うたことば歳時記

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枇杷の花

2017-12-21 16:03:34 | 植物
 もう40年も前のこと、見合いに行く土産として、籠にいっぱいに詰めた枇杷の実を持っていったことから、家内は枇杷の実が好きになり、庭に枇杷を植えたいと言います。しかし狭い我が家の庭には植える余地がないので、今年の夏、持ち主のわからない隣の空き地に苗を植えてしまいました。もし怒られたら、その時は切り倒せばいいかというわけです。まだ植えたばかりで、背丈は2尺しかないのに、今を盛りと咲いています。一つの花は直径が1㎝程で、5枚の花弁があり、それが数十も集まって房状になっています。目立たないアイボリー色ですが、香りがよく、蜜が多いためでしょうか。虫がよく集まってきます。花のほとんどない厳冬の時期、虫たちにとっては貴重な食料源となっているようです。

 「枇杷」という音からして、中国伝来と思われますが、『万葉集』には見当たりません。『日本三代実録』の元慶七(883)年五月三日には、渤海国からの賓客に「枇杷子」(「子」は実という意味)を饗したことが記されていますから、この頃までには遣唐使を介して伝えられたのでしょう。10世紀初期の『延喜式』や『倭名類聚抄』には見えています。ただ当時の枇杷の実は今より小さかったでしょうし、種子ばかりが大きくて食べるところは少なかったからでしょうから、食用として植えられることはあまりなかったと思われます。古歌にもほとんど見当たりません。

①いささ(笹)めに時まつ(松)間にぞ日は(枇杷)へぬる心ばせを(芭蕉)ば人に見えつつ (古今集 物名 454)
②冬の日は(枇杷)木草のこさぬ霜の色を葉かへぬ枝の花ぞまがふる (拾遺愚草)

 ①は、かりそめに時を待っているうちに日ばかりが経ってしまいました。あの人を思う私の心を表に見えるようにしていたのに、という意味で、歌の中に笹・松・枇杷・芭蕉葉の4つの植物の名前を詠み込んだものです。このような歌は物名歌と呼ばれ、一種の言葉遊びになっていますから、枇杷そのものを詠んでいるわけではありません。②は、草木をすっかり枯れさせてしまう霜を、葉が落ちない枝に付いた花に見間違える、という意味でしょう。これも物名歌で、枇杷を詠んでいるわけではありません。「枇杷」が「日は」と同じ音であるため、物名歌に詠みやすかったこともあるでしょうが、歌を詠みたくなるような対象とは見られていなかったのでしょう。

 古にはあまり注目されなかったのですが、あらためて枇杷の花をよくよく見ると、なかなか風情があるものです。花が少ないこの時期に、相当長い間花が咲いています。目立つことはありませんが、その香には、同時期に咲く臘梅と共になかなか高貴な印象があり、存在感があります。人に注目されなくとも、寒さに負けずに健気に咲いている枇杷の花を見かけたら、うんと誉めて上げて下さい。

星の林

2017-12-18 12:46:11 | うたことば歳時記
先日、双子座流星群が見えるというので、久しぶりに星空を見上げました。我が家は埼玉県のど真ん中辺り。市街化は及んでいませんが、昔のように満天の星というわけにはいきません。かつてイスラエルに住んでいた頃に見た星空には、とうてい比べられません。

 日本の古歌には月を詠んだ歌は数限りなくあるのですが、星が詠まれることは極めて少ないのです。建礼門院(安徳天皇母、平清盛娘)に仕えた建礼門院右京大夫の「月をこそながめ慣れしか星の夜の深きあはれを今宵知りぬる」(建礼門院右京大夫集 252)という歌は、そのことをよく物語っています。その少ない星の歌の中でも、最もよく知られているのが柿本人麻呂の次の歌でしょう。

①天の海に雲の波立ち月の舟星の林に漕ぎ隠る見ゆ  (万葉集 1068)

この歌には「詠天」という題がありますから、星だけを詠んでいるわけではありません。夜空を海に、雲を波に、月を舟に、一面の星を林に見立てています。舟に見立てられる月は、おそらく満月ではないでしょう。天の川を牽牛や織女が舟で渡るという理解は『万葉集』の頃には広く共有されていましたから、夜空を海に月を舟に見立てることは、柿本人麻呂の独創ではなさそうです。また漢詩には当時からそのように見立てた表現があり、日本最初の漢詩集である『懐風藻』にも見当たりますから、漢詩の影響が濃厚です。しかし一面の星を林に見立てることは、他に例を知りません。私の力不足で知らないだけかもしれませんが、もしあったら御免なさい。しかしあったとしても広く共有される理解ではなかったでしょう。

 この詩情豊かな独特の表現は、例歌は多くはないのですが、その後も歌い継がれています。

②月の舟さし出づるより空の海ほしの林は晴れにけらしも  (新後拾遺 秋 379)
③冴ゆる夜の雲なき星の林より霜吹きおろす木枯らしの風  (夫木抄 7699)

②は、月が上って明るくなったために、それまでよく見えていた「星の林」がよく見えなくなったという意味にとれますが、反対に、月が出る夜となって、「星の林」がよく見えるようになったとも理解できます。③は霜の降りるような寒い冬の夜の木枯らしを詠んだ歌で、地上の霜は「星の林」から木枯らしが吹き下ろしたものと見ているわけです。霜は古くは「結ぶ」という動詞を導くものでしたが、次第に「降る」とか「降りる」という動詞を導くようになります。厳寒の夜空に輝く砂子のような星と、地上で月明かりにきらきら反射し見える霜の印象が似ていることから、そのように理解したものなのでしょう。歌としては、「星の林」の語感を活かしている点で、③の歌の方が成功していると思います。

 空気が乾燥する厳寒の今頃は、星の観察には適しています。無数の冬の星を眺めながら、それを「星の林」に見立てて御覧になって下さい。もし歌をお詠みになるのでしたら、「星の森」もよいかもしれませんね。「星の林」より奥行きが感じられて、無窮の宇宙を感じ取ることが出来るかもしれません。

○奥深き星の森より降る霜の音なき音の冴ゆる小夜中

左前の埴輪

2017-12-17 15:56:13 | 歴史
いきなりわざと意味不明の題を付けてしまいました。「左前の埴輪って何のこと?」と言われそうですね。古代には服の着方が左前か右前かというお話しです。

 先日、男性用と思って買って来た古着が、女性用の左前だったので、ボタンが留めにくくて苦労しました。女性はよくこんなにやりにくいものを、上手に留めるものだと思ったのですが、慣れればなんともないそうです。そんなことがあり、これが歴史の授業の一場面のヒントになると思ったわけです。

 話を進める前に、左前と右前を正しく理解しておきましょう。この場合の「前」は「前へならえ」の「前」ではなく、「手前」と理解しなければなりません。ですから左前は服の左半分を手前にし、右半分を後からその上に少し重ねるようにする着方ですから、これが和服なら左手を懐に入れることになります。これを「左衿」(さじん)と言います。反対に右前なら、右半分が手前になりますから、和服なら右手が懐に入るような着方で、これを「右衿」(うじん)と言います。ボタンで前を合わせる服ならば、女性用は左前、男性は右前、和服ならば男女共に右前ということになるのですが、洋服の場合は男女が反対になることから、和服の場合、女性が左前に着てしまうことがあります。これは一般には死装束とされていますから、とんでもない恥をかくことになってしまいます。まあとにかく、日本の伝統では、性別にかかわらず右前であったことを確認しておきましょう。

 そこで古代はどちらであったのか、ということなのです。古代の服の着方がわかる史料は、まずは人物埴輪が重要です。埴輪は3世紀の後期に出現しますが、初めは土管状の円筒埴輪ばかりです。4世紀になると器財・武具・家・鶏などの埴輪が出現し、人物埴輪は5世紀になってからのことです。

 人物埴輪の服を注意深く見てみると、服の重ね方までわかるものは多くはありません。しかしわかる場合は左前が多く、右前は大変少ないようです。全ての人物埴輪を見たわけではありませんが、全体の傾向としては間違いないでしょう。

 それならなぜ左前なのでしょうか。一般には5世紀の古墳時代中期に大陸・朝鮮半島から乗馬の風習が伝えられたことによるとされています。騎射をするには右手で弓の弦を引きますから、右前ですと矢を放つ時に邪魔になるため、騎馬民族の服は左前になっているとされています。乗馬や騎射が伝えられたということは、当然左前の風習も伝えられたはずです。しかも人物埴輪が登場する時期と重なりますから、人物埴輪は左前が多くなるというわけです。

 この説はかなり説得力があり、ほぼ定説化しています。しかし疑い深い私は、まだ納得できない部分があります。私は大学生の時、一年間弓道をしたことがありましたが、右前の服装で不便だと思ったことは一回もありませんでした。矢を放つ時、着物が弦に引っ掛かるということもありませんでした。

 日本では、『続日本紀』養老三年(719)2月3日には「初令天下百姓右襟」と記されていて、右前の服にあらためたことがわかります。これ以後は次第に右前が普及したのでしょうが、弓を扱う場合は左前のままであったという史料は見当たりません。実際、現代の弓道の服装に至るまで、弓を射る場合は右前のままになっています。また騎馬民族であるはずのチンギス・ハンやフビライ・ハンの肖像も、みな右前に描かれています。そうすると、騎馬や騎射の風習が伝えられたため、埴輪には左前で着こなしている人が多いという説は、盤石ではなくなります。この矛盾をどのように理解したらよいのでしょうか。

 まず明らかなことは、古墳時代前期以前のことについては、史料がないので右前とも左前ともわかりません。次に古墳時代中期以後には、左前が圧倒的に多く見られます。7世紀後半の高松塚古墳壁画では、まだ左前に描かれています。そして養老3年に右前に強制する命令が出され、それ以後は、正倉院御物の鳥毛立女図屏風でははっきりわかりませんが、右前のように見えます。天平文化の鑑真像では明らかに右前になっています。9世紀の薬師寺僧形八幡神像でも右前、平安時代の絵画史料はみな右前になっています。

