うたことば歳時記

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私の授業 「野菜のどこを食べるの」

2020-01-26 13:44:55 | 私の授業
既に高校教諭を退職して、月に2回程、近くの小学校でボランティアでミニ授業をしています。近年学校では、一斉講義式の授業は一方的な知識の注入であり、遅れた授業であるとして批判され、生徒が主体的学びをするような授業がもてはやされています。結果として先生が語る部分が極めて少なく、時間をかけて生徒が互いに考え教え合い、答にたどり着くような授業が行われるようになっています。

 しかし一斉講義式授業をしてきた私は、それが遅れた授業法とは決して思いません。否、これこそ授業の基本であると信じて疑いません。一斉講義式を批判する人自身が、自分の授業をつまらない物にしてしまったのではないかと思っています。

 以下の授業は対象は小学校一年生で、先日行ったものを会話もほとんどそのままに再現してみましょう。生徒との会話はありますが、終始主導権は私が掌握し、生徒が授業の進め方について主体となることはありません。しかしその質は決して遅れたものとは思っていません。なお「   」内は生徒や担任の先生の話です。

 皆さんおはようございます。この前も皆に会いましたね。何の話をしたか覚えてますか。「麦の話」。そうだったね。よく覚えていましたね。今日は何のお話をしようかな。ほうら、見てごらん。野菜をたくさん持ってきましたよ。さて、名前を知ってるかな。これは? 「大根」「人参」「きゅうり」「白菜」「アスパラガス」「ブロッコリー」。よく知ってるねえ。今日はね、野菜を食べるというお話でーす。ほら、美味しいよ。「あれ、本当にかじっちゃった」。家の犬はね、白菜が大好きで、生でむしゃむしゃ食べちゃうの。

 ちょっと黒板に草の絵をかくから、下手くそだけどよく見てね。ほら、土の中にあるところを何て言うのかな。「根っこ」。そうだね。それじゃあここは何て言うのかな。「葉っぱ」。これは。「花」。そして花が終わると何かができる。これは何かな。「実」「種」。うん、どっちも当たりだね。それじゃあここは。「茎」。わあすごいねえ。茎を知ってるとは驚いたなあ。

 それでは、今日持ってきた野菜は、この草の絵のどこを食べるのか、どこと同じことなのか考えてみましょう。まずは大根から。大根の食べるところは、花かな、種かな、葉っぱかなそれとも。「根っこ」。うんそうだね。よくできました。それじゃあ人参は。「茎」。えっ、茎? 畑にオレンジ色の人参がにょきにょき生えているのかな。「やっぱり根っこかな」。そうだね。人参も根っこだよ。それじゃあ他に根っこを食べる野菜には何があるかな。「ごぼう」。そうだね。色も根っこみたいだもね。

 白菜はどこを食べるのかな。「葉っぱ」。そうだね。この白菜はね、縦に半分に切ると、ほうら、葉っぱが何枚もあるのがよくわかるでしょ。葉っぱを食べるのは他には。「キャベツ」「ほうれん草」。そうだね、葉っぱはみな緑色になってるからね。「先生、大根は根っこなのに、上の方が緑色になってるよ」。面白いことに気が付いたね。大根畑を見たことあるかな。大根の一番上のところは、少し土から上に出てるんだよ。それで緑色になっちゃうんだ。

 きゅうりはどこかな。「実」。そうだね。花が終わるとね、花の下のところがだんだん大きく成ってきて、実ができるんだ。それじゃあ実を食べる野菜を考えてみよう。「トマト」「なす」「ピーマン」。

 ブロッコリーはどこを食べるのかな。緑色だけど葉っぱじゃないし。茎でもないし。実かなあ。「違うよ」。
「花」。今花って言ったのだあれ。花で当たりなんだけど、どうしてわかったの。「ブロッコリーをそのままにしてたら、花が咲いちゃったから」。お家でブロッコリー植えてたの? よーく見てたね。近寄ってよく見てごらん。この小さいつぶつぶは、皆ブロッコリーのつぼみなんだよ。「へーえ、知らなかったよ」。何色の花が咲くのかな。「黄色の花が咲く」。そうだね。それじゃあ一つ問題を出します。大根の花は何色かな。「見たことないよ」。それじゃあ先生に答えてもらいましょう。どうですか。「わかりません」。「先生、知らないの」。先生だって知らないことはありますよ。「何色の花が咲くの」。それは答えないことにしておきましょう。大根畑に行くとね、大きく成りすぎた大根を抜かないままになっていることがあってね。花が咲くことがあるんだよ。答は自分で探してみるように、今日は秘密にしておきます。

