うたことば歳時記

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花見の歴史

2017-07-30 21:21:16 | 歴史
花見の起原については、「サ神信仰」起原説というものがネット上に氾濫しています。古事記や日本書紀よりも古くから、「サ」と呼ばれる神を信仰していた。そしてサ神は桜の木に宿るので、人々はサ神を供御でもてなすために、桜の木のしたで宴を行った。これが花見の起原である、というのです。

 しかし根拠となる文献史料は皆無です。それがいかに出鱈目なものであるかは、「花見の起原 出鱈目なサ神信仰説」という題で公表してありますから、詳しくはそちらを検索して下さい。
 
 私は一応は日本史を学んで来ましたから、文献史料の裏付けのあることに限って、花見の歴史をほんの少しだけ振り返ってみます。 

 
 『万葉集』には約40首の桜を詠み込んだ歌があります。作者は桜のつもりでただ単に「花」と詠んでいるものも含めば、もっと多くなるはずです。そこにはサ神信仰はその片鱗さえ見当たりません。それどころか桜を霞に見立てたり、花の一枝を髪に挿して喜んだり、恋しい女性に見立てたり、散ることを惜しんだり、私たちが桜に対して懐いていることと同じ気持ちで花を楽しんでいます。ただし桜の花の下で多くの人が飲食を楽しむような、「花見」があったと推測できる歌はありません。
 
 宮廷行事としての花見の宴は、文献上は嵯峨天皇の弘仁三年(812年)に行われています。天皇が神泉苑に行幸されたことを、「花宴の節、これに始まるか」と、宮廷の花の宴の最初であるとしています。平安時代の宮廷の花の宴の様子は、『源氏物語』をはじめとして多くの文献に記録がありますが、それらを総合してみると、およそ次のようなものです。天皇は建物の南に面する庇(ひさし)の下に坐り、親王や公卿たちは建物の周囲にめぐらされた簀子(すのこ)に坐り、文人たちは桜の花の下に設けられた席に坐ります。そこで天皇から詠むべき題が与えられ、詩歌が献上されます。それに対して天皇から褒美(ほうび)が与えられ、管弦の楽が奏され、また舞が披露されたりもします。

 また平安時代の貴族たちはまずは遠山桜を霞や雲や雪に見立てて楽しみ、花見のために郊外に出かけ、花の下に宴を設けて楽しみました。桜は本来は野生でしたから、梅のように庭に植えて楽しむ花ではなく、郊外まで出かけて見る花でした。「軒端の梅」はあっても、「軒端の桜」という表現はなかったのです。桜を詠んだ古歌の中で最も多いのは、散ることを惜しむ歌ですが、惜しみつつも散ることの美しさを喜んでいる様子がうかがえます。そして散る花に人の世の無常を感じ取りました。自然の移ろいに人の心を重ねて理解するのは、古歌にはしばしば見られることです。

 中世になると、花見は武士階級にも広まりました。鎌倉幕府の日誌風歴史書である『吾妻鑑』には、しばしば花見の宴が催されたことが記録されています。室町時代には幕府は京の都に置かれていましたから、さらに直接に公家文化の影響を受けました。鎌倉時代末期の『徒然草』の137段には、風情のわかる「よき人」と、それがわからない「片田舎の人」の花見の様子の違いが説かれています。「風情を理解する人は、ひたすらに面白がるような様子でもなく、のどかに愛でている。しかし田舎者は騒いだり酒を飲んだり、挙句の果てには枝を心無く折ってしまい、遠くから眺めて楽しむということをしない」と、かなり手厳しいのですが、地方にも花見の風習が広まっていることを示す文献史料として意味があります。

 室町時代になると、花見の宴で連歌を楽しんだり、各地のお茶の産地を伏せて飲み比べ、産地を当てる「闘茶」という賭け事が行われるようになりました。以前の花見より集団で楽しむという要素が強くなっています。

 桃山時代には太閤秀吉が催した吉野山の花見や醍醐の花見が知られています。万事派手好きの秀吉の性格もあり、政治的な意味のある花見が大規模に行われましたから、諸大名もそれぞれの領地でそれを模範に花見を催したことでしょう。権力者の趣味はそのまま裾野の方へ伝染して行くもので、それは江戸時代にも受け継がれました。

 江戸時代には、大名はその屋敷の庭園に桜を植えて楽しみましたが、その影響で庶民も普通に花見を楽しむようになります。江戸の上野にある寛永寺は、徳川家の霊廟として一般人の立ち入りはできませんでした。しかし第3代将軍徳川家光の頃には、花の時期には一般庶民の立ち入りも認められるようになりました。江戸の市民は寛永寺の東照宮の脇に毛氈や花筵を敷き、弁当や茶を飲み食いして花見を楽しんでいました。しかし場所が場所だけに酒や歌舞音曲は禁止され、日没後の暮六つの鐘までに退出しなければなりませんでした。東京の花見の名所といえば、今でも上野が有名ですが、も元はといえば上野の寛永寺に始まっていて、江戸時代以来というわけです。

