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太陽暦採用裏話 日本史授業に役立つ小話・小技 47

2024-06-16 07:13:40 | 私の授業
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

47、太陽暦採用裏話
 高校の日本史の授業では、明治5年12月2日(西暦1872年12月31日)まで太陰暦(正確には太陰太陽暦)である天保暦が使用されていましたが、翌日には太陽暦であるグレゴリオ暦が導入され、その日を明治6年の元日としたと学習します。改暦を断行するという布告が出されたのは、施行のわずか23日前の11月9日のことであり、改暦の理由として、太陰暦ではしばしば閏月を挿入しなければならず不便であるが、太陽暦では誤差が少なく精密であることを挙げられています。まあ早く国際社会に文明国として認められたい日本にとっては、いずれ避けられない選択でしたが、キリスト教はまた禁止されていた時期であり、余りにも急激な改革でした。明治4年の夏ごろには改暦の議論があったらしく、外遊予定の岩倉具視等が全く与り知らぬことではなかったでしょうが、フランス滞在中に改暦を知らされた使節団は驚愕したはずです。
 その頃、暦の印刷・販売は誰もが自由に行えるものではありませんでした。政府の官暦を独占的に発行する頒暦商社が結成され、既に翌年の暦が発売されていましたから、商社は運上金も合わせて莫大な損害を被ったわけです。この様な事情があるにもかかわらず、政府が改暦を急いだことにはわけがあります。
そのことについては、一般に明治6年に大蔵卿となる大隈重信が、官員(公務員)の給与節減のために考えたこととされています。太陰暦のままなら、19年に7回の割合で閏年が挿入されるのですが、明治6年には閏月が設けられて13カ月になってしまうので、改暦すれば官員(公務員)の給与を一カ月分節約できます。また明治5年12月3日から改暦すれば、その年の大晦日の12月30日までの28日間、つまり約一カ月は存在しないこととなりり、12月分の給与は2日間しかないことを理由に、給与を支給しなくても大きな問題とはならないと踏んだのです。つまりこの時期の改暦により、官員の給与二カ月分を節約できるというわけです。この話は大隈重信が晩年に著した『大隈伯昔日譚』に記されています。
 この急激な改暦は、庶民には受け容れがたいものでしたが、福沢諭吉は明治六年元日に、『改暦弁』という小冊子を発行して、改暦を後押ししています。曰く「故に日本国中の人民、此改暦を怪む人は必ず無学文盲の馬鹿者なり。これを怪しまざる者は、必ず平生学問の心掛ある知者なり。されば此度の一条は、日本国中の知者と馬鹿者とを区別する吟味の問題といふも可なり」。現代の感覚からすればかなり過激な言葉遣いですが、いかにも諭吉らしい文章であり、そのくらいでなければ受け容れられないと考えたのでしょう。


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