 古墳時代に半島から左前が伝えられたということはおそらく事実でしょう。高句麗の影響が強い高松塚古墳の女官の服装は、高句麗と同じように左前になっていることは、その影響と見てよいと思います。ただ騎射のためにという理由なら、女性には当てはまりませんし、後世の武士は弓を射るのに右前になっていますから、矛盾が生じます。おそらくは、乗馬や騎射を伝えた大陸・半島系の人たちは、その頃は左前に着ていたということによるのではないかと思っています。弓を射るのに向いていたからではなく、乗馬の風習が伝えられた頃の渡来人が左前に着ていたからというのが正解なのだろうと思います。

 大陸の遊牧騎馬民族の間では、左前が多かったというのは、おそらく当たっていると思います。そうすると漢民族にしてみれば、左前は野蛮な夷狄の服装であるとして、敢えてそれと反対の右前の服装にこだわったことは、十分にあり得ることでしょう。自分たちは夷狄とは異なるという自尊心があったはずです。ですから唐代には右前が正式なものと理解されていたと考えてよいでしょう。もっとも唐代の長安は国際都市ですから、彼等が夷狄として蔑んだ人々が左前の服装をして歩いていたはずです。そして日本では古墳時代中期以降、左前が主流になっていたのですが、遣唐使によってもたらされた長安の風俗では右前が主流であったからこそ、敢えて右前に統一させる法令が出されたと理解できます。

 本来ならば唐代の史料として、膨大な唐三彩の人物像を調べたり、古代の騎馬民族の服飾制度を調べればよいのでしょうが、私にはそれだけの力がありません。ですから日本の絵画史料などから類推するしか方法がありません。ネット情報にはいかにも自分で調べたかのように、わかっているかのように書かれた情報が溢れていますが、安易に信用することはできないと思っています。

ハレルヤという言葉

2017-12-13 11:11:00 | その他
クリスマスが近付いてきました。賑やかな所では、クリスマスソングが流れています。その中に「ハレルヤ」という言葉を耳にしました。一応キリスト教徒の私は、その言葉が気になって仕方ありません。有名な「ハレルヤ・コーラス」の他に、日本には歌詞の中に「ハレルヤ」という言葉が含まれる歌がたくさんあるのですが、どの歌一つ取っても、ハレルヤの意味を正しく理解しているものはありません。

 私は長い間イスラエルに住んでいたことがあり、ヘブライ語を少々理解できます。しかしもう40年以上前のことなので、ヘブライ語もかなり忘れてしまいましたが・・・・。「ハレルヤ」とはもともとは旧約聖書に書かれた「ハレルー」(褒め讃えよ)と「ヤー」(ヤハウエ・神)という二つの言葉からなっています。聖書では「主をほめたたえよ」と訳され、『詩篇』にはしばしば登場します。ユダヤ教徒とキリスト教徒にとっては、神を賛美したり宗教的感動を表す神聖な祈りの言葉ですから、めったやたらに口にすることはありません。

 ところが日本の歌謡曲には「ハレルヤ」がしばしば登場し、本来の意味とは全く異なって使われているのです。また「晴れるや」の意味に理解され、とんでもない使われ方をすることがあります。かなり昔の話ですが、開けポンキッキという子供向けの子供番組がありました。その中である時、『おてんきボーイズ』という歌が流行りました。歌詞を御紹介しましょう。

 おてんきボーイズだよ エッヘッヘェ  おてんきボーイズだ ウッフッフッフゥ
 ぼくらは5人のおてんきやさん  ポッカリうかんだくものうえ
 おてんきランドがぼくらのおうち  ハレルヤ クモルヤ アメノチ ハレルヤ
 はれたくん くもたん あめたん ゆきたん ごろたん
 ぼくらはなかよし おてんきボーイズだよ ヤッホ

明らかに「ハレルヤ」を茶化した歌詞となっています。所詮子供の歌で悪気はないのはわかりますが、私にはどうにも納得がいきませんでした。そこで早速テレビ局に電話して、ディレクターと話しました。彼が言うには、「子供の歌だから・・・・」とのことで、その言い分はよく理解できます。しかし私はこう尋ねました。そのあたりの応答を、およそ再現してみましょう。録音していたわけではないので、細かい言い回しは覚えていませんが、話の趣旨は正確に再現しています。

 「あなたは何か信仰していますか?」「一応仏教徒です」「そうですか。それなら話が早い。南無阿弥陀仏の意味はわかりますね。阿弥陀様、私はあなたを信じます。どうぞ私をお救い下さい、という意味ですね。それなら『ナンマイダア ナンマイダア 一枚だあ 二枚だあ 三枚だあ おしまいだあ』という歌詞の歌をテレビで面白おかしく歌ったらどういうことになりますか?」「仏教界から猛烈に抗議されるでしょうね」「そうでしょうね。そこまでわかっているなら、ハレルヤの意味を知っていますか?」「知りません」「ハレルヤとはユダヤ教やキリスト教で、神を褒め讃えよという意味で、『アーメン』と同じように矢鱈には口にしないもっとも神聖な言葉ですよ。『アーメン ソーメン ヒヤソーメン』という歌を歌わせますか?」「それはまずいでしょう」「わかっているじゃないですか。人の信仰を茶化すような歌はやめませんか。イスラム教徒は『アッラー・アクバル』という祈りの言葉をよく口にします。これは『神は偉大なり』という意味です。もしそれを茶化す歌をテレビで流したら、とんでもない事件が起きるでしょう。ムハンマドを茶化した絵や詩を公表したために、実際に殺されてしまった事件が起きているのを知っていますか。悪気がなかったことは理解できますが、やはり許されることではないので、もうテレビでその歌を流すことはやめませんか」。

 その後間もなく、その歌はテレビでは聞かなくなりました。

 日本人は信仰心があるように見えながら、その実、ほとんどありません。早い話が信仰する気はないのにクリスマスで馬鹿騒ぎをし、一週間もたたないうちに寺社に初詣に行き、外国人が見たら精神分裂ではないかと思われてしまいそうです。それはそれでよいのですが、だからと言って信仰している人の心を茶化すようなことをしてよいわけではありません。イスラム教を茶化すことをすれば、確実に重大事件が発生するでしょう。その時、悪気はないとか、所詮子供の歌ではないかという言い訳は、全く通用しないのです。私は海外の生活が長いので、そのあたりの感覚はよく身に付けています。日本にイスラム教徒の人が増えつつあります。だからというわけではありませんが、自分が無信仰であることはいっこうに差し支えありませんが、信仰や宗教に対する真摯な姿勢はもっと備えておかなければならないと思います。



追記1
1991年7月、ムハンマドを風刺した『悪魔の詩』という小説を邦訳した筑波大学助教授の五十嵐一氏が、同大学筑波キャンパスで実際に刺殺される事件が起こっています。また世界各地で、反イスラム的活動をしたとみなされた人に殺害予告がされたり、実際に危害が加えられた事件が起こっています。暴力は決して許されるものではありませんが、信者にとって宗教的侮辱とは、事と次第によってはそれ程の怒りを起こさせるものであるということを、日本人はもっと真剣に理解しなくてはなりません。
 また2020年には、フランスの学校でムハンマドを風刺した図を生徒に見せたため、先生が首を切断される事件が起きています。暴力は言語道断ですが、聖なるものと信じているものを不用意に汚すことは、そのような怒りを引き起こすおこすものだということを、日本人は知りません。昭和天皇の写真を公共の施設で税金を使用して展示しても、表現の自由と称して平然としていられます。良くも悪くもそれが日本なのです。たしかに表現の自由は憲法で認められていますが、人が大切にしているものを公共の場で侮辱することは、表現の自由以前のことなのです。表現の自由以前に、人としてやって良いことと悪いことがあるのです。もし反論があるなら、「・・・・」を侮辱する言葉や図を表現の自由を根拠に公共の場で全世界に表せるものならやって見せてほしいものです。命懸けで表現の自由を主張したらよろしい。その結果どのようなことになるかはご想像にお任せしますが、このようなことに関しては、日本の常識は世界の非常識なのです。


追記2
先日、読者の方からコメントをいただきました。私がクレームを付けたことについて、皮肉たっぷりと御指摘をいただくような内容でした。そう言われて見れば御指摘の通りで、あらためてなる程なと、御指摘に対して妙に感心してしまいました。確かにクレーマーでしたね。でも長年中東で生活していたので、宗教に対しては相当に過敏になっています。宗教について日本人は鈍感と言いましょうか、何を言っても問題にはなりませんが、それは世界的には極めて少数派であって、外国では通用しないことであることは間違いありません。でも「ここは日本だ」と反論されそうですね。他の人が信じている宗教を茶化すことは絶対に許されないところで、そのようなことをすればどのような結果を招くか、一度体験してみると、私に説にも一理あると理解していただけるのではと思います。でも何はともあれ、わざわざコメントして下さりありがとうございます。

私の講演「より良い(地歴科の)授業を創るために」

2017-12-10 18:08:48 | 私の授業
 近日中に、高校の地歴科の先生たちの研究会があり、そこで私が『より良い授業を創るために』と題して、講演をする予定です。今はもう定年退職をしていますが、40数年も教職にあったので、授業についてのいろいろなknow-howだけはたくさん持っています。それらを若い世代の先生たちに御披露して、少しでもお役に立ちたいと思ったわけです。一面では度胸がありそうなのに、どこか不安を抱えていた私は話の練習のために、本番さながらに文字にしてみました。もちろんここに書いた通りに話せるとは思っていませんが、形に表して整理することによって、うっかり話し忘れることがないようにしたかったのです。ですから以下のお話しは、壁に向かって本番のつもりで話したものを録音し、文字に書き起こしたものです。自分自身のためなのですが、ひょっとして参考にしてくださる方がいらっしゃるかもしれないと思い、ブログで公開します。教師ではない読者の皆様にはひたすら退屈かもしれませんが、その点はお許し下さい。


 本日は期末考査などでお忙しい中、このような機会を設けて下さいましたことに、ありがたく感謝申し上げます。講師時代も含めれば42年間にわたって教職を務めて参りました。「趣味は?」と聞かれると、即座に「授業」と答える私ですので、完全に隠退する前に、蓄積してきたknow-howを少しでも皆さんに御披露してお役に立てたいと思っています。

