七夕にはなぜ竹に短冊を飾るの?
上巳の節供には雛人形、端午の節供には鯉のぼりがあるように、七夕には竹飾りが欠かせません。そもそも七夕にはなぜ竹を用いるのでしょうか。年中行事の解説書には、竹を用いることについて様々な説が紹介されていますが、どれも確かな歴史的根拠が示されていません。七夕の風習はほとんどが中国伝来であり、竹を用いることも中国の風習に起原があります。『和漢朗詠集』(わかんろうえいしゅう、1013年頃)という平安時代の詩歌集に、唐の詩人である白居易(はっきょい)の詩が載せられているのですが、その中に「臆(おも)ひ得たり、少年の長く乞巧せし事を。竹竿の頭上に願糸多し。」という詩句があります。「少年の頃の乞巧奠(きっこうでん、裁縫や音曲の上達を星に祈願する七夕の祭)で、七夕の竹竿の上に願をかけた糸がたくさん懸けられていたことを思い出す」という意味です。白居易は9世紀前半の人で、その頃の唐では、7月7日の乞巧奠において、若者が技芸の上達を願って竹竿の上の方にたくさんの糸(願いの糸)を懸ける風習があったのでしょう。白居易の詩は当時の日本の文化人なら誰もが暗記していましたから、七夕に願いの糸を懸けた竹を立てるということはよく知られていたはずです。ですから唐文化に憧れていた当時の文化人達は、きっと模倣したことでしょう。
竹竿に願いの糸を懸ける風習はそのまま中世にも伝えられました。室町時代初期の『太平記』という歴史書には、七夕の竹竿に願の糸を懸け、乞巧奠を行うと記されています。江戸時代の国語辞典『倭訓栞』(わくんのしおり)の「たなばたつめ」の項でも白居易のこの詩を引用し、七夕の歌に糸が詠まれるのは、この「願糸」のような風習によることを示唆しています。
この竹竿が単なる一本の竿だけだったのか、枝葉が付いていたのかは記述がありませんが、『年中恒例記』(ねんじゅうこうれいき)という室町幕府の年中行事を記録した書物には、七夕には里芋の葉の露で墨をすり、7枚の梶(かじ)の葉に7首の七夕の歌を書き、竹に結び付けて屋根の上にあげると記されていますから、枝葉が付いていたと考えられます。
また竹竿に飾るものとしては、願いの糸の他に、歌を書いた梶の木の葉があったことがわかります。梶の葉は桑や楮の葉を大きくした形で、荒い毛がびっしりと生えています。大きいものでは20㎝以上あり、筆で歌を書いてみましたが、十分に書くことができました。梶が選ばれているのは、天の川を漕ぎ渡る舟の楫(かじ)からの連想で、梶の葉に歌を書く風習は、早くも平安時代には行われていました。また里芋の葉に乗っている玉のような露ですった墨で歌を書く風習は、平安時代の和歌で確認でき、現在でも行われています。平安時代の和歌には、七夕の夜の雨や露を、牽牛が天の川を渡る舟の楫の雫(しずく)や、織女の涙にたとえたものがいくつもありますから、里芋の露を天の川の雫と理解したからでしょう。
梶の葉に歌を書く風習はその後も受け継がれ、江戸時代には、梶の大きな葉や、その形に切り抜いた紙に歌などを書く、「梶の葉」という子供の行事が行われていました。そしてさらに寺子屋で手習いの上達を願う子供の行事として、短冊に書くことも行われるようになりました。江戸時代後期の『五節供稚童講釈』(ごせっくおさなこうしゃく)という子供用年中行事解説書には、「子供は歌が詠めないので、七夕の古歌やいろはにほへと、天の川、七夕様などと書くので、七夕様もお笑いになるであろう」と記されています。
短冊の他には、鬼灯(ほうずき)・切った西瓜・帳面・筆・硯・算盤(そろばん)・瓢箪(ひょうたん)・網・梶の葉・くくり猿などの形に切った飾りを結び付けて飾りました。現代でもよく見かける網の目のように切った独特の飾りは、大漁を祈願する網であると説明されることがあり、江戸時代に「網」と呼ばれることもありました。しかし七夕の祭には豊漁祈願の要素は何一つなく、その形からヒントを得た安易な想像に過ぎません。本来は七夕の二星に供えた糸や布が変化したものでしょう。
以上のことでも明らかなように、竹に短冊を飾るのは、平安時代以来の梶の葉に歌を書く風習と、技芸の上達を祈願する乞巧奠の風習が重なって次第に行われるようになりました。そしてその技芸は本来は大人の女性の裁縫や音曲のことだったのですが、平安時代以来の梶の葉に歌を書く風習と、江戸時代には子供の学習塾である寺子屋の普及や、七夕が子供の行事となることによって、子供が手習いの上達を祈願して短冊を書くようになったのです。
