うたことば歳時記

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伝統的年中行事解説に於ける民俗学の誤り

2018-04-30 21:25:30 | 年中行事・節気
 このところずっと伝統的年中行事・歳時記について勉強しています。当然のことながら参考までにそのようなことについて書かれた書物やネット情報を読むのですが、ほぼ九分九厘、民俗学者の説の影響を受けていて、文献史料の根拠もないまま、伝承だけによって話を進めて行くのです。ですからその書き方は、「・・・・と伝えられています」とか「・・・・と言われています」というのが全てに共通していて、確かな根拠に基づいて解説しているものを見たことがありません。ただ例外的に人形師の方がお書きになったものは、実物を見ているだけに、確かな文献史料や実物資料に裏付けられている良心的なものが見られました。    

 そもそも日本の民俗学は、柳田国男によって基礎が築かれました。彼は文献史料の重要性は認めながらも、文字史料として残りにくい民衆の日常生活の様々な事象を広い範囲から採集・採録し、それらを比較研究することによって歴史学のカバーしきれない民俗的事象を明らかにしようとしました。彼の業績を引き継いだのが折口信夫です。折口は歌人でもあり、その研究には文学という視点が加わり、少なくともフィールドワークを重視した柳田の研究に比べて、文学的・詩的発想による、厳しく言えば思いつき的な要素が強くなり、採録された伝承史料の重要性が低下しているように見えます。この折口の弟子たちが師の説に基づいて、伝統的年中行事の解説を著すようになると、初心者向けの年中行事解説書の著者の多くが、それらの著書を根拠として書くようになり、近年はネット上に気軽にそれらをコピーしたような解説が氾濫しています。

 ただ民俗学者が自分の考えることを文章にして説くこと自体は、自由でなければなりません。ただその後継者・追随者、またそれらの説を材料にして文章を書く人たちが、尾鰭を付けたり正しく伝えないことがあるために、いい加減な説が氾濫することになっているようです。わかりやすくいくつかの例をお見せしましょう。

 たとえば赤飯の起原について柳田国男は、昭和33年に神戸新聞連載した「故郷七十年」という回顧談の中で、次の様に述べています。「・・・・小豆を何故大事にするようになったか。これは私の奇抜な解釈だが、小豆を使いはじめたのは、おいしいからではなく、もっと他に理由があったのではないか。・・・・小豆御飯のお米の色と、赤米だけで炊いたのと、色が大変よく似ているのである。物忌みの忌日の特徴をつけ、食べる人に今日から常の日とは違うということを意識させるため、もとは赤米を炊いたのが、在来の赤米がだんだん少なくなって来たので、それによく似た小豆御飯を炊くことになったのではないかと私は考えている。そうして小豆を盛んに栽培する区域と米作地帯が同じであり、小豆御飯の米の色と赤米を炊いた御飯の色とが大変近いということが、問題に対する一つの暗示ではないかと思っている」。

 彼自身が正直に認めているように、あくまでも「奇抜な解釈」なのであって、確たる根拠があるわけではありません。彼の長年の経験をもとにそのように推定したのでしょう。しかしこれを材料に赤飯について書く人は、冒頭の「奇抜な解釈だと思っている」とか、末尾の「と思っている」の部分は削除してしまい、民俗学の権威者柳田国男の説として断定的に引用し、それが独り歩きして行くことになるのです。

 もう一つ例をお見せしましょう。花見の起原について和歌森太郎は、その著書『花と日本人』で次のように述べています。「民俗学では、サツキ(五月)のサ、サナエ(早苗)のサ、サオトメ(早乙女)のサはすべて稲田の神霊を指すと解されている。田植えじまいに行う行事が、サアガリ、サノボリ、訛ってサナブリといわれるのも、田の神が田から山にあがり昇天する祭りとしての行事だからと考えられる。田植えは、農事である以上に、サの神の祭りを中心にした神事なのであった。そうした、田植え月である五月にきわだってあらわれるサという言葉がサクラのサと通じるのではないかとも思う。・・・・桜は、農民にとって、いや古代の日本人のすべてにとって、もともとは稲穀の神霊の依る花とされたのかもしれない」。

 桜の「サ」は稲の神のことであるという説は、現在では定説のように殆どの年中行事の解説書に説かれていますが、和歌森自身は「・・・・・かもしれない」と正直に閃きであることを認めています。しかしそれが追随者の手にかかると「かもしれない」は削除されてしまうのです。しかし何も文献史料的根拠はないので、「・・・・と伝えられています」「・・・・と言われています」としか書きようがありません。そのように書かざるを得ないのは何も根拠がないからであって、もしあれば「・・・・によれば」と大威張りで書くことでしょう。伝承なら伝承でよいのですから、どこにどのようにして伝えられた伝承に基づいているのかを明らかにしなければならないと思うのですが、そこまで書いてある情報はないのです。おそらく書いている本人は、先行する説を適当に「コピペ」しているだけなので、伝承の根拠さえも知らないのでしょう。