 今日の講演のタイトルは「より良い授業を創るために」と題しました。今日の研修会では、前半にアクティブラーニングの報告が2本ありましたが、私はアクティブラーニングとはおよそ正反対の授業をしてきましたので、そのような視点からは反面教師かもしれません。しかし授業の基本形態は一斉講義式であると信じて疑いません。採るべき良い点もあるはずです。話の中でアクティブラーニングとは相容れないこともあるとは思いますが、アクティブラーニングを全否定しているわけではありませんので、そこは御容赦下さい。

 また私は日本史を担当することが多かったため、今日の話はどうしても日本史関係に片寄ってしまいます。また大学では古代の海産物史の研究をしていましたので、日本古代史の話が多くなってしまいます。世界史の先生には申し訳ありません。しかし私も世界史を初めとして、社会科・地歴科の全科目を担当していたのですから、全く無駄話ではないと思いますし、なにより発想は全教科に共通することですから、その点も御容赦ください。

 それでは本論に入りましょう。まず最初に「どうやって関心をもたせるか」という小見出しをつけました。4月の最初の授業で、私はいつも歴史の好き嫌いについて尋ねていました。結果は相半ばしているのですが、嫌いの方が多い傾向がありました。嫌いな理由を問うと、「覚えることが多すぎる。暗記できない。」とか「関係ない。どうでもいい。」という答えが多いものでした。そこで暗記の負担を減らすために、一問一答的な考査を極力避けるとか、流れを重視して話すとかの工夫はしてきましたが、究極的にはノート持ち込みの考査までやり、これは信じられない程の大成功でした。日本史の授業がつまらない理由として、「関係ない」という答えもかなりありました。しかしこの答えは私にとってとても大きな示唆を含んでいました。つまりそれを裏返しにすれば、関係あるものなら関心を持ってもらえるということだからです。

 そこでよくこなん話をしました。さあ、ドラえもんと一緒に大和時代にタイムスリップしたんだよ。ある村で大和人と帰化人(渡来人)が、犬を挟んで何やら話をしているようだ。大和人は犬を指さして「inu」と呼ぶのに、大陸からやって来た人は「ken」と呼んで、何やら地面に線でしるしを書いたんだ。そこで察しの良い大和人立ちは、「あいつらはinuのことをkenと呼んでいるぞ。地面に書いたしるしは、どうもinuを意味するものらしい」。「それじゃあkiのことは何て言うのか聞いてみよう」。すると彼等は木を指さして「moku」と呼び、地面にまた別のしるしを書いた。興味津々の大和人たちは次々に質問攻めにして言葉と文字を教わり、だんだんその数が増えていったんだってさ。

 おそらくこれに近い場面がたくさんあっことでしょう。こうして大和言葉は訓読み、帰化人の読み方は音読みとなって受け継がれていったのです。つまり漢字に訓読みと音読みがあるということは、大和時代に大陸伝来文化を我々の祖先が摂取消化したことの結果なのです。

 さあ、「関係ねえ」と言っていたN君よ、関係ないと言えば確かに関係ない。しかし私たちは祖先たちが積み重ねてくれた歴史の上に立って、初めてこうして生活してゆくことができているんだ。もし君が「そんなの関係ねえ」って言って突っ張るなら、祖先たちが残してくれたものの恩恵を全て否定することができますか。漢字はおろか、片仮名・平仮名さえも使えません。身の回りにあるものも何一つ使えません。全て君自身が作り出したもので生きられるなら突っ張ってもよろしい。しかしさんざん祖先の残してくれたものの恩恵に浴しながら、それを関係ねえと言うことができるだろうか。出来はしないのだ。

 歴史の授業は嫌いだというなら、まあそれもいいでしょう。私も理系科目は大嫌いでした。歴史の先生の私のことを嫌いだというなら、そう思われても仕方がない自覚症状もあるから、大いに納得もしましょう。しかし歴史なんかどうでもよいと言うならば、私は断じてこれを認めるわけにはいかんのだ。歴史を学ぶということには多くの目的があるだろうが、そのうちの一つは、自分の拠って立つ所を知るということなのです。まあこんな話をしてやると、何となく歴史というものは大切なんだという程度はわかってくれます。

 さあこうやって歴史というものが大切なことはわかってもらえたとしても、それが面白いというレベルに達するわけではありません。そこで歴史に興味を持たせる工夫として、授業の中で、「なる程、納得!」「へえ、そうだったのか」と思うような場面をたくさん用意してやる努力が欠かせないのです。知的好奇心を刺激してやると言いましょうか、学習することによって今まで何とも思わなかったことに、実は面白いことがらが隠れていたことを知ると、次第に授業に興味が湧くようになってきます。

 今日のレジメの最後に「身近なところにある歴史の痕跡(教材)」という見出しを付け、たくさんの実例を挙げておきました。先程もお話ししたように、私たちは歴史の積み重ねの上に生活しています。その最上部分は「現代」と言う名の薄皮ですが、一皮剥けば、そこには歴史が見えます。ですから歴史の痕跡は生活の身近なところに隠れているものなのです。それに気づき始めると、歴史って面白そうだなと思ってくれるようになります。ただそのような歴史の痕跡に気付くためには、柔軟な発想とセンスが必要です。そのセンスはどうしたら身に付くか。私の経験からすれば、半分は先人の著書や先輩の経験に学ぶこと、もう半分は旺盛な知的好奇心によると思っています。歴史の痕跡を探査するレーダーは、私の中では四六時中回り続けています。時には夢の中で閃き、枕元のメモ帳に記録したことも何回もありました。そのような歴史の痕跡は、そのまま教材にもなります。それは授業をただ単に楽しくしてくれるばかりではなく、生徒と私の学習意欲も高めてくれます。それにはどのようなことがあるか、たくさん上げておきましたので、参考にして下さい。時間がないので一つ一つ説明はしていられませんが、特に何かご質問があればどうぞ。

