うたことば歳時記

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旧暦の基礎知識

2015-07-29 21:12:05 | その他
 日本文化を理解するのには、どうしても旧暦の基礎知識が必要です。授業で直接に役立つ場面はそう多くはありませんが、日常生活の中では、まだまだ旧暦に関することがたくさんあるからです。私も特別に詳しいわけではありませんが、普段から歳時記については注意を払っていることもあり、旧暦を身近に感じています。
さて、「旧暦」と一言で言ってしまいますが、「旧暦って太陰暦のことでしょ」と言われると、必ずしもそうではありません。現在の暦は太陽暦ですから、旧暦は太陰暦だということなのでしょうが、正しくは太陰太陽暦と言うべきでしょう。ある部分は月の満ち欠けによる太陰暦ですが、ある部分は太陽の周囲を公転する地球の動きにもよっています。ですから太陰太陽暦という言い方が正確なのです。
 話は突然外れますが、無人島に流れ着いたと想像してみて下さい。初めのうちはロビンソンクルーソーのように、流れ着いてから何日経ったから、今日は何月何日だと数えていられるでしょうが、そのうちにわからなくなってしまうのは目に見えています。月の満ち欠けを見ているならば、満月は30日に一度ですから、もう何回目の満月を見たから、今日は何月何日頃だと見当はつきます。しかし一年は365日は月の周期の倍数ではありませんから、何年も月の満ち欠けだけで月日を数えていると、次第に実際からずれてきてしまう。一方、季節の変化を見れば、つまり太陽の動きを規準にすれば、一年の中のいつ頃かということはおよそ見当がつきます。つまり太陰暦にも太陽暦にもそれぞれ長所と短所があるというわけです。
 それではまず旧暦の太陰暦の部分について見てみましょう。月が地球を公転する周期はほぼ一定で、その周期平均は約29.5日です。もっと端数があるのですが、ここでは無視してもよいでしょう。もっと大雑把に言えば30日です。月の満ち欠けが一巡りして同じ形の月になるまでに30日かかる。だから30日で「一月」(ひとつき)と言いますよね。まずこのあたりで「目から鱗」という人もいるかもしれませんね。ついでのことに、太陽は24時間で地球を一回りしているように見えますから、24時間で「一日」(いちにち)と言います。この場合の「日」は英語で言えばdayという意味もあるでしょうが、もとは太陽という意味です。月の一巡り、つまり30日でひと月、太陽の一巡り、つまり24時間でいち日というわけです。
 それでは月の一巡りが何回重なれば1年になるのでしょうか。月の満ち欠けの1巡りを「朔望月」(朔は新月、望は満月)と言いますが、1朔望月を1月(ひとつき)とし、12カ月を1年とすると、1年は29.53×12回 =354.367日となります。大雑把に言えば、1年は354日だけになってしまいます。ただ実際上は1カ月が29.5日という半端では困ります。そこで30日の大の月と、29日の小の月を交互におけば、その平均は約29.5日になる。なぜ大の月と小の月があるかはこれで説明できますね。まあそれはそれでよいとして、29日(小の月)の月と30日(大の月)の月を6回ずつ設けると、1年は354日となります。すると地球の公転周期である365.24日より約11日短い。それで太陰暦をそのまま使い続けると、このずれは3年間で1カ月程になり、暦と実際の季節が大幅にずれてしまうことになってしまいます。
 話はずれてしまいますが、1太陽年が約365.24日であることは覚えておきましょう。365日と4分の1という方がよいでしょう。4分の1日という端数が4回でほぼ1日になりますから、太陽暦では4年に1回の閏年があり、2月が29日になるからです。ついでにまたまた脱線しますが、古代ローマの暦では新年は3月から始まり、2月が年末の月でした。それで2月は28日という半端な数になっています。
 さあ話をもとに戻しましょう。とにかく月の満ち欠けによって1年を12カ月とすると、1年は354日になってしまう。そこで約3年に1度、1カ月を加えて1年を13カ月とし、季節とのずれをなるべく少なくなるように調整することになる。この挿入された月を閏月と言いますが、「閏」とは「余分な」という意味です。例えば5月と6月の間に閏5月を入れたりします。一年の中でどこに閏月を入れるかについては、またまた難しい法則があるのですが、今回はこのことについては触れないでおきましょう。
 もし閏月がなかったら、どういうことが起きるでしょうか。例えば七夕が7月7日として、真冬の七夕や春の七夕が起きてしまいます。イスラム暦にはこの閏月がありませんから、ラマダンと呼ばれる断食月が真夏に来ると、それはそれは大変なことになるでしょう。私はわけあってイスラエルに住んでいたことがあるのですが、真夏の暑さはいくら湿度が低いと言っても、沙漠に近いところでは猛烈な暑さです。そのような所で日中は飲み食いができないのですから、どれ程辛いことか想像はつきます。また3年でほぼ1カ月のずれが生じますから、イスラム暦の33年は太陽暦の32年に相当することになります。そう考えれば、閏月というものは、なかなかよい智恵だと思いませんか。ここまでお話ししたところで、「旧暦は太陰暦だった」という理解が正しくはないことがわかっていただけたと思います。