 民俗学にもとづく年中行事の解説がいかにいい加減であるか、一つさらに具体的な例を上げてお見せしましょう。「お年玉」というテーマについて、ネット情報を探してみました。

 まずはウィキペディアでは、「お年玉の語源は、正月に歳神を迎えるために供えられた鏡餅がお下がりとして子供に与えられ、その餅が「御歳魂(おとしだま)」と呼ばれたことからとする説がある。また、これを年のありがたい賜物(たまもの)であるとして「年賜(としだま)」と呼ばれたことからとする説もある。年玉の習慣は中世にまでさかのぼり、主として武士は太刀を、町人は扇を、医者は丸薬を贈った。」と記されています。この解説の前半の鏡餅説が、民俗学者によって称えられています。しかしこの解説はまだ良心的で、「・・・・という説がある」とし、刀や扇や薬などを贈ったとする、文献史料に基づく説も併記しています。『語源由来辞典』もまあ同じような内容で、これも良心的です。

 しかし大部分のネット情報は、以下に引用するように、年玉の鏡餅由来説を採っています。

①「年神様にお供えしたお餅を子どもたちに食べさせたことが始まりと言われています。年神様は供えたお餅に宿るものと考えられていて、その宿った魂すなわち「玉」を分け与えて食べることで神様の力を分けて頂くという意味があったのです。それがだんだん変化していって今のようにお金をあげる習慣になりました。」

②「鏡餅には年神様の「御魂」(みたま)が宿り、この鏡餅の餅玉が年神様の御魂、その年の魂となる「年魂」です。その年魂をあらわす餅玉を、昔は家長が家族に「御年魂」「御年玉」として分け与えたのでした。これがお年玉の由来なのです。」

③「昔から日本では、大晦日の夜に「歳神様」という神様が各家のご先祖様を導いて、一軒一軒まわってこられるのだと信じられていました。その歳神様から新年に授かる「魂」を「御歳魂(おとしだま)」といっていたのが、おとし玉の由来だと言われています。」

④「魂というと仰々しく聞こえますが、その正体は、こちらもお正月の定番である鏡餅のこと。鏡餅は、歳神様の憑代として、その魂が宿ると考えられていたのです。その鏡餅に宿った魂をみんなに配り食べることで、昔の人たちは「新しい年の神様の魂を頂く」と考え、新年の無病息災、五穀豊穣を祈っていたのです。」

⑤「『お年玉』語源ですが、はるか昔からの風習であった年神様に奉納された鏡餅(お供え餅)を参拝しに来て下さった人たちに分け与えた神事からきているといわれています。」

⑥「 鏡餅(お供え餅)は元々鏡の形を模したものであり、魂を映し出すものと言われていました。『魂』は別の言い方では『玉』とも表現する場合がありますが、年神様の『玉』ということから『年の玉(魂)』、それに「御」がついて『お年玉』と言われるようになったそうです。これを受け取った参拝者でもある家主が、家族たちに砕いて半紙に包み分け与えたのが『お年玉』のルーツと言われています。」

⑦「正月元旦には、年神様(としがみさま)が一年の幸福をもたらすために各家庭にやって来ると言い伝われています。元旦に来てくれた年神様の依り代(よりしろ=神霊がよりつく対象となる物)として、鏡餅(かがみもち)をお供えします。鏡餅には、神様が宿ってくださるわけです。そして、「松の内」が明けた1月11日に年神様が宿った鏡餅を割って食べることによって、私たち日本人は年神様の力をありがたく頂くという風習があります。この「年神様の魂が宿った餅」のことを「お年魂=おとしだま」と言っていたのが、そもそものお年玉の始まりのようです。」

 これだけ並ぶと、お年玉の由来について手っ取り早く知りたい人がネットを検索し、信じ込んでしまうのは無理もありません。しかし①~⑦までの中で、根拠を示している情報は一つもありません。また「・・・・と言われています」とか「・・・・始まりのようです」「・・・・なったそうです」などと、どれも根拠については極めて無責任な書き方をしているのが特徴です。

 それなら実際のお年玉はどうであったか、文献史料を上げてみましょう。

 新年に祝儀として品物を贈る習慣は、室町時代以後の文献史料にたくさん記録されています。1604年に編纂された『日葡辞書』には、「Toxidama(トシダマ)、新年の一月に訪問したおりに贈る贈物」と記されています。北村季吟が寛文三年(1663年)に出版した俳書『増山之井(ぞうやまのい)』には、「としだま、年始の持参礼物をいへり」と記されています。『華實年浪草』という歳時記にも、「年始に祝儀として互いに贈答するもののことで、『年玉』という言葉は、年の賜(賜物)の略語であろう」と推定しています。『日次紀事』にも「凡新年互に贈答の物、総じて年玉と謂(い)ふ」と記されています。この『日次紀事』という歳時記は大変に信用の置ける書物で、先行する類書を孫引きすることなく、自分で歩いて実際にかき集めた材料によって記述されています。とにかく江戸時代の文献には年玉について色々記されているのですが、年神の霊魂云々とか鏡餅説による理解は、微塵も見当たりません。年玉について、少なくとも都市部の一般庶民は、年神の霊魂説・鏡餅説とは異なる理解をしていたことは間違いありません。

