鯉幟についてネットで調べていて、出鱈目な流布説に気が付きました。まずはそれらの説明をそっくりそのままコピーしてお見せしましょう。
①「この日武士の家庭では、虫干しをかねて先祖伝来の鎧や兜を奥座敷に、玄関には旗指物(のぼり)を飾り、家長が子供達に訓示を垂れた。一方、大きな経済力を身につけながらも社会的には低く見られていた商人の家庭では、武士に対抗して豪華な武具の模造品を作らせ、のぼりの代わりに黄表紙の挿絵などを見ると五色の吹流しを美々しく飾るようになっている。」(ウィキペディア)
②その説によると、端午の節句に鯉のぼりが飾られるようになったのは江戸時代中期から。裕福な商人の家が、武家の行事に対抗して始めたとされています。その頃の武家では、端午の節句の際に家の中には鎧兜を、
玄関にはのぼりを立てて男の子の出世を祈っていたそうです。当時は身分の差がはっきりしていた時代。十分にお金はあるのに武家より下に見られていた商人たちはこれに反発し、「じゃあ俺たちもあげてやろうじゃないかい!!」(江戸っ子のつもりのセリフです)と息巻いて始めたのが吹き流しをあげること。吹き流しは、もともとは「目印」の意味です。「うちにも立派なせがれがいるんだぜぃ!」(江戸っ子のつもりですが、スギちゃん風に・・・笑)という目印だったのですね。江戸っ子、なぜ武家と同じくのぼりのみにしなかったのか?については、詳しくは分かりませんが、身分の差から同じようなことをするのが禁じられていたのかもしれませんね。」
③「江戸時代も半ばになると、商人が武士に対抗して旗指物の代わりに鯉のぼりを立てるようになっていきます。その風習が庶民の間でも真似されるようになったのが鯉のぼりを揚げるようになった始まりです。新興階級の町人は、旗指し物を立てることが許されなかったため、武家に対抗して鯉のぼりを立てたというわけです。」
④「一方、大きな経済力を身につけながらも社会的には低く見られていた商人の家庭では、武士に対抗して豪華な武具の模造品を作らせ、のぼりの代わりに黄表紙の挿絵などを見ると五色の吹流しを美々しく飾るようになっている。」
⑤「この日武士の家庭では、虫干しをかねて先祖伝来の鎧や兜を奥座敷に、玄関には旗指物(幟)を飾り、家長が子供達に訓示を垂れた。一方、大きな経済力を身につけながらも社会的には低く見られていた商人の家庭では、武士に対抗して豪華な武具の模造品を作らせ、幟の代わりに黄表紙の挿絵などを見ると五色の吹流しを美々しく飾るようになっている。さらに、吹流しを飾るだけでは芸がないと考えたのか一部の家庭で「竜門」の故事に因んで、吹流しに鯉の絵を描くようになった。 現在の魚型の鯉幟は、さらにそこから派生したものである。」
どの説明にも、武家が幟を立てていたが、経済力のある商人が武家に対抗して鯉幟を立てるようになったということが記されています。しかも御丁寧にウィキペディアの解説をそのまま孫引きしているのがよくわかります。つまり確実な文献史料などは最初から見ずに、安易にネット情報を切り貼りしているだけなのです。
1688年頃の『日本歳時記』には、「紙旗にいろいろの絵をかきて長竿につけ、これをも戸外にたて侍る、これをのぼりと云、或絹を用るもあり、或は長旒(ちようりゆう)を加え(へ)て、これを吹ながしと云、朔日より五日まで、児童の弄事(ろうじ)とす」と記されていて、江戸時代の初め頃から、子供達の遊びとして手作りの幟が立てられていました。もちろんこの子供達は町人の子供です。
安永~天明年間(1770~1780年代)に春好の画いた錦絵には、鍾馗の幟の最上部に、小さな黒い鯉が付けられているのが確認できます。このような幟の竿の先につけた細長い小旗は「招き」と呼ばれています。
