うたことば歳時記

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アクティブ・ラーニングの授業と一斉講義式の授業

2016-10-30 16:07:12 | 私の授業
最近、職員室でアクティブ・ラーニングという言葉をよく聞くようになりました。聞くところによれば、2012年8月の中教審(文部科学省中央教育審議会)の答申で提唱されたもので、「受動的な受講」、つまり受け身ではなく、「能動的な学修」、つまり主体的に授業を受けられるようにしよう、というのです。

 また、従来の授業は一斉講義式であり、知識の伝達・注入を中心としたものである。それに対してアクティブ・ラーニングの授業は、教員と学生が意思疎通を図りつつ、一緒になって切磋琢磨し、相互に刺激を与えながら知的に成長する場を創り、学生が主体的に問題を発見し解を見いだしていくのだ、ということです。

 このような試みは、はじめは大学から始まりました。そして最近は小学校から高等学校にまで波及し、一斉講義式は悪い授業で、アクティブラーニングの授業こそが本当のよい授業であると言わんばかりの風潮が満ち満ちています。試しに、インターネットで「アクティブ・ラーニング」と入力してみて下さい。「一斉講義式授業からの脱却」という表現が氾濫しています。「古いタイプ」の授業をしてきた私としては、まだ素直に受け容れられません。そんなに悪い授業だったのでしょうか。一斉講義式が遅れた授業法という先生に聞きたいのです。それはあなたの授業のやり方が、生徒の反応や疑問を無視し、ただ機械のようにしゃべる授業をしていたからではありませんか、と。?

 最近の初任者研修では、アクティブラーニングの一つの方法として、ジグソー法なる授業方法で研究授業をやっています。私の住む埼玉県ではそれが義務づけられているそうです。

 ジグソー法による授業を何回か見学しましたが、およそ次のようなものです。まず生徒たちを三人一組のグループに分けて坐らせます。そして先生がある質問や課題を設定し、生徒はそれについて知っていることを、予めわかる範囲で書いておきます。そして先生は、その課題を解決するための材料やヒントとなるプリント資料を予め3分割して用意しておいて、それを各班に1種類だけ配ります。資料Aだけをもらった班と、資料Bだけの班と、資料Cだけの班と、3種類の班が出来るわけです。

 各班ではその資料を互いに読みあったり話し合って、班内の理解を深めます。これをエキスパート活動と称します。つまり与えられた資料の内容については、詳しい知識を身に付け、「専門家」(エキスパート)となるのです。しかし他の資料は見ていませんから、それについては何も理解していません。

 次に班を解体し、異なる資料を読んだ人が一人ずついる新しい班を作ります。つまりここで各班にはA・B・Cの三つの資料の「エキスパート」が揃うことになります。そこで各人が自分の「専門」とした内容を自分の言葉で説明します。その班ではその資料を読んできたのは一人だけなので、何とか他の二人に理解してもらうため、色々考え工夫をするのですが、その過程で自分の理解を再確認したり新たな疑問を持ったりすることでしょう。さらに同じことを他の二人も行い、ようやく全体像が出来てきます。そして互いに話し合って理解を深め、その班なりの答えを作ります。

 それから班ごとにクラス全体の前で発表し、他の班の答えと自分たちの答えを比較検討し、さらに理解を深めることが出来ます。そして最後には、班を解体して一人となり、最初の課題に対する答えを各人でまとめるのです。答えは幾通りも出て来るでしょう。要するに正解を出す必要はないのです。

 一人一人が授業に参加し、各自が自分で考えて自分の言葉で説明し、他の人の説明を聞き、総合的にまとめます。考える力、説明する力、聞く力、総合する力が知らず知らずのうちに養われ、良いことずくめのように見えます。実際、大いに良い授業法であるとは思います。

 しかしこのような新しいスタイルの授業を見て、私は唸ってしまいました。色々問題点を感じたからです。

 まず第一に、準備に時間がかかりすぎるということです。たった1時間の研究授業のために、何日も前から教材作りや指導案作りに時間を費やしています。それを横で見ていると、あくまでも研究授業のためだけにやっているのであって、日常的にそんなことをやらなければならないのなら、もう物理的に生活が破綻してしまいます。教材研究の他に、部活動の指導や校務分掌の指導があります。そして担任としてのクラス経営の指導があります。悩んでいる生徒の相談相手になることも大切な仕事です。そして家族を支える家庭の仕事もやらなければならないのです。

 第二に、授業の進み方が遅く、教科書を終わらせることができません。先生が提起した課題に関することには理解が深まっても、そうでなかった部分は漏れてしまいます。科目によっては可能でしょうが、私の担当する日本史では、初めから最後まで終わらせなければならないのです。科目には向き不向きがあると思います。

 たとえば、ジグソー法で三人一組の班を作ると、クラスに十班以上できます。それぞれの班が授業の最後に2分間発表すると、入れ替えの時間も含めて30分はかかるでしょう。発表だけでこれだけかかるのですから、エキスパート活動なることをやっていたら、一つのテーマが1時間の授業では終わりません。もし「江戸時代の農業」というテーマを設定します。これを2時間かけて終わらせるようでは、とても進度が遅くて、年間の授業計画を実行できません。それなら発表を1分でやらせれば、何も中身がないでしょう。

 第三に、極端に低学力の生徒には、とうてい通用しないのです。これはあくまでも私の経験してきた学校での話ですが、教室に入らせて坐らせるまでに5分、携帯をしまわせ、教科書やノートを出させるのに5分かかります。教科書も筆記用具もない生徒が毎回何人もいます。グループに分けて坐らせることなど、力尽くでなければ出来そうもありません。プリントを配っても、まず文を理解することが難しく、言葉の説明をしているうちに、時間切れとなってしまうでしょう。3人の班内に一人でも学力の極端に低い生徒がいたら、その班の活動はそこで止まってしまいます。「今日はよく学校に来たね。偉かったよ。」という言葉がけから始める授業もあるということを知って欲しいのです。生徒の学力にあった、弾力的な指導が必要だと思います。

 第四に、積極的に発言することが苦手な生徒には、相当の苦痛になる、ということです。外交的で積極的に話が出来ること自体は、大いに結構なことです。しかしそれが苦手な生徒にとって、その性格は欠点なのでしょうか。内省的にじっくりと考えることは、いけないことなのでしょうか。発言できない生徒が、いじめの対象になる危険性があります。もちろん意見を発表する訓練を重ねることで上達するならば、それはそれでとてもよいことです。しかし中には、どうしてもそういう授業法になじめない生徒がいるということもよくあることなのです。

