うたことば歳時記

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七五三の「七歳前は神の子」は出鱈目

2018-06-28 18:41:45 | 年中行事・節気・暦
 七五三についてネット情報を検索すると、七歳で祝われることについて決まって「七歳までは神の子」「七歳前は神の子」という言葉が用いられています。例えばこんな具合です。
○子どもたちは「七つまでは神のうち」といわれました。七歳までは神様から預かった子どもであるという意味です。七歳まで無事に生きてきた子どもの成長を祝い、氏神様に感謝のお参りをするのが「七五三」です。
○七歳までの子供は共同体の一員ではない。地域の大地に根ざしている「産神」の配下に居る「神の子」であり「七つまでは神のうち」と言ったようである。

 もちろんその根拠は何一つ示されていません。私は古代史を少しばかり勉強しましたので、「七歳」ということについては、思い当たるふしがありました。それは奈良時代の刑法である養老律には、「九十以上、七歳以下、死罪有ると雖も刑(ぎよう)を加へず」と記されていて、7歳以下と90歳以上は処罰の対象とはならないことになっていたということです。現在の刑法でも同様ですが、責任能力のない者は、処罰の対象とはならなかったのです。このような「七歳」という年の理解は、その後も長く受けつがれ、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、七歳以下は父母の死に際して、喪に服する必用はなく、またその逆に七歳以下の子の死に際しては、親も喪に服す必用はないというように拡大されて定着していきました。また貞享元年(1684)、江戸幕府が「服忌令」を発令し「七歳未満の小児、自他共に無服」としました。このことは当時の生活上必要な常識を幅広く網羅した生活便利帳のような書物にも記載され、広く江戸庶民の生活に取り込まれていました。これは私もそのような本の実物を所有していて、確認済みです。また貝原益軒という儒学者は『和俗童子訓』(1710)という書物において、「七歳より前は猶いとけなければ、早々寝(い)ね遅く起き、食するに時を定めず、大様その心にまかすべし。礼法を以一々に責(せ)めがたし。八歳より門戸の出入し、または座席につき、飲食するに必ず年長せる人に遅れて、先立つべからず。初めてへりくだり譲ることを教ゆべし。小児の心まかせにせず、気随(きずい)(わがまま)なる事をかたく戒むべし」と説いています。数え年の七歳ですから、現在ならば満5~6歳、つまり小学校入学前に当たります。その様な幼児にはまだ自由にさせてしつけをしないが、八歳になってからは礼儀作法などのしつけをするというわけです。このように江戸時代においては、七歳までは一種の特別扱いされる年齢でした。明治時代になってからも江戸幕府の発令した服忌令は、明治七年十月十七日の太政官布告第一〇八号によりそのまま採用され、七歳までの幼児が特別扱いされる風習が民間でも続いていました。まあとにかく、江戸時代においては、七歳までは一種の特別扱いされる年齢だったのです。そしてその風習は、明治になっても継続され、それぞれの地方に定着していました。

 江戸時代初期に長崎で出版された『日葡辞書』という日本語とポルトガル語の辞書には、「七五三」という項目があります。ただし通過儀礼としての意味ではなく、大きな宴会で七品の料理を盛った膳と五品の膳と三品の膳を並べて据えることがあり、それを「七五三の振舞」と呼ぶと記されています。これは本膳料理の正式な形式を表すもので、本膳に七、二の膳に五、三の膳に三の菜を盛るので、「七五三膳」とも呼ばれました。七・五・三という数は節供が行われる月と日の数でもあるように、陰陽道では縁起のよい陽の数とされていますから、祝意を込めて「七五三の振舞」とか「七五三膳」と呼ばれたわけです。また注連縄を「七五三縄」と表記することもあり、「七五三」という言葉は、慶事を表す言葉として、江戸時代には普通に使われていたのでした。通過儀礼としての七五三という言葉は、このような祝意を表す既存の「七五三」という言葉にならって、自然に使われるようになったのです。『五節供稚童講釈』という子供向け年中行事解説書にも、「三・五・七の陽の歳(奇数の歳)を迎えて、行く末の目出度いことを祝う」とはっきりと記されています。七五三という呼称は、一般には明治時代になってからとされ、各種の辞書にもその様に記されていますが、川柳や浮世絵にいくつも用例があります。本来は「七五三」の一セットで目出度いことを意味する数でしたから、七歳だけを分離して考えることは、してはならないと思います。

史料「七・五・三の陽の歳の祝い」
「小供生れて半の歳に当れば、陽の数ゆゑ、陽を迎へて息災に育ち、行末のめでたからんを祝ふなり。ゆゑに三ツ五ツ七ツ九ツ十三、いづれも半の数を用ゆ。」(『五節供稚童講釈』二編 十一月)賭博で奇数を半、偶数を丁というように、「半の歳」「半の数」の「半」とは奇数のことです。

 「七歳前は神の子」ということを最初に唱えたのは、民俗学者の柳田国男です。柳田は大正三年(1914)に「神に代りて来る」という論文において、「七歳になるまでは子供は神様だと言っている地方がある」と述べて、「七歳前は神のうち」説を唱え始めました。しかし具体例は一つも示していません。その後二人の民俗学者によって青森県と茨城県の二つの事例が報告されましたが、いずれもほんの数行のコラム的報告で、およそ研究といえる程のものではありません。

 「七ツ前は神様」と題した青森県の例は、「青森県五戸地方では男女共七ツ前をさう云ふ。日常第一番に神仏に供物する食物を、幼児のだ2こねて先きに食べるとてきかぬ時等は、矢張りさう云つて、仕方がないからやると云つてから呉れる。而して其七ツ前に死亡した場合は、男女共紫色の衣を着せ(或は青年期の未婚者にも着せる風もある)口にホシカ鰯(ごまめ)を一つくはへさせて埋葬する風がある。」(『民間伝承』三巻三号、会員通信)というもので、要するに「神仏への供物を七歳前の子がねだった時は、仕方がないからやる」というだけのことです。

