うたことば歳時記

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七夕にはなぜ竹に短冊を飾るの?(子供のための年中行事解説)

2021-06-27 09:10:40 | 年中行事・節気・暦
七夕にはなぜ竹に短冊を飾るの?
 上巳の節供には雛人形、端午の節供には鯉のぼりがあるように、七夕には竹飾りが欠かせません。そもそも七夕にはなぜ竹を用いるのでしょうか。年中行事の解説書には、竹を用いることについて様々な説が紹介されていますが、どれも確かな歴史的根拠が示されていません。七夕の風習はほとんどが中国伝来であり、竹を用いることも中国の風習に起原があります。『和漢朗詠集』(わかんろうえいしゅう、1013年頃)という平安時代の詩歌集に、唐の詩人である白居易(はっきょい)の詩が載せられているのですが、その中に「臆(おも)ひ得たり、少年の長く乞巧せし事を。竹竿の頭上に願糸多し。」という詩句があります。「少年の頃の乞巧奠(きっこうでん、裁縫や音曲の上達を星に祈願する七夕の祭)で、七夕の竹竿の上に願をかけた糸がたくさん懸けられていたことを思い出す」という意味です。白居易は9世紀前半の人で、その頃の唐では、7月7日の乞巧奠において、若者が技芸の上達を願って竹竿の上の方にたくさんの糸(願いの糸)を懸ける風習があったのでしょう。白居易の詩は当時の日本の文化人なら誰もが暗記していましたから、七夕に願いの糸を懸けた竹を立てるということはよく知られていたはずです。ですから唐文化に憧れていた当時の文化人達は、きっと模倣したことでしょう。

 竹竿に願いの糸を懸ける風習はそのまま中世にも伝えられました。室町時代初期の『太平記』という歴史書には、七夕の竹竿に願の糸を懸け、乞巧奠を行うと記されています。江戸時代の国語辞典『倭訓栞』(わくんのしおり)の「たなばたつめ」の項でも白居易のこの詩を引用し、七夕の歌に糸が詠まれるのは、この「願糸」のような風習によることを示唆しています。

 この竹竿が単なる一本の竿だけだったのか、枝葉が付いていたのかは記述がありませんが、『年中恒例記』(ねんじゅうこうれいき)という室町幕府の年中行事を記録した書物には、七夕には里芋の葉の露で墨をすり、7枚の梶(かじ)の葉に7首の七夕の歌を書き、竹に結び付けて屋根の上にあげると記されていますから、枝葉が付いていたと考えられます。

 また竹竿に飾るものとしては、願いの糸の他に、歌を書いた梶の木の葉があったことがわかります。梶の葉は桑や楮の葉を大きくした形で、荒い毛がびっしりと生えています。大きいものでは20㎝以上あり、筆で歌を書いてみましたが、十分に書くことができました。梶が選ばれているのは、天の川を漕ぎ渡る舟の楫(かじ)からの連想で、梶の葉に歌を書く風習は、早くも平安時代には行われていました。また里芋の葉に乗っている玉のような露ですった墨で歌を書く風習は、平安時代の和歌で確認でき、現在でも行われています。平安時代の和歌には、七夕の夜の雨や露を、牽牛が天の川を渡る舟の楫の雫(しずく)や、織女の涙にたとえたものがいくつもありますから、里芋の露を天の川の雫と理解したからでしょう。

 梶の葉に歌を書く風習はその後も受け継がれ、江戸時代には、梶の大きな葉や、その形に切り抜いた紙に歌などを書く、「梶の葉」という子供の行事が行われていました。そしてさらに寺子屋で手習いの上達を願う子供の行事として、短冊に書くことも行われるようになりました。江戸時代後期の『五節供稚童講釈』(ごせっくおさなこうしゃく)という子供用年中行事解説書には、「子供は歌が詠めないので、七夕の古歌やいろはにほへと、天の川、七夕様などと書くので、七夕様もお笑いになるであろう」と記されています。

