うたことば歳時記

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『梁塵秘抄』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2022-08-29 08:29:57 | 私の授業
梁塵秘抄


原文
①仏は常にいませども 現(うつつ)ならぬぞあはれなる 人の音せ ぬ暁に 仄(ほの)かに夢に見え給ふ

②極楽浄土の東門は 難波(なにわ)の海にぞ対(むか)へたる 転法輪所(てんぼうりんしよ)の  西門(さいもん)に 念仏する人参れとて

③我が子は二十に成りぬらむ 博打(ばくち)してこそ歩(あり)くなれ 国々 の博党(ばくとう)に さすがに子なれば憎う無し 負(まか)い給ふな王子の 住吉西の宮

④女の盛りなるは 十四五六歳 廿三四とか 三十四五にし 成りぬれば 紅葉(もみじ)の下葉に異ならず

⑤舞ゑ〳〵蝸牛(かたつぶり) 舞はぬものならば 馬(むま)の子や牛の子に蹴(く) ゑさせてむ 踏み破らせてむ 実(まこと)に愛(うつく)しく舞うたらば  華の園まで遊ばせむ

⑥頭(こうべ)に遊ぶは頭虱(かしらじらみ) 項(うなじ)の窪(くぼ)をぞ極(き)めて食(く)ふ 櫛(くし)の歯より
 天降(あまくだ)る 麻小笥(おごけ)の蓋(ふた)にて 命(めい)終はる

現代語訳
①極楽浄土の御仏(みほとけ)は 常にいますと言うけれど 見えないゆ えの尊さよ それでも静かな明け方に 微(かす)かに夢に現れる

②極楽浄土の東門は 難波の海の向岸(むこうぎし) 四天王寺の西門に 念仏する人参るべし 

③我が子は二十歳になるという 流れ流れて行くうちに 母 を泣かせる博打うち それでも可愛い我が子ゆえ 憎くみ きれない親心 負けてはならじと神頼み 

④女盛りは十四五六よ 二十三四はまだよいが 三十四五に もなったなら 散るもみぢ葉のようなもの 

⑤舞ってごらんよかたつむり 舞ってくれなきゃ馬の子や  牛の子たちに蹴らせるよ 踏んづけられたら割れちゃうよ 上手にかわいく舞ったなら お花畑で遊ぼうよ

⑥白髪に遊ぶ髪虱(かみしらみ) うなじの窪に食らいつく 櫛(くし)でけずれ ば桶の蓋 落ちては遂に潰(つぶ)される

解説
 『梁塵秘抄(りようじんひしよう)』は、「当世風」を意味する「今様(いまよう)」と呼ばれた流行歌の歌詞集で、平安時代末期の治承年間(1180年前後)、後白河法皇(1127~1192)により編纂されました。「梁塵(りようじん)」とは「梁(はり)の上の塵(ちり)」という意味で、中国の漢代に声の美しい魯(ろ)の虞公(ぐこう)が歌うと、梁(はり)の上の塵までもが呼応して動いたという故事から、美しい歌や音楽を表しています。『梁塵秘抄』は今様を解説した口伝集(くでんしゆう)と、歌詞集の合計二十巻から成っていたのですが、口伝集は一部が『群書類従』に収められ、歌詞集は長い間行方不明でした。ところが明治四四年(1911)に第一巻の二一首と第二巻の写本が発見されました。それだけでも約五百首もありますから、全て伝えられていたら、量的には『万葉集』に匹敵するものとなっていたことでしょう。
 今様は主に民間女性芸能者により歌われ、平安時代中期から鎌倉時代に流行しました。中でも後白河法皇の今様好きは際立っていて、『梁塵秘抄口伝集』には、「十余歳の時より今に至るまで、今様を好みて怠る事無し。・・・・昼は終日(ひねもす)に謡(うた)ひ暮し、夜は通夜(よもすがら)謡ひ明(あか)さぬ夜は無かりき。・・・・声を破(わ)る(喉(のど)を潰(つぶ)す)事三ケ度なり。・・・・喉(のど)腫(は)れて湯水通(かよ)ひしも術(すべ)無かりしかど、構えて(何とか工夫して)謡(うた)ひ出しにき。・・・・斯(か)くの如く好みて、六十の春秋(年月)を過(すぐ)しにき」と記されています。また御所に女芸人を呼び寄せては歌を習うのですが、七三歳になる乙前(おとまえ)の今様を正統とし、十余年も習っています。また乙前のために家を建ててやり、八四歳の乙前の容態が悪くなると、連日見舞いに行き、娘にかき起こされている乙前のために、法華経を誦み聞かせたり、乙前に歌をせがまれると、薬師如来の功徳を詠んだ歌を聞かせて慰めています。
 ただ後白河法皇には心配事がありました。「習ふ輩(ともがら)有れど、これを継ぎ続(つ)ぐべき弟子の無きこそ遺恨(いこん)(残念)の事にてあれ」と記して、後継者がいないのが残念であるというのです。そこで年来習い覚えてきた今様を、後世に遺し伝えようと、『梁塵秘抄』を編纂したわけです。
 当時は浄土信仰が流行(はや)っていて、仏教的な歌が多いのですが、庶民の生活や恋愛まで幅広いことに特徴があります。
 ①は、仏に出逢いたいと寺に籠り、明け方の夢の中で仄(ほの)かに仏を感得した場面で、夢に阿弥陀仏が現れる話は、『更級日記』にも記述があります。
 ②は、難波の浜に面した四天王寺の西門が、極楽浄土の東門に面していると信じられていたため、参詣人が絶えなかったことを詠んでいます。西門前には十三世紀末の石鳥居があり、今も「釈迦如来転法輪処(てんぽうりんしよ)」(「釈迦の説法所」)の額が掛けられています。今は海岸線が遠ざかってしまいましたが、四天王寺は、現在でも春秋の彼岸には参詣者で賑わいます。
 ③は、女性の結婚適齢期と、その後のことを歌っていて、「三十四五にし」の「し」は強調です。酒の席では、男達の笑いを誘ったことでしょう。律令制では、男は十五歳、女は十三歳から結婚が認められていました。ただし満年齢になおすならば、さらに一~二歳減らさなければなりません。
 ④は、放蕩息子(ほうとうむすこ)をもつ母親の歌で、やくざ稼業に身をやつしている「我が子」を嘆きながらも、出来の悪い子ほど可愛いもので、賭け事に勝たせてほしいと、神頼みをする場面です。
 ⑤は、子供が蝸牛(かたつむり)と戯れている場面で、触覚や目をゆっくりと動かしているのを、「舞う」と見ているわけです。この歌などは、「華の園で遊ぶ」白拍子が、蝸牛を真似て舞いながら歌ったのでしょう。因みに蝸牛のことを「まいまい」と言いますが、「舞う」と何か関係があるのかもしれません。
 ⑥は、たわいもない笑いを誘う歌で、説明は不要でしょう。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『梁塵秘抄』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。