史料「年玉とは」(『華實年浪草』)
「民間にも年始に音物を相互に贈答するも、人を賀し春を祝する祝儀之信也、・・・・今按ずるに、年玉は年の賜の略語か。」

 それなら実際に贈られていたものはどんなものでしょうか。近世の史料からは様々な物を拾い出せるのですが、総じて各々の身分に応じたものや、家業で取り扱っているもの、或いは縁起物が多いようです。何を年玉として配るかによって、その家の家業や身分が、およそわかるのでしょう。『華実年浪草』には、医者は普段扱っている丸薬や軟膏類、庶民は「各作業の物」、身分の高い者は太刀や馬や服など、枚挙に暇がないと記されています。最もよく目に付くのは扇(末広)で、『武江年表』という江戸の地誌には、大晦日の夜には扇売の声がやかましい程であったと記されています。その他には樽酒、紙類、保存のきく昆布・干鱈・するめなどの海産物、牛蒡や蒟蒻などの農産物、軽粉(白粉)、凧などを拾い出すことができました。

 明治時代ではどうだったでしょうか。明治三十四年(1901年)の『東京風俗志』には、「商家などには華客(とくい)さきざきを賀し、年玉として染手拭、摺暦、或は品物などを配りて、相変はらずの御贔屓(ごひいき)を頼みありくも多し」と記されています。また明治四十四年(1911年)の『東京年中行事』(中巻5ページ)には、「普通の人々の間に於ても、年礼(ねんれい)と同時に、その家の小供にお年玉と云って手土産を贈ることが行はれているが、最も盛に行はるるのは、平生出入りの商人が年礼の序(ついで)に、得意先に配って歩るくお年玉で有らう。そのお年玉の種類は素(もと)より一定して居るのではないが、多くは自分の商売品中のものか、或はそれに関係の品で、乃至(ないし)は手拭、略歴、盃なんどが最も普通のもので有る。」と記されています。年玉に何をもらったかで、くれた人の職業がおよそ見当がつくということは、江戸時代と変わっていません。『東京年中行事』は明治四十四年(1911年)に出版されたものですから、少なくとも明治時代末までは現金ではなかったようですし、年神の霊魂や鏡餅に由来する説は、相変わらずかけらさえもないのです。

 いかがですか。これだけ証拠を並べても、まだ年神霊魂・鏡餅由来説が正しいとお考えですか。私がここに上げた文献史料は、みなネットで閲覧できますし、また私も確認の上で書いています。決して孫引きではありません。ですから私は「・・・・と言われています」という無責任な書き方は決してしません。反論があるなら、いつでも受けて立つつもりです。

 民俗学者が地方の農村漁村から採録した伝承の中に、年神霊魂・鏡餅由来説を裏付けるようなものがあることは事実です。しかしそれをもって普遍的に当てはめたり、起原とすることには無理があります。また伝承の持つ決定的欠陥でもあるのですが、いつまで遡るのかが全くわからないのです。民俗学者は得てして都市部の伝承を重視せず、専ら地方の農山漁村の伝承に頼っている点も、その説得力を弱める原因の一つです。伝統的年中行事は、まず中国から伝えられたものが朝廷に採り入れられ、また武家政権に受け継がれ、地方に伝えられていったものが圧倒的に多いのです。いわゆる五節句の骨格は、全部が全部中国由来です。もちろん日本独自の要素も付け加えられてはいますが、骨格そのものは中国伝来であり、それが京から、また江戸から地方に伝えられて、日本全体に共有されるようになったものが圧倒的に多いのです。

 今回はお年玉の例でお話ししましたが、他には「端午の節句は本来は女の節句だった」として、「五月忌み」の風習を上げているものが大変多く見られます。しかし「五月忌み」とは本来は五月には女性と逢って契らないという意味であって、田植えの前に早乙女が潔斎するなどという意味は全くなく、誤用もいいところです。また七夕の起原について、「中国伝来の風習に、日本の七夕伝説が融合した」という説明も氾濫していますが、七夕伝説なるものが奈良時代以前に存在した根拠など、全くありません。また花見について、「日本には古来サ神信仰があった」という説も唱えられていますが、それこそ文献上には何一つ根拠がありません。しかし縄文時代からそのような信仰があったなどと主張しています。これらのせつはみな二十世紀になって折口系の民俗学者やその著書に影響された人が唱えはじめたもので、つい最近のことなのです。

