うたことば歳時記

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

道長晩年の悲しみ  日本史授業に役立つ小話・小技 29、

2024-02-26 06:01:55 | 私の授業
日本史授業に役立つ小話・小技 29、 道長晩年の悲しみ

埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

 藤原道長の絶頂期と言えば、三女の威子が後一条天皇(威子より9歳年下)の中宮(皇后)となる宴席で、「此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることも無しと思へば」と詠んだことを学習します。日付は十月十六日ですから、今なら11月のことですから夜はかなり寒く、暦上は十六夜の月とはいえ、事実上は満月が上っていたはずです。確かにこの記事だけを見れば、道長の得意絶頂期と思うのも無理はありません。しかしその頃の実際の道長の生活は、病苦と悲しみの最中にあったのです。
 この歌の話は藤原藤原実資の日記『小右記』の寛仁二年(1018)十月十六日に記されているのですが、その約半年前の閏四月十七日には、「去夜悩給ふの間、叫び給ふ声甚だ高く、邪気に似たり」と記されていたり、翌年にかけてこのような発作が数十回に及んだことが記されています。得意絶頂どころか、現実には一晩中呻き叫ぶほどの苦しみの中にいたのです。例の歌を詠んだ翌日の日記には、目の前の実資の顔が見えないと道長が言うので、実資がそれは夜のことか昼のことかと尋ねると、夜も昼も見えないと答えたと記されています。ですから前日の満月も明るさを感知するだけだったことでしょう。また道長の日記『御堂関白記』の寛仁三年(1019)二月六日には、「心神常の如し。而して目尚見えず。二三尺相去る人の顔見えず。只手に取る物許(ばかり)これを見る」と記されていますから、目の前にいる人の顔も識別できなかったというのです。水をよく飲んだという記録や視力が極端に無くなっていることから、糖尿病であった可能性があるとのことです。
 道長をさらに苦しめたのが、次々に息子・娘に先立たれる悲しみでした。60歳の万寿二年(1025)には娘の寛子が27歳で死に、その後一ヶ月もたたないうちに、六女の嬉子が十九歳で皇子(後の後冷泉天皇)を生んで二日後に死にます。『栄華物語』の「楚王の夢」の巻にはこの時の様子が、「我を捨てゝはいづち〳〵(どこへ行くのか)と、泣き転(まろ)ばせ給こと限りなし」と記されています。そして万寿四年(1027)には三四歳の三男顕信、三四歳の次女姸子と続きました。「玉のかざり」の巻には、「あな悲しや、老たる父母を置きて、いづちとておはしますぞや。御供に率(い)ておはしませ(一緒に連れて行って)と、声を立てゝ泣かせ給ふ」と記されています。そして同年十一月には失禁と下痢を繰り返して衣を汚すようになり、背中に乳房大の悪性腫瘍ができます。十二月には針で膿血を絞りだそうとしたのですが、「うなりたもう声は苦しみの極みなり」と記される程の痛みでした。余命短いことを悟った道長は、の法成寺(ほうじようじ)の阿弥陀堂の九体阿弥陀如来像の目の前に伏し、周囲を屏風で囲ませます。また阿弥陀如来像の指と自分の指を糸で結び、その二日後に念仏を聞きながら、万寿四年(1027)十二月四日、六二歳で亡くなります。例の歌を学習する際には、この様な現実にも触れておきたいものです。


コメントを投稿