うたことば歳時記

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日本サッカー協会と三本脚の烏

2015-06-30 22:07:59 | 歴史
 サッカーのJリーグ人気が高まり、三本脚の烏をあしらった日本サッカー協会のエンブレムを見る機会が増えました。そのいわれをサッカー部の生徒に聞いてみたところ、何も知らないということでした。何しろ古事記・日本書紀の神話にまで遡ることですから、今時の若者が知らないのも無理はありません。なぜ三本脚なのか尋ねると、脚の数が多い方が有利だからと冗談を言います。烏なのにボールを鷲づかみしていると言ったのですが、ギャグは通じませんでした。                 
 そもそも烏とサッカーは直接には何の関係もありません。それが日本サッカー協会の徽章となったことには、日本サッカー生みの親とされる、中村覚之助という人物が関わっています。彼は明治11年、和歌山県那智町(現 那智勝浦町)で生まれました。そして明治33年、23歳のときに東京高等師範学校(筑波大学の前身)に入学しました。その在学中の明治35年、坪井玄道教授が米国視察から帰国し、「アッソシェーション・フットボール」を伝えました。当時、まだラグビーと未分化の「フットボール」の同好会を同大学内で立て上げていた中村覚之助は、早速その競技方法を学んで「ア式蹴球」と翻訳し、各地に出向いてその普及に努めました。そして卒業後も資金援助を惜しまず、後輩からも日本蹴球の創始者として尊敬を集めていました。                        
 彼の没後、大正3年には同校関係者が中心となって、現在の日本サッカー協会の前身となる大日本蹴球協会が設立されました。そして昭和6年には、中村覚之助の後輩に当たる東京高等師範学校教授内野台嶺の発案が基となり、協会の徽章として制定され現在に至っています。
 三本脚の烏が選ばれた理由は、まず第一に中村覚之助の生家が三本脚の烏を神使として崇敬する熊野三所権現(渚の宮神社)の至近距離にあり、日本蹴球生みの親たる中村覚之助を偲ぶよすがになっていたこと。また発案者の内野台嶺が覚之助の後輩に当たることでしょう。第二には、神武天皇の神話に基づくものでした。ただし日本サッカー協会の公式記録には、三本脚の烏と中村覚之助を直接結びつける記述はありません。
 記紀の神話によれば、後に神武天皇となる神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)が熊野から大和に侵攻しようとしたときのこと、険しい熊野山中で道に迷ってしまいました。すると天照大神が八咫烏を遣わしたので、一行はそれに導かれて無事に難所を超えることができました。「咫」とは長さの単位で、親指と人差し指を広げた長さであるということです。「八」は「八百万の神」「八岐大蛇」などの例があるように、古代の日本では一種の聖なる数でしたから、「八咫烏」は「大きく神聖な烏」と理解すればよいのでしょう。ただし記紀の神話には八咫烏が三本脚であったことを示す記述はありません。  
 ただ紀元前2世紀に編纂された『淮南子』(えなんじ)には、太陽に三本脚の烏が棲んでいるという記述があります。またその意匠は高句麗の古墳壁画にも数多く残され、高句麗の古墳の影響が強いとされる奈良県明日香村のキトラ古墳壁画にも、太陽の中に烏が描かれています。ただし脚が三本であるかは確認できないそうですが。
 そういうわけで、太陽に三本脚の烏が棲むという理解は、早い段階から日本にも伝えられていた可能性は捨てきれません。少なくとも太陽に烏が棲むという理解は、確実に伝えられていたはずです。そうであればこそ、太陽が神格化された天照大神が、烏を使者として遣わすという話がうまれてくるのです。
 また天武天皇の長子である大津皇子が、父の没後、鵜野讃良皇后(持統天皇)から謀反の罪を着せられて処刑されるに当たり詠んだ辞世の詩が『懐風藻』に収められています。それには「金烏臨西舎・・・・此夕離家向」という悲壮な句がありますが、この「金烏」は太陽のことです。ここにもはっきりと太陽と烏の関係を見ることができます。そういうわけで、記紀に、八咫烏が三本脚であるとの記述がなくとも、長い間に熊野信仰で「三本脚の八咫烏」という理解が生まれてくるのも、自然なことなのです。
 神話を教材にすることについては、色々な主張があることは承知しています。しかしそれを敢えて避けることは、敢えて強調することと本質的には同じではないでしょうか。神話は神話として、日本の大切な文化遺産の一つとして、私は素直に受け容れています。そして意外なところに歴史の痕跡が潜んでいることの面白さに気付かせたいと思っています。もう一言付け加えるならば、烏は太陽の象徴でもあるのですから、「日本」サッカー協会の徽章として、実に相応しいとも思っています。           


