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七五三の「七歳前は神の子」は出鱈目

2018-06-28 18:41:45 | 年中行事・節気・暦
 七五三についてネット情報を検索すると、七歳で祝われることについて決まって「七歳までは神の子」「七歳前は神の子」という言葉が用いられています。例えばこんな具合です。
○子どもたちは「七つまでは神のうち」といわれました。七歳までは神様から預かった子どもであるという意味です。七歳まで無事に生きてきた子どもの成長を祝い、氏神様に感謝のお参りをするのが「七五三」です。
○七歳までの子供は共同体の一員ではない。地域の大地に根ざしている「産神」の配下に居る「神の子」であり「七つまでは神のうち」と言ったようである。

 もちろんその根拠は何一つ示されていません。私は古代史を少しばかり勉強しましたので、「七歳」ということについては、思い当たるふしがありました。それは奈良時代の刑法である養老律には、「九十以上、七歳以下、死罪有ると雖も刑(ぎよう)を加へず」と記されていて、7歳以下と90歳以上は処罰の対象とはならないことになっていたということです。現在の刑法でも同様ですが、責任能力のない者は、処罰の対象とはならなかったのです。このような「七歳」という年の理解は、その後も長く受けつがれ、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、七歳以下は父母の死に際して、喪に服する必用はなく、またその逆に七歳以下の子の死に際しては、親も喪に服す必用はないというように拡大されて定着していきました。また貞享元年(1684)、江戸幕府が「服忌令」を発令し「七歳未満の小児、自他共に無服」としました。このことは当時の生活上必要な常識を幅広く網羅した生活便利帳のような書物にも記載され、広く江戸庶民の生活に取り込まれていました。これは私もそのような本の実物を所有していて、確認済みです。また貝原益軒という儒学者は『和俗童子訓』(1710)という書物において、「七歳より前は猶いとけなければ、早々寝(い)ね遅く起き、食するに時を定めず、大様その心にまかすべし。礼法を以一々に責(せ)めがたし。八歳より門戸の出入し、または座席につき、飲食するに必ず年長せる人に遅れて、先立つべからず。初めてへりくだり譲ることを教ゆべし。小児の心まかせにせず、気随(きずい)(わがまま)なる事をかたく戒むべし」と説いています。数え年の七歳ですから、現在ならば満5~6歳、つまり小学校入学前に当たります。その様な幼児にはまだ自由にさせてしつけをしないが、八歳になってからは礼儀作法などのしつけをするというわけです。このように江戸時代においては、七歳までは一種の特別扱いされる年齢でした。明治時代になってからも江戸幕府の発令した服忌令は、明治七年十月十七日の太政官布告第一〇八号によりそのまま採用され、七歳までの幼児が特別扱いされる風習が民間でも続いていました。まあとにかく、江戸時代においては、七歳までは一種の特別扱いされる年齢だったのです。そしてその風習は、明治になっても継続され、それぞれの地方に定着していました。

 江戸時代初期に長崎で出版された『日葡辞書』という日本語とポルトガル語の辞書には、「七五三」という項目があります。ただし通過儀礼としての意味ではなく、大きな宴会で七品の料理を盛った膳と五品の膳と三品の膳を並べて据えることがあり、それを「七五三の振舞」と呼ぶと記されています。これは本膳料理の正式な形式を表すもので、本膳に七、二の膳に五、三の膳に三の菜を盛るので、「七五三膳」とも呼ばれました。七・五・三という数は節供が行われる月と日の数でもあるように、陰陽道では縁起のよい陽の数とされていますから、祝意を込めて「七五三の振舞」とか「七五三膳」と呼ばれたわけです。また注連縄を「七五三縄」と表記することもあり、「七五三」という言葉は、慶事を表す言葉として、江戸時代には普通に使われていたのでした。通過儀礼としての七五三という言葉は、このような祝意を表す既存の「七五三」という言葉にならって、自然に使われるようになったのです。『五節供稚童講釈』という子供向け年中行事解説書にも、「三・五・七の陽の歳(奇数の歳)を迎えて、行く末の目出度いことを祝う」とはっきりと記されています。七五三という呼称は、一般には明治時代になってからとされ、各種の辞書にもその様に記されていますが、川柳や浮世絵にいくつも用例があります。本来は「七五三」の一セットで目出度いことを意味する数でしたから、七歳だけを分離して考えることは、してはならないと思います。