 「七ツ前は神のうち」と題した茨城県の例は、「前号の能田多代子さんの「七ツ前は神様」で思ひ出したが、常陸多賀郡高岡村では「七ツ前は神のうち」と言ふ。七ツ以下の子供の場合は、大人なら神様に対して不敬になるやうなことでも不敬にならないといふ意味だと謂つて居た。また七ツ前の子供が死んだら、近い過去までは縁の下へ埋めたと聞いた。」(『民間伝承』三巻四号、会員通信)というもので、要するに「大人なら神に対して不敬になることでも、七歳前の不敬な行為は許される」だけのことです。どちらも七歳以下の子供は社会的に特別扱いされることがある例を示しているだけであって、七歳までは神の子であるとか、この世のものに成りきっていない特別な存在であると解釈できる内容ではありません。

 確かに7歳前の幼児が死んだ場合は、通常と異なる方法で葬っていることが確認されています。そしてそれを以て神の子であるとする根拠とするという理解もあるようです。話が突然縄文時代に飛びますが、竪穴住居の入口の地下に、幼児の骨を納めた甕を埋める埋甕の葬法があり、南関東地方から中部地方に多く認められています。これは明らかに成人の葬法とは異なっていて、何らかの呪術的意図があると考えられています。不本意ながら早逝してしまった幼児の骨を壷に納めるのは、胎児の形をとらせて再生を期待したのかもしれません。縁の下に埋めたという前掲の例にもよく似ています。しかしあまりにも時間が隔絶していますから、直接の因果関係はないと思います。もしあるとすれば、時代を問わず死んでしまった我が子を悲しむ気持ちで、近くに埋めてやりたいという親心だと思います。明治時代になっても、七歳前の子の葬儀については喪に服す必要はない、つまり簡易な葬儀にするという風習がありましたから、せめて身近に葬ってやりたいという親心の表れではないかと思います。これはあくまでも私の想像です。しかし縁の下に埋葬することから、直ぐに神の子であったと理解することはできません。あくまで成人とは異なる扱いをされていたという以上のことは言えないのではないでしょうか。

 柳田国男がそのような説を唱えたのは、江戸時代に七歳以下の子が死んでも喪に服する必用のない特別な存在であったことから思い付いたものと思われます。そのような特別扱いは、律令以来の責任能力のないものを処罰しないという規範に起原を持つものであったのに、子供の神性によるものと勘違いしたのでしょう。

 その後この説は彼の弟子たちや民俗学者によって広められ、根拠を全く示さない柳田の文章と、この程度のコラムが拡大解釈され、現在ではあたかも定説のように語られ、ネット上には「七歳前は神の子」という諺があったなどと、断定的に書かれています。しかしさすがに根拠が薄弱であるため、民俗学会の中から批判が起こり、現在ではこの説をまともに信じている民俗学者はほとんどいません。歴史学者に至っては、あまりにもお粗末な論証であり、まともな論評の対象にさえしませんでした。それなのに伝統的年中行事解説書の著者やネット情報の筆者達は、今も猶ありがたく「七歳前は神の子」説を奉じているのです。「・・・・と言われています」と書きながら、その「言われている」という史料を見たことはないのです。もしその説を奉じるならば、「七歳前は神の子」というフレーズを含んだ江戸時代の文献史料を提示してもらいたいものですが、そのような史料は全く存在すらしません。そのような諺があると得々として書いている人は、いったい何を見て書いているのでしょうか。見たことなどないはずなのに、さも自分で見たかの様に書いている神経が信じられません。それもそのはず、「七歳前は神の子」というフレーズは昭和初期に当時の民俗学者によってに創作されたものだからなのです。ネット情報や年中行事の解説書や、七五三の参拝を宣伝する神社情報には「七歳前は神の子説」が氾濫していますが、おそらく誰一人としてその根拠を確認していないのでしょう。残念なことにこれ程までに根拠のない説がまかり通っているのです。

 この説の問題点は、他にも考えられます。5歳と3歳でも祝われることについて、説明が付かないことです。また7歳の祝いについては、江戸時代の後期には女児が対象になっていましたが、7歳の男児についてはどの様に説明するのでしょうか。やはり江戸時代の年中行事の解説書に、七・五・三の年は奇数でめでたいのでその年齢になったら祝うとはっきりと記されているのですから、それこそが当時の人の共通理解だったのです。私は江戸時代の歳時記をほとんど読み尽くしていますが、7歳の祝いだけを取り出して、神の子に絡めて説明しているものを見たことがありません。もし当時その様な風習があったとしたら、何らかの痕跡が残っていてもよいではありませんか。

 私が根拠にこだわることについて、批判されることがあります。しかし七五三という風習は、それはそれで立派に歴史の一部なのですから、史料的根拠なしに推測で理解することは絶対にしてはいけないことだと思います。 なおこの問題については、柴田純氏の「『七歳前は神のうち』は本当か」という論文によって、柳田の誤りでることが反論の余地が全くない程に精密に論証されています。ネットで閲覧できますから、是非とも読んでみて下さい。

 「七歳前は神の子という諺があります」と書いている筆者に尋ねてみたい。あなたはその諺があると言うことを、直接に確かな根拠で確認したのですか、と。せいぜい年中行事事典の類で調べたのでしょう。ここまで言われて納得できないなら、「七歳前は神の子」を証明する証拠を示して下さい。辞書に書いてあるといっても、それは証拠になりません。辞書など筆者が自由に書けるからです。伝承があるというのも証拠になりません。どこまで遡るのか、証明ができません。日本全国に昔からその様な風習があったというなら、少なくとも江戸時代の歳時記、川柳、庶民の日記などに、痕跡が残っているはずです。柳田国男が説き始める前には何の痕跡もなかったことをどの様に説明するのですか。年中行事事典の大半は、民俗学的視点によって書かれたものであって、事典の著者自身が確かな歴史的文献によって書いていないものがほとんどなのです。何らかの形で柳田国男の影響を受けており、とうてい学問的批判に耐えられるものではありません。とにかく史料的根拠を示さずに、「・・・・と言われています」という書き方をする年中行事のネット情報のいい加減さ、特に民俗学的視点から書かれたものについては、ほとんどが眉唾物だと思って間違いありません。




