。子孫が読むであろうことを、想定していたのでしょう。
 白石の父正済(まさなり)は、上総国久留里(くるり)藩主土屋利直(としなお)に仕えていました。しかし利直を継いだ直樹(なおき)は父利直と折り合いが悪く、利直に重用された正済は禄を奪われ、利直の右筆(ゆうひつ)(書記)まで勤めた白石も出仕を止められ、白石は二一歳で浪人となりました。その後一時大老の堀田正俊(まさとし)に仕えますが、翌年に正俊が若年寄の稲葉正休(まさやす)に江戸城内で刺殺され、その三年後にまたもや浪人となっています。白石の聡明さを惜しんだ知人が、豪商の養子となる話を持ちかけます。しかし三千両(約三億円)の大金と宅地を用意して迎えたいという条件でも断ってしまいます。その後朱子学者の木下順庵(じゆんあん)に学び、その推挙で甲府藩主徳川綱豊(つなとよ)(後に家宣)の侍講となりました。しかし将軍徳川綱吉には跡継ぎがいなかったため、弟の綱豊が将軍世子(せいし)(将軍後継者)となり、綱吉の死後に第六代将軍家宣となります。それに伴い白石は自然に幕政を担う立場に置かれ、第六代将軍徳川家宣・七代将軍家継の治世の八年間に渡って、金の品位を高めた正徳小判発行、朝鮮通信使の待遇簡素化、金銀の海外流出を防ぐための海舶互市新例など、「正徳の治」と呼ばれる一連の政治改革を主導することになりました。他には皇統維持のため、閑(かん)院宮(いんのみや)家を創設しましたが、現在の皇統はその子孫ですから、このことが現在にもなお影響を及ぼしているという意味では、白石最大の功績かもしれません。
 政治家白石の道は徳川吉宗により断たれましたが、白石の本領はあくまでも学者であり、実に幅広く業績を残しています。諸大名の家系図を整理した『藩翰譜(はんかんぷ)』、歴史叙述に始めて時代区分という概念を採り入れた史論書『読史余論(とくしよろん)』、神話の時代を合理的に解釈した『古史通(こしつう)』、イタリア人宣教師シドティの尋問記録をもとにキリスト教などについて叙述した『西洋紀聞(せいようきぶん)』、同じく世界地理についての『采覧異言(さいらんいげん)』、語源辞典『東雅(とうが)』、卑弥呼は神功皇后であり、邪馬台国は大和にあったことなどを説いた『古史通或問(わくもん)』、そしてこの『折たく柴の記』などを著した、日本史上屈指の大学者です。
 ここに載せたのは上巻の「日課手習の事」の部分で、藩主と父の命により、文字の習得に励む場面です。八~九歳は満年齢に直せば七~八歳ですから、小学二~三年生に当たります。手習いとして筆で千字書くのに要する時間は、慣れていても一時間(3600秒)はかかりますから、準備や片付け、休憩や生理現象まで含めると、四千字書くのは数時間かかるでしょう。その年齢で真冬の夜に自発的に冷水を浴びるというのですから、その意志の力は並外れていました。
 ここに載せた部分より少し前に、父に教えられたことについて、「常に思出らるゝ事は、男児はたゞ事に堪ふる事を習ふべきなり・・・・と仰られき。我八九歳の頃より、常にこの事によりて力を得し事も多けれど・・・・」と述べていますから、堪えがたきを堪える強い意志は、父の厳しい鍛錬の賜物だった様です。十三歳で藩主の手紙を代筆したということは、極端な比喩ですが、地方自治体の長の手紙を小学六年生か中学一年生が代筆した様なもので、白石の早熟の才能を物語る逸話です。





