うたことば歳時記

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キリシタン版『平家物語』 日本史授業に役立つ小話・小技 59

2024-09-27 19:24:25 | 私の授業
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。


59、キリシタン版『平家物語』
 桃山文化の学習では、南蛮文化の例として、必ずキリシタン版の出版物について学習します。キリシタン版とは、日本に布教するために来日したイエズス会宣教師等が、彼等の日本語学習や布教のために、ローマ字で出版された印刷物のことで、宗教書・辞書・古典文芸があり、出版された場所によって天草版・長崎版とも呼ばれています。史料上で確認できるものは約100点あるのですが、現存するのは断片も含めて37点、そのうち国内にあるのは12点のみで、他はイタリア・スペイン・ポルトガル・イギリスの図書館などに保存されています。授業の副教材である図説資料集には、天草版『平家物語』(1592年)の表紙の写真がきっと載っていることでしょう。
 『平家物語』をテキストとして選び、ローマ字に表記した編者については、不干ハビアンという人物であることがわかっています。彼は元は大徳寺の禅僧で、19歳くらいでキリスト教に入信し、高槻のセミナリオで学んでいますから、宣教師用の日本語習得テキストの編者に選ばれたのでしょう。彼は序文において、宣教師が日本の習俗や日本語を習得するためのテキストとするために『平家物語』を選んだことを記しているのですが、宣教師等が本気で日本語と日本人の心情や習慣を習得しようとしていたかを知ることができます。
 キリシタン版は当然のことながらローマ字で表記されています。また発音記号を伴うこともあるのですが、当時の言葉を録音したようなものですから、国語学的にも極めて重要な史料となっています。授業ではせいぜい『平家物語』の扉絵の写真を一瞬眺めて終わってしまうのですが、それだけでは余りにももったいない貴重な史料です。因みにこの天草版『平家物語』は、たった一冊が大英図書館に保管されています。
 『平家物語』の扉絵には、「NIFON NO COTOBA TO Hiftoria uo narai xiran to FOSSVRV FITO NO TAMENI XEVA NI YAVARAGVETARV FEIQE NO MONOGATARI」と記されています。これを日本の文字で表記すると、 「日本 の ことば と ヒストリア を 習ひ 知らん と 欲する 人 の ために 世話(口語) に やはらげたる 平家 の 物語」なります。「ウ」が「V」、サ行がX、ワ行の「を」が「うぉ」と発音されていることに気づかせるのは難しいかもしれませんが、ハ行がhではなくfで発音されていることは、生徒でもすぐにわかるでしょう。要するに、「日本」は「nifon」、「平家物語」は「feikemonogatari」、「人」は「fito」と発音されていたのです。
 ハ行の音は現在ではhの音で発音していますが、実は奈良時代より前には、pの音で発音していたことがわかっています。そして奈良時代から平安時代のどこかでfの音となり、江戸時代の初期にはhの音になったとされています。ですからキリシタン版では、「日本」は「にほん」ではなく「にふぉん」、「平家」は「へいけ」ではなく「ふぇいけ」と読まれ、江戸時代の初期までは、日本の国名は「にほん」ではなく「にふぉん」であったわけです。タイムマシンで奈良時代より前の人の話を聞いたとしたら、おそらく何が何やらわからないことでしょう。しかし桃山時代の人の話なら、単語くらいは拾えるかも知れません。
 ついでのことですが、以前、「チコちゃんに叱られる」や「池上彰のニュースそうだったのか」という番組で、「日本」という国名をが「にっぽん」から「にほん」になったのは「江戸っ子が早口で話したため」と説明されたことがありましたが、これは出鱈目です。もしそれが正しいというなら、江戸弁の通用しない地域で「にっぽん」と読んでいた証拠となる文献が不可欠ですが、寡聞にも確認できません。