 最後にアイパラガスはどこを食べるのかな。近くによってよーく見てごらん。ほら、上の方につぼみみたいのが着いてるよ。ということは、どこかなあ。「茎」。当たりー。よくできました。よくできました。この辺にはアスパラガスの畑はないから見たことないけど、これがね、地面からにょきっとのびてくるんだよ。

 さあもう時間がなくなっちゃうね。野菜といっても色々種類があって、食べるところも色々あることがわかったでしょう。これからはね畑で野菜を見たら、どこを食べるのかよーく見てみましょう。お店で見てもいいしね。それじゃあ今日のお話はここまででお終いです。大根の花の色は宿題ね。

 私は終始主導権を握っています。会話はたくさんありますが、基本は一斉講義式です。これが最高とは言いませんが、遅れた授業とは思いません。アクティブラーニングのやり方で20分でこれだけのことができますか。時間をかければできるでしょう。しかし限られた時間では不可能です。生徒達は知識を一方的に注入されているだけですか。大根の上部が緑色であることに気付くなど、面白い発見をしています。

 一斉講義式を遅れた授業として批判する人に問いたい。つまらない授業にしてしまった一因は、あなたにもあったのではありませんか?

チコちゃんを叱る「お年玉の玉ってなーに」

2020-01-18 22:09:42 | 年中行事・節気・暦
またまた「チコちゃんに叱られる」の出鱈目が止まりません。正月早々、とんでもない出鱈目な内容を放送していました。テーマは「お年玉の玉ってなーに」ということで、答は「年神様の魂」ということだそうです。

 まずは放送で実際に使われた言葉を活かしながら、その粗筋を御紹介しましょう。

 お正月には年神様が各家庭にやって来ます。そしてその年の幸せや五穀豊穣を運んでくると考えられていました。お正月に行われる様々な行事は、年神様をお迎えするためのものなのです。そしてお正月の間は、年神様は鏡餅に宿ります。鏡餅にはその歳を活きるための魂、つまり年魂も宿っているわけです。お正月になるとその家の家長が年魂の宿っている鏡餅を御年魂として家族に分け与えます。このお年魂をお雑煮として食べることで一年分の力を授かることができると言われていました。つまりお年玉とは、年神様の魂の事なのです。それが高度経済成長の時期に現金になり、現在のお年玉になったというわけです。

 この番組内容を指導したのは、自称「和文化研究家」の三浦康子氏です。三浦氏の年中行事の解説はネット上に溢れているのですが、どれもこれも「・・・と言われています」ばかりで、確たる根拠を示したものは何一つありません。三浦氏に限らないのですが、伝統的年中行事の解説で、まともなものはめったにお目にかかれません。

 随分と過激なことを言うものだと思われるかもしれませんが、チコちゃん説がいかに出鱈目であるか、以下に証拠をずらりとならべてお見せしましょう。

 年玉に関する近世の文献史料は数多く残っています。まずは『日葡辞書(にっぽじしよ)』(1604年)という日本語とポルトガル語の辞書には、「Toxidama(トシダマ)、新年の一月に訪問したおりに贈る贈物」と記されています。北村季吟(きぎん)という国学者が著した『増山之井(ますやまのい)』(1663年)という俳諧書には「としだま、年始の持参礼物をいへり」、『日次紀事』(1676年)という京都の歳時記には、「凡(およそ)新年互に贈答の物、総じて年玉と謂(い)ふ」と記されています。『俳諧歳時記栞草(しおりぐさ)』(1851年)という江戸時代最大の歳時記にも、「新年の賜(たまもの)と云なるべし」と記されています。

 滝沢馬琴の『馬琴日記』には、正月の半ば頃まで連日のように知人が「年礼のためとし玉持参」と記されていています。一般的には歳暮は下位の者から上位の者へ、年玉はその逆と理解されていますが、流行作家として著名な馬琴に、連日のように年玉をもった上位の来客があるとも思えません。年玉は上位の者が下位の者に与える物という理解は、当時はなかったのです。余りにも多いのでこの辺で止めておきますが、年始の挨拶である「年礼」に添える品物を年玉という史料は書ききれない程あるのです。一方、お年玉の年神霊魂分与説を裏付ける文献史料は何一つありません。反論があるなら見せてほしいものです。長年歳時記の研究をしていて、江戸時代の歳時記などはほぼ読み尽くしていますが、何一つありません。