1803年に出版された『俳諧歳時記』には、「幟の吹流しにすといふ、ちひさなる紙製の鯉は、今も売ありくなり」と記されていて、吹流しにする紙製の小さな鯉幟を、その時期になると売り歩いていたと記されています。裕福な商人が武家に対抗するのに、小さな紙の鯉幟を行商人から買うはずがありません。
1838年に出版された『東都歳事記』には、「紙にて鯉の形をつくり竹の先につけて幟と共に立る事、これも近世のならはしなり。出世の魚といへる諺により、男児を祝するの意なるべし。ただし東都(江戸)の風俗なりといへり。初生の男子ある家には、初の節句とて別て祝ふ。」と記されていて、紙製の鯉幟を立てることは、「近世の習わし」ということですから、おそらく18世紀後期には紙製の鯉幟が現れたのでしょう。また江戸の風俗であるとしていますから、まだ上方にはそれ程広まっていなかったようです。
事実、文化三年(1806年)の『諸国図会年中行事大成』に収められた京都の端午の節句を画いた図には、幟旗はたくさん見えますが、鯉幟は見当たりません。幟が武家の専有物であるというなら、なぜ京都市中には鯉幟はなく、幟旗ばかりが画かれているのでしょうか。
また江戸時代の端午の節句の市中の様子を画いた図では、町人の店頭に幟旗が沢山立てられているのがわかります。町人には幟旗が禁止されていたなら、なぜ画かれているのでしょうか。江戸時代の確かな史料が語ることは、ネット情報と矛盾することばかりです。
江戸幕府が端午の節句を幕府の式日に指定しましたから、初めは確かに武家の節句でした。ですから武具一式の中の一つとして、武家が幟旗を立てたのは事実です。それを真似して町人が幟旗や鯉幟を立てるようになりました。決して対抗して鯉幟を立てたわけではないのです。
それにしてもネット情報とは、なぜこれ程までに出鱈目なのでしょうか。みな安易に先行するネット情報をコピペしているだけで、江戸時代の史料を確認しようともしないからでしょう。私は歳時記や年中行事の研究をしていますが、九分九厘、ネット情報の説明は出鱈目ばかりです。十分に気を付けて下さい。
①「この日武士の家庭では、虫干しをかねて先祖伝来の鎧や兜を奥座敷に、玄関には旗指物(のぼり)を飾り、家長が子供達に訓示を垂れた。一方、大きな経済力を身につけながらも社会的には低く見られていた商人の家庭では、武士に対抗して豪華な武具の模造品を作らせ、のぼりの代わりに黄表紙の挿絵などを見ると五色の吹流しを美々しく飾るようになっている。」(ウィキペディア)
②その説によると、端午の節句に鯉のぼりが飾られるようになったのは江戸時代中期から。裕福な商人の家が、武家の行事に対抗して始めたとされています。その頃の武家では、端午の節句の際に家の中には鎧兜を、
玄関にはのぼりを立てて男の子の出世を祈っていたそうです。当時は身分の差がはっきりしていた時代。十分にお金はあるのに武家より下に見られていた商人たちはこれに反発し、「じゃあ俺たちもあげてやろうじゃないかい!!」(江戸っ子のつもりのセリフです)と息巻いて始めたのが吹き流しをあげること。吹き流しは、もともとは「目印」の意味です。「うちにも立派なせがれがいるんだぜぃ!」(江戸っ子のつもりですが、スギちゃん風に・・・笑)という目印だったのですね。江戸っ子、なぜ武家と同じくのぼりのみにしなかったのか?については、詳しくは分かりませんが、身分の差から同じようなことをするのが禁じられていたのかもしれませんね。」
③「江戸時代も半ばになると、商人が武士に対抗して旗指物の代わりに鯉のぼりを立てるようになっていきます。その風習が庶民の間でも真似されるようになったのが鯉のぼりを揚げるようになった始まりです。新興階級の町人は、旗指し物を立てることが許されなかったため、武家に対抗して鯉のぼりを立てたというわけです。」
