うたことば歳時記

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文書に元号を記入すること

2019-03-31 08:17:02 | 歴史
 いよいよ新元号の発表が迫り、ネット上でも元号についての記事がたくさん見られるようになっています。その中で少し気になったことがありました。それは文書に西暦よりも元号を書くことが多く、不便であるという主張です。同じ元号ならば加算も減算も簡単ですが、複数の元号に跨がる場合は、計算がややこしくなるからなのでしょう。もっともなことであり、そのような主張を理解できないわけではありません。

 しかし文書に年を元号で表記することには、利便性だけでは片付けられない、歴史的な意義があるのです。養老令という奈良時代初期の法典の儀制令という部分には、「文書に年を記す場合は、みな年号を用いなければならない」、と定められています。史料の原文は次の如くです。「凡(およ)そ公文(くもん)の年を記すべくんば、皆年号を用よ」。「公文」とは、まあ現在の公文書と言えるでしょう。養老令は、西暦701年の文武天皇の時に定められた大宝令をほぼ受け継いだものですから、大宝令にも同じ条文があったと考えられます。大宝令以前に年を表す場合は、「○○天皇何年」のように天皇の治世数で表すか、或いは干支を用いていたのですが、これにより年号の使用が法律的に裏付けられたことになります。この裏付けは極めて重要で、「大宝」以後は年号が現在まで途切れなかった要因なのです。

 文書に年を書く時に、いちいち大宝令のことなど、いくら歴史好きな私でも考えません。しかしよくよく考えてみれば、それは西暦701年以来続いている伝統・文化なのです。確かに不便なこともあります。しかしそれなら西暦を併用すればよいことです。日本語は国際時代には不便なので、英語を公用語にしようとは思わないでしょう。もっとも明治初期に、森有礼らの啓蒙思想家達がそのような主張をしたことはありましたが・・・・。森有礼は、名詞の複数語尾はすべて規則的にSを付ける。動詞の過去形はすべて規則的にEDを付けることとし、不規則動詞をなくしてしまうなど、日本的に英語に直そうとまでしています。日本語は国際的でないからとして棄ててしまっていたら、日本人は自分の歴史的書物も読めないことになってしまっていたでしょうね。まあ極端な例ではありますが、利便性という視点だけで伝統文化を棄ててしまってはいけないということを言いたかっただけです。

 そのようなわけですから、文書などに元号を書く際に、一瞬でよいですから、これは701年以来続いている伝統文化なのだと思って見て下さい。

花の心(桜の擬人的理解)

2019-03-30 12:29:24 | 短歌
 もうすぐ桜の花が満開になります。ということで、桜を詠んだ古歌を何気なく読んでいました。その時、桜には人の心がわかるのだろうか、ということをふと思いました。実際にはあるはずのないことですが、あくまで歌の中の話しです。そこで桜の古歌の中で、桜に意志があるように理解している歌をいくつか探しました。

①ことならば 咲かずやはあらぬ 桜花 見るわれさへに 静心なし (古今集 82 紀貫之)
②ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ (古今集 84 紀友則)
③深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染めに咲け (古今集 832)
④うちはへて 春はさばかり のどけきを 花の心や 何急ぐらん  (後撰集 92)

 ①はよく知られた歌ですね。「同じことなら(どうせならば)、咲かない方がよいではないか。さくらの花よ。散るのを見ている私でさえも、落ち着いた気持ちがしないから」、という意味です。本当は咲いてほしいのに、咲くと心が乱れるから、いっそのこと咲かない方がいいと、逆説的に花に焦がれる心を表現しているわけで、在原業平の「世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」と同じ発想ですね。全く素直でないと思う一方で、花に対する複雑な心情を表すには、効果的な詠み方なのでしょう。「見るわれさへに」というのですから、静心がないのは私だけではなく、花にもないというわけです。つまり花は自分の意志で散っているということになります。

 ②は、「春の光がのどかに射すこの日に、なぜ花は落ち着いた心もなく、忙しげに散り急ぐのだろうか」という意味です。この歌でも、桜は自分の意志で散っていると理解されてます。「らむ」は現在推量の助動詞ですが、「どうして・・・・なのだろうか」というように、原因を推量するというニュアンスを含んでいます。①にも②にも「静心」という言葉が共通しています。その反対語は「漫心」(そぞろごころ)と言い、そわそわと落ち着かない心を表しています。ただし「まんしん」と読んでしまうと、自慢していい気になることをいみしますから、同じ漢字でも読み方が異なると、意味は全く異なってしまいます。ですから「漫ろ心」とでも書けばよいのでしょう。「静心」がないというのですから、花の心は「漫ろ心」なのです。実際にこころが漫ろなのは見ている人の方であるのに、それを花が漫ろであると表しているのでしょう。