 第五に、もし生徒が明らかに間違っている結論に達してしまった時、それを訂正する機会があるのですか。設問によっては、様々な結論があってもよい場合もあるでしょう。しかし誰がどう見ても誤っていて、特に用語の理解にはありがちなことですが、それをどのように訂正するのですか。時間的に無理があるのではないでしょうか。

 第六に、授業者の思い入れやエピソードや個性を、活かしきれないのです。資料として配れることは理解させられても、資料として配れないものは、なかなか伝えられません。例えば、縄文土器片を各班に配り、触らせることは出来ます。しかしそれを手に入れるために山野を歩き回ったことや、発見した時の感動など、資料にしにくいことは共有できないのです。そして得てして先生が語るエピソードや脱線話には、生徒を授業に惹き付ける力があり、いつまでも生徒の記憶に残るものなのです。鎌倉時代に宋との交流があったことを語りたいがために、台風の翌朝、一番電車に乗って鎌倉の海岸へ行き、ようやく拾った青磁片。たった一つの青磁片に出会った経験と感動が、私の「鎌倉時代の外交」の授業の原動力となるのです。

 誇るべき日本文化の一つである浮世絵についての学習では、こんなこともしました。デパートで実演していた浮世絵の摺師の技を見に行き、版木を触らせてもらいました。断られて元々と思って、不要になった版木を譲ってもらえないかと頼むと、後日に送ってくれました。北斎の当時の本物は買えませんが、現代の復刻ならば買えました。博物館での浮世絵展の大きなポスターも、いつか使うこともあろうともらっておいたものもあります。江戸時代の刷り物という点では、江戸末期の『偐紫田舎源氏』の一冊を予てから買い求めてあったので、江戸時代に摺られた浮世絵の実物として用意しました。これらの小道具たちをひっさげて授業に臨みます。まるで赤穂浪士の討ち入りの気分でした。そこで思う存分語り、さわらせ、観賞させます。木版で摺ったものの表面を指先で触らせると、微妙な凹凸があり、機械印刷ではなく木版で摺ったことがわかります。生徒たちはこの1時間で、共同学習で学ぶことよりもはるかに大きなことを体験的に学んだことでしょう。これは実際に触れて、見て、買ってきた私が一斉に話すから出来ることなのです。

 私は今は非常勤講師ですが、週に8時間分の授業の準備をしています。担任も部活動も分掌もありませんから、授業だけやっていればよいのですが、授業以外の仕事をしながら授業の準備をすることがどれ程大変なものか、それはそれはよくも身体がもったものだと思うほど大変なものでした。

 進学校にいた時は、週に6単位の日本史を3クラス、合計18時間を担当していました。当時は土曜日も授業がありましたから、休めるのは日曜日だけ。朝は7時30分から1時間、60人を相手に補習。朝練で補習に参加できない運動部の生徒のために補習を録音し、ダビングして放課後には貸し出していました。放課後は運動部の部活動の指導か、またまた補習。家に帰るとくたくたですが、夕食後は翌日の授業のプリントを手書きで作り、それが出来上がるのは0時過ぎ。明け方となることもありました。そして5時には起床。朝食をかき込んで、6時前には家を出て、7時には登校してプリントの印刷。授業の合間に、空き部屋でこっそり仮眠。大会前には日曜日も祝日もなく、練習試合や公式戦があります。出張で自習が出る時は、前もっていかにも授業をしているように話すのを録音しておき、自習監督の先生に教室で再生してもらいます。ですから、生徒には事実上、自習はありませんでした。私がその場にいなくても、立派に授業は成立していました。それらの合間を縫って史跡を見学したり、骨董市や古本市に行って歴史の教材となりそうな物を買い集めました。
 
 知識伝達式の授業と批判されるかもしれませんが、教科書の最後まで、また隅から隅まで学習しなければなりません。ですから黒板に書いたり、それを写したりする時間的余裕はなく、どうしてもプリントに頼らざるを得ませんでした。ただ私の話を聞いて生徒が必要と思うことを書き込めるように、余白をたくさん遺しておきました。

 また受験対策の授業にはしたくないと、可能な限り実物の教材を教室に持ち込み、生徒に自由に触らせながら、博物館の出張授業のようなこともしていました。毎回何か面白いものを持ち込もうと、さんざん苦労し、また工夫もしました。

 旧石器・黒曜石から始まって、土器・手作りの青銅鏡・手作りの辛亥銘鉄剣・土師器・須恵器・調の布の痕跡のある奈良時代の瓦・木簡・手作り乾漆像・曼荼羅・来迎図・鳥獣戯画・御成敗式目・法華曼荼羅・鎌倉の青磁片・宋銭・明銭・四季山水図・天正大判・砂金・宗門改帳・検地帳・五人組帳・関所手形・三行半・俵物・千歯扱・藍・麻・小判・丁銀・・・・・衣料切符・赤紙・陶製手榴弾・明治以後の重大事件を報じる新聞などなど、とても書ききれません。書斎はミニ博物館のようでした。

 確かに進学校における私の授業は、一斉講義式の場面が多いものでした。しかし漢字しかない和本の万葉集を示しながら、それを自在に読み下し、当時の権力者の心理や農民の生活を、圧倒的な迫力と経験と知識で解き明かす授業は、生徒の学びあいなど太刀打ちできるものではありません。

 生徒が互いに学び合うといっても、所詮は教師の用意したプリントと教科書をもとに、あれこれ仮説を立てて発表し合うだけのこと。全巻読み通した私が語る万葉集の面白さが、生徒の学びあいに劣るとは思えません。

 フランス料理のレシピを教材として用意され、それをもとに学び合うことよりも、フランスで修業した、あるいは日本のフランス料理店で修業した調理師の技を目の前で見て学ぶことの方が、はるかに意義があるのです。

 現地を見て、実物を触って、実際に史料を読み通して、専門書によって裏付けされて、そうやって歴史を学んできた私が、その経験と知識をもとに熱く語る言葉と、それらが全くない生徒が、与えられた資料をその場で初めて読んで得られたことをもとに話し合った結果としての発表と、比較することなど出来ません。
 
