うたことば歳時記

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『武士道』 高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2020-12-29 10:42:13 | 私の授業
武士道
原文
 About ten years ago, while spending a few days under the hospitable roof of the distinguished Belgian jurist, the lamented M. de Laveleye, our conversation turned, during one of our rambles, to the subject of religion. "Do you mean to say," asked the venerable professor, "that you have no religious instruction in your schools?" On my replying in the negative he suddenly halted in astonishment, and in a voice which I shall not easily forget, he repeated "No religion! How do you impart moral education?"
 The question stunned me at the time. I could give no ready answer, for the moral precepts I learned in my childhood days, were not given in schools; and not until I began to analyze the different elements that formed my notions of right and wrong, did I find that it was Bushido that breathed them into my nostrils.
 The direct inception of this little book is due to the frequent queries put by my wife as to the reasons why such and such ideas and customs prevail in Japan. In my attempts to give satisfactory replies to M. de Laveleye and to my wife, I found that without understanding Feudalism and Bushido, the moral ideas of present Japan are a sealed volume.
 Taking advantage of enforced idleness on account of long illness, I put down in the order now presented to the public some of the answers given in our household conversation. They consist mainly of what I was taught and told in my youthful days, when Feudalism was still in force.

現代語訳
 およそ十年前のこと、私はベルギーの法学の権威である故ド・ラヴレー氏邸で歓待され、数日滞在したことがあった。ある日のこと、共に散策しつつ宗教の話題になった時、尊敬すべき老教授は、「あなたの説くところによれば、日本の学校では宗教教育はないとでも言われるのか」と問うたのである。私が「ございません」と答えるや否や、氏は愕然として立ち止まり、到底忘れることのできない声で、「何と、宗教がないですと。それならばいったいどの様にして道徳教育を授けるのか」と、繰り返し嘆息した。
 その時、私は呆然としてその質問に答えられず、言葉に詰まってしまった。私が幼少の頃学んだ道徳教訓は、学校で学んだものではなかったからである。そして私の正義・邪悪の観念を形成している色々な要素を分析するに至り、この概念を私(の鼻)に吹き込んだのは、実に「武士道」であることを見出したのであった。
 この小著を叙述するに至った直接の契機は、我が妻が、「日本で遍く行われているあれこれの思想や風習は、如何なる理由によるものか」と、しばしば問うたことであった。そしてド・ラヴレー氏や我が妻に対して、納得させられる答を与えようと試みた。そして私ははたと気付いたのであった。封建制度と武士道というものが何であるかを理解しなかったら、現在の日本の道徳観念は、封印された秘本同然であるということを。
 私は長い間病床にあり、止むをえず無為の日を過ごしているのを幸い、家庭で妻と語り合い、妻に答えたことを整理し、いま読者諸氏に提供する。その内容は主として私の若き日々に、封建制度がなお盛んであった時に教えられ、また語られたところのものである。

