うたことば歳時記

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鯉幟の起原について、出鱈目な流布説

2018-05-23 18:56:46 | 年中行事・節気・暦
 鯉幟についてネットで調べていて、出鱈目な流布説に気が付きました。まずはそれらの説明をそっくりそのままコピーしてお見せしましょう。

①「この日武士の家庭では、虫干しをかねて先祖伝来の鎧や兜を奥座敷に、玄関には旗指物(のぼり)を飾り、家長が子供達に訓示を垂れた。一方、大きな経済力を身につけながらも社会的には低く見られていた商人の家庭では、武士に対抗して豪華な武具の模造品を作らせ、のぼりの代わりに黄表紙の挿絵などを見ると五色の吹流しを美々しく飾るようになっている。」(ウィキペディア)

②その説によると、端午の節句に鯉のぼりが飾られるようになったのは江戸時代中期から。裕福な商人の家が、武家の行事に対抗して始めたとされています。その頃の武家では、端午の節句の際に家の中には鎧兜を、
玄関にはのぼりを立てて男の子の出世を祈っていたそうです。当時は身分の差がはっきりしていた時代。十分にお金はあるのに武家より下に見られていた商人たちはこれに反発し、「じゃあ俺たちもあげてやろうじゃないかい!!」(江戸っ子のつもりのセリフです)と息巻いて始めたのが吹き流しをあげること。吹き流しは、もともとは「目印」の意味です。「うちにも立派なせがれがいるんだぜぃ!」(江戸っ子のつもりですが、スギちゃん風に・・・笑)という目印だったのですね。江戸っ子、なぜ武家と同じくのぼりのみにしなかったのか?については、詳しくは分かりませんが、身分の差から同じようなことをするのが禁じられていたのかもしれませんね。」

③「江戸時代も半ばになると、商人が武士に対抗して旗指物の代わりに鯉のぼりを立てるようになっていきます。その風習が庶民の間でも真似されるようになったのが鯉のぼりを揚げるようになった始まりです。新興階級の町人は、旗指し物を立てることが許されなかったため、武家に対抗して鯉のぼりを立てたというわけです。」

④「一方、大きな経済力を身につけながらも社会的には低く見られていた商人の家庭では、武士に対抗して豪華な武具の模造品を作らせ、のぼりの代わりに黄表紙の挿絵などを見ると五色の吹流しを美々しく飾るようになっている。」

⑤「この日武士の家庭では、虫干しをかねて先祖伝来の鎧や兜を奥座敷に、玄関には旗指物(幟)を飾り、家長が子供達に訓示を垂れた。一方、大きな経済力を身につけながらも社会的には低く見られていた商人の家庭では、武士に対抗して豪華な武具の模造品を作らせ、幟の代わりに黄表紙の挿絵などを見ると五色の吹流しを美々しく飾るようになっている。さらに、吹流しを飾るだけでは芸がないと考えたのか一部の家庭で「竜門」の故事に因んで、吹流しに鯉の絵を描くようになった。 現在の魚型の鯉幟は、さらにそこから派生したものである。」

 どの説明にも、武家が幟を立てていたが、経済力のある商人が武家に対抗して鯉幟を立てるようになったということが記されています。しかも御丁寧にウィキペディアの解説をそのまま孫引きしているのがよくわかります。つまり確実な文献史料などは最初から見ずに、安易にネット情報を切り貼りしているだけなのです。

 1688年頃の『日本歳時記』には、「紙旗にいろいろの絵をかきて長竿につけ、これをも戸外にたて侍る、これをのぼりと云、或絹を用るもあり、或は長旒(ちようりゆう)を加え(へ)て、これを吹ながしと云、朔日より五日まで、児童の弄事(ろうじ)とす」と記されていて、江戸時代の初め頃から、子供達の遊びとして手作りの幟が立てられていました。もちろんこの子供達は町人の子供です。

 安永~天明年間(1770~1780年代)に春好の画いた錦絵には、鍾馗の幟の最上部に、小さな黒い鯉が付けられているのが確認できます。このような幟の竿の先につけた細長い小旗は「招き」と呼ばれています。

 1803年に出版された『俳諧歳時記』には、「幟の吹流しにすといふ、ちひさなる紙製の鯉は、今も売ありくなり」と記されていて、吹流しにする紙製の小さな鯉幟を、その時期になると売り歩いていたと記されています。裕福な商人が武家に対抗するのに、小さな紙の鯉幟を行商人から買うはずがありません。