 太陰暦の不便なことをお話ししましたが、便利なこともあります。太陰暦は月の動きに連動するので、基本的には毎月15日はほぼ満月であり、一日はほぼ新月。月の形でほぼ何日かがわかります。15日には満月になるので、「十五夜」という言葉ができます。うさぎが眺めて跳ねる「十五夜お月様」は、何の説明がなくとも満月なのです。それを規準にして、月の形を見れば、およそ何日かは見当がつきました。
 月の出は毎日少しずつ遅れます。月の満ち欠けは約29.5日で一巡りしますから、24時間÷29.5日=約50分で、1日に約50分づつ月の出るのが遅れます。西に沈むのも50分後れます。この約50分は是非覚えておきましょう。ただしあくまでも平均であって、実際には長短にかなり差はあります。そのあたりの計算は素人の手の出せるものではありません。「今夜は7時に月が上ってきたから、明日は8時頃に上ってくるよ」などと話が広がります。旧暦一日の月は太陽とほぼ同じように上り、また沈みますから、太陽の光に負けて姿が見えません。しかし二日の月はそれより遅れて沈みますから、日没後西の空の低い位置に、細い月が見えます。そして三日の月は、日没後に前日よりは少し高い位置に見えます。これがいわゆる三日月ですね。ですから三日月は西の空意外には絶対見えません。そして十五日の月は、日没頃に東の空から上ってきます。蕪村の俳句に、「菜の花や 月は東に 日は西に」という句がありますが、何の説明がなくとも、月と太陽が正反対の位置関係にありますから、満月かそれに近い月であることがわかるのです。『十六夜日記』は16日に旅に出発したことによる呼称ですが、「十六夜」の月は、前日の満月の月の出より遅れて上ります。その遅れることを、「月がためらっている」と理解し、「ためらう」ことを意味する「いざよい」という言葉で優雅に表しているのです。もっとも今お話ししたことは、あくまでも理屈であって、実際には季節や緯度や地形によって多少異なりますから、あくまでも原則として理解して下さい。とにかく太陰暦では、月の形で日付が見当がつくのです。その他にも、満月や新月の時には大潮となり、その中間の日には小潮になりますから、海に関わる仕事をしている人にとっては、とても便利なのです。また海釣りをする人は、必ず潮位を調べるることと思います。
 一方、太陽暦ですが、何と言っても季節の移り変わりを知るには、太陽暦でなくては不可能です。なぜなら季節の移ろいの主因は、太陽高度の変化なのですから。日本は四季の区別が明瞭で、日本人はその移り変わりに敏感です。特に農業を生業としている人にとっては、いつどのような農作業をすればよいのかは、太陽暦でなければ決められません。太陽暦ならば、毎年同じ月には同じような気候であり、何日に種まきをして何日に収穫するか、前例に倣ってすぐに決められるからです。そこで旧暦では、太陰暦には不可能なことを太陽暦で補うための規準が考案されました。それは一般に二十四節気・七十二候と呼ばれています。それは地球が1年をかけて太陽を回る公転面を時計の文字盤に喩えると、時計には時間ごとの12の目盛り、分ごとの60の目盛りがあるように、宇宙の文字盤に24と72の目盛りをつけるようなものです。
 それならどのようにその目盛りを付けるのでしょうか。地球の公転は、私達にとっては太陽高度の変化として自覚されます。そこで太陽の高度を観測すればよいのですが、太陽を見つめることはできませんから、太陽の高度に連動する影の長さを観測するわけです。つまり太陽高度が高い程、影は短くなり、低い程に影は長くなります。そこでなるべく高い絶対にぶれない柱を垂直に立て、その影の先端の位置を刻々と記録し続けます。それが最も短い日が夏至であり、その反対が冬至の日になるのですが、南中した時点の影を計らなければなりません。そこで正確な南北の方角を知る必要があります。これには手のひらに載る程度の方向磁石では全く役に立ちません。まずは絶対に水平の地面に半径数mの円を書きます。そしてその中心にこれも絶対に動かない柱を立てます。そしてその柱の影の先端を半日かけて地表に記録し、先程の円の円周と接する点を確定します。それは必ず午前と午後に一カ所づつありますから、その2点を結べば、その線は必ず東西を指し示します。そしてそれに直角に二等分線を線を引けば、それが南北になるわけです。こうして南中時の影の位置、つまり影の長さを測定すべき位置が決まります。あとは一年をかけて影の長さを南北の線上で記録し続ければよいのです。