 今、私の高校時代の先生たちを思い起こしてみると、国語の先生はサンスクリット語で法華経を読み、また漢文の大家で、漢和辞典の編集者でもありました。古典文学とはこれ程奥が深いものかと、毎回聞き惚れて、ノートをとることを忘れさせる授業でした。体育の先生は、オリンピック選手でした。工芸の先生は人間国宝でした。生物の先生は、白鷺の研究では日本の第一人者でした。地学の先生は、校庭にボーリングの道具で穴を掘り、地下10mがどのようになっているかを体験させてくれました。音楽の先生は作曲家でした。英語の先生は、夜は御自身も外国人の英語塾に通いながら勉強していました。社会の先生は、学習参考書をたくさん書いていました。また最初の授業で黒板に伊能忠敬なみの日本地図をフリーハンドで書き、生徒たちをアッと言わせました。そして今後の授業が楽しみだと思わせてくれました。そのほかの先生方も、みなそれぞれの専門分野で、圧倒的な業績と見識を持ち、高校の先生というものは、こんなに桁外れの人達なのかと、恐れ入ったものでした。そのような先生の授業に共通していたものは、その科目の勉強がこんなに奥深いものなのかということを教えてくれたことでした。ただただ圧倒され、聞き惚れ、憧れたものでした。このような経験は、一斉授業だからできたことです。何も知らない生徒同士が小賢しく議論して到達した仮説など、それらの前ではどれ程の意味があるのでしょうか。一流の先生の前で、その先生の語ることを聞かなかったら勿体ないのです。今、私はかつて教わった先生たちのレベルには達することは出来ませんでしたが、それを目標の一つとしてきたことに後悔はありません。

 確かに一方的に聞いているという姿勢は、一見して受動的です。しかし聞かされているわけではありません。聞きたくて仕方がないのです。そういう意味では、主体的に学習していたと思います。面白くて聞きたくて仕方がないほどに、生徒を講義に引きずり込めれば、それはもう受動的授業ではなくなるのです。「一斉講義式授業からの脱却」を声高に言う先生たちに今一度聞いてみたいのです。受動的な授業にしてしまったのは、授業をつまらなくしてしまったのは、あなたが原因なのではないのですか、と。

 進学校ではない、ごく平均的な学校に勤務していた時は、少し授業スタイルを変えました。一般入試で大学を受験する生徒はいませんでしたので、教科書の途中で終わってしまってもゆるされました。ですからプリント学習をではなく、ノートを取らせるようにしました。

 まず教室での座席の移動は自由です。弁当を食べる時のように、田の字のように坐る生徒もいましたし、横一列もありました。私語も禁止しませんでした。そして何より、黒板には原則として題しか書きません。生徒は私の話を聞き、教科書を読み、それらを総合して自分の言葉に置き換えてノートを書くのです。ただしわかりやすくはっきりとした言葉で話さなくてはなりません。聞いた情報を自分の言葉で文で表現し直す力は、社会に出てから役に立つからと、その意義を説明していました。板書を写すことになれていた生徒は、初めは混乱していましたが、次第に慣れてくると、何が大切なことかを考え、必要なことだけを選んで書けるようになりました。書くべきことについて隣の生徒と話すことも、「今、先生何て言ったっけ」と会話をすることや、教室の中を立ち歩いて、他の生徒のノートをのぞくことも自由です。授業の内容に合わせて、地図や系図や表をまえもってプリントで配っておきます。また漫画日本史の中から、歴史上の決定的場面をコピーして、これも前もって配っておきます。生徒は授業の進み具合を見ながら、それらを切り抜いてノートに貼ります。文化史の学習では、カラーの図説資料集を切り抜き、ノートに貼っている生徒もたくさんいました。

 こうして私が黒板に一字も書かなくても、生徒たちはオリジナルのノートを書いて行くのです。私はノートは写すものではなく、創るものであると、指導してきました。一年間の授業が終わると、棄てるに棄てられないアルバムのようなノートが出来上がるのです。そして考査ごとにノートを5段階で評価させ、その評価をつけた理由を書かせました。そしてそれをそのままテストの点に足してやるのです。評価の根拠まで書かせると、内容とかけ離れてあつかましく高い評価をつける生徒は皆無でした。

 一斉授業の短所を補うために、次のような体験的レポートの提出を義務づけていました。私の担当は日本史でしたので、①日本史に関すること、②自分で体験したことを自分の方法で表現すること、という二つの条件さえ満たせば、どんなことでもよいのです。個人でもよく、グループでもよいのですが、たとえグループで取り組んでも、感じることは異なるはずだあるからと、提出物は個人で提出させました。運動部の練習で忙しい生徒には、その特性を活かして短時間に出来ることのヒントを与えました。例えば、草鞋をはいて街道を一日掛かりで40㎞歩き、途中で見聞した歴史的なことがらを巻物のようにまとめた生徒がいました。夏休みに紙漉きを体験し、自分で作った紙で和本を作る生徒もいました。市内の石碑を全て見て回ったり、大井川を歩いて渡ったり、鳥獣戯画を模写したり、高松塚古墳壁画の女官の服装を復原してみたり、高齢者から戦争体験を聞いてアンケート調査をしたり、それはそれは様々な内容でした。提出は三学期なのですが、可能な限り途中経過や計画書を提出させ、ぎりぎりになってやっつけ仕事にならないように指導しました。生徒たちにとっては大変だったと思いますが、それをやり遂げたことによって学ぶことは大きいものでした。

 私は、自分がやって来た40年間の授業の中で、このノートを創らせるスタイルの授業が最も長かったと思います。形は私が全体に向けて講義していますから、一斉講義式の授業です。しかし今振り返って、それがアクティブ・ラーニング式の授業に劣っていたとは思えないのです。

 授業の中心は私の語りです。しかし生徒たちは私の話を聞きながら、何が大切であるかを自分で考えてノートを創り、プリントを補強していました。 京都大学の溝上慎一教授は、「一方的な知識伝達型講義を聴くという(受動的)学習を乗り越える意味での、あらゆる能動的な学習のこと。能動的な学習には、書く・話す・発表するなどの活動への関与と、そこで生じる認知プロセスの外化を伴う」と、アクティブ・ラーニングを定義しています。講義式授業を、受け身の授業と一方的に決めつけているのです。確かに発表するという形をとったことはありませんでした。しかし生徒たちは聞かされていたのではなく、書かされていたのではなく、聞いたいたのであり、書いていたのであり、創っていたのです。それも立派な能動的学習だと思うのです。

 私は30代の頃から、途切れることなく学校公開講座を自主的に担当してきました。聴講者は一般の社会人です。定年退職で終了するつもりでしたが、皆さんが辞めさせてくれず、今も公民館で続いています。聴講者は私の話を聞きたくて参加しています。「今日はどんな話を聞けるかな」と、わくわくしながら、遠くからも来てくれるのです。もし協調学習のスタイルをとれば、きっと参加しなくなるでしょう。私は今でも一斉講義式の授業を、自信をもって続けています。アクティブ・ラーニングの授業などに負けるわけにはいかないのです。

