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節分ではどうして豆をまくの? 子供のための年中行事解説

2022-01-23 07:48:16 | 年中行事・節気・暦
節分ではどうして豆をまくの?
 鬼を追い出すのに豆をまく風習は、中国の紀元前の漢の時代に始まっていたらしいのですが、日本では室町時代からです。室町時代初期、将軍に仕えたの伊勢貞弥(いせさだや)という武士の『花営三代記』という日記には、節分に大豆と搗栗(かちぐり)を恵方に向かってまいたことが記されています。また『臥雲日件録(がうんけんにちろく)』という相国寺の僧瑞渓周鳳(ずいけいしゆうほう)の日記には、節分に部屋ごとに「鬼は外、福は内」と唱えながら熬豆(いりまめ)を撒いたと記されています。
 豆を撒く理由について、一般には、豆が「魔滅」(まめ)に通じるからという説明をよく見かけます。これには一応史料的根拠があります。『和漢三才図会』という江戸時代の百科事典には、除夜に豆を撒くのは、「魔滅」を掛けているのであろうかと、推測する記述があります。しかしあくまで著者の想像であって、そのような理解が共有されていたわけではありません。中国語で豆を「mame」と発音するはずはなく、中国では最初から豆を撒く風習があったのですから、いかにも後で取って付けた解釈です。林羅山という江戸時代初期の儒学者が著した『庖丁書録』(1652年)には「節分豆・・・・大豆を撒ひて鬼の眼を打ちつぶすなり」と記されていますから、「豆」を「魔目」と理解したのかもしれません。また炒り豆をまくのですが、現在では「魔の芽」(豆)が芽を出さないようにするためと説明されていますが、そのことを証明する史料は確認できません。おそらく誰かが面白おかしくこじつけて説明したものが広まったのでしょう。
 江戸時代末期の『江戸府内絵本風俗往来』には、「鬼は外、福は内」と言いながら、部屋ごとに豆を撒いて戸や障子を閉めます。すると家族の者は競って年の数程豆を拾い、山椒と梅干しに豆を加えて煮だし、「福茶」と称してこれを飲むと記されています。現在の豆撒きも、基本的には江戸時代と変わっていないようです。
 節分では撒いた豆を食べる風習がありますが、その数については諸説があります。年の数だけという説と、それより一つ多くという説があるのですが、その「年」も満年齢と数え年の二つの説があります。要するに、①満年齢、②満年齢+1、③数え年、④数え年+1の4説があるのです。しかし本来は数え年による年齢よりも一つ多く食べるものでした。
 数え年では年が改まると一斉に年を重ねるという数え方をします。韓国では現在もこの方法で年齢を数えています。今は年が改まるのはもちろん元日ですが、古くは立春から新しい年が始まるという理解も並行して行われていましたから、節分の夜が明けると日本中全員が1歳年をとるのです。また豆撒きは室町時代までは大晦日の行事でしたから、なおさら豆撒きが終わると年を一歳重ねると理解されていたのです。そういうわけで、鬼を追い払ってめでたく1歳長生きするわけですから、その分だけ一つ余計に豆を食べるというわけなのです。しかし現在は満年齢で数えるようになり、そのような理解は忘れられてしまい、年の数だけ食べるということになってしまいました。数え年を使わなくなった現在では、自分の年齢が数え年では何歳かわからないことがあります。厳密には誕生日がいつかによって計算方法が違うのですが、それではあまりにも細かすぎるので、まあ満年齢より一つ多く食べるというあたりでよいのでしょう。ネット情報には、新しい年の福を取り込むために一つ多く食べるなどと、いかにももっともらしく書かれていますが、そのような情報を書いている人は、歴史的文献など読んだことがないのでしょう。 


節分にはどうして鬼を追い払うの?(子供のための年中行事解説)