 毎日毎日、その南北の線上に影が重なる瞬間の影の先端を記録するのですが、夏至が近付くにつれて影は短くなります。しかしある日を境にして一転して長くなり始める日が来ます。そこでその前日が夏至であるとわかるのです。同じように今度は影が長くなっていきますが、ある日を境に、一転して影が短くなる日がある。するとその前日が冬至であるとわかります。こうして目盛りのなかった文字盤に夏至と冬至という二つの目盛りが書き込まれました。これを「二至」といいます。ここまで漕ぎ着ければあとはそう難しいことではありません。夏至と冬至の中間地点が春分と秋分ということになります。これを「二分」(にぶん)と言います。これで目盛りは四つになりました。さらにそれぞれの中間地点に目盛りを付けます。つまり、冬至と春分の中間地点に立春、春分と夏至の間に立夏、夏至と秋分の間に立秋、秋分と冬至の間に立冬という目盛りを付けるわけです。そしてこの四つを「四立」と言います。これで二至・二分・四立の合計八つの目盛りが付けられました。
 話はまたまたそれますが、「大寒を過ぎていくらも経っていないのに、立春なんておかしい」とか、「二十四節気は中国の華中地方の気候をもとに作られたものだから、それをそのまま日本に当てはめるから、こんなに暑いのに立秋になってしまう。」「暦の上ではもう春というのに、まだまだ寒い。」とか、いろいろ旧暦への批判を耳にします。しかしこれらの批判がとんでもない出鱈目であることはもうおわかりですね。四立は気温をもとに決められたものではなく、太陽高度によって決められたものですから、世界中何処で計っても同じことです。ただそれに春夏秋冬という季節の名称を含む名前をつけてしまったがために、まるで気温で四立が決められているように錯覚してしまうのです。もし気温で決まるとしたら、南北に長い日本では決めようがないではありませんか。またそうだとしたら、四季の長さがみな同じというのもおかしいではありませんか。太陽高度によって、機械的に4等分したからこそ、同じ長さになっているのです。実際の気温とかけ離れていることをもって、旧暦の批判をする人をよく見かけますが、暦のことがわかっていないとしか言いようがありません。喧しいことを言えば、「暦の上ではもう春ですのに」という言い方自体がもう誤っているのです。そもそも春は暖かい季節と決めてかかっていますが、正確に言えば、暖かい時期を含む期間と言った方がよいのでしょう。旧暦の弁護のために、ついつい力説してしまいました。
 話をもとに戻しましょう。こうして宇宙の太陽時計に八つの目盛りが刻まれました。しかしまだまだ目盛りが粗すぎます。そこでそれぞれの目盛りの間を三等分して、合計24の目盛りをつけます。これらが二十四節気というわけです。一年は12カ月で、一月はほぼ30日ですから、節気と節気の間隔は15日ということになる。二十四節気の名称は古代中国以来のものですから、二至・二分・四立以外の名称は日本の気候に合わないという主張は、これはもっともなことで、一応理解できます。確かに実際の季節とのずれは認めざるをえません。それでも大寒や大暑は日本の気候とも合っているようには思いますが・・・・。
 農業をする人にとっては15日ごとの二十四節気でもなお目が粗いと思うのでしょう。それをさらに三等分して、五日ごとにかわる七十二候というものも考案されました。因みに二十四節気の「気」と七十二候の「候」を合わせると、「気候」という言葉になります。二十四節気は古代中国のものがそのまま使われていますが、七十二候の名称は江戸時代に入って渋川春海ら暦学者によって日本の気候風土に合うように改訂され、「本朝七十二候」が作成されました。現在で日本で一般的に言われている七十二候は、1874年(明治7年)の「略本暦」に掲載されたものです。この七十二候を読んでみると、確かに実際の季節とのずれを感じますね。しかし先程も触れましたが、日本のどの位置でも共通して言える七十二候などあり得ません。もともとそのような物だと割り切って理解してゆくしかないと思います。しかしくどいようですが、二至・二分・四立の八つだけは、旧暦だろうと新暦だろうと関係なしに存在するものなのです。
 さて宇宙の太陽時計の目盛りはできましたが、一年の始まりはいつなのでしょう。太陽時計の針の先端には地球が付いています。しかし或る特定の場所に来ると、カチャッとリセットされるわけではありません。音も立てずに地球の針は太陽時計の回りを、時計回りとは反対に回っています。つまりいつを一年の始まりにするかは、何も決まっていないのです。その時計を使う人の解釈で、いつが一年の始まりと決めても自由なわけです。それでも何かの規準があった方がよいので、歴史上はいろいろな時期に一年の始まりが設定されました。わかりやすいのは冬至でしょう。一陽来復と言いましょうか。この日を境に太陽高度が高くなるのですから、規準としてはわかりやすい。古代中国では冬至を含む月を年始としていましたから、そこから月干支を数えると、五月は午の月になり、午の月の午の日を端午の節供、のーまた重五の節供と呼んだわけです。