追記1
下記のようなコメントをいただきました。まずはわざわざコメントをして下さったことに、素直に感謝いたします。

「事実は違うが、大衆に流布している言葉って結構あります。私は七歳までは神の内、の解釈に違和感を覚えません。子供の死亡率は今よりずっと高かったし、女児を魔物から見過させるために男児の格好をさせたり、わざと悪名(捨蔵など)を幼名につかって無事に育つよう願うことすらあったのです。これの何処までが本当かは知りませんが。なので、真実と事実は違うのだということで収まると思います。」

しかし御説の内容には同意できません。昭和初期に柳田國男が「7歳までは神の子」説を唱え始める以前には、そのような理解も諺も全くなかったことをどのように説明するのですか。秀吉の子が「お拾い」と呼ばれたのは、捨て子は育つという当時の風習からで、そのような風習がつい最近まではあったことは事実です。しかしそれが「7歳までは神の子」ということにつながるのですか。第三者が確かな根拠によって検証できないことは、学問の成果とは認められません。柳田國男はあくまでも学問の成果として唱えているのです。決して文学や宗教として唱えているわけではありません。それなら学問の土俵に載せて批判されるのは当たり前のこと。私は事実を明らかにしているだけです。一部の民俗学者が根拠もなく唱え始めたことがなぜ「真実」なのですか。真実の意味が違うように思うのですが・・・・。


追記2
下記のようなコメントをただきました。ありがとうございます。
「今も昔も赤ちゃんや幼児が亡くなるのは親にとって悲しみがとてつもなく大きい。特に乳幼児の突然死は今も原因不明だし、衛生状態の良くなかった昔は今以上に乳幼児の死亡率が高かった。自分を責める親を慰める意味で「7歳までは神の子」「どんな理由で亡くなっても自分を責めないで」という地域の知恵だったのでしょう。そう考えることで救われる親も多かったと思います。」

お気持ちはいたい程わかります。私自身もそのような経験をしているからです。しかしなぜ7歳が特別視されたのかということの説明にはなりません。とにかく昭和初期に柳田國男がそのようなことを説き始める以前には、「7歳までは神の子」という理解は全く存在しなかったのですから。「地域の知恵」とのことですが、どの地域にそのような理解があったというのでしょうか。「7歳まではの子」説を説いている人は、それすら示すことができず、ただ「・・・・といわれています」だけなのです。


追記3
下記のようなコメントをただきました。まずはわざわざコメントして下さりありがとうございます。
「そうですね、皆さまのコメントも正しい。筆者さまの発言も間違いはないのだと思います。ただ、何故江戸の頃(以前)の言い伝えで無ければいけないのでしょうか、まだ、人の世は始まったばかりです。これから新たな言い伝えが増えてもいいと思います。面白いじゃないですか、昭和生まれの諺。平成、令和、そして新しい年号の新しい言い伝え、これからが楽しみです。できればこれから先、何百年も昔の人がのこしたものが失われない事を祈ります。」

 「何故江戸の頃(以前)の言い伝えで無ければいけないのでしょうか」とのことですが、ある学者が学問的根拠もなしに、昭和初期に思い付きで唱えたことが歴史事実になってしまってよいのでしょうか。七五三の伝統行事は、立派に歴史の一部なのです。大正時代までは、「七歳前は神の子」などということはなかったのですよ。歴史の捏造ではありませんか。私は歴史の学問的視点から「七歳前は神の子」と言われてきたことは誤りであると主張しているだけです。あなたも「何百年も昔の人がのこしたものが失われない事を祈ります」とお書きになっていらっしゃるではありませんか。

 江戸の頃(以前)の言い伝えで無ければならない重要な理由は、一般にはあまり知られていないのでお話しいたしましょう。現代人は伝統的年中行事が途切れることなく続いてきたものと思っています。しかし実はそうではないのです。明治6年に太陽暦が採用される際、太政官布告により五節句を廃止するということが通達されました。文明開化の風潮の中で、伝統的なものが次々に廃止され、何でもかんでも洋風なものがよいとされたため、伝統的年中行事は見る影もなく廃れてしまったのです。その見る影もない様子は当時の『東京年中行事』にくどい程書かれています。東京では七夕飾りさえ姿を消していたのです。それは七五三も同じことです。しかし明治も後半になると次第に国家主義的な風潮が高まり、伝統的年中行事が復活し始めるのです。ただしその際には、江戸時代までの様子がそのまま復活するのではなく、姿が変わってしまったものも多かったのです。そういうわけでいくら明治以来の伝統があるといっても、それが古来の姿ではない場合が多いのです。そういうわけで、伝統的年中行事の本来の姿を究明するためには、江戸時代以前の文献に依らなければならないのです。

追記4
以下のようなコメントを頂きました。何はともあれ、ありがとうございます。素直に感謝致します。

「少し無理がありそう。興味深く読ませていただきました。ただ気になるのは、「過去の出来事には全て証拠がある」と言う前提に立っているようですね。証拠とは「残す」という作業があって初めて残るもの。古い物は自然に消滅して痕跡すら残らないのが常ではないでしょうか? また、記録も同じで「残す」という意思があって初めて残るもの。さらにはその記録は権力者に必要ない物は記録されないでしょう。証拠に偏るのは危険だと思いますが、いかがお考えでしょう? もう少し柔軟に考えた方が良いと思います。」

 「証拠に偏るのは危険だと思いますが」、思いつきで歴史を語ることの方が、どれだけ危険なことかと思いませんか? 証拠は残すという作業があって初めて残るものとのことですが、無意識に残る証拠の方が圧倒的に多いのは、歴史研究をすれば御理解いただけると思います。むしろ無意識に残す証拠の方にこそ、証明能力があることは、歴史を学ぶ者のイロハです。意図して残した証拠など、作為があって信用できません。残す気があろうとなかろうと、人間の営みがあれば、勝手に残るものです。七五三はあくまでも歴史の一部である以上、実証主義的批判に堪えられなければなりません。それがないのに七五三の変遷、即ち七五三の歴史を語ることは、お話としてはともかく、学問的には到底認められません。柔軟にとのことですが、歴史研究に「根拠がなくても柔軟に考えよ」というのは、歴史研究を否定せよということに等しいとは思いませんか。古い物は自然に消滅して痕跡すら残らないとのことですが、たかが江戸時代の話ですよ。一生かかっても確認できない程の文献史料が残っているのに、「七歳前は神の子」ということを証明できるものが何一つないのはおかしいとは思いませんか。一方、七歳前は特別扱いされ、多少のことは大目に見るということの証拠は残っていることをどの様に説明するのですか。記録は権力者に必要ない物は記録されないでしょうとのことですが、江戸時代の文献史料には、権力に無関係の庶民の記録の方が、比べものにならないくらい残っています。少しく歴史を研究した方なら、余りにも当たり前のことです。七五三は庶民の生活の一部でしたから、庶民の残した日記・歳時記・各種古文書に痕跡が残ります。






