うたことば歳時記

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故郷の空

2016-09-29 15:42:58 | 唱歌
 『枕草子』に「秋は夕暮」とあるように、秋の唱歌には夕暮れ時の情緒を歌うものが多いものです。唱歌『故郷の空』はその代表格でしょう。この歌は明治21年に『明治唱歌 第一集』に発表されたとのことです。メロディーを聞けば、かつてドリフターズが「誰かさんと誰かさんが麦畑で、・・・・」と面白おかしく歌った曲を思い起こす人が多いでしょうから、『故郷の空』の歌詞を初めて見る人は驚くかもしれませんね。

もっとも作詞家のなかにし礼によるドリフターズの歌にはもとになる歌詞があって、詩人の大木惇夫と声楽家の伊藤武雄がスコットランドの『ライ麦畑で出会うとき』というユーモラスな歌を、『麦畑(誰かが誰かと)』と題して和訳し、昭和初期に発表したものだそうです。

 ネット情報ですが、スコットランドの原曲の歌詞の直訳と、大木惇夫と伊藤武雄による日本語版の歌詞を並べてみましょう。

直訳
ライ麦畑で女が男と出会ったら   抱きしめられても叫んだりはしません
ライ麦畑で女が男と出会ったら   どんなことがおこるでしょうか
ライ麦畑で女が男と出会ったら   二人だけのお楽しみ

日本語版
たれかがたれかと むぎばたけで こっそりキッスした いいじゃないか
わたしにはいいひと いないけれど たれにもすかれる、ネ、むぎばたけで

 ライ麦の背丈は2m前後はありますから、背の高い西洋人でも完全に隠れてしまいます。それでこのような歌詞が考え出されたのでしょう。日本の麦しか知らなかったので、はじめは何のことかよくわからなかったのですが、ヨーロッパ各地でライ麦を見て、納得したものでした。

「ライ麦畑」はともかくとして、私のような古い世代の人には、『故郷の空』のほうがピンときます。まずは歌詞を読んでみましょう。

1、夕空はれて 秋風ふき つきかげ落ちて 鈴虫鳴く
  思えば遠し 故郷の空 ああわが父母 いかにおわす

2、すみゆく水に 秋萩たれ 玉なす露は すすきにみつ
  おもえば似たり 故郷の野辺 ああわが兄弟 たれと遊ぶ

 歌詞の意味はそれ程難しくはありません。ただ「つきかげおちて」は少々問題がありそうです。「つきかげ」は漢字では「月影」と表記され、本来は月の光という意味、転じて月そのものをさすこともあります。この場合の月はどのような形をしているのでしょうか。月齢が気になりました。「月影が落ちる」とは、どのようなことを意味しているのか、今一つわかりません。日が沈んで暗くなれば、月の光が増して月がよく見えるはずです。それなのに「つきかげおちて」という。月の光が落ちるということは、月の光が弱くなると理解すれば、矛盾することとなります。また月が山の端などに落ちる、つまり沈むことと理解できなくもないですが、晴れた夕空に沈む月は、太陽に最接近しているわけですから、肉眼ではほとんど見えないはず。見えたとしても三日月の一日前の二日月程度の、いとのような月のはずです。「つきかげおちて」を月の光が弱くなると理解しても、月が沈むと理解しても、実際にはほとんどあり得ないことなのです。歌は理屈ではないことはよくわかるのですが、情景を思い浮かべたいと思うのは許されることではないでしょうか。どなたか御存知でしたら教えて下さい。

 鈴虫は現代のスズムシと理解してよいでしょう。我が家の周辺には、スズムシが毎晩たくさん鳴いています。虫の音を聞くと懐旧の心がかき立てられるという情趣は、古歌に特に見られるものではありません。外国人の中には騒音と感じる人がいるらしいのですが、日本人にとっては「鳴く」は「泣く」を連想させ、寂寥感を覚えさせる重要な秋の景物でした。