 日本では6~7世紀に暦の知識が中国から伝えられましたから、冬至を年始とする暦ではありませんでした。その頃の中国の暦は春から一年が始まるとして、立春を起点として数えることになっていました。「夏も近付く八十八夜」と歌われる八十八夜、台風が来ることが多いので農家の厄日とされた二百十日などは、立春を起点に数えられています。年賀状に「頌春」「新春」などという言葉を使うのも、みなその名残です。
 立春の前日は節分ですね。節分は季節を分ける日という意味ですから、四立の前日は本来はみな節分で、節分は1年に4回あるわけです。しかし今日では立春前の節分だけを指すようになったのは、立春から一年が始まるとすると、節分は大晦日に相当する年の最後の日にあたりますから、年4回の節分の中でも最も重要な節分でした。それで節分と言えば、立春前日の節分だけを指すようになったものです。この節分の日に豆を撒くのは、一年の最後の日なので、家の中から邪気を払い、新年を迎えようという、年末の大掃除と同じような意味を持っていたのです。節分にそのような意味があることも、立春が一年の始まりであったことを物語っています。
 そうすると旧暦1月1日は一年の始まりではないのでしょうか。いいえこれも一年の始まりなのです。どちらも一年の始まりにかわりはないのですが、その規準が違うのです。太陽の高度を規準とするなら、立春が年始です。しかし月の満ち欠けを規準とするなら、一年は新月の日から始まらなければなりませんから、立春を年始とするわけには行きません。立春は太陽高度により決まるもので、月の満ち欠けは全く関係ありません。つまり太陽を規準とした年始は立春。月を規準とした年始は旧暦の元日というわけです。どちらが本当の年始かと言われると、両方としか言えません。古人は両方を上手に使い分けていたのです。
 立春と旧暦元日とどちらが先に来るか。それはその年によってまちまちでした。ただ元日前に立春になることは古人にとって多少違和感があったと見えて、そのような立春を「年内立春」と称し、12月中に春になることの可笑しさを詠んだ有名な歌があります。『古今和歌集』の巻頭歌なのですが、
  年の内に春は来にけり一年(ひととせ)を去年(こぞ)とや言はむ今年とや言はむ
という歌です。正岡子規が『再び歌よみに与ふる書』において、さんざんに扱き下ろしていることはよく知られていますね。歌の善し悪しはここではともかく、年内、つまり12月中に立春となることは、決して珍しいことではありませんでした。何しろ3~4年に1回は13カ月の閏年になったのですから。
 さてそうすると、旧暦一月は春と言えるのでしょうか。実は春の期間にも二通りありました。立春から始まり、立夏の前日までが春という理解は、素直に受け容れられるでしょう。これは二十四節気によって区切っているので、節切りの春と言います。それに対して、立春に最も近い新月の日を元日とする1月に始まり、3月末に至る期間を春とするという理解もあります。これを月切りの春と言います。月切はそれ以降は3カ月ごとに区切るわけで、1~3月が春、4~6月が夏、7~9月が秋、10~12月が冬ということになります。ですから7月7日の七夕は、本来は秋の祭りというわけです。
 ちょっと脱線します。今「元日」という言葉を使いましたが、元日と元旦の区別をしておきましょう。「旦」という漢字は、地平線の上に太陽が顔を出したことを表す象形文字で、朝を意味しています。ですから「元旦」とは元日の朝のことです。元日は一月一日のことですから、似ているようで意味は違います。よく元日のつもりで元旦と言うことがありますが、これは間違いです。老婆心ながら、念のため。
 旧暦にはなかなか雅な月の名前がありますが、太陽暦の月の名前は機械的な番号順です。どちらがよいかというと、それぞれに長所があり、私自身は比較するべきものではないと思っています。西暦と元号との比較のようなものですね。ただ旧暦の月数をそのまま太陽暦に当てはめると、おかしなことが生じます。例えば、卯の花が咲く卯月は旧暦4月に当たりますが、それをそのまま太陽暦の4月に当てはめると、卯の花の咲かない季節に卯月になってしまう。また五月晴れという言葉は、五月雨の降り続く中で、なぜかひょっと晴れる日のことを意味しますが、現在では新暦5月の爽やかな晴れの日という意味で使われることが多くなっています。これなどはもう国語辞書にも載っていて、定着してしまいましたので、今さらどうしようもないのですが、歳時記にはうるさい私には、どうしてもなじめません。その辺りの季節感の誤差を修正するために、月遅れの年中行事が行われることがありますが、まあこれなら季節感が大きくずれることはなさそうです。
 さて、ずいぶんとお話しをしてきましたが、如何でしたか。私なりの結論はすでにそれとなくおわかりだと思います。太陽を規準とした暦と、太陰、つまり月を規準とした暦と、それぞれによいところがあります。どちらかを切り捨てるのではなく、時と場合によって長所を活かして活用してゆく。これが一番良いのではないかと思っています。