七夕物語

2018-06-28 06:59:55 | 年中行事・節気・暦
 七夕の二星の物語については、粗筋を知らない人はいないでしょう。ネット情報には中国の七夕伝説と日本の棚機津女伝説が融合して、現在知られている物語になったと説明されていますが、もともと「棚機津女(たなばたつめ)伝説」は折口信夫という民俗学者が『水の女』という論文で唱えたことであって、20世紀に突如として創作された「伝説」です。

 ネット情報の筆者は、読んだこともない棚機津女伝説をさも見てきたかのように書いていますが、誰一人として棚機津女伝説なるものを原典で確認したことなどないのです。見たこともないのに、よくもまあぬけぬけと書けるものよと、本当に呆れてしまいます。恥ずかしくないのでしょうか。もし本当に伝説があるなら、この現代のことですから、「棚機津女伝説資料集成」というような資料があってもよさそうなものですのに、そんな物は一切存在しません。『万葉集』には七夕の物語が反映されているのですから、その頃のことが折口が説いている程に詳しく歴史的な根拠に基づいて明らかになっているというなら、歴史学が放って置くはずがないではありませんか。七夕の風習も立派に歴史の一部なのですから。しかし歴史学者は折口の説く「棚機津女伝説」など一顧だにしません。学術的には全く史料的価値を認めていないのです。一部の民俗学者がさもその伝説が現在まで伝えられてきたと説いていますが、伝えられてきたこと自体を示す史料を提示しているわけではありません。いや、そんなはずはないと思われるならば、ここまで言われて憤慨されるのであれば、折口が説くような伝説があったことを示す7世紀の文献史料を示して見せて下さい。そんな文献はない。あくまでも伝説であるというなら、それが『万葉集』の頃まで遡れることをどの様に証明するのですか。伝説・伝承の決定的欠点は、いつまで遡れるか確かめようもないということです。また伝承として伝えられたこと自体を証明する史料が不可欠なことです。もしその史料がないとしたら、誰か著名な学者が仮説として説いたことが、数世代経つと仮説ではなく伝承となり、いかにもその伝承の内容が昔からあったことにされてしまうのです。

 七夕の風習は遅くても7世紀には日本に伝えられているのですから、習合したというからには、その頃の棚機津女伝説の史料がなければなりません。しかしそのようなものはありません。ただ神のための布を織る棚機津女という女性が存在したことは、『万葉集』『古語拾遺』などの古文献により確認できます。拙文をお読み下さっている皆さん、神の一夜妻となって村人の罪穢れを浄める棚機津女という神聖な女性がいたなどという出鱈目な説に欺されないようにして下さい。かなり過激な言葉を使っていますが、誰か反論でもしてくれないかという意図があるからです。

 そこで今日は中国伝来の七夕伝説がどのようにして形を整えてきたのかについてお話しします。

 星祭である七夕には、牽牛(けんぎゆう)(日本名は彦星)と織女(しよくじよ)(織姫星)の二つの星が主役となる物語が伝えられています。中国の文献には早い時期から牽牛(けんぎゆう)と織女(しよくじよ)の記述が見られます。その中のいくつかを古い順に御紹介しましょう。まず紀元前9~7世紀の詩を集めた『詩経』という書物には、「織女星は一日に七回も機(はた)にのぼっても、文様を織り出すことができない。牽牛星も車を牽(ひ)かない」と詠まれています。紀元前4~3世紀の詩文を集めた『文選(もんぜん)』という書物には、「牽牛星と織女星は輝いているが、織女星は(牽牛星を恋しく思うあまりに)一日織っても文様ができずに涙が流れる。天の川は浅く清いけれども、二人は逢うことができず、語ることもできない」と記されていて、話が少し具体的になりつつあります。紀元前2世紀の『淮南子(えなんじ)』という書物には、織女が鵲(かささぎ)の橋を渡って牽牛に会うと記されています。6世紀の『荊楚歳時記』には、七月七日には牽牛と織女が逢うと記され、さらに多くの書物を引用して、織女は天帝の孫であり、「天河」(天の川)で逢うこと、牽牛が織女を娶(めと)ったこと、織女が「瓜果」を掌(つかさど)ることが記されています。そして、同じく6世紀の梁という国の殷芸(いんうん)が著した『小説』(明代の『月令広義』という書物に逸文として引用されている。)という書物には、次のように記されています。「天の川の東に天帝の娘の織女がいて、忙しく機織りをしていた。天帝は独身であることを憐れんで、川の西の牽牛と結婚させた。しかし機織りをしなくなったので、天帝は怒って川の東に帰らせ、一年一度だけ会うことを許した」。ここまで来れば、現代に知られている七夕の物語と同じです。中国では千数百年もかかって少しずつ物語らしく形を整えてきたことがわかります。

史料「七夕の物語」

①「迢迢(ちようちよう)(遙かに高いこと)たり牽牛星、皎皎(こうこう)(光り輝くこと)たり河漢(かかん)(天の川)の女(むすめ)、繊繊(せんせん)として素手(きゃしゃな白い手)を擢(あ)げ、札札(さつさつ)として(さっさっと音を立てながら)機杼(きじよ)(機織り具)を弄(ろう)す、終日章(しよう)(布の文様)を成さず、泣涕(きゆうてい)(涙)零(お)つること雨の如し、河漢は清く且つ浅し、相去ること復(ま)た幾許(いくばく)ぞ、盈盈(えいえい)(水が満ちていること)として一水の間、脉脉(ばくばく)(情感のこもったまなざしで見ていること)として語るを得ず」(『文選』「古詩十九首其十」)