史料「七・五・三の陽の歳の祝い」
「小供生れて半の歳に当れば、陽の数ゆゑ、陽を迎へて息災に育ち、行末のめでたからんを祝ふなり。ゆゑに三ツ五ツ七ツ九ツ十三、いづれも半の数を用ゆ。」(『五節供稚童講釈』二編 十一月)賭博で奇数を半、偶数を丁というように、「半の歳」「半の数」の「半」とは奇数のことです。

 「七歳前は神の子」ということを最初に唱えたのは、民俗学者の柳田国男です。柳田は大正三年(1914)に「神に代りて来る」という論文において、「七歳になるまでは子供は神様だと言っている地方がある」と述べて、「七歳前は神のうち」説を唱え始めました。しかし具体例は一つも示していません。その後二人の民俗学者によって青森県と茨城県の二つの事例が報告されましたが、いずれもほんの数行のコラム的報告で、およそ研究といえる程のものではありません。

 「七ツ前は神様」と題した青森県の例は、「青森県五戸地方では男女共七ツ前をさう云ふ。日常第一番に神仏に供物する食物を、幼児のだ2こねて先きに食べるとてきかぬ時等は、矢張りさう云つて、仕方がないからやると云つてから呉れる。而して其七ツ前に死亡した場合は、男女共紫色の衣を着せ(或は青年期の未婚者にも着せる風もある)口にホシカ鰯(ごまめ)を一つくはへさせて埋葬する風がある。」(『民間伝承』三巻三号、会員通信)というもので、要するに「神仏への供物を七歳前の子がねだった時は、仕方がないからやる」というだけのことです。

 「七ツ前は神のうち」と題した茨城県の例は、「前号の能田多代子さんの「七ツ前は神様」で思ひ出したが、常陸多賀郡高岡村では「七ツ前は神のうち」と言ふ。七ツ以下の子供の場合は、大人なら神様に対して不敬になるやうなことでも不敬にならないといふ意味だと謂つて居た。また七ツ前の子供が死んだら、近い過去までは縁の下へ埋めたと聞いた。」(『民間伝承』三巻四号、会員通信)というもので、要するに「大人なら神に対して不敬になることでも、七歳前の不敬な行為は許される」だけのことです。どちらも七歳以下の子供は社会的に特別扱いされることがある例を示しているだけであって、七歳までは神の子であるとか、この世のものに成りきっていない特別な存在であると解釈できる内容ではありません。

 確かに7歳前の幼児が死んだ場合は、通常と異なる方法で葬っていることが確認されています。そしてそれを以て神の子であるとする根拠とするという理解もあるようです。話が突然縄文時代に飛びますが、竪穴住居の入口の地下に、幼児の骨を納めた甕を埋める埋甕の葬法があり、南関東地方から中部地方に多く認められています。これは明らかに成人の葬法とは異なっていて、何らかの呪術的意図があると考えられています。不本意ながら早逝してしまった幼児の骨を壷に納めるのは、胎児の形をとらせて再生を期待したのかもしれません。縁の下に埋めたという前掲の例にもよく似ています。しかしあまりにも時間が隔絶していますから、直接の因果関係はないと思います。もしあるとすれば、時代を問わず死んでしまった我が子を悲しむ気持ちで、近くに埋めてやりたいという親心だと思います。明治時代になっても、七歳前の子の葬儀については喪に服す必要はない、つまり簡易な葬儀にするという風習がありましたから、せめて身近に葬ってやりたいという親心の表れではないかと思います。これはあくまでも私の想像です。しかし縁の下に埋葬することから、直ぐに神の子であったと理解することはできません。あくまで成人とは異なる扱いをされていたという以上のことは言えないのではないでしょうか。

 柳田国男がそのような説を唱えたのは、江戸時代に七歳以下の子が死んでも喪に服する必用のない特別な存在であったことから思い付いたものと思われます。そのような特別扱いは、律令以来の責任能力のないものを処罰しないという規範に起原を持つものであったのに、子供の神性によるものと勘違いしたのでしょう。