黄金虫

2015-07-25 22:14:38 | 唱歌
 昆虫の専門家ではないので分類的なことはわからないが、一般に「黄金虫」と呼ばれる甲虫の仲間がいる。その多くは表面に美しく光り輝く光沢をもち、なるほど、黄金の虫と名付けられたのがわかるような気がする。果樹・野菜・花を食害するので害虫とされているが、私は成虫や幼虫を見つけても、共存共栄とばかりに、捕殺したりすることはない。
 さてその「黄金虫」の童謡であるが、作詞は野口雨情、作曲は中山晋平で、大正11年に『金の塔』に発表された。
  1、 黄金虫は金持ちだ  金蔵建てた蔵建てた
     飴屋で水飴 買ってきた

  2、 黄金虫は金持ちだ   金蔵建てた蔵建てた
     子供に水飴 なめさせた

「黄金虫は金持ち」という発想は、素直にその名前によるものであろう。それで「金蔵」を建てたというところが、如何にも時代を感じさせる。今なら資産家は銀行に財産を預け、外から見て如何にも財宝が入っているとわかる蔵など建てないものである。私が幼い頃は、資産家は「お大尽」と呼ばれ、お屋敷には大きな蔵が建っていたものである。蔵を建てることは、一種のステイタスシンボルであったのだろう。
 金持ちの黄金虫は、子供に水飴を買ってきてなめさせたという発想も、時代を感じさせる。今なら甘い物はいくらでも手に入る。しかしかつて甘い物は誰でも自由になる物ではなかった。幼い頃、親からもらったなけなしの小遣いをはたいて、紙芝居屋の駄菓子の水飴を食べたことがある。割り箸でこねていると気泡が混じり、次第に白くなって行くのが面白く、いつまでもこね回していたものである。とにかく甘い菓子は贅沢品だったのである。
 贅沢品であるが故に、かつては砂糖に税がかけられていた。明治33年、第四次伊藤内閣の時、北清事変の戦費や海軍拡張のため、増税案が審議された。衆議院では何とか可決されたものの、貴族院ではもたつき、ついに勅命が出され、ようやく法律として成立した。このとき増税されたのが砂糖と酒で、翌年、砂糖消費税法が公布されたのである。この法律はその後も廃止されることはなく、平成元年に消費税が導入されるまで続いていたから、あらためて驚かされる。
 水飴という発想は、カナブンという虫が、ドングリ類の樹液が染み出して発酵し、甘酸っぱい匂いをしているところに好んでやってくる習性と関係があるかもしれない。カナブンはカブトムシの仲間であるから、コガネムシ科ではないが、一般にはコガネムシの仲間に入れてしまうこともある。幼い頃、黒蜜に酢を混ぜた液体を木の表面に塗り付け、カブトムシをおびき寄せることは、男の子ならみな経験することであった。カナブンをコガネムシの一種と理解していたとすれば、黄金虫は甘い物が好きと理解され、水飴という発想に繋がったのかもしれない。もちろん、あくまでも私の想像である。
 それにしてもこの曲の印象は独特のものがある。曲だけを聴くと、童謡にしては暗い印象がある。「ゲゲゲの鬼太郎」の主題歌によく似ていることもあり、何か恐ろしげな雰囲気を感じさせたり、またブルースのような大人の雰囲気も持っている。しかし歌詞が子供の目線で書かれているためか、歌詞をつけて歌ってみると、薄気味悪さは全く感じられない。名曲といってよいのであろう。

茶摘み

2015-07-24 21:42:29 | 唱歌
茶摘み

5月上旬の立夏が近くなる頃、必ず耳にしたり話題になるのがこの歌である。登場したのは明治45年の『尋常小学唱歌 第三学年用』がかなり古いにもかかわらず、平成19年に「日本の歌百選」に選ばれる程、現在でも親しまれている。

  1、夏も近づく八十八夜  野にも山にも若葉が茂る
   「あれに見えるは茶摘みぢやないか  あかねだすきに菅の笠」

  2、日和つづきの今日このごろを  心のどかに摘みつつ歌ふ
   「摘めよ摘め摘め摘まねばならぬ  摘まにゃ日本の茶にならぬ」

 実にわかりやすい歌詞である。「八十八夜」とは、立春から起算して八十八日目にあたる日のことで、新暦では5月2日頃である。新緑が美しく爽やかな晴天が続き、まさに「日和つづきの今日このごろ」というのに相応しい。さらに「あかねだすきに菅の笠」とくれば、それが新茶の緑色に映えているのであろう。この歌の美しさは、まずその色彩にあると言えよう。
 ところで茶摘みの歌に、なぜ突然のように「八十八夜」なのであろうか。立夏は5月5日か6日頃であるから、すぐにでも夏なのであるが、所によっては「八十八夜の別れ霜」と言われ、その年最後の霜が降りることがある。茶はインドで盛んに栽培されていることでもわかるように、寒さには弱い作物である。茶畑には電信柱の上に扇風機を取り付けたような霜よけ防霜ファンがある。夜間は地表に近いほうが気温が低く、数mでも上の方が気温が高い。そこで晴れて風のない夜は茶畑の空気を扇風機で攪拌し、霜が降りないようにするのである。人は涼むために扇風機を使うが、茶畑では温めるために扇風機を使っている。
 今でこそこのような防霜ファンがあるが、明治期にはあるはずがない。そこで、八十八夜の別れ霜があってもおかしくない頃、無事に茶摘みまで漕ぎ着けられたことが、栽培農家にとっては大きな喜びなのである。体験のない人にとっては実感が湧かないであろうが、「八十八夜」という言葉には、収穫の喜びが隠されているのである。この歌を歌い、また鑑賞する際には、是非とも触れてほしいものである。
 「日本の茶」という表現があるが、江戸末期以来、茶は日本の重要輸出品であった。紅茶も生産されていたが、ほとんどは緑茶で、おもにアメリカに輸出されていた。明治期には年間2万トンも輸出されていた。しかし着色した粗悪な茶がかなり混じっていて、アメリカでは輸入禁止の法律が定められることもあった。そしてインドのアッサム地方の上質な茶が輸出を伸ばすようになり、日本の茶は急速に輸出量が減ってゆくのである。この歌ができた明治末期は、まだまだ輸出量が多かった時期である。既にそのころから粗悪な茶が問題にはなっていたが、中には「これぞ日本の茶ぞ」と、誇りと良心をもって栽培していた農家もあったはずである。「日本の茶」という言葉の背景には、そのような事情もあったのである。