 ここで一つ一つ反論しているわけにも行きませんので、それらを批判した私のブログを直接御覧下さい。
「端午の節句は女の節句という出鱈目」、「棚機津女伝説の危うさ」、「柏餅の起原(流説の誤り)」、「お年玉の起原(流布説の誤り)」、「草餅(母子草から蓬へ、流布説の誤り)」、「牡丹餅とお萩(流布説の誤り)改訂版」、「花見の起原に関するサ神信仰への疑問」、「月見の起原」、「盂蘭盆・お盆の起原(定説の誤り)」などたくさんあるのですが、それらの題の前に「うたことば歳時記」を付けてからそれぞれの題を続けて入力して検索して下さい。もちろん私の不勉強や勘違いもあるかもしれません。しかし確実な根拠に裏付けられて主張することの大切さはわかって頂けるものと思います。


追記

民俗学者は民間伝承を研究資料として重視しますが、文献史料を活用しようとはしない傾向があります。そのことに関連して私が常々疑問に思っているのは、民俗学者が歳時記類を読まないことです。歳時記には、それが著述されたり編纂された頃、民間に伝えられ、また生活の中に定着していた風俗習慣が豊富に記述されています。ですから歳時記は往事の民間伝承その物なのです。それらは一個人の生活習慣ではなく、広く共有されていたことですから、民俗学好みの研究材料であると思うのですが、それらが活用されている形跡がほとんどありません。なぜ活用された形跡がないと言えるかというと、もし読んでいるなら、現在一般に説かれているような年中行事の解説をするはずがないからです。年玉の例を上げておきましたが、歳時記類には年玉の年神霊魂分与起原説は微塵も説かれていないばかりか、年玉が年始の挨拶に添える粗品であることを説いた歳時記ばかりなのです。起原について考察しようという場合、現代の伝承より往事の伝承の集積である歳時記の方が研究材料として有用であることは、もう自明の理であります。私には民俗学者が歳時記類を活用しないことは、民俗学の可能性を自ら狭めているとしか思えないのです。



「端午の節句は女の節句」という出鱈目

2018-04-25 20:10:48 | 年中行事・節気・暦
 端午の節句についてネット情報を見ていると、本来は女の節句だったという記述が氾濫しています。これが実はこんでもない出鱈目なのです。

 民俗学者の和歌森太郎が著した『花と日本人』の中に、次のようなことが記されています。「五月五日の節句は、この時代まだ男児のそれではない。サツキとしてサナエをもって田に植える月、サオトメを中心として、精進のために忌籠りの一夜を過ごすことに由来する節句であったから、どちらかといえば女性にとっての節句なのである」。「この時代」とはこの文章の前後の脈絡から、平安時代を指すものと思われます。「平安時代の端午の節供では、田植えに際して女性達が忌籠(いみごも)りをしていた」というのです。

 その影響なのでしょうか、伝統的年中行事の解説書などには、およそ次のように記されています。「旧暦の五月は田植えの月で、昔は早乙女と呼ばれる若い女性がするものであった。田植えは神聖な行事であり、早乙女たちは田植えの前に、男性が戸外に出払った軒に菖蒲をふいた小屋に集まり、穢れを払って身を清めた。これを『五月忌(さつきいみ)』と呼び、女性が大切にされる日であった。日本の端午の節供は、この五月忌と中国から伝えられた端午の風習が、習合したものだと言われている」というのです。誰もが男児の節供と思っているところに、「実はその反対であった」というのは、話としては大変面白く、誰もが興味を覚えることでしょう。しかしそれは本当なのでしょうか。

 鍵となるのは「五月忌」という言葉にあります。 「五月忌み」は『伊勢物語』や『宇津保物語』にもありますから、かなり古い言葉です。しかし本当の意味は「五月に女性と逢ったり結婚することを忌むこと」なのです。『信明集』という歌集の56番に、「神代より忌むといふなる五月雨のこなたに人を見るよしもがな」という歌があります。古くから五月には女性に逢って契ってはいけないと忌むことになっているが、何とか逢う方法はないものだろうか、という意味です。江戸時代の国語辞典である『俚言集覧』を検索してみて下さい。きちんと書かれています。『源氏物語』「螢」の巻の第二段に、兵部卿宮が六条院を訪ねる場面で、「五月雨になりぬる愁えをしたまひて」という記述がありますが、これは「五月忌み」の愁えを指しています。

 これが五月忌みなのですが、誰が最初に唱えたのか、全く別の意味に強引に解釈し、都合良く利用しているのです。田植えに於いて女性が特別な役割を果たしていたことは、多くの絵画史料によって裏付けられています。また田植えは神事であったことも歴史事実です。ですからその神事に先立って、早乙女達が潔斎をすることは普通にあったことでしょう。しかしそれが五月四日の夜から五日に懸けて行われていたことを証明する文献史料など、何一つ存在しません。それがないのに、どのようにして「早乙女たちは田植えの前に、男性が戸外に出払った軒に菖蒲をふいた小屋に集まり、穢れを払って身を清めた」などと、まるで見てきたかのように具体的な様子がわかるというのでしょうか。そのような言い伝えがあるという反論がありそうですが、伝聞ではいつまで遡るか全くわかりませんし、検証のしようがありません。また伝聞なら伝聞でよいのですから、そのような言い伝えがあったということの、根拠となる文献史料がなければなりません。