2022-01-22 07:08:59 | その他
節分にはどうして鬼を追い払うの?
 多くの伝統的年中行事が次第に忘れられつつありますが、節分は子供向けのユーモラスな面もあってか、まだ身近に行われています。そもそも「節分」の「節」とはこの場合は季節のことですから、節分とは、季節と季節を分ける境目の日のことです。四季の始まる日は、それぞれ立春・立夏・立秋・立冬ですから、それぞれの前日が季節の境目の日、つまり節分というわけです。すると節分が1年に4回になってしまいますが、節分本来の意味からすれば、それでよかったのです。平安時代の貴族の日記には、「夏節分・秋節分・冬節分」などの表記がいくつも見られます。しかし昔は新しい年が始まる日は立春と元日の二通りが並行して行われていましたから、立春の前日の節分は一年の最後の日であり、節分といえば立春の前日を指すようになりました。
 それなら節分にはなぜ鬼を追い払うのでしょうか。年末には新年を迎えるのにふさわしく、家の中をきれいにする煤払(すすはらい)が行われます。立春から1年を数え始めれば、節分は1年の最後の日に当たりますから、旧年の汚れを払い清めなければなりません。ですから追い払われる鬼はその汚れの象徴なのです。
 年末に鬼を追い払うことはもともとは古代中国の風習で、紀元前の前漢の時代に成立した『周礼』(しゅらい)という書物に記されています。それによれば、四つ目の金色の面をかぶり、上が黒、下が赤の衣服を着て、矛と盾を持つ方相氏(ほうそうし)という役目の者が、鬼を追い出すことになっています。このような風習が日本にも伝えられ、「追儺」と書いて、音読みでは「ついな」、訓読みでは「おにやらい」と読まれていました。「やらう」とは「追う」という意味です。文献上では、『続日本紀』(しょくにほんぎ)という奈良時代の歴史書の慶雲三年(706)十二月大晦日に行われたのが追儺の最も古い記録ですから、8世紀の初めには唐から伝えられていたと考えられます。
 それなら追儺の儀式はどのようなものだったのでしょうか。朝廷の儀式を定めた『内裏式』(だいりしき、821年)によれば、宮中の雑役に従事する下級役人である大舎人が、方相氏という鬼を追う役に扮し、20人の子供を従えて入場します。その扮装は、黄金四目の仮面を着け、玄衣に朱裳(腰から下に履く服)をまとい、右手に戈(槍の一種)、左手に楯を持つという、見るからに恐ろしげな姿をしています。この方相氏の姿は、『周礼』に記されているのと全く同じです。そして「方相氏が鬼を追う威勢のよい掛け声を叫び、戈で楯を撃つと、それに従う者達も声を合わせて鬼を追う。また桃の木の弓を持った者が葦の矢を放って方相氏を援護し、鬼を門外に追い払う」と記されています。
 ところが平安末期の『江家次第』(ごうけしだい、1111年)という書物によれば、かなり様子が異なります。「方相氏が大声を上げて戈で楯を叩くと、多くの者達がこれに応じて大声を上げて方相氏を追いまわす。方相氏が門から逃げ出すと、さらに追いかけて桃の弓と葦の矢でこれを射る」と記されています。以前には見えない鬼を追い払っていたはずの方相氏が、追われる鬼になってしまっているのです。室町時代の『公事根源』(くじこんげん、1422年)という書物にも、鬼というのは方相氏の事であると記されています。この逆転は、方相氏の異様な姿によると考えられます。四つ目の金色の面をかぶり、黒の衣と朱の裳をまとい、戈と楯を持って駆け回るのですから、これが鬼と錯覚されたのも無理はありません。この姿は長い間に少し変わりますが、四つ目の姿は江戸時代まで伝えられ、『東都歳時記』(とうとさいじき、1838年)という江戸の歳時記の亀戸天満宮の追儺の図に描かれています。それによれば、二本の角に四つ目の面をかぶり、猿皮の衣を着て、鹿角の杖を持っています。そして赤鬼・青鬼と説明されています。
 現代の絵本に描かれる鬼は、いわゆる虎の皮の褌(ふんどし)をはいています。鬼が角を生やし虎の皮の褌をしているとされることについて、一般には次のように説明されています。「鬼は東北の方角から人間界に入って来るとされ、それは鬼門(きもん)と呼ばれている。鬼門の方角、つまり北東の方角は、十二支では丑寅(うしとら、艮)と表されるため、牛の角を生やし虎の皮をはいている」というのです。これはほぼ定説化していて、話としては面白いのですが、それを裏付ける文献や根拠は何一つありません。おそらく誰かが根拠もないのに面白がって言い始めたことが、そのまま広まってしまったと考えられます。
 平安時代から江戸時代に描かれた鬼の姿を調べてみると、角はなかったり、一本の者や二本の者もいます。褌をはいているとは限りませんが、はいていたとしても、虎・豹(ひょう)・狸の皮が用いられ、虎皮に限ったわけではありません。また突起のあるあの独特の金棒は明治時代の図に出現します。現在のユーモラスな鬼の姿は、明治時代以後に創り出されたものでしょう。