『笈の小文』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面 

2020-06-18 17:51:22 | 私の授業
笈の小文


原文
 百骸九竅(ひやくがいきゆうきよう)の中(うち)に物有(ものあり)。仮に名付て風羅坊(ふうらぼう)といふ。誠に薄物(うすもの)の風に破れやすからん事をいふにやあらむ。彼、狂句(きようく)を好むこと久し。終(つい)に生涯のはかりごとゝなす。ある時は倦(うみ)て放擲(ほうてき)せん事を思ひ、ある時はすゝむで人に勝たむ事を誇り、是非胸中にたゝかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立(たて)む事を願へども、これが為に障(さ)へられ、暫(しばら)く学(まなん)で愚(ぐ)を暁(さとら)ん事を思へども、是が為に破られ、遂(つい)に無能無芸にして、只(ただ)此(この)一筋に繋(つなが)る。
 西行の和歌における、宗祇(そうぎ)の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其(その)貫道する物は一(いつ)なり。しかも風雅におけるもの、造化(ぞうか)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処、花にあらずといふ事なし。思ふ所、月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は、夷狄(いてき)にひとし。心花にあらざる時は、鳥獣に類(るい)す。夷狄(いてき)を出(いで)、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。

現代語訳
 多くの骨と九つの穴のあるもの、つまり私の身体の中に、(曰く言い難い)ある「物」がある。それを仮に「風羅坊(ふうらぼう)」(風に吹かれる薄衣(うすぎぬ)をまとった坊主)という。まことに、薄い衣が風に吹かれてすぐに破れてしまう事を言うのだろうか。その男「風羅坊」は、長い間俳諧を好んでいた。そして生涯それと取り組むこととになってしまった。ある時はもう嫌になって投げ出そうと思い、ある時は(俳諧の道で)自ら人に勝ち誇ろうとし、どうしたものか思い悩み、その俳諧好きのために気の休まることがなかった。ある時は(仕官して)立身出世を願うこともあったが、このために妨げられ、また少しは修行(学問?)をして自分の愚かさを悟ろうとも思ったが、このためにものにならなかった。そしてついに無能無芸のまま、ただ一筋に俳諧の道を歩み、今に至ることとはなった。
 西行の歌の道において、宗祇の連歌の道において、雪舟の絵の道において、利休の茶の道において、それぞれの芸道を貫いているものは一つ(風雅)だけである。(そしてそれはその男の俳諧の道をも貫いている)。しかも、(歌・連歌・絵・茶も含めて)俳諧という風雅の道は、天地自然の営みのままに、四季の移ろいを友とすることである。(見る目さえあるならば)見るものすべてが花はでないことがなく、思う所すべてが月ではないことがない。目に映るものが花でないとしたら、それは「夷狄」(未開人)と同じであり、心に花(本来なら「月」のつもりか?)を思わないなら、それは鳥や獣と同類である。(風雅の道とは)「夷狄」や鳥獣の境地から抜け出し、天地自然の営みのままに、それと一体になるということなのである。