解説
 『武士道』は、1898年(明治31)、新渡戸稲造がアメリカで著した『Bushido: The Soul of Japan』の日本語訳です。日本人の道徳の核心が武士の倫理観によっていることを、欧米の宗教・思想と対比しつつ、欧米人に理解できるように英語で解説したもので、彼はその武士の倫理観を「武士道」と表現したわけです。内容は、武士道を義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義などの徳目に分けて解説し、合わせて切腹に見る生死観、女性観、大和魂から、武士道の継承や未来にまで及んでいます。書名は『武士道』ですが、武士道そのものを解説することが目的ではなく、あくまでも武士道に代表される日本人の倫理観を叙述することが目的でした。読んでみると、現代人には受け容れられないこともあるでしょうが、明治時代の著作なのですから、現代の価値観で裁くのは可哀相というものです。
 確かに「武士道」と言う言葉は、現代の倫理観にはそぐわない印象を与えるでしょう。しかし熱烈なキリスト教徒である著者が、日本を含めて世界の思想・哲学・宗教・歴史の事象や名言を自在に繰り出す論証は、「武士道」にたいする偏狭な先入観を取り除き、『武士道』に今もなお普遍的な価値を持たせているのです。ヨーロッパの騎士道と対比させたことも、欧米で受け容れられた理由の一つでしょう。彼の専門は農業経済学ですから、どれも皆専門外のことばかりです。彼は「武士は知識のための知識を軽視する。知識は本来、目的ではなく、知恵を得る手段である」と述べていますが、その幅広い知識と見識は、まさに「知識が知恵を得る手段」であることを証明しています。
 執筆の動機はここに引用したように、26歳の時にドイツで出会った老法学教授との会話や、30歳の時に結婚した米国人の妻メアリー・エルキントン(日本名は万里)との家庭における会話でした。『武士道』を執筆していたのは36~37歳の頃ですから、老教授から示された宿題を、妻と語りながら10年間も答を探して温めていたのでしょう
 『武士道』は、世界各国語にも翻訳され、米国大統領のセオドア・ルーズベルトやジョン・ケネディーも愛読者の一人であったことはよく知られています。日露戦争勃発後、いずれ米国の仲介を予想した日本政府は、大学でルーズベルトと同窓であった金子堅太郎を派遣します。そして金子と駐米公使高平小五郎が大統領の昼食会に招かれた際に、この『武士道』が話題となりました。後日贈呈された大統領はこれを読んで感銘を受け、何十冊も買って家族や友人たちに配ったということです。彼が後に国際連盟事務次長に推挙されたのも、『Bushido: The Soul of Japan』によってその広い見識と高潔な人格が、国際的に高く評価されていたからに他なりません。
 現在の学校教育では、小学校では2018年度(平成30)から、中学校では2019年度(平成31)から道徳という教科として授業が行われていますが、武士道的な道徳教育は行われていません。しかし思いやりやいたわりの心は「仁」に、困難をものともせずにそれを実行することは「義」や「勇」に、それを目に見える形で表現することは「礼」に、嘘やごまかしを退けることは「誠」に通じます。また学齢が高くなれば、歴史や古典文学の授業で、古人の感動的な逸話を学ぶこともあるでしょう。
 彼は巻末に、「武士道は独立した道徳律としては、滅んでしまうかもしれない。しかしその力は地上から滅びはしないであろう。その勇と徳の教訓は、体系としては崩れ去るかもしれない。しかしその光明と栄光は、その廃墟を乗り越えて永遠に生きてゆくであろう。その象徴である桜の花のように、西方の風に吹かれて散り果てても、その余香は馥郁として人生を豊かにし、人類を祝福するであろう。」と述べています。「武士道」という言葉は用いられなくとも、長い時間をかけて発酵熟成された日本人の倫理観は、確実に継承されていくのでしょう。
 新渡戸稲造は旧5000円紙幣の肖像となっていました。そこには太平洋を挟んで日本と米国が向かい合っている地図も描かれています。昭和初期、日本と米国の関係が次第に緊張してゆく中で、日本の進路を憂えつつ、日米の関係改善に尽力しました。彼は若い時に「太平洋の架け橋になりたい」と誓願を立て、自費で米国に留学しましたが、晩年にも太平洋の架け橋たらんとして、国際的に活躍しました。『武士道』こそは、その誓願の精華の一つなのです。
 『武士道』の名場面としては、義・勇・仁・礼・誠・忠義などの徳目について述べている部分から選ぼうかとも思ったのですが、迷った挙げ句に冒頭の序文を選びました。それはどれも甲乙を付けがたかったこと、また短い著作であるので、この際全文を読むことをお勧めしたく、その動機付けになればと考えたからです。

昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『武士道』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。


『十六夜日記』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2020-12-28 16:10:58 | 私の授業
十六夜日記


原文
 (十月)廿八日、伊豆の国府(こう)を出でゝ、箱根路にかゝる。いまだ夜深かりければ、
  玉くしげ箱根の山を急げどもなほ明けがたき横雲の空
足柄の山は道遠しとて、箱根路にかゝるなりけり。
 ゆかしさよそなたの雲をそばだてゝよそになしつる足柄  の山
 いと険(さか)しき山を下る。人の足もとゞまりがたし。湯坂といふなる。辛(かろ)うじて越え果てたれば、麓(ふもと)に早川といふ河あり。まことに速し。木の多く流るゝを、「いかに」と問へば、「海人(あま)の藻塩木(もしおぎ)を、浦へ出さむとて流す也」と言ふ。
  東路(あずまじ)の湯坂を越えて見渡せば塩木流るゝ早川の水
湯坂より浦に出でゝ、日暮かゝるに、猶(なお)泊るべき所遠し。伊豆の大島まで見渡さるゝ海面(うみづら)を、「いづことか言ふ」と問へば、知りたる人もなし。海人(あま)の家のみぞある。
  海人の住むその里の名も白浪のよする渚(なぎさ)に宿や借らま し
鞠子(まりこ)川といふ河を、いと暗くてたどり渡る。今宵は酒匂(さかわ)といふ所にとゞまる。「あすは鎌倉へ入(いる)べし」と言ふ也。

現代語訳
 (弘安二年十月)二八日、伊豆の国府を出発して、箱根峠越えの山路にさし掛かります。まだ夜が深いので、「箱根の山路を急いだが、まだ(箱の蓋(ふた)が開(あ)かないように)夜が明けきらず、空には横雲がたなびいている」と詠みました。(「玉くしげ」は櫛を入れるのこと箱で、「箱」に掛かる枕詞、「明け」は「開け」に通じ、「箱」の縁語)。足柄越えの山路は(箱根越えより)遠回りなので、(険しくても近道の)箱根越えの路に掛るわけです。「さても心ひかれる事だ(見たいものだ)。そちらの方角の雲を聳(そび)え立たせて(路を隠し)、私に無縁の他所(よそ)の山にしてしまった足柄の山よ」と詠みました。
 (箱根峠を越え)大層険しい山路を下ります。(急勾配で)立ち止まることすらできません。(箱根湯本の)湯坂というのだそうです。やっとのことで坂を降りきったところ、麓には早川という川があります。(その名の如く)実に流れの速い川です。多くの木材が流れているので、なぜかと問うたところ、漁民が塩を採るための(塩水を煮詰める燃料の)藻塩木(もしおぎ)を、海辺まで出すために流すということです。そこで「東国に至る東路の、湯坂を越えて見渡したところ、藻塩木が流れる下る、その名も早川という急流である」と詠みました。
 湯坂から海辺まで来ると、日が暮れかけているのに、泊まる予定の宿はまだ遠いのです。伊豆の大島まで見通せる海辺で、何という所かと(従者に)尋ねても、誰も知りません。漁民の家ばかりがあるのです。そこで「もしかしたら漁民の住むその名も知らない里の、白波ばかりが寄せくる海辺に、宿を借りることになるのだろうか」と詠みました。
 鞠子(まりこ)川(酒匂川)という川を、とても暗いので探るようにして渡ります。今夜は酒匂(さかわ)という所に宿ります。「明日はいよいよ鎌倉に着くことになるだろう」とのことです。