 1838年に出版された『東都歳事記』には、「紙にて鯉の形をつくり竹の先につけて幟と共に立る事、これも近世のならはしなり。出世の魚といへる諺により、男児を祝するの意なるべし。ただし東都(江戸)の風俗なりといへり。初生の男子ある家には、初の節句とて別て祝ふ。」と記されていて、紙製の鯉幟を立てることは、「近世の習わし」ということですから、おそらく18世紀後期には紙製の鯉幟が現れたのでしょう。また江戸の風俗であるとしていますから、まだ上方にはそれ程広まっていなかったようです。

 事実、文化三年(1806年)の『諸国図会年中行事大成』に収められた京都の端午の節句を画いた図には、幟旗はたくさん見えますが、鯉幟は見当たりません。幟が武家の専有物であるというなら、なぜ京都市中には鯉幟はなく、幟旗ばかりが画かれているのでしょうか。

 また江戸時代の端午の節句の市中の様子を画いた図では、町人の店頭に幟旗が沢山立てられているのがわかります。町人には幟旗が禁止されていたなら、なぜ画かれているのでしょうか。江戸時代の確かな史料が語ることは、ネット情報と矛盾することばかりです。

 江戸幕府が端午の節句を幕府の式日に指定しましたから、初めは確かに武家の節句でした。ですから武具一式の中の一つとして、武家が幟旗を立てたのは事実です。それを真似して町人が幟旗や鯉幟を立てるようになりました。決して対抗して鯉幟を立てたわけではないのです。

 それにしてもネット情報とは、なぜこれ程までに出鱈目なのでしょうか。みな安易に先行するネット情報をコピペしているだけで、江戸時代の史料を確認しようともしないからでしょう。私は歳時記や年中行事の研究をしていますが、九分九厘、ネット情報の説明は出鱈目ばかりです。十分に気を付けて下さい。


鯉は滝を登らなかった

2018-05-05 21:03:51 | 年中行事・節気・暦
今日は子供の日。あちこちで鯉幟が初夏の空を泳いでいます。端午の節句に鯉幟を上げるのは、18世紀後半からのことです。初めは幟旗の最上部に小さな小旗のように黒い鯉を付けたものでした。19世紀初頭には紙製の鯉幟の行商が現れ、1838年の『東都歳事記』という書物には、紙製の鯉幟を立てることは江戸の近世の習わしであると記されています。ですからその頃の京都の端午節を画いた図には、鯉幟は見当たりません。あくまでも将軍お膝元の武家的な風習でした。しかも「出世魚の諺」により男児を祝福するためであると、はっきりと記されています。鯉は滝を登り切って龍となると理解され、立身出世を祈念しているわけです。また江戸の風俗であるとしていますから、まだ上方にはそれ程広まっていなかったようです。事実、文化三年(1806年)の『諸国図会年中行事大成』に収められた京都の端午の節句を画いた図には、幟旗はたくさん見えますが、鯉幟は見当たりません。安政四年(1857年)の歌川広重の『名所江戸百景』という浮世絵のシリーズには、鯉幟を描いた「水道橋駿河台」という絵がありますが、黒い大きな鯉が単独で画かれ、幟旗にかわり主役になっています。

 日本では鯉は滝を登ったことになっていますが、中国の文献では、鯉は滝を登っていませんでした。この故事の出典は『後漢書』の党錮伝で、次のように記されています。「是の時、朝廷日に乱れ、綱紀頽弛し、膺独り風栽を持し、声名を以て自ら高くす。士其の容接を被る有る者は、名づけて龍門に登ると為す」。

 なかなか難しい文章なので、易しくなおしてみましょう。「最近は朝廷の政治が日に日に乱れるようになり、綱紀が弛んでしまったが、李膺という人物だけは独り信念を貫いて妥協することがなかった。それでそのような立派な李膺に認められる者は、竜門に登るように将来を期待される者と見做された。」というのです。

 この「竜門」の注釈として、『後漢書』は『三秦記』という書物を次のように引用しています。「三秦記に曰く、河津一名龍門、水険しく通ぜず、魚鼈の属、能く登る莫し、江海の大魚集ひて龍門の下に薄ること数千、上るを得ず、上らば則ち龍と為るなり」。

 これも易しく直します。「三秦記という書物には次のように記されている。黄河の竜門というところは流れが急で、魚や鼈(すつぽん)の類は遡ることができない。大河の大魚がこの竜門の下に数千匹も集まって試みたが、登る事はできなかった。もし登る事ができれば竜に化身するというのであるが・・・・。」というのです。