 アクティブ・ラーニングの授業には長所がたくさんあることは認めましょう。また一斉講義式の授業に欠点があることも認めましょう。しかし一般論的になりますが、物事には全て長所があれば、また短所もあるものです。アクティブ・ラーニングの授業の長所を裏返せば、それは同時に短所にもなる。どちらか一方が良いとか悪いとか決めつけることなく、状況により、条件により、時にはアクティブ・ラーニングで、時には一斉講義で、弾力的に使い分ける方がよいと思うのです。
ネットで検索する限り、アクティブ・ラーニングでなければ授業ではないと言わんばかりの風潮です。どうしてそれぞれの短所をそれぞれの長所で補いつつ、よりよい授業を創ってゆこうという主張がみられないのでしょうか。現在の状況は、文科省が、東京大学が、教育委員会が「右向け右」と言うと、全員一斉に右に向いているとしか見えません。

 最後にもう一つ付け足しておきたいのは、授業者の話す力は、一斉講義式の方が上達するものです。もちろん不断の研修努力が前提ですが、話す力は、話のトレーニングによって向上します。どれ程アクティブ・ラーニングの授業が主流になったとしても、やはり授業の基本は、知識と体験に裏打ちされた授業者の「語り」にあると思っています。私は予告なしにいきなり千人の聴衆の前に立たされても、野外で巡検の引率を振られても、微動だにしません。40年間一斉講義で鍛えた経験があるからです。もっとも未だにたまには失敗することもあるのですが。



追記1

 ネットで検索していますと、アクティブラーニングの授業の先駆者の皆さんが、あちこちで研修会や講演会をしていらっしゃいます。多くの先生たちがそれを聞いたり体験しているのでしょう。そこでそのような研修会に参加された方にうかがいたいのです。講師のお話を聞いていた時間は、あなたは受動的に聞いていたのですか。聞かされていたのですか。そうではないでしょう。わくわくしながら、耳をそばだてて聞いていたはずです。そのような聞き方は、もう受動的学習とは言えません。見た目にはそう見えても、聞きたくて、自分の意志で能動的に聞いたいたはずです。アクティブとは、目に見える動きだけなのですか。黙すること、雷(いかずち)の如し。能動的沈黙ということをあなたは知らないのですか。同じことは日常の授業でも成立するはずです。我々が、生徒に「あの先生の授業を聞きたい」と思わせる努力をどれだけしてきたのか。もっとそのことが問われてもいいと思うのですが。 


追記2

 最近の授業でこんな場面がありました。

場面①
 世界各国名の漢字表記についての学習の場面です。生徒A「先生、フランスは仏教の国だから仏って書くのはわかるんだけど、イギリスはどうして英なの?」私「・・・・? フランスは仏教の国じゃあないよ。キリスト教国だよ。仏はフランスのフという音を表しているんだよ」。ここまではいいとして、私が少しふざけて、「イギリスは英語を話しているから、英って書くんだよ」と言ったら、生徒A「ああ、やっとわかった」。私「おいおい、それでわかっちゃ困るんだよ。今のは冗談。イギリスはエゲレスとても発音されていて、エゲレスのエを漢字で英と表現したからさ」。


場面②
 羊毛について学習していました。私「セーターは羊毛で出来た毛糸で編んでるから、洗濯する時は特別のウール専門の洗剤で洗わないと、縮まっちゃうんだよ」。生徒A「へえー、ウールって羊毛のことなんだ。知らなかったよ」。生徒B「それじゃあ、羊を普通に洗ったら、羊が小さくなっちゃうの?」。私「・・・・・・?」。


場面③
 神仏分離令について話していたところ、生徒A「先生、神社ってなあに?」。私「えっ、神社に行ったことないの?」。生徒A「うん、ないよ。和室のあるところ?」。生徒B「違うよ、大きな鈴を鳴らすところだよ」。私「そうか、あのね、こういう形の門があるところだよ」。生徒A「あっ、それ知ってる。地図の記号でしょ」。私「おまえ、これを知ってるのか。すごいねえ。この形の門が立ってるところだよ」。

場面④
 自由民権運動についての学習で、明治十四年の政変について話をしたのですが、「開拓使官有物払下げ事件」についての説明で苦労しました。まず「開拓」の意味から始まります。さすがに「北海道」は理解できます。「官有」「払下げ」は説明が要ります。薩摩が鹿児島であることも触れなければなりません。教科書本文に書かれている「政商」「勅諭」「参議」「罷免」などの言葉で、その度に引っ掛かります。こんな具合ですから、教科書を2~3行読むことが出来ません。生徒に読ませることは絶対に不可能。私が読めば、その間は生徒は遊んでしまいます。この日の授業で生徒が理解してくれたのは、サッポロビールは開拓使が作った工場がもとになっていること、星のマークは北極星であることくらいかもしれません。

場面⑤
 「西南戦争は誰と誰が戦ったんだっけ?」「西と南」「先週やったばかりでしょ」「だってそうじゃん。西南戦争だから」。一週間と持ちませんでしたが、プリントと鉛筆を持ってきたのでいいことにしましょう。

場面⑥
 フルトンという人がね、蒸気機関でくるくる回る水車を船の両側に取り付けて、蒸気船を作ったんだよ。「先生、わかった。くるくる回るからクルトンって言うんだ」??・・・・・?クルトンじゃないよ、フルトンだよ。

場面⑦
 現代社会で日本の伝統的宗教を学んでいました。プリントにナスとキュウリで作った牛馬の挿絵があったので、お盆の話をしたのですが、ある生徒が、「先生、バナナでもいいんじゃない」と質問しました。お盆については、知識も経験も全くないとのことでした。



私が担当する現代社会の授業には、日本語が会話程度しかできない生徒が3人います。先日の授業でも難しい用語を理解させられず、全く授業が成立しませんでした。英語ならわかるのですが、50年前に高校卒業以来英語の勉強を止めてしまった私にはもうお手上げです。読者の皆さん、試しに挑戦してみて下さい。次の言葉を英語でわかりやすく説明できますか。
 循環型社会形成推進基本法、産業廃棄物処理、気候変動枠組条約、いかがですか。お買い物程度の英語なら今でも何とかなりますが、これでは手許に和英辞書を持っていても手に負えません。こんな生徒がいるかと思えば、同じクラスに南の反対が北であることをいちいち図を書いて説明しなければわからない生徒もいるのです。いったいどうやってアクティブラーニングをやれというのですか。ジグソー法を提唱する「先生」、あなたならできるのですか。 


 こんな感じで授業をしています。共通していることは、生活体験が信じられないくらいに貧弱ということです。悲しくなってきますが、この子たちが世の中に出て欺されることなく、社会人として生きて行けるための力を付けてやるために、頑張らなくてはなりません。学力はありませんが、可愛い可愛い生徒たちです。