『徒然草』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面 改訂版

2022-08-27 07:10:20 | 私の授業
徒然草


原文 
 花は盛(さかり)に、月は隈(くま)なきをのみ、見るものかは。雨に対(むか)ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行方(ゆくえ)も知らぬも、猶あはれに情(なさけ)深し。咲きぬべきほどの梢(こずえ)、散り萎(しお)れたる庭などこそ、見所多けれ。歌の詞書(ことばがき)(事書)にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障(さわ)ることありて、まからで」なども書けるは、「花を見て」と言へるに劣れることかは。花の散り、月の傾(かたぶ)くを慕ふ習(なら)ひはさることなれど、殊(こと)に頑(かたくな)なる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などは言ふめる。・・・・
 望月の隈なきを千里(ちさと)の外(ほか)まで眺めたるよりも、暁近くなりて待ち出でたるが、いと心深う、青みたるやうにて、深き山の杉の梢(こずえ)に見えたる、木の間の影、うちしぐれたる村雲隠れのほど、又なくあはれなり。椎柴(しいしば)・白樫(しらかし)などの、濡(ぬ)れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身に沁(し)みて、心あらむ友もがなと、都恋しう覚ゆれ。
 すべて、月花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家に立ち去らでも、月の夜は閨(ねや)のうちながらも思へるこそ、いとたのもしうをかしけれ。よき人は、偏(ひと)へに好(す)けるさまにも見えず、興(きよう)ずるさまも等閑(なおざり)なり。片田舎の人こそ、色こく、万(よろず)はもて興ずれ。花の本には、ねぢ寄り立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒飲み連歌して、はては、大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手足さし浸して、雪にはおり立ちて跡つけなど、万の物、よそながら見ることもなし。

現代語訳
桜の花は満開の頃、月はかげりのない満月だけを愛でるものだろうか。雨の日に(見えない)月に思いを馳せ、家に閉じこもって春の移ろいを知らないでいるのも、やはりしみじみとした趣がある。今にも花が咲きそうな梢(こずえ)や、散って萎れた(花びらの敷いた)庭などには、見所が多いものである。和歌の前書きに、「花見に出かけたが、早くも散ってしまったので」とか、「わけあって花見に行けずに」などと書いてある歌は、「花を見て」と書いてある歌より劣ることがあるだろうか。花が散り、月が傾くのを惜しむということはもっともであるが、心が殊の外頑(かたくな)な人は、「この枝もあの枝も花が散ってしまった。もう見る程のこともない」などと言うようだ。・・・・
かげりのない満月を、遠くまで望むように眺めるよりも、夜明け近くに姿を見せる有明けの月が、大層趣深く青みを帯びて、深い山の杉の梢に掛かって見えたり、月の光が木の間から洩れて来たり、またさっと時雨(しぐれ)を降らせた叢雲(むらくも)に月が隠れている様子など、比べようもなく趣が深い。椎の枝や白樫の濡(ぬ)れた葉の滴(しずく)に、月影が宿ってきらめいている様子は、身に沁(し)みる程の美しさであり、この風情をわかる友がいればよいのにと(共に眺められたらよいのにと)、(そのような人がいる)都を恋しく思うのである。
およそ月や花は、ただそのように目だけで見るものだろうか。春は家に居ながら花を思い、月の夜には寝室の中からでも月に思いを馳せることこそが、心豊かな趣というものである。心ある人というものは、風情に心を寄せる様子をやたらに表に見せたりはしないし、愛でる様子も(表面上は)あっさりとしている。(それに対して)田舎者ほど、しつこく万事騒ぎ立てるものだ。花の木の下ににじり寄るようにして立ち寄り、脇目もふらずに見つめ、酒を飲んでは連歌をして、挙句には大きな枝を心なく折り取る。湧水には手足を浸したり、新雪には降りて足跡をつけるなど、あらゆる物を、よそながら見るということがない。