解説
 『十六夜(いざよい)日記(につき)』は、藤原為家(ためいえ)(定家の子)の側室である阿仏尼(あぶつに)(1222?~1283)が、弘安二年(1279)十月十六日に京を発ち、同月二九日に鎌倉に着くまでの十四日間の道中記と、鎌倉に着いてからの生活や、訴訟の成功を祈る長歌から成っています。当時の世の慣(なら)いで、女性である阿仏尼の本名はわかりません。阿仏尼は歌道の名門の藤原為家の妻というだけでなく、彼女自身も優れた歌人で、歌枕を見るごとに歌が詠まれ、また旅情が簡潔に描写されています。
 「十六夜(いざよい)」とは、満月の翌日の月のことです。あくまで平均値ですが、月の出は日ごとに五十分前後遅くなります(1日24時間÷1朔望月29.5日)。「いざよふ」とは「進むことをためらう」という意味で、月が出るのをためらっていると理解して、十六日の月を「いざよひの月」と呼ぶわけです。書名は十六日に京を出立したことに因み、後世に名付けられました。
 阿仏尼が旅に出た理由は、相続問題で鎌倉幕府に訴えるためでした。夫の為家は、正妻の子の為氏に播磨国細川荘を譲ったのですが、「不孝」を理由に相続を取り消し、阿仏尼との子である為相(ためすけ)に、藤原定家の日記である『明月記』などの文書と共に譲る譲状を書きました。このように親が一旦認めた相続を取消して他に譲ることは「悔返(くいかえし)」と呼ばれ、武家法である御成敗式目では、親の正当な権利として認められていました。しかし公家法では認められていません。そこで為家没後、為氏は公家法を根拠に引き渡しを拒みます。そこで阿仏尼は鎌倉幕府に直訴するべく、為家没の四年後、従者を伴って鎌倉に下ったのです。
 判決は阿仏尼の没後も二転三転し、最終的には為相が勝訴するのですが、阿仏尼が鎌倉に下ってから三四年後の正和(しようわ)二年(1313)の事で、時に為相は五一歳でした。しかしこのような経緯から、為相の娘が鎌倉の親王将軍である久明親王の妃となったり、為相自身も鎌倉歌壇の指導者となり、鎌倉で亡くなっています。その後為相の家は冷泉家を称し、現在もなお京都に現存唯一の公家住宅や多くの古典籍を伝えています。『明月記』が現在まで伝えられたのは、阿仏尼の執念があったからかもしれません。
 為相の墓と伝えられる宝篋印塔(ほうきよういんとう)は、今も鎌倉の浄光明寺(じようこうみようじ)にあります。そして横須賀線の線路を挟んで向かい合う英勝寺のそばには、相互に直接には視認できませんが、阿仏尼の供養塔があり、台座には「阿仏」と刻まれています。
 ここに載せたのは、箱根越えの場面です。前日に宿泊したのは、現在の三島市にあった伊豆の国府でした。ここからは東海道最大の難所である箱根峠か、金太郎で知られた足柄峠を越えなければなりません。足柄越えは箱根越えより傾斜がやや緩いのですが、旅程が一日長くなります。箱根越えならば山中に宿駅はなく、三島から次の酒匂まで、三六㎞を一気に一日で踏破しなければなりません。坂道ですから時速三㎞と仮定して、半日でも足りない行程です。新暦なら十二月三日のことですから、高齢の女性では不可能です。現在の箱根峠の標高は八四六mですから、三島との標高差は約八百mもあります。箱根峠で夜が明けたというのですが、その時期の日の出は六時半過ぎですから、三島からの距離を考えれば、午前三時頃には宿を出たと考えられます。
 峠を越えても難所は続きます。「人の足も留どまり難」い程の急坂を下っています。上り坂では疲労はしても、まだ立ち止まって休息できるだけよいのですが、膝が笑うような下り坂は、疲労どころか、危険ですらあるでしょう。
 昭和九年(1934)に箱根山を貫通する丹那トンネルができるまでは、東海道本線は足柄経由の御殿場線を通っていました。それも「お山の中ゆく汽車ぽっぽ・・・・機関車と機関車が前引き後押し」と童謡に歌われているように、機関車二両が前後を挟んで越えていました。江戸時代の俗謡にも「箱根八里」と唄われ、箱根越えは昔も今も交通の難所だったのです。
 やっとのことで峠を越えたのに、酒匂(さかわ)宿の手前の鞠子(まりこ)川(酒匂川)を渡らないうちに日が暮れてしまいました。雨の少ない時期ですから水量が少なく、歩いて渡れたのでしょうが、真冬の夜の川を素足で歩いて渡るのですから、どれ程か冷たかったことでしょう。『十六夜日記』は紀行文ですから、地理的な背景がわかると、より深く理解することができます。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『十六夜日記』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。