 このような年玉の理解は、明治時代になっても続いています。明治時代中期の『東京風俗志』(1899年)には、「商家などには華客(とくい)さきざきを賀し、年玉とて染手拭、摺暦(すりごよみ)、或は品物などを配りて、相変はらずの御贔屓(ごひいき)を頼みありくも多し」と記されています。また明治時代後期の『東京年中行事』(1911年)にも、「年玉・年賀・・・・普通の人々の間に於ても、年礼(ねんれい)と同時に、その家の小供にお年玉といって手土産を贈ることが行はれて居るが、最も盛に行はるるのは、平生(へいぜい)出入りの商人が年礼の序(ついで)に、得意先に配って歩くお年玉で有らう。そのお年玉の種類は素(もと)より一定して居るのではないが、多くは自分の商売品中のものか、或はそれに関係の品で、乃至(ないし)は手拭、略暦、盃なんどが最も普通のもので有る」と記されています。現在では新年の挨拶に「お年賀」「お年始」と称してタオルやカレンダーを配ることがありますが、これこそがかつての年玉なのであって、断じて年神の霊魂を表す餅ではありません。

 それなら年玉は実際にはどのような物だったのでしょうか。文献史料から拾い出せる物は、総じて各々の身分に相応しい物や、家業で取り扱う物、あるいは縁起物が多いようです。何を年玉として配るかにより、その家の身分や家業がおよそわかるのです。前掲の『日次紀事』には、「商家は必ず得意先に年玉を持って新年の挨拶に行くこと。医者は普段扱っている丸薬や軟膏類」、また「諸民に至りては各作業の物を相贈る。高貴の如きは太刀、馬代、時服等、贈答の物、枚挙に及ばず」と記されています。また江戸時代末期の風俗を叙述する『江戸府内絵本風俗往来』には、「年玉の進物の大方は扇子なり」と記され、正月二十日以後になると、この扇の入っていた空箱を買い集めに来る者さえいたと記されています。とにかく最も目につくのは扇なのです。『馬琴日記』からは、落雁・煎餅・扇子・かんざし・白粉・茶碗・粟餅・砂糖・納豆などを拾い出せます。納豆は僧侶の配る年玉の定番です。芭蕉の門人である許六に「糞とりの 年玉寒し 洗い蕪」という俳諧があります。都市近郊の農民が、糞尿肥を汲み取らせてもらう代わりに、野菜を置いてゆくことを詠んでいるのですが、これなどは年玉が家業を表すよい例でしょう。

 その他に江戸時代の様々な文献から、鼠半紙(漉き返した灰色の半紙)・箸・貝杓子・樽酒・茶・保存のきく昆布・干鱈・するめ・牛蒡(ごぼう)・蒟蒻(こんにやく)・軽粉(白粉)・凧・蝋燭・掛軸・熊皮などを拾い出すことができた。『風俗画報』224号(1901年)には、明治時代の年玉の品が列挙されています。それによれば、「菓子・砂糖・酒類・鰹節・海苔・蜜柑・柿・林檎・昆布・茶・玉子・小間物(花簪・頭掛・香油・石鹸の類)・呉服・手拭・扇・紙類・筆墨類・文房具・陶器類・漆器類・盆栽・挿花・桶類・籠類・その他日常品」などがあげられ、陶器類が最も多いと記されています。江戸時代より種類は増えていますが、日常の品であることに変わりありません。個々の場合なら現金や餅のこともあったかもしれませんが。しかし本来の年玉は子供への贈り物や餅ではなく、大人の社会の付き合いや主従関係の中で、新年の挨拶に添える品物だったのです。

 いかがですか。これだけ確かな根拠を並べても、まだ年神霊魂分与説が正しいと思われますか。百歩譲って、仮に正しいとしましょう。もしそうしたら上記の史料に記された「年玉」はいったい何になるのですか。説明ができますか。江戸時代以来明治時代に至るまで、年玉に関する文献史料は、ここに示したもの以上にたくさんあるのです。それを否定できるのですか。もし確かな根拠を示してくれるのならば、潔く降参しましょう。しかしそれができないのであれば、日本の正しい歴史をねじ曲げることはもう止めてほしいのです。三浦氏もさることながら、NHKの責任も大きなものがあります。