 澄みきった水辺には、萩が枝垂れるようにして咲いているのでしょう。夕暮れ時に早くも白露が萩やすすきに宿っているというのですから、気温は急激に低下しているはずです。夜露や朝露なら普通ですが、夕方の露はふつうはありません。雨の後ならば別ですが。どうも私は理屈っぽくなりますね。

 萩に白露が宿ってしなだれている景色は風情のある物として、『枕草子』でも「草の花は・・・・萩は、いと色深く枝たをやかに咲きたるが、朝露に濡れてなよなよと広ごり伏したる」と述べられています。またすすきの穂の糸一本一本にも、白露が糸に貫(ぬ)かれた白玉のように連なっているのでしょう。これも同じく『枕草子』に、「草の花は・・・・秋の野おしなべたるをかしさは、薄(すすき)にこそあれ。穂先の蘇芳(すおう)にいと濃きが、朝露に濡れて打ち靡きたるは、さばかりのものやある。」と褒めちぎっています。

このような秋の野の景色は、故郷の景色と似ていて、父母や兄弟を思い出すというのです。現代ならともかく、明治時代なら東京でも普通に見られる景色でしたから、日本中共通であったことでしょう。

万葉集のすすき(薄)

2016-09-28 19:02:29 | うたことば歳時記
 そろそろすすきの花が満開です。花が咲くの?穂と言われそうですが、古来、すすきは「尾花」と呼ばれていました。秋の七草の一つですが、カラフルな花ではなく、繊細なその姿は、いかにも日本人好みと思います。花瓶に活けられたすすきの穂を見て、感動する外国人は多くはないでしょうね。

 ところでススキ(薄)によく似たオギ(荻)という植物がありますが、正しく区別できる人は少ないのではと思います。実際、オギをススキと勘違いしている人がほとんどでしょう。私は100m離れた所から見ても、両者を正確に区別できます。驚かれそうですが、誰でもできるんですよ。その相違点について、見分けるこつをブログに書いておきましたので、「うたことば歳時記」の「薄(すすき)と荻(おぎ)」を御覧下さい。

 『万葉集』では、すすきは「尾花」のほかに「はた薄」とか「はだ薄」と詠まれる場合があります。「はた」や「はだ」は旗のことであるとされていますが、私にはそれを論評する力はありませんので、その説をそのままいただきます。

①我が宿の尾花が上の白露を消たずて玉に貫くものにもが(万葉集 1572)
②はだすすき尾花逆葺き黒木もち造れる室は万代までに(万葉集 1637)
③はだすすき穂にはな出でそ思ひたる心は知らゆ我れも寄りなむ(万葉集 3800)

 ①は、私の庭の尾花に付いている白露を、消さないで玉のように貫(ぬ)き通せたらよいのになあ、という意味です。すすきの穂の糸に白露が連なるようにすがっている様子を、白玉に見立てているのですが、唱歌『故郷の空』にも「玉なす露はすすきに満つ」と歌われているように、今も昔も誰もが思いつく比喩というわけです。

 ②は元正太上天皇の御製で、すすきの尾花を逆さに葺き、皮の付いたままの黒木で作った家はいつまでも栄えるように、という意味です。これは長屋王の新築の館を寿いだ歌なのですが、すすきが屋根を葺くのに用いられていたことがわかります。よく「茅葺」と言われますが、「萱」とはすすきや荻や葦などの植物の総称でして、「萱」という固有の植物があるわけではありません。すすきで葺いても、茅葺ということです。

 ③は、竹取翁(たけとりのおきな)の歌への返歌なのですが、ここでは歌の背景には触れないでおきましょう。意味は、薄の穂が出るように、心を表に出さないで。心に思っていることはもうわかっているのだから。私もおじいさん(竹取翁)の言うことに従いましょう、という意味です。これは少々説明が必要ですね。すすきの穂が出ることを、心に秘めていた本意が表に出ることの比喩と理解されていたのです。「穂」とは一般には稻や麦などの実の付いている部分を指しますが、本来は、物の人目に付く部分を指す言葉でした。それで「穂に出づ」とは、隠れていたことが表面にはっきりと出るという意味なので、すすきの穂が出て来ることを、本心が表れることの比喩と理解されていました。このような理解は、平安時代以降にも受け継がれていきます。