②「天河の東に織女有り、天帝の女(むすめ)なり。年々机(き)杼(ひ)(横糸を通す機織具)を労役し、云(うん)(雲)錦(きん)の天衣を織り成す。天帝その独居を怜(あわれ)みて、河西の牽牛郎に嫁(か)すを許す。嫁して後遂に織紉(しよくにん)(織ったり縫ったりすること)を廃すれば、天帝怒りて、河東に帰さしめ、一年一度相会ふことを許す」(殷芸(いんうん)著『小説』)

 このような物語は7世紀には日本に伝えられていました。『日本書紀』に記された持統天皇五年(691)の七月七日に行われた宴が、日本最初の七夕の行事である可能性がありますし、『万葉集』には柿本人麻呂が「庚辰の年」(680年)に詠んだ七夕の歌(『万葉集』2033)があり、そのことを裏付けています。『万葉集』には約130首の七夕の歌があります。それらの歌は、織女と牽牛の年に一度の出会いに自分の恋を重ね、恋の歌として詠まれたものがほとんどで、中国伝来の七夕の物語が早くから広く知られていたことがわかります。

 いかがですか。七夕の物語の中には、日本的要素などほとんどありません。強いてあげれば、中国では織女が川を越えて逢いに行くことになっていますが、日本では牽牛が舟に乗って川を越えることになっています。これは当時の日本に結婚形態を繁栄しているためです。

小石川後楽園 歴史散歩

2018-06-17 21:23:08 | 歴史
先日、私が主催する生涯学習の会で、小石川後楽園に歴史散歩に行ってきましたので、御紹介します。

 まず「後楽園」といっても岡山にもありますから、東京の後楽園は「小石川後楽園」と呼んで区別をしています。下車駅は飯田橋で、地下鉄でもJRでもどちらでもよいでしょう。駅から歩いて10分もかかりません。開門は9時です。

 そもそも後楽園は、江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の中屋敷の
庭として造り、二代藩主の光圀の代に完成した大名屋敷の跡です。昭和27年3月、文化財保護法によって特別史跡及び特別名勝に指定されています。特別史跡と特別名勝の重複指定を受けているのは、都立庭園では浜離宮恩賜庭園と当園の二つだけだそうで、全国でも京都市の鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院、奈良県の平城京左京三条ニ坊宮跡、広島県の厳島、岩手県の毛越寺庭園、福井県の一乗谷朝倉氏庭園を合わせ9ヶ所しかないという、貴重な史跡でもあります。

 光圀は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見をとり入れ、「士はまさに天下の憂いに先じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」」(出典『岳陽楼記』)により、「後楽園」と名づけました。後楽園というと、遊園地やドームを連想してしまいますが、こちらの方が本家本元です。

 水戸藩邸とその周辺は明治明治2年に兵部省の管轄となり、明治4年に造兵司がここに移されました。東京のど真ん中に兵器製造工場があったなんて、今ではとても信じられません。明治12年には東京砲兵廠と改称。主に拳銃や弾薬の製造や、大砲の修理が行われていたそうです。明治44年の『東京年中行事』という書物によれば、8本の煙突がそびえ、黒煙をもうもうと吹き上げ、数千人が働いていたということです。

 後楽園の庭園は工場の敷地内の北西に位置していて、軍事工場の拡張に伴い、庭園も取り壊されそうになったのですが、幸いなことに庭園好きで知られる陸軍卿山県有朋が、それに待ったをかけました。目白にある椿山荘は、もともとは久留里藩邸でしたが、彼が買い取って庭園を整備し、別荘にしたことはよく知られています。陸軍の最高実力者でしたから、正面から異論をとなえるものはいなかったことでしょう。官僚政治の権化としてなにかと評判の悪い有朋ですが、後楽園を破壊させなかったことは、功績と認めざるを得ません。

 その後、後楽園も砲兵工廠も関東大震災で被災し、砲兵工廠は小倉に移転しました。そして後楽園は昭和11年に文部省が管轄となり、戦災でも多くの建物が被災しましたが、昭和27年に特別名勝・特別史跡に指定されています。1937(昭和12年)には「後楽園スタヂアム」が完成。1955(昭和30年)には「後楽園ゆうえんち」オープン。1988(昭和63年)には「東京ドーム」が完成しました。京都の庭園なら、遠くの山の峰が借景となるのですが、ここではドームの屋根や高層ビルが背後に見えて、妙な取り合わせになっています。ドームで何かイベントがあると、大音響が聞こえてきて、雰囲気はぶち壊しなのですが、どうしようもありません。

 早速入ってみましょう。入場料は300円ですが、65歳以上は150円ですから、年齢を証明するものがあるとよいでしょう。庭園入口のすぐ左脇を御覧下さい。何も説明がないのですが、徳川家の紋章となったフタバアオイがひっそりと生えています。広い庭園でここだけしかなさそうですから、ぜひ確認して下さい。葉の茎が地面から二股に分かれ、その先に葉が一枚付いています。4~5月なら地味な花が咲いています。京都賀茂神社の葵祭には、この葉を冠に挿すのでよく知られています。葵という言葉はよく聞きますが、そのもとになる植物を知らない人は多いでしょうね。この際、是非とも観察して下さい。それにしてもなぜ解説がないんでしょう。知らない人は気が付かずに見過ごしてしまいます。

 この地は小石川台地の先端にあり、神田上水を引入れ築庭されていますから、園内に高低差があり、それを活かして池を中心にして回遊しながら楽しめるようになっています。この庭園の特徴は、「縮景」にあります。縮景とは、実際の景色や建造物を縮小して表現する手法で、京都嵐山の渡月橋、東福寺の通天橋、清水寺、木曽路、木曽川や琵琶湖、あるいは中国の廬山や西湖などを模しています。実際には似ても似つかぬこじつけなのですが、天下の名勝を巡ったつもりになって、気分を味わえるように造られています。清水の舞台から谷を見下ろしているつもり、渡月橋から嵐山を眺めているつもり、というように、どれもこれも「・・・・のつもり」になって眺めを楽しむわけです。

