うたことば歳時記

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 芹摘みの歌

2024-03-29 07:18:18 | うたことば歳時記
             芹 摘 み の 歌

 春の七草に数えられる芹は早くから食用となり、数少ない在来の野菜の一つです。独特の芳香は、セリ科の野菜である人参・セロリ・ウイキョウ・三つ葉・パセリなどにも共通しています。水辺にはそれこそ「競(せ)り」合うように生育し、我が家の周辺では、自生しているものをいくらでも摘めます。
 芹を詠んだ歌をいくつか上げてみましょう。
  ①根芹摘む春の沢田におり立ちて衣の裾(すそ)の濡(ぬ)れぬ日ぞなき(好忠集)
 芹は水際に生えているので、摘むときにはいつも衣が濡れるというのです。「根芹」は慣用的表現で、芹はその地下茎の節から真っ白くて細い根を伸ばすため、江戸時代の博物書である『本草綱目啓蒙』には、「白根草」の異称も見えます。実際、水の流れのあるようなところで芹を引くと、泥が洗われて白い根が大層美しいものです。西行もこの根の白いことに思うことがあったようで、次の②の歌を詠んでいます。
  ②足すすぐ沢の小芹の根を白みきよげに物を思はすもかな(夫木抄)
「きよみ」の「み」は「・・・・なので」という意味ですから、洗われるように白い根に、心が浄められると思ったのでしょう。確かに小川の流れの中で芹の白根を見ると、私でも同じ様に思ったものです。
 この「根(ね)」の音が泣くことを意味する「音(ね)」に通じ、摘むときに衣の裾や袖が濡れることから、古歌では恋の歌に仕立てられたりもします。
  ③いかにせむ御垣(みかき)が原につむ芹のねにのみ泣けど知る人もなき(千載集)
  ④何となく芹と聞くこそあはれなれ摘みけん人の心知られて(山家集)
③の「ねに泣く」は「音に泣く」、つまり声にだして泣くことで、恋に泣いても私の心をわかってくれる人はいない、という意味です。③の「御垣が原」とは 宮中や貴人の邸宅内の草地のことなのですが、10世紀初期の法令集である『延喜式』の大膳式には、皇居に芹を専門に栽培する芹田があったと記されていますから、身分に関係なく好まれていたようです。
 この御垣が原には一寸した逸話があのます。る。『俊頼髄脳(としよりずいのう)』という歌論書などに見えているのですが、宮仕えの卑しい男が内裏の掃除をしていたとき、突風が御簾(みす)を巻き上げてしまった。そして皇后様が芹を召し上がっているところを見てしまい、すっかり魅せられてしまった。そして芹を献上したく、思い出しては御簾の近くに置いてはみるが、これといったこともない。それでついに焦がれる余りに病気になり、芹を摘んで供養して欲しいと言い遺(のこ)して死んでしまったというのです。そして「芹摘みし昔の人も我がごとや心に物はかなはざりけむ」という歌が添えられています。この逸話と歌はかなり流布されていたらしく、『枕草子』230段や『狭衣(さごろも)物語』四にもそれを踏まえた記述があります。そしてこの話によって、「御垣が原に芹を摘む」ことが、かなわぬ恋の思いを表すことになりました。③④はこの故事を踏まえて詠まれたものなのです。
 以上のような背景や「濡れる」「根と音」の相乗効果から、芹摘みにはかなわぬ恋のイメージが伴うことになりました。しかし現代ではそのような印象はありません。芹を摘むごとに切ない思いをするようでは、心の病になってしまいます。それより次の⑤の歌ように、芹の葉を摘みつつ歳(とし)の端(は)を積み(長生きすること)、⑥のように人に贈って長寿を寿ぎ、明るく理解したいものです。
  ⑤春ごとに沢辺に生ふる芹の葉を年とともにぞ我は摘みつる (好忠集)
  ⑥春日野の雪消(ゆきげ)の沢に袖垂れて君がためにと小芹をぞ摘む (堀河院百首)
 そこで私も一首詠み添えます。
  〇降り注ぐ光の岡辺 みどりなす芹生(せりふ)の清水に 春わきいづる
蛇足
 私は摘んだ芹をさっと茹でてから細かく刻み、しらす干しか削った鰹節と少しの醤油を白いご飯に混ぜて食べています。そのまま食べてもよいのですが、時期が遅くなった芹は筋っぽくなるので、細かく刻んだ方が食べやすく、香りも引き立ちますから。一度お試しあれ。