解説
 『笈の小文(おいのこぶみ)』は、松尾芭蕉(まつおばしよう)(1644~1694)の芸術論を含む紀行文です。四四歳の芭蕉は、貞享四年(1687)十月二五日に江戸を立ち、鳴海(なるみ)・熱田を経て渥美半島の伊良湖崎(いらござき)へ、そして来た道を戻り、名古屋を経て伊賀上野へ帰郷して年を越し、翌年にはさらに伊勢神宮、伊賀上野、吉野、高野山、和歌浦、奈良、大坂、須磨、明石を経て、四月二三日に京都に着くまでの六カ月間、漂泊するような旅をしました。その後京都から信濃路を経て江戸へ戻る『更級紀行(さらしなきこう)』へと続きます。ただし『奥の細道』のように芭蕉自身が書いた紀行文ではなく、芭蕉の未定稿を預かっていた門人川井乙州(おとくに)が、芭蕉の没後に編集したものです。
 まず芭蕉は自分自身を、風に吹かれるとすぐに破れる「風(ふう)羅坊(らぼう)」であると、自嘲的に自己表現をします。「羅(ら)」とは透けて見える程薄く目の粗い高級織物のことなのですが、芭蕉の葉からの連想でしょう。バショウという植物はバナナの木によく似ていて、その大きな葉は、強風に吹かれるとすぐ破れてしまいます。そして俳諧を「狂句」と自嘲的に表現しています。しかもその風羅坊は狂句を生涯の仕事にしてしまったと、これまた突き放したように自己表現をしています。
 次に芭蕉は「狂句」一筋に生きるまでの、紆余曲折(うよきよくせつ)を語ります。若い頃には普通に野心もあったのか、伊勢国津藩の大名である藤堂家の有力家臣に仕官しています。また京都にいた貞門派の俳人で、歌人でもある北村季吟(きぎん)に入門し、本格的に和歌や俳諧を学びました。しかし年を重ねる程に人生の選択肢を削ぎ落とし、四十歳くらいになって、ただ一筋の道を確信したわけです。ただし当時の四十歳は長寿の祝いを始める年齢ですから、現在の感覚ならば、六十歳くらいでしょう。
 次いでいよいよ、風雅の道の芸術論が語られます。彼は和歌の西行、連歌の宗祇、水墨画の雪舟、佗茶の利休ら、異なる芸道の敬慕する先達をあげています。特に西行については、その五百年忌であることを意識して奥羽に旅行したくらいですから、憧れの存在でした。
 『幻住庵記(げんじゆうあんき)』(1690年)という芭蕉の俳文の初稿には、「凡西行・宗祇の風雅にをける、雪舟の絵に置(おけ)る、利休が茶に置る、賢愚ひとしからざれども、其貫道するものは一ならむと・・・・」と記されていて、『笈の小文』の記述とそっくりです。「賢」は四人の先達のこと、「愚」は芭蕉自身であることは文脈から明らかですから、現代語訳では、「そしてそれはその男の俳諧の道をも貫いている」と補いました。
 そして四人の先達と芭蕉に共通しているのは、自然の移ろいの中で、四季の風物を友として生きることだと言います。さらに四季の風物の代表として花と月を上げていますが、芭蕉のいう「花」はflowerではなく、「月」もmoonその物ではありません。また花鳥風月を愛でつつ生きることを説いているわけでもありません。自然の流れの中で自然に還る時、見る物全てが美しい花に、清らかな月になるというのです。山の庵で世に背(そむ)いて生きるならば、常に美しい花や月その物を愛でることができます。しかし芭蕉は隠者ではありません。世俗の中で旅をしながら生活をしていますが、そのような中でも自然を友として生きる時、花ではないものに花を見出し、月ではないものに月を見出すことを説いています。もともと俳諧には、言葉の遊戯的な要素がありました。それを高尚な文芸に高めたことが、「正風俳諧」と呼ばれる所以なのです。

昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『笈の小文』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。







『喫茶養生記』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面 

2020-06-10 07:42:15 | 私の授業
喫茶養生記


原文
 茶は養生の仙薬也。延命の妙術也。山谷(さんや)之(これ)を生ずれば、其(そ)の地神霊也。人倫(じんりん)之を採(と)れば其の人長命也。天竺(てんじく)・唐土同じく之を貴重す。我朝日本曾(かつ)て嗜愛(しあい)す。古今奇特の仙薬也。摘まざるべからざか。・・・・
 『尊勝(そんしよう)陀羅尼(だらに)破(は)地獄(じごく)法秘抄(ほうひしよう)』に云はく。「一に肝蔵は酸味を好む。二に肺蔵は辛味を好む。三に心蔵は苦味を好む。四に脾蔵(ひぞう)は甘味を好む。五に腎蔵は醎味(かんみ)を好む。又五蔵を以て五行[木火土金水也]に充て、又五方[東西南北中也]に充つ」と。・・・・
 此(この)五蔵、味を受けて同じからず。好味多く入れば、則ち其の蔵強くして、傍(かたわら)の蔵に尅(か)ち、互に病を生ず。其の辛(しん)酸(さん)甘(かん)醎(かん)の四味は、恒(つね)に有りて之を食ふ。苦味は恒には無きが故に、之を食はず。是(こ)の故に、四蔵は恒(つね)に強くして、心蔵は恒に弱し。故に病を生ず。若(もし)心蔵病む時は、一切の味皆違(たが)ふ。食へば即ち之を吐く。動(やや)もすれば又食はず。今茶を喫すれば、則ち心蔵強くして病無きなり。知るべし。心蔵病有る時は、人の皮肉色悪(あし)く、運命此に依りて減ずることを。
 日本国には苦味を食はざるか。但(ただ)し大国のみ独(ひと)り茶を喫す。故に心蔵、病無く、亦(また)長命也。我国多く痩(そう)を病む人有り。是茶を喫せざるの致す所也。若(もし)人、心神快(ーこころよ)からざれば、爾(その)時必ず茶を喫し、心蔵を調へて、万病を除愈(じよゆ)すべし。心蔵快き時は、諸蔵病有りと雖も、強く痛まざる也。