 端午の節供が女性の節供であったことの根拠として必ず指摘されるのが、18世紀の初めに活躍した近松門左衛門の書いた脚本『女殺油地獄』下巻の冒頭部にある、「五月五日の一夜さを女の家といふぞかし」という記述です。これは女性にとっては本当に安らぐことのできる場所はどこにもないという「女三界に家なし」という諺を説明するもので、端午の節供の日の夜は「女の家」と呼ばれるというのです。しかしこれだけで早乙女が菖蒲を葺いた小屋に集まって「忌籠り」をしたことの根拠にはなりません。江戸時代には本格的に男児の節供になっていましたから、その江戸時代の劇の脚本の一句を根拠にして、平安時代には女性の節句だったと論証することには無理があります。

 江戸時代に五月五日を「女の家」と呼んだのには、別な理由がありました。江戸時代後期の文化年間に幕府の学者が全国の風俗について書簡で問い合せ、返ってきた報告書が昭和になってから収集されて、『諸国風俗問状答(しよこくふうぞくといじようこたえ)』という書物に編纂されているのですが、その中の三河国吉田領からの報告には、「五月五日・・・・この日一日は男子出陣の留守にて、家は女の家なりなどいふなり。但、これみな武家のみのこと」と記されています。武家では、五月五日は男児の節供で、主役の男達は出払っているので、家には留守番の女達しかいない。それで「女の家」というわけです。そうすると江戸の歳時記である『東都歳時記』に、「五月・・・・六日、今日婦女子の佳節(せつく)と称して遊楽を事とすれども、いまだその拠る所を知らず」と記されていることがよく理解できます。五月五日が男児の節供であるからこそ、翌六日は「婦女子の佳節」となるが、その由来は不明であるというのです。

 端午節の風習は推古朝には伝えられています。それを江戸時代の文献で裏付けるなど、滑稽以外の何物でもありません。日本のある地域にこの日を「女の家」という風習が残っているということも根拠の一つによく上げられるのですが、それが7世紀まで遡りうることを証明できるとでも言うのでしょうか。常識で考えても、不可能なことがわかるでしょう。近現代の各地に残っていた民俗的風習を、そのまま7世紀に五月忌みがあったことの証拠とするのは、あまりにも乱暴です。そもそも五月忌みの意味が全く間違っているのですから。

 端午の節句が本来は女の節句であったと書いている筆者の皆さん、あなたは「五月忌み」の正しい意味を自分で検証して書いているのですか。端午節に女性が菖蒲を葺いた小屋に集まって忌み籠もりをしたという文献史料を見たことがあるのですか。それとも先行する説を鵜呑みにして丸写しにしているのではありませんか。納得できなかったらそのような根拠を見せて下さい。




出鱈目な棚機津女伝説

2018-04-25 13:39:17 | 年中行事・節気
 まだ先のことですが、七夕が近付くと、憂鬱になってきます。その原因はいわゆる棚機津女伝説というものです。ネットや歳時記の本を見ると、まるで判で押したように、中国伝来の織姫・牽牛の物語と日本古来の棚機津女伝説が習合して、七夕の風習となった、と説かれているのです。

 その棚機津女伝説とは、「天から降りてくる水神に捧げるための神聖な布を、若い女性が棚づくりの小屋に籠もって俗世から離れて織る。」とか、「棚機津女として選ばれた女性は村の災厄を除いてもらうために、7月6日に水辺の機屋に籠もり、神の着る布を織りながら神の訪れを待つ。そしてその夜、女性は神の妻となって神に奉仕する。翌日七日には、神を送って村人は禊を行い、罪穢れを神に托して異界へ持って行ってもらう。」などというないようで、いかにも見てきたような説明が一般に流布しています。

 しかし奈良時代以前の伝説が、それ程まで具体的な内容を伴って、いったいどのような形で現在に伝えられているというのでしょうか。もしあるというならば、『古事記』『日本書紀』『万葉集』『風土記』、及び古い伝承を含むと考えられる平安時代の諸文献にふくまれていなければなりません。しかしそれらの中には一切ありません。古老の話にあるとか、口伝があるというなら、それが奈良時代以前にまで遡るものであると、どのように証明するのでしょうか。そのような説をまことしやかに説いている人たちは、いったいそのような説の根拠を何所に求めているのでしょうか。問い詰められれば、おそらく何も示せないはずです。なぜなら自分で確認もしないで、先行するその様な説を受け売りしているだけなのですから。

