うたことば歳時記

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ウクライナへの日本の貢献

2022-03-24 18:28:13 | その他
 先日、ウクライナのゼレンスキー大統領の演説が、国会で行われました。その中に「私たちはどんな侵略行為に対しても予防的に機能し、役に立つ、新たなツールや新たな保障体制が必要です。その発展のため、日本のリーダシップが不可欠です。」 という言葉がありました。私にはこの言葉が胸に刺さりました。日本がリーダーシップをと言われても、軍事的には、せいぜい防弾チョッキをおくる程度のことです。共産党はそれにさえ反対していましたが、これは武器ではありません。演説することについて、前例がないなどという反対意見がありましたが、このようなことに前例があってたまるものですか。暗殺されることを覚悟している一国の大統領に対して、よくも安全な外野席からまの抜けたことが言えるものです。

 それならどの様なリーダーシップがとれるのか。私は、都市の復興なら日本は多くのノウハウを持っていると思います。関東大震災で生じた瓦礫は、約2300万トンです。それをどの様に処理したのか、詳しくは知りません。ただ横浜港のある山下公園は、その瓦礫を埋め立てて作られたことくらいは知っています。地震発生は1923年、完成したのは1930年ですから、7年もかかっています。当時は木造家屋が多かったはずですから、まだこの程度で済んだのかもしれません。その後は戦災による瓦礫処理もありました。東京駅八重洲口に近い城辺川、三十間堀川、真田濠などは、この瓦礫で埋め立てられました。近いところでは、阪神淡路大震災、東日本大震災もありました。

 ウクライナの惨状を見ると、それ以上の瓦礫があるはずです。そもそもそれらを解体・運搬する機械や大型車両すらないことでしょう。海岸に人工の島をいくつも築き、港湾を整備することは、長期的にもウクライナの産業復興に貢献できることでしょう。日本はこのような膨大な瓦礫を処理した経験を持っています。それに必要な道具や技術を持っています。これこそ日本がリーダーシップを取れることではないでしょうか。

 今日は私の勤務校で終業式があり、私は4月から転勤するために、生徒達に別れの挨拶をしました。その中で、「大学受験のために頑張るのは当然としても、現在世界で起きていることから目を離さず、一人の日本人としてウクライナにどの様な貢献ができるか考えるように。自分の幸せしか考えられないような、けちな大人になるな。かつて日本が戦災や自然災害から復興するに当たり、多くの国々から助けられたことを忘れるな」と語ったことです。

ウクライナ侵攻とロシア国民の責任

2022-03-20 10:44:20 | その他
 ウクライナ侵攻とロシア国民の責任

 ウクライナ侵攻についての情報を見るのに、毎日長時間を費やしています。社会科の教師としては、仕事の一部のようなものですが、情報の真偽を見極めるのが難しくなっています。ロシア語は全くわからないので、ロシア発、ロシア人発の情報の場合は、どうしても英語か日本語に訳されたユーチューブになってしまいます。するとそれを見ている日本人のコメントも見ることになるのですが、「悪いのはプーチン個人であって、あなたが責任を感じる必要はない」という趣旨のコメントがとても多いのが気になります。

 もちろんロシア人ユーチュバー個人の責任ではないことはいうまでもありません。しかしプーチン一人の責任であるとも思えないのです。ロシアは14年前の北京オリンピックの時もグルジア(現在はジョージア)に侵攻して、その領土の一部を奪い取り、2014年にはウクライナ領のクリミア半島に侵攻してこれも奪い取り、そしてこの度のウクライナ侵略です。プーチンへの支持率は、グルジア(ジョージア)侵攻・クリミア侵攻のさいに80%を越えています。現在も70%を越えているようです。ロシア国民が本当のことを知らないからということも考えられるでしょう。

