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年号と元号 日本史授業に役立つ小話・小技 8

2023-12-30 08:40:44 | 私の授業
     日本史授業に役立つ小話・小技 8
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

8、年号と元号
 日本史を大学受験課目にする生徒にとって、年号の暗記は単なる暗記ですが、避けて通れません。これが日本史学習を嫌いにさせる原因の一つなので、授業では暗記せよとは絶対に言いません。しかし受験生には現実ですから、仕方がないことと諦めています。
 ところで年号と元号は混用されているのですが、何が違うのでしょうか。まずネット情報でいくつか確認してみましょう。
①「年号」はある特定の年を示す言葉として、「元号」は大きなまとまりとしての時代を示す言葉として使われます。
②「年号」と「元号」の違いは、専門家の間でも意見が分かれています。たとえば、平成30年の場合、「元号」は平成を指し、「年号」は30年を指すという意見もあります。
③漢字による名称が「年号」であり、天皇の即位から数えたものが「元号」であるとされます。具体的には、平成30年であれば「平成」が年号で、「30年」の部分が元号であることになります。
④元号:天皇が即位した年を元年とし退位する迄の期間に用いられる名称。年号:天皇が決めた一定期間の名称
探せばいくらでもありそうですが、このくらいにしておきましょう。結論から言えば全て出鱈目です。最初の年号とされる「大化」に関する『日本書紀』の記述では、「天豊財重日足姫天皇(皇極天皇)の四年を改めて大化元年(たいかのはじめのとし)と為す」と記されていますから、元号なのか年号なのかわかりません。「大宝」については、『続日本紀』に「元を建てて大宝元年と為(な)す」と記されています。「元」と言う文字は、気力の元になるのが元気、一年の初めの日が元日、利子のつかない初めの預金が元金と言うように、「元になるもの」を意味していて、「年」という意味は微塵もありません。そして大化六年2月に白雉と改元されるのですが、そのことについて『日本書紀』には「元(はじめのとし)を白雉と改む」と記されています。ここでも元号か年号かわかりませんが、「元」を「はじめのとし」と読んでいることは注目されます。『日本書紀』には大和言葉独特の訓がふられているのですが、これは現代の注釈者が付けたものではなく、721年から965年までの間に宮中で7回も行われた日本書紀講筵(日本書紀の講読会)の講義記録や、『古事記』に比べてはるかに多い古写本に記された訓読史料を参考にして、当時の読み方が推定再現されたものなのです。つまり古くから「元」は「初めの年」と理解されていたのです。すると「改元」という言葉は、「元号を改める」ことの省略された表現ではなく、「初めの年を改める」という意味だったのです。そして「和銅」の改元については、『続日本紀』に「慶雲五年を改めて和銅元年と為し、御代の年号と定め賜ふ」と記されていて、ここで初めて「年号」の表記を確認できます。その後の改元についての記述には「年号」がしばしば用いられていますが、「元号」は見当たりません。要するに六国史は国家の正式な歴史書なのですから、「年号」が正式な呼称だったのです。
 それなら「元号」という言葉はいつから用いられるようになったのでしょう。一般には明治初年の一世一元の制に始まると理解されています。しかし一世一元の制を定めた明治改元の詔書には、「今後年号は御一代一号に定め・・・・」とはっきりと記されていています。ですから「一世一元」は「天皇一代に元号は一つ」という意味ではなく、「天皇一代に改元は一回」という意味なのです。事実、この制の制定の中心となった岩倉具視関係の文書には、みな「年号」が用いられています。そういうわけで「元号」という言葉は、一世一元の制以後に用いられるようになったという説は明白な誤りです。かく言う私も、教員に成り立ての頃はそのように思い込んでいましたが、明治改元の詔書を丁寧に読んでみて、それが誤りであることに気付きました。ただし江戸時代に年号について論じた知識人が、「元号」という表記を使っていたことはありました。
 「元号」が正式に用いられるようになったのは、大日本帝国憲法と同時に公布された皇室典範という法律以後のことです。ここでようやく「元号」に法律的根拠が与えられ、正式な呼称となりました。しかし終戦により皇室典範がなくなり、その根拠が失われてしまいました。そして慣習的に用いられていたのですが、昭和54年に元号法が制定され、「元号」は再び法律的根拠を得たわけです。ですから現在では「元号」が正式な呼称というわけです。
 それなら元号と年号の違いは何かと改めて問われれば、私は「歴史的には長く「年号」が用いられてきた。そして明治憲法以後は、一時的中断はあるものの、「元号」が正式な呼称となっている。しかし日常生活ではあまり神経質に区別する必要はないと思う」と答えています。そして授業では、明治憲法より前は「年号」を用い、それ以後は「元号」を用いています。ネット情報でもっともらしく蘊蓄をたれている人達は、『日本書紀』『続日本紀』などの歴史書や、一世一元の制の詔書など、その目で確認していないのでしょう。
 なお清水書院という出版社から私が中学生・高校生向けに書いた『明日話したくなる 元号・改元』という本が発行されていています。元号について関心のある方はアマゾンですぐに取り寄せられますから御覧下さい。