飾り付けられた青竹は、天まで届けとばかりに屋根より高く垂直に掲げられました。ですから地面からは十mくらいの高さはあったでしょう。当時の七夕の絵図を見ると、江戸の町は七日の朝には、前夜以来、一夜にして竹林となったくらいに竹飾りが林立し、軒先に斜めに立てかける現在の飾り方とは全く異なっています。そして八日にはすべて竹飾りは片づけられました。江戸の竹林は一夜にして出現し、一夜にして消えるのです。そして竹飾りは川に流されました。
追記
長年、伝統的年中行事について研究しているのですが、流布している解説書やネット情報の内容には出鱈目な記述が多く、いつも嘆かわしく思っていました。「・・・・と言われています」「・・・・と伝えられています」というだけで、確かな文献的根拠もなしに書かれているのです。特に民俗学的な視点から書かれているものについては、その大半が出鱈目であり、歴史学的には認められるものではありません。
笹竹を用いることについては、笹は防腐剤として利用されていたからとか、風になびくサラサラという音が天上からご先祖様を呼ぶからとか、笹竹は中が中空で神様が宿るものと信じられていたから等、よくもまあ確かな根拠もなく出鱈目なことを説くものと、あきれてしまいます。書いている人にその根拠を目の前で示して欲しいと言えば、何も提示することはできないでしょう。世の中に流布している年中行事解説は、みなこの程度のものなのです。
私は江戸時代以前の文献史料を重視していますが、それには理由があります。明治になってからは、伝統的年中行事は見る影もなく廃れ、一旦は東京では七夕飾りが見られなくなる程だったことは、明治期の歳時記にはっきりと記されています。明治後期には復活してくるのですが、それは江戸時代の様子とは異なることがありました。伝統的年中行事と言っても、途切れることなく続いてきたわけではありません。それで少しでも本来の様子を明らかにするために、江戸時代以前の文献史料を重視しているのです。
「子供のための・・・・」と題してはいますが、内容や言葉は子供には少し難しいとは思います。しかし確実な文献史料を根拠にして書いているため、一般に流布している解説書とは異なり、どうしても難しくならざるを得ないことは御了解下さい。いちいち難解な原文史料や出典は書いてありませんが、詳しくお知りになりたい方、また原文史料を直接お読みになりたい方は、その旨コメントをいただければ、追記としてさらに書き込むことは可能です。また原文史料を国会図書館デジタルコレクションを利用して、インターネットで閲覧できる方法を御紹介いたします。
上巳の節供には雛人形、端午の節供には鯉のぼりがあるように、七夕には竹飾りが欠かせません。そもそも七夕にはなぜ竹を用いるのでしょうか。年中行事の解説書には、竹を用いることについて様々な説が紹介されていますが、どれも確かな歴史的根拠が示されていません。七夕の風習はほとんどが中国伝来であり、竹を用いることも中国の風習に起原があります。『和漢朗詠集』(わかんろうえいしゅう、1013年頃)という平安時代の詩歌集に、唐の詩人である白居易(はっきょい)の詩が載せられているのですが、その中に「臆(おも)ひ得たり、少年の長く乞巧せし事を。竹竿の頭上に願糸多し。」という詩句があります。「少年の頃の乞巧奠(きっこうでん、裁縫や音曲の上達を星に祈願する七夕の祭)で、七夕の竹竿の上に願をかけた糸がたくさん懸けられていたことを思い出す」という意味です。白居易は9世紀前半の人で、その頃の唐では、7月7日の乞巧奠において、若者が技芸の上達を願って竹竿の上の方にたくさんの糸(願いの糸)を懸ける風習があったのでしょう。白居易の詩は当時の日本の文化人なら誰もが暗記していましたから、七夕に願いの糸を懸けた竹を立てるということはよく知られていたはずです。ですから唐文化に憧れていた当時の文化人達は、きっと模倣したことでしょう。
竹竿に願いの糸を懸ける風習はそのまま中世にも伝えられました。室町時代初期の『太平記』という歴史書には、七夕の竹竿に願の糸を懸け、乞巧奠を行うと記されています。江戸時代の国語辞典『倭訓栞』(わくんのしおり)の「たなばたつめ」の項でも白居易のこの詩を引用し、七夕の歌に糸が詠まれるのは、この「願糸」のような風習によることを示唆しています。
この竹竿が単なる一本の竿だけだったのか、枝葉が付いていたのかは記述がありませんが、『年中恒例記』(ねんじゅうこうれいき)という室町幕府の年中行事を記録した書物には、七夕には里芋の葉の露で墨をすり、7枚の梶(かじ)の葉に7首の七夕の歌を書き、竹に結び付けて屋根の上にあげると記されていますから、枝葉が付いていたと考えられます。