 しかしそれなら、つい先日の3月18日、モスクワの競技場で盛大に行われた、クリミア併合記念式典をどの様に説明するのでしょう。地元警察の発表によれば、20万人が集まったそうです。実際にはもう少し少ないでしょうが。プーチンを支持する大観衆に歓呼で迎えられていました。式場では国旗が林立し、人々の胸には、侵攻支持のシンボルであるZをあしらったリボンが着けられていました。また政権を支持する国民的歌手が愛国歌を歌ったのですが、その歌には、「カザフスタンとバルト三国は我が国土の一部」という歌詞が含まれているそうです。カザフスタンはかつてソ連の一部であり、エストニア・ラトビア・リトアニアのバルト三国はロシア帝国・ソ連に統治されたり併合されて苦しんだ歴史を持っています。プーチンがどのように自己正当化しようと、その本音は大ロシア帝国の復活であることは明白であり、それをロシア国民が熱狂的に支持していることは明白ではありませんか。ウクライナはネオナチであるとプーチは非難していますが、まさにナチスの全体主義とどこが違うのですか? これでもロシア国民に責任はないのですか? まるで昭和の戦時中の日本と同じではありませんか。

 もちろん現在のロシア国民の中には、身体を張ってそれに抗議している人も少なからずいます。しかしロシア人に対する街頭アンケート・インタビューを見ていると、英語の字幕を見ている限りは、プーチンを支持していると答える人の方が多いように見えます。軍同士の戦いで劣勢になると、ロシアは見境もなく一般市民を殺戮し続けています。

 ロシア人アスリートが国際大会に参加できないことに対する批判も耳にします。彼等に責任はないというのでしょう。しかしロシアが国家的な規模でドーピングをしてきたことは、隠しようのない事実であったことが認定されているではありませんか。私がウクライナのアスリートなら、ロシア選手と対戦するくらいなら、不戦敗を選択することに躊躇はありません。それがよいとは思いませんが、人は感情をもつ生物ですから、素直にはなれません。

 それならどの様に責任をおえばよいのか。いろいろな意見があるでしょうが、最低限度、これから起きるであろう経済的な困窮を、じっと堪えるくらいのことはしなければならないと思います。どれ程苦しくても、それは自業自得なのです。最大の責任はプーチンにあるにせよ、それを熱狂的に支持したロシア国民の責任が皆無であるはずがありません。少なくともウクライナが復興するまでは、ロシアが民主的な国家となって、国際社会に復帰することを諸国が認めてくれるまでは、堪えなければならないと思います。それがロシア国民としての責任の取り方でしょう。

追記
クリミア併合の記念式典は、どうもはめ画像らしいことが明らかになってきました。ロシア情報は信用できないのですが、私もまんまとだまされてしまったのかもしれません。

昔の花見はどんな様子だったの?(子供のための年中行事解説)