 『古今集』84番の②の歌の次には、次の歌が並んでいます。「春風は 花のあたりを よきて吹け 心づからや うつろふと見む」。「春風は花を避けて吹け。桜の花が自分の意志で散っているのか見ようとおもうから」という意味です。ここにも花が自分の意志で散っているという理解が見られます。 

 ③は、藤原基経を深草に葬った時の歌で、「野辺」は単なる野原ではなく、「野辺送り」の「野辺」、つまり亡骸を葬った場所を意味しています。「亡骸を葬った野辺に咲く桜よ、もし心というものがあるのなら、せめて今年は哀悼の意を表すという墨染めの色に咲いてほしい」という意味です。本当に哀しんでいるのは人なのですが、桜も哀しんでほしいと詠んで、その哀しみを比喩的に表現しているわけです。

 ④は「桜」とはなっていませんが、明らかに桜のことを詠んでいます。「ずっと長い間、はるはのんびりしているのに、花の心はなぜあわただしく散り急ぐのだろうか」という意味です。ここでははっきりと「花の心」という言葉を選び、擬人的であることをはっきりと表に出して詠んでいます。ここでも花は自分の意志で散っているわけです。この「花の心」という言葉は、桜に限ることではなく、他の花の歌にもしばしば詠まれるようになり、このような擬人的な詠み方が好まれていたことがわかります。

 以上のような桜を擬人化する歌は他にもあるのですが、長くなるのでこれくらいにしておきます。擬人的な詠み方は、詠む人の心を桜に投影して詠んでいることがわかります。特に散ることについてそのように詠まれることが多いようですね。自然を単なる客観的な物として見るのではなく、自分の思い入れを映す物として、主観的に見る事は、現代人が忘れてしまった自然理解の姿勢でしょう。これからお花見に出かける事があると思いますが、ただ単にきれいだなあで終わることなく、自分の心の喜び・哀しみ・不安・希望を反映する物として、桜をしみじみと眺めてみませんか。

中国の年号を使用すること

2019-03-27 20:17:14 | 歴史
 新しい元号がもうすぐ決まります。それで最近はしばしば元号について書いています。今日は異国の, 年号を使用したことについて、少し書いてみましょう。最初に少し説明しておきますが、年号と元号を区別しておきます。本来ははっきりした違いがあるのに、国語辞典でも明確に区別されていません。元号という言葉が正式に採用されたのは、明治憲法と同時に発布された皇室典範であって、それ以前は全て年号という言葉が用いられていました。現在は元号法という法律によって裏付けられていますから、元号が正式な言葉です。そういうわけで、明治憲法発布以前のことには「年号」、それ以後のことには「元号」と言うのが、歴史的経過を踏まえた正しい言葉の使用なのです。

 大化・大宝以来、日本では独自の年号を使用してきました。後醍醐天皇の「建武」や、江戸時代初期の「元和」のように、意図して中国と同じ年号が建てられたことはありますが、中国から押し付けられたわけではありません。しかし日本の外交文書に中国の年号が用いられたことがありました。それを用いた当事者は中国の年号であることを承知の上で積極的に用いたのですが、それが独立国としては不本意であると評価されることもありました。

 室町幕府の三代将軍足利義満は、応永元年年(1394)に将軍職を息子の義持に譲った後も、実権を握り続けていました。そして日明貿易の利益が大きいことに着目し、応永8年年(1401)に、博多の商人肥富(こいつみ)と僧祖阿(そあ)を明へ派遣します。そして翌年には明の国書がもたらされたのですが、明は周辺諸国に対して対等な外交関係を認めず、明の皇帝に朝貢する形式の外交しか認めませんでしたから、その国書は実に尊大な表現に満ちていました。それを現代語に直してみましょう。「日本国王である源道義(義満のこと)よ、汝は明の皇室に思いを馳せ、明の皇帝(永楽帝)に対して忠誠なる心を懐き、はるばる海を越えて使者を遣わして朝貢してきた。(なかなか感心なことである)・・・・それで明の暦である大統暦を分かち与え、明の統治に服させるものである。」と記されていました。「源」は足利氏の本姓がもともとは源氏であることを表し、「道義」は義満の法名です。中国の暦を分かち与えられてそれを用いることは、中国を宗主国として仰いでその支配に服属することを意味しています。