 第8代将軍徳川吉宗は、江戸の飛鳥山・隅田川堤の向島・品川の御殿山・小金井堤など、江戸の各地に桜を植えさせました。特に王子の飛鳥山には多くの桜・楓・松を移植させ、飛鳥山全体に芝を貼らせました。飛鳥山は神田から約8㎞の距離にあり、周辺には今では想像もできない渓谷や滝が多く、酒や音曲の制限もなく、江戸の市民が日帰りで花見を楽しむには格好の場所でした。その他にも玉川上水沿いの小金井堤や、品川御殿山、隅田川堤などは、現在も東京の桜の名所として知られています。江戸市民の娯楽のために各所に桜を植えることも、享保の改革の都市政策だったのです。日本人がこぞって花見を楽しむ風習が根付いたのには徳川吉宗によるところが大きく、庶民の花見が盛んになったのは江戸中期以降のことです。江戸時代の人に「サ神」という神を知っているかと問えば、誰一人として知っていると答えることはないでしょう。

 ただここで確認しておきたいのは、現在全国的に最も多く咲いているソメイヨシノは、江戸時代にはまだなかったことです。ソメイヨシノが品種改良によって作り出されたのは江戸末期から明治初期ですから、江戸時代の桜は、大雑把(おおざつぱ)に言えばみないわゆる山桜なのです。山桜は花が咲くのと葉が伸び始めるのがほぼ同時期ですから、ソメイヨシノとは少々風情が異なります。ですから古の花の風情を楽しみたい場合には、山桜でなければなりません。しかしソメイヨシノの絢爛(けんらん)さも捨てがたく、それぞれに楽しめばよいことでしょう。 

 現在の花見の行事食は、特定のものがあるわけではありません。しかし江戸時代には桜餅が欠かせませんでした。現在の桜餅には関東風の長命寺餅と関西風の道明寺餅があり、どちらも江戸時代に起原があります。長命寺餅は、小麦粉や上新粉をといた生地を薄く伸ばして軽く焼き、丸めた小豆餡を包み、塩漬けにした桜の葉でくるんだものです。隅田川に近い向島の長命寺の側の「山本や」で最初に売り出されたため、この名があり、山本やは今も桜餅の老舗(しにせ)としてよく知られています。その隅田川の土手には、8代将軍徳川吉宗が桜の木を植えさせて以来、桜の名所として賑わっていましたから、隅田川堤花見の名物としてよく知られていました。ただし関東の人は、かえって「長命寺餅」と言われてもわからないかもしれません。桜餅と言えば、以前は関東にはこのタイプのものしかなかったからです。

 一方、関西風の桜餅は、道明寺粉で作った餅で小豆餡を包み、塩漬けの桜の葉でくるんだものです。道明寺粉とは、糯米(もちごめ)を蒸して乾燥させてから臼で粒子状にしたもので、古くは携帯用食料として「乾飯(ほしいい)」(糒)として重宝されていました。鍋釜がなくても、湯水に浸しておけばすぐに食べられたからです。大坂の道明寺(現 藤井寺市)が発祥地であるため、この名があります。道明寺餅は表面が糯米(もちごめ)の粒で覆われていますから、長命寺餅との区別は一目瞭然です。最近は関東でも道明寺餅をよく見かけるので、同じ桜餅でも発祥の地の違いが意識されることがなくなりつつあります。


鰻の蒲焼き

2017-07-26 17:08:51 | その他
 昨日は土用の丑の日で、店頭には鰻がたくさん並んでいました。去年よりは安いそうですが、私にとっては高くて、今年もとうとう手が出ませんでした。中国産では何が入っているかわかったものではないので、いくら安くても買う気にはなりません。大学を卒業して、イスラエルのキブツで生活していた時、鯉の養殖池で働いたことがあります。その池では50㎝以上もある巨大鰻がいるのですが、ユダヤ人は宗教的な理由で鱗のない魚は絶対に食べません。烏賊(いか)や蛸も同様の理由で絶対に食べません。しかし日本人が鰻を好んで食べることを知っていましたから、網にかかるといくらでももらえました。醤油は手に入りますから、味醂のかわりにワインを使い、蒲焼きらしきものを作って食べたものです。大皿に山盛りにして、もう勘弁してくれと言う程食べました。あれから40年、鰻らしい鰻を食べたことは、片手に余る程度しかありません。

 それにしてもなぜ「蒲焼き」と言うのでしょうか。江戸時代の文献をいろいろ漁ってみました。嘉永元年(1848年)に出版された『近世事物考』には、次のように記されています。「 蒲燒、当世うなぎをさきて燒たるをかばやきといふ、其製昔とはかはれり、昔は鰻を長きまゝ丸でくしに竪にさして、鹽を付燒たるなり、その形河辺などに生たる、蒲の花のかたちによく似たる故に、かまやきとは云しなり、今世の製はいと近き頃より初る、今の形にては名義に叶はねども、名は昔のまゝに呼ぶなり」と。昔は鰻を長いまま串刺しにして焼いていた。その形が蒲(がま・かば)に似ているので、かまやきと呼んだ。現在の形になったのは最近のことで、形が変わっても名前は昔のままに呼んでいる、というわけです。