 短冊の他には、鬼灯(ほうずき)・切った西瓜・帳面・筆・硯・算盤(そろばん)・瓢箪(ひょうたん)・網・梶の葉・くくり猿などの形に切った飾りを結び付けて飾りました。現代でもよく見かける網の目のように切った独特の飾りは、大漁を祈願する網であると説明されることがあり、江戸時代に「網」と呼ばれることもありました。しかし七夕の祭には豊漁祈願の要素は何一つなく、その形からヒントを得た安易な想像に過ぎません。本来は七夕の二星に供えた糸や布が変化したものでしょう。

 以上のことでも明らかなように、竹に短冊を飾るのは、平安時代以来の梶の葉に歌を書く風習と、技芸の上達を祈願する乞巧奠の風習が重なって次第に行われるようになりました。そしてその技芸は本来は大人の女性の裁縫や音曲のことだったのですが、平安時代以来の梶の葉に歌を書く風習と、江戸時代には子供の学習塾である寺子屋の普及や、七夕が子供の行事となることによって、子供が手習いの上達を祈願して短冊を書くようになったのです。

 飾り付けられた青竹は、天まで届けとばかりに屋根より高く垂直に掲げられました。ですから地面からは十mくらいの高さはあったでしょう。当時の七夕の絵図を見ると、江戸の町は七日の朝には、前夜以来、一夜にして竹林となったくらいに竹飾りが林立し、軒先に斜めに立てかける現在の飾り方とは全く異なっています。そして八日にはすべて竹飾りは片づけられました。江戸の竹林は一夜にして出現し、一夜にして消えるのです。そして竹飾りは川に流されました。


追記
 長年、伝統的年中行事について研究しているのですが、流布している解説書やネット情報の内容には出鱈目な記述が多く、いつも嘆かわしく思っていました。「・・・・と言われています」「・・・・と伝えられています」というだけで、確かな文献的根拠もなしに書かれているのです。特に民俗学的な視点から書かれているものについては、その大半が出鱈目であり、歴史学的には認められるものではありません。
 笹竹を用いることについては、笹は防腐剤として利用されていたからとか、風になびくサラサラという音が天上からご先祖様を呼ぶからとか、笹竹は中が中空で神様が宿るものと信じられていたから等、よくもまあ確かな根拠もなく出鱈目なことを説くものと、あきれてしまいます。書いている人にその根拠を目の前で示して欲しいと言えば、何も提示することはできないでしょう。世の中に流布している年中行事解説は、みなこの程度のものなのです。
 私は江戸時代以前の文献史料を重視していますが、それには理由があります。明治になってからは、伝統的年中行事は見る影もなく廃れ、一旦は東京では七夕飾りが見られなくなる程だったことは、明治期の歳時記にはっきりと記されています。明治後期には復活してくるのですが、それは江戸時代の様子とは異なることがありました。伝統的年中行事と言っても、途切れることなく続いてきたわけではありません。それで少しでも本来の様子を明らかにするために、江戸時代以前の文献史料を重視しているのです。
 「子供のための・・・・」と題してはいますが、内容や言葉は子供には少し難しいとは思います。しかし確実な文献史料を根拠にして書いているため、一般に流布している解説書とは異なり、どうしても難しくならざるを得ないことは御了解下さい。いちいち難解な原文史料や出典は書いてありませんが、詳しくお知りになりたい方、また原文史料を直接お読みになりたい方は、その旨コメントをいただければ、追記としてさらに書き込むことは可能です。また原文史料を国会図書館デジタルコレクションを利用して、インターネットで閲覧できる方法を御紹介いたします。

『竹取物語』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2021-06-22 08:31:45 | 私の授業
竹取物語


