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『青鞜』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2022-06-18 19:41:02 | 私の授業
青鞜

 
原文
 元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く病人のやうな蒼白(あおじろ)い顔の月である。私共は隠されて仕舞つた我が太陽を今や取戻さねばならぬ。
 「隠れたる我が太陽を、潜(ひそ)める天才を発現せよ、」こは私共の内に向っての不断の叫声(きようせい)、押へがたく消しがたき渇望、一切の雑多な部分的本能の統一せられたる最終の全人格的の唯一本能である。此叫声、此渇望、此最終本能こそ熱烈なる精神集注とはなるのだ。そしてその極(きわま)るところ、そこに天才の高き王座は輝く。
 青鞜社規則の第一条に他日女性の天才を生むを目的とすると云ふ意味のことが書いてある。私共女性も亦一人残らず潜める天才だ。天才の可能性だ。可能性はやがて実際の事実と変ずるに相違ない。只精神集注の欠乏の為、偉大なる能力をして、いつまでも空しく潜在せしめ、終(つい)に顕在能力とすることなしに生涯を終るのはあまりに遺憾に堪へない。・・・・
 自由解放! 女性の自由解放と云ふ声は随分久しい以前から私共の耳辺にざわめいてゐる。併しそれが何だらう。思ふに自由と云ひ、解放と云ふ意味が甚しく 誤解されてゐはしなかつたらうか。尤(もつと)も単に女性解放問題と云っても其中には多くの問題が包まれてゐたらう。併し只外界の圧迫や、拘束から脱せしめ、所謂(いわゆる)高等教育を授け、広く一般の職業に就かせ、参政権をも与へ、家庭と云ふ小天地から、親と云ひ、夫と云ふ保護者の手から離れて所謂独立の生活をさせたからとてそれが何で私共女性の自由解放であらう。成程それも真の自由解放の域に達せしめるによき境遇と機会とを与へるものかも知れない。併し到底方便である。手段である。目的ではない。理想ではない。

解説
 『青鞜(せいとう)』は、明治四四年(1911)、二六歳の平塚雷鳥(ひらつからいちよう)(らいてう、1886~1971)を盟主に、五人の女性により発刊された、月刊女流文芸雑誌です。そして大正五年(1916)二月に、五二号を以て廃刊されました。ここに載せたのは、創刊号の序文です。誌名は、十八世紀のロンドンの知的な文芸サロンに参加していた女性達がBluestocking(青い靴下)をはいていたことに由来しているとされているのですが、「青鞜」の「鞜」は靴下ではなく、本来は革製の靴(くつ)を意味していますから、なぜ「くつ下」ではなく「くつ」になってしまったのか、私の手には負えません。発行部数については、雷鳥の回想録『わたくしの歩いた道』には、創刊当時、「部数はたしか千部だった」と記されています。最も多い時には三千部に達したそうです。
 『青鞜』創刊は、政治的・社会的な女性解放を目指したと説明されることがあります。しかしそれは正確ではありません。結果としては女性解放運動の原点の一つとなったのは事実ですが、序文には、高等教育、職業選択の自由、参政権、家庭・親・夫から独立した生活は、「女性の自由解放」の方便であって、目的・理想ではないと断言されています。
 それなら雷鳥は何を目的として、『青鞜』を創刊したのでしょうか。青鞜社概則の第一条には、「本社は女流文学の発達を計り、各自天賦の特性を発揮せしめ、他日女流の天才を生まむ事を目的とす」と記されています。鍵になる言葉は「天才」です。この場合の「天才」は、いわゆる超一流の才能、geniusではなく、天から与えられた才能、生まれつき内蔵されている才能のことで、「偉大なる潜在能力」「潜める天才」とも表現されています。そしてこれを「十二分に発揮させること」が、「私の希(こいねが)ふ真の自由解放」であると説いているのです。
 そして天才の発揮を妨害しているものがあり、それは「天才の所有者、天才の宿れる宮なる我」であるという。そしてその妨害を除去するためには、「所謂(いわゆる)無我にならねばならぬ」とか、「祈祷に熱中し、精神を集注し、以て我を忘れるより外(ほか)道はない」と説いています。「無我」「祈祷」や「精神集注」という言葉は、意外なものと思う人も多いことでしょう。雷鳥は「精神集注」という言葉を好んで使うのですが、二十歳の頃、日暮里(につぽり)の両忘庵(りようぼうあん)という禅院に本気で参禅し、「慧薫(えくん)」という法名まで授けられていましたから、その影響なのでしょう。女性の政治的・社会的解放ということについては、その年齢ではまだ十分理解していなかったのだと思います。そういうわけで雷鳥は『青鞜』において、女性の政治的・社会的権利の獲得を目指したと理解すると、それは創刊時の真意から外れることになります。要するに、自我が自分自身の潜在的天才の発揮を妨害しているというのですから、人間としての内面的自我の目覚めによる女性解放を目指した、と言うことができるでしょう。
 そしていざ発刊されると、「ふしだらな女」「新しい女」として注目されました。明治四一年(1908)、雷鳥は夏目漱石の弟子である森田草平と雪中での心中未遂事件(塩原事件)を起こし、小説家と日本女子大学卒業生のスキャンダルとして知られ、当時から「禅の修行は何だったのか」と批判されていましたから、「あの塩原事件の・・・・」という、好奇の目に曝されたのです。このような反響は予想されていたとはいえ、雷鳥にも考えるところがあったと思います。また禅宗的「精神集注」の体験は雷鳥個人のものであり、雷鳥意外の同人に通用するとは限りません。そして次第に雷鳥の思想も『青鞜』の目的も、変化せざるを得なくなり、大正二年(1913)十月、『青鞜』の社則第一条の「女流文学の発達を計り」が、「女子の覚醒を促し」に変更され、「女流文学」の枠を越えて行くことになるのです。
 その後、大正七年(1918)には『婦人公論』において、「母性の国家的保護」をめぐって与謝野晶子と論争をしたり、翌々年には女性の政治的・社会的権利獲得を目的として、市川房枝や奥むめおらと共に、日本初の女性団体である新婦人協会を結成しています。こうした雷鳥の活動の変化は、変節ではなく、雷鳥自身の自我の目覚めであり、結果として雷鳥の秘められていた「天才」が発揮されたわけです。雷鳥は自分の天才は文芸であると思い込んでいたのでしょうが、実はそれを含めた女性解放運動の覚醒を促すことだったのです。