 万延二年(1861年)に出版された『傍廂』(かたびさし)という随筆には、「かまぼこ かばやき 蒲燒も鱣の口より尾まで、竹串を通して塩焼にしたるなり、今の魚田楽の類なり、さるを今背より開きて竹串さしたるなれば、鎧の袖、草摺には似れど、蒲の穗には似もつかず、名義を失へれど、味は無雙の美味となれり、これはいにしへにも遙にまされり、わきてこの大江戸なるを極上品とせり」と記されています。蒲焼きとは、竹串を鰻の口から尾まで刺し通し、塩焼きにしたもので、魚田楽のようなものである。しかし現在は背開きにして竹串を刺しているので、鎧の袖や草摺に似ていて、ガマの穂には似ていない。名前の意味は失われてしまったが、味は並ぶ物がない程に美味い、と言うわけです。『傍廂』という書物は、考証に難があり、今一つ史料として信用できない部分もあるのですが、取り敢えずここでは信じておきましょう。

 文化四年(1817年)の『瓦礫雑考』には、焼ける匂いが早く広まるので「香疾」(かばやき)というと言う説があるが、それは誤りである。また焼けた時の色が樺(かば、樹皮を樺細工に用いる山桜の一種)の皮に似ているからというのも憶説である。『大草家料理書』という極めて古い料理書の記事に拠りつつ、丸のまま焼いて、後で切ること、醬油と酒とを混ぜた垂れか、または山椒味噌つけて食べることなどが説かれています。『大草家料理書』は室町時代の料理書ですから、蒲焼きの基本は早くもその頃にはできていたことがわかります。早くも山椒を付けていたというのは驚きですね。

 『東海道名所記』という江戸初期の旅行記の巻二には、ぶつ切りにして串刺しにされたた蒲焼きが大皿の上に3本載っている挿図があります。国会図書館のデジタル画像で簡単にみられますから御覧下さい。これを見ると、まだ開いていないように見えます。

 他にも江戸時代の記録があるのですが、だいたい同じようなものです。これらを総合してみると、はじめは丸のまま蒲の穂のように串刺しにして焼き、それを切っていたようですが、次第に少し短めに切ってから串刺しにするようになった。そして江戸の後期には背開きにして櫛を刺し、醤油や味醂を混ぜた垂れ、あるいは味噌を付けて食べるようになっていたということになるでしょうか。

 蒲焼きという呼称については、「香疾」説はどう考えてもこじつけ臭く、焼け色が樺の皮に似ているというのも、否定されていますから、蒲の穂に似ていることによるという説でよいのではと思います。「蒲」は普通は「がま」と読みますが、源範頼が遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため、蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)とも呼ばれたことでもわかるように、「かば」とも読まれていましたから、これが一番自然な理解だと思います。

 なお関東では、切腹した鰻では縁起が悪いという武士の意地から、背開きにしていた。関西では腹開きであったと説明されることが多いのですが、確かに江戸時代には背開きがあったことは事実です。しかし切腹した魚を嫌うのであれば、なぜ鰻だけなのか説明が付きません。話としては面白いのですが、後で付けた理屈だと思います。腹開きにすると、技術的に串刺しにしにくいというのが実際の理由ではないでしょうか。ちなみに現在は天竜川辺りで、背開きと腹開きの境界があるそうです。

 

花見の起原(出鱈目なサ神信仰説)