解説 
 『徒然草(つれづれぐさ)』は、鎌倉時代末期に占部兼好(うらべけんこう)(1280年代?~1352以後)が著した随筆です。兼好は若い頃は天皇に近侍する蔵人(くろうど)となったり、左兵衛佐(さひようえのすけ)という中級武官でしたが、三十歳前後で出家します。
 『徒然草』には様々な人間像が登場します。序段を読むと隠棲文芸かと思きや、第一段では、「理想の男性像は、達筆であり、歌が上手で、酒も程よく飲めること」と言い、第三段では、「色好みでない男は、人としてどれ程立派でも、底の抜けた玉の杯のようなものである」と説き、第八段では、女の肉体の魅力に納得してしまうなど、俗な姿を曝しています。若い頃にはさもありなんと読み進めると、第三八段では、名誉や利益に心を奪われることの愚かさを説いています。年を重ねるに従い、世俗の埃(ほこり)も払われるのかと思いきや、第二四〇段では人目を忍んで女に逢う話になります。そしてまたまた第二四一・二四二段では、無欲に生きることを説くなど、様々に人間の赤裸々な姿を正直に曝(さら)しています。
 ここに載せたのは第一三七段で、花や月の風情について、どこか陰翳(いんえい)があり、不完全なものに趣があると説いています。
二つ目には、想像を膨らませて見る感性を説いています。雨の日や、夜の床で見えない月を思い、家の中で花や春の移ろいに思いを馳せることは、直に月や花を見ることに劣らないというのです。「思う」(想像)ことにより増幅される風情を良しとする感性を説いているのですが、有名な古歌や故実・歌枕を踏まえて和歌を詠むことは、そのよい例でしょう。
 また三つ目には、風情のわかる人とわからない人が対比されています。四季の移ろいの情趣を理解し、それに相応しい振る舞いができることは、文化人必須の素養でした。そして洗練された季節の感性を持つ人こそが、「心ある人」と評価されたものでした。それに対して風情のわからない「心なき」田舎者は、目に見える表面的な美しさを騒がしく愛でるだけであると嘆いています。
 ただ後に本居宣長は、その随筆『玉勝間(たまがつま)』の巻四で、花を散らす風や月を隠す雲を嘆く歌に「心深き」歌が多いのは、「みな花はさかりをのどかに見まほしく、月は隈(くま)なからむことを思ふ心の切(せち)なるからこそ、さもえあらぬを歎きたるなれ。いづこの歌にかは、花に風を待ち、月に雲を願ひたるはあらむ」と述べて、兼好法師の説くことは、人の心情に逆らい、利口ぶった偽の風流であると、厳しく批判しています。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『徒然草』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。





『堤中納言物語』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2022-08-21 06:56:05 | 私の授業
堤中納言物語

原文
 この姫君の宣(のたま)ふこと、「人々の、花、蝶やと愛(め)づるこそ、はかなくあやしけれ。人はまことあり、本地(ほんじ)尋ねたるこそ、心ばへをかしけれ」とて、よろづの虫の、恐しげなるを取り集めて、「これが成らむさまを見む」とて、さま〴〵なる籠・箱どもに入れさせ給ふ。中にも「烏毛虫(かわむし)の、心深きさましたるこそ心憎くけれ」とて、れは耳挟(はさ)みをして、掌(て)の裏に添へ臥せて、まぼり給ふ。若き人々は怖ぢ惑ひければ、男(お)の童(わらわ)のもの怖ぢせず、言ふかひなきを召し寄せて、箱の虫どもを取らせ、名を問ひ聞き、いま新しきには名を付けて、興じ給ふ。
 「人はすべて、粧(つくろ)ふところあるは悪(わろ)し」とて、眉(まゆ)さらに抜き給はず。歯黒めさらに「うるさし、穢(きたな)し」とて、つけ給はず。いと白らかに笑みつゝ、この虫どもを、朝(あした)夕(ゆうべ)に愛し給ふ。人々怖(お)ぢ侘(わ)びて逃ぐれば、その御方(おんかた)は、いと怪しくなむ罵(ののし)りける。かく怖づる人をば、「けしからず、放俗(ぼうぞく)なり」とて、いと眉黒にてなむ睨(にら)み給ひけるに、いとゞ心地 惑ひける。・・・・
 この虫ども捕らふる童(わらわ)べには、をかしきもの、彼が欲しがるものを賜へば、さまざまに、恐ろしげなる虫どもを取り集めて奉る。「烏毛虫(かわむし)は、毛などはをかしげなれど、覚えねばさう〴〵し」とて、蟷螂(いぼじり)、蝸牛(かたつぶり)などを取り集めて、歌ひ罵(ののし)らせて聞かせたまひて、我も声をうちあげて、「かたつぶりの角の争ふや、なぞ」といふことを、うち誦(ずん)じ給ふ。童べの名は、例のやうなるは侘(わび)しとて、虫の名をなむつけ給ひたりける。螻蛄男(けらお)、ひきまろ、いなかたち、いなごまろ、雨彦(あまびこ)なんどつけて、召し使ひ給ひける。