土師器と須恵器の色

2015-06-30 13:38:25 | 歴史
 大和時代の文化で必ず学習する土師器と須恵器ですが、土師器は赤褐色、須恵器は灰色と説明されます。しかしその違いがなぜ生ずるのかについては、全く説明されません。色の違いにこそ技術的に決定的な相違があるのに、なぜ教科書は触れようとしないのでしょうか。また教える先生も、なぜ色が異なるのか疑問に思わないのでしょうか。教職40年の「先輩」として言うならば、そのことを疑問に思い、さらになぜ異なるのか自分で探求することをしない先生の授業は、面白さという点であまり期待できません。教える者が常に探究心を持って研修するからこそ、学習することの楽しさを伝えることができると思っています。考査に出題されるので、生徒はただ機械的に「土師器は赤褐色、須恵器は灰色」と暗記するだけです。教える授業者も、その相違の意味していることを、どこまで本当に理解しているか怪しいものです。事実、私自身も陶芸教室に参加して、還元焼成と酸化焼成により、仕上がりの色が全く異なることを体験するまでは、知らなかったのです。

 粘土の中には必ず鉄分が含まれていますが、粘土で形を作った土器を焼くと、粘土の中の鉄が酸化されて酸化第二鉄となります。酸化第二鉄とはいわゆる赤錆のことですから、よく焼き上がった土器は赤褐色になるのが普通です。土師器は弥生土器と基本的には同じ作り方で露天で焼きますから、酸素が十分に供給され、赤褐色になるのです。これを酸化焼成と言います。また露天で焼きますから、熱はどんどん逃げてしまい、どれ程長時間焼成しても、温度はある一定以上は上がりません。せいぜい800度くらいでしょうか。

 しかし朝鮮半島から伝えられた新しい技術による須恵器は、露天ではなく斜面に築かれた穴窯で焼きます。簡単に言えば、半地下の巨大な煙突の中で焼くと思えばよいでしょう。閉鎖された窯の中で焼きますから、何日も継続して焼成すれば、窯の中の温度も千度以上になります。そして須恵器を焼く場合、最後の最後に焚き口に大量の薪を投入し、煙の出口と焚き口を密閉してしまいます。酸素が供給されないのに燃料は十分に供給され、しかも千度をこす高熱があるのですから、粘土の中の酸素が奪われ、結果として還元されます。いわば炭焼きの原理と同じことです。炭焼き窯の中に酸素を供給すれば、窯に詰めた木材はみな灰になってしまいますよね。備前焼の釜焚きの様子を見たことがあるのですが、焼成の最終段階で、大量の木炭を投入していました。備前焼は釉薬を使わず、原理としては須恵器と同じことですから。そして冷却されるのを何日も待つわけです。酸素が十分に供給されませんから、粘土の中に含まれている酸素さえ奪い取られ、粘土の中の鉄分は還元されて酸化第一鉄になります。これはいわゆる黒錆で黒色ですから、鉄を含んだ粘土は灰色に焼き上がるわけです。これを還元焼成と言います。