2017-07-22 09:59:50 | 年中行事・節気・暦

 愛ずべき花は桜に限ったわけではないのに、日本で「花見」と言えば、桜の花見と決まっている。それだけ桜には思い入れが深く、日本の国花となるのも納得できよう。個人的な趣味による花見ではなく、風習・文化としての花見の起原について調べてみると、ネット情報では必ずと言ってよい程、「サ神信仰」という壁に突き当たる。日本では原始時代以来「サ」と呼ばれる神が信仰されていて、桜はそのサ神が宿る神聖な樹木であるというのである。この桜が神と密接な関係を持っているという説は柳田国男に始まり、その弟子の早川孝太郎・和歌森太郎・折口信夫、またその弟子の桜井満らによって整えられ、西岡秀雄著『なぜ日本人は桜の下で酒を飲みたくなるのか』という本によって一気に拡散された。
 柳田国男は、「私の一つの仮定は、神霊が樹に依ること、大空を行くものが地上に降り来らんとするには、特に枝の垂れたる樹を選ぶであろうと想像するのが、もとは普通であったかといふことである」と述べているが、正直に「仮定・想像」であることを認めている。(『柳田国男全集』二十二、「信濃桜の話」)。折口信夫は、「桜は・・・・一年の生産の前触れとして重んぜられたのである。花が散ると、前兆が悪いものとして、桜の花でも早く散つてくれるのを迷惑とした。桜を植えるのは観賞ではなく実用的な占いのためであり、花が早く散ると前兆が悪いものとして、花が散るのを惜しんだ」と述べ、(『折口信夫全集』二「花の話」)、桜を「物の前触れ」と理解した。遠くから花の咲き方を見て稲の稔りを占うからであるという。
 桜井満はその著書『花の民俗学』で次のように言う。「サクラという名は穀神の宿る木をあらわしている。稲を植える月をサツキ(五月)といい、田植えに必要な雨はサミダレ、田に植える苗はサナエ、植える女性はサオトメという。そうして田植えの終わりをサノボリといって田の神の祭りをする。こうしたことばが明らかなように、サというのは稲の霊の名である。クラは神座(かみくら)のことである。その花は稲の霊の現われとみられたのだ。冬ごもりの生活から春を迎えて、山のサクラの咲きぐあいを見て秋の稔(みの)りを占い、その花に稲の霊を迎えてきてまつり、田植えをするのであった。サクラの花の咲きぐあいは一大関心事だったから『花見』の民俗が伝わるのである」、と。まことに見事な仮説である。
 和歌森太郎は、その著書『花と日本人』で次のように言う。「民俗学では、サツキ(五月)のサ、サナエ(早苗)のサ、サオトメ(早乙女)のサはすべて稲田の神霊を指すと解されている。田植えじまいに行う行事が、サアガリ、サノボリ、訛ってサナブリといわれるのも、田の神が田から山にあがり昇天する祭りとしての行事だからと考えられる。田植えは、農事である以上に、サの神の祭りを中心にした神事なのであった。そうした、田植え月である五月にきわだってあらわれるサという言葉がサクラのサと通じるのではないかとも思う。・・・・桜は、農民にとって、いや古代の日本人のすべてにとって、もともとは稲穀の神霊の依る花とされたのかもしれない。」、と。確かに五月の農事に関係して「サ」という接頭語がたくさんあることは事実であり、また不思議なことでもある。しかしそれがなぜ一気に季節が大幅にずれるサクラに飛躍するのか、何一つ根拠が示されていない。和歌森太郎は「サという言葉がサクラのサと通じるのではないかとも思う。・・・・稲穀の神霊の依る花とされたのかもしれない。」というだけであって、閃きに過ぎないことを自ら認めているではないか。
 これらの民俗学者は、誰一人として具体的でかつ批判に耐えうる古代の文献史料を提示していない。古代の花見といえども立派に歴史の一部なのであるから、確実な根拠の裏付けが必用なのであるが、まるでその必要性を認めないかのように自説を展開しているのである。これでは後学の者は再検証をすることもできず、師説としてありがたく頂戴するほかはなくなってしまう。そしてこれらの論説を読んだ人は、本人が仮定や想像であると認めているにもかかわらず、伝言ゲームのように、最後の「思う」は無視して断定的な説として受け取り、拡散してゆくのである。  
 「サ神説」を提唱したのは民俗学者の早川孝太郎で、昭和十七年の頃という。その「サ神説」をさらに発展させた西岡秀雄著『なぜ日本人は桜の下で酒を飲みたくなるのか』やそれに賛同するネット情報には、サ神信仰についてさらに尾鰭が付けられ、およそ次のようなことが語られている。『古事記』『日本書紀』に記されている神々とは別に、それより古くから「サ神信仰」というものがあった。国名のサガミ・サヌキ・サド・サツマ・トサ・カズサ・シモフサ・ワカサなどはその名残である。「サカキ」・「サケ」・「サクラ」・「サツキ」・「サナエ」・「サオトメ」の「サ」は全て稲の神霊を指すものである。「シャガム」という言葉は、サオガム(サ拝む)からシャオガム、さらにシャガムと変化し、サ神を礼拝する姿勢から生まれた言葉である。福島・新潟・山形県あたりで林業で生活する人々が、今でも山の神を「サガミ様」と呼んでいる。サ神は田の神・稲の神・穀霊であり、田植えの頃里に山から降りて来て、サクラの木に宿り、耕作が終わると山へ帰る。サクラは稲の神を迎える依代(よりしろ)、つまり穀霊の籠もる花として、農耕生活において重要な花と理解されていた。田植とほぼ同じ時期に咲くサクラのサはそのサ神のことであり、クラは神座の意味で、サクラとはサ神のよるサクラ(サ座)という意味である。桜の花が早く散ると、神の力が衰えて凶作になるので、農民はサクラの花の下で酒宴を催し、歌や舞でサ神をもてなして桜が散らないよう神に祈る。これが花見の起源である。花見はそのような神事であった。このような信仰が受け継がれ、日本人は「花」と言えば無条件で桜を連想し、いまだに花見を楽しんでいる、というのである。
 しかし近世から現代の民俗的伝承や事象を奈良時代以前に無批判にそのまま当てはめて、『古事記』『日本書紀』以前の時代に「サ神信仰」が存在したことの根拠とすることは、研究の方法としてはあまりに乱暴である。中には縄文時代まで遡らせている記述もあり、こうなるともう信仰の世界である。民俗学的伝承の決定的欠点は、どこまで遡れるのか検証の方法がないということである。林業従事者の中には、山の神を「サガミ様」と呼んでいる人がいるというが、それが古代にまで遡り、また稲の神霊であるということを証明するなど不可能である。そもそも昔の田植えは旧暦の五月、つまり現在の六月であって、桜の咲く時期より一~二カ月も遅い。常識で考えてもわかりそうなものだ。現代の民俗学者でさえ、サ神信仰や折口・和歌森達が提唱したことは証左となることに乏しく、検証のしようがないことを率直に認めている。それにもかかわらずネット情報の筆者達は、まことしやかにまるで見てきたかのように、サ神信仰と桜の関係を得々として語るのである。百歩譲って、原始時代にサ神信仰があったとしよう。しかしそれなら千数百年間、どこかに何かの形でその片鱗が文字史料として残っていてもよいではないか。それが何一つ残っていないのである。「サ神信者」の反論を聞いてみたいものである。
 『万葉集』には約四十首の桜を詠み込んだ歌がある。作者は桜のつもりでただ単に「花」と詠んでいるものも含めば、もっと多くなるであろう。それらを含めて桜や花を詠んだ歌を全て丁寧に読んでみたが、サ神信仰や稲の稔りを占うような歌は一首もない。それどころか桜を霞に見立てたり、花の一枝を髪に挿して喜んだり、恋しい女性に見立てたり、散ることを惜しんだり、現代人が桜に対して懐いていることと同じ気持ちで花を楽しんでる。花見の起原を探るというなら、まずは素直に『万葉集』の桜の歌を読むべきである。もうそろそろ「サ神」の呪縛から覚醒してもよい頃であろう。
 平安貴族の花見の宴について、和歌森太郎はその著『花と日本人』において、「(貴族達は)地方民間で農事的宗教儀礼として行われていたものを、自分たちなりに洗練させ、優雅なうちにも、相互の睦みを深める機会として、華の宴を催すように受けとめた・・・・」と述べている。(第三章 農事から貴族の宴へ)。しかし貴族の花の宴は農民の宗教儀礼に倣ったわけではない。むしろその逆方向である。奈良時代に梅の花を愛でる宴が唐から大宰府に伝えられたことは、『万葉集』に大宰府の官人達の観梅の歌が集中していることからも証明できる。それが後に日本人の花の好みが梅から桜に替わっただけのことである。また庶民の歌も多く含まれる『万葉集』に、庶民が宗教的儀礼として花見をしていたことを示す歌もない。