○刑務所作業製品即売会・・・寛政の改革の人足寄場と同じ発想。軽犯罪者や無宿人の職業訓練。
○戦時中の錫貨・・・飛行機用のアルミが逼迫したため、アルミ貨に代わり、マレー半島で豊富に採れた錫を使用。
○パラオの運動会・・・委任統治のため島民人口以上の日本人が移住し、日本の生活習慣が定着。日本語由来の言葉が大変多い。emonkake(ハンガー)、musubi(おにぎり)、kantoku(ボス)など。
○荘内鶴岡の「殿様」・・・三方領地替えを背景として、今でも旧藩主酒井家の当主は「殿はん」と称され、敬意を表されている。
○櫛と穴あき包丁・・・櫛は千歯扱の代わり。穴あき包丁は空気が入って切った物がすぐ剥がれ落ちるように、備中鍬にも歯の隙間に空気があるため、粘土質の土でもすぐに引き抜ける。
○アラベスク模様のタイル・・・一つのタイルの写真を何枚もカラーコピーして貼り合わせると、壁一面がアラベスク模様となる。
○NHK朝の天気予報・・・日本の北東部・中央部・西南部の様子が映し出され、東部は明るくなっていても、西部はまだ暗く、地球の自転を実感できる。沖縄修学旅行で朝練はできない。
○シンガポールの新聞・・・華僑の多い諸国には、華字新聞があるので、友人にや大使館に頼んで手に入れる。
○李舜臣や安重根の韓国の絵本・・・水道橋の高麗書林で取り寄せてくれる。ハングルが読めなくても絵でわかる。
○沖縄旅行の事前学習・・・飛行機の往路・復路の時間が違うことにより偏西風を実感する。日没時間が遅いことにより地球の自転を実感。珊瑚石灰岩が山の上にあることにより、隆起珊瑚礁から成っていることや、石灰岩が溶けて洞窟(ガマ)となっていることを理解。豚肉料理が多いのは中国文化の影響。マクドナルドやフライドチキンやランチョンミートが多いことは、米国文化の影響。屋上に貯水タンクが多いのは、日本有数の水不足県。タイ米を原料とする泡盛は、中継貿易の所産。明清と冊封関係にある琉球王国の竜の爪は明清の竜より1本少ない4本。
○文化財切手・・・カラーコピーをしてノートに貼らせるなど、文化史学習で活用。
○音読みと訓読み・・・音読みは大和時代に大陸文化を受容した名残。訓読みは日本古来の大和読み。ただし行脚(あんぎゃ)・金子(きんす)・椅子(いす)などの唐音は鎌倉期に禅宗と共に伝来。
○熱帯雨林とラワン材・・・四季の変化がないため、ラワンには木目がほとんどない。教壇はラワン製が多い。ただしベニヤ板は桂剥きにして作るので、例としては相応しくない。
○茶畑の地図記号・・・茶の実の中には、正三角形の形で小さな種が入っている。
○炭と地球温暖化・・・炭を観察すると年輪が見える。木を伐採して燃やせば、それだけ二酸化炭素が放出されること、また森林が増えれば、二酸化炭素が木質として固定化されることを理解できる。
○土師器と須恵器の色・・・土師器は酸化焼成のため胎土中の鉄分が赤褐色の酸化第二鉄となる。須恵器は窯で還元焼成するため、鉄分は黒色の酸化第一鉄となる。
○女生徒の万葉仮名風名前・・・菜・美・由・麻・恵など、万葉仮名に使われた文字が多用されている。
○サッポロビール・・・開拓使が設立した開拓使麦酒醸造所に始まり、現在も瓶や缶には「since 1869」と表記され、開拓使のシンボルであった北極星が商標として描かれている。
○台湾の征露丸・・・日本の領土だったので、つい最近まで「征露丸」を製造していた。箱の色形も全く同じ。大幸薬品の征露丸発売は、日英同盟締結の明治35年。
○古代の国名・・・地方名産、湾・半島・島・川の名称、鉄道線の名称などで今も使われている。美濃と尾張で濃尾平野、上総と安房で房総半島、上野経由越後行きで上越線。
○五色の短冊・・・四神思想の名残で、赤は南と夏、白は西と秋、黒は北と冬、青は東と春、黄は中央の色であるから、中国の皇帝の服着黄色。土俵の色房などにも名残が見られる。
○寛永四文真鍮銭・・・田沼時代に発行。田沼意次が奨励した真鍮座の真鍮でできている。
○寛文一文の寛永通宝・・・秀頼の作った方広寺大仏を鋳つぶして作った。裏面に「文」の文字あり。
○印鑑の篆書体・・・秦の始皇帝の統一政策として、当時バラバラだった書体を秦の文字に統一させたのが現在も印の書体として最も普及している小篆。ポケットの中に始皇帝がいる。
○律令官制の名残・・・男子の名前に多い介・助・輔の文字は、四等官制の名残。
○生徒の苗字・・・氏姓制度の名残の姓が多い。服部・弓削・鳥飼・犬養・渡辺・春日・長谷部・錦織・池辺・山部・磯辺・大友・田部・陶など多数。
○墓地の値段・・・西方極楽浄土を向いて参拝することになるため、東面する墓地の方が値段が高い。阿弥陀堂・阿弥陀如来は必ず東面する。東本願寺は烏丸通りに面している。
○歴史を反映した地名・・・「関内」は横浜居留地の名残。「新座・志木・高麗」は新羅や高句麗からの帰化人が開発したため。高麗の聖天院には韓国国花のムクゲ(木槿)がたくさん植樹されている。
○橘の姓・・・橘は花と前年の実を一緒に見られ、葉も青々と茂っていることから、祝意をこめて下賜された。文化勲章は昭和天皇の意向により橘のデザイン。日蓮宗の寺には必ず井桁橘紋がある。
○清めの塩・・・土俵に塩を撒き、前の取り組みで負け力士が土俵に手を着いて汚れたので、土俵を清める。塩漬けにすると腐らないので、塩には汚れを清める霊力があると理解されていた。葬儀から帰ると塩        で浄める。
○鋤と鍬・・・打ち込んで手前に引くのが鍬、前に押すのが鋤。スコップは鍬の一種。鋤と鍬の呼称がいつの間にか逆転する。犬上御田鍬・備中鍬。
○椅子に坐るということ・・・椅子に坐る文化は中国から伝えられた。禅宗の僧侶の頂相は椅子に坐る姿。「清明上河図」には椅子に坐る人がたくさん描かれている。
○ヒンドゥーの神々・・・シバは大黒神、ブラフマーは梵天、ラクシュミは吉祥天、サラスヴァティーは弁財天、ガネーシャは歓喜天として仏教に取り入れられる。
○明朝体と原稿用紙・・・明僧隠元が伝えたので明朝体という。20字×20行の原稿用紙の形式は、万福寺の大蔵経に倣ったもの。
○ギヤマンとシロツメクサ・・・オランダから輸入されたガラス器(ギヤマン)のクッション材として詰められていたことによる呼称。シロツメクサはいわゆるクローバーのこと。
○英字ビスケット・・・文明開化の風潮の中でヒットした明治以来の菓子。授業中に食べさせる。
○ムハンマドの漫画・・・顔はのっぺらぼうか後ろ向きや光として表現される。偶像は禁止されるので、植物文様や幾何学文様のアラベスク文様が発達。
○御伽草子と御伽話・・・御伽話は巌谷小波が明治期に教育的に改作したもの。御伽草子の主人公は、決して品行方正ではない。一寸法師のお爺さんとお婆さんは見にくい一寸法師を捨ててしまえと相談。立ち聞きした法師は、捨てられるくらいならと自分から家出をする。一寸法師は大臣の娘を女房にしてしてしまおうとして、欺して連れ出してしまう。御伽草子と御伽話の落差が面白い。
○油粕・・・菜の花の種を配り、ノートの上で潰させると、ノートに油が滲む。
○煮干し・・・早い話が、煮干しと干鰯は同じ物。
○クスノキ・・・クスノキは日本産の香木であるため、飛鳥・白鳳期の木造仏はクスノキ製が多い。また根から樟脳を採るので、葉を揉んで独特の香りを体験させる。台湾や鈴木商店と関連させて提示。
○平仮名と片仮名・・・何気なく使っているが、よくよく考えれば国風文化の名残。
○伊万里焼・・・江戸期に大量に輸出された。江戸期のものは骨董市で2~3000円、明治初期ならば一桁少なくなるので、普段使いの食器として用意しておく。
○ヒマラヤの岩塩・・・かつての海が造山運動により陸上に固定されて岩塩となる。ヒマラヤ造山運動の証拠。
○赤穂の塩・・・現在も「赤穂の塩」「赤穂の天塩」「伯方の塩」という商品名で発売されている。ただし実際には国産天然塩ではない。
○律令と六法全書・・・律令政治は法律による政治であることを印象付けるために、教卓に六法全書を据える。
○サフラワー油・・・紅花はサフラワー油として今でも身近にある。ただしサンフラワーはひまわりのこと。
○香港コイン・・・漢字とエリザベス女王像のミスマッチ。アヘン戦争を説くのに当時の史料は要らない。
○旧フランスコイン・・・「自由・平等・友愛」がフランス語で刻まれている。日本では国旗の青色は自由・白色は平等・赤色は友愛を示すと説かれることが多いが、これはとんでもない誤り。フランス人はそんなことは全く知らない。フランス憲法第二条には、「国旗は青白赤の三色(トリコロール)である。共和国の標語は自由・平等・友愛である」と定められてはいるが、色と標語の対応については一切触れられていない。世界の学校でこんな出鱈目を教えているのは、おそらく日本だけでは?
○三共胃腸薬・・・高峰譲吉は製薬会社三共(現在の第一三共)を創設。タカジアスターゼを用いて、現在も三共の胃腸薬が作られている。
○絹のスカーフ・・・生糸と絹を知らずして日本史を語ることなかれ。世界史でも使い道はたくさんある。知識としてではなく、肌触りを体験させたい。
○ピースの煙草・・・オリーブをくわえた鳩のデザインはサンフランシスコ条約が発効した昭和27年。鳩が平和のイメージとなったのは、旧約聖書のノアの箱舟の逸話による。日本では鳩は源氏のシンボルで、武神八幡神の使者である。鎌倉土産は鳩サブレが定番。
○バウムクーヘン・・・青島で捕虜となったドイツ人のカール・ユーハイムが広島の物産陳列館(現在の原爆ドーム)で発売して好評となり、現在の神戸ユーハイムに発展。バウムは木、クーヘンは菓子のこと。
○冬の白い吐息・・・湿気を含んだ空気が上昇して冷却され雲が発生するメカニズムは、これで説明できる。
○台風の進路と偏西風・・・南洋で発生する台風が日本に近付くと東に向きを変えるのは、偏西風の影響。
○右前に着る和服・・・・着物の右前は養老律令で唐風に統一。古墳時代の埴輪や高松塚古墳壁画では左前。左前は騎射に適していて、古墳時代に騎馬の風習と共に大陸から伝えられた。
○アーモンドの種・・・北魏様式仏像の特色の一つである杏仁形の目。「杏」はアーモンド、「仁」は固い種子の中の柔らかい部分。つまり杏仁豆腐の原料となる部分のこと。
○プラモデル・・・定朝が完成させた寄木造りの造仏技法は、一木造に比べて巨像が可能となり、効率的木取りによる素材の節約、分割による作業の同時進行化、パーツの規格化による大量生産が可能となった。その背景には、たくさん作ることに功徳があるという理解や、九体仏の需要増加などがあった。いわば阿弥陀仏のプラモデル化。
○清酒の剣菱・・・江戸時代に上方で生産された酒は品質が良く、「下り酒」と呼ばれた。その逆の下らない酒は上級品ではなく、採るに足らないことを意味する「下らない」の語源となっ た。将軍の御膳酒に指定された伊丹酒の『剣菱』も下り酒の一つ。
○ファミレスのとんでん・・・北海道に本社があり、北海道を開発した屯田兵が開拓者魂のシンボルとして理解されているため、社名に採用。
○対馬の領有権・・・韓国の旧馬山市(現 昌原市)は、2005年、1419年の応永の外寇で李氏朝鮮軍が対馬征伐のために馬山浦を出発した6月19日を、条例により「対馬島の日」に制定。同条例には「対馬島が       韓国領土であることを内外に知らしめ、領有権確立を目的とする」と明記。
○吉見百穴の木槿(ムクゲ)・・・百穴の地下工場開削に朝鮮人が従事したことの記念として、韓国国花であるムクゲが植えられている。
○校則・・・日本の役人から、札幌農学校の生徒を厳しく指導するために作られた校則を見せられたクラーク教頭は「Be Gentleman」だけで十分であるとして、案を退けた。彼が在任したのはわずか8カ月だったが、大きな精神的感化を及ぼした。
○スバルの社章・・・富士産業株式会社(旧中島飛行機)は戦後15社に解体されたが、昭和28年、その内の5社出資による新会社富士重工業株式会社が発足。5社を統合(統べる)して1社となることの象徴として、古来「六連星」(むつらぼし)と呼ばれた「すばる」(統ばる)がシンボルとされた。星の大きさも意図して、1つは大きく、他5つは小さくデザインされている。
○富山のお握り・・・富山県は北前船によって蝦夷の水産物の経由地となり、今でも昆布の消費量は日本一。お握りはとろろ昆布を巻いたものが定番。京都の鰊蕎麦、大阪の昆布の佃煮も同じ発想。
○正喜撰・・・「泰平の眠りをさます上喜撰」は今も「正喜撰」という商品名で販売されている。
○長崎の中華風食品・・・唐人屋敷行われた日中貿易の名残で、今も中国風文化が色濃く残る。
○張り子の虎・・・脱乾漆像はいわば張り子のようなもの。興福寺は創建以来7回も被災しているが、阿修羅像などの八部衆像は重さが台座を含めても二十数㎏しかなく、担いで避難させることができた。鑑真像は10㎏にも及ばない。
○煉瓦造りの東京駅舎・・・深谷産の煉瓦を使用。深谷駅は煉瓦風タイル。深谷は煉瓦で町おこし。駅開業の日に青島攻略軍が駅前を凱旋。駅舎はいわば第一次世界大戦の凱旋門。
○駅前の貸し出し用の雨傘・・・三井越後屋は天明の書かれた傘をただで貸し出し、宣伝に用いた。
○パーライト・・・販売されている園芸用土に含まれる真珠のような軽い粒は、黒曜石を窯で焼いて、ポップコーンのように発泡させたもの。黒曜石は現在でも採掘加工されている。