現代語訳
 この姫様の言われることには、「世間の人は花よ蝶よともてはやしますが、全くわけがわからないわ。人には(心の奥に)誠というものがあるように、物事の本質を追求することこそが、心のありようが優れていることだと思うわ」と言って、様々な虫の、しかも気味の悪いものを集めては、「これがどの様に変わったゆくのか見るのよ」と言って、色々な虫籠や箱などに入れさせなさるのです。中でも特に「毛虫というものは、何か深く考えているように見えて、そこに惹(ひ)かれるのよ」と言って、明けても暮れても一日中、髪が邪魔にならないように、(高貴な人は決してしないように)耳に挟んで、手の上に毛虫を這わせて見つめておられるのです。若い侍女たちは怖がり惑っているので、身分が低く虫を怖がらない男の子を呼び寄せて、箱に飼っている虫を捕まえては名前を尋ねたり、名前のわからない新しい虫には、名前を付けて面白がるのです。
 そして「人は何事も、変に取り繕わない方がいいのよ」と言って、眉毛をお抜きになりません。お歯黒も「全く煩わしいし、それにそもそも汚らしいわ」と言ってお付けにならず、白い歯のままで笑いながら、毎日朝に夕に虫をかわいがられているのです。侍女達が怖がって逃げ出すと、姫様は異様な程に叱ります。そのように怖がっている人に「こんなことで怖がるなんて、お行儀の悪い」と言って、太い眉でにらみ付けなさるので、侍女たちはほとほと困り果てるのでした。・・・・
 虫を捕まえて来る子供達には、姫様が面白い物や欲しがる物をお与えになるので、子供達は色々な種類の気味の悪い虫を、集めて来ては差し上げます。姫様は、「毛虫は、毛の様子が面白いけれど、思い当たる程の(故事や歌の)こともないので、物足りないわ」と言って、蟷螂(かまきり)や蝸牛(かたつむり)を集め、それが出てくる歌を子供達に大声で歌わせてお聞きになり、御自分も大声で「かたつむりの角がけんかするのはどうしてなの」などとお歌いになるのでした。子供達の名前もありきたりではつまらないと、虫の名前をお付けになるのです。螻蛄男(けらお)、蛙麿(かえるまろ)、いなかたち、蝗麿(いなごまろ)、あまびこ(ヤスデ)などと名付けて召し使いなさるのです。