 なおチコちゃんを叱ると題して、私がかつて公開した文を御紹介します。チコちゃんがいかに出鱈目な説を垂れ流しにしているか、よくよくわかることでしょう。

①うたことば歳時記 チコちゃんを叱る「牡丹餅とお萩」、
②うたことば歳時記 チコちゃんを叱る「お盆の盆ってなーに」、
③うたことば歳時記 チコちゃんを叱る「なぜ桜の下でどんちゃん騒ぎするの」
④うたことば歳時記 チコちゃんを叱る「お握りはなぜ三角形」
⑤うたことば歳時記 チコちゃんを叱る「雑煮の雑ってなーに」

以上のように検索すると見られますから、まずは御覧下さい。


見渡せば山もとかすむ水無瀬川

2020-01-12 10:30:18 | 短歌
見渡せば山もとかすむ水無瀬川 夕べは秋となに思ひけむ

 よく知られた後鳥羽上皇の御製です。この歌には「をのこども詩をつくりて歌に合せはべりしに、水郷春望といふことを」という詞書きが添えられていますから、離宮である水無瀬宮に行幸した際に、随行した者達とともに歌合をして、離宮から眺めた景色を詠んだものでしょう。

 意味そのものは難解ではなく、「見渡してみると、山のふもとがかすみ、水無瀬川が流れている。夕べの情趣は秋がよいとなどと、どうして思っていたのだろう。春の夕べも秋に劣らず情趣があるではないか」という意味です。

 「夕べは秋」という表現は、『枕草子』の「春は曙・・・・秋は夕暮れ」を踏まえたものであることは、どの解説書にも触れられることで、私もそうだと思います。しかしそこからもう一歩踏み込むならば、陰陽思想に基づく四神思想にまで触れてほしいと思います。それによれば、青龍には春・東が配され、白虎には秋・西が配されますから、「春」には常に東・朝の印象が伴い、秋には西・夕の印象がついてまわっていました。清少納言が「秋は夕暮」と言ったのは、彼女の独創的な感性ではなく、当時の知識人に共通する季節理解でした。春は東から来て、秋は西に往くということは、もちろん後鳥羽上皇も百も承知です。秋の夕暮をしみじみと眺める感性は、清少納言に言われなくても、みな持っていたのです。

 『新古今和歌集』の巻第四に「薄霧のまがきの花の朝じめり夕べは秋と誰かいひけむ」という藤原清輔の歌が収められています。 「竹で荒く編んだ庭の垣根に咲いている花が、朝霧で湿り咲いている。その情趣の何と美しいことか。秋は夕暮れがよいと誰が言ったのだろう」という意味です。秋の籬に咲く花と言えば、菊の可能性があります。もちろん想像の域を出ませんが、菊ならば絵になるかなと思います。

 後鳥羽上皇のこの歌の逆のパターンですね。霧は秋の景物、霞は春の景物であることは、当時の知識人が例外なく知っていたことです。ですから秋の歌に霧を詠むのは自然なことなのですが、それを夕霧とせずに朝霧としたところに機知が効いているわけです。後鳥羽上皇は同じように朝霞ではなく夕霞としたわけです。

 藤原清輔は『新古今集』の編者の一人である藤原定家の父である俊成の頃の人ですから、後鳥羽上皇のこの歌より早い時期のものです。後鳥羽上皇御自身が御存知だったかどうかは確認できませんが、編纂の過程では目にしていますから、上皇としてもこの歌を読んで思うところがあったことでしょう。思わず、「先取りされた」と思われたかもしれません。

 歌としては後鳥羽上皇の御製の方が格段に優れていると思います。帝王が遙か遠くを眺めやる姿には、『万葉集』に歌われた帝王の国見のイメージが重なり、悠々とした大きさを感じ取ることができます。また「たれか言ひけん 」よりも「なに思ひけむ」の方が力強く、感動の大きさが直接に伝わってきます。

水無瀬離宮の跡にいっても当時の景色はもうありませんから、どのような景色かわかりませんが、春霞に煙る夕暮の景色に出会うことがあれば、しみじみと味わってみたい歌です。特に入り日の方角に川が伸びていて、その川の行方が夕空に溶けて消えるような景色であれば最高ですね。

 そこでタイムマシンに乗って水無瀬離宮に行ったつもりで、私も一首詠んでみました
  行く末は 空も一つの 水無瀬川 岸辺の梅の 香に霞みつつ