2022-03-19 08:33:38 | 年中行事・節気・暦
昔の花見はどんな様子だったの?
 『万葉集』には約40首の桜を詠み込んだ歌があります。作者は桜のつもりでただ単に「花」と詠んでいるものも含めると、もっと多くなるはずです。桜を霞に見立てたり、花の一枝を髪に挿して喜んだり、恋しい女性に見立てたり、散ることを惜しんだり、私たちが桜に対して懐いていることと同じ気持ちで花を楽しんでいます。しかしその様な歌があるので、奈良時代以前にいわゆる「お花見」が始まっていたと見ることはできません。花見とは、ただ桜の花を眺めるのではなく、桜の花の下で多くの人が飲食を楽しむふうしゅうのことですから、複数の人であること、飲食をすることという二つの条件がそろわなければ、それは花見とは言えないからです。ただ美しい花をしみじみと見ることなら、今も昔も変わらないはずですから、それは花見の起原とはまた別の問題です。『万葉集』にはその様な花見の歌はありませんから、奈良時代に絶対に花見がなかったとまでは断言できませんが、積極的に花見があったと推測することはできません。ただし唐文化を採り入れる窓口となっていた大宰府の役人達が、集団で梅の花を楽しんでいたことが推測できる歌はあります。
 宮廷行事としての花見の宴は、文献上は嵯峨天皇の弘仁三年(812年)に行われています。天皇が神泉苑(しんせんえん)という御苑(ぎよえん)に行幸されたことを、「花宴の節、これに始まるか」と、宮廷の花の宴の最初であるとしています。平安時代の宮廷の花の宴の様子は、『源氏物語』をはじめとして多くの文献に記録がありますが、それらを総合してみると、およそ次のようなものです。天皇は建物の南に面する庇(ひさし)の下に坐り、親王や公卿たちは建物の周囲にめぐらされた簀子(すのこ)に坐り、文人たちは桜の花の下に設けられた席に坐ります。そこで天皇から詠むべき題が与えられ、詩歌が献上されます。それに対して天皇から褒美(ほうび)が与えられ、管弦の楽が奏され、また舞が披露されたりもします。
 また平安時代の貴族たちはまずは遠山桜を霞や雲や雪に見立てて楽しみ、花見のために郊外に出かけ、花の下に宴を設けて楽しみました。桜は本来は野生でしたから、梅のように庭に植えて楽しむ花ではなく、郊外まで出かけて見る花でした。「軒端の梅」はあっても、「軒端の桜」という表現はなかったのです。桜を詠んだ古歌の中で最も多いのは、散ることを惜しむ歌ですが、惜しみつつも散ることの美しさを喜んでいる様子がうかがえます。そして散る花に人の世の無常を感じ取りました。自然の移ろいに人の心を重ねて理解するのは、古歌にはしばしば見られることです。
 平安時代に庶民が花見をしていたかどうかについては、庶民の日常生活を記録した文献史料が極めて少ないので、あったともなかったとも、詳しいことはわかりません。
 中世になると、花見は武士階級にも広まりました。鎌倉幕府の日誌風歴史書である『吾妻鑑(あずまかがみ)』には、しばしば花見の宴が催されたことが記録されています。室町時代には幕府は京の都に置かれていましたから、さらに直接に公家文化の影響を受けました。鎌倉時代末期の『徒然草』の137段には、風情のわかる「よき人」と、それがわからない「片田舎の人」の花見の様子の違いが説かれています。「風情を理解する人は、ひたすらに面白がるような様子でもなく、のどかに愛でている。しかし田舎者は騒いだり酒を飲んだり、挙句の果てには枝を心無く折ってしまい、遠くから眺めて楽しむということをしない」とかなり手厳しいのですが、地方にも花見の風習が広まっていることを示す文献史料として意味があります。
 室町時代になると、花見の宴で連歌を楽しんだり、各地のお茶の産地を伏せて飲み比べ、産地を当てる「闘茶」という賭け事が行われるようになりました。以前の花見より集団で楽しむという要素が強くなっているのです。