「御中元」の起原

2017-07-20 13:38:06 | 年中行事・節気・暦
 中元は日本では一般に「御中元」と称して、7月15日頃に御世話になった人へ感謝の贈り物をすることを指すようになっています。しかし本来は中国の土俗的宗教である道教の「三元」と呼ばれる節日の一つでした。三元は上元(1月15日)、中元(7月15日)、下元(10月15日)からなっているのですが、それぞれの日は、道教の神の一つである「三官大帝」と呼ばれる天官・地官・水官の誕生日とされました。そして三神のうち、上元である1月15日には天官が人界にに降臨して人々に福をもたらし、中元である7月15日には地官が降臨して人々の罪を許し、下元である10月15日には水官が降臨して人々の厄を祓うと信じられていました。この三神の信仰は後漢時代には確認されていています。これらの三元の信仰の中では、中元だけが日本に伝えられ、同じ7月15日に行われる盂蘭盆会と習合して定着しました。

 盂蘭盆会は亡くなった父母や祖先の霊を迎えて供養する仏事ですが、健在している親を「生身霊」(いきみたま)と称し、感謝してもてなす風習がありました。天明三年(1783年)に出版された季語の解説書である『華實年浪草』には、およそ次のようなことが記されています。「七月に公家や武家の家では、生身霊(いきみたま)、生盆と称して、父母に蓮飯や刺鯖を供えてもてなすことが行われる。一般庶民の間でも同様である。また親戚の間でも相互にこれらを贈って祝う。『和漢三才図会』によれば、刺鯖は中元の日の祝いである。鯖を背開きにして(塩干しにしたもので)二尾を一連とした干物で、能登産が最上、越中産がこれに次ぐ。蓮の葉で糯米(もちごめ)を包んで蒸した蓮飯は、亡き父母の霊前にも供えるが、親戚にも贈るのが礼儀である。これを『いきみたま祭』という。また『閑窓倭筆』には、我が国の七月の風習として、『生身霊』と称して健在するする父母を供養することも、盂蘭盆の修行となる、と記されている。」というわけです。このような風習は、七夕の7月7日もに行われることもありました。旧暦ならば七夕の一週間後には盂蘭盆が始まりますから、両者の風習が習合してしまった結果でしょう。中には「鯖代」と称して、鯖の干物ではなく、現金を贈ることもあったようです。このような生身霊の風習は、室町時代の公家の日記にも見られますから、その頃からの風習と見てよいでしょう。