『土佐日記』の女性仮託  日本史授業に役立つ小話・小技 58

2024-09-25 18:48:23 | 私の授業
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

58『土佐日記』の女性仮託

 『土佐日記』について学習する際は、なぜ女性に仮託して書かれたかということを避けることはできません。まず通説では、男性貴族の日記には心の内面や感情など書く事がなかったので女性に仮託したとされていて、早くも賀茂真淵や上田秋成が説いています。確かに男性貴族の日記にはその様な傾向があることは事実ですが、そうではない記述がないわけではありません。第二に、作者が紀貫之であることを隠すためであるという説があり、古くは松永貞徳や北村季吟(『土佐日記抄』)が説いています。しかし遅くとも10世紀半ばには、貫之の作であることは既に知られていました。『後撰和歌集』(950年代成立)という勅撰集には、『土佐日記』中の歌が、貫之の作としていくつも収録されています。そういうわけでこの説にはこの様な反証があるため、近年ではあまり説かれることはないようです。第三に、和文で書こうとしたが、男性貴族には和文で書くことが相応しいこととはされていなかったためという説も有力です。しかしそれならば、貫之は『古今和歌集』の序文を仮名で書いているではないかという批判は免れないでしょう。第四に、江戸時代の歌人である香川景樹の説なのですが、作者が男であることがわかるのは承知の上で、諧謔として面白半分に仮託したというものです。景樹は、「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」とわざわざことわっているのは、男が書いていることを暗にほのめかしているから、と説いています。いくつか女性仮託が破綻している記述が見られるのですが、それは貫之が意図して書いたものとすれば、気付かれることを意図的に狙って書いた可能性があります。例えば、12月26日には、女性は漢詩を書き写せないと言いながら、1月17日には、唐の詩人の詩の一節を書いていて、通して読んでいる人には、「先日の話と違うではないのか?」と気付かれてしまうのです。『土佐日記』は事実に基づいた日記ではなく、恐らくは実際に貫之が漢文で書いていた本当の日記に基づいて書かれた、虚構を含んだ文芸作品であり、諧謔説の可能性は十分にあると思っています。
 五十余首もの和歌が収録されていて、しかも娘を土佐で失ったなどの悲しみに代表されるように、微妙な心情を表すには和文で書かざるを得なかったことまでは、誰もが納得できます。しかしなぜ女性に仮託させなければならなかったのか、結局は決定的な理由はわからないとしか言いようがなく、通説あたりに収束されるのかなとも思います。私は個人的には諧謔説に興味があるのですが、しかし専門の研究者でもなく、確たる根拠があるわけではありません。授業では、と言っても日本史の授業ですが、最初から通説を出すのではなく、色々な角度から考察することの重要なことを実感させるために、上記の四つの説を全て説明しています。そして古典文学の学習は奥が深いものだと感じてくれれば、通説を当たり前に淡々と話すより、その方が授業としては面白いと思っています。

江戸時代のベストセラー本 (2)『農業全書』 日本史授業に役立つ小話・小技 57

2024-09-23 07:57:19 | その他
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

57、江戸時代のベストセラー本 (2)『農業全書』
 前回に引き続き、江戸時代のベストセラー本を考えてみました。まだ前回の「江戸時代のベストセラー本(1)『庭訓往来』」ご覧になっていない方は、まずはそれをご覧下さい。すでにお話したように、統計的データがあるわけでなく、あくまでも私の印象に過ぎません。もともと信頼のできる統計があるわけではありませんから、江戸時代のベストセラー本を認定することなどできるわけがありません。