 こんな教室で、アクティブラーニングをせよと言われても、授業は成立しません。私との言葉のキャッチボールでようやく授業が成り立っているのです。「廃仏毀釈」などの言葉をプリントに書いたら、アクティブラーニングなど出来ません。何しろ「神社」という言葉で引っ掛かってしまうのですから。アクティブラーナーと呼ばれる授業者の皆さん、「私の教室でジグソー法の授業を、やれるものならやってご覧なさい」と言いたいのです。色々なタイプの授業があっても良いではないですか。


追記3
 先日アクティブラーニングを積極的に指導している人に会い、少しお話しをしました。普及のための研修会の資料をいただいたので、これはよい機会と質問しました。「この研修会のための資料作りにどれくらい時間がかかりましたか?」「そうですねえ。まあ数日、といっても付きっきりの時間は数時間でしょうが、」「えっ、たった1時間の話のために、何時間もかけるんですか? それっておかしいと思います。あなたにとっては、研修会もアクティブラーニングの授業も同じようなものでしょうが、私は今非常勤講師ですが、週に8こま、合計10時間の授業をの授業をしていますが、あなたは週に8回の内容の違う講演会の資料を、教諭としての他の仕事(部活顧問・担任・分掌・各種委員会・学年会議・教科会議など)と平行しつつ、作ることができますか? 家に帰れば家庭の仕事があります。いろいろな職務の間を縫って、授業の準備をしているんですよ。自分の講話の資料は数時間もかけて作っておきながら、アクティブをやっていない人に『一斉講義式からの脱却』なんて勧めても、時間的にできるわけがないじゃないですか。そもそもその研修会は、一斉講義式でやったんでしょう。ジグソー法でやった方が効果があるんじゃないですか。」「そりゃあ一斉講義式でしたけど」「それ、ご覧なさい。一斉講義式の方がよく理解させられると無意識のうちにも思っていたから、そうしたんでしょ。とにかく時間がかかりすぎるんです。私の学校では、県教委主催のアクティブラーニングの研修会に参加していない人は誰もいませんが、日常的にそのような授業をしている人も誰もいません。県教委から視察に来る時だけ、お義理でやることはあるようですが、本音はみんな困っているのです。お役人は満足して帰っていくのでしょうが。」

」 

井真成

2016-10-29 16:14:17 | 歴史
 2004年(平成16)10月、日本から入唐して客死した、日本ではそれまで知られていなかった留学生の墓誌が公表され、大きな話題となりました。墓誌はそれ以前に、中国の古都である西安郊外で行われた工事現場で、偶然に発見されていたもので、パワーショベルで乱暴に掘り出され、しかも不法工事であったため、秘密裏にすぐに民間の文物市場に売り出されてしまいました。それを西安市の西北大学の学者が、「国号日本」という文言を含むことの重要性にいち早く気付き、これを買取ったのです。これは実に幸運でした。ただし墓その物は既に破壊されており、掘り出された正確な時期や場所、また埋葬状況や副葬品については全くわかりません。

 墓誌とは、死者の経歴や哀悼の言葉が刻まれた石板で、死者と共に地下に埋葬されます。埋葬するのは、地下の冥界の支配者に死者の経歴を紹介するためと信じられたからで、地上に建立する墓碑とは目的が異なっています。日本でも『古事記』の編者である太安麻侶(安万侶)の銅板製の墓誌が、文字面を伏せた状態で発見されていますね。これも中国の影響を受けたものなのでしょう。

 墓誌の形状は、一辺39.5㎝四方、厚さ10.5㎝、1行16字詰めで12行、計171文字が端正な楷書で陰刻されています。ただ残念なことに各行の1文字目は発掘の際にパワーショベルが接触したためか、欠損してほとんど判読できません。唐代の書体らしく、実に字形の整っています。唐代の書道の名手である欧陽詢が書いた「九成宮醴泉銘」と褚遂良が書いた「雁塔聖教序」を足して2で割ったような印象です。内容に関係なく、書道の面からも、素晴らしいものだと思いました。(

読み下しと解釈については、難解な表現があり、諸説もあって一定していないのですが、一応の通釈を試みました。試みたのはよいとしても、専門の学者でもなく一介の高校の教諭ですから、間違いがあるかもしれないのはお許し下さい。

原文
贈尚衣奉御井公墓誌文并序/ 公姓井字眞成國號日本才稱天縱故能/□命遠邦馳騁上國蹈禮樂襲衣冠束帶/□朝難與儔矣豈圖強學不倦聞道未終/□遇移舟隙逢奔駟以開元廿二年正月/□日乃終于官弟春秋卅六  
皇上/□傷追崇有典詔贈尚衣奉御葬令官/□卽以其年二月四日窆于萬年縣滻水/□原禮也嗚呼素車曉引丹旐行哀嗟遠/□兮頹暮日指窮郊兮悲夜臺其辭曰 /□乃天常哀茲遠方形旣埋于異土魂庶/歸于故鄕

通釈
「贈 尚衣奉御、井公の墓誌文、ならびに序。公は、姓は井、名は真成、国号は日本。才は天が縦(ゆる)す程に称(かな)
い、故に能(よ)く国命により遠邦まで上国(中国)に馳せ来たった。礼楽を蹈(ふ)み行い、衣冠を襲(かさ)ね束帯して朝(朝廷)に立つならば、与(とも)に儔(なら)ぶことは難しい。豈(あ)に図らんや、学を強(つと)めて倦(う)まず、道を聞くこと(学問)の未だ終わらずして、月日が流れる舟や駆ける駟(馬車)の如く過ぎ去ろうとは。開元二十二年正月□日、官舎で亡くなった。年齢は三十六歳。  皇帝(玄宗)はこれを傷み、追贈の典礼により、詔して尚(しよう)衣奉御(いほうぎよ)の官職を贈り、葬儀は官によって行わせた。そして其の年の二月四日に万年県の川の原に礼により葬った。ああ、
暁に葬礼の車(素車)が引かれ、葬礼の赤い旗(丹旐)は哀しみを表した。遠いことを嗟(なげ)いて、日が暮れて思いは頽(くず)れ、遠く郊外の夜台(墓所)に至れば悲しむ。其の辞に曰く『□は乃ち天の常であるが、哀れにも遠方である。身(形)は既に異国の地に埋められたが、魂の故郷に帰ることを庶(こいねが)う』と。」

 この井真成がいったい誰なのか、大いに興味が湧くところですが、この墓誌銘以外に手掛かりは全くありません。日本には「井」一字の姓はありませんから、唐風の姓であることは確かでしょう。

 改名の方法としてはいくつか考えられます。①小野妹子が「蘇因高(そいんこう)」と称したように、日本語の音を唐風に音訳する方法。②阿倍仲麻呂が「朝臣」の「朝」と「仲」を「均衡」の意味に理解して「朝衡」と称したように、名前の意味を唐風に意訳する方法。③また姓の一字を採り、名は音訳かそのまま用いるという方法も考えられます。④「井」一字の姓は中国では古い起原を持っていて、中国の姓という可能性も捨てきれません。要するにいろいろな可能性があり、軽々しく断定することはできないのです。