 いかがですか。たくさんあるものですね。中には初めて知ったというものもあるでしょう。そのような小さな驚きを、授業の中で生徒たちに体験させてやりたいのです。皆さんがその気になって探せば、もっともっとあることでしょう。もしあればそれを独り占めすることなく、同僚と刺激し合って、共有してゆくのです。まずは私たち授業者自身が「面白いなあ」と思うかどうかが問われます。熱は熱い方から冷たい方にしか伝わらないもの。授業者が歴史の学習を面白いと思っていなかったら、生徒が関心を持つはずがありません。問われているのは、常に自分自身なのです。

 さて話をさらに進めましょう。話し方がまずければ、せっかくの面白い話も伝わりません。そのことの一番よい例は、テレビの12チャンネルの放送大学でしょう。内容的には素晴らしいものなのでしょうが、例外なく講師の話は下手くそです。中には原稿をただ棒読みしているだけのこともあり、聞いていて少しもワクワクしません。アクティブラーニングを推奨している人は、よく「一方的な知識注入型の一斉授業からの脱却」と言いますが、本当にそうだと思います。もっともテレビは一方通行のものですから、やむを得ない部分もあります。しかしそれにしても話が下手すぎるのです。アクティブラーニングが大学から始まったのも宜なるかな。学者としては一流でも、授業者としもそうであるとは限らないのです。私たちはもつと本気で話の技術を訓練する必要があります。私は長年に渡って初任者研修や五年次研修の講師を勤めましたが、その際、県教委の人に話術の訓練の必要性を訴えました。しかしついに相手にはされませんでした。「話術」なんて枝葉末節のことと思っているのでしょうね。

 そこで一つ皆さんに聞いてみたい。自分の授業をしばしば録音したり録画して検証している人はどれくらいいますか。一回やったことがあるという程度では不十分です。ほとんどいませんね。私はまずここに疑問を感じるのです。一流を目指すスポーツマンで、自分の競技の様子やフォームを録画して再生したことのない人は、おそらく一人もいないでしょう。自分よりも上手い人の姿と自分を常に比較して、自分はどこが下手なのか、上手な人とどこが違うかを徹底的に検証しています。そして上手な人の真似をするものです。物事に上達しようとする場合は、まず初めに己の弱点を知り、次に上手い人と見比べ、更に上手い人の真似をする。この繰り返しによって上達するのです。それなのになぜ先生という人たちはそれをしないのか。不思議でなりません。それでもまだ小学校の先生の場合は、みな同じ土俵にいるので、互いに忌憚のない批評が出来ます。ところが高校の先生になると、なまじっか専門性があるものですから、「他教科・他科目の人から言われたくない」というプライドが邪魔するのでしょう。言われたくもないし、相手の領域に踏み込もうともしない傾向があります。

 そこで皆さんにお勧めしたい。御自分の授業を、まずは録音して再生してみて下さい。単位数が少ない科目なら、同じ授業が複数回ありますから、前日の授業を出勤途中に再生しながら問題点を確認し、次の授業では改良してゆくのです。私はもう本当に退職ですから、さすがに最近は録音しなくなりましたが、数年前までは普通に録音して聞いていました。あらためて聞き直すと、授業での失敗がよくわかり、改善に大いに役に立ちます。まずはお試し下さい。

 自分の欠点を知るとともに、上手な人の話を聞くことも大切です。そのためには話のプロの技を盗むのが近道です。話のプロと言えば、落語家・講談師・漫才師・アナウンサーなどがいますが、彼等の話は、DVDで簡単に聞くことが出来ますし、テレビで見ることもできます。私は意図して講談をよく聞きました。内容はともかく、当意即妙の面白さという点では、綾小路きみまろも参考になります。政治問題の解説をする池上さんも上手ですね。決して馬鹿に出来ません。ただし留意しなければならないことがあります。話の内容に引きずり込まれ、一緒になって笑ってしまってはいけません。声の大きさ、間の取り方、抑揚、話す早さ、ギャグのセンスなど、いくつかの観点を意識しながら客観的に聞くのです。そして上手だなと思う部分は、暗記する程に鸚鵡返しに自分で繰り返すのです。このような訓練を私は40年間続けてきました。一日二日で、「取ったか、見たか」という成長はありませんが、石の上にも三年。必ず上達するものです。

 アクティブラーニングの授業では、授業者が語る場面は少ないものです。またIT機器を多用する授業でも自然と少なくなります。私は「暗がりの紙芝居」なんて悪口を言っているのですが、授業者は手許のノートパソコンの画面ばかり見ていて、聞いている人の反応を全く見ていませんね。これはいけません。ますます一方的知識注入の授業になってしまいます。しかし今後そのような授業が主流になったとしても、授業の基本が授業者の語りであることが変わるとは思えません。手をかえ品をかえて聴衆の意識を惹き付けつつ、ユーモアを交えながら、一対一でも、体育館の壇上でも、IT機器を使えない野外でも、与えられた時間で内容のある話をすることができなければなりません。そのためには話の訓練は欠かせません。繰り返しになりますが、まずは授業を録音して聞いて下さい。上達というものは、自分の問題点を自覚するところから始まります。ユーチューブで検索すると、話術の講習会の場面がたくさん見られますから、それも大いに参考になるでしょう。

 さて次に授業者の授業力を氷山に喩えて、「氷山の水面下の部分を増やせ」という小見出しを付けました。授業をするには氷山の水面上の部分でもできます。もっとも生徒の学力によって多少の差はあるでしょうが。しかし、授業者の言葉の迫力は水面下の容量に比例するものなのです。迫力と言っても、声の大きさではありませんよ。水面下の部分は授業では見せません。しかし水面下に隠れた裏付けを持っている人の言葉には、自然に説得力が備わって来るものなのです。

 例えば土師器と須恵器の色について考えてみましょう。授業では、土師器は弥生土器の系統を引き、赤褐色の軟質の土器、須恵器は半島渡来の技術により、硬質の灰色の土器と説明されます。穴窯の挿図を見ることもあるでしょう。授業ではこれで十分であり、これが氷山の水面上の部分に相当します。しかしなぜその色になるのか、なぜ堅さが違うのかには触れられません。せいぜい窯で焼くからと言う程度でしょう。閉鎖的な窯で焼けば焼成温度が上がりますから、焼きしめられて堅くなると言うのは理解できます。しかし、窯で焼くから灰色になるというわけではありません。露天で焼く土師器は酸素が十分供給されるため、胎土中の鉄分が酸化されて赤褐色の酸化第二鉄、つまり赤錆の色となり、須恵器の場合は、最後の最後に燃料の薪ををたくさん詰めて焚口を閉鎖してしまい、窯の中の酸素を不足気味にします。すると燃焼するために酸素が胎土中から奪われ、胎土中の鉄分は還元されて酸化第一鉄、つまり黒錆となり、黒っぽく焼き上がるわけです。いくら窯で焼いても、酸素が十分に供給されていれば、あの灰色にはなりません。ついでに言えば、中世に登場する青磁のあの青緑色は、鉄を含んだ釉薬を還元焼成した時に現れる色であって、酸化焼成すれば全く違う色になってしまいます。

 もう一つ例を上げましょうか。日蓮の説いた法華経についてですが、授業では法華経至上主義であることが説明されます。取り敢えずはそれでよいのですが、法華曼荼羅を見るとそのことが更に良く理解できます。これが法華曼荼羅です。法華系の信仰をしている家庭には、御本尊と称して大切にされているでしょうね。まさかそれを授業に持ってくることもできませんが、ここにお見せするのは江戸時代に版木で摺られた法華曼荼羅です。中央に鬚文字で題目が大きく書かれ、諸仏がそれを取り囲み、四隅を四天王が守護している仏国の様子が、視覚的にすぐわかるように表されています。特徴ある鬚文字は、法華経の功徳が世界の隅々にまで及ぶことを表しています。日蓮宗寺院では、四天王の中の二天像をまつる二天門が寺の門となり、残りの二天像が本堂にまつられるのが一般的なのですが、それは日蓮宗の伽藍が、法華曼荼羅を諸堂宇や諸仏によって立体的に表しているからなのです。伽藍の特徴など知らなくても、授業には差し支えありません。しかし法華曼荼羅の様式や、それを反映した日蓮宗寺院の伽藍の配置を知っていれば、法華至上主義を説明するにも、実感を持って話せるのです。ちなみに日蓮宗寺院では本尊は仏像ではなくこのような法華曼荼羅であるため、所謂仏像の彫刻や仏画が重視されません。修学旅行で日蓮宗寺院に行くことが少ないのは、そのような背景もあるのです。とにかく、たとえ授業では触れないことであっても、教えること以上に、我々は内容を深く掘り下げて学んでおかなければならないのです。

 さて次は、原史料を読む大切さについてお話ししましょう。史料集ではなく、現代の版本・現代訳・一部分でもよいですから、可能な限り史料を読んでほしいのです。それもできるだけネット情報ではなく、書籍を直接手にとって探し出して読む方がよい。ネット情報が便利なことは良いのですが、安易に頼っていると、その人の知的探求の力が養われません。今はネットでいとも簡単に欲しい情報が入手できるのですが、私が若い頃は、ひたすら時間と手間をかけて、史料や専門書を漁るしか方法はありませんでした。私の経験で言えば、あることを調べていて、『万葉集』に梅の香りを詠んだ歌がいくつあるかということが必要になりました。いまならネットで調べられるのですが、私は4000余首を片っ端から読んで梅の歌を約120余首探しだし、それをさらに丁寧に読んで結論はたった一首でした。そうやって物事を調べてゆくわけです。申し訳ありませんが、ネット情報のなかった頃の教材研究では、読書量がもう比較にならない程圧倒的に多いものでした。吉川弘文館の人物叢書を片っ端から読破したものです。そうはいうもののこういう時代ですから、ネット情報は大いに利用したら良い。ただし玉石混淆ですから、真贋を見極める能力は、昔よりかえって必要になっています。ウィキペディアなど、出鱈目が多いので要注意です。私も『続日本紀』や『吾妻鏡』などの現代語訳や『古事類苑』は、よくネット情報で読んではいます。
 
