うたことば歳時記

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縁起の良い彼岸花

2020-09-23 17:52:07 | 植物
今年は夏が殊更暑かったせいか、彼岸花の生育が遅れ、秋分の日が過ぎてようやく花を見ることができました。ネットで彼岸花情報を見ていると、彼岸花は不吉であるとか縁起が悪いなどという情報でいっぱいです。その理由は多くの場合、墓地によく生えていることに拠るとされているのですが、これでは余りにも彼岸花がかわいそうです。

 そもそも彼岸花は遺伝的な理由で、絶対に結実しません。つまり人為的か偶然かはともかくとして、球根が移動しない限りは、離れた所に繁殖して広がることは絶対にありません。ですから深山のような人手の入らない所には今でも生育していません。墓地によく生えているといいますが、花が自分の意志で墓地を好むはずはありませんから、もとはと言えば、それは人が植えたからなのです。

 彼岸花は曼珠沙華とも呼ばれ、釈迦が悟りに至った時に極楽浄土から降ってきた花と理解されていました。ですから墓の側らに「極楽の花」として供養のために植えていたものを、本来の意味は忘れられて、「死人花」「幽霊花」「地獄花」などと呼ばれて忌み嫌われるようになったのです。田の畔に直線に咲いているのもよく見かけますが、直線に花が増えてゆくわけはありません。球根に毒があることから、土竜(もぐら)や鼠などの侵入を防ぐために、意図して植えられていたのでしょう。

 有毒であるために嫌われたという説もあるのですが、それなら鈴蘭も水仙も福寿草も有毒ではありませんか。他にも有毒な園芸植物はたくさんありますから、彼岸花だけが有毒を理由に忌避される理由にはなりません。

 16世紀前半に立花を大成した池坊専応が著した『専応口伝』には、「高くたてざる物の事」という項に、曼珠沙華が挙げられています。またその反対に「祝儀嫌うべき草木」の項には挙げられていません。これは「国会図書館デジタルコレクション 華道古書集成」とネットで検索し、その第一期第一巻の40・41コマ目に載っていますから、ご確認下さい。

 ところが元禄8年(1695)年の『花壇地錦抄』という書物には、「曼珠沙華 花色朱のごとく、花の時分葉ハなく、此花何成ゆへにや世俗うるさき名をつけて、花壇などにハ大方うへず」と記されています。これは「国会図書館デジタルコレクション 花壇地錦抄」とネットで検索し、その65コマ目の左下部に載っていますから、ご確認下さい。

 以上のことから、室町時代までは忌避すべき花という理解はなかったのですが、江戸時代の初期には花にとっては芳しくない呼び名が付けられていたと推定できるのです。

 自分では移動できない花を、人が故人供養のために墓地に植えておいて、後から「墓地に生える不吉な花」と決めつけるなど、勝手なものだと思います。それでついつい彼岸花がかわいそうになり、代わりに弁護もしたくなるというものです。

そこで一首詠みました

 よし人に 厭はるるとも 天地の 時こそ知りて 花は咲きけれ

たとえ人に嫌われようとも、彼岸花は自分の咲くべき時を知っていて、天に向かって咲いているのです。極楽に往生したいと思っているなら、その前味を教えてくれる彼岸花は、何と嬉しい花ではありませんか。

『日本霊異記』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面 

2020-09-21 07:43:10 | 私の授業
日本霊異記


原文
 禅師弘済(ぐさい)は百済国の人なり。百済の乱るゝ時に当りて、備後国三谷(みたに)郡の大領(だいりよう)の先祖(おや)、百済を救はむが為に軍旅(いくさ)に遣(つか)はさる。時に誓願を発(おこ)して言ふ。「若(も)し、平(たいらか)に還来(かえ)らば、諸(もろもろ)の神祇(かみ)の為に伽藍(がらん)を造立し、多諸(おお)くの寺を起(つく)らむ」と。遂(つい)に災難(わざわい)を免(まぬか)れ、即ち禅師に請ひて、相共に還来(かえ)り、三谷寺を造る。其の禅師の、伽藍と諸の寺を造立する所以(ゆえん)なり。道俗(どうぞく)観(み)て、共に欽敬(きんきよう)を為(な)す。
 禅師、尊像を造らむが為、京(みやこ)に上(のぼ)り財(たから)を売る。既に金と丹(に)等の物を買ひ得て、難破(なにわ)の津に還(かえ)り到る。時に海の辺(ほとり)の人、大(おおき)なる亀四口(よつ)を売る。禅師、人に勧めて買ひて放たしむ。即ち人の舟を借り、童子(わらわ)二人を将(い)て、共に乗りて海を度(わた)る。
 日晩(く)れ夜深(ふけ)て、舟人欲を起し、備前の骨嶋(かばねじま)の辺(あたり)に行き到りて、童子等を取りて海の中に擲(な)げ入る。然(しか)る後に、禅師に告げて云はく、「速(すみやか)に海に入るべし」と。師、教化(おし)ふといへども、賊猶(なお)許さず。茲(ここ)に願を発(おこ)して海の中に入る。水、腰に及ぶ時、石の脚(あし)に当たるを以て、其の暁(あかとき)に見れば、亀の負へり。其の備中の浦にして海の辺(あたり)に、其の亀、三たび頷(うなづ)きて去る。疑はくは、是(これ)放てる亀の恩に報(むく)ゆるかと。
 時に賊等六人(むたり)、其の寺に金と丹を売る。檀越(だんおち)先(ま)づ量(はか)るに価(あたい)を過(こ)ゆ。禅師、後に出でゝ見れば、賊等忙然として退進を知らず。禅師、憐愍(あほれ)びて刑罰(つみ)を加へず。仏を造り塔を厳(かざ)りて、供養し已(おわ)りぬ。
 後に海辺に住みて、往(ゆ)き来(きた)る人を化(おし)ふ。春秋(はるあき)八十有余(あまり)にして卒(し)ぬ。畜生すら猶(なお)恩を忘れず、返りて恩を報(むく)ゆ。何(いか)に況(いわん)や人にして恩を忘れむや。

