節分ではどうして豆をまくの?
鬼を追い出すのに豆をまく風習は、中国の紀元前の漢の時代に始まっていたらしいのですが、日本では室町時代からです。室町時代初期、将軍に仕えたの伊勢貞弥(いせさだや)という武士の『花営三代記』という日記には、節分に大豆と搗栗(かちぐり)を恵方に向かってまいたことが記されています。また『臥雲日件録(がうんけんにちろく)』という相国寺の僧瑞渓周鳳(ずいけいしゆうほう)の日記には、節分に部屋ごとに「鬼は外、福は内」と唱えながら熬豆(いりまめ)を撒いたと記されています。
豆を撒く理由について、一般には、豆が「魔滅」(まめ)に通じるからという説明をよく見かけます。これには一応史料的根拠があります。『和漢三才図会』という江戸時代の百科事典には、除夜に豆を撒くのは、「魔滅」を掛けているのであろうかと、推測する記述があります。しかしあくまで著者の想像であって、そのような理解が共有されていたわけではありません。中国語で豆を「mame」と発音するはずはなく、中国では最初から豆を撒く風習があったのですから、いかにも後で取って付けた解釈です。林羅山という江戸時代初期の儒学者が著した『庖丁書録』(1652年)には「節分豆・・・・大豆を撒ひて鬼の眼を打ちつぶすなり」と記されていますから、「豆」を「魔目」と理解したのかもしれません。また炒り豆をまくのですが、現在では「魔の芽」(豆)が芽を出さないようにするためと説明されていますが、そのことを証明する史料は確認できません。おそらく誰かが面白おかしくこじつけて説明したものが広まったのでしょう。
江戸時代末期の『江戸府内絵本風俗往来』には、「鬼は外、福は内」と言いながら、部屋ごとに豆を撒いて戸や障子を閉めます。すると家族の者は競って年の数程豆を拾い、山椒と梅干しに豆を加えて煮だし、「福茶」と称してこれを飲むと記されています。現在の豆撒きも、基本的には江戸時代と変わっていないようです。
節分では撒いた豆を食べる風習がありますが、その数については諸説があります。年の数だけという説と、それより一つ多くという説があるのですが、その「年」も満年齢と数え年の二つの説があります。要するに、①満年齢、②満年齢+1、③数え年、④数え年+1の4説があるのです。しかし本来は数え年による年齢よりも一つ多く食べるものでした。
数え年では年が改まると一斉に年を重ねるという数え方をします。韓国では現在もこの方法で年齢を数えています。今は年が改まるのはもちろん元日ですが、古くは立春から新しい年が始まるという理解も並行して行われていましたから、節分の夜が明けると日本中全員が1歳年をとるのです。また豆撒きは室町時代までは大晦日の行事でしたから、なおさら豆撒きが終わると年を一歳重ねると理解されていたのです。そういうわけで、鬼を追い払ってめでたく1歳長生きするわけですから、その分だけ一つ余計に豆を食べるというわけなのです。しかし現在は満年齢で数えるようになり、そのような理解は忘れられてしまい、年の数だけ食べるということになってしまいました。数え年を使わなくなった現在では、自分の年齢が数え年では何歳かわからないことがあります。厳密には誕生日がいつかによって計算方法が違うのですが、それではあまりにも細かすぎるので、まあ満年齢より一つ多く食べるというあたりでよいのでしょう。ネット情報には、新しい年の福を取り込むために一つ多く食べるなどと、いかにももっともらしく書かれていますが、そのような情報を書いている人は、歴史的文献など読んだことがないのでしょう。
鬼を追い出すのに豆をまく風習は、中国の紀元前の漢の時代に始まっていたらしいのですが、日本では室町時代からです。室町時代初期、将軍に仕えたの伊勢貞弥(いせさだや)という武士の『花営三代記』という日記には、節分に大豆と搗栗(かちぐり)を恵方に向かってまいたことが記されています。また『臥雲日件録(がうんけんにちろく)』という相国寺の僧瑞渓周鳳(ずいけいしゆうほう)の日記には、節分に部屋ごとに「鬼は外、福は内」と唱えながら熬豆(いりまめ)を撒いたと記されています。
豆を撒く理由について、一般には、豆が「魔滅」(まめ)に通じるからという説明をよく見かけます。これには一応史料的根拠があります。『和漢三才図会』という江戸時代の百科事典には、除夜に豆を撒くのは、「魔滅」を掛けているのであろうかと、推測する記述があります。しかしあくまで著者の想像であって、そのような理解が共有されていたわけではありません。中国語で豆を「mame」と発音するはずはなく、中国では最初から豆を撒く風習があったのですから、いかにも後で取って付けた解釈です。林羅山という江戸時代初期の儒学者が著した『庖丁書録』(1652年)には「節分豆・・・・大豆を撒ひて鬼の眼を打ちつぶすなり」と記されていますから、「豆」を「魔目」と理解したのかもしれません。また炒り豆をまくのですが、現在では「魔の芽」(豆)が芽を出さないようにするためと説明されていますが、そのことを証明する史料は確認できません。おそらく誰かが面白おかしくこじつけて説明したものが広まったのでしょう。
江戸時代末期の『江戸府内絵本風俗往来』には、「鬼は外、福は内」と言いながら、部屋ごとに豆を撒いて戸や障子を閉めます。すると家族の者は競って年の数程豆を拾い、山椒と梅干しに豆を加えて煮だし、「福茶」と称してこれを飲むと記されています。現在の豆撒きも、基本的には江戸時代と変わっていないようです。
節分では撒いた豆を食べる風習がありますが、その数については諸説があります。年の数だけという説と、それより一つ多くという説があるのですが、その「年」も満年齢と数え年の二つの説があります。要するに、①満年齢、②満年齢+1、③数え年、④数え年+1の4説があるのです。しかし本来は数え年による年齢よりも一つ多く食べるものでした。
数え年では年が改まると一斉に年を重ねるという数え方をします。韓国では現在もこの方法で年齢を数えています。今は年が改まるのはもちろん元日ですが、古くは立春から新しい年が始まるという理解も並行して行われていましたから、節分の夜が明けると日本中全員が1歳年をとるのです。また豆撒きは室町時代までは大晦日の行事でしたから、なおさら豆撒きが終わると年を一歳重ねると理解されていたのです。そういうわけで、鬼を追い払ってめでたく1歳長生きするわけですから、その分だけ一つ余計に豆を食べるというわけなのです。しかし現在は満年齢で数えるようになり、そのような理解は忘れられてしまい、年の数だけ食べるということになってしまいました。数え年を使わなくなった現在では、自分の年齢が数え年では何歳かわからないことがあります。厳密には誕生日がいつかによって計算方法が違うのですが、それではあまりにも細かすぎるので、まあ満年齢より一つ多く食べるというあたりでよいのでしょう。ネット情報には、新しい年の福を取り込むために一つ多く食べるなどと、いかにももっともらしく書かれていますが、そのような情報を書いている人は、歴史的文献など読んだことがないのでしょう。