 残念なことですが、こうして年中行事は作り変えられてしまうのです。ネット情報にはいい加減なものがありますから、十分注意して下さい。「・・・・と言われています」とか「・・・・と伝えられています」という書き方をしている情報は、ほとんどが眉唾物と思った方がよいでしょう。年中行事も立派に歴史の一部なのですから、確かな裏付けがなければなりません。誰かが面白くするために根拠もなく言い始めたことが、さも歴史事実であるかのようになってはいけません。

『鎖国論』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2022-01-18 19:56:37 | 私の授業
鎖国論


原文
 其国、檻(おり)の内に在りて、太平の沢(たく)を受て、異国の人と通商通交せざるを以て患(わずらい)とせず。如何(いかん)とならば、地勢有福にして、是等の事なくても堪(たう)るが故なり。さればまた我輩の異国と通商通交することを好めるは、偏(ひとえ)に人生切用(切要)のものを取来(とりきた)らんが為、またはかの切用のものをして好ならしめ、佳ならしめ、便ならしむることを致すものを、来(きた)し具(そな)ふるが為にして、兼ては又花奢(かしや)の風を止めんが為なれば、譏(そし)るべきにはあらず。・・・・・・
 然らば今爰(ここ)に一箇の国あり。造化(ぞうか)、これに処するに寛良の徳を以(もつて)して、一切生命を扶(たす)け保つの諸用を具(そな)へ施して、然(しか)も其人の勤労によりて、国勢強大にして世界に著顕するに至るが如きは、若し其地勢の宜(よろ)しきに随(したがい)て、国体を際界の内に維持すること、甚(はなはだ)難(かた)きにあらずして、且(かつ)又国人の勢力勇気、外国入寇の変にあたりて、よく其国の為に防護するに足りぬべくだにあらば、堪(たえ)てあるべき限は、異国の産物器械を用ずして、是によりて兼て彼等が不良軽忽(けいこつ)矜奢(きようしや)の風、および詐譏(さき)戦争奸謀(かんぼう)の害を免(まぬか)れんこそ、唯に議(義)の当然たるのみにもあらず。また大に其国の利益たらんこと必定なり。斯(かか)る国いづこにかあると尋(たずぬ)るに、今に至りて世に知られたる日本にてぞありける。

現代語訳
 その国(日本)は、(国という)檻(おり)の中にあっても、太平の恩恵を受けているので、異国人と通商通交しないことを、憂うべきことと考えていない。なぜならば、その国土は裕福で、これらのことがなくても、自立できるからである。一方、我等西洋諸国が異国と通商通交を好んで行うのは、専ら生活に必要な物を入手するため、またさらに生活を快適で贅沢で便利にするのに必要な物を買うためであって、多すぎるものを売ることを兼ねているのであるから、誹(そし)るべきことではない。(下線部は「買なり」、下線部は「大過なるを出して売る也」という訳者志築忠雄の原註がある)・・・・・
 それならば今ここに一つの国がある。造物主(神)はこの国に対して広く豊かな心を以て、全ての命を扶(たす)け保つのに必要な物を供与し、しかもその国民の勤勉な労働により、国力の旺盛なことが世界に明らかになっている如きことは、もし国土の状態がよく、国の体制をその国境内で維持することがそれ程困難ではなく、かつまたその国民の威勢と勇気が、外国の侵攻という変事に対して、国を防衛するのに十分であるというならば、可能な限りは異国の産物や器械を用いることなく、彼等が(異国人の)悪徳・軽率・高慢の風潮や、欺瞞(ぎまん)・戦争・謀略の害を免れるのは当然であるというだけではない。またそれが大いにその国の益になることは確かである。このような国が何処(どこ)にあるのかと問われれば、今日世界に知れ渡っている、日本こそがその国なのである。