現代語訳
 弘済(ぐさい)法師は百済国の人である。百済が(唐と新羅に攻められて)乱れた時、備後国三谷(みたに)郡の郡司の祖先である人が、百済救援のため戦に派遣された。その時、「もし無事に帰還できるならば、諸神諸仏のために堂塔を建て、多くの寺を造営しよう」と誓願した。そして遂に災難に遭わなかったので、弘済法師に請い願って共に帰り、三谷寺を造営した。これが弘済法師が堂塔と諸寺を建立した理由である。僧侶も一般庶民もこれを拝観し、共に謹(つつし)んで礼拝している。
 (ある時)法師は仏像を造るために、都に上り財物を売った。そして金や丹(赤色の塗料)などを買い求め、難波の港まで戻って来た。その時、海辺の人が四匹の大きな亀を売っていた。(亀を憐れに思った)法師は人に勧めて買い取らせ、海に放してやった。そして舟を雇い、童子を二人連れて、一緒に舟に乗って海に乗り出した。
 日が暮れて夜更け頃、舟人達が欲を起こし、備前国の骨嶋(かばねじま)の辺りで、童子達を捕まえて海に放り込んでしまった。そして法師に、「さっさとお前も海に入れ」と言った。法師は教え諭したが、賊達は聞き容(い)れない。そこで願を立てて海に入った。そして水が腰の辺りまでになった時、石が脚に当たっている。それで夜が明けてきたのでよく見れば、亀が法師を背に乗せているではないか。そして備中国の海辺で、その亀は三回も礼をして去って往った。これは放してやった亀が恩に報いたのであろうか。
 ところで六人の賊共が、その三谷寺に金や丹を売りに来た。(寺の支援者である)檀越(だんおち)がまず計量すると、値段が高過ぎる。そこへ法師が後から姿を現すと、賊共は茫然として進退が窮まってしまった。しかし法師は彼等を憐れんで罰しなかった。そして仏像を造り、塔を荘厳に飾り、落成の法会を終えた。
 その後法師は海辺に住み、往来する人々を教化し、八十余歳で亡くなった。動物でさえ恩を忘れずにそれに報いるなら、まして人たるものが、恩を忘れてよいであろうか。