解説
 『堤中納言物語』は、作者も成立時期もよくわからない、謎の多い物語です。平安時代末期から鎌倉時代の文永年間(1264~1275)以前にかけて成立したらしく、十編の短編物語から成っています。また『堤中納言物語』と呼ばれてはいるものの、「堤中納言」という人物は全く登場せず、書名の由来もわかりません。
 ここに引用したのは「虫愛(め)づる姫君」という話で、主人公は、按察使(あぜち)大納言の美しい姫君です。大納言と言えば左・右大臣に次ぐ要職ですから、公卿に数えられる上級貴族であり、姫君も多くの侍女に囲まれていたはずです。ところがお年頃になっても全く身なりをかまわず、虫ばかりに関心があります。そして蝶ならまだしも、毛虫を手の平の上を這わせ、思慮深い姿であると感じ取ります。また昆虫とは限らず、蛙・蜥蜴(とかげ)・蝸牛(かたつむり)などの小動物も含まれ、若い女性ならためらいそうな生き物を、平気で素手で捕まえるのです。
 こには引用しませんでしたが、「毛虫にしか関心がないと言われたくないでしょう」とたしなめられても、「苦しからず。よろづの事どもを尋ねて、末を見ればこそ、事はゆゑあれ。いとをさなきことなり。烏毛虫(かわむし)の、蝶とはなるなり」(別にかまわないわよ。全ての物事を追求して、それがどう成ってゆくかを見るからこそ、意味があるのよ。他人の噂を気にするなんて愚かなこと。毛虫は蝶になるのよ)と答えます。また皆がありがたがって着る絹織物は、蚕蛾の繭からできているではないかと、論理的に理の勝った物言いをします。
 ここでは「末を見ればこそ」と言い、引用した冒頭部では、「本地(ほんじ)」(本)をたずるねことも説いています。物事を表面的に理解するのではなく、本質に迫って理解することが大切であるという信念を持っているわけです。この姫君の心理を、異常と評価する人もいるでしょうし、当時ならばなおさらそうだったでしょう。しかし「変態」の一言で片付けることはできません。この姫君が活き活きとしていることは、誰もが認めざるを得ないではありませんか。
 この姫君の年齢はわかりませんが、文中にそれを推測する手掛かりがあります。「ある上達部(かんだちめ)の御子」(ある名家の御曹司)がこの姫君に興味を持ち、動く仕掛けのある蛇の細工物と歌を贈ってよこした時、「仮名はまだ書き給はざりければ、片仮名」で返歌を書いたという場面があります。また「丈立(たけだ)ちよきほどに、髪も袿(うちき)ばかりにて」(身の丈も程よく、髪の長さも袿の辺りまで伸びていて)と記されています。お歯黒や引き眉をする年齢であったのですが、これは当時の女性の成人式である裳着(もぎ)を済ませた女性の風習で、裳着は十代前半に行われるものでした。身長は程々にあり、髪は床に着く程長くはなく、和歌らしきものは一応は詠めても、連綿する平仮名で書くのはまだ不慣れで、本来ならお歯黒と引き眉をしている年齢であるというのですから、これらのことを総合すれば、現代の中学生くらいの年齢でしょう。現代っ子ならば反抗期の真盛りで、理詰めで反抗したくなる年齢でもあります。
 一方では「かたつむりの角がけんかするのはどうしてなの」と、子供達と一緒に大きな声で童謡を歌う、可愛らしい場面もあります。これは荘子の思想に基づく故事である、「蝸牛角上の争」によっています。それはともかくとして、平安時代末期の歌謡集である『梁塵(りようじん)秘抄(ひしよう)』にも、「舞へ舞へ蝸牛(かたつむり)・・・・まことに美しく舞うたらば 華の園まで遊ばせん」という歌詞が収録されています。「かたつむりよ踊ってごらんよ。可愛らしく踊ったら、きれいな花の庭で遊ばせてあげるよ」という意味ですから、これは子供がかたつむりと遊んでいる場面です。かたつむりが触覚や突き出た目ゆっくりと動かしながら進む様子を「舞う」と見ているわけです。「でんでんむし」という名前も、引っ込んでしまった蝸牛に、「出て来い出てこい」と子供が呼びかけたことが、「出々虫」と訛ったことによるもので、江戸時代の初期の文献(『日(ひ)次紀事(なみきじ)』という歳時記の四月末尾)で確認できます。そう思えば、「虫愛づる姫君」も決して変態ではなく、可愛らしく見えてくるのではありませんか。
 宮崎駿(はやお)の名作『風の谷のナウシカ』(漫画版原作)の後書きには、「私の中で、ナウシカと虫愛ずる姫君はいつしか同一人物になってしまっていた」と、記されているそうです。もちろん『風の谷のナウシカ』を生み出した発想はそれだけではないと思いますが、「虫愛づる姫君」の話が、現代人にもなお魅力のあるものであることを表しているのでしょう。

『日本書紀』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2022-08-15 09:54:18 | 私の授業
日本書紀


原文
 戊申(つちのえさるのひ)、天皇(すめらみこと)大極殿(おおあんどの)に御(おわしま)す。古人大兄(ふるひとのおおえ)侍(はべ)り。中臣鎌子連(なかとみのかまこのむらじ)、蘇我入鹿臣(そがのいるかのおみ)の人為(ひととなり)疑(うたがい)多くして、昼夜剣(たち)持(は)けることを知りて、俳優(わざひと)に教へて、方便(たばか)りて解(ぬ)かしむ。入鹿(いるか)臣(のおみ)、咲(わら)ひて剣(たち)を解(ぬ)く。入りて座(しきい)に侍(はべ)り。倉山田麻呂臣(くらやまだのまろのおみ)、進みて三韓(みつのからひと)の表文(ふみ)を読み唱(あ)ぐ。是(ここ)に中大兄(なかのおおえ)、衞門府(ゆけいのつかさ)に戒(いまし)めて、一時(もろとも)に倶(とも)に十二(よも)の通門(みかど)を鏁(さしかた)めて、往来(かよ)はしめず。衞門府を一所(ひとところ)に召し聚(あつ)めて、将(まさ)に給禄(ものさず)けむとす。
 時に中大兄、即ち自ら長き槍(ほこ)を執(と)りて、殿(との)の側(かたわら)に隠れたり。中臣鎌子連等(ら)、弓矢を持ちて為(い)助衞(まも)る。海犬養連(あまのいぬかいのむらじ)勝麻呂(かつまろ)をして、箱の中(うち)の両(ふたつ)の剣(たち)を佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)と葛城稚犬養連網田(かつらぎのわかいぬかいのむらじあみた)とに授けしめて曰はく、「努力努力(ゆめゆめ)、急須(あからさまに)に斬るべし」といふ。・・・・
 倉山田麻呂臣、表文(ふみ)を唱(よみあ)ぐること将(まさ)に尽きなむとすれども、子麻呂等の来(こ)ざることを恐りて、流(い)づる汗身に浹(あまね)くして、声乱れ手動(わなな)く。鞍作臣(くらつくりのおみ)、怪(あやし)びて問ひて曰はく、「何故か掉(ふる)ひ戦(わなな)く」といふ。山田麻呂(やまだのまろ)、対(こた)へて曰はく、「天皇(すめらみこと)に近つける恐(かしこ)みに、不覚(おろか)にして汗流(い)づる」といふ。
 中大兄、子麻呂等の、入鹿が威(いきおい)に畏(おそ)りて、便旋(めぐら)ひて進まざるを見て曰(のたま)はく、「咄嗟(やあ)」とのたまふ。即ち子麻呂等と共に、出其不意(ゆくりもな)く、剣(たち)を以て入鹿が頭肩を傷(やぶ)り割(そこな)ふ。入鹿驚きて起(た)つ。子麻呂、手を運(めぐら)し剣を揮(ふ)きて、其の一つの脚(あし)を傷(やぶ)りつ。入鹿、御座(おもと)に転(まろ)び就(つ)きて、叩頭(の)みて曰(もう)さく、「当(まさ)に嗣位(ひつぎのくらい)に居(ましま)すべきは天子(あめのみこ)なり。臣(やつこ)罪を知らず。乞ふ、垂審察(あきらめたま)へ」とまうす。天皇大(おお)きに驚きて、中大兄に詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「知らず、作(す)る所、何事有りつるや」とのたまふ。中大兄、地(つち)に伏して奏(もう)して曰(もう)さく、「鞍作(くらつくり)、天宗(きみたち)を尽し滅して、日位(ひつぎのくらい)を傾(かたぶ)けむとす。豈(あに)天孫(あめみま)を以て鞍作に代(か)へむや」とまうす。天皇、即ち起(た)ちて殿の中(うち)に入りたまふ。佐伯連子麻呂・稚犬養連網田、入鹿臣を斬りつ。