 ④篠すすきしのびもあへぬ心にて今日は穂に出づる秋と知らなん (後拾遺 恋 619)
これには「八月ばかり女のもとに、すすきの穂に挿してつかはしける」という詞書きが添えられています。「しのびもあへぬ心」、つまり黙っていることができない心を、すすきの穂が出るように表に出したということを知って欲しい、というのですから、愛を告白する男の歌なのです。この場合はまだ歌が添えられているからわかりますが、すすきの穂だけが届けられることもあったでしょう。現代人なら、薔薇の花束のほうがいいのに、何で萎れたすすきの穂なのだろうかと、それこそ本意を図りかねてしまうでしょうね。

寒露

2016-09-24 10:33:26 | 年中行事・節気・暦
 明日9月25日は彼岸の明け。もうすぐ二十四節気の寒露となります。例年では10月8日で、一般的には衣更えも済み、冷気を感じる頃ですね。露の名の付く節気としては白露があるように、露は月と並ぶ秋の景物の代表格です。同じ露でも冷気を感じる頃の露なので、寒露と言うのでしょう。

 秋の長雨が続いていますが、寒露の頃になれば秋らしい晴天が続き、空気も乾燥して空が澄み渡るのでしょう。10月16日には素晴らしい満月が見られることと思います。白露の解説でも書いておきましたが、虫の声を聞きながら、葉末の露に宿る月影の輝きを楽しむには絶好の時期です。月ばかり見ないで、足元の露も意識してみて下さい。

 ネット情報では、農家は稲の収穫の最盛期を迎えると説明するものが多いのですが、稲の収穫は実際にはとっくに終わっているはずです。梅雨の頃に田植えをしていた頃には、稲の収穫は10月が多かったのですが、今は梅雨の前に田植えが終わり、収穫ももっと早まっています。我が家の周辺では、8月末から収穫が始まり、9月中にはほとんど終わってしまいます。

 「燕などの夏鳥と雁などの冬鳥が交代される時期」との解説もありましたが、燕は9月中には南に去ってしまいます。雁は私の住む地域ではもう見られませんが雁がたくさん越冬する宮城県では、飛来がピークとなるのは10月だそうです。

 寒露の時期の初候は、「鴻雁来」で、「こうがんきたる」と読みます。雁が飛来する時期というのですが、これは実態に合っているようです。雁の声を聞くことがあれば、雁が「カリカリ」と鳴いていることを確認してみて下さい。古歌には雁が自分の名前を名乗って鳴いているという歌がいくつかあって、古人は雁の鳴き声を「カリカリ」と聞いていたことが解ります。

 次候は「菊花開」で、「きくのはなひらく」と読みますが、これはわかりやすいですね。ただし旧暦の菊の節句、つまり重陽の節句は、今年は10月9日です。品種によって異なるでしょうが、時期的にはまあ問題はないでしょう。

 末候は「蟋蟀在戸」が、「しっしゅつとにあり」と取り敢えず読んでおきましょう。問題はこの「蟋蟀」の訓読みです。コオロギかキリギリスか、二つの説があるからです。『万葉集』では夕月夜に鳴く「蟋蟀」を明らかに「こほろぎ」と読ませています。月夜に鳴くのですから、現代のキリギリスではありません。しかし平安時代の国語辞書『和名類聚抄』では「蟋蟀」を「きりぎりす」と読ませています。江戸時代になると松尾芭蕉は「無惨やな かぶとの下の きりぎりす」と詠んでいますが、神社の宝物として保存されていた冑の下で鳴くというのですから、その生態からして現代のキリギリスではなく、現代のコオロギのことです。一方、賀茂真淵らの歌集『八十浦之玉』には「・・・・蟋蟀のころころとしも夜もすがら鳴く」という歌がありますから、この場合は明らかに「蟋蟀」を「こおろぎ」と呼んで、現代のコオロギを指しています。混乱してしまいますが、要するに歴史的には「蟋蟀」は「こほろぎ」とも「きりぎりす」とも二通りに読まれていますが、一貫して現代のコオロギ のことだったのです。ネット上に末候「蟋蟀在戸」の説明として現代のキリギリスの写真が載せられていることが多いのですが、これらはすべて誤りです。そもそもキリギリスが戸口で鳴くことなどあり得ません。