解説
 『日本霊異記(にほんりよういき)』は、正しくは『日本国現報善悪霊異記』といい、弘仁年間(810~824年)に、薬師寺僧景戒(けいかい)が編纂した説話集です。説話の数は一一六話で多くはないのですが、日本最初の説話集として、後世の説話集に大きな影響を与えました。例えば平安時代末期の『今昔物語集』には、『日本霊異記』から七二話も採り入れられています。上巻序文に「善と悪との報は影の形に随ふが如し。・・・・因果の報を示すにあらずは、何に由りてか、悪心を改めて善道を修めむ」と記されているように、勧善懲悪(かんぜんちようあく)が主題になっています。その他には奇怪な話もあり、書名がそのまま内容を表しています。また同じく序文には、「何すれぞ他国(ひとくに)の伝録に慎みて、自(わ)が土(くに)の奇(あや)しき事(不思議な事)を信(うやまい)恐(おそ)りざらむや」と記されていて、わざわざ「日本」を書名に冠していることには、日本版の霊異譚(れいいたん)集という意図が反映されています。
 話の内容としては、兎の皮を生きたまま剥(は)いだために病死した男、僧の入浴用の薪を他人に与えたために、牛に生まれ変わってしまった僧、亡夫供養のために妻が描かせた阿弥陀像が火事でも焼けなかったこと、蟹(かに)を買い取って放してやり、現世で蟹に助けられた女、常に読経をしていたため、賊に手足を縛られて海に投げ込まれても溺れなかった僧など、勧善懲悪的な話がたくさんあります。これらの話は、薬師寺周辺の僧達が、布教の方便として語ったことなのでしょう。
 話は荒唐無稽でも、社会や世相がありのまま無意識に描写され、歴史研究に役に立つこともあります。例えばここに載せた話では、白鳳時代に百済から僧が渡来していたこと、その頃には都に市(いち)があったこと、難波から備中まで舟が就航していたこと、七世紀半ばには、地方豪族が寺を造営する程に仏教を受け容れていたこと、百済救援に西国の郡司級の豪族が派遣されていたことなどを、読み取ることができます。
 ここに載せたのは、上巻の第七話「亀の命を贖(あが)ひて放生(ほうじよう)し、現報を得て亀に助けらるゝ縁」という話です。百済僧弘済の渡来は、唐と新羅に滅ぼされた百済再興のため、百済の要請で派遣されたヤマト王権の軍が、六六三年の白村江の戦で敗退したことが背景となっています。その際に多くの百済人が日本に亡命しました。『日本書紀』には、六六六年に二千余人の百済人を東国に入植させたと記されていますが、彼等は白村江の敗戦後に逃れて来ていた百済人と考えられます。庶民はともかくとして、支配者階級や知識人は粛正される可能性が高かったからです。弘済法師もその一人かもしれません。
 生殺戒は、在家信者でも厳守しなければならない基本的な戒律でした。現代人なら生き物は愛護すべきものと考えるのですが、仏教の輪廻転生(りんねてんせい)の思想によれば、生き物は未来世の自分の姿であるかもしれず、前世では身近な人であったかもしれないと考えます。ですから生き物を野に放って功徳を積むことは、単なる動物愛護ではなかったのです。そのような仏事は「放生会(ほうじようえ)」と呼ばれ、文献上は早くも天武天皇の六七七年に確認できます。放生会で放つ生き物の中では、亀は取り扱いやすいので、「放ち亀」と称してよく用いられました。今でも寺社の池に亀が多いのは、放生会の名残でもあります。
 この話からは、誰もが浦島太郎の物語を連想することでしょう。『日本書紀』『万葉集』「丹後国風土記逸文」などにその原形となった説話があり、「浦島子伝説」と呼ばれています。亀が報恩するという話は、その後『今昔物語集』『十訓抄』『沙石集』『源平盛衰記』などにも受け継がれ、特に『今昔物語集』には五話も収録されています。また広島県の三次(みよし)市の向江田(むこうえた)町には古い廃寺跡があり、法起寺式伽藍配置や百済様式の瓦が発見されていて、三谷寺(みたにでら)である可能性が高く、説話の内容が歴史事実であった可能性を示しています。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『日本霊異記』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。


『慎機論』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面 

2020-09-19 19:40:10 | 私の授業
慎機論


原文
 今、天下五大洲中、亜墨利加(あめりか)・亜弗利加(あふりか)・亜烏斯太羅利(あうすたらり)三洲は、既に欧羅巴(よーろつぱ)諸国の有(ゆう)と成(なる)。亜細亜(あじあ)洲と云へども、僅(わずか)に我国・唐山(とうざん)・百爾西亜(ぺるしあ)の三国のみ。其三国の中、西人と通信せざるものは、唯(ただ)我国存するのみ。万々恐多き事なれども、実に杞憂(きゆう)に堪(たえ)ず。論ずべきは、西人より一視せば、我国は途上の遺肉(いにく)の如し。餓(が)虎(こ)渇狼(かつろう)の顧(かえりみ)ざる事を得んや。・・・・
 凡(およそ)政(まつりごと)は拠(よ)る処に立ち、禍(わざわい)は安(やすん)ずる所に生ず。今国家拠る所のものは海、安ずる所のものは外患。一旦恃(たの)むべきもの、恃むべからず。安ずべきもの、安ずべからず。然るに安堵して、徒(いたずら)に太平を唱ふるは、固(もと)より論なし。・・・・
 今、我(わが)四周渺然(びようぜん)の海、天下万国拠る所の界にして、我に在(あり)て世々不備の所多く、其(その)来(きた)るも亦(また)一所に限る事能はず。一旦事ある時、全国の力を以てすといへども鞭(むち)の短くして、馬の腹に及ばざるを恐るゝ也。況や西洋膻睲(せんせい)の徒(と)、四方を明らかにして万国を治め、世々擾乱(じようらん)の驕徒(きようと)、海船火技に長ずるを以て、我短にあたり、海運を妨げ、不備を脅かさば、逸を以て労を攻る。百事反戻(はんれい)して、手を措く所なかるべし。・・・・
 嗚呼(ああ)、今夫(それ)是(これ)を在上の大臣に責(せめ)んと欲すれども、固(もと)より紈袴(がんこ)の子弟、要路の諫臣(かんしん)を責んと欲すれども、賄賂(わいろ)の倖臣(こうしん)、唯是心有る者は儒臣、儒臣亦望浅ふして大を措(お)き、小を取り、一に皆不痛不癢(ふよう)の世界と成りし也。今夫(それ)此の如くなれば、束手して寇を待たむか。