解説
 『鎖国論(さこくろん)』は、ドイツ人エンゲルベルト・ケンペル(1651~1716、Kämpfer)が著した日本に関する論文を、長崎通詞の志筑(しづき)忠雄(ただお)(1760~1806)が、享和元年(1801)に訳述した書物です。ケンペルは元禄三年(1690)に長崎のオランダ商館の医師として来日し、約二年間出島に滞在しました。その間二回江戸に参府し、将軍徳川綱吉に謁見しています。そして元禄五年(1692)に離日するまでの二年一カ月間に、日本に関する膨大な資料を収集し、一七一二年、アジア諸国についてラテン語で書物を出版しました。これは日本語では『廻国奇観』と呼ばれ、その中には後に『鎖国論』として翻訳される論文も含まれていました。その論文の原題を和訳すれば、「最良の見識により自国民の出国および外国人の入国・交易を禁じ、国を閉ざしている日本王国」という長いものです。
 ケンペルはドイツに帰国後、『今日の日本』という書物の原稿を書いたのですが、出版しないうちに亡くなってしまいました。後にその原稿を遺族から買い取ったイギリス人貴族が、秘書に命じて英訳させ、『廻国奇観』に収められている日本に関する論文を付け加え、一七二七 年に 英文の『The History of Japan』という題で出版しました。その中に『鎖国論』の本となる論文も含まれていました。この書物は日本では『日本誌』と呼ばれ、高校の日本史の教科書にも載っています。そしてこれが評判となり、仏訳と蘭訳も出版されました。志筑忠雄はこのオランダ語訳から訳述したわけです。
 『鎖国論』の内容は、まず第一章で、鎖国は天理に反するとしていますが、日本については例外的にこれを肯定しています。第二章では、日本は荒磯に取り囲まれ、外国船が近寄ることは極めて危険であること。人口が多く、都市が発達し、特に江戸と京が広大なこと。次いで対外的危機に際しては勇猛果敢に戦い、粗衣粗食や重労働にも堪える国民性であると説いています。また外寇が稀であり、征服されたことはなく、特にヨーロッパにも知られている「タタール」の襲来(元寇)を撃退したことを強調しています。西欧人はタタール(モンゴル)の東欧侵攻を知っていますから、過大に評価されたことでしょう。第三章では、諸産物・資源が豊富であること。加工技術に優れていること。儒学が盛んで、キリスト教は定着せず、確固たる神信仰を持っていること。鍼灸(しんきゆう)の術に優れ、毎日入浴して清潔を保っていること。整った刑法により迅速な裁判が行われることなどが述べられています。第四章では、教皇的権威者である天皇とは別に、最高軍司令官としての太閤・将軍・皇帝がいること。その統一過程と統治、キリシタン迫害、外来文化への警戒から鎖国に至る過程、オランダとの貿易が詳細に述べられています。第五章では、綱吉の文治政治について述べ、敬神・法制・道徳・技術・産業・物産・豪胆な気性・太平等の点で、世界でも稀に見る優れた国であり、閉鎖状態に置かれていても、国民の幸福がこれ程に良く実現している時代を見いだせないと結論しています。
 志筑忠雄は巻末に訳者の註釈として、「曽(かつ)て異国人の為に風俗をそこなはれ、財宝を偸(ぬす)まる。これ其通交を断つ所以なり。然らば鎖国の一件、本よりこれ大に義あり、利あるの務(つとめ)なり。明君頻りに起り給ひて、この事決定成就し給ふに至る。是又皇国の皇国たる所以なるべし。検夫爾(けんぺる)が意、蓋(けだ)し此の如し」と述べて、ケンペルに賛同しています。
 日本語の『鎖国論』は写本として流布し、横井小楠ら一部の学者や老中松平定信らの幕府中枢にも読まれていました。読みようによっては、幕末の尊皇攘夷論の根拠ともなります。実際、平田篤胤(あつたね)はその著書『古道大意』下巻の中程において、鎖国を肯定していることに言及し、日本は万国の頭となる国で、何一つ不足するものはない。交易するのは不足するものがあるからであると説き、自らの主張を補強しています。
 鎖国の評価については、古来肯定論と否定論が対立してきました。肯定論では、列強の植民地化回避、国内政治の長期安定、宗教的混乱の回避、国内産業・交通の発展、日本的文化の円熟などが主張されます。一方否定論では、近代化・産業革命の遅延、海外発展の頓挫、産業発展の阻害、海外情報の減少、世界的視野の欠如などが主張されます。しかし是か非かの二者択一で結論を出せる単純な問題ではありません。ただし明治期の近代化は、鎖国体制の廃止の結果もたらされたことは、事実として認めざるを得ません。
 ここに載せたのは第一章の核心部分です。ただ翻訳文に特徴的な長文やくどい言い回し、志筑忠雄の造語、写本による文言の相違などのため、現代語訳は極めて困難でした。