 不思議なことにどこにも「鯉」とは書かれていません。そしてどの魚も遡れなかったというのです。いったい何時から鯉が竜門を登ったということになったのか、中国の文献にはあまり明るくないので、私にはわかりません。どなたか御存知でしたら教えて下さい。

 ただネット情報では、『後漢書』や『三秦記』という書物に、鯉が滝を登ったと記されていると断定的に書いてあるものを見かけますが、それは筆者が原典を読まずに、適当にコピペをしている何よりの証拠です。こんな記事を書いたのは、何も鯉幟にけちを付けるためではありません。史料に基づかずに適当に孫引きする情報源にほとほと呆れているだけのことです。

 ついでのことですが、端午の節句は本来は女の節句だったという、とんでもない出鱈目な情報が氾濫しています。それを証明する根拠など何もないのに、20世紀になって突然民俗学者が提唱したことが独り歩きをしているだけです。そのようなことを書いている人は、他のことも確実な史料に基づかずに、先行する著書などを鵜呑みにして適当に作文しているだけですから、信用は置けません。そのような情報に共通している特徴は、「・・・・と伝えられています」とか「・・・・と言われています」という書き方をすることです。根拠を示せないから、そう言って誤魔化すしかないのでしょう。私は今敢えて喧嘩を売るように過激な言葉を使っていますが、それは誰か本気になって反論してくれないかなと思っているからです。私はいつでも確実な根拠を上げて反論するつもりです。
 
 ネット情報にはいかに出鱈目な説が多いか、まずは私のブログ「うたことば歳時記 端午の節句は女の節句という出鱈目」を検索して御覧下さい。本当はこんな品のないことを書きたくはないのですが、このまま野放しにしておくと、日本の良き伝統文化が歪められてしまうのを、何としても食い止めたいという、切羽詰まった余りのことなのです。今日は過激になってしまって、本当に御免なさい。

ブラジルの国旗

2018-05-05 09:51:39 | 歴史
ブラジルは地球上で日本から最も遠いと言いましょうか、正反対の位置にある国です。リオデジャネイロ・オリンピックの閉会式で、スーパーマリオに扮装した安倍首相が、日本から真下にパイプを潜ってブラジルに出現した演出は、地球上で日本の正反対の位置にあることにヒントを得たものでした。また多くの日本人が移民として渡り、また近年では逆に多くのブラジル人が日本に住むようになっているため、日本から見て地球の裏側にある最も遠い国でありながらも、大変身近な国でもあるのです。私の学校にもブラジルから来た生徒もいますし、親のどちらかがブラジル人の人もいて、教室内では、時々ポルトガル語が飛び交うこともあります。ワールドカップでは常に大活躍ですし、ブラジルの国旗を見たことのない人はいないでしょう。

 ところでブラジルを漢字一字で表すと、伯爵の伯の字になります。ブラジルを漢字で表記すると伯剌西爾となるので、その頭文字を採っているわけです。でもね、これでブラジルと読ませるのは難しい。もともとは中国での表記だから、中国風に読まなければなりませんし、そもそもブラジルという発音自体が、本来の発音とはずれているんでしょう。私にも詳しいことはわかりません。

 ブラジルの国旗は他に似たような国旗がないので、とても個性的です。国際的なスポーツの大会では、みなそれぞれの国のナショナルカラーだったり、国旗の色を活かしたユニフォームを着ることが多い物ですが、ブラジル選手のユニフォームは鮮やかな黄色が小鳥のカナリアを連想させることから、特にサッカーの場合は「カナリア軍団」と呼ばれています。また国旗がカナリア色と黄緑に配色されているので、この二色のユニフォームもよく見ることがあります。

 ブラジルの国旗に限りませんが、その近代の歴史が色濃く繁栄されています。ブラジルが近代国家として生まれるきっかけを作ったのは、なんとフランスのナポレオンでした。1807年7月、ナポレオンはイギリスと対抗するため、イギリスと結んでいたポルトガルに侵攻し、首都リスボンを占領しました。危うくその二日前、ポルトガルの王室はイギリス海軍に護衛されながら、そっくり植民地であったブラジルに避難してしまう、つまりは遷都を決行してしまいます。これによって形式的にはポルトガルとブラジルが一つの国に合体したこととなり、「ポルトガル・ブラジル帝国」が成立したことになります。