 古代だけでも以下の文献史料は是非とも読んでおいて欲しいですね。古事記・日本書紀・風土記・万葉集・懐風藻・令義解・令集解・延喜式・正倉院文書・続日本紀 ・唐大和上東征伝・風信帖・八代集・和漢朗詠集・菅家文草・類聚三代格・竹取物語・源氏物語・土佐日記・蜻蛉日記・枕草子・和泉式部日記・御堂関白記・小右記・更級日記・凌雲集・日本霊異記・往生要集・将門記・陸奥話記・平家物語・梁塵秘抄・栄華物語・大鏡・今昔物語集など、たくさんあります。もちろん最初から全巻読む必要はありません。これをみな読まなきゃ駄目なのかと、びっくりしないで下さい。必要な部分だけで十分です。この中で私が全巻読んだのは、せいぜい万葉集と続日本紀くらいのものです。

 その万葉集から一つ例を上げてみましょう。授業では、『万葉集』の概要にふれ、漢字仮名交じりに訓釈された代表的な歌をいくつか観賞すればそれでもう十分です。しかし本来は漢字だけの表記なのですから、その解読を経験しておきたいのです。例えば「東野炎立所見而反見為者月西渡」の歌を取り上げてみましょう。鎌倉時代の僧仙覚は「あづまののけぶりの立てるところ見てかへりみすればかたぶきぬ」と読み、賀茂真淵は「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」と読んでいます。ちなみに仙覚は埼玉県人ですよ。比企氏の出身で、埼玉県の小川町で訓釈の活動をしていたことは、是非ともおさえておきましょう。現在一般には真淵説が流布していますが、それも原文と見比べれば大胆な読み方であり、それが正しいとは言いきれないことがわかることでしょう。漢字だけで日本語を表記するということが、どれ程大変なことであったか、またどれ程創造的なことであったかがよくわかるというものです。もし生徒に訓釈を経験させるには、山上憶良が詠んだ「白銀も黄金も玉もなにせむに・・・・」が絶対にお勧めです。『万葉集』の803番の歌ですから、後で漢字だけの原文を羂索して御覧下さい。

 もう一つ『唐大和上東征伝』から例を上げましょう。これは鑑真の在唐時からの弟子であった思託から資料の提供を受けて、奈良時代の学者の淡海三船が著したものです。鑑真が渡日を決意する場面です。原文は漢文ですが、日本人の書いた漢文ですから、原文でもそれ程難しくはありません。それでもまあ読みにくいので、書き下し文を載せておきました。

此を以て思量するに、誠に是れ仏法興隆有縁の国なり。今我が同法の衆中、誰か此の遠請に応して、日本国に向て、法を伝る者の有んや。時に衆黙然として一りも対ふる者の無し。良久して、僧祥彦と云もの有り、進て曰く、彼の国太た遠して生命存し難し。滄海淼漫として、百に一りも至ること無し。人身得難く中国 生し難し。進修未た備はらす。道果未た剋せす。是の故に、衆僧緘黙して対こと無きのみ。大和尚の曰く、是れ法事の為なり。何そ身命を惜ん。諸人去ら不んは我れ即ち去んのみ。

 なおネットでは「真人元開『法務贈大僧正唐鑑真大和上伝記』」で検索すると、原文・書き下し文・現代訳を見ることができます。

 鑑真は5回も渡航に失敗し、盲目となっても来日したのですが、この史料に記された会話によって、本当に命懸けであったことが伝わってきますね。井上靖の小説『天平の甍』と読み比べてみるのも面白いでしょう。アクティブラーニングをしている人ならば、『天平の甍』を教材とするかもしれませんね。授業では5回も失敗しても来日したということに触れられることでしょうが、このような背景があったことを史料で読んで知っていれば、鑑真の熱い心を語るのにも、熱がこもることでしょう。

 次に、史跡の現地を見ておくことの重要性についてお話ししましょう。「講釈師、見てきたようなことを言い」という川柳がありますが、タイムマシンに乗って見てくることができない以上、実感を持って理解するためには、せめて現在の様子でもよいですから、歴史的なことがらが起きた場所に行って、そのことを確認する必要があります。地理・地形的要素が大きいことがら、例えば古戦場などは、どうしても現地で地形を見ながら状況を確認したいのです。地理的な要素がなくても、巨大で動かすことの出来ない遺物は、こちらから出向いて見てくるほかはありません。

 史跡は全国至るところにありますから、見始めたらそれこそきりがないのですが、私の経験をもとに独断と偏見で見ておきたい史跡を上げておきました。もちろんこれはほんの一部で、ここに上げたものにとらわれる必要は全くありません。私自身、まだ基本的な重要史跡でも、まだ見たことのない所はいくらでもあります。ここに上げたものは、あくまでも例に過ぎません。

 岩宿、奈良や京都の古社古寺、長崎、下関海峡、大坂、日光、沖縄、仁徳天皇陵、伊勢神宮、江戸城、品川沖 台場、横浜、鎌倉、新田荘、関ヶ原、富岡製糸場、碓井製糸、足尾銅山、埼玉古墳群、菅谷館、大宮氷川神社、高麗神社、紫雲寺潟新田、東京駅、日本橋、元寇防塁、千早城、首里城、箱根関、佐渡金山、和銅採掘跡、大井川、五稜郭、三富新田、日光御成道、韮山反射炉、深谷のホフマン窯、吉見百穴、秩父札所、石川島、築地、湯島聖堂、吉野ヶ里遺跡、登呂遺跡、三内丸山遺跡、加曽利貝塚、大宰府跡、条理遺構、平泉、柳生徳政碑、浅草、川越、旧谷中村跡、国分寺跡、見沼代用水、戦艦三笠、発掘中の竪穴住居、多賀城、熊野、その他多数。

 私の印象に残っているものを上げてみましょう。長篠の戦いの行われた設楽原では、かつては連吾川に沿って湿地があったと想像され、太陽暦7月9日ではまだ梅雨以来のぬかるみがあって、武田の騎馬軍団が走り回れたかどうか疑問に思いました。下関海峡では対岸を見渡しながら、1㎞しか飛ばない幕末の大砲でも、長州藩が下関海峡封鎖すれば、ここを通過することが困難であったことがわかります。仁徳天皇陵を歩いて一周した時は、外周の濠のそばにある学校の体育の授業中で、生徒たちが古墳一周コースを走っていました。これでは絶対ショートカットは出来ませんし、なかなかよいコースだと思ったことです。赤城山の扇状地の扇央は「笠懸野」と呼ばれていたのですが、地下水位が低いため、水田がありません。だからこそ新田一族が笠懸などの武術との訓練場に利用していたのでしょう。しかし扇端には各地に湧水があり、鎌倉時代から集落がたくさんありました。現在も「○井」というように、井戸の井の字をのついた地名がたくさん残り、水田が発達しています。この一帯は新田荘のあったところで、地図を片手に現地を歩いてみて、初めて荘園の規模や立地を理解することができます。博多湾岸の元寇防塁の前に立って背比べをしてみると、大して高くはなくとも、部隊を自在に展開するには不向きな海辺の砂浜なら、この高さでも十分な防御施設になったことがわかりました。喘ぎつつ登った千早城では、楠勢が少ない軍勢ながらも幕府の大軍を一手に引き受け、一歩も退かなかったことがよく理解できました。旧谷中村跡では、周囲の水田と言っても現在は渡良瀬遊水池なのですが、標高差はいくらもなく、しばしば洪水に見舞われたであろうことがよく理解できました。

 安中市にある碓井製糸は絶対のお勧めですね。富岡製糸場だけでは不十分です。生糸や絹織物は授業でしばしば登場し、生糸は近代日本の最大の輸出品でもあったのに、製糸の様子を見たことがないというのでは、実感を持って語れません。かつては日本各地にあった製糸工場ですが、現在ではこの碓井製糸とほかに一カ所だけになってしまいました。事前に電話で申し込み、数人でまとまって行くことをお勧めします。決して公開しているわけではなく、仕事場を無理して見せて頂くのですから、失礼のないような対応が必要です。帰る時には、少々高くても、生糸や関連商品を買い求め、喜ばせて差し上げるくらいの気遣いをして下さい。

 史跡探訪については、皆さんもあちこちに出かけていることでしょうから、私が今さらどうこう言う程のことではありませんが、ただ大切なことは、前もって下調べをしておいて、見るべきことを確認しておく必要があるということです。後でこれを見ておけばよかったといっても、多くの場合は再び行くことはなかなかないことでしょうから。もちろん現地を見ていなくても、授業で話すことは出来ます。しかし見ておけば語る言葉の確信が違うものなのです。最低限度、せめてユーチューブで見ておいてほしいものです。
 
 さてお次は、たとえ複製でもよいですから、現物を見ておく必要があるということです。見たことのない物は実感をもって伝えられません。そうは言っても、世界史では費用がかかって、海外旅行はなかなかできないでしょうが・・・・。今はユーチューブでも見られるものもあります。それでも最低限度見ておいて欲しいものを並べてみましょう。

 各地の博物館、聖徳絵画館(大政奉還・小御所会議・五箇条の誓文・江戸開城談判・岩倉大使欧米派遣・西南 役熊本籠城・屯田兵御覧・憲法発布式・下関講和談判・ポーツマス講話談判)、貨幣博物館(皇朝十二銭・渡来銭・天正大判・江戸期の貨幣・兌換紙幣)、文書館(三行半・関所手形・宗門改帳・五人組帳・検地帳・御固図)、生糸、蚕卵紙、翡翠、流鏑馬、荏胡麻、友禅染、西陣織、四木三草、藺草、俵物、浮世絵、庚申塔、改正地券、壬申地券、黒曜石、シャトル、衣料切符、玉虫、解体新書、翡翠、伊万里焼、各種和本、古本市、玉鋼、一号機関車、登り窯、玉鋼、絹織物、真綿、石炭、鉄鉱石、コークス、石灰岩、サヌカイト、螺鈿、japan、china、砂金、千歯こき、紬、歌舞伎、文楽、能、朝鮮人参、メキシコドル、墨塗り教科書、証紙付き十円札、法華曼荼羅、カナダ紙幣、香港紙幣、辛亥銘鉄剣、正喜撰、コーラン、鉛活字、慶長古活字版、大蔵経、版木、各種の考古学的遺物(土器・石器)、戦時中の金属代用品、スフ、戦時債権、軍票、千人針、金箔、紬、木簡、戸籍、登窯、パピルス、その他多数