現代語訳
 茶は養生(健康維持)の素晴らしい薬であり、寿命を延ばす優れた手立てである。山や谷で茶の木が生えていれば、そこは霊妙な場所であり、人がこれを摘んで飲むならば、その人は寿命が長くなる。インドや唐国(中国)では、みな茶を珍重して飲んでいる。我が日本でもかつては好んで嗜(たしな)んでいた。古今を通じて優れた薬であり、どうしてこれを摘まないということがあろうか。・・・・
 尊勝(そんしよう)陀羅尼(だらに)破(は)地獄(じごく)法秘抄(ほうひしよう)には、次のように説かれている。「一に肝臓は酸味を好む。二に肺臓は辛味を好む。三に心臓は苦味を好む。四に脾臓は甘味を好む。五に腎臓は醎味(かんみ)(塩辛い味)を好む。また五臓を五行の木火土金水に配当し、また五方の東西南北と中央に配当する」と。・・・・
 これらの五臟は、好む味がそれぞれ異なっている。ある臓器の好む味の物を多く摂取すれば、その臓器は強くなるが、傍らの臓器に対して優勢になるので、(バランスが崩れ)互いに病んでしまう。辛味・酸味・甘味・鹹味の四味は普通に身近にあるので、これを摂(と)っている。しかし苦味は常にあるわけではないので、これを摂(と)ることがない。そういうわけで(心臓以外の)四つの臓器はいつも丈夫であるのに、心臓はいつも弱い。そのために病んでしまうのである。もし心臓が病めば、全ての味がわからなくなってしまい、食べるとすぐに吐いてしまったり、時には何も食べられなくなることもある。しかしそこで苦い茶を飲めば、心臓が丈夫になり病がなくなる。心臓に病がある時は、肌の色が悪く、そのために生命力が弱まってしまうということを、知らねばならない。
 日本では苦味のある物を食べないのだろうか。ただし(唐や天竺などの)大国だけでは茶を飲んでいる。そのため心臓を病むことがなく、また寿命も長い。我が国では痩せて病んでいる人が多いが、これは茶を飲まないことによる結果である。もし精神の具合がすぐれないことがあれば、その時は必ず茶を飲み、心臓の具合を調え、あらゆる病を除いて癒やさなければならない。心臓の具合が良ければ、その他の臓器に病があるとしても、ひどく痛むようなことはないのである。

解説
 『喫茶養生記(きつさようじようき)』は、臨済宗の禅僧である栄西(えいさい)(1141~1215)が著した養生書で、茶の効能、茶の木の栽培方法、葉の摘み取り方、茶の製法や飲み方が記されています。またその他に桑の粥や、桑の枝を煎じて飲む方法や効能も詳しく記されています。朝に葉を摘んで蒸し、その日のうちに敷いた紙の上で焦げないように焙(あぶ)り、熱湯を注いで飲むと記されていますから、現在の煎茶に近い物だったようです。
 日本における茶の飲用は、平安時代には確認できます。唐から帰国した僧永忠が、嵯峨天皇に茶を献じたことが『日本後紀』(弘仁六年四月二二日)という歴史書に記されていたり、『経国集』という勅撰漢詩集に、「海公(空海)と茶を飲み、山に帰るを送る」という、嵯峨天皇の詩が収められています。栄西は仁安三年(1168)と文治三年(1187)の二回も入宋しているのですが、建久二年(1191)に帰国する際に、茶の種や苗を持ち帰りました。
 『喫茶養生記』は源実朝に捧呈されたのですが、鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』の建保二年(1214)二月四日には、実朝が深酒をして体調を崩した時、栄西が良い薬として茶を
すすめ、「一巻の書」をそえて献じたことが記されています。ただし実朝のためにわざわざ書いたのではなく、たまたま書き終えた後だったので献じたと記されています。長時間に及ぶ坐禅では眠気を催すことがあり、茶は意識を明瞭にしますから、坐禅修行をする禅僧は好んで用いたのでしょう。
 ここに載せたのは冒頭部で、茶には五臓の中でも最も重要な心臓の具合を調える効能があることが、陰陽五行思想に基づいて説かれています。あらゆるものを木火土金水の五行により説明する五行思想は、この「五臓」の他に、五色・五味・五体・五感などに、現在もなおその痕跡を留めています。
 心臓は苦味を好むので、苦い茶を飲めば心臓が丈夫になるという発想は、まさに「良薬、口に苦し」で、現代人にはいささか滑稽ではあっても、薬による養生という発想は、病を癒やすのは祈祷によることが普通であった当時としては、画期的なものでした。また様々な味をバランスよく摂取すると健康によいという発想は、対治(たいじ)を加へよ栄養の摂取という点から見ても、理にかなっています。
 因みに栄西は七五歳で入滅していますから、当時としてはまあ長寿と言えるでしょう。

昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『喫茶養生記』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。




『信長公記』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2020-06-01 18:13:58 | 私の授業
信長公記


原文
 其の時、信長の御仕立、髪は茶筅(ちやせん)に遊ばし、萌黄(もえぎ)の平打にて、茶(ちや)筅(せん)の髪を巻立て、湯帷子(ゆかたびら)の袖をはづし、熨斗(のし)付の大刀、脇指、二つながら、長柄(ながつか)に三五縄(みごなわ)にて巻かせ、太き苧(お)縄、腕抜きにさせられ、御腰のまはりには、猿遣(さるつかい)の様に、火燧(ひうち)袋、瓢箪(ひようたん)七ツ八ツ付けさせられ、虎革豹(ひよう)革四ツがはりの半袴をめし、御伴衆七八百、甍(いらか)を並べ、健者(すくやかもの)先に走らかし、三間々中柄の朱鎗(やり)五百本計(ばかり)、弓鉄砲五百挺持たせられ、寄宿の寺へ御着にて、屏風引廻し、一、御櫛(みぐし)折曲(おりまげ)に一世の始(はじめ)に結(ゆ)わせられ、一、何(いつ)染置かれ候知人なき褐(かちん)の長袴めし、一、ちいさ刀、是も人に知らせず拵(こしらえ)をかせられ候をさゝせられ、御出立を御家中の衆見申し候て、去而(さて)は此比(このごろ)たわけを態(わざ)と御作り候よと、肝を消し、各(おのおの)次第〳〵に斟酌(しんしやく)仕り候也。
 御堂へする〳〵と御出有りて、縁を御上り候の処に、春日丹後、堀田道空さし向け、「早く御出でなされ候へ」と申し候へども、知らぬ顔にて、諸侍居ながれたる前を、する〳〵御通り候て、縁の柱にもたれて御座候。暫(しばら)く候て、屏風を推しのけて道三出でられ候。又、是も知らぬ顔にて御座候を、堀田道空さしより、「是ぞ山城殿にて御座候」と申す時、「であるかと」仰せられ候て、敷居より内へ御入り候て、道三に御礼ありて、其のまゝ御座敷に御直り候ひし也。・・・・
 廿町許(ばかり)御見送り候。其の時、美濃衆の鎗は短く、こなたの鎗は長く、扣立(ひかえたち)候て参らるゝを、道三見申し候て、興をさましたる有様にて、有無を申さず罷り帰り候。途中、あかなべと申す所にて、猪子(いのこ)兵介(ひようすけ)、山城道三に申す様は、「何と見申し候ても、上総介(かずさのすけ)はたわけにて候」と申し候時、道三申す様に、「されば無念なる事に候。山城が子共(こども)、たわけが門外に馬を繋(つな)ぐべき事、案の内にて候」と計(ばかり)申し候。