 桃山時代には太閤秀吉が催した吉野山の花見や醍醐の花見が知られています。万事派手好きの秀吉の性格もあり、政治的な意味のある花見が大規模に行われましたから、諸大名もそれぞれの領地でそれを模範に花見を催したことでしょう。権力者の趣味はそのまま裾野の方へ伝染して行くもので、それは江戸時代にも受け継がれました。
 江戸時代には、大名はその屋敷の庭園に桜を植えて楽しみましたが、その影響で庶民も普通に花見を楽しむようになります。江戸の上野にある寛永寺は、徳川家の霊廟(れいびよう)として一般人の立ち入りはできませんでした。しかし第3代将軍徳川家光の頃には、花の時期には一般庶民の立ち入りも認められるようになりました。江戸の市民は寛永寺の東照宮の脇に毛氈(もうせん)や花筵(はなむしろ)を敷き、弁当や茶を飲み食いして花見を楽しんでいました。しかし場所が場所だけに酒や歌舞音曲は禁止され、日没後の暮六つの鐘までに退出しなければなりませんでした。東京の花見の名所といえば、今でも上野が有名ですが、も元はといえば上野の寛永寺に始まっていて、江戸時代以来というわけです。
 第8代将軍徳川吉宗は、江戸の飛鳥山・隅田川堤の向島・品川の御殿山・玉川上水沿いの小金井堤など、江戸の各地に桜を植えさせました。特に王子の飛鳥山には多くの桜・楓・松を移植させ、飛鳥山全体に芝を貼らせました。飛鳥山は神田から約8㎞の距離にあり、周辺には今では想像もできない渓谷や滝が多く、酒や音曲の制限もなく、江戸の市民が日帰りで花見を楽しむには格好の場所でした。江戸市民の娯楽のために各所に桜を植えることも、享保の改革の都市政策だったのです。日本人がこぞって花見を楽しむ風習が根付いたのには徳川吉宗によるところが大きく、庶民の花見が盛んになったのは江戸中期以降のことです。
 ただここで確認しておきたいのは、現在全国的に最も多く咲いているソメイヨシノは、江戸時代にはまだなかったことです。ソメイヨシノが品種改良によって作り出されたのは江戸末期から明治初期ですから、江戸時代の桜は、大雑把(おおざつぱ)に言えばみないわゆる山桜なのです。山桜は花が咲くのと葉が伸び始めるのがほぼ同時期ですから、ソメイヨシノとは少々風情が異なります。ですから古の花の風情を楽しみたい場合には、山桜でなければなりません。しかしソメイヨシノの絢爛(けんらん)さも捨てがたく、それぞれに楽しめばよいことでしょう。 
 現在の花見の行事食は、特定のものがあるわけではありません。しかし江戸時代には桜餅が欠かせませんでした。現在の桜餅には関東風の長命寺餅と関西風の道明寺餅があり、どちらも江戸時代に起原があります。長命寺餅は、小麦粉や上新粉をといた生地を薄く伸ばして軽く焼き、丸めた小豆餡を包み、塩漬けにした桜の葉でくるんだものです。隅田川に近い向島の長命寺の側の「山本や」で最初に売り出されたため、この名があり、山本やは今も桜餅の老舗(しにせ)としてよく知られています。その隅田川の土手には、将軍徳川吉宗が桜の木を植えさせて以来、桜の名所として賑わっていましたから、隅田川堤花見の名物としてよく知られていました。ただし関東の人は、かえって「長命寺餅」と言われてもわからないかもしれません。桜餅と言えば、以前は関東にはこのタイプのものしかなかったからです。
 一方、関西風の桜餅は、道明寺粉で作った餅で小豆餡を包み、塩漬けの桜の葉でくるんだものです。道明寺粉とは、糯米(もちごめ)を蒸して乾燥させてから臼で粒子状にしたもので、古くは携帯用食料として「乾飯(ほしいい)」(糒)として重宝されていました。鍋釜がなくても、湯水に浸しておけばすぐに食べられたからです。大坂の道明寺(現 藤井寺市)が発祥地であるため、この名があります。道明寺餅は表面が糯米(もちごめ)の粒で覆われていますから、長命寺餅との区別は一目瞭然です。最近は関東でも道明寺餅をよく見かけるので、同じ桜餅でも発祥の地の違いが意識されることがなくなりつつあります。もちろん好き好きでよいのですが、同じ食べるのなら、その違いを楽しんでみましょう。