『世間胸算用』 高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2020-12-25 08:05:24 | 私の授業
コロナに翻弄され続ける令和2年も間もなく大晦日を迎えます。そこで江戸時代の大晦日の悲喜こもごもの話を集めた『世間胸算用』を読んでみました。

世間胸算用
原文
 門の戸の鳴るたびに女房びくびくして、「まだ帰られませぬ。さいさい足をひかせまして、かなしう御座る」と、いづれにも同じことわり言ひて帰しける。程なく夜半も過ぎ、明(あけ)ぼのになれば、掛乞(かけご)ひどもここに集まり、「亭主はまだかまだか」と、おそろしき声を立つる所へ、丁稚(でつち)、大息つぎて帰り、「旦那殿は助松(すけまつ)の中程にて、大男が四五人して、松の中へ引き込み、『命が惜しくば』といふ声を、聞き捨てにして逃げて帰りました」と言ふ。内義驚き、「おのれ、主の殺さるるに、男と生まれて浅間(あさま)しや」と泣き出せば、掛乞ひ、一人ひとり出て行く。
 夜はしらりと明ける。この女房、人帰りし跡(あと)にて、さのみ嘆く気色(けしき)なし。時に丁稚、懐(ふところ)より袋投げ出し、「在郷もつまりまして、やうやうと銀三十五匁、銭六百、取ってまゐった」と言ふ。まことに手だてする家に使はれければ、内の者までも衒(かたり)同然になりける。
 亭主は納戸のすみに隠れ居て、因果物語の書物、繰り返し繰り返し読み続けて、美濃の国不破の宿(しゆく)にて、貧(ひん)なる浪人の、年を取りかね、妻子刺し殺したる所、ことに哀れに悲しく、「いづれ死にもしさうなるもの」と、我が身につまされ、人知れず泣きけるが、「掛乞ひはみな了簡(りようけん)して去(い)にました」といふ声に、少し心定まりて、ふるひふるひ立ち出で、「さてさて今日一日に、年を寄らせし」と、悔(くや)みて帰らぬ事を嘆き、余所(よそ)には雑煮を祝ふ時分に、米買ひ焼木(たきぎ)ととのへ、元日も常の食(めし)炊(た)きて、やうやう二日の朝、雑煮して、仏にも神へも進じ、「この家の嘉例(かれい)にて、もはや十年ばかりも、元日を二日に祝ひます。神の折敷(おしき)が古くとも、堪忍(かんにん)をなされ」とて、夕飯(ゆうめし)なしにすましける。

現代語訳
 門の戸を開ける音がするたびに、女房はびくびくして、「主人はまだ帰ってまいりません。再三、御足労をかけまして、すまないことでございます」と、(掛け買いの代金を催促に来た)掛取り(借金取り)達に、同じ様に言い訳をして帰らせていた。程なく夜中も過ぎて明け方になると、掛取り達がこの家に集まり、「亭主はまだ帰られぬか」とわめきたてていた。そこへ、丁稚が息を切らして帰って来て、「旦那様は助松(大阪府泉大津市の宿場)の中程で、大男四五人に松の中に引きずり込まれ、私は、命が惜しくばと言う声を聞き捨てにして、逃げ帰って釆ました」と言う。女房は驚いて、「おのれ、主人が殺されるというのに、男と生れながら、情けないことよ」と泣き出したので、掛取りは一人、また一人と出て行った。
 しらじらと夜が明けたが、この女房、人が帰った後も、これと言って嘆く様子もない。時に丁稚が懐中から袋を投げ出し、「田舎も不景気になりまして、やっと銀三十五匁、銭六百を取り立てて参りました」と言う。まことに、(大晦日に)このような(ごまかしの)小細工をする家で使われては、奉公人まで詐欺師同然になってしまったものである。
 亭主は納戸の奥に隠れていて、不運な話の物語を読み耽(ふけ)り、美濃国の不破の宿で、貧乏な浪人が年を越せずに妻子を刺し殺す場面が、ことに哀れで悲しく、「そのままでもいずれ死にそうなところを、(わざわざ殺さなくても)」と、我が身につまされ、人知れず泣いていたが、「借金取りはみな諦めて帰りました」という声を聞き、少しはほっとして、震えながら出て来た。そして、「さてさて、今日一日で年をとってしまった」と、後悔しても仕方のないこと嘆きながら、よその家では雑煮を祝う元日に、米を買ったり薪を調えたり、いつものように飯を炊き、ようやく二日の朝、雑煮を祝って神仏にも供え、「これがこの家の吉例で、もう十年ばかりも前から、元日を二日に祝います。神様に供える折数(杉板などで作る四角い盆)が古びていても、勘弁して下され」と、夕飯なしですませた。