公文書の元号表記  日本史授業に役立つ小話・小技 35

2024-03-23 19:05:20 | 私の授業
公文書の元号表記  日本史授業に役立つ小話・小技 35

埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。 

公文書の元号表記 
 一般的には、現在の公文書には日付が元号で表記されています。中にはそれが気に入らない人もいることでしょう。確かに元号には利便性において西暦に及ばない点がありますから、私はそのような主張にも一理あることは十分に尊重するつもりです。しかし元号を使用することには、利便性だけでは片付けられない、歴史的な意義があるのです。養老令という奈良時代初期の法典の儀制令という部分には、「文書に年を記す場合は、みな年号を用いなければならない」、と定められています。史料の原文は次の如くです。「凡(およ)そ公文(くもん)の年を記すべくんば、皆年号を用よ」。「公文」とは、まあ現在の公文書と言えるでしょう。養老令は、西暦701年の文武天皇の時に定められた大宝令をほぼ受け継いだものですから、大宝令にも同じ条文があったと考えられます。大宝令以前に年を表す場合は、「○○天皇何年」のように天皇の治世数で表すか、或いは干支を用いていたのですが、これにより年号の使用が法律的に裏付けられたことになります。
 年号の使用は、かつて中国を中心として朝鮮やベトナムの歴代王朝でも使われていました。しかし現在も使用しているのは日本だけです。なぜ日本では消滅しなかったのでしょう。理由はいくつかあるとは思いますが、公文書には必ず年号を用いよという令の規定があったこともその一つだと思います。養老令の儀制令を読むことなどまず普通はありませんから、あまり知られていないと思いますので、敢えて御紹介してみました。
 なお私はここでは元号と年号を併用しています。ネット情報でその区別が正しく説明されているのを見たことがないのですが、歴史的には明確な相異があります。年号という言葉は、和銅改元の際に初めて用いられ、以後は六国史にたくさん見られます。つまり「年号」が正式な呼称だったのです。「元号」が用いられるようになったのは、一般には明治の一世一元の制以後という説明が多いのですが、これは明白な誤りで、明治改元の詔には、「今後年号ハ御一代一号ニ定メ慶応四年ヲ改テ明治元年ト為ス及詔書」と明確に記されていますから、この時点でも「年号」が正式な呼称でした。これは日本史の先生でも誤解していることが多いと思います。「元号」の表記が正式に用いられるのは、明治憲法と共に公布された皇室典範以後のことです。ただし終戦で皇室典範は無効となり、それ以後は慣習的に元号が使われていましたが、現在では元号法が施行されていますので、「年号」ではなく「元号」が正式な呼称なのです。
 以上の様に法律上は違うのですが、日常生活では混同して用いられていますから、あまり神経質になることはないと思います。それより公文書に年号・元号を用いることは、大宝令・養老令以来のことという事を確認しておきましょう。