原文
 「汝、をさなき人、・・・・かぐや姫は罪をつくり給へりければ、かく賤(いや)しきおのれが許(もと)に、しばしおはしつるなり。罪の限り果てぬれば、かく迎ふるを、翁は泣き嘆く。能(あた)はぬことなり。はや出だしたてまつれ」と言ふ。・・・・
 (天人は)屋(や)の上に飛ぶ車を寄せて、「いざ、かぐや姫、穢(きたな)き所にいかでか久しくおはせむ」と言ふ。立て籠(こ)めたる所の戸、即(すなわ)ちたゞ開(あ)きに開きぬ。格子(こうし)どもゝ、人はなくして開きぬ。嫗(おうな)抱きて居(い)たるかぐや姫、外(と)に出でぬ。え止(とど)むまじければ、たゞさし仰ぎて泣きをり。
 竹取こゝろ惑ひて泣き伏せる所に寄りて、かぐや姫言ふ、「こゝにも、心にもあらでかくまかるに、昇らむをだに見送り給へ」と言へども、「何しに悲しきに、見送りたてまつらむ。我をいかにせよとて、棄てゝは昇り給ふぞ。具(ぐ)して率(い)ておはせね」と、泣きて伏せれば、御心惑ひぬ。「文(ふみ)を書き置きてまからむ。恋しからむ折々、取り出でゝ見給へ」とて、うち泣きて書く言葉は、「この国に生れぬるとならば、嘆かせたてまつらぬほどまで侍らで、過ぎ別れぬること、返す〴〵本意(ほい)なくこそ侍れ。脱ぎおく衣(きぬ)を形見と見給へ。月の出でたらむ夜は、見おこせ給へ。見捨てたてまつりて、まかる空よりも落ちぬべき心地する」と、書き置く。  

現代語訳
 (天人が言うことには)「お前は何と愚か者よ。・・・・かぐや姫は罪を犯されたので、このように賤しいお前の手許(てもと)に、しばらくの間いらっしゃったのだ。罪をつぐなう期間が終わったので、このようにお迎えするのに、お前は泣き嘆いている。(しかしいくら嘆いても、お前の願いは)かなわないことである。早くお返し申し上げよ」と言う。・・・・
 (天人は)屋根の上に空を飛ぶ車を呼び寄せて、「さあ、かぐや姫よ、穢(けが)れた所に、どうしていつまでもいらっしゃるのですか」と言う。すると姫を閉じ籠めてあった所の戸が、たちまちにして全て開き、蔀戸(しとみど)(格子戸)なども、人がいないのにひとりでに開いた。そして嫗(おうな)が抱きしめていたかぐや姫は、外に出てしまった。とても姫を引き留めることなどできないので、(嫗は)かぐや姫を仰ぎ見て泣くばかりである。
 竹取の翁が心乱れて泣き伏していると、かぐや姫が側に寄り、「私も心ならずも、このようにお別れするのですから、せめて天に昇るのだけでもお見送り下さい」と言うが、(翁は)「お見送りしたところで悲しいだけですのに、何になりましょう。私にどうせよと言って、見捨てて天に昇られるのですか。どうぞ私も一緒に連れて行って下され」と、泣き伏してしまうので、(かぐや姫の)心も乱れてしまった。
 (かぐや姫は)「それではお手紙を書き置いてまいりましましょう。私のことを恋しく思われる時には、取り出して御覧下さい」と言って書く言葉は、「もしこの国に生まれたというならば、(お二人の)お嘆きを見ないですむ時まで、お側におりますのに、(私は月の国で生まれましたので)お別れすることは、返す返す心残りでございます。せめて脱ぎ残す私の衣を、形見として御覧下さい。そして月の出ていますような夜には、(私のいる月を)御覧になって下さい。(お二人を)お見捨て申し上げて昇って行く空から、落ちてしまうのではと思われるくらいでございます」と書き置いた。