 酸素が不十分なのに燃焼するという現象は、実は身近にも見られます。枯れきっていない草を火種の上に覆い被せると、炎は上がらずに煙だけがもくもくと立ち上ることがあります。この場合は一酸化炭素が発生しているのですが、屋外ですから危険ではありません。いわゆる不完全燃焼です。ガスや木炭の不完全燃焼も同じことですが、こちらは命に関わります。そういう状態の所に団扇などで空気、つまり十分な酸素を供給してやれば、真っ赤な炎を上げて盛んに燃え始め、煙も出なくなります。この時は酸素が十分ありますから、二酸化炭素が発生しているのです。要するに須恵器というのは、最後に不完全燃焼させて鉄分が黒く発色しているわけなのです。

 身近なところに土師器や須恵器があれば実物で色を見せられるのですが、どうしてもなければ素焼きの植木鉢と屋根瓦で説明します。植木鉢は酸化焼成されていますから、赤褐色をしています。それに対して屋根瓦は、まあ地方によっては色々な色があるでしょうが、一般的には黒っぽい色をしています。これは還元焼成されたからです。身近なところから教材を提示できるところに、面白さがあると思います。


追記
高校の日本史の教科書には、「弥生土器の系譜を引く赤焼きの土師器・・・・朝鮮半島から硬質で灰色の須恵器・・・・」としか書かれていませんから、生徒はテスト対策として、「土師器は赤色、須恵器は灰色」とわけもわからずにただ暗記しようとします。上記の酸化焼成と還元焼成の理屈まで教科書に書く余裕はありませんから、教科書に触れられていないのやむを得ません。しかし指導する先生がそれを知らないとしたら、ただ教科書そのままに「土師器は赤っぽく、須恵器は灰色だよ」という以上のことは言えないでしょう。こういうことを繰り返していれば、ますます歴史の授業は暗記ばかりでつまらないと言われてしまいます。少なくとも指導する先生は、なぜ色が違うのか、ということを疑問におもわなければなりません。えらそうなことを言って申し訳ありませんが、そのような事を疑問に思い、それを調べてみようとするかどうかで、その先生の授業力に差が付いてくるのです。今はネットですぐに調べられます。私の頃は、陶芸の本を図書館から借りてきて片端から読んだり、陶芸家を訪ねて登り窯で焼いているのを見せてもらったりして、すこしづつ覚えていったものです。それだけに深く体験的に学んでいます。ネットで調べられる時代だからこそ、手間と時間をかけて教材研究をすることがどれだ大切か、若い世代の先生にお伝えしたく思います。

さくらさくら

2015-06-29 12:34:11 | 唱歌
 外国人に日本の伝統的な歌を紹介するときに、必ずといってよい程歌われるのがこの『さくらさくら』である。それはオペラ『蝶々夫人』に登場して、早くから日本の代表的なメロディーとして西洋に知られたことが一因であろう。またNHKの海外向け放送でも、一日で何回もBGMとして流れていて、外国人にとっては「日本」を印象付ける曲となっている。
 作詞者も作曲者もよくわからない。江戸時代末期には箏曲の練習曲であったことまでは解るらしいが、それ以上は不明とのことである。明治21年に東京音楽学校の『箏曲集』「櫻」として収められたときの歌詞は次の如くである。