解説
 『世間胸算用』は、井原西鶴が晩年に著した短編小説集で、副題の「大晦日(おおつごもり)は一日千金」が示すように、大晦日に繰り広げられる、庶民の悲喜こもごもの20の話が収められています。江戸時代には現在と異なって、代金を月末や季節の末などにまとめて請求・支払いをする掛売・掛買が普通に行われていました。ですから大晦日(おおみそか)は商人や庶民にとっては一年の収支総決算の日であり、全ての精算を済ませなければ年を越すことができませんでした。そういうわけで、何としてでも回収しようとする貸し手と、何とかして支払いを逃れようとする借り手の攻防が、時にユーモアをまじえながら展開されることになります。ですから「胸算用」とは、貸し手と借り手が心中で思い巡らすやりくり算段を意味しているわけです。
 その算段は様々で、家財道具を質に入れるのはまだ良心的。居留守を使って借金取りから逃れたり、遊郭に逃げ込んだり、鶏の首を切り落として借金取りを怖がらせたり、八本ある蛸の足を1~2本切り落として売り、発覚して信用を失ったり、追い剥ぎをした浪人が、あまりの大金に度肝を抜かれ、小さい包みだけを奪って逃げたら、中身は数の子だったと言う具合です。傑作なのは、親しい亭主同士が互いの家に乗り込み、借金取りが来ると偽の借金取りに成りすまし、「亭主のはらわたを抉(えぐ)り出してでも片をつける」とすごんで女房と大喧嘩(おおげんか)をすると、本物の借金取りが恐れをなしてを逃げ出してしまうという話です。
 ここに引用したのは第巻三の第四話で、「神さへ御目違ひ」の一部です。神無月には、全国の神々が出雲大社に集まって相談し、年神(歳徳神)として歳暮に家々に派遣されていきます。ある年神が、堺の町の店構えのよい商家だと思って降臨したところ、見かけによらず、策を弄して借金取りを追い払う貧しい商家でした。それで年神への供物も貧弱なため、とうとう年神は四日目には逃げ出してしまいました。そうならないためにも、先祖以来の家業に精を出し、年神に不自由をさせないように稼がなければなりませぬ、という粗筋です。引用した部分は、借金取りが来たので亭主が納戸に隠れ、女房と丁稚が、店の主が強盗に襲われたと一芝居を打って、まんまと借金取りを帰らせたという話です。
 雑煮で正月を祝う風習は、今も変わらずに行われています。一般的に雑煮の起原は、室町時代に「内臓をいたわり健康を保つ」ための料理として「保臓(ほうぞう)」と呼ばれ、それが各種の食材を煮ることから同音の「烹雑(ほうぞう)」と表記され、さらに同じ意味で「雑煮」と表記されるようになったと説明されています。NHKの人気番組「チコちゃんに叱られる」でも雑煮の雑は内臓のことと説明されていましたが、根拠もなくよくまあ出鱈目を言うものだと呆れてしまいました。しかしこれは明らかに出鱈目で、16世紀の公家の日記には、正月を「雑煮」で祝うという記述がいくつもあり、雑煮が出現する初めから「雑煮」と呼ばれています。そして江戸時代には広く庶民にも行われていました。
 丁稚がやっとのことで「銀三十五匁、銭六百」を取り立ててきたということですが、江戸時代には小判一枚1両が銀50~60匁、銭4000文ですから、合計しても1両にはなりません。堺の商家としては貧しく、年神も逃げ出したくなったのでしょう。なお旧暦では月末が三十一日ということはなく、大晦日は十二月三十日です。そもそも「大晦日」は「大三十日(みそか)」なのですから。
 井原西鶴の代表作としては、『好色一代男』や『日本永代蔵』がよく知られています。特に『日本永代蔵』に描かれた三井越後屋の新商法については、高校の日本史の授業で必ず触れられます。しかしあまりにも有名な場面であるため、敢えて『世間胸算用』から笑える面白い場面を選びました。