解説
 『竹取物語(たけとりものがたり)』は、仮名で書かれた最初の物語文芸で、『源氏物語』の「絵合(えあわせ)の巻」には、「物語の出で来はじめの祖(おや)なる竹取の翁」と記され、同じく「蓬生(よもぎう)の巻」には、「かぐや姫の物語」と記されています。粗筋は今さら説明する必要もないでしょう。成立時期は九世紀後半とされています。物語の末尾には、かぐや姫が帝に捧呈した不死(ふし)の仙薬を、富士山頂で燃やす煙が立ち上る場面がありますが、延喜五年(905)に撰進された『古今和歌集』の仮名序には、「富士山(ふじのやま)も煙立たずなり」と記されています。また都良香(みやこのよしか)の『富士山記』(『本朝文粋』巻十二所収)には「其の遠きに在りて望めば、常に煙火を見る」と記され、貞觀十七年(875)という年紀も併記されています。このような富士山の火山活動を手掛かりにすれば、九世紀後半の成立と考えられます。
 『竹取物語』には多くの要素が混在しています。まず『万葉集』巻十六には、「竹取の翁」と乙女達の説話があります。話の内容は全く異なりますが、「竹取の翁」という呼称は注目できます。また巻十三には、月にあるとされる「変若水(おちみず)」という若返りの水が詠まれていて、月は不老不死の世界として理解されていました。聖徳太子の死を悼んで作られた天寿国繍帳(てんじゆこくしゆうちよう)にも、月には月桂樹と兎と、恐らくは不老不死の仙薬を容れた壷が描かれています。竹取の翁は別名「讃岐(さぬきの)造麻呂(みやつこまろ)」というのですが、『古事記』に記された垂仁天皇の妃の名前が「迦具夜比売(かぐやひめ)」、その叔父の名前が「讃岐(さぬきの)垂根王(たるねのみこ)」ですので、かぐや姫に何らかの関係がありそうです。丹後国風土記には、水浴中に羽衣を盗まれて天に帰れなくなってしまった天女が、それを盗んだ老夫婦の娘となって共に暮らすという説話が伝えられています。また唐から伝えられた中秋の名月を愛でる風習が始まったのは、九世紀後半、文徳天皇の貞観年間以前のことで、その新知識がいち早く採り入れられています。これらの伝承や中国渡来の新風習、さらには富士山の噴火を構成要素として取り込み、多くの和歌を織り交ぜながら、物語を演劇の場面のように展開させるには、余程に和歌や唐の文化に造詣が深く、奈良時代の文芸にも精通した作者でなければなりません。しかし作者名はわかりません。
 『竹取物語』は、平安王朝の世界では広く愛読され、その後の文芸に大きな影響を与えました。『源氏物語』「絵合(えあわせ)の巻」には、「かぐや姫の物語の絵に画きたる」ものがあり、その絵は宮廷絵師の巨勢相覧(こせのおうみ)が描き、紀貫之が詞を書いた美しい絵巻物であったと記されています。その絵合の場面では、「かぐや姫の此世のにごりにもけがれず、はるかに思ひ上(のぼ)れる契りたかく」と評価されています。『竹取物語』は、天人の言う「穢(きたな)き所」と、濁りも穢れもない月の世界との、相克の物語ということができるでしょう。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『学問のすゝめ』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。

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七夕はもともとはどんな祭だったの? (子供のための年中行事解説)

2021-06-18 07:36:22 | 年中行事・節気・暦
七夕はもともとはどんな祭だったの?
 七夕の祭は中国から始まった祭で、「乞巧奠」(きっこうでん)と呼ばれ、女性が裁縫の上達を星に祈願する祭でした。「乞巧奠」とは「巧(たくみ)になることを乞う奠(まつり)」を意味しています。6世紀の中国の歳時記である『荊楚歳時記』には、「七夕の夜、女性たちは庭に台を置いて酒や干肉や瓜を供え、針の孔(あな)に糸(おそらくは五色の糸)を通して掛け、裁縫の技の上達を祈る。また瓜に蜘蛛(くも)が網を張るようなことがあれば良い徴(しるし)であるとした」と記されています。また「織女は瓜果を主する」(瓜を管理担当する)と記されています。このような風習はそのまま日本にも伝えられました。