 このように盂蘭盆には、両親はもちろんのこと、普段から世話になっている親戚に蓮飯や刺鯖を贈って感謝の意を表すことが行われていましたが、7月15日は人の罪を許す慈悲の神である地官を祀る日でもあったため、生身霊の風習と許しを請う中元の信仰が習合し、この日に普段から御世話になっている人に対してものを贈って、平素に無沙汰をしている非礼を謝罪するとともに感謝の贈り物をもって挨拶に行く風習が生まれました。これが現在のいわゆる「御中元」の起原となりました。このような風習は明治以後にも継続されますが、遠く離れている人へも送るようになるのは、もちろん郵便制度や宅配便の制度の発達に伴うことであるのは言うまでもありません。現在の御中元商品を並べる売り場には、素麺が定番として置かれていますが、素麺は七夕や盂蘭盆会の行事食ですから、御中元の品として大変に由緒のある物と言うことができるでしょう。また7月15日がそもそもの中元の日ですから、お贈りするならこの日までに送るのが本来の在り方ということができます。





重陽の節句

2017-07-17 20:57:01 | 年中行事・節気・暦
重陽の節句

 若い人に9月9日は何の日かと尋ねると、救急の日という答えが返って来るかもしれません。もちろん間違いではないのですが、歴史的には「菊の節句」とか「重陽の節句」と呼ばれました。必要とされる日には間に合わず、遅れて調達されることを「六日のあやめ、十日の菊」と言うのですが、この諺も説明しないとわかってもらえなくなってしまいました。重陽の節句は、江戸幕府が式日として定めた五節句の中でも、特に盛大に祝われていたのですが、現在ではすっかり影が薄くなってしまいましたね。新暦の9月9日には菊の花が咲いていないこともあるからでしょうか。生花店には一年中菊の花は並んでいるのに、葬儀用の花という印象が強くなってしまったからでしょうか。そもそも「重陽」という言葉がわかりにくいということもあるでしょう。

 陰陽思想では、あらゆるものに陰と陽があり、互いに補完しつつ万物が成り立っていると説明されます。陰の力と陽の力は決して対立する関係ではないのですが、言葉の印象だけが先行して、一般には陽は吉であり、陰は凶であると理解される傾向があります。数字では奇数は陽、偶数は陰とされ、陽の数が重なる日、つまり1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日には、古来節会が行われてきました。ただし江戸幕府が1月7日を「人日の節句」として五節句に指定したため、一般にはこれも節句として数えられています。これらの節句の中では、9月9日は最大の奇数である9が重なることから「重陽の節句」と呼ばれてきました。そして中国語では九九は久久に、また重九が長久に音が通じることから、陽の重なる節句の中でも特に重視されていました。しかし陽が重なることはある面で大いに「吉」なのですが、陰陽道では陽の力が極まると一転して陰となり、またその逆にもなると考えます。そこで陽が重なる日は「吉」であると同時に、十分に行動に気を付けなければならない日でもあったのです。節句がいずれも陽の重なる日であるということは、一転して生じる邪気を避けようという意味もあるわけです。

 重陽の節句の起原については、『荊楚歳時記』には次のように記されています。難しい漢文なので、現代訳にしてみました。「『続斉諧記』(5~6世紀に中国南朝の梁で活躍した呉均が著した怪異小説集)には、次のように記されている。(後漢の時代)、汝南(じょなん)という所にいた桓景という者が、費長房という道教の師に随って長年学んでいた。ある日、師の長房は「九月九日、おまえの家にはきっと災難があるだろうから、急いで戻れ。家族もみな各々絳(あか)い嚢(ふくろ)を作り、茱萸(しゅゆ)の種を入れ、それを臂(ひじ)に繋(か)け、高い山に登って菊酒を飲めば、この禍(わざわい)は消え失せるだろう」と言った。家に戻ってみると、家畜の鶏・犬・牛・羊がみな死んでいた。長房はこれを聞いて、身代わりになったのだと言った。今世の人が九日に至るごとに、山に登り菊酒を飲み、茱萸嚢を身に帯びるのは、この故事に拠っている。」と。

 茱萸は「ぐみ」とも読み、一般に赤く小さな実の成る果樹と誤解されがちですが、ここで言う茱萸はそれとは異なり、蜜柑の仲間の呉茱萸(ごしゅゆ)と呼ばれるもので、和名はカワハジミといいます。その実には芳香があり、解熱、鎮痛、消毒、頭痛、 強心など、幅広く薬効があるとされていました。まあ不老長寿の仙薬といったところでしょうか。平安時代には、端午の節句の時に柱に懸けた薬玉を、重陽の節句で茱萸嚢と取り替える風習がありました。いかにも見てきたかのように書いていますが、私はまだ実物を見たことがなく、実感を持ってお伝えできなくて申し訳ありません。

 9月9日に邪気を払って特別な行事を行う風習は、いつから日本でも行われるようになったか、はっきりしたことはわかりません。『日本書紀』の天武天皇十四年(684年)九月九日に、「天皇旧宮安殿ノ庭ニ宴ス」と記されていて、重陽の節会が行われた可能性があります。しかし天武天皇がその翌年の9月9日に崩御したことから、以後は記録が断絶してしまいます。奈良時代の歴史書である『続日本紀』にも記録はなく、少なくとも宮廷行事としては定着していません。また当時日本には菊が伝えられていませんから、菊酒を飲むということはなかったはずです。ですから実質的な菊の節句としての重陽の節会の起原は、菊が伝えられた8世紀末以降と見てよいでしょう。