 ③の説については、「井」の字を含む渡来系氏族である「葛井(ふじい)」や「井上」という説があります。そして大阪府藤井寺市では、市をあげて井真成の出生地ということになってしまっています。市役所には魅力創生課が設けられ、切手が発売され、漫画チックな石造まで建立され、「真成」を冠した酒や饅頭まで並んでいる有様です。

 まあ気持ちはわかりますが、ここまで来ると、私などはもう哀れをもよおしますね。全国各地にあるさまざまな「発祥地」「ゆかりの地」は、こうして既成事実化し、確実な根拠もないのに、いつの間にか「・・・・と伝えられている」という伝承が作られて行くのでしょう。歴史的には、「説の一つとして考えられる」というレベルで止めておくべきだと思うのですが。

 井真成が入唐したのは、その年齢からして717年(養老元)の遣唐使に随行したものでしょう。もしそうだとすれば、時に19歳で、玄昉や吉備真備、玄宗皇帝に重用された阿倍仲麻呂らと同期です。717年の入唐とすれば、734年に亡くなるまで、18年間いたことになります。

 皇帝から贈られた「尚衣奉御」という官職は、皇帝の衣服を管理する皇族専就の重職で、位階が一品(いつぽん)から九品(くほん)まである唐の位階の中では従五品上(じゆごほんのじよう)に相当します。五品(ごほん)以上が皇帝に拝謁を許される殿上人ですから、外国人留学生としては破格の待遇でした。

 ただし「贈」というからには、生前にその役に就いていたわけではありません。もしそうならば「故」と表記されるはずですから。また官費で葬儀が行われたということも考え合わせれば、余程に玄宗皇帝から重用されたものと思われます。同期の阿倍仲麻呂は入唐5年で難関の科挙に合格し、高級官僚の道を昇りました。しかし仲麻呂が従五品下に昇進したのは、真成が死去した翌年のことです。真成の位階官職は贈位であることを割引いたとしても、真成も仲麻呂と同程度の昇進をしていたことになります。もし異国で夭折することがなかったならば、さぞかし活躍したことでしょう。残念でなりません。

 一方、「国号日本」の表記は、中国における日本の国号を記した中国最古の金石文として注目されました。日本の国号の表記が「倭(やまと)」「大倭(やまと)」から「日本(やまと)」に替わったのは天武朝とされ、大宝律令によって正式に定められたとされています。そして702年の遣唐使によって則天武后時代の唐に伝達されました。

 井真成墓誌の発見は、そのことを実証する中国最古の史料というわけなのです。しかし近年、それより古い713年の「徐州刺史杜嗣先墓誌」に「皇明遠被、日本来庭(日本の使者が来朝した)」という文言があるとの指摘があり、疑義もだされている。このあたりのことになると、もう素人の域を超えていて、私ではとても及びません。

 井真成は日本の文献にその名前を遺しませんでした。幸いにも中国の碑に遺りましたが、名もなく歴史に埋もれた留学生もたくさん居たことでしょう。岩波新書『遣唐使』によれば、遣唐使船の帰還率は約6割であったといいますから、海の藻屑と消えた留学生も相当いたはずです。結局帰国は出来ませんでしたが、阿倍仲麻呂は生きて長安に帰れただけでもよかったのかもしれません。遣唐使について授業で学習する際は、そのような名もない日本人青年にも、思いを馳せたいものです。

「とおりゃんせ」の天神様

2016-10-27 16:22:05 | 唱歌
 近々、私の主催する生涯学習の会の行事として、川越歴史散歩に行くことになっています。そこで大変に困ったことが一つあるのです。それは旧川越城の一画に三芳野神社という神社があり、童謡『とおりゃんせ』の発祥の地と言われていることなのです。神社には発祥の地を示す大きな石碑があり、全ての川越観光案内書にそう書かれており、観光客は「へえ、そうだったのか」と感心して帰ります。しかし私にはどうしても信じられないのです。どうのように説明したものかと、頭を悩ませているのです。

 御存知とは思いますが、まずは歌詞を御紹介しましょう。

通りゃんせ 通りゃんせ  ここはどこの 細道じゃ 天神さまの 細道じゃ  ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ  この子の七つの お祝いに  お札を納めに まいります 行きはよいよい 帰りはこわい  こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ

 ネット情報では、「江戸時代に歌詞が成立したと見られるわらべうた。作詞者不明、本居長世編・作曲、あるいは、野口雨情作とも伝えられる(1920年頃収録レコード[要説明]に作者として記載されている)。」と記されていました。私にはこれを確認する方法がないので、取り敢えず、ネット情報の引用であると断ってそのまま載せておきます。

 歌詞の意味するところは、表面的には理解できるのですが、なぜ「こわい」のか、それについて、一般に以下のように説明されています。わかったかのように書くのは嫌なので、これもネット情報のそのままの引用です。

 「一説によれば、『とおりゃんせ』の舞台は、埼玉県川越市の三芳野神社(みよしのじんじゃ)とされている。三芳野神社では菅原道真が祭られている。三芳野神社は昔、川越城の城郭内に移されたため、「お城の天神さま」と呼ばれていたそうだ。お城の中なので、一般庶民は気軽に参拝できなくなり、時間も限られ、見張りの兵士も付けられた。特に、他国の密偵(スパイ)が城内に紛れ込むことを防ぐため、帰っていく参拝客に対して見張りの兵士が厳しく監視をしたという。これが「行きはよいよい 帰りはこわい」の由来となっているとのことだ。」

 中には間引きの子殺しの歌であるとして、まことしやかに恐ろしげな解説をしているものもありました。

 しかし実際、本当のことなのでしょうか。もし事実であると言うならば、それを証明する文献などの史料がなければなりません。ところがその様なものは皆無なのです。そう言うと必ず「そういう伝承がある」と反論されるのですが、伝承にせよ、伝承があったという史料もないのです。伝承などと言うものは、誰かが言い始め、世代が変われば伝承として流布し、さも以前からあったように語り伝えられ、既成事実化してしまうものです。事実、既に観光案内レベルでは既成事実化しているではありませんか。

 それならなぜこのような伝承が出来てしまったのでしょうか。それは歌の内容の設定に符合する場所探しが行われ、川越城内にあった天神社ならば矛盾なく説明できるため、誰かが発祥の地ではないかと言い始めたことによると思われます。しかしこれも「思われます」というのであって、確証があるわけではありません。伝承というものは、所詮その程度のものなのです。もし史料があれば、これ幸いと、「○○という書物にによれば、・・・・」と大手を振って書かれることでしょう。しかし実際にはそのようなものはなく、「・・・・と言われています」以上のことは書けないのです。