 日本で乞巧奠がいつから行われるようになったかははっきりとはわかりません。しかし正倉院宝物の中には、「七孔針」と呼ばれる銀製の七本の長い針があり、『荊楚歳時記』に記された乞巧奠の風習をそのまま日本で再現したことを示すものと考えられています。また平安時代末期の貴族の日記や記録には、蓮華(れんげ)・五色糸・鏡・針・鯛(たい)・鰒(あわび)・枝豆・酒盃・茄子(なす)・梨・瓜・桃・筝(琴)・楸(ひさぎ)の葉などを供えたことが、絵入りで記されています。また平安時代の和歌集には、衣や五色の糸を供えたり、音曲の上達を祈って琴を供えたこと示す歌がたくさん詠まれていますから、宮中や貴族の邸宅では行われていました。

 江戸時代の乞巧奠も、基本的には平安時代と変わっていませんが、庶民の風習となって定着していました。『案内者』(1662年)という書物には、庭に置いた机の上に、香炉・琴・水を満たした盥(たらい)を置き、花や供物を供える。また五色の糸を掛けた竹竿を立てて祈ると、三年以内に願がかなうと記されています。『日本歳時記』(1688年)という日本最初の歳時記には、瓜や各種の供物を供え、花を飾って香を焚き、竿の先端に五色の糸を連ね、男女ともに技芸の上達と幸運を祈るとが記されています。

 『案内者』に記されているように、七夕の夜に会うという牽牛星と織女星を、盥(たらい)の水に映して星影を見る風習がありました。この風習は平安時代末期から鎌倉時代の和歌にも詠まれていますから、かなり古くからの風習です。果たして本当に水に星影が映るものなのか試してみましたが、現在でも明るい星なら確かに映りました。都会では難しいかもしれませんが、是非やってみましょう。

 このように七夕の祭の中心となる乞巧奠とは、天の川を挟んで向かい合う二星に五色の糸などを供え、裁縫や音曲や和歌・手習い(書道)などの技芸の上達を祈願する祭だったのです。乞巧奠には竹の飾りが屋根より高く立てられていたのですが、そのことについては、また別にお話します。

コラム「冷泉家の乞巧奠」
 冷泉家は、『新古今和歌集』の編者である藤原定家の孫の冷泉為相を祖とする和歌の家で、その住宅は現存唯一の公家住宅として貴重な物です。その冷泉家では、今もおくゆかしく七夕の祭が行われています。「星の座」と呼ばれる祭壇には、琴・琵琶・星を水に映して見るための水を満たしたの角盥・五色の布と糸・秋の七草・各種の瓜などが供えられます。


 長年、伝統的年中行事について研究しているのですが、流布している解説書やネット情報の内容には出鱈目な記述が多く、いつも嘆かわしく思っていました。「・・・・と言われています」「・・・・と伝えられています」というだけで、確かな文献的根拠もなしに書かれているのです。特に民俗学的な視点から書かれているものについては、その大半が出鱈目であり、歴史学的には認められるものではありません。私の余生もそう長くはないので、今のうちに正しいことを明らかにしておかなければ、日本の伝統行事は間違っていることが既成事実化されてしまうと思います。これから一年間にわたり、少しずつ公表していくつもりです。「子供のための・・・・」と題してはいますが、内容や言葉は子供には少し難しいとは思います。しかし確実な文献史料を根拠にして書いているため、一般に流布している解説書とは異なり、どうしても難しくならざるを得ないことは御了解下さい。
 いちいち難解な原文史料や出典は書いてありませんが、詳しくお知りになりたい方、また原文史料を直接お読みになりたい方は、その旨コメントをいただければ、追記としてさらに書き込むことは可能です。また原文史料を国会図書館デジタルコレクションを利用して、インターネットで閲覧できる方法を御紹介いたします。


七夕にはどんな物語があったの?(子供のための年中行事解説)