   さくら さくら 弥生の空は 見渡す限り 
   霞か雲か にほひぞいづる いざや いざや 見に行かん

ところが、昭和16年の国民学校音楽教科書の『うたのほん 下』では、歌詞が改訂されている。

   さくら さくら 野山も里も 見渡す限り 
   霞か雲か 朝日ににほふ さくら さくら 花盛り

 戦後はいくつかの出版社が教科書に掲載したが、それほど多く採用されたわけではないという。また歌詞も上記の二通りで、統一されていなかった。しかし昭和42年には学習指導要領で小学2年生で扱うこととなり、歌詞も昭和16年のものと同じに統一された。昭和52年には、同じく小学4年生の共通教材に選ばれ、平成元年には、同じく中学1年生の共通教材となった。ただし中学校の教材では、本来の歌詞に戻っている。これら一連の動きは、伝統文化の尊重をうたう学習指導要領の改訂を承けたものであろう。
 さて歌詞の内容であるが、「弥生」は旧暦3月のことであるから、新暦ではおよそ4月に当たる。ちょうど桜が満開の時期であり、言葉の使い方としては正しい。新暦4月を旧暦四月の呼称である「卯月」と言われると、卯の花の咲く卯月に桜が咲くということになってしまう。
 「霞か雲か」は遠くに見える桜の比喩である。もともと霞は春が立ったことの徴として理解されていた。それは、『古今和歌集』以後の勅撰和歌集では、春の部の巻頭はほとんどが春霞の歌で占められていることにも表れている。それで遠山桜が霞に喩えられるのであるが、そもそも桜に見紛う程に濃厚な霞などありはしない。霞かと思ってよくよくみたら桜であったなどということはあり得ない。また霞は気象用語でもなく、遠くの景色がぼんやり見えることを表しているに過ぎない。それでも遠山桜を霞に見立てるのは、そのような理解が伝統的共通理解であったからである。桜を霞や雲や雪に見立てた古歌は枚挙に暇がなく、常套的表現であったのである。参考までに、そのような歌をいくつか上げておこう。
  ○立ち渡る霞のみかは山高み見ゆる桜の色もひとつを       (後撰集 春 63)   「山高み」は「山が高いので」という意味。
  ○おしなべて花のさかりに成りにけり山の端ごとにかかる白雲   (千載集 春 69)
  ○白雲のたなびく山の山桜いづれを花と行きて折らまし      (新古今 春 102)
  ○白雲と峰には見えて桜花散ればふもとの雪にぞありける     (千載集 春 79)
 「にほひ」は「匂い」のことであるが、嗅覚的な香りのことではない。古語の「におい」とは色が美しく映えることであり、赤系の色に使われることが多い。「桜に匂いなどない」と本気で言われると、面食らって反論する元気もなくなってしまう。
 不思議に思われるかもしれないが、「見に行かん」も古典的和歌の理解を踏まえている表現である。そもそも桜は山に自生していた樹木であり、庭に植えるものではなかった。その点で8世紀ころに唐から伝えられた梅は、わざわざ庭に植えて色と香を楽しむ樹木であった。それで「軒端の梅」はあっても「軒端の桜」という表現はないのである。もちろん後には庭にも移植されるが、桜は本来はまずは離れたところから遠山桜を眺め、そしてわざわざ出かけていって愛でる花であった。「桜伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿」という句がある。桜は剪定に不向きであり、梅は剪定して樹形を整えて眺めるのがよいことを表している。そういうわけで桜は大木に生長するが、梅は庭の広さに合わせて調節することが可能である。このような樹木の性質の相異も手伝っているのであろう。これも参考までに、山に花見に行くことを詠んだ歌を上げておこう。
  ○山桜心のままにたづね来て帰さぞ道の程は知りぬる    (後拾遺 春 91)
  ○花見にと人は山辺に入りはてて春は都ぞ寂しかりける   (後拾遺 春 103)
 「朝日ににほふ」は本居宣長の歌「敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花」を意図して選ばれた表現であろう。昭和16年にこの歌詞が教科書に載ったことについては、時節柄「大和魂」を高揚させたい政治的意図が見えるが、本居宣長のいう「大和心」とは、儒教や仏教が採り入れられる前の、日本人が本来持っていた心を表す言葉である。本居宣長の歌の原点に還るなら、いきり立つ程のことはあるまいと思っている。
 それにしても思うことは、誰の作詞かわからないが、正確に古典和歌の理解を踏まえて言葉が選ばれていることである。古典和歌の研究を趣味にしている私にとっては、「見に行かん」という言葉を選んでいることに驚くのである。