 そもそも「○○発祥の地」というものは、眉唾物が多いものです。何とか観光の目玉にしようとして、確実な根拠もないのに、既成事実化してしまいます。これは特に有名な唱歌や童謡のゆかりの地に関して、顕著に見られます。ここが歌に歌われている場所であるとして記念碑を立て、さも事実化のようにして宣伝し、土産物まで出来てしまう。ですから一つの歌のゆかりの地が、全国各地に複数出来てしまうことさえあるのです。 

 とにかくそういうわけで、歴史学的には三芳野神社が「とおりゃんせ」ゆかりの地であるという確実な証拠は皆無であることを確認しておきます。川越城跡にある歴史博物館も、学術的には何の根拠もないことを正直に認めています。歴史学的には根拠がなければ絶対に認められません。その辺りのことを博物館の学芸員の方に率直にうかがったところ、苦笑しながら歴史的には認められないということでした。がっかりさせてすみません。

 もし百歩、否、万歩譲って川越城内の天神社であったとしても、三芳野神社の本殿は無理でしょう。何しろ三芳野神社の本殿は、本丸の中にあったのですから。大手門を潜り、いくつもの曲輪を通り抜け、ようやく本丸に到達します。いくらなんでも庶民が参拝だけの理由で本丸まで入らせてもらえるはずがありません。考えられるのは、最も外側に位置していた田曲輪に設けられていた遙拝所となっていた外宮でしょうか。田曲輪には天神社の外宮がありましから、特例中の特例として庶民が入れるとしても、せいぜいこのあたりまでのはずです。

 そんなことより、この天神社の外宮にはもっと重要な歴史的意味があります。もともとは寛永14年(1637)に江戸城二の丸の東照宮として建立されたのですが、明暦2 年(1856)川越城内三芳野神社の外宮として江戸城から移築され、さらに明治5年(1872)川越城廃城により、川越氷川神社に移築され、八坂神社と称されています。江戸城内にあった東照宮が残っているのですから、ぜひともこちらを見学していただきたいものです。

立冬

2016-10-26 13:41:46 | 年中行事・節気・暦
11月に入ると、もうすぐに立冬となります。まだ秋の菊が盛りで、里山の紅葉もちょうど見頃ですのに、季節の移ろいは早いものですね。日常生活面では、立冬だからと言って特別なことがあるわけでなし、季節の移ろいに興味のない人にとっては、何の意識もないうちに過ぎ越してしまうのでしょう。さて、私もここで何を書こうかと考え込んでしまうくらい、立冬は存在感が薄いのです。ネットで「立冬」と検索しても、どれも大したことは書かれていませんでした。

 古代でも同じだったと見えて、立冬について詠んだ歌は思い浮かびません。春や秋を待ち焦がれる歌はいくらでもあるのに、冬になったことを詠む歌は見当たらないのです。それだけ人に嫌われる季節だったのでしょう。十分な暖房設備がなく、風通しがよすぎる古代日本の住居では、人々が冬を嫌がったのも無理はありません。まあ火燵もストーブもなしに一冬過ごしてみれば、そのことを追体験できることでしょう。

 そこで『古今和歌集』から『新古今和歌集』までの、八代集の冬の部巻頭歌を読んでみました。勅撰和歌集というものは、編者が季節の移ろう順に意図して並べていますから、四季の歌の先頭にどんな歌が置かれているかみてみましょう。編者が何を以て冬の始まりと理解していたかが読み取れるからです。

①竜田河錦織りかく神無月しぐれの雨をたてぬきにして (古今集 冬 314)
②初時雨降れば山辺ぞ思ほゆるいづれの方かまづもみづらん (後撰集 冬 443)
③あしひきの山かきくもりしぐるれど紅葉はいとど照りまさりけり (拾遺集 冬 215)
④落ちつもる紅葉を見れば大井川ゐせき(井堰)に秋もとまるなりけり (後拾遺 冬 377)
⑤神無月しぐるるままに暗部山下照るばかり紅葉しにけり (金葉集 冬 257)
⑥なにごともゆきて祈らむと思ひしに神無月にもなりにけるかな (詞花集 冬 140)
⑦きのふこそ秋は暮れしかいつのまに岩間の水の薄こほるらむ (千載集 冬 387)
⑧をきあかす秋のわかれの袖のつゆ霜こそむすべ冬やきぬらん (新古今 冬 551)


 ①は、時雨の降る竜田川の紅葉を詠んだもの。②は、時雨が山辺の木の葉を紅葉させることを詠んでいます。③は時雨の降る中でも紅葉の色が鮮やかであることを詠んでいます。④は、嵐山の裾を流れる大井川の堰に掛かる紅葉を詠んでいます。⑤は③と同じ趣向です。⑥は、参拝に行こうと思ったのに、神のいない神無月になってしまったとおどけて詠んでいます。⑦は本当かどうか疑問もあるのですが、冬になった途端に薄氷がはることを詠んでいます。⑧は、冬になり、秋の露が霜にかわることを詠んでいます。

 全体としては、紅葉と時雨を詠んだ歌が多いようです。場所や高度によっても異なりますが、紅葉は秋の代表的景物とされていても、紅葉を愛でられるのは実際には晩秋から初冬にかけてであり、冬の歌にも紅葉がたくさん詠まれています。また時雨は晩秋から初冬にかけて降る、一時的な通り雨のことですから、冬の部のはじめの歌に時雨が詠まれるのは実際に即しています。また霜や氷が冬の景物となっていることがわかります。

 しかし古歌の上では、春霞が立春の徴と明確に共通理解されていたのに対し、立冬の徴としては、それ程明確なものはなかったようです。まあそれでも散る紅葉や時雨や霜置くことなどは、冬になったことの徴としてその情趣を楽しんで下さい。

 立冬から次の小雪までの間、初候は「山茶始開」で、一般的には「つばきはじめてひらく」と読まれています。中国では「山茶花」はツバキのことですが、日本では「さんちゃか」という読み方が転化してサザンカのことを指します。立冬の頃にツバキが咲くのは早すぎますし、山茶花ならちょうど時期が合いますから、「さざんかはじめてひらく」と読んだ方が実際には合っているでしょう。

 次候は「地始凍」で、「ちはじめてこおる」と読みます。そのまま解釈すれば地表の水が凍ることなのでしょうが、地表に霜柱が出来る程度でもよいのでしょう。しかしこれは場所と高度で全く異なり、全国一律の暦としては全く無意味です。どうも七十二候にはこういうものが多くてこまったものです。

