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十月にもお月見をしたの?(子供のための年中行事解説)

2021-10-07 19:18:25 | 年中行事・節気・暦
十月にもお月見をしたの?
 中秋の名月のほぼ一月後の10月、旧暦ならば旧暦9月13日に、「十三夜」と称して月見をする風習がありました。また中秋の名月に続く二回目の名月ということから、「後の月」(のちのつき)「二夜の月」(ふたよのつき)とも称されました。満月のほぼ二日前のことですから、夕暮には既に東の空高く上っていて、十五夜よりわずかに欠けて見えます。十三夜の月を特別に愛でることは中国にも朝鮮にも例がなく、日本独自の風習です。11世紀から12世紀にかけて活躍した公卿藤原宗忠(むねただ)の日記『中右記』には、十三夜の起原について、宇多法皇がこの日の月を「本朝無双の明月」(日本に比べるものがない素晴らしい月)としようと言われたと記されています。そして十三夜のそのような理解は、江戸時代まで広く共有されるようになっていました。松尾芭蕉も『芭蕉庵十三夜』という文章を残していて、風流の心のある人ならば、宇多法皇と十三夜の逸話は、誰もが知っていることでした。
 一般の解説書には、8月15日の中秋の名月だけを眺めて、9月13日の月を眺めないことを、「片月見」「片見月」(かたみづき)と称して忌むべきことであるとか、縁起が悪いとして、半ば気分を害するように説明されています。江戸の一部にそのような風習があったのは事実です。しかしこの風習はかなり誤解されています。江戸時代末期の風俗解説書である『守貞謾稿』には、片月見について次のように記されていますので、現代語にしてみましょう。「江戸の風習では、8月15日に月見の宴で酒食をふるまわれたり宿泊した場合には、必ず9月13日にも再びそこに行って飲食をしたり宿泊するという人がいる。もしその様にしなければ、それを片月見と言って忌み嫌う。迷信も甚だしいが、『片付身』ということを嫌うことによるのだろう。そのため、一般には8月15日は他所に宿泊しないようにする」、というのです。一般的にそのような風習が広く行われていたということではなく、江戸にはその様なことにこだわる人もいるが、それは迷信であるというのです。これは主に吉原などの江戸の遊郭で言われたことです。吉原では節供や盆・十五夜・十三夜は「大紋日」(おおもんび)と呼ばれる一種の祝日で、揚代(あげだい、遊女や芸者を呼んで遊ぶときの代金)が二倍となるのが相場でした。ですから遊女が馴染みの客を取りたいあまりに、このような風習が行われるようになり、縁起を担ぐ裕福な男たちは、二倍の揚代を払ってでも見栄を張ったのです。それで懐(ふところ)に自信のない男たちは、うっかり8月15日には宿泊しないように気を付けた、というわけです。
 この風習が始まったのは、おそらく江戸時代のことと思われます。なぜなら十三夜の文献史料は古代以来たくさんあるのですが、それが忌むべきものという理解は、江戸時代より古い史料には全く見当たらないからです。また明治期の風俗志や年中行事の記録にも見当たりません。要するに遊郭がリピーターの客寄せのためにそのような仕来りを吹聴しただけのことです。ですからこの現代には全く関係のないことであり、「片見月は縁起が悪い」などとこわがらせることは感心できませんし、全く気に留めることはありません。年中行事の解説書には、この手の脅迫的なものが多いのは困ったことなのです。
 『守貞謾稿』によれば、十三夜の月見には、江戸では十五夜の月見団子と同じ団子、衣被(きぬかずき)の里芋、茹栗(ゆでぐり)、柿、枝豆の五種とすすきを供えるが、京坂地方では八月十五日も九月十三日も、すすきを供えないと記されています。月見にすすきを供えるのは、全国共通していたわけではないようです。江戸時代に既に「枝豆」という言葉があったというのは、なかなか面白いことだと思います。『日次紀事』(ひなみきじ)などの歳時記類には、豆や栗を供えるので、この日を「豆名月」「栗名月」と呼ぶと記されています。

 令和3年の旧暦9月13日は10月18日ですから、是非とも十三夜の名月を楽しんで下さい。


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