夏草

2015-06-28 09:31:56 | うたことば歳時記
夏草

家庭菜園をしていると、夏の草取りは大変な仕事である。まして本格的に耕作をしていたり、広い原野を管理する人にとっては、繁りあう草に手を焼くことだろう。また狭い山道は草に塞がれて、道さえ見えなくなる。このように暑い盛りに旺盛に茂る草を、和歌では「夏草」という。
  ①大荒木の森の下草しげりあひて深くも夏のなりにけるかな    (拾遺集 夏 136)
①の意味はわかりやすい。夏草が深く茂るように夏も深くなったといい、草が茂ることや季節が盛りになることを「深くなる」と表現している。そう言えば、京都に「深草」という地名があり、「草深い」という表現もある。
  ②夏草は茂りにけりなたまぼこの道行き人も結ぶばかりに    (新古今 夏 188)
  ③夏草を結ぶしるしのなかりせばいかで行かまし山里の道    (夫木抄 3376)
②の「たまぼこの」は「道」に掛かる枕詞で、草を結ぶ程に長く夏草が伸びたことを詠んでいる。③では、旅の安全のために草を結ぶ習俗が詠まれている。草を結ぶことは、帰り道の標(しるべ)にするという意味もあった。夏の歌ではないが、そのことをはっきり詠んだ歌があるので、参考までにあげておく。
  ○霜枯れの野原の浅茅結びおかんまた帰り来ん道のしるべに    (堀河百首 野 1393)
枝を撓(たわ)めたり折ったりして徴とし、後から来る人の目印にした「栞」(しおり)と同じようなものであろう。
 他にも草を結ぶ習俗を詠んだ歌を上げてみよう。
  ④妹が門行き過ぎかねて草結ぶ風吹き解くなまたかへりみむ   (万葉集 3056)
  ⑤朝立ちて別れし人は今もかも鄙(ひな)の荒野に草結ぶらん」  (夫木抄 36)
 ④では、草を結ぶことは互いの心を結ぶ呪いとなっていることがわかる。⑤では③と同じように、旅の安全を祈って草を結ぶという習俗があったことがわかる。「結ぶ」とは抽象的なものが形をとって顕れることであり、呪術的な要素をもった言葉なのである。
 「深く茂る夏草」からの連想を、恋の歌に詠めば次のようになる。
  ⑥枯れはてむのちをば知らで夏草の深くも人の思ほゆるかな   (古今集 恋 686)
  ⑦あしひきの山下しげき夏草の深くも君を思ふころかな     (新古今 恋 1068)
⑥も⑦も、「夏草の深いように深く人を思う」という趣向で、「夏草の」は「深い」に掛かる枕詞にもなっている。草が茂ることを「深い」と感じることの少なくなった現代人には、理解はできてもあまり使わない表現であろう。
 茂りあう夏草は、時には煩わしい噂話に喩えられることもあった。
  ⑧里人の言は夏野の繁くともかれゆく君に逢はざらめやは    (古今集 恋 704)
⑧は、人の噂話は夏草のように煩(うるさ)いが、離れてゆくあなたに逢わずにはいられようか、という意味である。「かれゆく」は「枯れゆく」と「離(か)れゆく」を掛けていて、草が枯れるように離(か)れてゆくことを意味している。自然の物を通して心を間接的に表現する大和言葉の二重構造は、現代人にはなかなかすぐには理解できないものになっていることが実感される歌詞である。

夜の梅

2015-06-28 09:30:15 | 唱歌


 花や紅葉の名所では、夜もライトアップされた景色を楽しめることがある。それはそれでなかなか美しいものである。しかし人工的な光ではなく、自然な光、わけても月の光のもとでみる美しさの方が、情趣としては優っているように思う。唱歌『夜の梅』はそのような美しさを余すところなく表した歌である。
 岡野貞一 の作曲による文部省唱歌で、 大正3年の『尋常小学唱歌 第六学年用』に掲載された。