 もちろん短期間に全部見ることはできません。長い教職生活の中で経験を積み重ね、最終的にはこの程度は見ておいて欲しいというのであって、経験のまだ短い人なら、まだまだ見たことがないものが多いはずです。しかしこの程度は見ておきたいという意識は常に持っておいて欲しいのです。手っ取り早くは各地の博物館でよいですね。先日はニコライ堂と水道博物館を見てきたのですが、なかなか面白いものでした。個人的なお勧めとしては、あまり人が見に行かなさそうな神宮外苑にある聖徳記念絵画館、日銀の真向かいにある貨幣博物館をお勧めします。聖徳記念絵画館には、図説資料集に載っている明治期の有名な絵画がずらりと揃っています。授業で古今の貨幣に触れられる機会は大変多いものですから、これも必見の博物館です。もし何人かまとまって下されば、私が御案内することも可能です。余りにも展示品が多いので、何が見るべきものであるかわかっている人と一緒に行った方が、取りこぼしがないものです。

 また安価に入手できるものであれば、自腹で揃えておくこともよいと思います。複製・復刻・コピーでもよいのですから、可能な限り入手したらよいでしょう。例えば活字があれば、グーテンベルクの活版印刷や、聖書の普及を背景とした宗教改革にまで話を広げられます。姫川の翡翠は小さな物でも数千円はしますが、ビルマ翡翠なら100円から買えます。江戸時代の伊万里焼は最低でも2~3000円はしますが、同じ技法の明治初期の物なら、300円から買えます。古文書類はコピーで十分です。いやかえってコピーの方が安心して触らせられます。木簡は自分で作ればよろしい。漆器はjapanと日本の国名で呼ばれる程の日本の特産物ですが、今日のお話でお見せしようと、先月の川越成田山骨董市で、約100年前の朱塗りのお椀をたった200円で買ってきました。ほしい方には買った値段でお譲りします。古銭の即売会には、世界史関係の方は是非ともお出かけ下さい。紙幣の肖像には、その国の歴史的人物が描かれることが多く、教材となる物が数限りなくあるからです。肖像でなくても、ドイツのインフレマルクやフランス革命のアッシニア紙幣、古代中国の青銅銭、古代ローマのコイン、メキシコ銀、ジャワで使われたオランダ東印度会社の社章入りコイン、英語と仏語2カ国語表記のカナダ紙幣、サルナートの柱頭と多数の言語が表記されるインド紙幣など、古い貨幣の展示即売会は教材の宝庫です。

 実物の威力は「百聞は一見にしかず」と言うように、どれ程多くのプリント資料よりも威力があります。その点でアクティブラーニングは、実物を活用した一斉講義にはとうていかないません。漆器・蒔絵・螺鈿を百言を費やして説明しても、実物を示しながらの説明には及びません。また入手できなくとも、授業者が実物を見ているという自信を持っていれば、語る言葉が具体的となり、より力強い説明が出来るはずです。

 さて次は「疑問を持て、そして探求せよ。」と見出しを付けておきました。次に並んでいることがらは、かつて私が疑問に思って自分なりに解決し、授業で話したことばかりです。

 須恵器はなぜ灰色か、2月はなぜ28日までか、ガンジスは汚くてもなぜ聖なる川か、オランダチームのユニフォームはなぜオレンジ色か、大阪・京都になぜ昆布料理があるのか、一週はなぜ7日か、最初の鉄道はなぜ新橋からか、厳寒の時期になぜ立春なのか、日本サッカー協会のシンボルはなぜ三本脚の烏なのか、国際的にはなぜ右上位なのか、築地市場の建物はなぜ扇形か、百穴にはなぜムクゲの花があるか、煉瓦の生産地である深谷には山がないのに原料はどうしたか、古代の瓦にはなぜ布目があるか、銭洗い弁天ではなぜ洗うのか、頼朝はなぜ鎌倉を拠点としたか、鎌倉土産はなぜ鳩サブレか、征露丸はどういう意味か、御台場になぜ自由の女神像があるか、スバルの社章はなぜ星が6つか、明清の皇帝の服はなぜ黄色か、首里城の龍の爪はなぜ4本か、円本の1円は今のいくらくらいか、渋沢栄一の屋敷はなぜ王子にあったか、教科書に載る埼玉県人は誰か、幕末になぜ蚕卵紙が輸出されたか、黒曜石はなぜ今も採掘されるのか、春分秋分はなぜ祝日か、沖縄にはなぜガマがあるのか、鍬と鋤はどこが違うか、北魏様式の「杏仁」とは何か、夢殿救世観音はなぜ金色か、レストランの「とんでん」の本社はどこか、トヨタ自動車の本社はなぜ愛知県か、二毛作はなぜ鎌倉時代からか、末法元年はなぜ仏教公伝(552年説)の500年後か、正確な時計がないのにどうやって夏至がわかるのか、女子大生はなぜ卒業式に海老茶の袴を履くのか、銀座の祭はなぜ柳祭というのか、札幌ビールの社章はなぜ星なのか、印鑑はなぜ篆書体なのか、諸兄はなぜ橘姓を授けられたか、埴輪の服はなぜ左前か、なぜ釉薬のかかった須恵器があるのか、大判の表面の墨書は消えないのか、岡田啓介はどうやって官邸を脱出したのか、東京駅を復原する莫大な費用はどうやって捻出したのか、どうして日本橋に寝具の西川があるのか、一年の始まりは立春かそれとも 旧暦元日か、沖縄ではどうしてフライドチキンが引き出物になるのか、一遍はなぜ踊ったのか、墓地にはなぜ六地蔵がいるのか、宗祇はなぜ水無瀬宮で連歌を詠んだか、修学旅行ではなぜ日蓮宗の寺に行かないのか、パラオの人はなぜ親日的なのか、クローバーはなぜツメクサというのか、古代の鏡はどの程度映るのか、法隆寺の柱を採った原木は直径どれくらいか、津田梅子は日本語を話せたか、クリスマスはなぜ12月24日からなのか、内村鑑三は科学者として札幌農学校で何を学んだか、   

 これらの疑問を調べてみると、「へえ、そうだったのか」という驚きと発見の連続でした。いま一つ一つ全ての疑問の解説をしている時間的余裕はありませんが、もしこの場でどうしても知りたいというものがあれば、時間の許す限りでお答えします。後で個人的にでも差し支えありません。大切なことは、日常の生活の中でも、常に「なぜだろう」という疑問を持ち、探求し続けることなのです。一人ですべてのことを調べることなど出来ませんから、知っている人に尋ねた方が手っ取り早い。知らないことは恥ではありません。それより疑問に思わない方が問題なのです。

 アクティブラーニングの手法を多用する人は、どのように教えるかということにエネルギーを集中的に注ぎ込むことでしょうが、私の場合は、何を教えるかということに注いできたのでしょう。私の頃にはアクティブラーニングという発想はありませんでしたから、ひたすら教えることを深く掘り下げてゆくことが出来ました。どのように教えるかということと、何を教えるかということ、つまりHowとWhatは車の両輪のようなもので、どちらか一方を否定することはできません。これからの若い人達は、どのように教えるかということに精力を使ってゆくでしょうから、なおさら何を教えるかということが手薄になりかねません。多少の偏りは個人差があって良いでしょうが、アクティブラーニングが持てはやされる時代だからこそ、疑問を持って深く探求してゆくことを忘れてはなりません。
  
 話をもとに戻し、私の経験から例を上げてみましょう。レストランの「とんでん」の本社はどこか、という疑問です。あるとき鴻巣のとんでんで食事をしたのですが、とんでんという店名が、どうにもファミリーレストランのイメージに合わないので、そのわけを知りたくなりました。店ではちょうど北海道の物産を使った料理のキャンペーン中だったので、その時、ひょっとして「屯田」から来ているのではと閃きました。そこで店長に尋ねたところ、その通りだというのです。そして話が弾み、北海道の人にとっては、屯田兵は開拓者魂のシンボルであり、また誇りでもある。本社が北海道にあるので、そのように名付けたということでした。アメリカ人にとっての「ニューフロンティア」のようなものなのでしょう。

 例をもう一つ。鎌倉に行くと、帰りの電車を待つホームで、鳩サブレの袋を下げた人をたくさん見かけます。鳩サブレは鎌倉土産の定番になっているのです。あるときなぜ鳩なのかと疑問に思いました。そしていろいろ調べてみると、鳩は武神である八幡神の使者と理解されていて、『陸奥話記』には源義家が勝利する際には、鳩が頭上を飛んだという記述がありました。春日大社の鹿、稲荷神社の狐、伊勢神宮の鶏、熊野神社の烏、松尾神社の亀のように、八幡神社では鳩が神聖視されていたのです。それで鶴岡八幡宮に参拝する時、拝殿の前に立って社名を書いた額を見上げると、「八」の字が向かい合う二羽の鳩として書かれていることに気づきました。これで鎌倉土産が鳩サブレになる理由がわかったのです。

 今ここに二つの例を上げましたが、いずれも歴史その物ではなく、日常生活の一場面でした。このように日常の何気ないことがらの背景にも、歴史の痕跡が隠れているのです。否、その様な中から歴史の痕跡を探し出せるからこそ、生徒の関心を引き出せるのではないでしょうか。

 次の見出しは「自ら体験せよ」ということです。何ごとによらず、体験的に学習した知識や技能は、よくその人のものとなって理解を深めるものです。体験と言っても、教室で生徒に体験させられることもありますが、多くの場合は、授業者自身が授業外で体験することの方が多いと思います。しかし繰り返しになりますが、それによって氷山の水面下の部分が増えるのですから、たとえ教室で生徒に体験させられないことであっても、我々は積極的に経験しておきべきなのです。以下、これくらいのことは体験して欲しいと思うことを並べてみました。