 その後この説は彼の弟子たちや民俗学者によって広められ、根拠を全く示さない柳田の文章と、この程度のコラムが拡大解釈され、現在ではあたかも定説のように語られ、ネット上には「七歳前は神の子」という諺があったなどと、断定的に書かれています。しかしさすがに根拠が薄弱であるため、民俗学会の中から批判が起こり、現在ではこの説をまともに信じている民俗学者はほとんどいません。歴史学者に至っては、あまりにもお粗末な論証であり、まともな論評の対象にさえしませんでした。それなのに伝統的年中行事解説書の著者やネット情報の筆者達は、今も猶ありがたく「七歳前は神の子」説を奉じているのです。「・・・・と言われています」と書きながら、その「言われている」という史料を見たことはないのです。もしその説を奉じるならば、「七歳前は神の子」というフレーズを含んだ江戸時代の文献史料を提示してもらいたいものですが、そのような史料は全く存在すらしません。そのような諺があると得々として書いている人は、いったい何を見て書いているのでしょうか。見たことなどないはずなのに、さも自分で見たかの様に書いている神経が信じられません。それもそのはず、「七歳前は神の子」というフレーズは昭和初期に当時の民俗学者によってに創作されたものだからなのです。ネット情報や年中行事の解説書や、七五三の参拝を宣伝する神社情報には「七歳前は神の子説」が氾濫していますが、おそらく誰一人としてその根拠を確認していないのでしょう。残念なことにこれ程までに根拠のない説がまかり通っているのです。

 この説の問題点は、他にも考えられます。5歳と3歳でも祝われることについて、説明が付かないことです。また7歳の祝いについては、江戸時代の後期には女児が対象になっていましたが、7歳の男児についてはどの様に説明するのでしょうか。やはり江戸時代の年中行事の解説書に、七・五・三の年は奇数でめでたいのでその年齢になったら祝うとはっきりと記されているのですから、それこそが当時の人の共通理解だったのです。私は江戸時代の歳時記をほとんど読み尽くしていますが、7歳の祝いだけを取り出して、神の子に絡めて説明しているものを見たことがありません。もし当時その様な風習があったとしたら、何らかの痕跡が残っていてもよいではありませんか。

 私が根拠にこだわることについて、批判されることがあります。しかし七五三という風習は、それはそれで立派に歴史の一部なのですから、史料的根拠なしに推測で理解することは絶対にしてはいけないことだと思います。 なおこの問題については、柴田純氏の「『七歳前は神のうち』は本当か」という論文によって、柳田の誤りでることが反論の余地が全くない程に精密に論証されています。ネットで閲覧できますから、是非とも読んでみて下さい。

 「七歳前は神の子という諺があります」と書いている筆者に尋ねてみたい。あなたはその諺があると言うことを、直接に確かな根拠で確認したのですか、と。せいぜい年中行事事典の類で調べたのでしょう。ここまで言われて納得できないなら、「七歳前は神の子」を証明する証拠を示して下さい。辞書に書いてあるといっても、それは証拠になりません。辞書など筆者が自由に書けるからです。伝承があるというのも証拠になりません。どこまで遡るのか、証明ができません。日本全国に昔からその様な風習があったというなら、少なくとも江戸時代の歳時記、川柳、庶民の日記などに、痕跡が残っているはずです。柳田国男が説き始める前には何の痕跡もなかったことをどの様に説明するのですか。年中行事事典の大半は、民俗学的視点によって書かれたものであって、事典の著者自身が確かな歴史的文献によって書いていないものがほとんどなのです。何らかの形で柳田国男の影響を受けており、とうてい学問的批判に耐えられるものではありません。とにかく史料的根拠を示さずに、「・・・・と言われています」という書き方をする年中行事のネット情報のいい加減さ、特に民俗学的視点から書かれたものについては、ほとんどが眉唾物だと思って間違いありません。




追記1
下記のようなコメントをいただきました。まずはわざわざコメントをして下さったことに、素直に感謝いたします。

「事実は違うが、大衆に流布している言葉って結構あります。私は七歳までは神の内、の解釈に違和感を覚えません。子供の死亡率は今よりずっと高かったし、女児を魔物から見過させるために男児の格好をさせたり、わざと悪名(捨蔵など)を幼名につかって無事に育つよう願うことすらあったのです。これの何処までが本当かは知りませんが。なので、真実と事実は違うのだということで収まると思います。」

しかし御説の内容には同意できません。昭和初期に柳田國男が「7歳までは神の子」説を唱え始める以前には、そのような理解も諺も全くなかったことをどのように説明するのですか。秀吉の子が「お拾い」と呼ばれたのは、捨て子は育つという当時の風習からで、そのような風習がつい最近まではあったことは事実です。しかしそれが「7歳までは神の子」ということにつながるのですか。第三者が確かな根拠によって検証できないことは、学問の成果とは認められません。柳田國男はあくまでも学問の成果として唱えているのです。決して文学や宗教として唱えているわけではありません。それなら学問の土俵に載せて批判されるのは当たり前のこと。私は事実を明らかにしているだけです。一部の民俗学者が根拠もなく唱え始めたことがなぜ「真実」なのですか。真実の意味が違うように思うのですが・・・・。