  1、梢(こずえ)まばらに咲初(そ)めし  花はさやかに見えねども
    夜もかくれぬ香にめでて     窓はとざさぬ闇の梅

  2、花も小枝(さえだ)もそのままに うつる墨画の紙障子
    かをりゆかしく思へども     窓は開かぬ月の梅

 1番は、月も見えない闇夜の梅を歌っている。花の色は見えなくとも、梅の花が咲いていることは香りでそれとわかる。夜は目がきかないから、かえって香りが引き立つというものである。梅が咲き始める頃の夜は、まだ寒さが厳しいであろうのに、窓を閉ざすことなく、梅の香りを楽しんでいる。作詞者の脳裏には、きっと次の歌がかすめたことであろう。
  ①月夜にはそれとも見えず梅の花香をたずねてぞ知るべかりける (古今集 春 40)
  ②春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる    (古今集 春 41)
①は、月夜には花はよくは見えないが、香りで梅の花とわかる、という意味。②の「あやなし」とは「役に立たない」という意味で、闇夜も闇夜の意味がない。香りは隠れようもないから、という意味である。
 2番は、月夜の梅を歌っている。月影が明るいのは満月前後のこと。もしそうならば、月の高度がまだ高くない夜もまだ早い時間であろうか。梅の枝越しに月影が差しているので、障子に梅の枝の影が墨絵のように映っているというのである。梅の枝の影だけではなく、障子の桟の影も画面を幾何学的に分割し、梅の枝の影と相俟って、一幅の水墨画となっているのであろう。床の間に飾られる梅の絵を見たことのある生徒は、今日よりも多かったはず。「まるであの墨絵のようだ」と感じる生徒もいたはずである。
 このような古典的・伝統的な情趣が小学6年生に理解できただろうか。おそらく作詞者や文部省が期待するレベルには至らなかったであろう。しかし「大人の身勝手」とか「価値観の押し付け」という批判は当たらないと思う。たとえその時はわからなくとも、幼・少年期に学んだことは、時が経ってわかるようになり、しみじみとした情趣を大人になってから味わうことができるものである。私自身、「うさぎ追いしかの山」を「うさぎ美味しかの山」、「もとの木は生いや茂れる」を「老い椰子げれる」(自分でも意味不明)、「濃いも薄いも数ある中に」を「鯉もうぐいも数ある中に」、「村の渡しの船頭さんは」を「村の私の船頭さんは」、「文読む月日重ねつつ」を「踏み読む月日重ねつつ」、「玉のよそい うらやまじ」を「玉のよそい うらやまし」、「菜の葉に飽いたら桜にとまれ」を「菜の葉に空いたら桜にとまれ」などなど、数え切れない程の勘違いをして覚えてしまったものである。しかし成長するにつれて自ずと理解できるようになり、また恥ずかしい思いもしたものである。たとえその年代の学力では理解しきれなくとも、「夜に梅の花の香りをかいでごらん。花が見えなくても、とってもよい匂いがするんだよ」という語りかけ程度でよいではないか。意味は曖昧でも、文語調の語感を感じ取ることは、感性を養うことにとてもよい刺激になる。意味はいずれわかるときが来る。しかしそうは言うものの、子供の年齢に相応しい言葉と感覚の歌を教えることも大切である。
 年齢に相応しい刺激を受けつつ子供は成長するが、時には堅い食べ物を与え、知らなかった世界を垣間見させることも教育なのである。伝統的価値観の押し付けと非難されることもあろう。現代は個性が重視される時代であると。しかし考えてもみてほしい。個性的価値観は、普遍的で伝統的な価値観の上に載せられるからこそ輝くのである。どちらがより重要かと、天秤にかけることではない。どちらも重要なのである。しかしどちらが先かと言われれば、それはまず普遍的価値に触れることが優先される。
 ついつい話が逸れてしまったが、「夜の梅」と聞けばすぐに思い起こすのは、和菓子の老舗であるとらやの銘菓である。羊羹を切ると、小豆の粒が白くぼんやりと浮かんで見えるが、それがまるで夜の梅の花のようだという。店の説明によれば、元禄年間以来のものというから驚いた。何とも典雅な名前を付けたものである。座布団10枚差し上げたい。