 しかしナポレオンが失脚すると、1821年、ポルトガルのジョアン6世は本国に戻り、皇太子のドン・ペドロを摂政としてブラジルに残しました。そして翌1822年、皇太子ペドロは独立を宣言して皇帝ペドロ1世となり、「ブラジル帝国」が成立しました。その後、ペドロ2世の1889年、国家の近代化を求める軍部の青年将校たちによるクーデタが起こり、皇帝は退位してイギリスに亡命。ブラジルは帝制から共和制に移行し、現在とほぼ同じデザインの国旗が制定されました。さらに1891年の憲法により国名は「ブラジル合衆国」、1967年の憲法により「ブラジル連邦共和国」と国名がかわり、現在に至っています。

 しかしそもそも、なぜブラジルはポルトガルと縁があるのでしょうか。15世紀末、世界で最も優れた航海技術を持っていたポルトガルとスペインは、他国に先んじてアメリカ大陸やアジアに進出しました。そして中南米ではその二国が新領土の獲得で対立することが予想されたため、1494年にローマ教皇の仲介によってトルデシリャス条約が結ばれ、西経46度37分の子午線から東にもし陸地があればポルトガル領とし、西にあればスペイン領とすることになりました。随分と乱暴な話ですね。この時点ではまだ西洋諸国によってはブラジルは発見されていません。

 そしてヴァスコ・ダ・ガマのインド到達に続き、1500年4月、ポルトガルのペドロ・アルヴァレス・カブラルの率いる第二回目のインド派遣艦隊は、ガマと同じように東廻りでインドを目指していたのですが、大西洋上で大きく風に流され、たまたまブラジルの地に到達してしまいました。(偶然ではなく、意図して未知の陸地を発見しようとしてしていたという説もありますが・・・・)そしてこれが根拠となって、ブラジルがポルトガル領になったのです。そしてブラジル奥地で金やダイヤモンドが発見されたため、ポルトガルはトルデシリャス条約の分堺線を西に越境して領土を拡張していきます。こうして現在のブラジルの領土がほぼ形作られ、ポルトガル語がブラジルの公用語とはなったのです。もしカブラルの航海が順調であったら、ブラジルの歴史も大きく変わっていたかもしれません。

 ちなみにブラジルより西にあたる地域はスペイン領となったため、現在のキューバ・ドミニカ・メキシコ
・グアテマラ・エルサルバドル・ホンジュラス・ニカラグア・コスタリカ・パナマ・コロンビア・ベネズエラ・エクアドル・ペルー・ボリビア・チリ・アルゼンチン・パラグアイ・ウルグアイなどの中南米諸国では、スペイン語が公用語となっています。  (中南米諸国の地図を公用語別に塗り分けると面白いのですが)

 またそもそも「ブラジル」という言葉自体が、「赤い」という意味のポルトガル語です。そのわけは、ポルトガル人が渡来してきて、赤色の染料となる木を発見し、その木をポルトガル語で「赤い木」を意味する「パウ・ブラジル」と呼びました。そしてそれがポルトガルに輸出され、「ブラジル」とよばれるようになったものです。

 ブラジルの国旗は、まず緑色の地に大きな黄色の菱形が置かれています。1822年にブラジル帝国が成立して定められた国旗もそうなっていますから、緑の地に黄色い菱形というモチーフは、ブラジルの伝統となっているのです。ブラジル帝国の最初の旗には、黄色い菱形の中央に、皇帝家の紋章が置かれていました。現在の国旗の菱形の中には青い円が描かれ、全体として鮮やかな色の対比が印象的です。国旗はブラジルでは金(auri)と緑(verde)を合わせて、「アウリヴェルジ」(Auriverde)と呼ばれていますから、印刷したり描いたりするのに実際には黄色でも、気持ちとしては鮮やかな「ゴールデン・イェロー」なのでしょう。

 ブラジルの国旗法によれば、「国旗は国家の色の伝統を保持している。緑色と黄色である。」と定められています。緑色は、歴史的には初代ブラジル帝国皇帝ペドロ1世のブラガンサ家を象徴する色なのですが、広大な国土の森林や農業を表すと理解されることもあります。黄色は、歴史的にはその皇后マリア・レオポルディナの出身家であるオーストリア皇帝ハブスブルグ家の旗から採られています。ハプスブルグ家の旗は、上半分が黒、下半分が黄色の特徴的な配色でした。ハプスブルグ家は侵略戦争ではなく、代々結婚政策により領地を拡大する傾向がありました。ちなみに皇后マリアの姉は、ジョゼフィーヌと離婚した後のナポレオンと結婚したマリー・ルイーゼです。マリアはブラジルの独立に積極的に大きな役割を果たし、現在に至るまで、「国母」「独立の祖」「国民の守護天使」と称されて人気があります。オーストリア皇帝の娘として生まれ、ブラジルに渡ってポルトガルの皇太子と結婚し、さらに皇后となったというのですから、波瀾万丈の生涯でした。余計なことですが、彼女は植物や昆虫の研究が趣味でしたから、個人的には楽しい生活環境だったかもしれません。黄色は、金をはじめとする豊かな鉱物資源を表すと理解されることもあります。18世紀にはブラジルはゴールドラッシュにわき、世界の金の総生産量の8割を占めたこともありました。