コークス  日本史授業に役立つ小話・小技 34

2024-03-22 07:28:53 | 私の授業
コークス  日本史授業に役立つ小話・小技 34

埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。


 日本史の授業で、現代の生徒にとってイメージが浮かばない物の一つがコークスです。最近の若い先生は、コークスの原料である石炭すら見たことがないようです。私が小学生の頃は、小学校の日直当番は、冬には必ず石炭小屋から石炭を取ってきたり、灰を捨てにゆくことが大切な仕事でした。ですから板を細かく割って付け木とし、新聞紙に燐寸で火を点けて石炭が燃えるようにすることは、中学年以上なら誰でもできることでした。現在の小学生は。燐寸で点火することさえおっかなびっくりしています。小学生の前で木の摩擦で発火させた時など、私はヒーローでした。生徒や若い先生が、石炭はおろかコークスを見たことがないのも無理はありません。しかし社会科・地歴科の先生ともあろう者が石炭やコークスの製造原理をしらなかったり、触って見たことがないというなら、体験的に学ぶということを、もっと真剣に考えなければなりません。
 コークスという呼称は日本史の教科書に登場しません。しかし八幡製鉄所建設に関連して、製鉄の燃料であり、また鉄の還元材料として不可欠なるコークスに触れないわけにはいきません。そもそもコークスは石炭を乾留して作られます。「乾留」とは聞き慣れない言葉ですが、空気を遮断して加熱し、熱分解反応を起こさせる工程のことです。空気が遮断された状態で石炭を加熱しても、酸素がありませんから燃えることはありません。しかし水や可燃性・揮発性のガスなどが熱分解によって、硫化物・コールタール・ピッチ・アンモニアなどの成分が石炭から放出され、炭素が残ります。コークス特有であるスポンジ状の微細な穴は、それらのガスが抜け出た痕跡です。要するに乾留によって炭素の比率が著しく増加し、燃焼時に高熱を発生するようになるわけです。
 ついでのことですが、木を乾留すれば同じ理屈で炭ができます。小学生くらいの時は、「炭焼き」ということがどうしても理解できませんでした。なぜ炭は燃え尽きずに残るのだろうかという疑問があったからです。しかし酸素が遮断された状態で焼くという乾留の原理を理解してからは、焚き火の灰の中に閉じ込められた木片が消し炭となって残ることは、中学生になって理解できました。
 本格的な製鉄所の立地条件は、コークスの原料となる石炭が豊富に入手できること、日本では産出の少ない鉄鉱石の輸入に適した水深の深い港があること、広大な敷地が確保できること、冷却用の水が豊富であること、石灰石を大量に採掘できることなどが上げられます。その他には軍事的防衛のためには外洋に面していないこと、労働者の確保が容易なことなども上げられます。石炭は筑豊炭田で確保できました。鉄鉱石は中国の長江中流の大冶鉄山から運ばれました。一般に石灰岩まで言及されることは少ないのですが、石灰岩は鉄鉱石に含まれるアルミナなどの鉄以外の成分やコークスの灰を取り除くのに不可欠なのです。石灰石を加えるとそれらの成分と溶融して一体となり、比重が鉄より軽いので、溶けた鉄と分離して回収されます。石灰岩は北九州の平尾台や近くの山口県秋吉台で豊富に採れました。候補地としては呉・大里(門司)・板櫃(小倉)・八幡が最終的に残ったのですが、呉以外はみな北九州であり、順当なところなのでしょう。
 もちろんコークスを生徒に見せなくても、先生がコークスを見たことがなくても授業はできます。しかしコークスに限らず実物を見ておくことにより理解は深まりますし、炭焼きにも用いられる乾留という工程を知ることにもなります。コークスを入手するといっても、大量に必要なわけではありません。最も手軽なのは、工業高校の先生に、教材にするというわけを説明して、分けていただくのがよいでしょう。


サッポロビールの五稜星 日本史授業に役立つ小話・小技 33

2024-03-14 06:59:04 | 私の授業
サッポロビールの五稜星  日本史授業に役立つ小話・小技 33

埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

サッポロビールの五稜星
 明治維新早々の明治2年7月、北海道の開拓のために開拓使が置かれました。もっとも「北海道」という呼称ができたのは、その翌月のことです。江戸時代以来の「蝦夷地」では差別的な意味ですから、具合が悪かったのでしょう。いろいろ経緯があるそうですが、最終的には、律令制的名称である東海道・南海道・西海道を参考にして、8月に太政官布告により「北海道」と名付けられました。今思えばそう名付けられるのも自然で、よい名前だと思います。よく勘違いされるのですが、「北海道」という呼称より「開拓使」の方が早くできていますから、「北海道開拓使」という呼称は存在しません。「使」という官庁名は現代人にはピンと来ませんが、歴史的には勘解由使・検非違使・押領使・追部使など、平安時代初期の令外官に多くの例があり、あくまでも臨時的な任務を持つ官と理解されていたのかもしれません。
 開拓使のシンボルは赤い五稜の星なのですが、まず明治5年、北海道の船艦の旗章として青地に赤色の五稜星をあしらった旗が定められました。星は北極星(北辰ともいう)を表しています。考案したのは蛯子(えびこ)末次郎という人で、開拓使が所有する船の船長をしていたそうです。船乗りにとって北極星は、大海原における方位の手掛かりとなる重要な星であり、青色は「北海道」の「海」なのでしょう。末次郎が航海術を学んだ蘭学者武田斐三郎は、函館五稜郭の設計者でしたから、末次郎の脳裏には、きっと師の設計した五稜郭も脳裏をかすめたことでしょう。
 制定されて以来、この赤い五稜星は、開拓使の建造物のあちらこちらに掲げ描かれました。現在でもサッポロビール博物館・札幌開拓使麦酒醸造所・札幌市時計台・北海道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)などで見ることができます。実際にはもっとあるのでしょうが、私は確認できていません。特に旧札幌農学校演武場であった札幌市時計台は観光名所ですから、見たことのある人も多いことでしょう。
 開拓使はそれこそ北海道開拓のために、実に様々な事業を興しました。北海道は冷涼な気候のため稲作には適しませんが、麦なら栽培できます。そこで開拓事業の一つとして、明治9年に麦酒醸造所が設立されました。そして明治14年に有名な開拓使官有物払下げ事件が起きますが、この時払い下げられた物件の中に、開拓使麦酒醸造所が含まれていました。さらに明治19年には大蔵喜八郎の大倉組商会に払い下げられ、翌年には浅野総一郎・渋沢栄一らがこれを買い取って札幌麦酒会社を設立し、その後いく度かの合併や変遷を経て、現在のサッポロビールにつながります。こうして開拓使のシンボルである五稜星は、サッポロビールに継承されてきたわけです。ただ一般的に出回っている商品は金色の星が多く、赤星(あかぼし)はラガービールに継承されています。初めて作られたビールがラガービールだったというこだわりなのでしょう。またサッポロビールの容器には、瓶にも缶にも必ず創業年が「since1876」と記されていて、歴史を感じさせます。開拓使について学習する際は。私は授業にいつもビールを持っていき、生徒の前で飲んで見せました。生徒は驚いていますが、もちろん中身は水です。一瞬驚かせて種明かしをするのですが、注意をひき付ければ生徒の記憶に焼き付くことでしょう。