追記2
下記のようなコメントをただきました。ありがとうございます。
「今も昔も赤ちゃんや幼児が亡くなるのは親にとって悲しみがとてつもなく大きい。特に乳幼児の突然死は今も原因不明だし、衛生状態の良くなかった昔は今以上に乳幼児の死亡率が高かった。自分を責める親を慰める意味で「7歳までは神の子」「どんな理由で亡くなっても自分を責めないで」という地域の知恵だったのでしょう。そう考えることで救われる親も多かったと思います。」

お気持ちはいたい程わかります。私自身もそのような経験をしているからです。しかしなぜ7歳が特別視されたのかということの説明にはなりません。とにかく昭和初期に柳田國男がそのようなことを説き始める以前には、「7歳までは神の子」という理解は全く存在しなかったのですから。「地域の知恵」とのことですが、どの地域にそのような理解があったというのでしょうか。「7歳まではの子」説を説いている人は、それすら示すことができず、ただ「・・・・といわれています」だけなのです。


追記3
下記のようなコメントをただきました。まずはわざわざコメントして下さりありがとうございます。
「そうですね、皆さまのコメントも正しい。筆者さまの発言も間違いはないのだと思います。ただ、何故江戸の頃(以前)の言い伝えで無ければいけないのでしょうか、まだ、人の世は始まったばかりです。これから新たな言い伝えが増えてもいいと思います。面白いじゃないですか、昭和生まれの諺。平成、令和、そして新しい年号の新しい言い伝え、これからが楽しみです。できればこれから先、何百年も昔の人がのこしたものが失われない事を祈ります。」

 「何故江戸の頃(以前)の言い伝えで無ければいけないのでしょうか」とのことですが、ある学者が学問的根拠もなしに、昭和初期に思い付きで唱えたことが歴史事実になってしまってよいのでしょうか。七五三の伝統行事は、立派に歴史の一部なのです。大正時代までは、「七歳前は神の子」などということはなかったのですよ。歴史の捏造ではありませんか。私は歴史の学問的視点から「七歳前は神の子」と言われてきたことは誤りであると主張しているだけです。あなたも「何百年も昔の人がのこしたものが失われない事を祈ります」とお書きになっていらっしゃるではありませんか。

 江戸の頃(以前)の言い伝えで無ければならない重要な理由は、一般にはあまり知られていないのでお話しいたしましょう。現代人は伝統的年中行事が途切れることなく続いてきたものと思っています。しかし実はそうではないのです。明治6年に太陽暦が採用される際、太政官布告により五節句を廃止するということが通達されました。文明開化の風潮の中で、伝統的なものが次々に廃止され、何でもかんでも洋風なものがよいとされたため、伝統的年中行事は見る影もなく廃れてしまったのです。その見る影もない様子は当時の『東京年中行事』にくどい程書かれています。東京では七夕飾りさえ姿を消していたのです。それは七五三も同じことです。しかし明治も後半になると次第に国家主義的な風潮が高まり、伝統的年中行事が復活し始めるのです。ただしその際には、江戸時代までの様子がそのまま復活するのではなく、姿が変わってしまったものも多かったのです。そういうわけでいくら明治以来の伝統があるといっても、それが古来の姿ではない場合が多いのです。そういうわけで、伝統的年中行事の本来の姿を究明するためには、江戸時代以前の文献に依らなければならないのです。

追記4
以下のようなコメントを頂きました。何はともあれ、ありがとうございます。素直に感謝致します。

「少し無理がありそう。興味深く読ませていただきました。ただ気になるのは、「過去の出来事には全て証拠がある」と言う前提に立っているようですね。証拠とは「残す」という作業があって初めて残るもの。古い物は自然に消滅して痕跡すら残らないのが常ではないでしょうか? また、記録も同じで「残す」という意思があって初めて残るもの。さらにはその記録は権力者に必要ない物は記録されないでしょう。証拠に偏るのは危険だと思いますが、いかがお考えでしょう? もう少し柔軟に考えた方が良いと思います。」

