薩摩芋の季節となり、焚き火のついでに芋を焼いて食べました。たまたまの偶然ですが、風俗史の勉強のため、『宝暦現来集』という江戸時代の書物を読んでいたら、焼き芋を「八里半」とか「十三里」と呼ぶことについて書いてあるのに出くわしました。もちろんそのような呼称があることも、なぜそのように呼ばれたのかも知ってはいましたが、そのことについて記した江戸時代の文献を直接読んだことはなかったので、一寸嬉しくなって書いています。
世の中の物知り名人が面白いことを紹介してくれるのはよいのですが、その根拠となる資料まで紹介してくれる情報は滅多にありません。ですから自分で再検証・再確認しようと思っても、どうにもならないのです。もちろん私は焼き芋について研究したこともなく、今回たまたま出典を見つけただけです。本気で調べればもっとたくさんの文献史料があるのでしょうが、これは軽い読み物ですから、あまり追求しないで下さい。
『宝暦現来集』には次のように記されていました。「芋を焼て売事。寛政五年の冬、本郷四丁目番家にて、初て八里半と云ふ行灯(あんどん)を出し、焼芋売始けり。其以前、むし芋計(ばかり)也。八里半は渾名(あだな)なりと。九里より味(うま)いとも云ふ。其後小石川白山町家にて、十三里と云行灯を出候。是も亦右(石?)焼芋なり。今は町毎に焼芋計にて、蒸し芋少し。」これは大正元年に国書刊行会から発行された『近世風俗見聞(けんもん)集』という書物に収録されています。ネットで『近世風俗見聞(けんもん)集』と検索し、その第三に『宝暦現来集』が載せられていますから、その巻之五の終わりの方を探してみて下さい。
八里半というのは、栗(九里)にはわずかに及ばないが、それくらいに美味いということを洒落て表現したものです。、江戸の町々は随所に自身番という小屋が設けられ、町内警備のために夜になると木戸を閉めて交通を遮断するような作りになっていました。その小屋のことを「自身番家」「番家」といいました。番屋の業務は、初めのうちは町内の地主自身勤めていましたが、次第に町内の費用で人を雇って勤めさせることがあり、彼等は生活のために、草鞋などの一寸した日用品を小売りすることが許されていました。その番家で、焼芋が売られていたというのです。当時の焼き方は石焼き芋ではなく、昔ながらの壺焼きでしたから、場所もとらず、火事の危険も少ない物でした。
八里半とは上手い名前を付けたものですが、そのうち栗より美味いということで、「栗より美味い」に「九里四里美味い」を懸けて、「九里四里美味い十三里」ということから、「十三里」といえば焼芋を指すようになりました。なぜ十三里なのかについては、九里と四里の合計という説がありますが、当時、江戸への薩摩芋の供給地であった川越までの距離という説もあります。その他に焼芋のことを「○焼き」ということもありました。歌川広重の「名所江戸百景」のシリーズの中に、「びくにはし雪中」という絵があります。そこには「山くじら」という看板と共に「○やき」「十三里」という看板がはっきりと描かれています。ネットですぐに見られますから御覧下さい。因みに山くじら(山鯨)とは、猪の肉の隠語です。
川越は早くから薩摩芋の産地として、江戸に大量の芋を送り出していました。芋は重たいので陸送には適してしません。そのため新河岸川の水運を利用すればすぐに江戸に下れる立地条件をもつ川越が、産地となっていたわけです。現在の新河岸川は水量が少なく、とても舟運があったとは思えません。かつてはわざと水路を曲がりくねらせて、水が一気に流れ下らないようになっていたため、舟運も可能でしたが、河川改修の結果、水位が下がってしまいました。川越では今も薩摩芋の菓子が名物となっています。
『江戸繁昌記』という書物の第一巻の三十三丁目にも、焼芋についての記述がありますから、詳しく調べてみたいかたは、ネットで検索してみて下さい。埼玉図書館のデジタルライブラリーが字が鮮明で読みやすいものです。ただし漢文ですので、少々読みにくいかもしれません。
世の中の物知り名人が面白いことを紹介してくれるのはよいのですが、その根拠となる資料まで紹介してくれる情報は滅多にありません。ですから自分で再検証・再確認しようと思っても、どうにもならないのです。もちろん私は焼き芋について研究したこともなく、今回たまたま出典を見つけただけです。本気で調べればもっとたくさんの文献史料があるのでしょうが、これは軽い読み物ですから、あまり追求しないで下さい。
『宝暦現来集』には次のように記されていました。「芋を焼て売事。寛政五年の冬、本郷四丁目番家にて、初て八里半と云ふ行灯(あんどん)を出し、焼芋売始けり。其以前、むし芋計(ばかり)也。八里半は渾名(あだな)なりと。九里より味(うま)いとも云ふ。其後小石川白山町家にて、十三里と云行灯を出候。是も亦右(石?)焼芋なり。今は町毎に焼芋計にて、蒸し芋少し。」これは大正元年に国書刊行会から発行された『近世風俗見聞(けんもん)集』という書物に収録されています。ネットで『近世風俗見聞(けんもん)集』と検索し、その第三に『宝暦現来集』が載せられていますから、その巻之五の終わりの方を探してみて下さい。
八里半というのは、栗(九里)にはわずかに及ばないが、それくらいに美味いということを洒落て表現したものです。、江戸の町々は随所に自身番という小屋が設けられ、町内警備のために夜になると木戸を閉めて交通を遮断するような作りになっていました。その小屋のことを「自身番家」「番家」といいました。番屋の業務は、初めのうちは町内の地主自身勤めていましたが、次第に町内の費用で人を雇って勤めさせることがあり、彼等は生活のために、草鞋などの一寸した日用品を小売りすることが許されていました。その番家で、焼芋が売られていたというのです。当時の焼き方は石焼き芋ではなく、昔ながらの壺焼きでしたから、場所もとらず、火事の危険も少ない物でした。
八里半とは上手い名前を付けたものですが、そのうち栗より美味いということで、「栗より美味い」に「九里四里美味い」を懸けて、「九里四里美味い十三里」ということから、「十三里」といえば焼芋を指すようになりました。なぜ十三里なのかについては、九里と四里の合計という説がありますが、当時、江戸への薩摩芋の供給地であった川越までの距離という説もあります。その他に焼芋のことを「○焼き」ということもありました。歌川広重の「名所江戸百景」のシリーズの中に、「びくにはし雪中」という絵があります。そこには「山くじら」という看板と共に「○やき」「十三里」という看板がはっきりと描かれています。ネットですぐに見られますから御覧下さい。因みに山くじら(山鯨)とは、猪の肉の隠語です。
川越は早くから薩摩芋の産地として、江戸に大量の芋を送り出していました。芋は重たいので陸送には適してしません。そのため新河岸川の水運を利用すればすぐに江戸に下れる立地条件をもつ川越が、産地となっていたわけです。現在の新河岸川は水量が少なく、とても舟運があったとは思えません。かつてはわざと水路を曲がりくねらせて、水が一気に流れ下らないようになっていたため、舟運も可能でしたが、河川改修の結果、水位が下がってしまいました。川越では今も薩摩芋の菓子が名物となっています。
『江戸繁昌記』という書物の第一巻の三十三丁目にも、焼芋についての記述がありますから、詳しく調べてみたいかたは、ネットで検索してみて下さい。埼玉図書館のデジタルライブラリーが字が鮮明で読みやすいものです。ただし漢文ですので、少々読みにくいかもしれません。