古文辞学派の本質 日本史授業に役立つ小話・小技 7

2023-12-28 10:25:52 | 私の授業
     日本史授業に役立つ小話・小技 7

埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

古文辞学派の本質
 山川出版の『詳説日本史』という教科書には、「孔子・孟子の古典に直接立ち返ろうとする古学派が、山鹿素行や伊藤仁斎らによって始められた。仁斎らの古学を受け継いだ荻生徂徠は政治・経済にも関心を示し、・・・・統治の具体策を説く経世論に道を開いた」と叙述されています。徂徠に始まる古学派を古文辞学派というのですが、「古文辞学派」という言葉は儒学者の系統図には記されていても、本文や註釈には見当たりません。私はその事に、著者の深い意図を感じ取りました。古文辞ということを敢えて説明せず、「経世論を説いた」と叙述しているからです。
 「古文辞学派」については、一般には「中国語の文法に習熟することで古典を研究する学派」(浜嶋書店 新詳日本史)と説明されることが多いのですが、これでは徂徠の意図するところと全く懸け離れてしまっています。徂徠は確かに古語に習熟することに異常な程努力していますが、それは民を安んじて国を治めることこそ真の道であると確信するが故に、後世の解釈を棄て、儒学の古典から直に古代の聖人・先王の道を学ぼうとしたからです。何しろ徂徠よりも千数百年も前の古語で書かれているのですから。そのままは当てはめられませんが、現代人が『古事記』を読むくらいに、時間的な隔たりがありますから、古語の研究が不可欠だったことは納得できます。しかし徂徠にとって古語の習熟はあくまでも手段に過ぎず、目的ではなかったのです。もし授業で古文辞学派という呼称にとらわれると、手段が目的となってしまいますから、徂徠の説く本質を理解することができません。徂徠の学問の眼目は、「道」というものを倫理的・道徳的にではなく、政治的・経済的に理解しようとしたことにあるのですから、世を経め民を済う(世をおさめ民をすくう)学派、つまり経済学派と呼ぶ方が本質に迫れます。だからこそ徂徠は徳川吉宗の諮問に応えて、政策提言の書として『政談』を捧呈したわけです。しかしその提言はあまり用されることはありませんでした。
 ところが史料集には貨幣経済の浸透の史料として『政談』が引用されているためか、徂徠の思想の本質をより端的に説いている『弁道』が教材として利用されることが極めて少ないのです。「先王の道は天下を安んずる道なり」と説く『弁道』を読まずして、古文辞学派を説く事なかれ。日本史を指導する者として必読の書物です。もしまだ読んだことがないというならば、何としても読まなければなりません。徂徠の弟子の太宰春台や、同じく孫弟子の海保青陵が、世をおさめ民をすくう道として藩の専売を説いたことは道理であると納得できることでしょう。とにかく授業で思想を解説する場合、それを説いた人の著書を可能な限り読む努力をしなければならないと思っています。もちろん専門家のレベルには及びませんが、少しでも原典を読んでいるということが、授業をする際に力となるからです。
 