 「証拠に偏るのは危険だと思いますが」、思いつきで歴史を語ることの方が、どれだけ危険なことかと思いませんか? 証拠は残すという作業があって初めて残るものとのことですが、無意識に残る証拠の方が圧倒的に多いのは、歴史研究をすれば御理解いただけると思います。むしろ無意識に残す証拠の方にこそ、証明能力があることは、歴史を学ぶ者のイロハです。意図して残した証拠など、作為があって信用できません。残す気があろうとなかろうと、人間の営みがあれば、勝手に残るものです。七五三はあくまでも歴史の一部である以上、実証主義的批判に堪えられなければなりません。それがないのに七五三の変遷、即ち七五三の歴史を語ることは、お話としてはともかく、学問的には到底認められません。柔軟にとのことですが、歴史研究に「根拠がなくても柔軟に考えよ」というのは、歴史研究を否定せよということに等しいとは思いませんか。古い物は自然に消滅して痕跡すら残らないとのことですが、たかが江戸時代の話ですよ。一生かかっても確認できない程の文献史料が残っているのに、「七歳前は神の子」ということを証明できるものが何一つないのはおかしいとは思いませんか。一方、七歳前は特別扱いされ、多少のことは大目に見るということの証拠は残っていることをどの様に説明するのですか。記録は権力者に必要ない物は記録されないでしょうとのことですが、江戸時代の文献史料には、権力に無関係の庶民の記録の方が、比べものにならないくらい残っています。少しく歴史を研究した方なら、余りにも当たり前のことです。七五三は庶民の生活の一部でしたから、庶民の残した日記・歳時記・各種古文書に痕跡が残ります。







12 コメント

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Unknown (Unknown)
2019-08-08 21:54:05
現代医科学においては 子供の脳の発達について
・脳神経細胞がどんどん増え続けていく時期が0~3歳
・脳神経細胞の「間引き現象」が起こる時期が4~7歳
・「情報伝達回路の機能」が発達していく時期が8~10歳

そして、おおよそ10歳で 人間となる。といえるそう。

古くからの感覚や伝承もそう外れてはいないようです。
実際に子育てし、経過観察しても確かに見て取れるところがあります。まだまだ途上ですが。
かの、「岡潔」 先生も孫の観察により、そのようなことを見出されていますね。

日本的東洋的な、淡いの情感は深遠ですね。 (構成的方法論 というそう) …生生生生暗生始 死死死死冥死終
西洋的な、自然科学的分析的な方法論が最高と考えることは、限界と窮屈さとがあります。 (一定以上の科学者たちも認める事実。)
Unknown (milk3)
2019-08-09 04:55:23
コメントの内容はよく理解できませんでした。江戸時代までの年齢は満年齢ではありませんから、当時の3歳は現在の1歳のこともありますよ。1~2歳少なくなるのですが、そうすると御説とは矛盾するのでは?
Unknown (ホシナ)
2019-10-19 07:36:33
先生は、「とおりゃんせ」の歌詞についてはどんな見解をお持ちですか?
最近は、3歳は女の子、5歳は男の子、7歳は男女とも、というのが七五三の慣わしのようですが、自分が子供の頃は3歳と7歳が女の子、5歳が男の子という区分けだったように思います。で、どうしてそういう差別があるの?と聞くと「男の子は強いから一回で、女の子は弱いから二回お祝いする」と母や祖母から聞きました。方便だなと子供心に思いましたが、これもひとつの俗説的な風習の変遷なのでしょう。
昭和の戦後時代はそうだったのが、これが平成ごろから変わってくる。少子化も関係しているのでしょう。で、三歳=女、五歳=男、というのは桃の節供・端午の節供から派生したものではないか、と推測しています(根拠となる文献はありません)が、どんなものでしょうか。
Unknown (珍小鳥)
2020-05-11 20:07:51
事実は違うが、大衆に流布している言葉って結構あります。私は七歳までは神の内、の解釈に違和感を覚えません。子供の死亡率は今よりずっと高かったし、女児を魔物から見過させるために男児の格好をさせたり、わざと悪名(捨蔵など)を幼名につかって無事に育つよう願うことすらあったのです。これの何処までが本当かは知りませんが。なので、真実と事実は違うのだということで収まると思います。
Unknown (Unknown)
2020-11-12 20:38:48
今も昔も赤ちゃんや幼児が亡くなるのは親にとって悲しみがとてつもなく大きい。特に乳幼児の突然死は今も原因不明だし、衛生状態の良くなかった昔は今以上に乳幼児の死亡率が高かった。自分を責める親を慰める意味で「7歳までは神の子」「どんな理由で亡くなっても自分を責めないで」という地域の知恵だったのでしょう。そう考えることで救われる親も多かったと思います。
Unknown (敢二)
2020-12-07 07:16:36
そうですね、皆さまのコメントも正しい。
筆者さまの発言も間違いはないのだと思います。
ただ、何故江戸の頃(以前)の言い伝えで無ければいけないのでしょうか、まだ、人の世は始まったばかりです。これから新たな言い伝えが増えてもいいと思います。面白いじゃないですか、昭和生まれの諺。平成、令和、そして新しい年号の新しい言い伝え、これからが楽しみです。できればこれから先、何百年も昔の人がのこしたものが失われない事を祈ります。
Unknown (あかさたな)
2021-01-27 23:49:17
ブログは好きなことを書けば良いと思いますので、当否ではなく、純粋な疑問を指摘したいと思います