 またネット情報では、「在戸」を正確に解説しているものを、未だかつて見たことがありません。どれもこれも「家の戸口で鳴く」としか説明されていないのです。これだけ見ればどこが誤りなのかわからないでしょうが、出典を読めば、コオロギが家の戸口で鳴くという解説が、表面的理解に過ぎないことがわかります。中国の『詩経』という書物に、「七月野ニ在リ。八月宇ニ在リ。九月戸ニ在リ。十月蟋蟀我ガ牀下ニ入ル」と記されていますが、これは、蟋蟀(コオロギ)は初秋には野原で鳴いているが、仲秋には軒下で鳴き、晩秋には戸口で鳴き、初冬には床下に潜り込むという意味です。末候の「蟋蟀在戸」はこれを出典としたものですから、秋の初めに野原で鳴いていたコオロギが、秋が深まるにつれて人家に近づいてくることを表しているのです。つまり末候の「蟋蟀在戸」は、単にコオロギが戸口で鳴くということではなく、秋が深まったことを意味しているのです。ネット情報や図書館の本には、コオロギ、あるいはキリギリスが鳴き始めるなどといい加減なものもありました。出典を確認せず、実際の生態を体験的に知らず、ただ誰かの書いたものを継ぎ接ぎしているからこういうことになってしまうのです。あまりにいい加減なので、少々腹立たしくなるほどです。

 これらのことについては、私のブログ「うたことば歳時記」の中に、「コオロギは昔キリギリスだった」と題して公表してありますから、そちらを御覧ください。ネット情報はつくづく玉石混交だと思います。コピペをして原典に当たらずに書いていることが多いので、出典などを明記していない情報は要注意です。

キリスト教徒のお彼岸

2016-09-20 20:48:32 | 年中行事・節気・暦
 しばらくブログを書く余裕がありませんでした。先日、父が92歳で亡くなり、葬儀やらその後始末やらで、忙しくしていたためです。覚悟はとっくにできていましたし、聖書の信仰一筋に生きてきた父ですから、死を恐れることは美事なまでに微塵もなく、早く天国へ行きたいと言っていたのですから、ある意味では「万歳」と送り出したことです。晩年、西の山の端がよく見える窓辺に坐り、朧気にしか見えない目で、入り日を眺めることが多くありました。最後はあの沈む太陽のようでありたいというのです。また日本人としての誇りを強く懐いていましたから、太陽を日本のシンボルとして眺めていました。

 先日の9月19日が彼岸の入り、22日が彼岸の中日、25日が彼岸の明けになりますから、今は彼岸の真っ最中です。本来ならば西の山の端の真西の方角に沈む太陽をしみじみと眺めるのですが、今年は秋雨前線やら台風のため、ここ一週間ほどは太陽を拝めません。何とも残念なことです。沖縄には彼岸の墓参りの習慣がありませんが、日本の大部分の地域では、彼岸には祖先の墓参りをします。私はキリスト教徒ですが、やはり墓参りをします。墓は真言宗の寺にあるのですが、我が家の門に立つと、1㎞先の墓まで見通せるので、気に入っています。

 彼岸に墓参りをする人は多いのでしょうが、入り日に手を合わせる人は少ないでしょうね。西方極楽浄土と言われるように、阿弥陀如来のおいでになる極楽は真西の彼方にあると信じられていますから、阿弥陀様を拝む気持ちで、入り日に手を合わせてもよいと思うのですが。