 本が極めて高価な時代ですから、古本屋で借りて読む文芸書よりも、常時身近に置かれる実用書の方が出版部数が多かったと考え、前回は初等教育書である『庭訓往来』を選びました。今回は実用書から選びました。そこで思い付いたのは、農作物栽培全集とも言うべき『農業全書』です。内容は「農事総論」(耕作・種・土・除草・肥料・水利・土・収穫など)から始まり、五穀、野菜、四木(桑・楮・漆・茶)と三草(藍・紅花・麻)などの商品作物、果樹、樹木、鶏・家鴨・鯉などの動物、薬草など、約百五十種類に及ぶ有用動植物に及び、その栽培・飼育方法について詳述しています。そういうわけですから本書の需要は大きかったのですが、全11冊ですから、農民が各戸ににそなえることはいくら何でもできなかったでしょう。しかし村役人級ならば、その立場上、無理してでも買い揃えておきたいと思ったはずです。初版は元禄十年(1697)ですが、天明・文化・文政年間に木版で再版されていることは、私の推測を補強してくれます。木版で再版されるというのは、余程数多く摺ったために、版木が摩耗したためと考えられます。また明治時代になってもなお復刻され続けていますから、実用書としての価値を維持し続けたということでもあり、思想書や文芸書が後に再版されることはわけが違います。
 原稿が完成したのが元禄八年、序文は元禄九年、出版は元禄十年で、宮崎安貞はその年の七月には七五歳で亡くなっています。内心では出版まで生きていられるかと、はらはらしながら書いたこととでしょう。一人の土着の農学者が、四十年という半生の農耕の経験をかけた、畢生の大作の重みを感じ取りたいものです。
 高校日本史の先生で、『農業全書』を知らない人は、いるはずがありません。しかし全てとまでは言いませんが、かなりの部分を読んだことのある人は、専門にしている人は別にして、全国に数える程しかいないことでしょう。現在、『農業全書』が必読の歴史的名著に数えられることはまずありません。しかし二百年間も実用書としての価値を維持し、民生に寄与したという視点からは、私は江戸時代屈指の歴史的名著として推薦します。日本史を教えている先生にお勧めします。全巻とは言いません。凡例と四木・三草の巻だけでよいですから、岩波文庫で読んでみて下さい。農民の生活に寄与したいという宮崎安貞の烈々たる心に接したならば、少なくとも江戸時代の農業についての授業が変わります。私事ですが、私は古文書解読を独学しましたが、最初のテキストとしてこの『農業全書』を用いました。それは全ての漢字に読み仮名が振られているからです。地方(じかた)文書を読むには『農業全書』のレベルではまだまだ不十分ですが、古い言い回しや変体仮名に馴れるには、とてもよいテキストですのでお勧めします。実物を入手できなくても、国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます。

秋分と浄土信仰

2024-09-19 10:05:05 | 私の授業
       秋分と浄土信仰
 今年(令和6)の秋分の日は9月22日です。私はこの日が近付いてくると、日本史の授業の進み具合に関係なく、必ず彼岸と浄土信仰の話をしています。以下はその要旨です。 