 庭に入ると、すぐに池を中心とした眺めが広がっています。目の前には枝垂れ桜、やや左奥には「一つ松」と呼ばれる立派な松があります。この池は琵琶湖を模したもので、この松は琵琶湖西岸にある有名な「唐崎の松」に見立てたものです。唐崎の松といっても知らない人もいるかも知れませんね。推古天皇の次の舒明天皇の時に植えられたという伝承を持つ松で、近江八景にも選ばれ、歌川広重が「唐崎夜雨図」と題して、笠のように広がる松の木を印象的に画いています。

 少し戻って、蓮池を左に見ながら、蓮池越しに背丈の低いオカメザサで覆われた小廬山を見てみましょう。本物の廬山は峨々たる山容で、水墨画に描かれるような山なのですが、小廬山は古墳の墳丘のような穏やかな山容です。小廬山と名付けたのは林羅山だそうですから、羅山も訪ねて来たのでしょう。

 蓮池から入り口の方に戻り、右折して渡月橋の方に進みます。渡月橋と名付けられたと言うことは、そこの川は大堰川であり、対岸の山は嵐山のつもりなのでしょう。大堰川のつもりの清流は、現在では地下水を汲み上げて流しています。

 橋の左手の池は、中国の観光都市である浙江省にある西湖のつもりで、本物はユネスコの世界文化遺産に登録されている、外周15㎞もある大きなものです。底には池の中央に伸びる堤があるのですが、それもそのまま真似ています。この堤は、詩人の白居易が行政官として赴任した際、生活用水の確保のために築いた西湖の堤を模したものです。ユーチューブで本物と見比べてみて下さい。規模は全く異なりますが、同じような堤を見ることができるでしょう。『奥の細道』に芭蕉は松島の風景を讃えて、「…松島は扶桑(日本のこと)第一の好風にして、凡そ洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、浙江の潮をたたふ。…」と述べています。もちろん光圀も芭蕉も本物を見てはいませんが、当時の知識人には、中国の名勝として知られていたわけです。また禅語にも「廬山は煙雨、浙江は潮」というのがあって、常にセットになって理解されていました。

 渡月橋から清水寺観音堂跡に登ってみましょう。ここが台地の末端であったことがよくわかります。現在は礎石だけしか残っていませんが、かつては懸崖作りのミニ舞台がありました。建物は関東大震災で失われてしまったそうです。このあたりは鬱蒼と木々が茂り、夏でも涼しそうです。

 ここから左手に東福寺の朱色の通天橋を眺めながら、大堰川に降り、丸い飛び石を渡って、小廬山の中腹に至ります。廬山には背の低い笹が茂り、それはそれでなかなか風情があります。

 そして得仁堂へ行きましょう。ここでは徳川光圀について少し勉強します。光圀は水戸藩初代藩主徳川頼房の三男で、徳川家康の孫に当たります。水戸藩の第二代藩主で、通称は水戸黄門、雅号は梅里といいます。光圀が6歳の時、将軍家光から水戸藩の後嗣選定の内命を受けた藩付家老中山信吉は、光圀の器量に感動し、江戸に帰って家光に報告し、光圀が世子となることが決められました。そして兄頼重を差し置いて水戸藩の第2代藩主となります。しかし若い頃は乱暴な振る舞いが多く、吉原の遊郭にも通うなど、とうてい御三家の世子とは思えないものだったそうです。しかし18歳のとき『史記』の伯夷伝を読み、大きなショックを受けました。

 伯夷とは、古代中国の殷から周にかけての時代、紀元前 1100年頃の賢人で、弟の叔斉とともに伯夷叔斉と並び称されています。彼等は孤竹国の王子だったのですが、父が三男の叔斉を後継者にしたかったのに、,叔斉は長兄の伯夷に譲ろうとし,ついに2人ともその地位を捨てて国を去りました。そして次男が王位を継ぐことになりました。彼らは善政で知られた周の文王を慕って,周に行くのですが、既に文王は逝去していて、武という王が殷を討伐しようとしていました。そこで彼等は武王に諫言して止めさせようとするのですが、結局は武王はこれを聞き入れず,殷にかわって周王朝が成立します。それで伯夷と叔斉は不義の粟 (ぞく) を食わずといって首陽山という所に隠棲し、そのまま餓死したとされています。

 徳川光圀は18歳のころにこの話を読み、兄頼重を差し置いて藩主となることを重く受け止め、以後は生活を改めて地位にふさわしく行動するようになったとされています。この得仁堂は、光圀が敬慕した伯夷と叔斉の木造を安置していた小堂なのです。伯夷・叔斉の兄弟は西山という所でなくなるのですが、光圀は63歳の時に兄頼重の子綱條(つなえだ)に家督を譲り、同じ西山という地名の場所に西山荘を営んで隠居します。このように徹底して伯夷叔斉を敬慕し続け、兄の血筋を藩主とすることによって、長年の心の負担を解除したのでした。

 得仁堂から少し進むと池に降りられますが、降りる前に左折し、団体休憩所に行ってみましょう。ここでトイレを済ませておきます。この庭園はトイレが他にないので、寄っておいた方が無難です。休憩所には、この庭園で撮影された野生の鳥の写真が展示されています。翡翠色のカワセミが来るので、池の辺でその写真を撮るために、望遠レンズを構えている人がいるかも知れません。因みに「翡翠」の「翡」は雄のカワセミ、「翠」は雌のカワセミのことですから、翡翠とは本来は宝石ではなく、この小鳥のことなのです。

 さて次は円月橋に行きましょう。水面に映る影も一体となって、丸い形に見えるのでこの名があります。一見して異国情緒の橋であることはすぐにわかります。欄干の曲線的装飾に、特徴がよく見えています。これは光圀が師として遇した明朝の遺臣で儒学者の朱舜水の影響によるものです。彼は明末清初の変乱に際し、明朝の復興のために四度も来日しています。そして明朝再興のための援兵を求めたのですが、成功しませんでした。結局日本に帰化して徳川光圀に招かれ、その説くところの大義名分論は、水戸学派成立に大きな影響を与えます。園内に西湖や廬山を模した池や山があるのも、朱舜水の影響です。