 稲・麦や綿の栽培、藍染め、箱根越え、縄をなう、炭を作る、古文書解読、発掘調査、砂金採取、紙漉き、弓を引く、坐禅、製糸と紡績、地曳き網、乗馬、三角測量、10里を歩く、写経、米俵を持ち上げる、調布の重さを確認、拓本を採る、百人一首、陶芸、金属の鏡を見る、鎧を着る、黒曜石を割る、金の重さを体感する、蘇を作って食べる、古社寺参詣、伝統的年中行事、発火実験、京都タワーから比叡山を眺める、平等院で方角を確認する、仁徳陵を一周する、金属の鏡を作る(誰でも簡単にできる)、縄文原体で粘土に縄文を付ける、鎌倉大仏の中に入る、鎌倉の由比ガ浜で青磁片や常滑焼片を拾う、富山県のお握りを食べる、骨董市で各種の教材を見たり買ったりする、鎌倉の石を削る、団栗を食べる、荏胡麻・菜種から油を絞る、江戸時代の紙をちぎる、火縄銃を持つ、土器・陶器・磁器を割る、養蚕、機織、腐葉土を作る、金箔の上に絵の具で描く、朝鮮人参をかじる、

 余程に積極的にその機会をこちらから求めなければ、体験できないことがたくさん含まれています。発掘調査は勝手には出来ませんし、拓本も最初は指導者が必要です。鎌倉の青磁片も知っている人と行かなくては区別がつきませんし、金属の鏡を作るなど実際には誰にでもすぐに出来る簡単なことなのですが、初めは見当もつきません。ですから必要なことは、教えてくれるまで食い付いたら放さないという、良い意味であつかましいまでの知的探究心なのです。先達を大いに利用したらよい。どうぞ今日はスッポンのように食い付いて下さい。また体験できなくても、現代はユーチューブという便利なものがありますから、見ておくだけでも意味があります。これなら誰でも出来ますから、やったことがないと言うのは許せるとして、見たことがないと言うのは、私に言わせればその気がないだけなのです。

 時間もだいぶなくなってきましたね。次の見出しは「幅広い基礎知識が話を深くする」ということです。歴史は人の営みの積み重ねですから、人のすることは何でも歴史に関わりがあります。ですから教科書に書かれていることがらに限られることなく、幅広い知識は必ず授業の奥行きを増幅させてくれます。例として思い付くままに、旧暦、時刻と方角の表示、寺院と仏像、伝統的年中行事、家紋、干支、植物の名前、行事食、宗教、世界の国旗など、私の経験で授業に役立った歴史周辺の基礎知識を上げておきました。人によってはもっともっと他の知識を上げることもあるでしょうし、それでよいのです。

 特にこのような知識は、文化史の学習に役立ちます。私が実際に授業で語ったことを、思い付くままに上げておきました。  

 節分に食べる豆の数はなぜ年齢より一つ多いか、正月はなぜ目出度いか、阿弥陀如来像の印相はどんな意味か、なぜ七草粥を食べるか、なぜ彼岸に墓参をするのか、なぜ月に兎がいるのか、楠から作る防虫剤は何か、クローバーはなぜシロツメクサと言うか、端午の節供にはなぜ菖蒲湯に入るか、正確な南北をどのように知るか、時計も方向磁石もないのになぜ立春の日がわかるのか、日本橋七つ立ちとは何時頃か、茶の実の中には種が三つある、日本では左上位なのに国際的にはなぜ右上位か、「南無」とはどのような意味か、クリスマスの「イヴ」とは前夜祭ではない、2月はなぜ28までしかないか、数え年による年齢の数え方、飛蝗の呼吸器官を確認する(鯨油を撒いた水田の水面にはたき落として窒息させる)、イスラエルの国旗に描かれているのは星ではなく盾、新田・足利・北条・井伊氏の家紋、

 こういう知識は教科書やその解説書にはあまり見当たりませんから、自分で意図して取り組まなければ身に付きません。授業の準備だけで事足りるとしていては、いつまでも身に付きません。参考書はいくらでもあるのですから、せめて旧暦の基礎知識くらいは独学してほしいものですね。教科書には伝統的年中行事をコラム的に取り上げられていたり、また主題学習として取り上げられることもありますから。

 次に板書やノートのとらせ方の工夫についてお話ししましょう。一斉講義式の授業に対する批判として、授業者が板書をすると、生徒はそれを機械的にノートに書き写すだけで終わってしまうということがあります。確かにそれは当たっていると思います。生徒は内容もよく考えずに、とにかく写すということに集中し、内容の理解が伴わないことが多いのです。そして写し終わると、それだけで勉強をしたような気分になってしまうのです。

 これはそのような板書をする授業者に大きな問題があります。完璧な板書というものは、生徒の考える余地を残していないため、写すという作業になってしまうのです。それを防ぐためにはどうしたらよいでしょうか。それは不完全な板書をするに限ります。ここで言う不完全な板書とは、板書されるのは骨格部分だけであり、肉付けの部分は授業者の話を聞いて、補いながら書かなければならないような板書を意味しています。またキーワードになるような言葉は、わざと書かないこともあります。その部分はアンダーラインだけにしてしまうとか、もう少し親切にするならば、字数と同じ○を書いておくとか、とにかく集中して聞いていないとノートを書けないような板書と話し方をするのです。

 プリント学習の場合も発想は同じこと。多くの場合は空欄があり、話を聞きながら穴埋めをするタイプが多いことでしょう。基本的にはそれでよいのですが、空欄以外にも必要と思ったことがらが書き込めるような、余白の多いプリントが有効です。例えば、プリントは左半分だけにして、見開きの右半分には生徒が自主的に書き込めるスペースとして何も書かないでおいてもよいでしょう。そしてノートやプリントを評価する場合は、そのような書き込みがどの程度あるかを一つの観点とするのです。

 図や地図や系図や表などを書くのは時間がかかります。ですからそのようなものは予め印刷して配っておき、授業の内容に応じて、各自適当に切り抜いてはノートに貼らせてもよいでしょう。歴史漫画の決定的場面を貼らせ、吹き出しに台詞を書かせることもやりました。これは考査でも使えます。文化史の学習では、図説資料集の写真を切り抜いて貼っている生徒もいました。卒業する生徒に図説資料集を捨てずに寄附してもらい、希望する生徒に切り貼り専用として使わせたこともあります。

 私はノートやプリントに、色々な物を貼らせました。江戸時代の和紙を手でちぎって貼らせます。ちぎると繊維が複雑に絡み合っていることがわかるのです。藍染めの布は骨董市で簡単に手に入ります。2㎝四方くらいですが、江戸時代の商品作物や阿波の藍について学習する時に使います。パピルスは古代エジプト文明で使います。王子の紙の博物館に頼めば、送ってくれることでしょう。紅花染めの糸は藍染めの布と同じように使います。生糸は色々な場面で使えますね。白い糸なので、真っ黒い紙の上にセロテープで貼らせます。真っ黒い紙は、コピー機のオープンにしたままプリントすれば、いくらでもできます。トナーがなくなると怒られるかもしれませんが・・・・。油粕は園芸店で購入し、ノートにぱらぱらと播いて、これもセロテープで散らないようにします。金箔を貼らせたこともありました。中には弁当の御飯の上に蒔いて欲しいという生徒もいて、大いに盛り上がりました。貨幣や文化財切手を大量にコピーして貼らせるのも面白い。菜の花の種を配り、ノートの上で潰させると油がにじみ出すので、油粕に結び付きます。荏胡麻も同じことです。荏胡麻の種は野菜の種として普通に売っていますから、庭先で栽培し、たくさん収穫できます。黄土は黄河文明に関連して使います。少々をペットボトルに入れ、水を入れてよく振ると、即席の黄河の水が出来ます。もちろんイメージなのであって、実際の黄河の水ではありませんが、印象付けることは出来るでしょう。黄土は陶芸材料を扱う店で購入します。ただし微細な粉末に精製されているの黄土の台地から掘ってきたようには見えません。新潟のシングルトン公園で掬ってきた原油を指先に付けて、ノートに染み込ませたこともありました。

 こうして一年間書き続けると、年度末には捨てるのが惜しくなる程立派な、自分だけのノートやプリントが出来上がります。大切に保管するという生徒に聞いてみると、将来、自分の子が高校に入る頃に見せ、こんなに一生懸命勉強したのだと言うのだそうです。書けばそれで覚えられるというものでもありませんが、達成感は十分にあり、満足している生徒はたくさんいました。一年の反省を書かせると、ノートを書くのが楽しかったと言う生徒は驚く程多いものでした。生徒にとってノートやプリントは、写すものではなく、創るものなのです。
  
 考査の直後には、必ずノートやプリントの自己評価をさせ、それを考査の点に加えてやりました。評価の根拠を必ず書かせると、内容がないのにあつかましい自己評価をする生徒は一人もいませんでした。「先生は私の評価を肯定してくれた」と思ってもらう教育的効果は、大きなものがあります。 

 さて長々とお話ししてきましたが、主題は明確です。より良い授業を如何にして創り出すか、ということでした。大きく分ければ、一つは授業者自身の授業力を増大させるための工夫です。氷山の水面下の部分を増やすための研修です。話術の訓練もそうでしょう。そしてもう一つはそれらを授業で発揮させるための工夫です。板書やノートの取らせ方、また実物教材の活用などはこれに当たります。今日私がお話ししたのは、あくまでも私のやり方ですから、皆さんはそれを参考にして、御自分のやり方でやればよろしい。絶対的な正解があるわけではありません。これが一つの良ききっかけになることを切に願っています。そして得られた成果は、仲間と共有して、独り占めにしないことです。

 私は程なく教壇からは隠退しますが、もしマンネリを打破するために刺激が欲しい方は、是非とも拙宅にお出で下さい。色々お話ししたり、須恵器を拾いに行ったり、史跡の見学に行ったりして、必ずややる気満々にしてお返しいたします。今年度で教壇を降りるに当たり、このような機会を与えた下さいましたことに、心より感謝いたします。

 

 最後までお読み下さった方、本当にありがとうございます。教職にある方なら、きっと何かヒントがあったことと思います。もしそうでない一般の方でしたら、長々とお付き合いして下さり、何とも申し訳ありません。隠退直前のオヤジの戯言と、笑い飛ばして下さい。