うたことば歳時記

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端午の節供は、もとはどの様な風習だったの?(子供のための年中行事解説)

2022-04-28 09:43:33 | 年中行事・節気・暦
端午の節供の起原はどんなだったの?
 新暦の5月5日は「こどもの日」ですが、旧暦の5月5日はもともとは端午の節供で、江戸時代以来男児の健やかな成長を祝う日でした。それで「こどもの日」とするのに相応しい日と考えられたのでしょう。しかし本来の端午の節供は、「子供」とは何の関係もありませんでした。
 そもそも「端午」の「端」は物の端(はし)とか始まりという意味、「午」は十二支の「うま」のことです。十二支は「日干支」と言って日にも当てはめられますから、端午とは月の最初の午の日のことです。また「月干支」といって月にも当てはめられます。古代中国の暦の原形がほぼできた周代には、1年は冬至を含む月から数え始めたため、旧暦11月から子・丑・寅と順に数えると、旧暦5月は午の月になるのです。ですから「端午」は、午の月である5月の最初の午の日ということになります。そして最初の「午」の日は五日とは限らなかったのですが、「午」の「ご」という音が「五」に通じ、奇数の重なる日を節日とする陰陽五行説の影響もあって「端五」とも「重五」とも表記され、中国の漢代から「端午節」と言えば旧暦5月5日を指すようになったものです。
 旧暦の5月は、東アジアのモンスーン気候のもとではちょうど鬱陶(うつとう)しい雨季、日本では梅雨の時期で、悪疫(流行病)が発生しやすい時期と理解されていました。『荊楚歳時記』には、「五月は俗に悪月(あくづき)と称し、禁多し」とも記されています。旧暦5月には夏至があり、陽の気が極まって陰の気に転ずる分岐点となる月なので、そのような時には何かと禍が起きやすい。それを逃れるためにいろいろな禁忌(してはいけないこと)があるというのです。それで邪気を払うさまざまな魔除けの風習が行われたのでした。
 奈良時代に日本に伝えられた中国の歳時記である『荊楚(けいそ)歳時記』には、五月五日、人々は「蘭浴」と称して「蘭」(日本のフジバカマ)を入れた湯を浴び、魔除けの呪力のある艾(よもぎ・蓬)を人の形に作って門の上に懸け、刻んだ菖蒲を酒に浮かべて飲み、「競渡」(けいと・ボートレース)をし、また薬草を摘み、五色の糸を腕に懸けて長寿を祈願する記されています。「蘭浴」は後に菖蒲湯となり、「艾の人形」は武者人形となり、薬草摘みは薬玉や匂袋となり、五色の糸は五色の吹き流しや薬玉となって現代まで伝えられることになります。「競渡」は競技や祭として現代に復興されている地域もあることでしょう。現代の端午の節供とは異なることが多いのですが、これが古代中国で行われていた本来の端午の祭(端午節)だったのです。
 日本に『荊楚歳時記』が伝えられたのは奈良時代のことですが、それ以前に何らかの形で中国のこのような風習が伝えらたことは間違いありません。それは奈良時代よりも前から、旧暦五月五日に薬草を摘む風習が日本で始まっていたことを確認できるからです。『日本書紀』には「薬猟」(くすりがり)と称して、五月五日に薬草の採取が行われたことが記されています(推古天皇十九・二十・二十二年、天智天皇七年)。年中行事の解説書などには、一般的にはこの時「鹿茸」(ろくじょう・春に鹿の角が脱落した後に、新たに生えてきたばかりの若い角)を採取したとか、これを記念して五月五日を薬の日と定めたと説かれていますが、『日本書紀』にはその様なことは何一つ書かれていません。その様な説明をしている人は、もとの文献を読んだことがないのでしょう。ただ江戸時代の『倭訓栞』(わくんのしおり)という国語辞典に、「くすりがり・・・・鹿茸を主にて百薬をも採なるべし」と推定されているだけです。ただし紀貫之の歌集である『貫之集』に、「ほととぎす 鳴けども知らぬ あやめ草 こぞ(これこそ)薬日の しるしなりけり」という歌が記されていますから、「薬日」という名前が早い段階からあったことは確かです。日本の端午の節供はこの薬猟から始まりました。


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