七つの子

2015-07-04 18:03:51 | 唱歌
数ある童謡の中でも、『七つの子』は今も変わらず幅広い世代から支持される、日本の代表的童謡である。
もとは月刊の詩集『朝花夜花』に収められていた「山烏」という詩で、大正10年、児童文学雑誌『金の船』7月号に発表された。作詞は野口雨情、作曲は本居長世による。
 歌詞は次の如くである。
     からす  なぜなくの  からすは山に  かわいい七つの  子があるからよ
     かわいかわいと  からすはなくの  かわいかわいと  なくんだよ
山の古巣へ  行つて見てごらん  丸い眼をした  いい子だよ

 さて「七つ」は何を表すか、いろいろ議論がある。大きく分けて「七歳」と「七羽」の二説があるが、沢山であることを表すとか、幼いことを表すとかいう説もある。鳥の専門家によれば、カラスの寿命は5年前後とのことであるから、理屈を言えばカラスの年齢ではなさそうである。また一度に生む卵は多くても5個であるそうで、これも実際とは矛盾をする。そもそも作詞者の野口雨情が、カラスの寿命や卵の数に精通していたとは思えない。また知っていたとしても、生態に即して厳密に作詞するとも思えない。要するに七歳か七羽かという議論はあまり意味がないとしか言いようがない。

 それなら「七つの子」をどのように理解すればよいのか。作詞者本人は具体的なことを語っていないので、後は推定するしかない。どのように推し量るのか、それは理解しようとする人の感性に任されていると言ってよいであろう。文学作品というものは、一旦作者の手を離れてしまうと、本人の意図とは関係なしに独り歩きするものだからである。

 私は「童謡」という視点から理解すればよいと思う。子供が「なぜ鳴くの」と尋ねたのに対して、おそらく親が「からすにはね、かわいい子供のからすがいるから、それで、かわいい、かわいいって鳴くんだよ」と子供にわかる言葉で優しく答えている歌である。そのような場面で、私達は親として合理的に答えるだろうか。「月にはうさぎがいるわけはない」、「サンタクロースは本当は今はいないんだよ」などと、子供の夢をぶち壊しにするようなことを答えはしない。親に餌をねだるくらい成長した子がらすを、子供にわかるように「七つ(7歳)」と表現したと理解したい。いずれわかる時が来るまで、そういうことにしておけばよいのである。

もちろん「五つ」でもかまわない。ただ「七つ」の方が「からす」や「かわい」の頭音と同じ「あ」の音を響かせるので、音として聞いていて、また声を出して歌って耳に心地よい。また「二つ」では、親にそのようなことを尋ねる子供の年齢とつり合わないので、「私と同じくらいの子供のからすなのね」という子供の共感を喚びにくい。「三つ」「四つ」「六つ」「八つ」では「っ」の音、つまり促音便となるので歌いにくい。そう考えると、「七つ」が最も収まりがよい。

もう一つ考えられるのは、「からす なぜ鳴くの からすは山に かわいい七つの・・・・」という歌詞に、naという音が3回も出て来ることでもわかるように、韻を揃えようという意図があったのかもしれない。kaの音が続くことも同様である。naの音を揃えるならば、「七つ」しかないのである。
 
理屈を言えば、からすは毎年新しい巣を作るので、前年以来の「古巣」も実際にはあり得ない。しかし「古巣」という表現は、「鶯の谷の古巣」という慣用的表現があるように、前年の巣を意味しているわけではなかろう。あくまでも慣用的にそう言い表したに過ぎないと思う。また「山の」という表現から、市街に多いハシブトガラスではなく、里山に多いハシボソガラスであろうという議論も、大人気ないと思う。どちらでもよいではないか。あくまでも童謡なのである。

 それより「かわいかわいとからすはなくの」という表現に注目したい。意図的に「か」の音を連ねてからすの鳴き声を表現し、それを「可愛い」と聞き成しているのである。そもそも「からす」という名前はその鳴き声によるとされる。英語ではクロウ、ドイツ語でクレーエ、フランス語でコルボーなど、みな「カ行」の音で始まっている。日本では一般的にはその鳴き声を「カーカー」と聞いているが、それを子供に楽しくわかるようにと、親が「お母さんからすがね、子供のからすのことを『かわいい、かわいい』って鳴いているんだよ。面白いねえ」という会話があれば楽しいではないか。私ならもう一つ、「子供のからすも『母さん母さん』と鳴いているかもしれないね」くらいのことは言ってみたい。