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『伊勢物語』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2022-01-14 08:12:16 | 私の授業
伊勢物語


原文
 昔、男ありけり。宮仕へ忙しく、心もまめならざりけるほどの家刀自(いえとじ)、まめに思はむといふ人につきて、人の国へ往(い)にけり。この男、宇佐(うさ)の使にて行きけるに、ある国の祗承(しぞう)の官人の妻にてなむあると聞きて、「女あるじにかはらけとらせよ。さらずは飲まじ」と言ひければ、かはらけとりて出(い)だしたりけるに、肴(さかな)なりける橘をとりて、
 五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする  
と言ひけるにぞ思ひ出でゝ、尼になりて山に入りてぞありける。

現代語訳
 その昔、一人の男がいた。(その男は)宮中での勤務が忙しく、懇ろに愛されることのなかっ妻は、「あなたを大切にしよう」と言い寄ってきた別の男について、その人の国へと行ってしまった。(その後)この男は、宇佐八幡宮への勅使として出かけて行ったところ、(元の妻が)ある国の勅使饗応役の妻となっていると聞き、(接待された時に)「女主人(この家の奥方)に酌をさせよ。そうでなければ飲まぬ」、と言ったところ、(元の妻は)盃を取って差し出した。それでその男は、酒の肴の橘を手にとり、「五月を待って咲く花橘の香をかぐと、昔の恋しい人の袖の香がすることだ」と詠んだので、女は昔のことを思い出し、(いたたまれなくなったのか)尼となって山の寺に入って暮らしたのであった。

解説
 『伊勢物語(いせものがたり)』は、十世紀の半ば頃に成立した、歌を軸に恋の話が展開する、最初の歌物語です。成立時期や作者、書名の由来については諸説があり、確定できません。一二五段から成り、多くの段が「むかし、男・・・・」という書き出しで始まります。そしてその「男」の元服から始まり、死を予感した歌を詠む話で終わりますから、「ある男」の一代記のように、順を追って叙述する意図があったのでしょう。また『古今和歌集』と共に、心ある人の必須教養と見做(みな)されていました。
 収録されている歌は全部で二〇九首あるのですが、その中に在原業平(ありわらのなりひら)(825~880)の歌が三十余首あります。また業平が女性との浮き名を流した貴公子であったことから、この「男」は在原業平であると、古くから理解されてきました。実際には、業平に関わる伝承を中心とした原形が早い時期に作られ、その後長い間に増補されたと考えられています。実在する在原業平は、『三代実録』によれば父が平城(へいぜい)天皇の皇子である阿保(あぼ)親王、母は桓武(かんむ)天皇の皇女である伊都(いと)内親王で、父方をたどれば平城天皇の孫、母方ならば桓武天皇の孫ですから、絵に描いたような貴公子です。ただし業平の出生については謎が多く、平城上皇の子であるという説もあります。
 ここに載せたのは、『伊勢物語』の第六十段です。多忙な夫に顧みられなかった妻が、懇ろに愛してくれるという別な男と出奔(しゆつぽん)し、後に元の夫が宇佐八幡宮への勅使として赴く途中、たまたま饗応担当者の妻が自分の元の妻であることを知り、杯を交わして和歌を詠んだところ、元の妻はかつての夫であったと知って「山に入った」、という話です。当時「山」と言えば、比叡山のことでもありますから、「山に入る」ことは出家することを意味していました。
 宇佐八幡宮は、伊勢神宮に次いで皇室の宗廟(そうびよう)として重視され、神護景雲三年(769)の宇佐八幡宮神託事件では、道鏡を皇位に即(つ)けよとの託宣の真偽確認のため、和気清麻呂が派遣されたことで知られています。毎年数回も勅使が派遣される伊勢神宮にはとても及びませんが、天皇の即位や、天災・争乱・変事などに際しては、勅使が派遣されていました。天平三年(731)から鎌倉時代末期の元亨元年(1321)に中断されるまでの五九〇年間に、約二百回も派遣されています。宇佐八幡宮に派遣される勅使は「宇佐使(うさのつかい)」と称され、昇殿が許されました。そして従五位下の和気清麻呂が派遣されたことに倣い、勅使には五位の者が選ばれることになっていましたから、都でこそ中級貴族ですが、国司級の位ですから、地方の饗応係にとっては、懇ろにもてなすべき賓客でした。因みに昇殿が許されるのは、原則として三位以上の公卿です。
 橘が酒の肴(さかな)になっていますが、橘は現在の小蜜柑(こみかん)のようなもので、『古事記』『日本書紀』には、垂仁天皇が常世(とこよ)の霊果として求めさせた故事があり、当時の教養ある人なら、橘が長寿の象徴であることは誰もが知っていました。『続日本紀』には「橘は果子(果実のこと)の長上にして、人の好むところなり」と記されています。(天平八年十一月十一日)
 歌には五月(さつき)に咲く花橘が詠まれ、同時に橘が肴となっています。柑橘(かんきつ)類は前年の実を採らずにおくと、翌年の花の頃まで実が残ることがあり、橘の花と実が同時に添えられることは十分あり得ます。『枕草子』にも、「木の花は・・・・橘の葉の濃く青きに、花のいと白う咲きたるが、・・・・花の中より黄金の玉かと見えて、いみじうあざやかに見えたるなど」と記されていて、花と前年の実を同時に見ています。もっとも前年以来の実では、とても肴にはならなかったかもしれません。また花橘は歌の中だけで、その場にはなかったかもしれませんし、物語中の「橘」は実ではなく、花かもしれません。
 この時に詠まれた歌は『古今和歌集』にも収められていて、よく知られていました。それで花橘は懐旧の心を起こさせるものと理解され、以来この歌を本歌として、多くの花橘の歌が詠まれることになりました。終戦の翌年に発表された童謡「みかんの花咲く丘」には、「やさしい母さん思われる」という歌詞があります。作詞者は即興で作ったとのことですから、偶然なのでしょうが、みかんの花が香る丘で、海を眺めながら母を懐かしく偲んだ場面になっています。
 元夫と、元妻と、連れ出した男のそれぞれの心情については、意見の分かれるところでしょう。家庭や妻を顧みずに仕事に専念する夫の行動が、家庭不和の原因となるのは、今も変わらぬことですし、既婚の女性を夫に無断で連れ出すのも許されません。三者にそれぞれの言い分と事情があります。それより後に与えた影響の大きさからすれば、花橘に視点を当てて鑑賞した方がよいと思います。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『伊勢物語』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。