 ところで阿弥陀如来の「阿弥陀」はサンスクリット語の音写であって、「無量寿」とか「無量光」とも意訳されます。「無量」とは余りにも多すぎて量ることができないことですから、「無量寿」とは永遠の命を、「無量光」とは永遠の光を意味しています。(脱線しますが、余りにも数が少ない場合は、「有数」と言い、多い場合は「無数」と言います。)つまり阿弥陀如来とは、永遠の命や光を掌る如来様なのです。宗教の如何に関わらず、人が最も恐れるものは死と暗黒です。あらゆるものを手に入れたとしても、死に打ち勝つことはできないからです。永遠の命と永遠の光は、その対極にあるものです。ですから全ての宗教は、永遠の光に照らされて永遠の命に再生することを説くのです。御利益を究極的な目的としているうちは、人の根源的な問に対する解決を得ることはないでしょう。

 また旧約聖書のマラキ書4章には、救世主(ギリシャ語ではキリスト、ヘブライ語ではメシア)は「義の太陽」と表現されているように、太陽はキリストの象徴でもありました。仏教でも宇宙の根源にいる仏の中の仏は大日如来です。唐代に中国に伝えられたキリスト教は景教と称されましたが、「景」は太陽を表す日と、大きいことを表す京という文字からなり、景教とは、大いなる太陽のキリストを信じる宗教を意味しています。

 そういうわけで、私は彼岸の夕日に向かって、興味本位ではなく、信仰の心をもって手を合わせるのです。父は阿弥陀が無量寿であることは知っていましたから、同じような気持ちで夕日を眺めていたのでしょう。眺めると言っても、文字を判読する視力は既になく、明るさを感じる程度でしたが、夕日の明るさと方角はよくわかると言っていました。そんなわけで、私はキリスト教徒ですが、お彼岸の入り日を大切に大切に思っています。


敬老の日と菊の花

2016-09-08 12:09:36 | 年中行事・節気・暦
敬老の日が近くなってきました。今年は9月19日だそうです。

 そもそもこの日が敬老の日になったことについては、古い歴史があるわけではありません。以下はネット情報ですが、兵庫県多可郡野間谷村(現在は多可町の八千代)の村長であった門脇政夫と助役であった頃安清市が1947年に提唱した「としよりの日」に始まるというそうで、村では9月15日を「としよりの日」と定め、従来から敬老会を開いていました。それが1950年からは兵庫県全体で行われるようになり、1951年には中央社会福祉協議会(現全国社会福祉協議会)が9月15日をとしよりの日と定め、9月15日から21日までの1週間を運動週間としました。そして1963年に制定された老人福祉法では、9月15日が老人の日、9月15日から21日までが老人週間として定められました。さらに1966年に国民の祝日に関する法律が改正されて国民の祝日「敬老の日」に制定されるとともに、老人福祉法でも老人の日が敬老の日に改められました。そして2003年からは9月の第3月曜日となり、現在に至っているそうです。

 私は歴史が好きだからでしょうか。同じ9月なら、9月9日の重陽の節句がよかったのにと思わないでもありません。いわゆる五節句のなかでは最も馴染みが薄く、伝統的行事も忘れられていますが、本来は長寿を願う習俗が行われていましたから、敬老の日には相応しいのではないかと思います。でももう決まっていることですから、異議を主張するつもりは全くありません。生徒に「9月9日は何の日?」と聞こうものなら、「救急の日」と言われてしまうでしょう。

 ただ一つ気になることがあります。敬老の日には菊を贈ってはいけないというネット情報がたくさん見られることです。それは、菊、特に白菊が葬儀によく用いられるために、高齢者に贈る花としては相応しくないという事なのでしょう。

 しかし歴史的には菊は長寿のシンボルでした。もちろんもともとは中国伝来のことなのですが。七世紀の唐の百科全書とも言うべき『芸文類聚』(げいもんるいじゅう)という書物には、多くの書物を引用しつつ、菊には不老長寿の効能があると記されています。この『芸文類聚』は、唐文化に憧れた文人官僚や貴族が、百科全書のように座右に置いて重宝した書物でしたから、そのままそれが日本人の菊の理解につながっていったのです。