秋風

2015-07-03 16:42:35 | うたことば歳時記
 和歌の世界では、春は霞とともに立つものとされていた。つまり霞は春の立つ徴と理解されていた。それなら秋の立つ徴は何かというと、山口百恵の歌にも「風立ちぬ 今はもう秋」という歌詞があるように、それは秋風であった。『古今和歌集』の秋の部は、秋風の歌で始まる。  
   ①夏と秋の行き交ふ空の通ひ路(ぢ)はかたへ涼しき風や吹くらむ  (古今集 秋 168)
   ②秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる     (古今集 秋 169)
①には「六月のつごもりの日よめる」という詞書きが添えられていて、夏の最後の日、つまり季節を分ける節分の日に詠んだ歌である。現代人の感覚では徐々に季節が変わるが、古人は杓子定規に節分の翌日から入れ替わるように季節が替わると理解していた。それで夏と秋とが入れ替わる空の路では、秋の方だけに涼風が吹いているだろう、というのである。歌としては理屈っぽいが、それはともかくとして、秋は秋風と共にやって来ると理解されていた。このような風を、うた言葉では「秋の初風」という。
 立秋の日の風と言えば、誰もが思い起こすのが②の歌であろう。目に見えるところは、どこにも秋の徴はない。それはそうであろう。立秋は新暦8月7日か8日のことであり、一年で最も暑い盛りのことである。しかし耳には秋の徴である秋風の吹く音が感じられるというのである。しかし音が聞こえる程の風と言えば、相当の強い風ではないかと思うのが普通であろう。しかしこの歌に詠まれる風とはそよ風なのである。そよ風そのものの音は決して聞こえない。しかしここで「風の音」と言っているのは、実際には風にそよぐ荻などの葉擦れの音のことである。それならば風を音として聞くことができる。

 話は逸れるが、「8月上旬ではとてもではないが秋とは言えない。暦というものが実際とずれてしまっているのでは」、とお感じになるとしたら、残念ながらそれは暦について誤解しているのである。どのようにして暦や季節が決められたかについて正しく理解できれば、8月上旬の立秋は不自然ではない。そのあたりのことは私のブログ中の拙文「旧暦と季節感」にまとめてあるので参考にされたい。

 それでは『古今和歌集』に続く勅撰和歌集の、秋の部の最初の歌を並べてみよう。
   ③にはかにも風の涼しくなりぬるか秋立つ日とはむべも言ひけり     (後撰集 秋 217)
   ④夏衣まだひとへなるうたたねに心して吹け秋の初風            (拾遺集 秋 137)
   ⑤うちつけに袂(たもと)涼しくおぼゆるは衣に秋は来たるなりけり     (後拾遺 秋 235)
   ⑥とことはに吹く夕暮れの風なれど秋立つ日こそ涼しかりけれ       (金葉集 秋 156)
   ⑦山城の鳥羽田(とばた)の面を見渡せばほのかに今朝ぞ秋風は吹く  (詞花集 秋 82)
   ⑧秋来ぬと聞きつるからにわが宿の荻の葉風の吹きかはるらん      (千載集 秋 226)
   ⑨神南備の御室の山の葛かづらうら吹きかへす秋は来にけり       (新古今 秋 285)   ③では、立秋の日から突然に涼しくなるという。そのようなはずはないのであるが、「立秋」と聞くだけでそのように感じてしまうのであろう。④では、まだ一重の夏衣を着ていたので、急に涼しさを感じている。⑤の「うちつけに」は「急に」という意味であるから、③と同じことである。⑥では夕風の涼しさが詠まれている。まあ8月上旬でも、夕風なら涼しく感じることもあろう。しかしこの場合はそれだけではない。四神思想により秋は西から来ると理解されていたから、夕日が西に沈む夕方は、秋を実感させる時間なのである。そういえば『枕草子』の冒頭にも、「秋は夕暮れ」と記されている。⑦は立秋の朝の涼風を詠んでいる。⑧では、立秋と聞くと、荻に吹く風の音、つまり荻の葉擦れの音がそれまでとは変わることだろう、という。⑨では、秋風は葛の葉を裏返して吹くものと理解されている。
 上記の歌の中で、私が注目するのは⑧の「荻の葉風」である。それは秋風と荻とを取り合わせた歌が大変多いからである。以下、そのような歌をいくつか並べてみよう。
   ⑩いとどしく物思ふ宿の荻の葉に秋を告げつる風の侘びしさ   (後撰集 秋 220)       
   ⑪荻の葉のそよぐ音こそ秋風の人に知らるる始めなりけれ     (拾遺集 秋 139)
   ⑫荻の葉に吹き過ぎてゆく秋風のまた誰が里を驚かすらん    (後拾遺 秋 320)
   ⑬荻の葉に人頼めなる風の音をわが身にしめて明しつるかな   (後拾遺 秋 322)
⑩は、ただでさえ侘びしく物思いに沈んでいるのに、荻の葉に秋を告げる風が吹くと、なおさら侘びしくなる、という意味である。ここでは秋風は寂寥を増幅させる風と理解されている。⑪では、風にそよぐ荻の葉の葉擦れの音で、秋風が吹いてきたことがわかる、とされている。⑫では、荻原を渡る風が誰かを驚かすというが、「また」というからには作者自身が荻吹く風の音にまず驚いたのだろう。⑬は詞書きによれば、訪問することを約束していた友が来ない夜に詠んだ歌である。友が来た音かと錯覚させるような風の音を、その身に染み込ませるようにして一夜を明かした、というのである。⑩~⑬はいずれも荻に吹く風の音が詠まれている。荻の葉にはガラスと同じ珪酸塩が含まれるため、他の草葉より葉擦れの音が確かによく聞こえる。
荻の他にも、稲葉を吹く秋風の歌もかなりあり、荻は水田に近い湿地に繁茂するから、水田の辺りは、秋風を真っ先に感じ取る場所であった。あらためて、秋風は草葉をそよがせる音によって知られたのである。