『都鄙問答』(高校生に読ませたい歴史的名著の)

2022-01-07 17:34:04 | 私の授業
都鄙問答


原文
 或商人(あきびと)問ひて曰く。売買は常に我身の所作(しよさ)としながら、商人の道にかなふ所の意味、何とも心得がたし。如何なる所を主として、売買渡世を致し然るべく候や。
 答。商人の其始を云はゞ、古(いにしえ)は其余あるものを以て、その足らざるものに易(か)へて、互に通用するを以て、本とするとかや。商人は勘定委(くわ)しくして、今日の渡世を致す者なれば、一銭軽しと云ふべきに非ず。是を重ねて富をなすは商人の道なり。
 富の主(あるじ)は天下の人々なり。主の心も我が心と同じき故に、我(わが)一銭を惜む心を推(お)して、売物に念を入れ、少しも麁相(そそう)にせずして売渡さば、買ふ人の心も、初(はじめ)は金銀惜しと思へども、代(しろ)物(もの)の能(よき)を以て、その惜む心自(おのずか)ら止(や)むべし。惜む心を止め、善に化(か)するの外(ほか)あらんや。且(そのうえ)、天下の財宝を通用して、万民の心をやすむるなれば、「天地四時流行し、万物育(やしな)はるゝ」と同じく相合(あいかな)はん。此(かく)の如くして富(とみ)山の如くに至るとも、欲心とはいふべからず。

現代語訳
 ある商人が尋ねて言います。物を売り買いすることは、いつも私の仕事ではありますが、商人の道にかなうとはどのようなことなのか、よく理解できません。どのようなことを大切にして、商売の仕事をしていくべきでしょうか。
 答、そもそも商人の起原というものは、昔は自分に余っている物を足りない物と交換し、互いに融通し合うことを根本としていたということです。商人は金銭を遣り繰りすることに長(た)けていて、それにより日々生活しているのですから、たかが銭一文くらいと言ってはなりません。それを積み重ねて富とするのが、商人の道なのです。
 そもそも富の本となるのは、世の全ての人々です。その人々の心も私の心も同じ心なのですから、自分が銭一文を大切にする気持ちを推し広げ、入念に売買を行い、商品を粗末にすることなく売り渡すならば、それを買う人も初めは代金を惜しいと思っても、商品の品質がよければ、銭を惜しむ心は自然になくなるでしょう。惜しむ心がなくなり、(買う人が)善かったと喜んでもらうようにする外(ほか)はありません。
 また更に世に遍く財貨を流通させ、人々の心を安心させるのですから、「四季が移りゆくことにより、自ずから万物が養われる」という道理にもかなっています。このようにして富が山の如くに積まれたとしても、それは強欲の結果と言うことはできないのです。