 円月橋の前に流れているのが、江戸市民の飲み水として多摩川から水をひいた神田上水の跡です。後楽園の水は、当時は神田上水を引き込んだものだったのです。

 ここからもう一度池の方に降りてみましょう。そして池にそって行くと、左手に白糸の滝があります。ここでは富士の裾野のつもりなのでしょう。さらに進むと松原があります。するとここは三保の松原のつもりということになります。つまり東海道を歩いているという想定です。左手にはハナショウブの植えられている菖蒲田があります。見頃は6月上旬です。菖蒲田に沿って少し戻るように進み、神田上水跡の流れを渡って、カキツバタが植えられているところを歩きます。カキツバタの見頃は5月上旬です。さらに進むと後楽園の東北の隅には、梅林があります。光圀は殊の外梅が好きで、梅里と号する程だったことを確認しておきましょう。

 園の一番隅には、「藤田東湖護母致命之処」と書かれた石碑が立っています。藤田東湖は幕末の勤皇家で、藩主徳川斉昭の信任があつく、その尊皇攘夷思想は多くの志士に影響を与えました。彼は小石川の水戸藩邸に住んでいたのですが、安政2年(1855年)に大地震がおこり、藩邸が倒壊してしまいます。その時東湖は母を助けて外に非難したのですが、母が火鉢の火が危ないと再び屋内に引きかえします。東湖は母を救い出そうと家にもどった時、鴨居が落ちてきました。東湖は老母を下に囲い、肩で鴨居を支え、かろうじて母を庭に出します。しかし、東湖は力つき、その下敷きとなって圧死してしまいました。その場所は現在園外のは白山通りで、そこに記念碑があったのですが、道路拡幅工事のため、少し移動して園内に移されました。

 そこから梅林を通って神田上水跡を渡ると、右手に水田があります。この水田は嗣子に定めた兄の子綱條夫人が京都の公家の娘であったため、農民の苦労を理解させるために、光圀がわざわざ作ったものです。水戸黄門漫遊記に画かれた光圀像は、常に農民に優しい殿様ですが、実際には『大日本史』編纂授業による出費が大きく、農民の租税負担は大きなものでした。現実とお話しとはなかなか一致しないようです。

 更に進んで松原を通り過ぎ、琵琶湖のつもりの池を右に見て進みます。池の東の隅に、石がいくつも水面上に見えるように置かれていますが、これは琵琶湖の竹生島のつもりだそうです。

 さらに進んで、唐門跡を経て内庭に行きましょう。ここは藩邸の書院の目の前にあった庭で、書院の中から眺めるものでした。池には5月末から7月にかけて、午前中なら白い睡蓮の咲いているのを見ることができます。

 この池から流れ出る川は木曽川という設定です。木々に覆われた景観は、いかにも深山の木曾谷を連想させます。石畳の道を進むと、右手に琵琶湖が見えますから、この道は中山道という想定なのでしょう。石段の道を降りきったあたりに紅葉の林があり、その辺りの川は竜田川という想定です。竜田川は平城京の西にある立田山を流れる川で、古来紅葉の名所として知られていました。紅葉葉秋が見頃で、秋は五行思想では西に当てはめられるように、紅葉の林は池の西側に位置しています。そのような解説はありませんが、庭を造営する際は、当然そのような方角まで考えていたはずです。

 見落とした物もいくつかありますが、こんなコースで1時間半あればゆっくり回れました。あとついでのことですが、小石川後楽園を出て塀に沿って右折し、石垣の切れるやや手前の石垣に、たくさんの刻印石があります。この石は丸の内、鍛冶橋の外堀から移設された物で、◯に山の字は備中成羽藩3万石・山崎家治の普請であることを表しています。

 本当に大雑把な解説でしたが、御参考になれば幸いです。この後は私たちは近くの印刷博物館に行きました。歩いて15分もかかりません。これは絶対にお勧めです。凸版印刷の作った私設の博物館ですが、その展示物が実に面白い。是非立ち寄ってみて下さい。


門松の起原についての流布説の出鱈目

2018-06-11 08:25:06 | 年中行事・節気・暦
門松の起原について、一般に説かれていることがとんでもない出鱈目であることについて、既に小論を公開していましたが、さらに新資料を加えましたので、古い物を破棄して新たに改訂版として公表します。ウィキペディアやネット情報、また一般の年中行事解説書が根拠のない出鱈目であることをご理解いただけるものと思います。


 門松とは、正月に家の門戸などに立てられる松や竹を用いた正月飾のことです。この門松の起原について伝統的年中行事の解説書やネット情報を読んでみると、まずほとんどが信頼できないものばかりです。まずウィキペディアには、「古くは、木のこずえに神が宿ると考えられていたことから、門松は年神を家に迎え入れるための依代(よりしろ)という意味合いがある。・・・・神様が宿ると思われてきた常盤木の中でも、松は『祀(まつ)る』につながる樹木であることや、古来の中国でも生命力、不老長寿、繁栄の象徴とされてきたことなどもあり、日本でも松をおめでたい樹として、正月の門松に飾る習慣となって根付いていった。」と記されています。

 依代とは神霊が出現するときの媒体となるもののことで、早い話が門松は年神を迎えるための目印であったというわけです。しかし神聖な樹木と見なされたものは、古典的文献を探せば松の他にも杉・槻(つき)(欅のこと)・椎(しい)・柏(かしわ)・楢(なら)・榊(さかき)など、いくらでもあります。松が「祀る」を掛けているので正月飾りに選ばれたとされていますが、そのことを示す文献史料を見たことがありません。また梢に神が宿るという理解が広く行われていたことを示す文献史料もありません。門松というものが出現する平安時代に、松が年神の依代となっていたという文献史料など何一つ見たことがありません。近現代の民間伝承として古老がそのように語ったということはあるでしょうが、門松は平安時代には出現しているのですから、起原という以上は平安時代の史料的根拠でなければ、検証のしようがないではありませんか。