 荻との組み合わせ程ではないが、雁と共に詠まれることもある。
   ⑭秋風に初かりがねぞ聞ゆなる誰(た)が玉章(たまづさ)を懸けて来つらむ(古今集 秋 207)
   ⑮秋風に声を帆にあげて来る舟は天の門(と)渡る雁にぞありける     (古今集 秋 212)
   ⑯秋風に誘はれ渡る雁が音(ね)は雲居はるかに今日ぞ聞こゆる      (後撰集 秋 355)
⑭の「かりがね」は「雁が音」と表記され、本来は雁の鳴き声のことであるが、雁そのものをも表すことがある。「玉章」とは手紙のことであるが、雁は気に掛かる人の消息を伝えてくれるという理解があった。このことについてはいずれ別に述べるつもりである。秋風にのって、初雁の鳴き声が聞こえてくる。いったい誰の消息をもって来たのだろう、という意味である。⑮の「天の門」とは空を海や川が狭くなった水門(みなと)に見立てたもので、そこから帆を上げてやって来る舟に雁を喩え導いている。⑯の「雲居」は空のことで、渡ってくる雁の声が遠くから聞こえてくることを詠んでいる。いずれも雁は秋風に誘われ、秋風に乗ってやって来ると理解しているのである。
 実際、雁はいつ頃渡来してくるのだろうか。飛来する各地の観測記録を調べてみると、10月になると渡って来るようである。しかし旧暦8月の異称に「雁来月」(かりくづき)という言葉があるように、かつては新暦の9月には第一陣がやって来たらしい。温暖化の影響もあり、平安時代よりも遅くなっているのだろうか。仮に新暦9月に雁が来るとしても、立秋よりはかなり遅れている。立秋に吹く風だけが秋風ではないから、それはそれでよい。一言で「秋風」と言っても、いろいろな風があるのである。

恋心に秋風が吹くと、その意味は全く異なるものとなる。
   ⑰頼めこし君はつれなし秋風は今日より吹きぬわが身かなしも     (後撰集 秋 219)
   ⑱秋萩を色どる風の吹きぬれば人の心も疑はれけり          (後撰集 秋 223)
   ⑲さりともと思ひし人は音もせで萩の上葉に風ぞ吹くなる       (後拾遺 秋 321)
   ⑳いつしかと待ちし甲斐なく秋風にそよとばかりも荻の音せぬ     (後拾遺 雑 949)
⑰の「頼めこし」は「期待させた」「あてにさせた」という意味で、その気にさせた恋人が、最近つれなくなったのは、秋風ならぬ飽きる風が吹いたからだ、という。⑱は、秋風が吹いて萩の葉が色変わりしたように、人の心の言の葉も色変わりしたことを嘆いている。⑲の「さりともと」とは「いくら何でも(今日こそは)」という意味で、いくら待っても恋人は来ず、来るのは荻をそよがせる風ばかりである、という。「秋風」とはなっていないが、秋風は「飽き風」に通じることは、当時は共通認識されていた。⑳には「秋を待てと言ひたる女につかはしける」という詞書きが添えられている。つまり、約束した秋が来たのに、「そよ」とさえ萩の葉音もしない、という。そこの「そよ」は現代人にとってはただ単に「そよ風」の「そよ」に過ぎないが、代名詞の「そ」(現代語では「それ・其れ」)に終助詞の「よ」が付いた連語であり、「それだよ」という意味でもある。つまり「そよ」といって訪れることは、人が訪ねて来ることを暗示しているのである。そうであるから、⑲の場合は、「其よ そよ」といっても来るのは人ではなく風ばかりであり、⑳では、人はおろか、荻さえも「そよ」とすら音を立てない、というわけである。秋はただでさえ侘びしい季節であるが、さらに別れの季節ということなのであろう。

原稿も無しに、思いつくままつれづれに書いているので、構成もなにもない下手な文章です。お許し下さい。