解説
 『都鄙問答(とひもんどう)』は、石門心学(せきもんしんがく)の創始者である石田梅岩(ばいがん)(1685~1744)が、元文四年(1739)に出版した教育的思想書です。梅岩は京の商家に奉公する商人でしたが、儒学を中心に神・仏の思想をも学び、それらを取捨選択して、独自の倫理観を体得しました。梅岩は学問の目的について、「学問の至極といふは、心を尽し性を知り、性を知れば天を知る」(巻之二 「或学者、商人の学問を譏(そしる)の段」)と述べています。この「性」とは、人の心の本来の性質という意味なのですが、心の本性を知ることが学問の目的であり、本性は天から与えられたものであるから、心の本性を知ることは、天を知ることに通じると説いています。そして天から与えられた「性」には、本来私心はないので、性を知ることにより、自ずから天の徳が心に具わってくるというわけです。
 その天の徳の中でも、梅岩が最も尊んだのは、勤勉・倹約・正直などの徳でした。これらの徳はどれも実生活に根ざしたものですから、必然的に日常的な実践を伴うものであり、梅岩の存在自体が周囲に大きな感化をを及ぼしました。
 梅岩は享保十四年(1729)、四五歳の時に京の自宅を開放し、毎朝と隔夜、庶民を対象とした実践的道徳講座を開設しました。聴講料がなく、通りすがりの人や、女性や子供の出入りも自由。話はわかりやすかったため、初めのうちこそ聴講者がいないこともあったのですが、次第に聴衆が増えました。また弟子達を中心として、月三回の「月次会(つきなみえ)」も行われました。そこでは、提示されたテーマについて討論し合うという、現在の大学のゼミナールのようなもので、身分に関係なく、自由な雰囲気の中で討論が行われました。
 そこで取り上げられたことを、弟子達と共に推敲編集したのが『都鄙問答』で、梅岩が五五歳の時に出版されました。書名は、「鄙(ひな)」(田舎)から上京した者が「都」の師に心の有り様を尋ね、それに師が答えるという、問答形式により叙述されていることによります。
 梅岩の弟子の手島堵庵(とあん)は各地に心学講舎を設け、子供や女性専用の講座を開き、心学の普及に努めました。その弟子の中沢道二(どうに)は全国各地を遊説し、松平定信が浮浪人や無宿者を集めた就労訓練施設の石川島人足寄場(にんそくよせば)に招かれ、教化に当たっています。ただ普及するにつれて初めの哲学的な性格は薄れ、平易で教訓的な教えに変容していきますが、近代日本人の倫理には大きな影響を及ぼしました。
 ここに載せたのは、巻之一「商人(あきびと)の道を問ふの段」の冒頭部です。そこでは商人の職分とは、世の中に必要な物を流通させることであるとしています。またその勤勉の結果として、利潤を得ることを正当な行為として認めています。ただし聖人の道に違うような不義の金儲けは、これを厳しく諫めています。また「福を得て万民の心を安んずる」として、得られた富は天下の福利のために用いるべきであると説いています。事実、梅岩は、飢饉や災害が発生するたびに、率先して商人に協力を呼びかけ、困窮者の救済に活躍しました。
 近代日本の最大の経済人である渋沢栄一は、『論語と算盤(そろばん)』を著し、論語に象徴される道徳に裏付けられた資本主義の利益追求を説いていますが、そこには明らかに石田梅岩の説いた「商人の道」との共通点が認められます。また二十世紀の世界的経済学者であるピーター・F・ドラッカーは、事業の主役は顧客であり、顧客が需要を創出すると説いて、顧客を大切にすることや、利益を社会全体に還元することを説いていますが、「富の主(あるじ)は天下の人々なり」という梅岩の言葉は、それを先取りしたものでした。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『都鄙問答
』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。