現代語訳
 その時の信長公の出立(いでたち)は、髪を薄緑色の平紐(ひらひも)で茶筅(ちやせん)のように巻かれ、湯帷子(ゆかたびら)(本来は入浴用の単衣の衣)の肩を脱ぎ、金熨斗(のし)飾りの付いた大刀と脇差の長い柄(つか)を、二本とも藁縄で巻かれ、太い麻縄を(刀に結んで輪を作り腕を通して落とさないように)腕輪とされ、腰周りには猿廻しのように、火打袋、瓢箪(ひようたん)を七八個さげられ、虎皮と豹皮を「四つかわり?」に染めた半袴(短めの袴)をお召しになっていた。そして御供の衆七八百人をずらりと整列させ、威勢のよい足軽を先頭に立て、三間半(六m余)の長柄の朱槍五百本、弓と鉄砲を五百挺を持たせられていた。
 会見場である正徳寺にお着きになると、屏風を引き廻し、生まれて初めて髪を折り曲げに結われ、いつ染めておいたのか誰も知らない褐色の長袴を召され、これまた人に知らせず拵えておいた短刀を差された。御家中の衆はこの出立(いでたち)を拝見し、「さては、この頃のたわけ(大馬鹿者)ぶりはわざとであったのか」と肝を冷やし、皆は次第に事情を了解した。
 そして信長公は御堂へするするとお出になると、縁の上り口に春日丹後守と堀田道空が出迎え、「早く御出でなさいませ」と申し上げたが、素知らぬ顔で、諸侍が居並ぶ前をするすると通り抜け、縁の柱にもたれておいでになつた。しばらくすると、斎藤道三が屏風を押しのけて出て来たが、やはり素知らぬ顔をしておいでになるので、堀田道空が近寄り「こちらが山城守道三殿でござります」と申し上げると、「であるか」と言われて敷居の内へ入られ、斎藤道三に挨拶して、そのまま座敷にお坐りになられた。・・・・
 (散会後、道三は)二十町(約二㎞)ばかり同行して見送った。その時、斎藤方の鎗は短く、織田方の鎗は長いので、槍を持って控え立っている姿を見て、斎藤道三は興醒(きようざめ)した様子で、ものも言わずに帰った。途中、茜部(あかなべ)という所で、(家臣の)猪子兵介(ひようすけ)高就(たかなり)が道三に「どう見ても信長はたわけ者でございますな」と言うと、道三は、「だからこそ無念なのだ。この道三の息子どもは、必ずやあのたわけ者の門前に馬を繋ぐこと(家臣になること)になるであろう」とだけ言った。

解説
 『信長公記(しんちようこうき)』は、織田信長(1534~1582)に仕えた太田牛一(おおたぎゆういち)(1527~?)が著した織田信長の伝記で、信長の幼少期から、本能寺の変で討たれるまでが叙述されています。太田牛一は弓衆として信長に仕えていましたが、文筆に優れていたため、右筆(書記)を務めていたのでしょう。叙述の姿勢は概して正直で客観的であり、側近にありがちな、主君を一方的に美化するようなことはありません。そのため歴史研究の史料として、高く評価されています。
 ここに載せたのは、「山城道三と信長御参会之事」という話です。織田信長と美濃国の戦国大名斎藤道三が、富田(現愛知県一宮市)の正徳寺(現在は聖徳寺跡)で初めて面会したのは、天文二二年(1553)のことでした。信長の父である信秀は、しばしば道三の美濃国に侵攻していたのですが、天文十七年(1548)に和議を結び、その証として、道三の娘である帰蝶(きちよう)と、信秀の嫡男である信長の婚約が成立していました。ただし実際に輿入れしたのは、翌年のことです。ですから正徳寺での面会は、義父と婿との初対面というわけです。
 道三は、「うつけ者」と嘲笑される信長驚かせてやろうとしたのですが、信長の方が役者が上でした。鉄炮の数は誇張かもしれませんが、長槍の足軽隊は、道三の胆を冷やすのに十分な演出でした。そして道三は信長の器量と武力に驚嘆し、自分の息子が信長に屈服することを予感します。
 その後、道三は長子の義龍(よしたつ)に家督を譲って隠居するのですが、親子の仲が悪く、弘治二年(1556)に長良川の戦で義龍に討ち取られてしまいました。この戦いの前日、死を覚悟した道三は、美濃一国を信長に譲るという譲状を信長送ったという趣旨の書翰を、息子の斎藤利治に書き、それが現存しています。それには「美濃国の地、終(つい)に織田上総介(かずさのすけ)存分に任すべきの条、譲状信長に対し贈り遣はし候事」と記されています。これが本物かどうか判断しかねるのですが、仮に偽文書であっても、道三が信長を高く評価していたことは事実でしょう。
 結局は義龍は永禄四年(1561)に病死し、永禄十年(1567)、信長は斎藤氏の稲葉山城を奪取して新たな居城としていますから、結局、道三の心配は的中してしまいました。

昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『信長公記』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。