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『愚管抄』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2022-11-26 09:08:12 | 私の授業
愚管抄


原文
 抑(そもそも)この宝剣、失(う)せはてぬる事こそ、王法(おうぼう)には心憂(う)きことにて侍れ。是(これ)をも心得べき道理定めてあるらんと案をめぐらすに、是はひとへに、今は色に顕(あらわ)れて、武士の君(きみ)の御(おほん)守(まもり)となりたる世になれば、それに代へて失せたるにやと覚ゆる也。
 その故は、太刀(たち)と云ふ剣(つるぎ)は、これ兵器の本(もと)也。これ武の方の御(おほん)守(まもり)也。文武の二道にて国主は世を治むるに、文は継体(けいてい)守文(しゆぶん)とて、国王の御(おほん)身につきて、東宮には学士、主上には侍読(じとく)とて、儒家とて招(お)かれたり。武の方をばこの御守に、宗廟(そうびよう)の神も乗りて守りまいらせらるゝ也。それに今は武士大将軍、世をひしと取て、国主、武士大将軍が心を違(たが)へては、え御座(おわ)しますまじき時運の、色に顕(あらわ)れて出(いで)きぬる世ぞと、大神宮八幡大菩薩もゆるされぬれば、今は宝剣も無役(むやく)になりぬる也。
 高倉院をば平氏立まいらする君也。この陛下の兵器の御守りの、終(つい)にこの折、かく失せぬる事こそ、顕(あらわ)に心得られて、世の様(よう)あはれに侍れ。

現代語訳
 そもそも宝剣が(壇ノ浦で)失われてしまったこと程、朝廷の政治にとり残念なことはない。これにもよく思慮すべき道理がきっとあるに違いないと思いめぐらすと、今ははっきりと表に表れるように、武家が天皇の守護者となる世の中となったので、それに代わり宝剣が失われたのだと考えられる。
 そのわけは、太刀と呼ばれる剣は、武器の本源となるものである。これは(文武による天皇の政治の)武の方の御守なのである。国主たるものは文武二道により世を治めるものであるが、文の道というものは、「継体(けいてい)守文(しゆぶん)」といって、祖先の政道を受け継ぎ、武によらない文治が行われ、王たるものにつき従うものであり、(そのために)皇太子には(その教育に当たる)学士が、天皇には(学問を教授する)侍読(じどく)として儒者が招聘(しようへい)されている。
 一方、武の道というものは、朝廷の守護について、朝廷の祖先神までもが乗り移り、お守りすることになっている。そして現在は征夷大将軍がしかと政治を取り仕切り、国主が将軍の心に背くことがあれば、天皇も御位に留まることができないという時の巡り合わせが、明らかに現れる時勢となっている。そのことを伊勢の大神や八幡神大菩薩もお認めになられたので、今は宝剣が役に立つことがなくなったのである。
 高倉天皇は平家がお立てした天皇である。この天皇を守護する宝剣が、このような時に失われたということこそが明確に理解でき、世の移ろいがしみじみと思われるのである。