2021-06-15 08:01:05 | 年中行事・節気・暦
七夕にはどんな物語があったの?
 星祭である七夕には、牽牛星(日本名は彦星)と織女星(日本名は織姫星)の二つの星が主役となる物語が伝えられています。物語の要素はみな中国伝来のものですが、中国でも長い年月をかけて、現在知られている物語に成長していったのです。
 まず紀元前9~7世紀の詩を集めた『詩経』(しきょう)という書物には、「織女は一日に七回も織機にすわっても、文様を織ることができない。牽牛も車を牽(ひ)かない」という詩が詠まれています。紀元前4~3世紀の詩文を集めた『文選』(もんぜん)という書物には、「牽牛星と織女星は輝いているが、織女星は(牽牛星を恋しく思うあまりに)一日織っても文様ができずに涙が流れる。天の川は浅く清いけれども、(川に隔てられて)二人は会うことができず、語ることもできない」と記されていて、話が少し具体的になりつつあります。紀元前2世紀の『淮南子』(えなんじ)という書物には、織女が鵲(かささぎ)の橋を渡って牽牛に会うと記されています。6世紀の『荊楚歳時記』(けいそさいじき)には、七月七日には天帝の孫である織女が天の川で牽牛と会うこと。牽牛が織女を娶(めとった)ったこと。また織女が瓜(うり)を掌ることが記されています。そして、明代の『月令広義』(がつりょうこうぎ・げつりょうこうぎ)という書物には、6世紀の梁(りょう)という国の殷芸(いんうん)が著した『小説』という書物が引用されていてるのですが、それには現代の人が知っている七夕の物語がほぼ出そろっています。それによれば、「天の川の東に天帝の娘の織女がいて、忙しく機織りをしていた。天帝は独身であることを憐れんで、川の西の牽牛と結婚させた。しかし機織りをしなくなったので、天帝は怒って川の東に帰らせ、一年一度だけ会うことを許した」というのです。中国では千年以上もかかって少しずつ物語らしく形を整えてきたことがわかります。
 このような物語は7世紀には日本に伝えられていました。『日本書紀』に記されている持統天皇五年(691)の七月七日の宴が日本最初の七夕の行事である可能性がありますし、『万葉集』(2033)には柿本人麻呂が680年に詠んだ七夕の歌があり、そのことを裏付けています。『万葉集』には約130首の七夕の歌があるのですが、織女と牽牛の年に一度の出会いに自分の恋を重ね、恋の歌として詠まれたものがほとんどで、中国伝来の七夕の物語が早くから広く知られていたことがわかります。
 一方、年中行事の解説書には、中国伝来の風習と日本古来の「棚機津女伝説」(たなばたつめでんせつ)が混ざり合って、日本の七夕の風習が形作られたと説明されています。それによれば、「棚機津女伝説」はおよそ次のように説明されています。「天から降りてくる水神に捧げるための神聖な布を、若い女性が棚づくりの小屋に籠もって俗世から離れて織る。」とか、「棚機津女として選ばれた女性は村の災厄を除いてもらうために、7月6日に水辺の機屋に籠もり、神の着る布を織りながら神の訪れを待つ。そしてその夜、女性は神の妻となって神に奉仕する。翌日七日には、神を送って村人は禊(みそぎ)を行い、罪穢(つみけがれ)をはらう。」というように、なかな具体的なのです。
 中国から七夕の風習が伝えられたのは7世紀のことでが、『古事記』『日本書紀』『万葉集』を初めとする古い文献には、「棚機津女伝説」に説かれている具体的な内容を物語る根拠は全く記されていません。伝説があったと言われるかもしれませんが、伝説があったという根拠もなく、仮にあったとしても、伝説ではいつまでさかのぼれるかが検証できないのです。
 「棚機津女伝説」は現代になってから一部の民俗学者が主張し始めたことなのですが、あくまでも詩的な仮説であり、再検証できないために歴史学的には全く認められていません。ただ中国から七夕の風習が伝えられるより早く、日本には布を織ることに関係する「タナバタ」と呼ばれるものがあったのは事実です。『万葉集』では「七夕」を「タナバタ」、「織女」を「タナバタ」「タナバタツメ」と読ませている歌があり、「タナバタ」という特別な女性の織り手が、日本独自に存在したことは認められます。それがあったからこそ、「たなばた」とは読みようがない「七夕」という漢語に、「タナバタ」という訓が与えられたのです。ここには中国七夕伝説と日本の「たなばた」が混じり合っていることを確認することができます。しかしそれ以上のこととなると、残念ながら全く手掛かりがありません。実際には「棚機津女伝説」は、全く想像上の産物でしかないのです。