 中央の円は共和制が樹立された日である1889年11月15日の朝8時30分のリオデジャネイロの空を表しています。要するに建国の原点を示しているのです。朝ではなく夜の間違いではとも思うかもしれませんが、法律にはっきりと朝の時間が指定されています。もちろんその時間に実際に星が見えたわけではありません。南半球であるため、日本ではあまり馴染みのない星空なのですが、星に詳しい人なら、右方の縦方向に、日本の夏の南の空に輝くさそり座を見つけることができるでしょう。また中央やや下に南十字座が見えるのはすぐにわかりますね。南十字座の五つの星が描かれた国旗と言えば、オーストラリアやパプアニューギニアやサモアがそうなのですが、比べてみると小さな星(3.6等星)の位置が左右逆になっています。これはオーストラリアなどの国旗が地上から見上げる夜空を写したのに対して、天球を外側から見たように描かれているからです。プラネタリウムの天井に映った星を、天井の外側から眺めていると思えばわかりやすいでしょう。

 星の数は全部で27あるのですが、それはブラジルの国土を構成する26州と一つの連邦直轄区を表しています。そのためアメリカ合衆国の国旗と同じように、州が増えると星の数が増えることとなり、初めは21だったものが、州が増えるたびに付け加えられていきました。

 中央の白い帯は黄道を表しています。「黄道」とは、地球から見える空をプラネタリウムの天井のように天球となっているといるとみなして、太陽が天球を通る見かけ上の通り道のことです。本当は太陽の周りを地球が自転しながら公転しているのですが、実際には地球の周りを太陽が回っているように見えますよね。この黄道の帯には、19世紀に活躍したフランス人哲学者オーギュスト・コントの言葉「ORDEM E PROGRESSO」(秩序と進歩)がポルトガル語で記されています。英語に訳せば「ORDER AND PROGRESS」ということになります。

 世界の国旗について解説した本はたくさんあり、「秩序と進歩」という意味の言葉が書かれているというところまでは解説されているのですが、それが何を意味するのか、どのような背景でその言葉が選ばれているのか、そこまで解説してある本や情報は見たことがありません。そのような本の著者は、そういうことが気にならないんでしょうか。私は一番重要なことだと思っているんですが・・・・。

 コントの思想は難解なのですが、彼はフランス革命のような破壊的手段ではなく、平和的な手段によって新しい社会を実現するためには、秩序と進歩を基軸として、モラルの刷新こそが必要であるということを主張しました。なにしろギロチンで国王の首を斬ってしまったばかりではなく、革命勢力内部でも、凄惨な処刑が平然と行われたのですから。また自由権を保障しつつも独裁的共和制を認め、個人の権利よりは義務を強調する傾向がありました。このような主張は、政治的・社会的混乱なしに帝政や奴隷制の変革を主張していた軍の青年将校らの支持を受け、彼らの合言葉にもなっていました。そしてクーデタにもかかわらず、流血を見ずに帝制から共和制に移行した新ブラジルの基本的原理として、国旗に採り入れられたのでした。しかし現在のブラジル社会がその原理を実現しているかどうかは別問題です。現実にはさまざまな無秩序があることは、ニュースでよく耳にするところです。先日もブラジルから来た生徒が言っていましたが、交差点で信号が赤になって停車している時が一番危ないと言っていました。ピストル強盗に遭う事があるそうです。この標語は、あくまでも国家の理想的目標として掲げられているわけです。植民地を支配していた宗主国と戦って独立を成し遂げた国が多い中で、ブラジルの場合はそれこそ「秩序と進歩」の中で無血で独立を勝ち取りました。そういうこともあって、ブラジルとポルトガルの関係は、現在でもとても友好的なのです。

 ブラジルの人たちは国旗が大好きで、町の至る所で見ることができます。また国旗法に「国家の色の伝統」と記された明るい緑色と黄色をモチーフにした土産物が、たくさん売られていますが、ブラジルの人が使う日常生活の中にもそのような雑貨が溢れています。

なおブラジルの国旗は、縦長に掲揚してはならないと定められています。他にオランダ・パキスタン・サウジアラビアの国旗も同様ですから、掲揚する際には十分注意しなければなりません。