 これに対して義満は「日本国王臣源」を自称し、「臣」の字をわざわざ小さく書き、明の年号である「建文」を用いて臣下の礼を表しました。このような国書のやりとりは、室町時代の後期に禅僧の瑞溪周鳳(ずいけいしゆうほう)が編纂した『善隣国宝記(ぜんりんこくほうき)』という外交史の歴史書に収められています。

史料「足利義満に対する明の国書」
「爾(なんじ)日本国王源道義、心、王室に存し、君を愛するの誠を懐(いだ)き、波涛(はとう)を踰越(ゆえつ)し使を遣はして来朝せしむ。・・・・大統暦を班(わか)ち示し、正朔(せいさく)を奉ぜしむ」(『善隣国宝記』巻中 応永九年)

 国内では独自の年号を用いつつも、中国に対しては中国の年号を用いることは、朝鮮やベトナムなどの中国近隣国ではしばしば見られることです。しかし日本ではそのようなことはかつてなかったので、『善隣国宝記』の編者はこの国書について、「王を自称することは中国の主従関係にならうことであって、よろしくないと言うべきであろうか。(臣下であることを意味する)『臣』の字を自らの意志で用いることは正しくない。明への国書に明の年号を記しているが、これも誤っている。そうであるから日本の年号を用いるべきである。もしそれができないならば、全て年号は書かず、干支で年を表したらよいか」と記して、義満の卑屈な外交姿勢を厳しく非難しています。

史料「『善隣国宝記』に記された義満への非難」
「表中、自ら王を称するときは、則(すなわ)ち此(こ)れ彼の国の封(ほう)(領地を与えて王・諸侯とすること)を用ゆなり。無乃(むしろ)、不可ならんか。臣の字を用ゆるは非なり。・・・・近時、大明に遣はす表(上申書)の末に、彼の国の年号を書す。或は非か。・・・・然(しか)らば則(すなわ)ち、義、当(まさ)に此の国の年号を用ゆべし。然(しか)らずんば総て年号を書さず、惟(ただ)甲子(干支)を書せんか。」 (『善隣国宝記』巻中 応永九年)

 義満がこのような卑屈な国書に甘んじたのは、日明貿易の利益の大きさによるものです。義満よりかなり後の史料ですが、文明十二年(1480年)の「大乗院(だいじよういん)寺社(じしや)雑事記(ぞうじき)」という記録によれば、明で買い付けた生糸は、日本で20倍の値で売れ、日本で買い付けた銅が、明ではその4~5倍で売れたと記されています。要するに義満は実利のために名を捨てたのですが、義満の死後、息子の四代将軍足利義持は日明貿易を停止しました。表向きの理由は義持の病気治療に必要な薬が明からは手に入らないことでしたが、あまりに卑屈な外交姿勢をよく思っていなかったというのが本音でしょう。ただし6代将軍の足利義教の時には、日明貿易は再開されています。

 義持は明の使者に対して冊封関係復活要求を拒否したくらいですから、『善隣国宝記』には義持から明への国書は記されていません。義持の時の「日本国管領」(斯波義将?)が朝鮮に送った応永16年の書簡が記されています。それには「永楽」という明の年号が書かれていますが、これは朝鮮では明の年号が行われていることを踏まえた上で使用していると見るべきでしょう。応永26年に再び冊封関係復活を要求する明の使者に宛てた書簡には、義持は「征夷大将軍某(それがし)」と自称し、年号は「応永」を用いています。応永29年の朝鮮への国書には、「日本国王」ではなく「日本国源義持」と自称し、年号は「応永」を用いています。

 「王」を自称しなくなったことには、現代人が理解しにくい重要な意味が隠されています。現代人にとって皇帝と王は同じようなものですが、本来ははっきりとした上下関係がありました。中国を中心とした東アジア圏では、王朝の統治者は「帝」「皇帝」であり、「王」は「帝」の皇子や属国の支配者のことでしたから、「王」を自称することも中国の王朝の支配下にあることの意思表示であったのです。そういうわけで、義満が「日本国王」を自称し、また明の年号を用いたこと、またその反対に義持が「王」を自称せず、日本独自の「応永」という年号を用いたことには、外交上重大な政治的意味があったのです。