 そのような説は、もとは言えば折口信夫という民俗学者が、『水の女』などの著書によって提唱したものです。その『水の女』はネットで閲覧可能ですから、「十二 たなばたつめ」の章を一度御覧になって下さい。読めばすぐにわかりますが、折口はその主張の根拠となるものを具体的には何一つ提示していません。そして彼の弟子たちは、師折口の説をそのまま受け継ぎ、多くの著書に紹介していきました。私は國學院大學の史学科に学びましたから、折口の弟子と称する人たちの授業をたくさん聞きましたが、彼らの折口に対する態度は、まるで宗教的尊師を崇めているようで、一切の批判は許されない雰囲気でした。史学科の先生達にいろいろ質問しましたが、あれは所詮民俗学だから、証拠がなくても、伝承ということでいくらでも好きなことが言えるのだ。良く言えば仮説であり、詩的想像の産物でしかない。とうてい厳密な学問的批判に耐えられるものではないとのことでした。今から50年も前の話です。その後、民俗学者の説く「棚機津女(たなばたつめ)伝説」には様々に尾鰭が付き、今ではあらゆる歳時記や年中行事の解説書に氾濫しているのです。

 いわゆる棚機津女伝説の中には、『古事記』や『日本書紀』に記されているという説明も散見します。しかしどこを探してもそのような記述はありませんし、さすがに折口自身は、記紀にそのような記述があるとまでは説いていません。女性が布を織るということについて思い当たることといえば、天の岩戸の神話の少し前に、織女が神聖な機屋にこもって神の衣のための布を織っていたという場面があります。また斎部広成が大同二年(807年)に著した『古語拾遺』という書物に、天岩戸に隠れてしまった天照大神を引き出すため、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)が八十万神(やそよろずのかみ)を集めて、多くの祭具を作らせました。その中の一つとして、天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ)が神衣(かむそ)を織ったという記述があるだけです。

 また『万葉集』には約130首の七夕の歌があり、中国伝来の七夕の物語が早くから広く知られていました。ただしそれらの歌は、織女と牽牛の年に一度の出会いに自分の恋を重ね、恋の歌として詠まれたものがほとんどです。それでも「棚機津女」なるものが存在したことを示唆する歌はいくつか探し出せます。例えば、「棚機(たなばた)の五百機(いほはた)立てて織る布の秋去り衣孰(たれ)(誰)か取り見む」(2033)という歌があります。この歌は前後を七夕の歌に挟まれていますから、明らかに七夕の歌であり、七夕に誰かに贈るために、多くの機で布を織る女性の心を詠んだものです。

 中国から七夕の風習が伝えられるより早く、日本には祭祀に関わる布を織る「タナバタ」と呼ばれるものがあったのは事実でしょう。また『万葉集』では「七夕」を「タナバタ」、「織女」を「タナバタ」「タナバタツメ」と読ませている歌もありますから、「タナバタ」という特別な女性の織り手が、日本独自に存在したことは認められます。それがあったからこそ、「たなばた」とは読みようがない「七夕」という漢語に、「タナバタ」という訓が与えられたのです。日本の「タナバタツメ」という布を織る女性と、中国伝来の織女という布を織る女性が重なったからこそ、「タナバタツメ」「タナバタ」という大和言葉に「織女」「七夕」という漢語の表記が当てはめられたのです。ここには明らかに中国七夕伝説と日本の機織の習合を確認することができます。しかしそれ以上のこととなると、全く手掛かりがないのです。いったい何を根拠に、前掲の「天から降りてくる水神に捧げるための神聖な布を、若い女性が棚づくりの小屋に籠もって俗世から離れて織る。」とか、「棚機津女として選ばれた女性は村の災厄を除いてもらうために、7月6日に水辺の機屋に籠もり、神の着る布を織りながら神の訪れを待つ。そしてその夜、女性は神の妻となって神に奉仕する。翌日七日には、神を送って村人は禊を行い、罪穢れを神に托して異界へ持って行ってもらう。」などというような、具体的な伝承があったことになってしまうのでしょう。

 伝承と言うからには、伝承があったことを裏付ける史料がなければなりません。もちろん江戸時代の歳時記類にも全く見当たりません。明治44年(1911年)の『東京年中行事』にも、「日本古来の棚機津女伝説と習合した」などということには、全く触れられていません。明治時代までは棚機津女伝説は存在しなかったのに、その後、20世紀になって突然に出現したのです。これは一体どういうわけでしょう。民俗学者によって提唱された棚機津女伝説に次第に尾鰭が付き、さも歴史的事実であるかのように独り歩きするようになったとしか考えられません。