桜の開花日 いまむかし

2022-03-17 08:24:24 | 植物
 桜の開花日は、長期的には少しずつ早まっています。気象庁の予想では、今年の開化予想日は次のように報じられていました。参考までに、(  )内に1953年の開花日も添えておきます。

 熊本3月20日(3月28日)、  広島3月25日(3月25日 1954年)、   大阪3月26日(4月2日)
 長野4月9日(4月17日)、   東京3月23日(3月26日)         新潟4月6日(4月13日)
 仙台4月5日(4月11日)、   札幌4月26日(5月7日)         網走5月2日(5月24日)    
 1950年生まれ、埼玉県で生活していた私の経験では、小学校の入学式には、満開か、散り始めの頃でした。教科書にもその様な場面が描かれていました。今から思えば、東京の開化を基準に、描かれていたのでしょうか。手許にある1898年(明治31)の『風俗画報』の「新撰東京歳時記」には、4月2~3日に咲き始めると記されています。

 私の本職は高校の日本史の教諭でしたので、一寸思い当たるふしがあり、秀吉の花見の日を調べてみました。晩年に吉野と醍醐で催した盛大な花見がよく知られているのですが、文禄三年(1594)の吉野の花見は太陽暦ならば4月17日、慶長三年(1598)の醍醐の花見ならば4月20日に行われています。もちろん開化日はこれよりは1週間くらいは遡るのでしょうが、それにしても現代よりはかなり遅い時期です。もっと丹念に公家の日記などを読めば、面白いデータがあるのでしょうが、悲しいかな、専門でもない私には、今思い付くのはこの程度です。

 このまま温暖化が進むと、開化日はますます早まるのでしょうが、そのうち桜が咲かない地域が出て来るかもしれません。花芽のもとになるものは、夏には形成され、それが花芽となって生長するためには、花芽が冬の寒さにあって、目覚めなければならなりません。しかし暖冬になるとそれが十分に目覚めないかもしれないからです。もちろんその様なことが起きるのは、現在生きている人は、その目で見ることはないでしょう。22世紀くらいのことだと思います。

 ついでのことですが、日本の桜の多くがソメイヨシノであるため、同一条件で開花日を比較できます。ソメイヨシノは結実しても発芽せず、全て同じ遺伝子をもつクローンだからです。梅ではこういう比較はできません。

「坊つちやん」高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2022-03-12 08:38:17 | 私の授業
坊つちやん


原文
 おれは早速寄宿生を三人ばかり総代に呼び出した。すると六人出て来た。六人だらうが十人だらうが構ふものか。寝巻の儘(まま)腕まくりをして談判を始めた。
 「なんでバッタなんか、おれの床の中へ入れた」
「バッタた何ぞな」と真先(まつさき)の一人がいった。やに落ち付いて居やがる。此(この)学校ぢゃ校長ばかりぢゃない、生徒迄(まで)曲りくねった言葉を使ふんだらう。
 「バッタを知らないのか、知らなけりゃ見せてやらう」と云ったが、生憎(あいにく)掃き出して仕舞って一匹も居ない。又小使を呼んで、「さっきのバッタを持ってこい」と云ったら、「もう掃溜(はきだめ)へ棄ててしまひましたが、拾って参りませうか」と聞いた。「うんすぐ拾って来い」と云ふと、小使は急いで馳(か)け出したが、やがて半紙の上へ十匹許(ばか)り載せて来て、「どうも御気の毒ですが、生憎(あいにく)夜で是丈(これだけ)しか見当りません。あしたになりましたらもっと拾って参ります」と云ふ。小使迄(まで)馬鹿だ。おれはバッタの一つを生徒に見せて「バッタた是だ、大きなずう体をして、バッタを知らないた、何の事だ」と云ふと、一番左の方に居た顔の丸い奴が、「そりゃイナゴぞな、もし」と生意気におれを遣り込こめた。「篦棒(べらぼう)め、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生を捕(つら)まへて、なもした何だ。菜飯は田楽の時より外(ほか)に食ふもんぢゃない」とあべこべに遣り込めてやったら「なもしと菜飯とは違ふぞな、もし」と云った。いつ迄行ってもなもしを使ふ奴だ。
 「イナゴでもバッタでも、何でおれの床の中へ入れたんだ。おれがいつ、バッタを入れて呉れと頼んだ」
「誰も入れやせんがな」
「入れないものが、どうして床の中に居るんだ」
「イナゴは温(ぬく)い所が好きぢゃけれ、大方(おおかた)一人で御這入りたのぢゃあろ」
「馬鹿あ云へ。バッタが一人で御這入りになるなんて
バッタに御這入りになられてたまるもんかさあなぜこんないたづらをしたか、云へ」
「云へてて、入れんものを説明しやうがないがな」