現代語訳
 今日、世界の五大州の中で、アメリカ・アフリカ・アウスタラリ(オセアニア)の三州は、既にヨーロッパ諸国の所有となっている。(そうでないのは)アジア州といえども、我が国と中国とペルシアの三国だけであり、その三国の中で西洋と通交がないのは、ただ我が国だけである。はなはだ畏れ多いことであるが、実に心配でならない。問題なのは、西洋人から見れば、我が国は路上に遺棄された肉の如き物であるということである。餓えた虎や狼の如き西洋諸国が見過ごすはずがないではないか。・・・・・
 およそ政治というものは、頼むべき拠り所の上に立つべきものであり、禍(わざわい)は安心して気の弛むところから生まれる。今、我が国が拠り所としているのは海であり、それにより外患がないと安心しきっている。しかしかつては頼むべきものであった海は、今は頼みにはならないので、かつては安心できていたが、今は安心できない。それなのに安堵して未だに太平を謳歌しているなど、もとより論外である。・・・・
 今我が国の周囲は果てしない海で、世界の諸国が国境の拠り所としている。しかし我が国では以前から(海岸の)備えが不十分な所が多く、異国が侵入するとすれば、一カ所とは限らない。もし一旦危急のことがあれば、全国の兵力を結集しようとしても、鞭(むち)が短くて、馬の腹まで届かないのではと心配である。まして西洋人の奴等は世界情勢に明るく、万国を支配し、以前から世界を乱し驕(おご)り高ぶる連中である。しかも航海術や砲術に長じているので、我が国の弱みに付け込み、海運を妨害し、海防の不備を脅(おびや)かせば、労せずして我が国を疲弊させることができよう。そうなれば全ての事が意に反して、手の付けようがなくなるであろう。・・・・
 ああ、今この事を都の朝臣に訴えたくても、彼等はもともと(世間知らずの)貴族の子弟であり、君主を補佐する(幕府の)要人に訴えたくても、賄賂で成り上がった者ばかりである。ただ少し話がわかるのは儒学者であるが、その儒学者たるや志が浅く、大事を捨て置いて小事にこだわり、誰もがことなかれの世になってしまっている。今この現状において、ただ手をこまねいて、異国が侵攻するのを待つのだろうか。

解説
 『慎機論(しんきろん)』は、三河国田原藩の家老で、蘭学者でもある渡辺(わたなべ)崋山(かざん)(1793~1841)が、モリソン号事件に関連して、幕府の外交政策を痛烈に批判した書物です。西洋諸国の植民地政策が既にアジアに及んでいることを明らかにし、海防が喫緊の課題であるとすると同時に、排他的対外政策を批判する、「開国的海防論」とでも言うべき主張です。『慎機論』という書名は、対外政策を慎重にせよという意味でしょうか。
 天保八年(1837)、広東(かんとん)にあるアメリカの貿易会社オリファント商会の商船モリソン号が、北米とルソン島に漂着した日本人漂流民七人の送還を、日本と交易する契機にしようと来航したのですが、異国船打払令が発令されていたため、浦賀沖と薩摩湾で砲撃され、退去せざるを得ませんでした。漂流民送還の意図は、もちろん日本側は知りません。
 その時はそれで一件落着となったのですが、翌天保九年(1838)、オランダ風説書により、漂流民送還という来航事情のあったことがわかり、長崎奉行から漂流民送還の取扱いについて、幕府に伺い書が提出されました。これに対して老中水野忠邦は、評定所に対応を諮問し、評定所では今後も漂流民は受け取らず、モリソン号が再来航した場合は打ち払うという、答申案が決定されました。ところがこの機密情報が、尚歯会という知識人の私的な勉強会において、評定所の記録方(書記係)である芳賀市三郎が「評定所決議書」の写しを見せ、漏れてしまったのです。ただし最終的には、幕府はオランダ船による送還は、認めることにしています。
 世界情勢をかなり正確に理解していた高野長英と渡辺崋山は、これを知って大層驚いたのですが、事実誤認がありました。モリソン号は既に撃退されていたのですが、これから来航して漂流民が送還されること、またモリソンとはイギリス人の名前であると理解していました。「モリソン」は、もともとはオリファントというアメリカ人が広東に設立したオリファント商会が、イギリスから招いた宣教師の名前で、彼に因んでモリソン号と名付けられた船がありました。ですから「モリソン」は人名でもあり、船名でもありました。もっとも長英が著した『鳥の鳴音』には、「モリソン」が人名であり船名でもあると記述されていますから、事実を承知で人名にしたのかもしれません。
 高野長英はモリソン来航の情報を得ると、六日後には『戊(ぼ)戌夢物語(じゆつゆめものがたり)』を匿名で著しました。そこではイギリスが強国であるので、暗にイギリスと敵対すべきではないと説いています。ただし幕府批判は徹底せず、漂流民送還のために来航するのに、直ちに打ち払っては、「民を憐れまざる不仁の国」と思われてしまうではないかと、道義上の問題にすり替えてしまっています。尚歯会のメンバーには幕吏や藩士が多かったため、長英にしてみれば、外交政策を根底から批判することは、避けざるを得なかったのかもしれません。
 一方の渡辺崋山が著した『慎機論』の存在を、長英は知っていたらしいのですが、草稿のまま秘匿(ひとく)されていました。しかし開明的な蘭学者を憎悪し、密かに捕縛する機会を狙っていた目付の鳥居(とりい)耀蔵(ようぞう)(幕府の儒臣林述斎の三男)が、尚歯会に無人(ぶにん)島(小笠原島)渡航計画があるという口実で崋山らを捕縛し、幕吏が家宅捜索した際に、草稿が発見されてしまいました。なお尚歯会の一部が弾圧されたこの事件は、「蛮社の獄」と呼ばれていますが、「蛮社」とは「蛮学社中」の略語で、蘭学に批判的な者による尚歯会の蔑称です。
 家宅捜索された際に、『慎機論』は夥しい反故の中から発見され、取り調べた奉行所の役人も、読むのに苦労したという未定稿でした。写本として密かに写しとられて流布したのですが、本書に載せるのに、どの写本を選べばよいか迷う程、写本により文言に著しい相違があります。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『慎機論』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。