 平安時代以後の重陽の節会の確実な記録は、『日本後紀』弘仁三年(812年)九月九日に見られます。嵯峨天皇が神泉苑に行幸して、文人に命じて詩を詠ませたことが記されていますが、嵯峨天皇は空海と並んで唐風書道や漢詩に優れていましたから、唐伝来の菊の花を愛でながら、観菊の宴を催したことでしょう。
その後しばらく重陽の節会が行われるのですが、延長八年(930年)の9月29日に醍醐天皇が崩御し、しかも菅原道真の祟りによると理解されたため、重陽の節会はまた中止されてしまいます。その後、村上天皇の時には10月に残菊の宴が行われたことがありますが、重陽の節会が復活するのは冷泉天皇の安和元年(968年)のことになってしまいます。

 皇室の御紋章になるほど、菊は日本を代表する花ですが、不思議なことに『古事記』『日本書紀』『万葉集』には全く見当たらず、奈良時代に編纂された日本最初の漢詩集『懐風藻』に初めて現れます。もっともそれすら実際に菊を見て詠んだ詩かどうか、疑問は残ります。唐の文人趣味を真似て詠んだ可能性も強いからです。しかし八世紀末までには唐から伝えられたことは間違いありません。そもそも「きく」という読み方は音読みなのです。水を掌(てのひら)ですくうことを意味する「掬水」という言葉は、「きくすい」と読むことでもわかりますね。「きく」が音読みであること自体が、菊が中国伝来の植物であることを示しているのです。また和歌集である『万葉集』には菊の歌が一首もないにもかかわらず、漢詩集である『懐風藻』には数首もあることも、そのことを傍証しています。

 七世紀の唐の百科全書とも言うべき『芸文類聚』(げいもんるいじゅう)という書物の薬香草部の菊の条には、『風俗通』という書物を引用して、「南陽の酈県に甘谷あり、谷水甘美なり。云ふ。其の山上大いに菊あり。水は山上より流れ、下は其の滋液を得。谷中、三十余家あり。また井を穿たず、悉く此の水を飲む。上寿は百二三十、中は百余、下は七八十なり。之を大夭と名づく。菊華は身を軽くし気を益すが故なり」と記されています。菊水を飲めば長生きができるが、七八十歳ではまだまだ若い、百二三十歳で 漸く長生きだと言うのです。四十歳で「初老」とみなされた頃の話ですから、とんでもない長寿ということになります。この『芸文類聚』は、唐文化に憧れた文人官僚や貴族が、百科全書のように座右に置いて重宝した書物でしたから、そのままそれが日本人の菊の理解につながっていったのです。

 菊が長寿のシンボルと理解されたことは、当時の和歌によく現れています。
○露ながら折りてかざさむ菊の花老いせぬ秋のひさしかるべく (古今和歌集 270)
「露ながら」は「露の置いたまま」という意味で、菊水を飲むと長生きできるという『芸文類聚』の記事を踏まえています。露の置いたままの濡れた菊の花を髪(あるいは冠)に挿そう。老いることのない年が続くように、という意味です。
○長月の九日ごとに摘む菊の花もかひなく老いにけるかな (拾遺和歌集 185)
この歌はわかりやすいですね。重陽の日には毎年長寿を祈念して菊の花を摘んでいたのに、その甲斐もなく年老いてしまった、という意味です。
○行く末の秋を重ねて九重に千代までめぐれ菊の盃 (続千載集 566)
この歌は宮中での菊の宴で、菊の花を浮かべた菊の盃を詠んだもの。「九重」とは宮中のことですが、ここでは同時に重陽をも意味していて、なかなか凝った歌になっています。清酒の名前には、菊の文字を含むものがたくさんあります。菊正宗・菊水・菊露・喜久水・白菊・菊の里など、探せばいくらでも見つかります。これらの命名の発想は、この菊酒によるものと見てよいでしょう。平安時代の文人・官僚が、重陽の日に菊を愛でて詩歌を詠んでいたようすがわかりますね。

 また観菊の宴では、「菊の着せ綿」(被せ綿)という面白い風習が行われました。前日の八日、菊の花に綿を被せ、翌朝、露で湿ったその綿をとって身体を拭うのです。木綿の綿が日本に伝えられるのは室町時代のことですから、この「着せ綿」の綿はもちろん真綿のこと。これも菊酒と同じく長寿を祈る呪いです。
この菊の被せ綿について、『枕草子』には次のように記されています。「正月一日、・・・・九月九日は暁がたより雨すこし降りて、菊の露もこちたうそぼち、おほひたる綿などもてはやされたる。つとめてはやみにたれど、曇りて、ややもすれば降り落ちぬべく見えたる、をかし。」。夜明けに雨が降り、濡れた被せ綿が花の香に一層よく香る。早朝には止んで曇っているが、綿がずり落ちてしまいそうに見えるのが面白い、という意味です。また『紫式部日記』にも次のような記されています。「九日、菊の綿を兵部のおもとの持て来て、『これ、殿の上の、とりわきて。いとよう老いのごひ捨てたまへと、のたまはせつる』とあれば、菊の露わかゆばかりに袖ふれて花のあるじに千代はゆづらむとて、かへしたてまつらむとするほどに、あなたに帰り渡らせたまひぬとあれば、ようなきにとどめつ。」。これは、紫式部が藤原道長の妻の倫子から「老いを拭いとって捨てなさい」と菊の被せ綿を贈られたのですが、「被せ綿の露で身を拭えば、千年も寿命が延びるということですが、私は若返る程度に少しだけ袖を触れさせていただき、千年の寿命は、花の持ち主のあなた様にお譲りいたしましょう」という意味の歌を添え、遠慮して花を返したという話です。『弁内侍日記』の寛元四年(1246年)九月八日の条にも、次のように記されています。「中宮の御かたより菊のきせわたまいりたるが、ことにうつくしきを、朝かれゐの御つぼの菊にきせて、夜のまの露もいかがとおぼえわたされて・・・・」。重陽の節句の前日、被せ綿を頂いたので、清涼殿の朝餉(あさがれい、天皇の日常の食事)の間の西側の小庭の菊に載せたが、夜露が置くだろうかと思われて・・・・、という意味です。