解説
 『坊つちやん』は、夏目漱石(なつめそうせき)(1867~1916)が『吾輩は猫である』で作家としてデビューした翌年の明治三九年(1906)、俳句雑誌『ホトトギス』の附録として発表した小説です。「坊つちやん」は東京の物理学校を卒業直後の新米教師で、曲がったことが大嫌いな江戸っ子です。四国の松山中学校に数学の教師として赴任するのですが、田舎の松山ののんびりした気風が性に合いません。そして生徒達や一部の同僚との関係がぎくしゃくし、結局は教師を辞めて東京に戻るという筋書きです。
 登場人物はみな個性的な性格の持ち主で、それ故に個性が衝突して様々な問題が引き起こされます。その登場人物達の個性を、歯切れのよい江戸弁で滑稽に描写し分けていることや、「坊つちやん」の爽快な生き様が大衆の共感を呼び、漱石の作品の中で今もなお多くの人に愛読されています。
 漱石は明治二六年(1893)に帝国大学(後に東京帝国大学)を卒業。明治二八年(1895)に愛媛県尋常中学校(松山東高校の前身)に赴任し、一年間という短い間、英語の教師として教壇に立ちました。『坊つちやん』は、その時の経験を下敷きにして書かれています。
 ここに載せたのは、「坊つちやん」が宿直をした夜に起きた、バッタ事件の場面です。校内には、県内の遠隔地から入学している生徒のための寄宿舎があり、教員には順次宿直業務が廻ってきました。生徒達は新任教師をからかってやろうと相談し、隙を見て数十匹のイナゴを布団の中に忍ばせます。犯人は生徒達以外に考えられず、呼びつけて訊問するのですが、要領を得ません。悪戯(いたずら)を正直に認めず、のらりくらりと方言でかわす生徒達と、卑怯なことが大嫌いで、江戸弁でまくし立てる「坊つちやん」との噛み合わないやりとりが、滑稽な見せ場になっています。実際、漱石自身も江戸生まれの東京育ちですから、江戸言葉や江戸っ子気質は身に付いていました。
 近藤英雄著『坊っちゃん秘話』(1983年)によれば、これと同じような「バッタ事件」が、漱石が勤務した中学校であったとのことですが、漱石が被害者ではありません。イナゴを捕ってきた生徒が後日漱石に、実際には十五、六匹入れたのに、『坊つちやん』の中では「五、六十匹」となっていることを尋ねたところ、「あれは小説だから」と笑っていたそうです。
一般には漱石は小説家と理解されていますが、本来は英語教師・英文学者でした。明治三六年(1903)漱石は東京帝国大学文科大学英文科の学生を相手に「英文学概説」の講義を始めます。漱石の前任者は小泉八雲で、離任に際して留任運動が起きた程、学生からの人気がありました。漱石はその後任ですから、新米教師の「坊つちやん」を迎えた尋常中学校の生徒達と同じく、どのような授業をするのかと、学生達は待ち構えていたのでしょう。実際に受講し、後に自分自身も英文学者となった、金子健二の日記や回想録によれば、欠伸(あくび)をしたり、頬杖(ほおづえ)をついたり、居眠りをしたり、受講を拒否したりという具合で、散々な滑り出しだったそうです。「何等の聞くべきものなし」とか、「無価値没趣味の講義」とまで、散々に酷評されています。漱石の授業では、発音の誤りを厳しく訂正することがあったらしく、生徒は本場の英国仕込みに感心はしながらも、その厳しさと英国帰りの気障(きざ)っぽい風貌や仕草に、反発していたのかもしれません。
 しかしシェークスピアの講義になると、「大入繁昌札止め景気であった。文科大学は夏目先生たゞ一人で持って居らるゝやうに感じた」とさえ記されています。シェークスピアに対する関心が深かったのは、「ハムレット」や「ヴェニスの商人」などの劇が、しばしば上演されていたことが背景にあるのですが、漱石の真価を認めざるを得なかったのでしょう。「坊つちやん」は、生徒と良好な関係を作れないうちに辞職してしまいますが、それは東京帝大で学生の態度に手こずった、自分の体験を下敷きにしたのかもしれません。
 なお大根の葉を炊き込んだ「菜飯」は、豆腐味噌田楽とセットで供される、江戸時代以来の精進料理です。



昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『坊っちゃん』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。