 

春の身近な鳥の聞き成し

2019-03-20 09:38:19 | その他
 鳥は一年中周辺で見られますから、鳴き声はいつでも聞けるのですが、春になると盛んに囀るようになるので、これからが一番楽しめる時期です。動物の鳴き声を人の言葉に置き換えたものを「聞き成し」と言いますが、鳴き声を音そのままに聞くよりも、人の言葉に置き換えて聞く方が、楽しみも増すものです。これまでも私のブログに何種類かの鳥の聞き成しについて書いていますから、重複する内容もありますが、初めてお読み下さる方もいらっしゃるでしょうから、その点は御容赦下さい。

 私の住む比企丘陵では、毎年必ず2月の下旬からウグイスが囀り始めます。「ホーホケキョウ」という鳴き声を知らない人はいないでしょうが、これは「法 法華経」というわけで、お経を読む有り難い鳥と理解されていました。「経読み鳥」という異称もあるくらいです。出雲風土記には「法吉鳥」と記されていますから、そのような理解は奈良時代からあったのかもしれません。

 古歌には鶯が自分の名前を呼んでいる歌がありますから、「ウーグイス」と聞いていたことになります。『夫木抄』310には、「いかなれば春来るからに鶯のおのれが名をば人に告ぐらん」という歌があります。

 また現代人が「ケキョケキョ」と聞いている部分は、「ヒトクヒトク」と聞き成されていました。これは漢字では「人来人来」となり、「人がやって来る」という意味です。『古今集』の1011には「梅の花見にこそ来つれ鶯の人来ひとくと厭ひしもおる」という歌があります。「私は梅の花を見に来ただけなのに、鶯が人が来る人が来ると嫌がって鳴いているよ」という意味なのですが、この歌は俳諧歌の部に収められていますから、作者も最初から言葉遊びのつもりで詠んでいる歌です。それでもその様な共通理解があったからこそそのように詠まれているわけです。

 今朝の散歩道では、ホオジロの鳴き声も聞こえました。よく電線や背の高い草木のてっぺんで鳴いていますから、縄張りの宣言なのでしょうか。強いて音そのままに表せば、「ピッピチュピーチュー」てな感じなのですが、ウグイスよりは複雑な鳴き方です。これを聞き成しでは「一筆啓上仕候」(イッピツケイジョウツカマツリソウロウ)とか、「源平つつじ白つつじ」と聞こえるとされています。そう思って聞けば、確かに「一筆啓上」くらいまでは納得できますが、「仕候」はかなり無理がありますね。「源平つつじ」には聞こえません。
最近では「サッポロラーメン味噌ラーメン」というのもあるそうですが、これもこじつけすぎで、そうは聞こえません。ただし「一筆啓上」がいつ頃からなのか、全く知りません。言葉の表現からは古そうですが、江戸時代まで遡るものかどうか、私は全く材料を持ち合わせていないので、どなたか御存知でしたら教えて下さい。

 そろそろヒバリも鳴き始めます。ヒバリは囀りながら上昇しますから、広範囲にその声が聞こえます。私が子供の頃に聞いたことですが、ヒバリはお日様に銭を貸しているので、利子を取り立てるために空高く上っていくのだそうです。一般には音そのままに表せば「ピーチクピーチク」に近い音に聞こえるのですが、聞き成しでは「日一分日一分利とる利とる」とか「日一分日一分月二朱」ということになっています。古い単位を使っていますから、あるいは江戸時代以来のことかも知りません。

 4月になるとツバメがやって来ますが、人家の軒に巣を作って子育てをするので、その鳴き声を近くで聞くことができます。よく観察していると、いわゆる囀りの他にも何通りかの鳴き方があるようです。囀りは
「チュピチュピチュピジー」というように聞こえますが、聞き成しでは「土食って虫喰ってしぶーい」と表現されます。これは田んぼで土を掬ってきては巣を作ったり、飛びながら虫を捕らえて食べている生態によるものです。最後の「しぶーい」の部分は、くちばしをカスタネットのように上下で叩いて音を出しているので、鳴声ではなさそうです。

