サッカーのJリーグ人気が高まり、三本脚の烏をあしらった日本サッカー協会のエンブレムを見る機会が増えました。そのいわれをサッカー部の生徒に聞いてみたところ、何も知らないということでした。何しろ古事記・日本書紀の神話にまで遡ることですから、今時の若者が知らないのも無理はありません。なぜ三本脚なのか尋ねると、脚の数が多い方が有利だからと冗談を言います。烏なのにボールを鷲づかみしていると言ったのですが、ギャグは通じませんでした。
そもそも烏とサッカーは直接には何の関係もありません。それが日本サッカー協会の徽章となったことには、日本サッカー生みの親とされる、中村覚之助という人物が関わっています。彼は明治11年、和歌山県那智町(現 那智勝浦町)で生まれました。そして明治33年、23歳のときに東京高等師範学校(筑波大学の前身)に入学しました。その在学中の明治35年、坪井玄道教授が米国視察から帰国し、「アッソシェーション・フットボール」を伝えました。当時、まだラグビーと未分化の「フットボール」の同好会を同大学内で立て上げていた中村覚之助は、早速その競技方法を学んで「ア式蹴球」と翻訳し、各地に出向いてその普及に努めました。そして卒業後も資金援助を惜しまず、後輩からも日本蹴球の創始者として尊敬を集めていました。
彼の没後、大正3年には同校関係者が中心となって、現在の日本サッカー協会の前身となる大日本蹴球協会が設立されました。そして昭和6年には、中村覚之助の後輩に当たる東京高等師範学校教授内野台嶺の発案が基となり、協会の徽章として制定され現在に至っています。
三本脚の烏が選ばれた理由は、まず第一に中村覚之助の生家が三本脚の烏を神使として崇敬する熊野三所権現(渚の宮神社)の至近距離にあり、日本蹴球生みの親たる中村覚之助を偲ぶよすがになっていたこと。また発案者の内野台嶺が覚之助の後輩に当たることでしょう。第二には、神武天皇の神話に基づくものでした。ただし日本サッカー協会の公式記録には、三本脚の烏と中村覚之助を直接結びつける記述はありません。
記紀の神話によれば、後に神武天皇となる神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)が熊野から大和に侵攻しようとしたときのこと、険しい熊野山中で道に迷ってしまいました。すると天照大神が八咫烏を遣わしたので、一行はそれに導かれて無事に難所を超えることができました。「咫」とは長さの単位で、親指と人差し指を広げた長さであるということです。「八」は「八百万の神」「八岐大蛇」などの例があるように、古代の日本では一種の聖なる数でしたから、「八咫烏」は「大きく神聖な烏」と理解すればよいのでしょう。ただし記紀の神話には八咫烏が三本脚であったことを示す記述はありません。
ただ紀元前2世紀に編纂された『淮南子』(えなんじ)には、太陽に三本脚の烏が棲んでいるという記述があります。またその意匠は高句麗の古墳壁画にも数多く残され、高句麗の古墳の影響が強いとされる奈良県明日香村のキトラ古墳壁画にも、太陽の中に烏が描かれています。ただし脚が三本であるかは確認できないそうですが。
そういうわけで、太陽に三本脚の烏が棲むという理解は、早い段階から日本にも伝えられていた可能性は捨てきれません。少なくとも太陽に烏が棲むという理解は、確実に伝えられていたはずです。そうであればこそ、太陽が神格化された天照大神が、烏を使者として遣わすという話がうまれてくるのです。
また天武天皇の長子である大津皇子が、父の没後、鵜野讃良皇后(持統天皇)から謀反の罪を着せられて処刑されるに当たり詠んだ辞世の詩が『懐風藻』に収められています。それには「金烏臨西舎・・・・此夕離家向」という悲壮な句がありますが、この「金烏」は太陽のことです。ここにもはっきりと太陽と烏の関係を見ることができます。そういうわけで、記紀に、八咫烏が三本脚であるとの記述がなくとも、長い間に熊野信仰で「三本脚の八咫烏」という理解が生まれてくるのも、自然なことなのです。
神話を教材にすることについては、色々な主張があることは承知しています。しかしそれを敢えて避けることは、敢えて強調することと本質的には同じではないでしょうか。神話は神話として、日本の大切な文化遺産の一つとして、私は素直に受け容れています。そして意外なところに歴史の痕跡が潜んでいることの面白さに気付かせたいと思っています。もう一言付け加えるならば、烏は太陽の象徴でもあるのですから、「日本」サッカー協会の徽章として、実に相応しいとも思っています。