スバルの社章(企業分割と再合併) 日本史授業に役立つ小話・小技 6

2023-12-25 06:59:26 | 私の授業
     日本史授業に役立つ小話・小技 6

埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

6、スバルの社章(企業分割と再合併)
 私が初めて買った車はスバル360でした。今から50年前、中古でちょうど1万円でした。以来なぜかスバル車に愛着があります。スバルのエンブレムは、楕円の中に大きな星が一つ、小さな星が五つからなっています。もちろんそれが夜空に輝くスバル星に由来することは知っていました。高校時代には地学部に所属していたので、徹夜で天体観測をしながら、その美しさに魅了されたものです。しかしその頃はそこにGHQの対日政策の転換が隠れていることは全く知りませんでした。
 スバルは片仮名で書かれることが多いのですが、外来語ではなく、本来はれっきとした大和言葉で、漢字ならば「統ばる」と書かれます。「統べる」という言葉は「一つにまとめる」という意味で、統一という言葉でよく理解できます。その統べるを自動詞にしたものが「統ばる」で、集まって一つになることを意味しています。スバル星をよくよく観察すると、多くの星から成っていて、プレアデス星団とも呼ばれています。日本では古くから「六連星」(むつらぼし)と呼ばれ、『枕草子』にも、「星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星、すこしをかし。尾だになからましかば、まいて」と記されています。「星はすばる、ひこぼし、宵の明星が良い。流れ星も少し趣がある。尾を引かなければもっとよいのだけれど・・・・」という意味で、数ある星の第一に上げています。もっとも上代の日本人は星にほとんど関心がありませんでした。すばるは西洋ではseven sisters と呼ばれているそうです。西洋人の日本人の視力の差という訳ではないのでしょうが・・・・。
 企業としてのスバルの起原は、大正5年に設立された中島飛行機に遡ります。かつては一式戦闘機隼を製造したことで知られる、優れた飛行機製造企業でした。それが太平洋戦争終了後、GHQにより解体を命じられてしまいます。しかし朝鮮戦争の前頃から、日本を東アジアに於ける共産主義勢力拡大の防波堤とするために、早く産業を復興させてアメリカの友好国となるようにと、GHQの対日政策の方針が転換されました。そうして分割されていた富士工業(太田、三鷹工場)・富士自動車工業(伊勢崎工場)を中心とした旧・中島飛行機グループ内での再合同の動きが活発化し、昭和27年、大宮富士工業・東京富士産業(旧中島飛行機本社)を加えた4社が合併することになりました。そしてさらに昭和28年には、鉄道車両メーカーとなっていた宇都宮車輛(宇都宮工場)も加わり、昭和28年、新会社富士重工業株式会社が発足したわけです。社章の五つの小さい星は5社を、大きな一つの星は合併して大きな一つの企業となったことを象徴しているそうです。そしてスバル星が「六連星」と呼ばれていたことに擬えて、社名をSUBARUと改めたということです。
 スバルのエンブレムについては、財閥解体・企業分割と企業合同、またGHQの対日政策の転換の例として取り上げています。身近なところから歴史を探り出す面白さは、私の授業の特色となっています。


明治初期の1円の価値 日本史授業に役立つ小話・小技 5

2023-12-20 19:04:12 | 私の授業
     日本史授業に役立つ小話・小技 5

埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

5、明治初期の1円の価値
 主に江戸時代以降のことですが、ある物の値段が、現在ならばどれくらいの価値があるものかということは、生徒からよく質問されます。なかなか難しい問題なのですが、何を指標にするかで大きく異なりますから、答えるとしてもあくまで目安に過ぎません。指標としては、白米の値段、賃金労働者の給与、企業物価指数など様々なものがあります。明治初期の物については、私は次のように説明しました。明治4年5月に新貨条例が布告されました。それは金貨を本位貨幣とし、1円金貨は金が90%、銅が10%の比率で含まれ、金は1.5gとするとされていました。そして1円金貨は1米ドルに相当することとなり、大変わかりやすい制度になったのです。すると金1.5gの価値が問題となるのですが、現在の金の価格を当てはめるなら、金1gが1万円とするならば、15000円ということになります。指標によっては2万円くらいになるかもしれませんし、ネットにはその様な情報もたくさんあります。
 授業では、明治5年に創業を開始した富岡製糸場で働いていた工女の月給が、どれくらいのものなのかという場面で問題となりました。そのデータは『富岡日記』という工女の回想録に記されているのですが、1円金貨の金が1.5gで、金1gが1万円とするならば、当時の工女の月給1円75銭は現在の2万6千円余。まあ多く見積もって3万円くらいと考えればよいことになります。政府の元老級の月給は800円でしたから、比べものになりませんが、『富岡日記』には給与の低さを嘆く様子は微塵もなく、最先端の技術を習得する喜びが、行間からはみ出さんばかりに記述されています。
 専門の研究者には計算方法の誤りがあると言われるかもしれませんが、出鱈目な計算ではないと思います。ただし次第に円の価値が下がりますから、あくまでも明治初期限定として話しました。授業では常に現在のものに結びつけて話すことが大切だと思います。