解説
 『愚管抄(ぐかんしよう)』は、天台座主(ざす)(天台宗を統轄する最高職)となった慈円(1155~1225)が著した歴史書で、承久の乱(1221年)までには書き終わっていたとされています。書名は、「愚かな筆(竹管)のすさび(興にまかせて書いたもの)」という意味です。『愚管抄』の特徴は、時代の推移を「道理」という理念により理解しようとしていることです。歴史上の様々な出来事には、必然的にそのようになる理由があるというわけです。このように歴史を評論する歴史書を、「史論書」といいます。
慈円は、『新古今集』には西行の九四首に次いで九一首も収められる程の歌人ですのに、『愚管抄』の文は、読む気力が失せる程読みにくい悪文ですから、口述筆記かもしれません。
 慈円は保元の乱(1156年)の前年に生まれ、兄は摂政・関白・太政大臣となった九条兼実(かねざね)です。『愚管抄』を著すまでに、平治の乱、平氏繁栄、源平争乱と平氏滅亡、頼朝の征夷大将軍就任、源氏嫡流断絶などの激動が続く時代を、摂関家出身で、かつ天台座主という立場で直に体験してきました。ですから慈円が、激動の真只中で自ら納得できる歴史の動因を思索したのも、「道理」のあることと言えましょう。慈円が『愚管抄』の中で保元の乱後を、「ムサ(武者)ノ世ニナリケル也」、「保元以後ノコトハミナ乱世ニテ」と評価したことは、高校の日本史の授業で学習します。
 慈円が『愚管抄』を著した動機について、従来は、後鳥羽上皇の討幕計画を察知した慈円が、それを諫止しようとして書いたと理解されていました。しかしそれならば率直に錬言を表に出し、漢文で簡潔に書かれてもよさそうなものです。慈円は巻七に、「愚癡(ぐち)(愚痴)無智ノ人」にものの道理を教えるために仮名で書いたと記していますが、後鳥羽上皇の側近が「愚癡(ぐち)無智ノ人」であるはずはありません。巻七にはさらに、「コレヲコノ人々大人(おとな)シクオハシマサン折御覧ゼヨカシ」と記されています。これは「この人達が成長したら、御覧になるように」という意味なのですが、「コノ人々」とは立太子した懐成(かねなり)親王(後の仲恭天皇)と三寅(みとら)(後の鎌倉第四代将軍九条頼経)のことで、いずれも九条兼実の曾孫に当たります。慈円は九条家の血を引くわずか二歳の幼児達が、いずれ天皇と将軍になるであろうことを、伊勢の大神や八幡神の神意によるものとして、歓喜していることも記されています。これらの記述をもとに考えるならば、『愚管抄』はこの二人の幼児のために書かれたと考えられるのです。『愚管抄』の叙述が始まったとされる承久元年(1219)年に、三寅(九条頼経)が未来の将軍として鎌倉に迎えられたことも、そのことを補強しています。ただし将軍宣下は嘉禄二年(1226)のことです。
 ここに載せたのは、巻五の末尾に近く、壇ノ浦の戦で宝剣が失われた理由について叙述されている部分です。慈円はそのことには、それ相当の道理があると言います。政治は文武の二面から行われるべきものであるが、朝廷を守護する「武」は源頼朝が担うことになったので、武の象徴である「剣」の役割がなくなったために失われた。このことは皇室の祖先神である天照大神と、源氏の守護神である八幡大菩薩の議定による、というわけです。またこの引用部の直前では、安徳天皇は平氏の守護神である厳島明神の利生により、平清盛が擁立した天皇であり、また厳島明神は竜王の娘であると伝えられているから、最後は海に帰って行かれたのであると理解しています。現代人には我田引水の理屈ですが、九条兼実を通じて源頼朝に期待していた慈円には、当然の「道理」なのです。
 しかしまだ安徳天皇の在位中に、三種の神器なしに即位せざるを得なかった後鳥羽天皇にしてみれば、宝剣は何が何でも身近に置かれなければならないものでした。そして本来国主が持つべき文武の権のうち、武の権を鎌倉幕府に奪われたというなら、それは取り戻さなければならないと思うのは、後鳥羽上皇にしてみれば当然の「道理」であり、それは承久の乱という形で実現してしまいます。
 後鳥羽上皇は文武両道に優れた帝王で、自ら『新古今和歌集』を改訂編纂するばかりではなく、武芸を嗜み、院の武力として西面の武士を設けています。また諸国から刀鍛冶を集めて刀を鍛造させ、好みであった十六弁の菊紋を彫り、それは「菊御作(きくごさく)の太刀」と呼ばれました。因みにこれが皇室の菊紋の起源となります。このように後鳥羽上皇が刀剣に思い入れがあったのは、その好みによるだけではなく、宝剣を含む三種の神器なしに即位したという、引け目が背景となったのかもしれません。
 最後に、慈円が後鳥羽上皇と対立していたと誤解されないために、上皇に対する敬慕の心を詠んだ歌を御紹介しておきましょう。「心ざし君にふかくて年も経ぬまた生まれても又や祈らむ」(『玉葉集』2578)

昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『愚管抄』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。