『京都守護職始末』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面 

2020-09-15 16:30:50 | 私の授業
京都守護職始末


原文
 我公(わがこう)、曩(さき)に病を勉(つと)めて、凝華洞(ぎようかどう)に宿衛せし以来、日夜神身を労する事多々なるに、七月十九日以降、或は徹宵(てつしよう)すること数夜、或は庭上に露営する等、頗(すこぶ)る労苦を極む。故を以て、事変鎮定するに及びて、病頓(と)みに重きを加ふ。
 九月二日、殿下、家臣神保利孝(としたか)を召し、主上には容保(かたもり)の病気甚(はなは)だ叡慮(えいりよ)を掛けさせらる。天下多事の今日、一日も早く全快の事、望ませられ候。依りて極内々にて煎薬菓子を賜ふ。越えて六日、殿下、又家臣を召し、主上、内侍所(ないしどころ)に出御(しゆつぎよ)ありて、容保が疾病(しつぺい)平癒(へいゆ)を祈らせ賜ひ、其(その)洗米を下賜せらる。但(ただし)此(この)事は極内々にすべしとなり。蓋(けだ)し此事、摂簶(せつろく)槐門(かいもん)に於てすら、古来稀有(けう)の殊恩たり。況んや武門に於てをや。真(まこと)に千古未曾有の恩遇なり。
 五日、聖上、我公が七月十九日の戦功を叡感(えいかん)あり。左の勅賞を垂(た)れ、御剣一口、[赤銅鳩丸(はとのまる)、金桐御紋、鞘梨子(なし)地(じ)、鍔(つば)金御紋散らしし]を賜ふ。
 「今度、長藩の士、暴挙に及び候処、速(すみやか)に出張し、凶徒を追ひ退け候段、叡感(えいかん)斜(ななめ)ならず候。之に依り御剣一腰、之を賜り候」
別紙
 「度々(たびたび)宿衛家来共(ども)にも、大儀に思(おぼ)し食(め)され候事」