まず私は柴田純氏の論文を読んだ上で本ブログを読んだのですが、柴田説の疑問として、何故古代社会では七歳まで喪に服するのか、或いは主さんが指摘するように犯罪の被疑者にならないのか、この点について全く考察を加えておりません

寧ろかかる事実は、「七歳までは神の子」という、言葉よりも寧ろ表象を担保するのではないでしょうか
周知のとおり言葉の全ては文字化されません、その理由は自明であるがゆえに残す必要もなかったからですが、七つを越えることが大変難しかった時代には、「七歳を越えて初めて人になる」、すなわち人扱いしなくても良かったということであると想像され、それは「子は天からの預かり物」といわれる表象とも類似するように思われます

柴田氏は、「歴史的考察は、ロマンや願望ではなく、どこまでも事実を直視し、それと格闘することでしか、今後の研究の進展が期待できないことを銘記しておくべきだと思うのである。」と書いてますが、事実とは何でしょうか。史料に書いてあることでしょうか、或いは史料解釈でしょうか。史料に書かれたことが変わらないならば新しい史料の発掘がない限り評価は変わりません
ですが、我々はみな日頃から経験しているように、評価は視点が変わることで変容します
文字そのものが変わるのではなく読み手の視点が変わるのです

私は、柴田氏の見解こそ、子どもが当たり前に生育する現代的視点の最たるものとして論文を読んだ次第です
Unknown (あかさたな)
2021-01-27 23:57:24
七歳まで喪に服しないのか
でした、訂正してお詫びします
少し無理がありそう (ワタナベツトム)
2021-12-02 18:28:28
通リすがりの者です

興味深く読ませていただきました。

ただ気になるのは、
「過去の出来事には全て証拠がある」と言う前提に立っているようですね。

証拠とは「残す」という作業があって初めて残るもの。
古い物は自然に消滅して痕跡すら残らないのが常ではないでしょうか ?

また、記録も同じで「残す」という意思があって初めて残るもの。さらにはその記録は権力者に必要ない物は記録されないでしょう

証拠に偏るのは危険だと思いますが、いかがお考えでしょう ?

もう少し柔軟に考えた方が良いと思います
Unknown (あおい)
2022-03-17 15:51:58
「7歳までは神のうち」の例として挙げられた中で、どうして肝心なほうについてスルーされているのでしょうか。

「而して其七ツ前に死亡した場合は、男女共紫色の衣を着せ(中略)埋葬する風がある」 「七ツ前の子供が死んだら、近い過去までは縁の下へ埋めた」

7歳前の子供の葬儀等を大人とは違う方法にしていたわけですよね。これは単に社会的な便宜でとか、子供が悪さをする時の方便とかでは説明がつかないと思います。

考えられる説明としては、「愛しい子供が亡くなった時、「子供は神様と同じ」という考えの下、特別な死に装束を施したり、自分たちと同じ屋根の下に葬ることが許された、ということではないでしょうか。

そして、祇園祭の主役である稚児は「神の子」「神の使い」とされていますし、伊勢神宮の祭祀では「大物忌」「物忌」と呼ばれる童女が平安時代の昔から神事の特別重要な部分で参加しています。

つまり、子供を神聖な存在とする考え方は古くから広く存在していました。

また童謡「通りゃんせ」には「この子の七つのお祝いにお札を納めに参ります」とあります。「7歳までの子供を守ってくれたお札(お守り)を還しに行く」ということですから、ここにも7歳までの子供を特別視する発想があります。この歌詞は江戸時代にできたものとも言われていますが、遅くとも1920年頃収録とされています。柳田の本を読んで直後にこの歌詞ができるとは思えません。少なくともこういう習俗が既にあったということでしょう。

また「七五三」は江戸時代には存在した風習ですから、そこから発展して江戸時代には「7つまでは神のうち」という概念が日本社会に広く存在したと考えることに矛盾はないと思います。

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