テキスト
○『世間胸算用』角川文庫



『吾妻鑑』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面 

2020-12-18 17:39:49 | 私の授業
吾妻鏡
○原文 
 文治二年四月大・・・・八日乙卯。二品(にほん)并(なら)びに御台所(みだいどころ)、鶴丘宮に御参(ぎよさん)す。次(ついで)を以て、静女(しずかめ)を廻廊に召し出さる。これ、舞曲を施させしむべきに依ってなり。此の事、去ぬる比(ころ)仰せらるゝの処(ところ)、病痾(びようあ)の由(よし)を申して参らず。身の不肖に於ては、左右(そう)に能はずと雖も、予州の妾として、忽(たちま)ち掲焉(けちえん)の砌(みぎり)に出づるの条、頗(すこぶ)る耻辱(ちじよく)の由、日来(ひごろ)内々これを渋り申すと雖も、彼(か)は既に天下の名仁(めいじん)なり。適(たまたま)参向して、帰洛(きらく)近きに在り。其の芸を見ざるは無念の由、御台所頻(しきり)に以て勧め申さしめ給ふの間、之を召さる。偏(ひとえ)に大菩薩の冥感(みようかん)に備ふべきの旨、仰せらると云々。
 近日、只別緒(べつしよ)の愁(うれえ)有りて、更に舞曲の業(なりわい)無き由、座に臨みて猶(なお)固辞す。然而(しかれども)、貴命再三に及ぶの間、憖(なまじい)に白雪の袖を廻らし、黄竹(こうちく)の歌を発す。左衛門尉(さえもんのじよう)祐経(すけつね)、鼓(つづみう)つ。是(これ)、数代勇士の家に生れ、楯戟(じゆんげき)の塵を継ぐと雖も、一臈(いちろう)上日(じようじつ)の職(しき)を歴(へ)て、自ら歌吹(かすい)の曲に携はるが故に、この役に従ふか。畠山二郎重忠(しげただ)銅拍子をなす。
 静、先づ歌を吟じ出して云はく、「吉野山峯の白雪ふみ分て入にし人の跡ぞこひしき」、次に別物(わかれもの)の曲を歌ふの後、又和歌を吟じて云はく、「しづやしづしづのをだまきくりかへし昔を今になすよしもがな」。誠に是社壇の壮観、梁塵(りようじん)ほとほと動きつべし。上下皆興感(きようかん)を催す。二品仰せて云はく。八幡宮宝前に於て芸を施すの時、尤(もつと)も関東の万歳を祝ふべきの処、聞(きこ)し食(め)す所を憚(はばか)らず、反逆の義経を慕ひ別れの曲を歌ふこと奇恠(きつかい)なりと云々。御台所報(こた)へ申されて云はく、君流人(るにん)として豆州(ずしゆう)に坐(おわ)し給ふの比(ころ)、吾において芳契(ほうけい)有りと雖も、北条殿時宜(じぎ)を怖れて、潜(ひそか)に引籠(ひきこ)めらる。而(しか)るに猶(なお)君に和順し、暗夜に迷ひ、深雨(しんう)を凌(しの)ぎ、君が所に到る。亦、石橋の戦場に出で給ふの時、独(ひと)り伊豆山に残り留まり、君の存亡を知らず、日夜魂を消す。其の愁(うれえ)を論ずれば、今の静が心の如し。予州多年の好(よしみ)を忘れ恋慕(れんぼ)せざれば、貞女の姿にあらず。外に形(あらわ)るゝの風情に寄せ、中に動くの露胆(ろたん)を謝す。尤も幽玄と謂ひつべし。抂(ま)げて賞翫(しようがん)し給ふべしと云々。時に御憤(おいかり)を休むと云々。小時(しばらく)して御衣夘華重(うのはながさね)を簾外(れんがい)に押し出し、これを纒頭(てんとう)せさると云々。



現代語訳
 文治二年(1186)四月八日、源頼朝様と奥方様(北条政子)が、鶴岡八幡宮に参詣された。そのついでに、静を廻廊に召し出された。これは舞を披露させるためである。このことについて、以前にお命じになられた時には、静は病気を理由に参上しなかった。捕らわれの身では致し方ないが、伊予守(いよのかみ)源義経の妾として目立つ場に出るのは大層恥ずかしいことであるとして、日頃から内々に渋っていたが、「あの者はすでに(舞の名手として)世に知られております。それがたまたま鎌倉に来ていて、京へ帰るのが近いというのに、その芸を見ないのは甚だ残念でございます」と、奥方様が(頼朝に)頻りに勧められたので、これを召し出したのである。「必ず八幡大菩薩の御心にかなうようせよ」と命じられたとのことである。
 静は、「この頃は別れ別れになった悲しさに、とても舞うことなどできませぬ」と、その場に臨んでもなお固く拒んでいたが、(頼朝様が)再三お命じになられたので、止むなく白雪のような袖をひるがえして、「黄竹(こうちく)」の歌(仙女である西王母の曲)を歌いだした。工藤左衛門尉(さえもんのじよう)祐経(すけつね)が鼓を打つ。彼は数代も続く武勇の家に生まれ、武芸の技を受け継ぎながらも、六位の蔵人となり、(京へ上番した時に)自分から音曲を習っていたので、この役をつとめたのであろうか。畠山二郎重忠が銅拍子を打つ。
 静がまず歌い出して言うには、「吉野山の深く積もった雪を踏んで山へ分け入った、あの人のことが恋しくてならない」と。次に別な歌を歌った後、また和歌を吟じて言うには、「倭文(しず)の布を織る糸を巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、あなたと共に過ごした昔を、再び今に繰り返す手立てはないのであろうか」と。それはもう神前の壮観であった。神殿の梁に積もった塵さえも、感動の余りに動きだすかと思われる程で、(その場にいた人は)上下の別なく皆感じ入った。(ところが)頼朝様が言われるには、「(源氏の守護神である)八幡宮の神前で舞を披露するなら、関東(幕府)の長久安泰を祝うのが道理であるのに、聞いているのを憚らず、反逆した義経を恋い慕う別れの歌を歌うなど、怪(け)しからぬ」と。すると奥方様がそれに応えて言われるには、「君(頼朝)が流人として伊豆にいらっしゃった頃、私と密かに契っておりましたのに、北条殿(父北条時政)が平家への聞こえを恐れ、私を密かに閉じ込めてしまわれました。しかしそれでも君を恋い慕って抜けだし、闇の中を道に迷い、激しい雨に濡れながらも、君のおいでになる所に逃げ込んだものでございます。また石橋山の合戦に出陣なさった時は、一人で伊豆山の走湯神社に残り、君の生死もわからず、毎日魂も消えんばかりでございました。その時の愁いの胸の内は今の静の心と同じでございます。予州義経の長年の御寵愛を忘れて恋い慕わないようでは、貞女の姿とは言えませぬ。外に現れた舞の風情によせて、内に秘めた心を表すのが、これこそ趣深い幽玄の芸と言うべきではございませぬか。(お腹立ちも御もっともではございますが)、ここはまげてお褒め下さいませ」と。それで頼朝様もお怒りを鎮められということである。そしてしばらくしてから、卯の花重ねの御衣を御簾(みす)の外に押し出し、褒美としたということである。