現代語訳
 我が主君(松平容保(かたもり))は以前から病をおして、(宿舎の)凝華洞(ぎようかどう)に宿営して以来、日夜心身を労することが多かった上に、(禁門の変のあった元治元年)七月十九日以降は、徹夜すること数夜、或いは庭で露営するなど、すこぶる辛苦を極められた。そのために禁門の変を鎮定して以来、病は急に重くなられた。
 九月二日、関白殿下(二条斉敬(なりゆき)、徳川慶喜の従兄)が家臣の神保利孝(としたか)(会津藩家老)を召し出し、「主上(孝明天皇)は容保の病を殊の外(ほか)御心配になられ、天下の政情不安な今日、一日も早く全快するようにと望んでおいでになる。そのため極めて内々のことではあるが、煎薬と菓子を下賜された」と言われた。そしてさらに六日には、関白殿下が再び家臣を召し出され、「主上が内侍所(ないしどころ)(御神鏡を祀る宮中神殿)にお出ましになり、容保の病気平癒をお祈りになられ、(神饌の)洗米を賜った。ただしこの事は極秘にせよ」とのことであった。思うにこのような事は、摂政や大臣級の者に対してさえも、古来稀な特別の御恩寵である。まして武家に対してはなおさらのことであり、実に千年来、未だ嘗てない御恩寵である。
 五日、主上におかれては、我が主君が禁門の変で戦功を立てられたことをお悦びになられ、次のようにお褒(ほ)めの御言葉と御剣を賜った。(その御剣には)赤銅の鳩の丸と、金の桐御紋があり、鞘(さや)は梨地(なしじ)の蒔絵で、鍔(つば)には金の御紋があしらわれている。
 「この度(たび)は長州藩士が暴挙に及んだところ、速やかに出陣して凶徒を追い退けたことについて、主上はすこぶるお悦びになられた。これにより御剣一腰を賜る」。
また別紙には
 「度々(たびたび)宿営し警備に当たる(容保の)家臣達に対しても、御苦労なことであると思し召されておられるとのことである」。                       
解説              
 『京都守護職始末(きようとしゆごしよくしまつ)』は、会津藩主松平容保(かたもり)(1836~1893)に近侍した山川浩(ひろし)(1845~1898)が著したということになっている、松平容保(かたもり)の京都守護職在任中の詳細な記録です。
 会津藩の藩祖は、第三代将軍徳川家光の弟保科正之(ほしなまさゆき)ですから、代々徳川将軍家を支えることをもって藩是(はんぜ)としてきました。ですから幕末に最後の最後まで、佐幕の立場を貫いたわけです。そして藩主松平容保が京都守護職に任命されると、過激な尊王攘夷派の横行する京都の治安回復のため、藩を挙げてその任務に当たりました。孝明天皇は強固な攘夷思想の持ち主ですが、倒幕の意志は全くなく、松平容保に対する信頼は絶大なものでした。容保は文字通り身命を磨り減らしてその信頼に応えるのですが、突然に孝明天皇が崩御してしまうと、政局は一気に尊王倒幕へと転換します。そして明治維新となり、孝明天皇に忠勤を励んだがために、戊辰戦争においては、理不尽にもかえって朝敵とされてしまいます。
 明治二三年(1890)、武人としての功績により貴族院議員にまでなった山川浩は、九歳年下の弟の山川健次郎(1854~1931)と語り合うことがあり、京都守護職時代の諸事情を、ありのままに記録しておこうということになりました。兄の浩にしてみれば、主君松平容保が孝明天皇に忠勤を励んだために、朝敵とされてしまった事への無念、弟の健次郎にしてみれば、年齢が及ばないことから白虎隊員としては十分に活躍できず、会津若松城に籠城して生き延びたことへの呵責があり、山川兄弟の無念さは想像を絶するものでありました。
 しかし孝明天皇が松平容保に、古今例を見ない程絶大な信頼を寄せていたことが、宸翰(しんかん)(天皇直筆書翰)や御製(ぎよせい)という確かな根拠と共に公にされると、薩摩・長州藩を中心とした尊王倒幕運動は、孝明天皇の叡慮(えいりよ)(天皇の意志)に反したことになってしまいますから、藩閥政府にとっては看過できない、深刻な政治問題を引き起こす可能性がありました。何しろ文久三年(1863)の八月十八日の政変に際して、容保の尽力により長州藩を中心とした過激な尊王攘夷派を京都から退去させたことについて、「朕の存念貫徹の段、全く其の方の忠誠にて、深く感悦の余(あまり)、右一箱之(これ)を遣はすものなり」という天皇直筆の宸翰(しんかん)と、「たやすからざる世に武士(もののふ)の忠誠のこゝろをよろこびてよめる」という詞書に続けて、「和らぐも武(たけ)き心も相生(あいおい)の松の落葉のあらず栄へむ」、「武士(もののふ)と心あはして巌(いわお)をも貫きてまし世々の思出」という御製が、巻頭に墨痕鮮やかに写真で掲げられるのですから。政府は山県有朋を通して山川健次郎に圧力をかけ、経済的に困窮する松平家に三万円を下賜するという条件で、出版を断念させます。しかし元会津藩家老神保利孝の次男で、後に長崎市長となった北原雅長(まさなが)が著した『七年史』により、宸翰と御製の存在が公になると、今さら秘匿に及ばずとばかり、健次郎は断然出版を決意します。そして結局、明治四四年(1911)、著者は既に故人となっていた山川浩ということにして、会津藩有志に頒布という名目で上梓(じようし)されました。
 執筆材料を提供し、ある程度草稿をまとめたのは兄の浩です。浩は容保が京都守護職であった時は、藩主の側近として仕え、後に家老となっていますから、手許には詳細な資料が保存されていました。最終的に完成させたのは謙次郎なのですが、故人を著者とすることにより、批判をかわすことができます。また藩主松平容保と辛苦を共にしたのは兄浩であるという、弟謙次郎の兄に対する敬意もあったでしょう。
 ここに載せたのは、『京都守護職始末』下巻「聖上我公の平癒を祈らせ給ふ」の一部で、禁門の変後、孝明天皇が松平容保の容態を心配して、その平癒を神前に祈り、関白を通して御剣が下賜された場面です。一臣下の病気平癒について、天皇がこれ程まで親身になり心を砕いた例は稀なことです。
 それが孝明天皇崩御により、朝敵にされてしまいます。維新後、松平容保は亡くなるまで、「御宸翰と御製」を肌身離さず持っていました。抗弁したいことは山程あったでしょうが、じっと堪えて全てを呑み込み、徳川宗家の祖である徳川家康を祀る日光東照宮の宮司として、その生涯を終えました。

昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『京都守護職始末』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。





『平家物語』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2020-09-12 14:42:08 | 私の授業
平家物語