 民俗学者が自説を展開するのは学問の自由として全く問題ありません。しかしネット上や一般に普及している歳時記の書物には、まことしやかに「棚機津女(たなばたつめ)伝説」の解説を書いている人自身は、その「伝説」の根拠も確かめたことはなく、ただ先行する類書を適当に摘まみ食いしているだけのようです。もし史料的根拠があるならば、「・・・・によれば」と大手を振って書くのでしょうが、何もないので、「・・・・と伝えられています」としか書けないのです。現在では「棚機津女伝説」というフィルターの影響を受けていない年中行事解説書を見出すことは困難な程、日本中に共有されてしまいました。そういう意味で、折口信夫の責任は重大なものがあります。

 概して歳時記や年中行事について記述されたものは、「・・・・と伝えられています」とか「・・・・と言われています」という書き方に終始し、自分の主張の根拠を明示したものがありません。特にネット情報は書き手の顔が見えないこともあって、無責任な文章が多いものです。根拠を示さない、否、示せないそのような解説には、十分気を付けなければなりません。

史料「日本神話の織女(たなばた)」
『日本書紀』神代下の天稚彦(あめのわかひこ)の葬儀の場面で、「天(あめ)なるや弟織女(おとたなばた)の頸(うな)がせる玉の御統(みすまる)の穴玉は・・・・」という歌が記されていて、「弟織女」を「オトタナバタ」と読ませています。また9世紀初頭に成立した『古語拾遺(こごしゆうい)』という書物には、天照大御神が天岩屋に隠れた時に、大神に献上するため、「天棚機姫神(あめのたなばたつひめのかみ)をして神衣(かむそ)を織らしむ。」という記述があります。

柏餅の起原(流布説の誤り)

2018-04-24 12:49:12 | 年中行事・節気・暦
 新暦ではありますが、端午の節句が近付いて来ると、店頭には早くも柏餅が並んでいました。ウィキペディアには、「柏餅は徳川九代将軍家重から十代将軍家治の頃、江戸で生まれた。」と断定的に記されています。ですからそれを根拠にして、ネット情報はみなその説を受け売りしています。しかし天保十四年の『世事百談』という随筆に「柏餅」という題で記事が載せられています。それによれば、寛永の頃の『俳諧初学抄』という書物には柏餅について何も触れられていないが、寛文年間(1661~1673年)と思われる『酒餅論』という書物には、端午の柏餅の記事があり、延宝八年(1680年)の『俳諧向之岡』という書物には、柏餅を詠んだ句があるので、この頃から広く節句の行事食となったのであろうと推定しています。

 『酒餅論』はネットで閲覧が可能ですので、確認したところ、7丁目に間違いなく「弥生はひなのあそびとてよもぎのもちや、端午にはちまきのもちや柏もち。水無月初の氷餅」と記されています。ウィキペディアが何を根拠にしているのかわかりませんが、明らかに誤りとしか言えません。


 端午の日に柏餅を食べる習慣は、今でこそ全国的になっていますが、江戸時代には江戸の風習でした。前掲の『世事百談』には、「端午の日に柏の葉に餅を包みて、互に贈るわざは、江戸のみにて他の國にはきこえぬ風俗にして」と記されています。『俳諧歳時記』にも「畿内にはさのみ用ひぬ事なり」と記されています。端午の節句の行事食としては、粽(ちまき)もありますが、今でも粽はおもに関西でよく食べられ、関東では柏餅の方が馴染みがあるのは、もともと江戸の風習だったからでしょう。西日本には柏の木が少ないため、サルトリイバラ(山帰来(さんきらい))という草の葉を使うこともあるそうです。

 天保年間に書かれた『守貞謾稿』によれば、男児が生まれると端午の節句に柏餅を親類縁者に贈る風習がありました。米粉で作った楕円形の餅を二つ折りにして、中に小豆餡(あずきあん)や味噌餡(みそあん)を挟むのですが、小豆餡の場合は葉の表を出し、味噌餡の場合は裏が見えるようにして区別したと記されています。これは現在でもそのように作られています。小さなことですが、葉の表裏にも歴史があったのです。ネットでは味噌餡の柏餅を知らなかったという記事がたくさんあります。しかし江戸時代以来のものなのです。念のため、史料を載せておきます。

 「京坂にては、男児生れて初の端午には、親族及び知音(ちいん)の方に粽を配り、二年目よりは柏餅を贈ること、上巳の菱餅と戴(いただき)(灌仏会で食べる小豆餡を載せた餅)の如し、・・・・江戸にては初年より柏餅を贈る、三都(江戸・大坂・京)ともその製は、米の粉をねりて円形扁平となし、二つ折りとなし、間に砂糖入り赤豆餡(あずきあん)を挟み、柏葉大なるは一枚を二つ折りにしてこれを包む。小なるは二枚をもって包み蒸す。江戸にては砂糖入り味噌をも餡にかへ交ゆるなり。赤豆餡には柏葉表を出し、味噌には裏を出して標(しるし)とす。」