現代語訳
 (皇極天皇四年六月)十二日、皇極天皇が大(だい)極(ごく)殿(でん)にお出ましになり、古人大兄皇子(ふるひとおおえのみこ)(入鹿の従兄弟)がお側(そば)に侍った。中臣鎌足は、蘇我入鹿の性格が疑い深く、昼も夜も帯剣していることを知り、俳優(滑稽な仕ぐさで歌舞などする役者)に智恵を付けて入鹿を欺(だま)し、剣を外(はず)させた。(何も知らない)入鹿は笑って剣をぬき、中に入って座に着いた。倉山田麻呂は御座の前に進み出て、三韓(高句麗・百済・新羅)の上表文を読み上げる。(その間に)中大兄は門衛に命じ、一斉に皇居の全ての門を堅く閉め、誰も通らせないようにした。そして門衛を一カ所に召し集め、褒美を授けようとした。
 そして中大兄は、自ら長い鉾(ほこ)を執(と)って大極殿の陰に隠れ、中臣鎌足らは弓矢を持ってこれを護衛した。そして海犬養連勝麻呂に命じ、箱の中から二本の剣を、佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田に授け、「必ず素早く斬れ」と言った。・・・・
 倉山田麻呂は、上表文を読み終わりそうになるのだが、子麻呂達が出て来ないことを心配して、全身に汗が流れ、声が乱れ手も震えている。それを鞍作(入鹿)が怪しみ、「何故震えているのか」と言うと、山田麻呂は「畏れ多くも御前に近付き、不覚にもて汗が流れてしまいます」と言った。
 中大兄は、子麻呂達が入鹿の威勢に恐れたじろぐのを見て、「やあ」と掛け声諸共(もろとも)、たちまち子麻呂達と共に不意に跳び出し、剣で入鹿の頭や肩に斬り付けると、入鹿は驚いて立ち上がったが、子麻呂が剣を振るって片方の脚に斬りつけた。入鹿は御座の前に転げ落ち、「日嗣の御位にお立ちになるのは、天(あめ)の皇子(みこ)でございます。私にいったい何の罪がありましょう。何卒(なにとぞ)お取り調べを」と哀願して言った。天皇は大いに驚き、中大兄に「どうしたのだ。いったい何事であるか」と言われた。中大兄は 平伏して奏上し、「鞍作(入鹿)は皇子たちを全て滅ぼし、御位を侵そうとしております。 どうして天孫を以て鞍作に代えることができましょうか」と言った。天皇は直(す)ぐに立って御殿の中に入ってしまわれ、佐伯連子麻呂と稚犬養連網田は入鹿を斬った。