冬至の決め方(暦の知識)日本史授業に役立つ小話・小技 4

2023-12-18 06:17:56 | 私の授業
     日本史授業に役立つ小話・小技 4

埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

4、冬至の決め方(暦の知識)
 もうすぐ冬至となるので、ここで冬至を初めとする二至二分四立(冬至・夏至・春分・秋分・立春・立夏・立秋・立冬)がどの様に決まるかについてお話しましょう。こんなことを言うと、高校の日本史の授業では学習しないと言われそうです。「大学入試で出題されるわけでもない。敢えて高校の授業で学ぶ必要はないのでは」と批判されたこともあります。そうすると私の反骨心に火が点けられ、猛然と反論したくなるのです。教科書では、欽明朝に百済の暦博士が来日した事、推古天皇12年(60年)に百済僧観勒が暦法を伝えてきたことが記されています。だからこそ厩戸皇子が蘇我馬子と共に『国記』『天皇記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』などの歴史書を編纂できたのでしょう。時間の物差しなしに歴史書を著せるはずがありませんから。暦法が伝えられたということだけ学習すればそれでよいのでしょうか。それこそ単なる暗記に過ぎないではありませんか。暦という文化の素晴らしさを、今も生活の中に活かされているということを伝えずに、ただ観勒の名前だけ覚えさせるとしたら、歴史の授業をつまらなくしているのはいったい誰なのかと言いたくなるのです。旧暦の知識は日本史学習には不可欠の基礎知識です。詳しくとは言いませんが、太陰暦の基礎くらいは学習させなければなりません。ところが教科書に記述がないからか、旧暦の基礎知識がない授業者が大変多いのです。生徒が知らないのはともかく、高校で日本史学習を指導する程の人が基礎的なことを知らなくてよいのでしょうか。
 そうは言っても暦学の内容は幅広く、簡単には学べませんし、指導もしきれません。そこで最低限度これくらいはと思って私が授業中に指導している、二至二分四立(冬至・夏至・春分・秋分・立春・立夏・立秋・立冬)の決め方についてお話しましょう。
 生徒はさすがに冬至・夏至・春分・秋分がどの様な日くらいは知っています。しかしどうして今日がその日だとわかるのかと聞くと、もう答えられません。正確な時計や方向磁石もなしに、どの様にして昼が最も長い・短いとわかるのか、昼と夜が同じ長さとわかるのか、真東から太陽が昇り、真西に沈むとわかるのかと考えてしまうからです。
 実は時計も磁石も使わずにわかっていたのですが、およそ次の様にしてその日を特定していました。水平な地面に、絶対にぶれることのない金属でできた2~3mの柱を垂直に立てます。先端から錘を糸で垂らせば、垂直に立てることは難しくありません。天平7年(735)4月に帰朝した吉備真備が「測影鉄尺」を持ち帰ったことが『続日本紀』に記されています。そしてそのような柱の影の先端の位置を半日がかりで地面に記録します。そして柱の位置を中心として円を書くのですが、その際、朝夕の影の先端は円周外に、昼頃の影の先端は円周内に位置するように半径を調整します。そうすると午前と午後に一回、影の先端が円周上に重なる瞬間があります。その位置を確定したら、その2点を直線で結び、その線分の中点と円の中心を直線で結びます。これで南北の正確な方向が確定しました。次にこの南北の線を少し延長して、毎日影がその線と重なる瞬間、つまり南中時の影の先端を一年間にわたって観測し続けるのです。そうすると影が最も長い日が冬至、短い日が夏至と決定されます。ここまで来れば後はもう簡単です。夏至の影の先端の位置と冬至の日の位置の中間地点が春分・秋分、春分と冬至の位置の中間地点が立冬と立春、春分と夏至の中間点が立夏と立秋を確定する地点となります。よく未だ寒いのに暦の上では立春、まだ暑いのに暦の上では立秋と言われ、中国の暦を用いているので日本の気候に合わないという如何にももっともらしい批判を聞きますが、それは季節の決め方を知らないための誤解です。そもそも季節は太陽高度により機械的に区分されたのであって、気温によるものではありませんから、そのような批判は全く的外れなのです。
 ここまで図を書きながら説明すると、生徒は奈良時代以前に伝えられた暦の知識が、今もなお日常生活の中で生きていることを確認し、歴史学習の面白さを発見することでしょう。「百済僧観勒が暦法を伝えた」とい暗記学習で終わらせては絶対にいけません。またこの方法を用いれば南北の長大な直線を引き、それに直角の東西の線を引くことができますから、南北に直交する道路で区画される平城京ができることになるわけです。手の平サイズの方向磁石では、平城京の測量などできるはずがありません。