 
解説
 『吾妻鑑』は、鎌倉幕府末期の正安二年(1300年)頃、鎌倉幕府が編纂した幕府の歴史書です。収録されているのは治承四年(1180)の頼朝の旗揚げから、元寇の少し前の文永三年(1266)まで、執権ならば北条時宗の代、第六代将軍の宗尊(むねたか)親王の時までですから、鎌倉時代を全て含んでいるわけではありません。また執権北条氏を正当化する立場から編纂されていたり、編纂の材料となったものには、政所や問注所の文書のほか、御家人から提出された文書や伝承、京の公家の日記、裁判の偽文書など玉石混淆であり、十分な史料批判を経なければ、歴史叙述の材料にはならないそうです。しかしこれだけ鎌倉幕府関係の史料がまとまっているものは他になく、鎌倉時代史の最も基本となる文献史料として極めて重要です。ここでは静御前の舞の場面を取り上げますが、史料としての学術的な正確さはこの際さておいて、そのまま読んでみましょう。
 壇ノ浦で平氏を滅ぼした後、源義経は兄頼朝に無断で朝廷から位階を受けたことなどにより頼朝の怒りをかいました。一度は頼朝追討の院宣を発した後白河法皇は、形勢不利と見るや、掌を返すように義経追討の院宣を発します。また頼朝は義経追捕のために守護・地頭を設置し、窮地に陥った義経は少数の郎等と愛妾の静を伴って雪深い吉野山に逃れようとしました。しかし女人禁制のため、静は京に帰されることになったのですが、途中従者に荷を奪われ、山中をさ迷っているところを捕らえられ、文治二年(1186)3月1日、その母と共に鎌倉に送り届けられました。
 頼朝は静を尋問させ、義経の行方を追求しますが、知るよしもありません。しかし静は女性ですから、いつまでも抑留するわけにもゆかず、京に帰らせることになったのでしょう。それを知った北条政子が静の舞を見たいと思い、八幡宮に舞を奉納するという口実で、舞わせようとしたわけです。
 しかし静はそれを頑なに拒否します。愛する人を捕らえて殺そうとする仇の前で踊るものかという、「女の意地」なのでしょう。しかし断り切れないとなった時、若葉の美しい四月八日のこと、静は意を決して、義経を慕う歌を歌いつつ優雅に舞いました。よりによって源氏の守護神の神前ですから、頼朝の面目は丸潰れです。頼朝の逆鱗に触れることはわかっていますから、命懸けの抵抗でした。
 案の定、頼朝は激怒しますが、その場を救ったのは何と北条政子でした。親の反対を押し切って流人である頼朝のところに駆け込み、また石橋山の戦いで頼朝が敗れて消息不明となった時も、頼朝の身の上を案じていたことを引き合いに出し、命懸けで愛する人を慕う一途な女心を説いたのです。これにはさすがの頼朝も戈を収めざるを得ませんでした。現在の鶴岡八幡宮には、舞殿という建物がありますが、静が舞ったのは社殿の廻廊です。その後社殿は改築されているでしょうから、具体的な現在の場所まではわかりません。
 静の歌った一つ目の歌は、『古今和歌集』にある壬生忠岑(みぶのただみね)の「み吉野の山の白雪ふみ分て入にし人の訪れもせぬ」を本歌としています。また二つ目の歌は、『伊勢物語』三十二段にある「いにしへのしづのをだまきくりかへし昔を今になすよしもがな」を本歌としています。『古今和歌集』や『伊勢物語』は、都の貴族階級なら知っていて当然の基礎的教養でしたから、静も都の白拍子という立場上、それらの歌を諳(そらん)じていました。「しづやしづ」には、義経が静を繰り返しその様に呼んでくれたという意味が隠れています。
 『吾妻鏡』には、その後の五月十四日、鼓を打った工藤祐経ら数人の御家人達が、静の宿所に押しかけて宴会を催し、静に「艶言(つやごと)を通は」せたことが記されています。酒の勢いにまかせて言い寄ったのでしょう。しかし静は「頗(すこぶ)る落涙」して抵抗しました。しかし五月二十七日、頼朝の娘の大姫(「大姫」とは長女のこと。名前は不明)の依頼には、喜んで応えて舞ったことも記されています。その大姫とは頼朝の従弟である義仲の子で、事実上人質として鎌倉に留め置かれていた義高の許婚(いいなずけ)になっていました。しかし寿永三年(1184)正月に義仲が頼朝の命により討たれたため、同年四月、頼朝が義高を討とうとしていることを察した大姫は、密かに義高を逃亡させます。しかし途中で露見して、義高は討たれてしまいました。この時大姫はわずか7歳(満5~6歳)でしたが、父に許婚を討たれた悲しみのあまり心の病となり、後に20歳で亡くなります。大姫の悲しみは、愛する義経が頼朝に討たれるかもしれない悲しみに沈む静には、痛い程わかるものだったからでしょう。
 閏七月二十九日、静は男子を出産します。これは義経の息子ですから、頼朝にしてみれば生かしておくわけにはいきません。そこで頼朝の命により、赤子は抱いて泣き叫ぶ静から無理矢理取り上げられ、鎌倉の由比ヶ浜の海に棄てられたのでした。その時の様子は『吾妻鏡』に、「静敢てこれ(赤子)を出さず。衣に纏(まと)ひ抱き臥し、叫喚すること数剋に及ぶ」と記されています。悲しみに沈む静は、9月16日、母と共に京に向けて鎌倉を去ります。その時、政子と9歳の大姫は「多くの重宝」を賜わったとも記されています。越えられない立場はありながら、女性の悲しみを共有していたのでしょう。
 『吾妻鑑』は、鎌倉幕府が編纂した幕府の歴史書ですが、この様なことまで記述されていることには驚かされます。事実を隠したり枉げる必要性のないことがらですから、この場合はほぼ事実のままと理解してもよいと思います。