 長年、伝統的年中行事について研究しているのですが、流布している解説書やネット情報の内容には出鱈目な記述が多く、いつも嘆かわしく思っていました。「・・・・と言われています」「・・・・と伝えられています」というだけで、確かな文献的根拠もなしに書かれているのです。特に民俗学的な視点から書かれているものについては、その大半が出鱈目であり、歴史学的には認められるものではありません。私の余生もそう長くはないので、今のうちに正しいことを明らかにしておかなければ、日本の伝統行事は間違っていることが既成事実化されてしまうと思います。これから一年間にわたり、少しずつ公表していくつもりです。
 これだけのことを自身をもって言うからには、私が書いている内容については、どれも確かな文献的根拠があります。子供を対象にしているので、いちいち難解な原文史料や出典は書いてありませんが、詳しくお知りになりたい方、また原文史料を直接お読みになりたい方は、その旨コメントをいただければ、追記としてさらに書き込むことは可能です。また原文史料を国会図書館デジタルコレクションを利用して、インターネットで閲覧できる方法を御紹介いたします。今後とも宜しくお願いします。いずれ出版したいとは思っているのですが、大金のかかることですので、どうなりますことやら・・・・。

再び夏至について

2021-06-13 16:05:15 | 年中行事・節気・暦
再び夏至について

 以前に夏至について書いたのですが、改めて書き直してみました。令和3年の夏至は6月21日です。夏至とは、北半球では昼間の時間が最も長く、太陽の南中高度が最も高い日です。東京の日の出は4時26分、日の入りは17時00分、南中高度は77.8度だそうです。

 現在の日本では、夏至の日に全国的に共通して行われる特別の風習はありません。今日が夏至と聞いても、何の感慨もなく、「そうなの」で終わってしまいます。しかしかつてはとても重要な日でした。そもそも年始をどこに定めるのかということについては、太陽の観測に拠らなければなりません。そして365日の1年間の中で、太陽高度の観測により基準となり得るのは、冬至と夏至しかあり得ません。この二つならば、正確な観測が行われる限りは、誰もが同じ日を指し示すことができるからです。ですから中国の最初の暦では、年始は冬至を含む月から始まり、その対極にあるのが夏至でした。古代中国では、夏至の日に粽を食べる風習が行われていたことや、「陰陽争い、死生の分るる日」と考えられたため、この日は行動を慎むべきであると考えられていました。江戸時代には、井戸さらえを行う風習もありました。

 私は夏至の夕刻には、門の位置に立って西の山の端に沈む太陽の位置を確認します。夏至を過ぎると太陽の沈む位置は次第に南寄りに移動し始めるので、夏至の日の日没の位置を覚えておけば、ある日の太陽が沈む位置を夏至の日の位置と比較して、月日のたつことを目で見て確認できるからです。ただし毎年定位置で観察しなければなりません。同じことは冬至の夕刻にもしますので、太陽の沈む位置は、ここからここまでの間、その真ん中が彼岸の中日に太陽が静む真西であると、一目で理解できるのです。もし時間と天候条件がよければ、是非観察することをお勧めします。

 夏至には誰もが太陽高度を意識するでしょうが、私はもう一つ、月の高度にも注目します。夏至の頃は北半球では地軸が太陽の方に傾いていますから、太陽が真上に近いところから照らすことになり、太陽高度は高くなります。それに対して夜に見える月は高度が低くなります。夏至に近い満月は、令和3年では6月24日ですから、この日に月の南中高度が低いことを確認します。もちろん夏至の日に確認しても低いことはわかりますが、満月ではありません。このことは明日の日本史の授業の枕として、生徒達に話して聞かせるつもりです。