薬日・薬猟、流布説の誤り

2018-04-23 09:25:08 | その他
もうすぐ新暦の端午の日を迎えます。法律上はこどもの日ですが、「薬の日」にもなっています。それは
五月五日に薬猟が行われたことが、『日本書紀』に記されていて、平安時代以来五月五日が「薬日」と呼ばれていたからです。

 『日本書紀』の推古天皇の御代には、「十九年夏五月五日、菟田野(うだの)に薬猟す」、「二十年夏五月五日、薬猟して羽田(はた)に集ひ・・・」、「二十二年夏五月五日、薬猟す」と記されていて、五月五日に3回行われています。また天智天皇の御代には、「七年五月五日、天皇蒲生野に縦猟(かり)したまふ」、「八年五月五日、天皇、山科野に縦猟したまふ」と記されていて、2回行われています。

 五月五日に薬の材料を採集することは、古代中国の風習で、6世紀に成立した、中国の長江中流域一帯である荊・楚地方(現在の湖北省・湖南省付近)の年中行事を記録した『荊楚歳時記』には、五月五日に人々が蓬を採って人の形に作り、門戸の上に懸けて邪気を祓うこと、菖蒲を刻んで杯に浮かべて飲むこと、また「競ひて雑薬を採る」ことが記されています。ただしこの書物が日本に伝えられるのは奈良時代の最初ですから、推古・天智朝の薬猟は、『荊楚歳時記』ではない、別の情報が伝えられたためとしか考えられません。もし『荊楚歳時記』の影響で推古朝に薬猟をしたと記されていたら、それは時期が誤っています。ともかく、7世紀初めには、五月五日に薬を採るという古代中国の風習が日本にも伝えられ、それに倣って日本でも行われたわけです。

 日本のネット情報などでは、この日の薬猟で、鹿茸と(ろくじょう)いう鹿の若い角を採ったと記されています。確かに鹿茸には強壮の薬功があるようで、現在でも漢方薬の材料となっているそうです。薬猟とか薬の日でインターネットを検索すると、引っ掛かってくる情報のほとんどに、古代の薬猟で鹿茸を採集したと記されています。しかし『日本書紀』の史料を何所にも「鹿茸」とは記されていません。

 曲がりなりにも大学で史学科を卒業した私としては、どうしても納得できません。『荊楚歳時記』にも「雑薬」、つまり各種の薬を採ったと記されているだけで、鹿茸とは記されていません。いったいどうなっているのかといろいろ調べていると、ようやく「犯人」がわかってきました。江戸時代の国語辞典である『和訓栞』の「くすりがり」の項に、「推古紀に、五月五日、薬猟於菟田野と見えて、万葉集に多くよめり・・・・鹿茸を主にて、百薬をも採なるべし、」と記されているのです。他にも何人かの国学者が同じように記しています。しかし丁寧に読んでみると、「採るなるべし」と推定しているだけであって、断定はしていません。もともと『日本書紀』には記されていないのですから、断定のしようもないことなのです。また「くすりび」という項があり、「五月五日をいふといへり。貫之集に、ほととぎす鳴けども知らぬあやめ草こぞ薬日のしるしなりけり」と記されています。『貫之集』を確認しましたが、確かにその歌はありました。ですから「薬日」という呼称は、かなり早い段階からあったことは確かです。しかしウィキペディアには推古朝の薬猟を記念して薬日とと定めたようなことが記されていますが、『日本書紀』にはその様なことも一切記されていません。ネット情報という物は気を付けなければならないとつくづく思います。製薬会社の情報やネット情報や辞書類では、まるで判で押したように古代の薬猟で鹿茸を採集したと断定的に記述しています。書いている人は、『日本書紀』など一瞥もしないで、誰かが書いた先行する文章を適当にコピペしているだけなのでしょう。

 五月五日に薬の材料を採集する風習があったこと自体は間違いないことですから、この日を薬の日とすることは根拠のあることで、結構なことだと思います。しかしこの日に鹿茸を採集したというのは、江戸時代の国学者達が推定しただけのことなのです。


 私は歳時記について長年研究していますが、この薬の日に限らず、ネット情報の出鱈目さ加減には、ほとほと呆れています。まず史料的根拠を示さずに、「・・・・と伝えられています」「・・・・と言われています」という書き方をしている筆者は、原典史料を自分で確かめていないものと見て間違いありません。見ていないから、そうとしか言いようがないのです。その様な書き方をしている著書や情報は、まず疑ってかかった方がよい。伝聞でなら何とでも書けるからです

 私はこの時期、散歩のついでに、毎日のように薬猟をしています。自家製の薬草茶の材料を集めるのです。くこ・蓬・枇杷の葉・どくだみ・ミント・柿の葉・桑の葉・月桂樹の葉・熊笹などが主な材料なのですが、それに鳩麦茶・麦茶・抹茶などをブレンドして作ります。もともとはお茶代節約のために始めたことでしたが、お客さんにも美味しいと喜ばれ、やめられなくなりました。