 9月9日は陽の数の極である九が重なるということから、「重陽の節句」と言われますが、この日は「菊の節句」とも言われ、菊酒を飲んで長寿を願い邪気を払いました。もちろんこれも唐伝来の習俗です。『芸文類聚』薬香草部の菊の条には、『風俗通』という書物を引用して、「南陽の酈県に甘谷あり、谷水甘美なり。云ふ。其の山上大いに菊あり。水は山上より流れ、下は其の滋液を得。谷中、三十余家あり。また井を穿たず、悉く此の水を飲む。上寿は百二三十、中は百余、下は七八十なり。之を大夭と名づく。菊華は身を軽くし気を益すが故なり」と記されています。菊水を飲めば長生きができるが、七八十歳ではまだまだ若い、百二三十歳で 漸く長生きだと言うのです。

 このような菊の理解が日本にも伝えられ、平安時代の初期から、宮中で重陽の菊の宴が行われました。そこでは、「菊の着せ綿」(被せ綿)という面白い習俗が行われます。前日、菊の花に綿を被せ、翌朝、長寿を寿いで露で湿ったその綿をとって身体を拭うのです。木綿の綿が日本に伝えられるのは室町時代のことですから、この「着せ綿」の綿はもちろん真綿のことです。

 菊が長寿の花であることを意味する歌を上げてみましょう。
①露ながら折りてかざさむ菊の花老いせぬ秋の久しかるべく (古今集 秋 270)
②名にしおへはべ長月ことに君がため垣根の菊はにほへとぞ思ふ (後撰集 秋 398)
③雫もて齢延ぶてふ花なれば千代の秋にぞ影は繁らん (後撰集 秋 433)
④行く末の秋を重ねて九重に千代までめぐれ菊の盃 (続千載集 秋 566)

 ①の「露ながら」は「露のついたままで」という意味。「秋」には「歳月」という意味もありますから、菊の花を髪や冠に挿して不老長寿を願ったわけです。②は、長月という名前の月に咲く菊の花ですから、あなたの齢が長いことを祈って、さらに盛んに咲き匂うようにと思うことです、という意味です。きっとこの歌を添えて菊の花を贈ったのでしょう。③も菊の花に添えて贈った歌です。「しずくで寿命を延ばす花」と理解されています。④は菊酒の歌で、宮中での菊の宴で菊の花を浮かべた菊の盃を詠んだもの。「千代までめぐれ」というのですから、長寿を寿いでいるわけです。「菊正宗」という清酒がありますが、その命名の発想は、この菊酒によるものと見てよいでしょう。

 いかがですか。菊には忌避すべき理由がないどころか、長寿を寿ぐ花であったのです。ただ現実には葬儀によく用いられることも事実ですから、忌避したくなるのもわからなくはありません。ですから歴史的な菊の理解を十分に説明して、長寿を寿ぐ歌を添えて高齢者に贈るというのはどんなものでしょうか。歌を詠めないというならば、上記の歌でもよいでしょう。白菊が気になるならば、色々混ぜたらよいでしょう。もっとも古には白菊ばかりでしたが。

 菊の名誉挽回になれば嬉しいのですが。

読者の方から、長寿を祈る菊の歌をさらにあげていただきました。もちろん私の手許の資料には載っているのですが、ついつい手抜きをして省略してしまいました。せっかく御指摘いただいたので、そのまま載せさせていただきます。ありがとうございます。

菊は初冬の花とも理解され、霜との関連の歌が多いですよね。又色が変化するとの意味も有ります。新暦、旧暦の差も日長だけは埋まりにくい為に、電照菊の栽培が生まれたのかも。
新古今の賀歌も加えて下さい。
藤原興風
山川の菊のしたみづいかなればながれて人の老をせくらむ
紀貫之
祈りつつなほなが月の菊の花いづれの秋か植ゑて見ざらむ
皇太后宮大夫俊成
やまびとの折る袖匂ふ菊の露うちはらふにも千世は経ぬべし