キジは3月から盛んに鳴いています。わざわざ人目に付く小高いところで鳴きますから、鳴き声の方をさがすとすぐに見つかります。キジの鳴き声は昔から「ケンケン ホロホロ」と決まっていて、平安時代以来の文献にもたくさん記録されています。ただし「ホロホロ」の部分は翼を力強く胴体に打ち付ける時の羽ばたきの音ですから、厳密な意味での鳴き声ではありません。これをほろ打ちというのですが、「ほろほろと泣く」に通じるため、恋の和歌にたくさん詠まれるわけです。古くは「きぎす」とも呼ばれています。「ス」はカケス・カラス・ホトトギス・ウグイスなどのように鳥を表す接尾語であるという説がありますから、「きぎ」と聞いていたのかも知れません

鳥の聞き成しについては、「鳥の聞きなし - BIGLOBE」という素晴らしい研究成果をネットで見られますので御紹介します。私は鳥については特に勉強したわけでもないので、目新しい情報を提供することはできません。人の受け売りばかりですが、野外を歩く際の楽しみのきっかけになればと思って、身近な春の鳥の聞き成しを御紹介しました。



清廉潔白の武蔵武士 畠山重忠

2019-03-09 10:07:52 | 歴史
 高校日本史の教科書に載る、数少ないわが埼玉県に縁ある歴史上の人物の一人に、畠山重忠がいます。清廉潔白で、典型的な武蔵武士と理解されていますが、教科書にはあっけない程少ししか記述がありません。全体の情報量を考慮すれば当然なことなのですが、県人としては少々寂しいので、授業では詳しくお話しします。

 まずは『吾妻鏡』の記述から、その清廉潔白さを物語る逸話を御紹介しましょう。

 文治三年(1187)6月29日、重忠が地頭を務める伊勢国沼田の御厨で、重忠の代官が横暴を働くとの訴えにより、頼朝が調査のために使者を派遣したことがありました。その結果、9月27日に重忠は身柄を千葉胤正に預けられ、所領を没収されてしまいます。そして胤正が頼朝のもとに参上して重忠の様子を報告します。それによれば「押し込められて七日、寝食を断ち、言葉を発さず、顔色も悪くなっているので、早く許し下さい」というのです。すると頼朝は重忠を許し、胤正は重忠を連れて参上しました。重忠は傍輩に「清廉をわきまえること人に抜きん出ると自慢に思っていたところ、代官の不義によって恥辱に遭ってしまった」と言うと、直ちに武蔵国に下向してしまいました。

 またつぎのような話しも記されています。同年11月14日、梶原景時が頼朝に「重忠が武蔵国菅谷の館に引き籠もり、謀反をしようとしている」と讒言します。11月17日、頼朝の使者として下河辺行平が菅谷に着き、事情を重忠に伝えると、重忠は憤激して、「今このようなことを聞くとは恥ずべきことである」と言うと、刀を執って自害しようとしました。やっとのことで自害を押しと留めた行平は、11月21日に重忠を伴って鎌倉に戻ります。重忠が梶原景時を通して逆心がないことを申すと、景時が「起請文を進上せよ」と言う。重忠は「重忠はもとより思うことと言うことは異なっていないので、起請文は進上できない。重忠に偽りのないことは、かねてから頼朝様が御存知である」と応えます。これを聞いた頼朝は重忠と行平を御前に召して雑談し、この事件について全く話題にしませんでした。頼朝も重忠の逆心が無いことを十分に理解していたのでしょう。

 しかしあくまでも頼朝との個人的な信頼関係であって、他の人に通じるわけではありません。頼朝の没後、元久二年(1205)6月21日、牧御方(北条時政の後妻)は、平賀朝雅(牧方の娘婿)が前年に畠山重保(重忠の子)の讒言を受けて腹が立っていたので、畠山父子を誅殺しようとしていました。そして翌6月22日、鎌倉で騒動があり、軍兵が由比ヶ浜の方に先を争って向かって行きます。聞くところによれば謀反の者が誅殺されるというのです。何も知らない畠山重保もその場に向かったところ、三浦義村が御命令を承り、重保は取り囲まれて討ち取られてしまいました。謀叛を企てているとされたのは、自分自身だったのです。重保にしてみれば、何が何だかさっぱりわからなかったでしょう。