④「一方、大きな経済力を身につけながらも社会的には低く見られていた商人の家庭では、武士に対抗して豪華な武具の模造品を作らせ、のぼりの代わりに黄表紙の挿絵などを見ると五色の吹流しを美々しく飾るようになっている。」
⑤「この日武士の家庭では、虫干しをかねて先祖伝来の鎧や兜を奥座敷に、玄関には旗指物(幟)を飾り、家長が子供達に訓示を垂れた。一方、大きな経済力を身につけながらも社会的には低く見られていた商人の家庭では、武士に対抗して豪華な武具の模造品を作らせ、幟の代わりに黄表紙の挿絵などを見ると五色の吹流しを美々しく飾るようになっている。さらに、吹流しを飾るだけでは芸がないと考えたのか一部の家庭で「竜門」の故事に因んで、吹流しに鯉の絵を描くようになった。 現在の魚型の鯉幟は、さらにそこから派生したものである。」
どの説明にも、武家が幟を立てていたが、経済力のある商人が武家に対抗して鯉幟を立てるようになったということが記されています。しかも御丁寧にウィキペディアの解説をそのまま孫引きしているのがよくわかります。つまり確実な文献史料などは最初から見ずに、安易にネット情報を切り貼りしているだけなのです。
1688年頃の『日本歳時記』には、「紙旗にいろいろの絵をかきて長竿につけ、これをも戸外にたて侍る、これをのぼりと云、或絹を用るもあり、或は長旒(ちようりゆう)を加え(へ)て、これを吹ながしと云、朔日より五日まで、児童の弄事(ろうじ)とす」と記されていて、江戸時代の初め頃から、子供達の遊びとして手作りの幟が立てられていました。もちろんこの子供達は町人の子供です。
安永~天明年間(1770~1780年代)に春好の画いた錦絵には、鍾馗の幟の最上部に、小さな黒い鯉が付けられているのが確認できます。このような幟の竿の先につけた細長い小旗は「招き」と呼ばれています。
1803年に出版された『俳諧歳時記』には、「幟の吹流しにすといふ、ちひさなる紙製の鯉は、今も売ありくなり」と記されていて、吹流しにする紙製の小さな鯉幟を、その時期になると売り歩いていたと記されています。裕福な商人が武家に対抗するのに、小さな紙の鯉幟を行商人から買うはずがありません。
1838年に出版された『東都歳事記』には、「紙にて鯉の形をつくり竹の先につけて幟と共に立る事、これも近世のならはしなり。出世の魚といへる諺により、男児を祝するの意なるべし。ただし東都(江戸)の風俗なりといへり。初生の男子ある家には、初の節句とて別て祝ふ。」と記されていて、紙製の鯉幟を立てることは、「近世の習わし」ということですから、おそらく18世紀後期には紙製の鯉幟が現れたのでしょう。また江戸の風俗であるとしていますから、まだ上方にはそれ程広まっていなかったようです。
事実、文化三年(1806年)の『諸国図会年中行事大成』に収められた京都の端午の節句を画いた図には、幟旗はたくさん見えますが、鯉幟は見当たりません。幟が武家の専有物であるというなら、なぜ京都市中には鯉幟はなく、幟旗ばかりが画かれているのでしょうか。
また江戸時代の端午の節句の市中の様子を画いた図では、町人の店頭に幟旗が沢山立てられているのがわかります。町人には幟旗が禁止されていたなら、なぜ画かれているのでしょうか。江戸時代の確かな史料が語ることは、ネット情報と矛盾することばかりです。
江戸幕府が端午の節句を幕府の式日に指定しましたから、初めは確かに武家の節句でした。ですから武具一式の中の一つとして、武家が幟旗を立てたのは事実です。それを真似して町人が幟旗や鯉幟を立てるようになりました。決して対抗して鯉幟を立てたわけではないのです。
それにしてもネット情報とは、なぜこれ程までに出鱈目なのでしょうか。みな安易に先行するネット情報をコピペしているだけで、江戸時代の史料を確認しようともしないからでしょう。私は歳時記や年中行事の研究をしていますが、九分九厘、ネット情報の説明は出鱈目ばかりです。十分に気を付けて下さい。