新型コロナウィルス流行と奈良の大仏

2020-12-08 19:45:07 | 歴史
 新型コロナウィルスの猛威は収束の気配はありません。私が非常勤講師をしているM高校では、12月というのに窓を開け放して授業をしています。私は寒さにめっぽう強く、一冬ストーブ無しでも堪えられますが、今時の若者にはとても辛そうです。

 先日日本史の授業で国分寺や東大寺大仏建立の話をしました。40数年間も日本史の授業をしましたが、今年程このことが実感をもって迫ってきたことはありません。国分寺の建立の直接契機は、740年の藤原広嗣の乱ですが、それ以前に735年から737年にかけて、新羅から伝染してきた天然痘の流行が背景となっていました。737年には聖武天皇の皇后である藤原光明子の4人の兄弟が、相次いで病死していますから、聖武天皇にとっては余所事ではありませんでした。為政者が徳政を行えば、天がそれを嘉して瑞祥を出現させ、悪政が行われれば、その反対に怪異や不吉なことが起きると本気に信じられていた時の話ですから、聖武天皇は責任を感じていたはずです。しかし人の力ではどうにもなりませんので、あとは仏の力に頼るしかありません。そのような切羽詰まった思いで、国分寺の建立や大仏の造立が国家的大事業として行われたわけです。 

 奈良朝の天然痘流行の悲惨さを具体的に示す史料はありませんが、方丈記には1181~1182年の養和の大飢饉の惨状が細かに記されています。何しろ鴨長明が自分で見たことを記録しているのですから、多少の誇張はあるでしょうが、事実なのです。その記述を現代語に直してみました。 

 「養和のころ、二年間ほど飢饉が続いたことがあった。干害・大嵐・洪水などの悪天候が続き、穀物がことごとく実らなかった。・・・・京では地方の産物を頼りにしているのに、それも途絶えてしまった。・・・・物乞いが道ばたにたむろし、憂え悲しむ声は耳にあふれていた。前の年はこのようにして暮れた。そして翌年こそはと期待したのだが、疫病が流行し、事態はいっそう混乱を極めた。人々が飢え死にする有様は、まるで水が干上がる中の魚のようである。・・・・衰弱した者たちは、歩いているかと思うまに、道端に倒れ伏しているという有様である。土塀のわきや、道端に飢えて死んだ者は数知れない。遺体を埋葬することもできぬまま、鼻をつく臭気はあたりに満ち、腐敗してその姿を変えていく様子は見るに耐えない。ましてや鴨の河原などには、打ち捨てられた遺体で馬車の行き交う道もないほどだ。・・・・仁和寺の大蔵卿暁法印という人が、人々が数知れず死んでゆくのを悲しみ、死体を見る度に僧侶たちを大勢使って、成仏できるようにとその額に阿の字を書いて仏縁を結ばせた。四月と五月の二カ月の間、(京の都の)死者を数えさせると、道端にあった死体は総計四万二千三百あまりという。ましてやその前後に死んだ者も多く、鴨川の河原や、周辺地域を加えると際限がないはずである。いわんや全国七道を合わせたら限りがないことである。」

  コロナは現代の医療の進歩で何とか爆発的流行は抑えられていますが、もし昔であったら、養和の大飢饉のような惨状となっていたかもしれません。今まで深い感慨もなしに奈良の大仏を見ていましたが、これからは見方が変わることでしょう。

 実際、仏教界では宗派を超越して、コロナ収束のための大仏を造立しようという動きが始まっているそうです。国がそれを援助することはできない仕組みになっていますが、有志がすることなら、それもありかなとは思います。