原文
 薩摩守(さつまのかみ)忠教(ただのり)(忠度(ただのり))は、いづくよりや帰られたりけん。侍(さぶらい)五騎、童(わらわ)一人、わが身共に七騎取って返し、五条の三位(さんみ)俊成(しゆんぜい)卿(きよう)の宿所におはして見給へば、門戸(もんこ)を閉ぢて開かず。「忠教」と名乗り給へば、「落人(おちうど)帰り来たり」とて、その内騒ぎあへり。薩摩守馬より降り、自ら高らかに宣(のたま)ひけるは、「別(べち)の子細候はず。三位殿(さんみどの)に申べき事あって、忠教が帰り参って候。門(かど)を開かれずとも、此の際(きわ)まで立ち寄らせ給へ」と宣(のたま)へば、俊成卿、「さる事あるらん。其人ならば苦しかるまじ。入れ申せ」とて、門を開けて対面あり。事の体(てい)、何となう哀(あわれ)なり。
 薩摩守宣(のたま)ひけるは、「年来(としごろ)申(もうし)承って後、愚(おろか)ならぬ御事に思ひ参らせ候へ共(ども)、この二三年は京都の騒(さわぎ)、国々の乱(みだれ)、併(しかし)ながら当家の身の上の事に候ふ間(あいだ)、疎略(そらく)を存ぜずといへども、常に参り寄る事も候はず。君既に都を出(いで)させ給ひぬ。一門の運命はや尽き候ひぬ。撰集(せんじゆう)のあるべき由(よし)承り候ひしかば、生涯の面目に一首なり共、御恩を蒙(こうぶ)らうと存じて候ひしに、やがて世の乱(みだれ)出(い)できて、其沙汰(さた)なく候条、たゞ一身の歎(なげき)と存ずる候。世しづまり候ひなば、勅撰の御沙汰候はんずらむ。是に候巻物のうちに、さりぬべきもの候はゞ、一首なりとも御恩を蒙(こうぶ)って、草の陰にても嬉しと存じ候はゞ、遠き御守(おんまもり)でこそ候はんずれ」とて、日比(ひごろ)詠みおかれたる歌共(ども)の中に、秀歌とおぼしきを百余首書集められたる巻物を、今はとて打立(うつた)たれける時、是を取って持たれたりしが、鎧(よろい)の引合せより取出(い)でゝ、俊成卿に奉る。
 三位是を開けて見て、「かゝる忘形見(わすれがたみ)を給りおき候ひぬる上は、努々(ゆめゆめ)疎略(そらく)を存ずまじう候。御疑あるべからず。さても唯今(ただいま)の御渡(おんわたり)こそ、情(なさけ)もすぐれて深う、哀(あわれ)も殊(こと)に思ひ知られて、感涙おさへがたう候へ」と宣(のたま)へば、薩摩守悦(よろこ)んで、「今は西海(さいかい)の浪の底に沈まばしづめ、山野に尸(かばね)をさら曝(さら)さばさらせ。浮世に思ひおく事候はず。さらば暇(いとま)申して」とて、馬にうち乗り、甲(かぶと)の緒(お)を締め、西を指(さ)いてぞ歩ませ給ふ。三位、後(うしろ)を遙(はるか)に見送って立たれたれば、忠教の声とおぼしくて、「前途(せんど)程(ほど)遠し、思(おもい)を雁山(がんざん)の夕(ゆうべ)の雲に馳(は)す」と、高らかに口ずさみ給へば、俊成卿いとゞ名残(なごり)惜しうおぼえて、涙を抑(おさ)へてぞ入り給ふ。
 其後(のち)、世しづまって千載集を撰ぜられけるに、忠教のありし有様、言ひ置きし言の葉、今更思ひ出でゝ哀なりければ、彼(か)の巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれ共、勅勘(ちよくかん)の人なれば、名字(みようじ)をば顕(あらわ)されず、故郷の花といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、「詠人(よみびと)知らず」と入られける。
  さゞなみや志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな

現代語訳
 薩摩守忠教は、(都落ちした後)どこからお帰りになられたのか。侍五騎、近侍(きんじ)の童一人、御自身と合わせて七騎で引き返して来られ、五条にある藤原俊成卿の屋敷においでになって御覧になると、門が閉じられて開かない。「忠教が参りました」と名乗られると、「落人が帰ってきた」と、屋敷の中では騒ぎ合っている。薩摩守は馬から下り、「特別の事でございませぬ。三位殿(藤原俊成)に申しあげたいことがあり、忠教が戻って参りました。門をお開けにならなくとも、このそばまでお寄り下さいませ」と、自ら大声でおっしゃったので、俊成卿は、「そういうこともあるかと思っておりました。その御方ならば差し支えないので、お入れ申しなさい」と言って、門を開けてお会いになられる。その様子は、何とも言いようがなく感慨深いものであった。
 薩摩守がおっしゃるには、「ここ数年、(和歌を)教えていただいて以来、三位殿をなおざりに思ったことはございません。ただこの二三年の都の騒ぎや国々の争乱は、全て平家の身の上のことでございますので、三位殿を疎略に存じていたわけではございませぬが、いつもお伺いすることもかないませんでした。帝(みかど)(安徳天皇)はすでに都をお出になられました。平家一門の運命はもはや尽きてしまいました。勅撰和歌集が編纂されるとのお話を承りましたので、生涯の面目のために、たとえ一首なりとも御恩により撰に入れて頂きたく思っておりましたが、そのうち世の乱れ(源平の争乱)が始まり、編纂の御指図がないことは、我が身の嘆きとするところでございます。いずれ世が静まりますならば、和歌集編纂の勅命もございましょう。ここにございます巻物の中に、勅撰集にふさわしい歌がございますならば、一首なりとも御恩により入れていただければ、草葉の陰(あの世)からも嬉しく存じ、遠くから三位殿をお守り申し上げましょう」と言って、日頃から詠まれた歌の中から、秀歌と思われる歌を百余首書き集められた巻物で、今はもうこれまでと思い都を出る時にお持ちになられたものを、鎧の引き合わせから取り出して、俊成卿に差し上げられた。
 俊成卿はこれを御覧になり、「このような忘れ形見を頂きましたからには、決して疎略にはいたしませぬ。御安心下さいませ。それにしてもただ今のお越しは、風流な心も格別に深く、しみじみと心にしみて、涙を抑えることができませぬ」とおっしゃると、薩摩守は喜び、「今はもう西海の波の底に沈むのならそれもよし、山野に屍(しかばね)をさらすのならそれもまたよし。この憂き世に思い残すことはございませぬ。それではお暇(いとま)申し上げます」と、馬に跨(また)がり甲の緒を締め、西に向かって馬を歩ませなさる。
 俊成卿が薩摩守の後姿を遠くまで見送ってお立ちになっていると、薩摩守とおぼしき声で、「前途程遠し、思いを雁山の夕べの雲に馳す」(これからの旅路は遠いが、途中あの雁山を越える夕べの雲に思いを馳せる)と高らかに口ずさまれるので、俊成卿もますます名残惜しく思われて、涙を抑えて門の中にお入りになられる。
 その後、世が静まり、俊成卿が『千載和歌集』を編纂される時に、薩摩守忠教のその時の様子や、言い遺(のこ)された言葉を思い出し、改めてしみじみと思われたので、例の巻物の中には勅撰集にふさわしい歌は幾らでもあるものを、天皇のお咎(とが)めを受けられた人であるため、名前を明らかにはなさらず、「故郷の花」という題でお詠みになられた歌一首を、「よみ人しらず」として入れられた。
 志賀の古い都は今はもう荒れ果てているが、長等山(ながらやま)の山桜は、昔ながらに美しく咲いていることよ

解説
 『平家物語(へいけものがたり)』は、平家の繁栄と没落を、「諸行無常」「盛者必衰」の理念により叙述した軍記物語です。『徒然草』二二六段には、信濃(しなのの)前司(ぜんじ)(信濃前国司)行長が作者であると記されていますが、成立した十三世紀よりかなり後の記述であり、確証はありません。
 ここに載せたのは、「忠教(忠度)都落ち」の場面で、平忠教は平清盛の異母末弟です。忠教の和歌の師である藤原俊成は、寿永二年(1183)に後白河上皇から勅撰和歌集撰進の命を受けたのですが、源平の争乱により編纂はなかなかはかどらず、ようやく文治四年(1188)に『千載和歌集』となって撰進されます。俊成は約束に違(たが)わず、忠教の歌を「詠み人知らず」として一首だけ採りました。もっとも忠教の歌は、勅撰和歌集全体では、合計十一首も入集しています。
 収録された歌の「さざなみの」は「志賀」に掛かる枕詞で、「ながら」は地名の「長等」に「昔ながら」を掛けています。「志賀の都」とは天智天皇の近江国大津宮のことで、天武天皇の頃には、既に荒れ果てていました。忠教が参考にしたと思われる歌があります。「右衛門督(うえもんのかみ)家成歌合」(1149年)における藤原隆長(清輔)の「さゞ波や志賀の都は荒れにしをまたすむものは秋の夜の月」という歌なのですが、上句は一致しますから、下句で秋の歌から春の歌に仕立て直したわけです。
 忠教は後に一の谷の戦いで、武蔵国の岡部忠澄(ただすみ)に四一歳で討たれます。『平家物語』には、忠澄が忠教を討ち取ったと叫ぶ名乗りを聞いて、敵も味方も「あないとほしや、武芸にも歌道にもすぐれて、よき大将軍にておはしつる人をとて、皆鎧の袖をぞぬらしける」と惜しんだと記されていますから、文武に優れていたことが、東国にも知れ渡っていました。
 岡部忠澄が忠教を討ち取った時、箙(えびら)(矢を入れて背中に負う武具)に「旅宿花」と題した「行き暮れて木の下かげを宿とせば花や今宵のあるじならまし」という歌が結び付けられていました。もはや生き延びるつもりはなかったでしょうから、辞世の歌のつもりです。しかしそれにしても、死を覚悟した悲壮感は微塵もありません。死を見ること故郷に帰るが如き、憂き世の迷いを超越した境地だったのでしょう。
 なお「前途(せんど)程(ほど)遠し、思(おもい)を雁山(がんざん)の夕(ゆうべ)の雲に馳(は)す」の詩は、延喜八年(908)、渤海からの使者が帰国する時に、大江朝綱が別れを惜しんで詠んだ漢詩の一部で、それを忠教が知っていたというのですから、文武両道の器量人だったのです。また現在では、「忠教」より「忠度」の方がよく知られています。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『平家物語』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。