音読みと訓読み 日本史授業に役立つ小話・小技 32 

2024-03-06 09:23:36 | 私の授業
音読みと訓読み  日本史授業に役立つ小話・小技 32


埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

音読みと訓読み 日本史授業に役立つ小話・小技 32  

 漢字には、「菊」のように音読みだけで、訓読みがないものもありますが、原則としてほとんどの漢字に音読みと訓読みがあります。このことは余りにも当たり前すぎて、普段は誰もそこに素晴らしい歴史が隠れていることを意識しません。日本人が漢字を使用するようになったのは古墳時代のことですから、時間を古墳時代に設定してお話しましょう。
 今ここに犬がいました。大和人達はその犬を指さしてinuと呼びました。そこへ半島からやって来た渡来人が犬を指さしてkenと呼びました。実際には中国語的な発音だったでしょうが、大和人にはその様に聞こえたのでしょう。そして地面に何やら直線で徴(しるし)を書き、それを指さして同じくkenと言いました。それを見ていた大和人達は、物識りの渡来人が犬をkenと呼び、地面に何やら徴を書いて同じ様にkenと言ったので、kenとは彼等の言葉でinuのことであり、字面に書いた徴はinuを意味する記号であろうと考えました。興味を持った大和人達は、次々に質問攻めにして、多くの漢字と音読みを覚えてゆきました。
 今お話したことはもちろん私が想像したことに過ぎません。しかしそのような場面が繰り返されたに違いありません。文字を知らなかった大和人達は、渡来人がもたらした漢字を彼等の読み方と共に受け容れ、同時に大和言葉を漢字の読み方として付け加えたのです。この渡来人の漢字の読み方が音読みであり、大和人の読み方が訓読みと成ってゆくわけです。ちなみに冒頭に菊という漢字に訓読みがないと書きましたが、それは菊は奈良時代の末期に唐から伝えられた花であるためなのです。『万葉集』には菊を詠んだ歌が一首もないことは、その事を傍証しています。現代人は「きく」は訓読みと思い込んでいますが、水を掬(すく)うことを「掬水」(きくすい)と言うように、実は音読みなのです。こうして大和人達は漢字を次々に学んでその数を増やし、漢字と音読みはいつの間にか日本語の一部として消化吸収されていったのです。つまり漢字に音読みと訓読みがあるということは、古墳時代の大陸文化の受容の名残なのです。授業では古墳時代の大陸文化の伝来について、かなり時間を割いて学習します。具体的には横穴式石室・須恵器・乗馬の風習・漢字・儒教・仏教・鉄製武具など、豊富な内容です。中でも漢字・儒教・仏教は、その後のに湾文化に創造を絶する影響を与えることになります。漢字の使用開始については必ず学習しますが、訓読みと音読みが併用されていることに特に焦点を当てることはあまり聞いたことがありません。
 しかしこれは途方もなく創造的なことなのです。文字を知らなかった民族が、異国の文字とその読み方を受け容れ、一方では古来の大和言葉を失うことなく、両者を融合させて用い始めた。その営みは千数百年後にも伝えられ、高校を卒業するほどの国語の力のある人ならば、その頃の文や文字を、完璧ではないにせよ理解できるのです。現代の韓国人はもう漢字を学習しませんから、特別に教育を受けなければ、彼等の祖先が書いたものを読んで理解することができません。このことを参考にするならば、漢字に音読みと訓読みがあり、普通に日常的に使われていることがどれ程創造的な文化の痕跡であるか、そのことをもっと強調して学習してもよいと思います。歴史に「もし・・・・だったら」と考えることは、あくまでも想像上の話に過ぎませんが、漢字ではなく英語が最初に伝えられたとしたら、dogにinuという訓読みと、ドッグという音読みが付けられたのでしょうか?