 またこの情報を聞きつけた重忠が参上するという風聞があったので、道中で誅殺せよとの沙汰があり、北条義時らが出陣します。『吾妻鏡』には、「前後の軍勢は雲霞の如く、山に連なり野に満ちた。午の刻に武蔵国の二俣河(横浜市旭区)で重忠に遭遇した。重忠は十九日に菅谷の館を出て、今ここに到着した。従う者は134騎。そこで重保が今朝誅殺された上、軍兵が襲来してくると聞いた。郎従は『討手は幾千万騎か知れず、対抗できません。早く本拠に撤退し、討手を待って合戦を行うべき』と言います。しかし重忠は『それはよくない。家を忘れ親を忘れるのが部将の本意である。だから重保が殺された後、本拠を顧みることはできない。去る正治の頃、梶原景時は一宮の館を撤退し、途中で殺されてしまった。しばしの命を惜しむようであり、予め陰謀の企てがあったようにも思われた。このように推測されては面目がなかろう。まことに景時の例は、後の戒めとすべきである』と言った。およそ弓矢の戦い・刀剣の戦いは時間が経っても勝負が着かなかったが、申の刻も終わろうとする頃、愛甲季隆が放った矢が重忠に命中した。季隆はすぐに重忠の首を取り、北条義時の陣に献上した。その後、重秀(重忠の次男)し郎従らは自殺したので、事態は収まった。」と詳細に記述されています。

 さらに『吾妻鏡』は続けます。「明けて翌6月23日、北条義時以下が鎌倉に帰った。北条時政が戦場のことを尋ねると、義時は『重忠の弟や親類はほとんどが他所にいて、戦場に赴いた者はわずか百余人でしたので、重忠が謀反を企てたことは偽りでした。讒言によって誅殺されたのではないでしょうか。とても哀れです。首を見ましたが、長年親しくしてきたことが忘れられず、涙を抑えることができませんでした。』と答えたので、時政は一言も言えなかったという。酉の刻に鎌倉でまた騒動があった。三浦義村が稲毛重成を誅殺した。今度の合戦の発端は、重成の謀略であった。即ち平賀朝雅(北条時政の後妻の娘婿)が重忠に遺恨があり、その一族が反逆を企んでいると、頻りに時政の後妻の牧御方に讒言し、時政が密かにこのことを重成に相談したので、重成は親類のよしみ(重忠は重忠の従兄弟との)にそむき、鎌倉に事変が起きたと消息を送ったので、重忠はそれにしたがって鎌倉に向かう途中で不慮の死を遂げたのである。悲嘆しない者はいなかったという。」と記されています。重忠は北条氏の謀略にまんまと乗せられて、一族諸共滅んだのでした。

 このような生き様、死に様は、現代の価値観には通用しないのかも知れませんが、私は羨ましくてなりません。今は戦というものは全て悪であるという価値観の方が支持されるでしょうが、今こそ命の棄て時という瞬間に出会えるうれしさを、私は否定しきれません。それだけの勇気があるとも思えませんが、心の何処かにもしその当時に生まれていたら、自分もその様でありたいと思う心があることを認めざるを得ないのです。

 そんな心を歌に詠んでみました。

 ○武士(もののふ)は かくありてこそ 一筋に渡りて散れる 二股の川  

二俣川で討ち取られたのですが、行くか戻るか二股の選択肢がありましたのに、彼はそれを一筋に渡って散り、清廉潔白の武蔵武士の名を千載に残したのです。

 ついでのことですが、埼玉県知事であった畑和が、『重忠節』という歌を作詞しています。

一 国は武蔵の畠山    武者と生まれて描く虹   剛勇かおる重忠に   いざ鎌倉のときいたる
二 平家追い討つ一の谷  愛馬三日月背に負えば   そのやさしさに馬も泣くひよどり越えの逆落とし
三 雪の吉野の生き別れ  恋し義経いまいづこ    静の舞の哀れさに   涙で打つや銅拍子
四 頼み難きは世の常か  誠一途が謀反とは     うらみも深く二俣に  もののふの意地花と散る
五 仰ぐ秩父に星移り   菅谷館は苔むせど     坂東武者のかがみぞと  面影照らす峯の月  

 なかなか上手いものですね。2番は、鵯越の逆落としで馬を負って下りたこと、3番は静御前が頼朝の前で舞いを披露した時に、重忠が銅拍子で伴奏したことを詠んでいます。5番の菅谷館は武蔵嵐山に今も残る畠山氏の居城跡で、今も郭や空堀などがそのままに残されてます。特に新緑の時期は美しく、歴史探訪にはお薦めの場所です。まだ見たことのない方は、是非おいで下さい。