 菊の花の上に真綿を乗せるというのですから、花と綿の彩が気になりますね。菊の花の色は今日でこそ様々にありますが、古くは白一色と見てよいでしょう。「しろがねとこがねの色に咲き紛ふ」という歌(夫木和歌抄05906)があることから、極めてわずかに黄菊があったことは間違いないのですが、それ以外は見当たりませんでした。白菊の上に真っ白い真綿を乗せたのでしょぅか。白梅に積もる白雪のようで、それはそれで美しいとは思います。しかし『夫木和歌抄』に「いろいろに菊の綿きぬそめかけてまだきうつろふ花はなとこそ見れ」という歌がありますから、赤に近い色に染めた真綿があった可能性もあります。それはなぜかというと、白菊は霜に当たって赤紫に変色するのですが、そのことを「菊の花が移ろふ」として賞することがありました。そして被せ綿をのせた菊を、早くも花が色変わりしていると詠んでいるからなのです。

 江戸時代の文献ですが、17世紀の『後水尾院当時年中行事』には、被せ綿の色やその載せ方などについて細かく記されています。、宮内庁書陵部の写真版で確認しましたが、白菊には黄色の綿、黄色の菊には赤い綿、赤い菊には白い綿で覆うとされていました。さらに花を覆った真綿の中心に、小さく丸めた綿をちょこっと乗せて蘂(しべ)とすると定められています。菊の蘂は普通は見えないのですが、アクセントになって可愛らしく見える効果はあるようです。江戸時代までには様々な色の菊が品種改良され、被せ綿の色についても、それこそ色々な仕来りができたのでしょう。最近では全国各地の神社などで、菊の被せ綿の行事が復活されています。ただ新暦の9月9日なので、時期が早すぎますね。

 五節句のうち現在の菊の節句には、せいぜい菊の花を生けるくらいのもので、被せ綿の他には何か特別な行事や行事食はありません。しかし江戸時代には栗を食べる風習がありました。享和三年(1803)に出版された『俳諧歳時記』には、「本邦の俗、九月九日、親戚朋友、迭(たがい)に相贈るに栗を以し、菊花酒を飮むゆゑに、菊の節句とも、また栗の節句ともいひならはせり。」と記されています。延宝四年(1676年)に出版された『日次紀事』には、菊酒を飲み、蒸栗を食べ、また親戚や朋友が互に栗を贈ると記されています。貞享五年(1688年)に出版された『日本歳時記』には、「栗子飯を食ひ、菊花酒をのむ」と記され、また19世紀半ば、大坂町奉行に勤務していた久須美祐雋という人の随筆である『浪花の風』には、栗・柿・葡萄を食べ、松茸の煮物や鱧(はも)を食べると記されています。

 現在の菊の節句はあまり注目されていませんから、このような伝統的行事食を復活させたいものですね。少々脱線しますが、敬老の日と重陽の節句が同じ日であったらよかったのにと思います。菊を飾り、菊酒を飲み、栗御飯を食べ、菊の被せ綿で拭い、菊をかたどった和菓子を食べて長寿を祈る。『荊楚歳時記』にあるように、山に登るというのは、体力的に無理のようですね。まあそれはともかく、重陽の節句と敬老の日の趣旨がうまく合致するのですが、まあ今さらどうにもならないのでしょう。ただ一つ気になることがあります。敬老の日には菊を贈ってはいけないというネット情報がたくさん見られることです。それは、菊、特に白菊が葬儀によく用いられるために、高齢者に贈る花としては相応しくないという事なのでしょう。しかしそのようなことを書いている人は、歴史的には菊は長寿のシンボルであったことを知らないのでしょう。菊を忌避すべき理由は全くありません。ですから歴史的な菊の理解を十分に説明して、長寿を寿ぐ歌を添えて高齢者に贈るというのはどんなものでしょうか。歌を詠めないというならば、古い和歌集から拾えばよいのです。白菊が気になるならば、色々混ぜたらよいでしょう。菊の名誉挽回になれば嬉しいのですが。