解説
 『日本書紀(にほんしよき)』は『古事記』 に遅れること八年、養老四年(720)に完成した日本最初の本格的な歴史書です。編纂したのは天武天皇の子である舎人(とねり)親王らで、天武天皇十年(681)の歴史書編纂の勅命以来、三九年を要した大事業でした。『日本書紀』は、その叙述方法が『古事記』とは全く異なっています。『古事記』の材料ともなった『帝紀(ていき)』『旧辞(きゆうじ)』を初めとして、諸豪族や地方に伝えられた記録、政府の公的記録、寺院の縁起、百済系渡来人の記録など、様々な資料が集められて参照され、曲がりなりにも歴史書としての体裁を整えているからです。
 ただ『日本書紀』という書名には、早くから疑義がありました。中国の歴史書には「○○書」や「○○紀」はあっても、「○○書紀」という例はありません。『続日本紀』の養老四年(720)の記事には、「日本紀(にほんぎ)を修す」と記され、続く歴史書が『続(しよく)日本紀』『日本後紀(こうき)』『続日本後紀』であることからすれば、「日本紀」が本来の書名であったという説には、説得力があります。しかし弘仁三年(812)に行われた『日本書紀』の講読会である「日本紀講筵」の講義記録である『弘仁私記』には、「日本書紀」という呼称があり、決定的な定説がありません。
 『日本書紀』の原文には、大和言葉独特の訓が付けられています。これらは七二一年から九六五年までの間に宮中で七回も行われた日本紀講筵の講義記録や、『古事記』に比べてはるかに多い『日本書紀』の古写本に記された訓読史料などを参考にして、当時の訓(よ)み方が推定再現されているからです。もちろん編纂当時の訓そのものである確証はありませんが、奈良時代の古い訓も残存しています。録音はあり得ませんから、古い日本語の読み方がわかる史料として、言語学的に大変に貴重なものなのです。ただ現代人が意味を理解するなら、音読みの方がかえってわかりやすい場合もあります。例えば、「天皇(すめらみこと)大極殿(おおあんどの)に御(おわしま)す」なら、「天(てん)皇(のう)、大(だい)極(ごく)殿(でん)に御(ぎよ)す」と読んだ方が理解できるでしょう。
 ここに載せたのは、大化の改新に先立つ乙(いつ)巳(し)の変(645)の場面です。皇極天皇は中大兄皇子の母に当たる女帝で、あくまでも次の天皇が即位するまで、つなぎとして即位していました。次の天皇候補者としては、蘇我入鹿の従兄弟(いとこ)に当たる古人大兄皇子(ふるひとおおえのみこ)と、同じく従兄弟で聖徳太子の子である山背(やましろ)大兄王(おおえのみこ)、そして蘇我氏とは血縁がなく、古人大兄皇子の異母弟に当たる中大兄皇子の三人がいました。蘇我氏としては中大兄皇子は論外であり、山背大兄王は血縁があっても、蘇我氏にとり聖徳太子(厩戸王)は何かと煙い存在でしたから、古人大兄皇子を即位させたいと考えていました。
 そのために皇極天皇二年(643)、入鹿はまず山背大兄王の館を襲撃し、終(つい)には自殺に追い込みます。中大兄皇子は、次は自分が狙われると危機感を持ったに違いありません。そして折しも長期留学から帰国していた遣隋・遣唐留学生等の新知識人らと結びつきます。『日本書紀』には、中大兄皇子と中臣鎌足が、「周孔の教(のり)(儒教)を南淵先生(みなぶちのせんじよう)の所(もと)に学ぶ。遂に路上(みちのあいだ)、往還(かよ)ふ間(ころおい)、肩を並べて潜(ひそか)に図(はか)る」と記されています。儒教を学ぶと称して南淵請安のもとに通い、実際には唐の律令制について学んだに違いありません。そしてそれは後に大化の改新の詔に反映されます。また途次(みちすがら)、蘇我氏打倒の秘策を練ったのでしょう。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『日本書紀』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。







『おらが春』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2022-08-03 20:03:43 | 私の授業
おらが春


原文
 楽しみ極(きわま)りて愁(うれ)ひ起(おこ)るは、うき世のならひなれど、いまだ楽しびも半(なか)ばならざる、千代の小松の、二葉ばかりの笑ひ盛りなる緑子を、寝耳に水のおし来るごとき、あら 〳〵しき痘(いも)の神に見込れつゝ、今、水膿(うみ)のさなかなれば、やをら咲ける初花の泥雨(でいう)にしほれたるに等しく、側(そば)に見る目さへ苦しげにぞありける。是も二三日経(へ)たれば、痘はかせぐちにて、雪解(ゆきげ)の峽土(かいつち)のほろ〳〵落(おつ)るやうに、瘡蓋(かさぶた)といふもの取(とれ)れば、祝ひはやして、桟(さん)俵(だら)法師(ぼうし)といふを作りて、笹湯(ささゆ)浴(あび)せる真似(まね)かたして、神は送り出(いだ)したれど、益々弱りて、昨日(きのう)より今日は頼み少なく、 終(つい)に六月二十一日の蕣(あさがお)の花と共に、此世をしぼみぬ。母は死顏にすがりてよゝ 〳〵と泣もむべなるかな。この期(ご)に及んでは、行(ゆく)水のふたゝび帰らず、散る花の梢(こずえ)にもどらぬくひごとなどゝ、あきらめ顏しても、思ひ切がたきは恩愛のきづな也けり。
   露の世は露の世ながらさりながら      一茶
 