 春分と秋分の日は古来「彼岸」と呼ばれますが、そもそも「彼岸」とはどの様なことなのでしょう。正しくは春分・秋分を彼岸の中日として、その前後各三日間、合計七日間を彼岸といいます。「彼岸」という言葉は、本来は古代インド語であるサンスクリット語で、「完全な」という意味を表すpāramitā (漢字では「波羅蜜多(はらみた)」と音訳)を漢語に意訳した「到彼岸」(彼岸に到る)を省略した言葉です。「彼岸」という言葉そのものは「彼(か)の岸」、つまり「向こう岸」という意味で、仏教では阿弥陀如来のいる極楽浄土を意味しています。それに対して煩悩まみれの現世を「こちらの岸」と理解して「此岸(しがん)」と称し、彼岸と此岸は水によって隔てられていると理解しているわけです。「彼」の反対語は「此」であって、「彼女」ではありませんよ。「彼此」という言葉がありますが、英語で言えばthatとthisのようなものでしょう。
 平安時代中期以降には阿弥陀如来を信じて極楽往生を願う浄土信仰が盛んになりました。そもそも「阿弥陀」とはサンスクリット語で「無量寿」(永遠の命)や「無量光」(永遠の光)を意味する言葉で、寿命の短かった古の人達は、長寿を祈念する心で阿弥陀如来を信仰したのです。阿弥陀如来のいる浄土は、「西方極楽浄土」と称して、西の彼方にあるとされています。そこで西の方角を見極めたいのですが、正確にはわかりません。皆さん、西の方角を正確に指し示すことができますか。できるとしてもおおよそであり、真西をピンポイントで指すことは不可能です。しかし春分・秋分の日には太陽は真東から上り真西に沈むので、沈む太陽の真中の方角が真西であることがわかります。ですから極楽往生を願う人々は、この日、西に沈む太陽を拝みながら、西方極楽浄土に思いを馳せ、様々な仏事を行ったのです。
 浄土信仰が盛んであった平安時代から鎌倉時代には、多くの阿弥陀堂が建てられ、阿弥陀如来像が祀られました。平等院鳳凰堂は誰もが知っているでしょう。鳳凰堂は、極楽を地上に出現させようとして、藤原頼通が権力と財力にものを言わせて建てたものです。そこで一つクイズです。阿弥陀如来はどの方角を向いているでしょう。先程「西方極楽浄土」に触れたばかりなので、慌て者は「西」と思ってしまうかもしれませんが、人は西を向いて拝むのですから、拝まれる仏様は東を向かなければなりません。鳳凰堂に行くことがあれば、必ず方角を確認してみましょう。京都の駅を降りると、北の方に真っ直ぐ烏丸通という大通りがあり、それに面して東本願寺が進行方向左側に建てられています。つまり本願寺の阿弥陀如来も東を向いているわけです。このように浄土信仰では、東西という方角が、決定的な意味を持っていることを覚えておいて下さい。このことは現在にも影響を与えていて、霊園では西向きの墓より東向きの墓の方が価格が高いことがあります。
 話を元に戻しましょう。阿弥陀堂の前には池があることが多いのですが、その意味についても考えてみましょう。池は彼岸と此岸を隔てる水、あるいは阿弥陀如来の前に位置する極楽の蓮池を表しているわけです。ですからもし今後、鳳凰堂を見学することがあるならば、まずは池越しに拝し、この後に本堂に入って拝するとよいでしょう。そうすることで、「彼岸」の意味を体験的に理解できるからです。このことを知っておけば、古寺に参拝して境内の池を見る時に、新しい発見があることでしょう。学校では文字で学びますが、科目に関係なく、体験的に裏付けて学ぶことが大切なのです。
 平安時代の文学にはいくつか「彼岸」の文字が見出されますが、祖先の供養は専らいわゆるお盆、正しくは盂蘭盆会に行うべきものであり、彼岸にはせいぜい参詣したり念仏を称えたりする程度であったようです。中世には、写経をしたり祖先の追善供養が行われるようにはなりますが、墓参をする日という理解はまだ共有されていません。中世の公家の日記には、「彼岸中日」とか「精進」「写経」「法談」という言葉は散見しますが、これといった行事は見られません。
 江戸時代になると史料も増えて、少しずつ具体的な様子が明らかになってきます。墓参をする風習も一部には見られますが、まだ広く共有はされておらず、諸寺院の法会(彼岸会)に参加したり、互いに茶菓を贈り合う風習がありました。江戸時代の歳時記の「墓参」の項には、盂蘭盆の墓参は記されていても、彼岸のことは全く触れられていません。ですから、江戸時代まではあくまでも「参詣」する日であって、まだ「墓参」する日にはなっていないのです。
 彼岸に国民こぞって墓参をするようになるのは、明治になってから、春分・秋分の日に春季皇霊祭(こうれいさい)・秋季皇霊祭と称して、歴代の天皇・皇后や主な皇族霊をまとめて供養する様になってからのことです。そしてその日が祭日になったので、次第に民間でも皇室の皇霊祭にならって、本格的に祖先を供養するという風習が広まるようになったわけです。
 秋分の日にもし自宅から入り日を眺められるのなら、決まった場所からよくよく観察して、西の方の景色のどの部分に太陽が沈むかを観察しましょう。要するに正確な西の方角を確認しておくのです。例えば「あの木とこの建物のちょうど中間くらい位置に沈む」というように確認しておけば、同じ定点から観察すると、その後は太陽の沈む位置が次第に南に寄っていきますから、季節の変化を太陽の沈む位置で把握することができるわけです。そして冬至の日には最も南に寄り、それ以後は春分の日にまた真西に沈むようになるわけです。現代人は天体の動きや暦にほとんど関心がありませんが、わかった上で天象を観察すると、なかなか面白いものなのです。


なんで満月を「十五夜」って言うの

2024-09-09 08:35:01 | 私の授業
以下の話は、高校日本史の教諭を定年退職した私が、近くの小学校でお話したミニ授業の様子です。対象は6年生、10人。「 」内は担任や生徒の発言です。