そもそも烏とサッカーは直接には何の関係もありません。それが日本サッカー協会の徽章となったことには、日本サッカー生みの親とされる、中村覚之助という人物が関わっています。彼は明治11年、和歌山県那智町(現 那智勝浦町)で生まれました。そして明治33年、23歳のときに東京高等師範学校(筑波大学の前身)に入学しました。その在学中の明治35年、坪井玄道教授が米国視察から帰国し、「アッソシェーション・フットボール」を伝えました。当時、まだラグビーと未分化の「フットボール」の同好会を同大学内で立て上げていた中村覚之助は、早速その競技方法を学んで「ア式蹴球」と翻訳し、各地に出向いてその普及に努めました。そして卒業後も資金援助を惜しまず、後輩からも日本蹴球の創始者として尊敬を集めていました。
彼の没後、大正3年には同校関係者が中心となって、現在の日本サッカー協会の前身となる大日本蹴球協会が設立されました。そして昭和6年には、中村覚之助の後輩に当たる東京高等師範学校教授内野台嶺の発案が基となり、協会の徽章として制定され現在に至っています。
三本脚の烏が選ばれた理由は、まず第一に中村覚之助の生家が三本脚の烏を神使として崇敬する熊野三所権現(渚の宮神社)の至近距離にあり、日本蹴球生みの親たる中村覚之助を偲ぶよすがになっていたこと。また発案者の内野台嶺が覚之助の後輩に当たることでしょう。第二には、神武天皇の神話に基づくものでした。ただし日本サッカー協会の公式記録には、三本脚の烏と中村覚之助を直接結びつける記述はありません。
記紀の神話によれば、後に神武天皇となる神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)が熊野から大和に侵攻しようとしたときのこと、険しい熊野山中で道に迷ってしまいました。すると天照大神が八咫烏を遣わしたので、一行はそれに導かれて無事に難所を超えることができました。「咫」とは長さの単位で、親指と人差し指を広げた長さであるということです。「八」は「八百万の神」「八岐大蛇」などの例があるように、古代の日本では一種の聖なる数でしたから、「八咫烏」は「大きく神聖な烏」と理解すればよいのでしょう。ただし記紀の神話には八咫烏が三本脚であったことを示す記述はありません。
ただ紀元前2世紀に編纂された『淮南子』(えなんじ)には、太陽に三本脚の烏が棲んでいるという記述があります。またその意匠は高句麗の古墳壁画にも数多く残され、高句麗の古墳の影響が強いとされる奈良県明日香村のキトラ古墳壁画にも、太陽の中に烏が描かれています。ただし脚が三本であるかは確認できないそうですが。
そういうわけで、太陽に三本脚の烏が棲むという理解は、早い段階から日本にも伝えられていた可能性は捨てきれません。少なくとも太陽に烏が棲むという理解は、確実に伝えられていたはずです。そうであればこそ、太陽が神格化された天照大神が、烏を使者として遣わすという話がうまれてくるのです。
また天武天皇の長子である大津皇子が、父の没後、鵜野讃良皇后(持統天皇)から謀反の罪を着せられて処刑されるに当たり詠んだ辞世の詩が『懐風藻』に収められています。それには「金烏臨西舎・・・・此夕離家向」という悲壮な句がありますが、この「金烏」は太陽のことです。ここにもはっきりと太陽と烏の関係を見ることができます。そういうわけで、記紀に、八咫烏が三本脚であるとの記述がなくとも、長い間に熊野信仰で「三本脚の八咫烏」という理解が生まれてくるのも、自然なことなのです。
神話を教材にすることについては、色々な主張があることは承知しています。しかしそれを敢えて避けることは、敢えて強調することと本質的には同じではないでしょうか。神話は神話として、日本の大切な文化遺産の一つとして、私は素直に受け容れています。そして意外なところに歴史の痕跡が潜んでいることの面白さに気付かせたいと思っています。もう一言付け加えるならば、烏は太陽の象徴でもあるのですから、「日本」サッカー協会の徽章として、実に相応しいとも思っています。