現代語訳
 楽しみを尽くした後、何か愁いを感じるのは、定めなきうき世のならいとは言うものの、まだ楽しみが半ばにもなっていない、言わば千代の松がまだ芽生えたばかりの、可愛い盛りの幼子は、寝耳に水の如く突然に、荒々しい疱瘡(ほうそう)神に見込まれてしまった。今は膿(うみ)でただれている最中で、漸く咲き始めた初花が、泥混じりの雨に打たれて萎(しお)れてしまったのと同様に、側で見ているだけでも、実に苦しそうであった。このような状態も二三日すると水疱が乾き、雪解けの崖の土がはらはらと剥がれ落ちるように、瘡蓋(かさぶた)というものが取れてきたので、祝い事として桟俵(さんだら)(俵の両端にあてがう丸い蓋)法師というものを作り、笹湯を浴びせる真似事(まねごと)をして、疱瘡神を送り出したけれど、幼子はますます衰弱して、昨日よりは今日と、覚束(おぼつか)なくなり、終(つい)に六月二十一日には、朝顔の花が萎(しぼ)むのと共に、この世を去ってしまった。母は死に顔にとり縋(すが)ってよよと泣いたが、それも無理はない。こうなったからには、流れ行く水が元に戻ることなく、散った花が元の梢に戻らないように、悔いの残ることだと諦め顔はしてみるものの、切るに切れないものは、恩愛の絆というものである。
 この世が露のように儚(はかな)いことはわかっていても、それにしてもなぜ(娘がこれ程幼くして亡くなってしまうとは)

解説
 『おらが春』は、信濃国の俳人小林一茶(こばやしいつさ)(1763~1827)の俳文集で、文政二年(1819)、五七歳の時にまとめられました。いずれ刊行するつもりだったのですが、実現せず、一茶の没後、稿本を収蔵していた門人により、嘉永五年(1852)に出版されました。書名は、その最初の句である「目出度さもちう位也おらが春」から採られています。
 一茶の生涯は、悲しみと苦悩の連続でした。信濃国水内(みのち)郡柏原の中農の家に生まれましたが、三歳で母と死別しました。『おらが春』には、幼い頃を思い出しつつ、「我と来て遊べや親のない雀」という句が収められています。その後、八歳で迎えた義母や異母弟との折り合いが悪く、十五歳で江戸に奉公に出されました。そして江戸では二五歳で俳諧修業を始め、三十歳代には俳人として身を立てるべく、西国へ足掛け七年も旅行しています。四十歳代になると、俳諧師としてその名が全国的に知られるようになりました。俳諧師の生活の糧は、各地の俳諧愛好者の結社に師匠として迎えられ、歓待されたり、何がしかの報酬を得て成り立っていました。信濃に帰郷するに際しても、北信濃に前もって一茶社中の結成に奔走しています。
 そして五十歳で故郷に帰り、五二歳で漸く結婚しますが、妻は二八歳でした。しかし、三男一女はいずれも二歳未満で夭折してしまいます。六一歳の時にその妻も三七歳で亡くなり、翌年に再婚するのですが、半年で離婚します。そして六三歳で再々婚しますが、六五歳で一茶自身も亡くなってしまいます。三人目の妻との娘は成長しますが、生まれたのは一茶の没後のことでした。また父没後、義母・義弟との遺産相続争いが十三年間も続いていました。一茶の生涯は、親の愛情が薄く、家庭的な幸福とはおよそ縁遠いものだったのです。一茶の句風は、方言を用いたり、弱者への優しい眼差しがあることが特徴で、わかりやすいことから、国語や歴史学習の教材として親しまれています。しかしそれがどのような境遇から生み出されたものであるかを知らなければ、本当の意味で一茶を理解することはできないでしょう。
 それだけに娘の「さと」が生まれてしばらくの間は、家庭的には最も幸せな時期でした。『おらが春』には、「さと」が生まれた後の、可愛らしい仕草や育児が描写されています。「てうち(ちようち)〳〵あはゝ、天窓(おつむ)てん〳〵」、「わん〳〵はどこにと言へば犬に指(ゆびさ)し、かあ〳〵はと問へば、烏に指さすさま、口もとより爪先(つまさき)迄、愛嬌こぼれてあいらしく、いはゞ春の初草に胡蝶の戯るゝよりも、やさしくなん覚え侍る」という具合で、目に入れても痛くない程の溺愛ぶりです。
 ここに載せたのは、「さと」が疱瘡で亡くなる場面です。晩年に漸く授かった娘を、わずか在世四百日で失う悲しみは、想像を絶するものであったことでしょう。晩年に国司として赴任した土佐で、幼い娘に先立たれた紀貫之は、その悲しみを『土佐日記』に綴りました。同様に一茶は『おらが春』に綴ったのです。「笹湯」は、疱瘡が癒えた後、米のとぎ汁や酒を混ぜたお湯を浴びせたり、それを赤い手拭いに浸して身体を拭く、一種の呪(まじない)的民間療法です。
 最後に『おらが春』のよく知られた句を、いくつか上げておきましょう。
 目出度さもちう位也おらが春 
 這(は)へ笑へ二つになるぞけさからは
 雀の子そこのけ〳〵御馬が通る
 悠然として山を見る蛙かな
 我と来て遊べや親のない雀
 名月を取ってくれろと泣く子かな
 ともかくもあなた任せの年の暮 (巻末の句) 


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『おらが春』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。