なんで満月を「十五夜」って言うの

みんな元気かな?。今日はどんなお話をしようかな。そうだ、9月17日は十五夜のお月見だから、十五夜のお話をしましょうか。それにしても、何で十五夜って言うんだろう。17日の夜だから、今年は十七夜でもいいのにね。昔のカレンダーは、「暦」って言うんだけど、月の形の変化をもとにして作られていたんだよ。月が全く見えない日から、段々見えるようになり、満月になります。そしてまた少しずつ見える部分が欠けて、ついには全く見えなくなります。月が全然見えない日には、月はどこにあるんだろう。と言うか、月はどうして見えないんだろう。だれかわかるかな? 。「はーい、月は太陽と一緒に上って、また一緒に沈むから、太陽が明るすぎて見えないんだよ」。うん、正解です。よく知ってたね。びっくりしたよ。それでね、月は一日ごとに少しずつ出るのが遅くなるんだよ。出るのが遅くなるということは、沈むのが遅くなることでもあるんだけど、だいたい、一日に約50分遅くなるのさ。あくまでも平均するとだよ。月と太陽が、ほぼ一緒に出て一緒に沈む日、つまり月が見えない日を1日目と数えると、二日目には太陽が西に沈んでも、月は少し遅れて太陽を追いかけるように西に沈む。この日の月は、細い細い月が、運がよければ西の空の低いところに見える。そして三日目にはもう少しだけ太くなった月が、やっぱり西の空のやや高いところに見える。これが三日月だね。みんな三日月は見たことあるでしょ。夕方に西の空に見えたはずだよ。こうやって段々、月の見える部分が大きくなって、遂には満月になる。そしてこれ迄とは反対側が少しずつ欠けてきて、遂には見えなくなってしまいます。これで月の満ち欠けが一回りしたわけだ。この一回りするのに何日かかるのかな。「30日かな」。うん、よくできました。細かく言えば29.5日なんだけど、まあ約30日でよいでしょう。だから30日で月の形の変化が一回りするから、30日で一月って言うんだよ。もっとも現在のカレンダーでは、28日や31日の月もあるけどね。ついでだけど、24時間で一日と言うけど、日はお日様の日だから、太陽のことだね。太陽は24時間で一回りするように見えるから、太陽の一回りという意味で、24時間を一日、つまり一太陽って言うわけだ。今まで何も考えずに一月とか一日っていう言葉を使っていたと思うけど、その理由がわかったかな。「へーえ、そうなんだ。知らなかったよ」。またまたついでだけど、12カ月で1年というけど、年という言葉は、もともとは穀物が秋に実ることなんだ。だから今年の秋のみのりから来年のみのりまでを一みのりと数えて、12カ月間の期間の名前にしたんだよ。このことは小学生にはかなりむずかしいけど。
 (春の収穫祈願祭を祈年祭と呼びましたが、それは稔りを祈る祭を意味しています。つまり年とは、本来は期間の呼称ではなく、秋の稔りのことなのです。漢和辞典を検索してみて下さい)
 この月の一回りを時計に当てはめて考えてみましょう。ただし月は時計の針と反対回りなんだけどね。黒板に時計を書いて考えてみましょう。月が見えない1日目を12時とすると、満月は何時のところになるかな。「ちょうど半分だから、6時のところです」。そうだね。そうすると満月の日は何日目になるのかな。えーと、ひと回り30日の半分だから・・・・。「15日目」。よくだきました。もうわかったでしょ。何で満月の夜を十五夜って言うかが。「うん、わかったよ」。今までよく考えもしないで十五夜って言ってたと思うけど、15日目に満月になるからです。もうわかったよね。ついでのことにもう一つ。それじゃあ満月が上ってくる、つまり見えるようになる時間はいつごろかな。これはね、一日目の見えない月は太陽とほぼ一緒に動いているから見えないということだったのをヒントにすればわかるよ。「太陽が沈んだ頃ですか」。そうだね。よくできました。いいかい、満月は太陽と正反対の位置にあるわけだ。だから太陽が沈む頃に見えてくるんだね。
  あのね、今日は一杯新しいことを勉強したけど、おうちに帰ったら、お父さんお母さんにクイズで聞いてごらん。何でもそうなんだけど、勉強したことを誰か他の人に説明すると、忘れなくなるものです。先生が色々知っているのは、頭がいいからではなく、勉強したことを、毎年毎年生徒に話しているからなんだよ。何度も話しているうちに、覚えちゃうわけだ。だから今日勉強したことをよくよく覚えるために、クイズで聞いてみるんだよ。きっとよく知ってるねって褒められるから。そして17日の十五夜の夕方には、本当に太陽が沈む頃に月が出て来るか、東の空を眺めてみましょう。人に話すと覚えるよって言ったけど、実際に経験として確かめると、もっと忘れないものです。いいですか。満月が上ってくるのを確かめることを宿題としておきましょう。いいかい、わかったかな。「はーい」。それじゃあ今日のお話はおしまいにします。