また竹竿に飾るものとしては、願いの糸の他に、歌を書いた梶の木の葉があったことがわかります。梶の葉は桑や楮の葉を大きくした形で、荒い毛がびっしりと生えています。大きいものでは20㎝以上あり、筆で歌を書いてみましたが、十分に書くことができました。梶が選ばれているのは、天の川を漕ぎ渡る舟の楫(かじ)からの連想で、梶の葉に歌を書く風習は、早くも平安時代には行われていました。また里芋の葉に乗っている玉のような露ですった墨で歌を書く風習は、平安時代の和歌で確認でき、現在でも行われています。平安時代の和歌には、七夕の夜の雨や露を、牽牛が天の川を渡る舟の楫の雫(しずく)や、織女の涙にたとえたものがいくつもありますから、里芋の露を天の川の雫と理解したからでしょう。
梶の葉に歌を書く風習はその後も受け継がれ、江戸時代には、梶の大きな葉や、その形に切り抜いた紙に歌などを書く、「梶の葉」という子供の行事が行われていました。そしてさらに寺子屋で手習いの上達を願う子供の行事として、短冊に書くことも行われるようになりました。江戸時代後期の『五節供稚童講釈』(ごせっくおさなこうしゃく)という子供用年中行事解説書には、「子供は歌が詠めないので、七夕の古歌やいろはにほへと、天の川、七夕様などと書くので、七夕様もお笑いになるであろう」と記されています。
短冊の他には、鬼灯(ほうずき)・切った西瓜・帳面・筆・硯・算盤(そろばん)・瓢箪(ひょうたん)・網・梶の葉・くくり猿などの形に切った飾りを結び付けて飾りました。現代でもよく見かける網の目のように切った独特の飾りは、大漁を祈願する網であると説明されることがあり、江戸時代に「網」と呼ばれることもありました。しかし七夕の祭には豊漁祈願の要素は何一つなく、その形からヒントを得た安易な想像に過ぎません。本来は七夕の二星に供えた糸や布が変化したものでしょう。
以上のことでも明らかなように、竹に短冊を飾るのは、平安時代以来の梶の葉に歌を書く風習と、技芸の上達を祈願する乞巧奠の風習が重なって次第に行われるようになりました。そしてその技芸は本来は大人の女性の裁縫や音曲のことだったのですが、平安時代以来の梶の葉に歌を書く風習と、江戸時代には子供の学習塾である寺子屋の普及や、七夕が子供の行事となることによって、子供が手習いの上達を祈願して短冊を書くようになったのです。
飾り付けられた青竹は、天まで届けとばかりに屋根より高く垂直に掲げられました。ですから地面からは十mくらいの高さはあったでしょう。当時の七夕の絵図を見ると、江戸の町は七日の朝には、前夜以来、一夜にして竹林となったくらいに竹飾りが林立し、軒先に斜めに立てかける現在の飾り方とは全く異なっています。そして八日にはすべて竹飾りは片づけられました。江戸の竹林は一夜にして出現し、一夜にして消えるのです。そして竹飾りは川に流されました。
追記
長年、伝統的年中行事について研究しているのですが、流布している解説書やネット情報の内容には出鱈目な記述が多く、いつも嘆かわしく思っていました。「・・・・と言われています」「・・・・と伝えられています」というだけで、確かな文献的根拠もなしに書かれているのです。特に民俗学的な視点から書かれているものについては、その大半が出鱈目であり、歴史学的には認められるものではありません。
笹竹を用いることについては、笹は防腐剤として利用されていたからとか、風になびくサラサラという音が天上からご先祖様を呼ぶからとか、笹竹は中が中空で神様が宿るものと信じられていたから等、よくもまあ確かな根拠もなく出鱈目なことを説くものと、あきれてしまいます。書いている人にその根拠を目の前で示して欲しいと言えば、何も提示することはできないでしょう。世の中に流布している年中行事解説は、みなこの程度のものなのです。
私は江戸時代以前の文献史料を重視していますが、それには理由があります。明治になってからは、伝統的年中行事は見る影もなく廃れ、一旦は東京では七夕飾りが見られなくなる程だったことは、明治期の歳時記にはっきりと記されています。明治後期には復活してくるのですが、それは江戸時代の様子とは異なることがありました。伝統的年中行事と言っても、途切れることなく続いてきたわけではありません。それで少しでも本来の様子を明らかにするために、江戸時代以前の文献史料を重視しているのです。
「子供のための・・・・」と題してはいますが、内容や言葉は子供には少し難しいとは思います。しかし確実な文献史料を根拠にして書いているため、一般に流布している解説書とは異なり、どうしても難しくならざるを得ないことは御了解下さい。いちいち難解な原文史料や出典は書いてありませんが、詳しくお知りになりたい方、また原文史料を直接お読みになりたい方は、その旨コメントをいただければ、追記としてさらに書き込むことは可能です。また原文史料を国会図書館デジタルコレクションを利用して、インターネットで閲覧できる方法を御紹介いたします。