 末候は「金盞香」で、「きんせんかさく」と読まれています。「咲」か「開」でよいところを敢えて「香」と書き表しているのは、その芳香を意識したからでしょう。キンセンカというオレンジ色の花がありますが、この場合の「金盞花」はスイセンのことです。「金盞」は金の杯という意味で、スイセンの花の中央部を金の杯に見立てた比喩です。外側の白い花弁(?)の部分を銀の台に見立て、水仙は金盞銀台というお目出度い名前で呼ばれることもあります。正月の生花には欠かせない存在なのも、一つにはこのような理解があったからでしょう。ただしスイセンが実際に咲くのは、我が家の周辺では年末のこと。これも地域差がありそうです。まあそれはともかく、銀の台と金の杯に見立てて目出度い席に活けると、話題が一つ増えることでしょう。

残菊

2016-10-24 13:51:48 | うたことば歳時記
狭い我が家の庭には、野菊の花が満開です。キク科のシオン属であることは確かなのですが、名前はわかりません。それでも「しおん」(紫苑)の仲間ですから、私は大切にして楽しんでいます。なぜなら、紫苑は親の恩を忘れない花という理解が平安時代から共有されていたからです。先日、父が亡くなったばかりでもあり、名前のわからないシオン属の野菊を眺めながら、父を思い出しています。平安時代以来の紫苑の理解については、私のブログ「うたことば歳時記」に「紫苑(しおん)」と題して既に公開してありますから、御存知ない方は是非御覧下さい。「うたことば歳時記 紫苑」と検索するとすぐに見つかるはずです。

 辞書や歳時記で「残菊」と検索すると、九月九日の重陽の節句(菊の節句)より後の菊のことであるという説明が多いのです。私はこのことに予てから疑問を持っていました。いわゆる野菊は早くも8月末から咲いていますが、旧暦の九月九日は新暦ならば今年は10月9日でしたから、菊はまだまだ咲いていませんでした。それなのに、それ以後の菊を残菊というと解説されているのには、どうしても納得できなかったのです。

 辞書には晩秋から初冬にかけて咲き残っている菊という説明もありました。これなら多くの日本人が納得できるものだと思います。我が家の庭の菊の花は、今日(10月24日)の時点ではまだ咲いていません。散歩道の途中では咲き始めているものも見かけますから、品種によって多少前後があるのでしょうが、10月10日以後は「残菊」というというのでは、あまりにも早すぎます。

 九月九日に菊を愛でることは中国伝来の風習で、唐代の漢詩を漁ってみると、九月九日の菊を詠んだ詩がたくさんあります。ですから、中国では咲いていたのかもしれません。あるいは観念的にそう決めて掛かっていたのかもしれません。もっとも日本より広大な国土ですから、あくまでも長安周辺でのことなのでしょう。そして九月十日過ぎにの菊を「残菊」と詠む漢詩もこれまたいくつもあるのです。どうも九月九日よりも後の菊という理解は、日本人的発想ではなさそうです。

 たった1日の違いで片方は長寿の花として愛でられ、翌日には「残菊」と呼ばれてしまう。花の美しさ自体は全く同じなのですから、残菊の「残」はあくまでも観念的なことであり、日本人が思い描くような庭に咲き残る菊とは全く異なります。「六日の菖蒲、十日の菊」という諺は、時宜に合わずに役に立たないものの喩えですが、漢詩における「残菊」は、この諺のようにあまりよい印象を持たれていないように感じてしまうのです。

 ところが同じ残菊の漢詩でも、菅原道真が詠んだ詩を調べてみると、九月九日にこだわらず、九月末から初冬にかけて詠まれた漢詩がいくつもあり、九月九日にあまりこだわってはいません。道真は唐文化に特別に造詣の深い学者でしたが、その美的感覚は日本的であることを示しています。

 また宮中で行われた菊の宴や菊合わせが行われた日付を確認してみると、ほとんどが十月となっています。つまり日本で行われた菊の宴は、九月九日という日にこだわるのではなく、実際に菊の花を飾りながら行われていることがわかります。それもそのはず、菊合わせは菊の花を互いに見せ合って優劣を競うのですから、菊の盛りに行われるものです。

 また古歌の中にも、霜に当たって薄紫に色変わりした菊が多く詠まれています。しかもそれを風情あるものとして詠んでいて、九月九日にこだわっていません。このあたりに、古代中国と日本とでは、残菊の理解の相違があったと考えられるのです。

 ただ勅撰和歌集に収められた菊の歌は、ほとんどが秋の歌となっています。霜と共に詠まれていて初冬の歌と思われる場合は、秋の部ではなく雑の部に入れられているものもあります。そうすると、唐の菊の理解に引きずられて、菊は秋の花という観念的理解が先行していため、どうしても秋の歌に入れられない歌は、冬ではなく、雑の部に入れざるを得なかったのかもしれません。実際には立冬後に詠まれていても、編集の過程で、菊の歌であるからと秋の部に入れられたのではないかと思っています。

 残菊は「ざんぎく」と読みます。菊には訓読みはなく、「きく」は音読みです。中国渡来の花ですから、音読みしかなかったわけです。しかし私としては「ざん」という音がどうにも耳障りで、できることなら「のこんのきく」と読みたいのです。

 周囲の花が枯れてしまっても庭に残る白菊、つまり残んの白菊を歌った『庭の千草』という唱歌があります。ネット情報で検索すると、秋の歌となっていることが多いものです。菊は秋と決めてかかっているのでしょう。しかし11月上旬には立冬になるのですから、内容からして初冬の歌であると思います。

 唐代の残菊の美意識なら、このような菊に情趣を感じ取ることはなかったかもしれません。独り咲き残る白菊に「あはれ」を感じ取るのは、極めて日本的な感覚なのでしょう。

 唱歌『庭の千草』については、私のブログに「『庭の千草』の秘密」と題して、拙文をネット上に公表済みです。数ある拙文の中でもずば抜けて閲覧数が多く、もしまだ御覧になっていなければ、是非とも御覧下さい。きっと「目から鱗」の驚きを体験できることと思います。

 長々と書いてしまい、とりとめもない内容になってしまいました。文章を推敲する元気はとてもありません。最後に、残んの菊の歌を一つ御紹介します。
○おく霜にうつろはんとや朝な朝な色かはり行くしら菊の花(新続古今集 563)

 なおこの拙文については、高兵兵氏の「菅原道真の詩文における『残菊』をめぐって」という論文に拠るところが多く、あらためて感謝いたします。コピペをしたくないので、可能な限り原典に当たって確認しましたが、どうしても閲覧できなかった史料や論文があったことについては、高氏にお詫びいたします。