 門松の年神依代説は、民俗学者が提唱し始めたことです。和歌森太郎という高名な学者は、その著書『花と日本人』の中で、次のように述べています。「門松は、いわゆる年(歳)神とか歳徳神の祭りを、年棚、歳徳棚を前にして行うために、門口や棚の上に、その神霊を依りまさしめる代(しろ)として据え立てたものである」。この書物は雑誌『草月』に連載された文章をまとめて単行本としたものであるため、生花に関係ある多くの人が読みました。そのためその影響は大きく、門松の年神依代説は一気に流布するようになりました。このような門松理解を、伝統的年中行事解説書の著者達は大学者の説としてありがたく頂戴し、それを参考にするネット情報の筆者達は、そのままコピーしているのです。

 なぜ松が選ばれたのかを検証するためには、古代の文献史料により、松がどのように理解されていたかを調べなければなりません。松を詠んだ歌を片端から読んでみると、松が長寿のシンボルであるという理解が共通しています。それは早くも『万葉集』に見られます。「たまきはる 命は知らず 松が枝を 結ぶ心は 長くとぞ思ふ」(『万葉集』1043)。これは『万葉集』の編者である大伴家持が安積皇子の長寿を祈った歌で、「命の長さはわからないものであるが、松の枝を結ぶ私の心は、あなたが長生きして欲しいということである」、という意味です。

 平安時代になっても、松が長寿のシンボルであるという理解は引き続いて共有されていました。『古今和歌集』以来の勅撰和歌集には賀歌の巻が立てられていますが、そこに詠まれる松の歌はほとんど長寿に関わるものです。当時、「松は千年を契る」と称して、松の樹齢は千年であるとされていました。唱歌『荒城の月』の歌詞に「千代の松ヶ枝」とあるが、『万葉集』にもに「千代松」という表現があり(『万葉集』990)、松が長寿のシンボルであることは、古来一貫して変わっていません。

史料「千代の松」
①「茂岡(しげおか)に 神さび立ちて 栄えたる 千代松の樹(き)の 歳の知らなく」(『万葉集』990)
②「藤波は 君が千年の 松にこそ 懸けて久しく 見るべかりけれ」(『金葉和歌集』326)

 平安時代には、正月と松が結び付く「子(ね)の日」「子の日の遊び」「小松引き」と呼ばれる遊楽が行われていました。新年早々の初子(はつね)(その年最初の子(ね)の日)の日に野に出て若菜を摘み、まだ小さい若松を根ごと引き抜き持ち帰って植え、長寿を祈念するのです。平安時代の朝廷の年中行事や儀式を記述した『年中行事秘抄』という書物には、「正月の子の日に丘に登って四方を見渡せば、陰陽の静気を得て憂悩を除くことができる」、と記されています。

 平安時代には、初子の日に長寿を祈念する小松引が行われていたことを示す歌がたくさん詠まれ、『土佐日記』や、『源氏物語』の「初音」「若菜」の巻にも記されています。このような風習が門松の起原となるのです。西行の『山家集』には、門松として「小松」を立てることを詠んだ歌がありますが、現在でも関西門地方の門松は「根引の松」と称して、根が付いたままの小松が飾られていて、まさに子の日の小松そのものなのです。

史料「初子の遊び」
①「正月子日、岳に登りて遙に四方を望むは、陰陽の静気を得て、耳目に触るる憂悩を除くの術なり。」(『年中 行事秘抄』節日由緒)
②「野辺に出(い)でて 子の日の小松 引き見れば 二葉に千世(ちよ)の 数ぞこもれる」(堀河院百首歌 子日 27)

 門松の存在が確認できるのは、惟宗孝言(これむねのたかとき)(1015年~?)という漢詩に優れた官吏の、「長斎之間以詩代書是江方子」(国会図書館デジタルコレクション『本朝無題詩』157コマ目で閲覧できます)という詩です。その中に「門を鎖(とざ)して賢木(さかき)を貞松に換(か)ふ」という詩句があり、自身が「迎(近?)来世俗皆松を以て門戸に挿す。而して余、賢木を以て之に換ふ。故に云ふ」という注釈を付けています。つまり「最近は門松を門戸に挿す風習があるが、私は松に換えて榊を挿している」、というのです。ここでは11世紀中頃には門松を立てる風習が広まり始めたことを確認しておきましょう。

 また平安時代の12世紀初頭の『堀河院百首歌』に「門松」を詠んだ歌があります。また平安時代末期の流行歌の歌詞を集めた『梁塵秘抄(りようじんひしよう)』には、門松が長寿を祈念するものであることがはっきりと歌われています。私は数年かけて古歌を主題別に自分で分類整理した膨大な資料を手許に持っていますが、松が神霊降臨の依代となっている歌を一首たりとも探し出すことはできません。少なくとも古代の松の和歌には、年神の依代という発想や、「松」と「祀る」を掛ける発想は片鱗もないのです。見落としがあるかもしれませんが、仮にいくつかあったとしても、広く共有されていなかったということは揺らぐことはないでしょう。

史料「門松を詠んだ歌」
①「門松を 営み立つる そのほどに 春明け方に 夜やなりぬらん」(堀河院百首歌 1109 除夜)
②「新年、春来れば 門に松こそ 立てりけれ、松は祝ひの ものなれば、君が命ぞ 長からん」(『梁塵秘抄』巻一 春12番歌 )

 門松を立てる風習は、中世以後にはさらに広まります。鎌倉時代末期の『徒然草』には、元日の都大路の家ごとに門松が立てられているのは、明るく賑やかで趣があると記されています。室町幕府の年中行事を記録した『年中恒例記』には、「門松は十二月二十六日に立てるが、近年は大晦日に立てる」、と記されています。

史料「中世以後の門松」
①「門ごとに 立つる小松に 飾られて 宿てふ宿に 春は来にけり」(『山家集』春5)
②「(元日は)大路のさま、松立てわたして、はなやかに嬉しげなるこそ、またあはれなれ」(『徒然草』第19段)
③「十二月二十六日、今日御立松つくり申候也、・・・・近年は晦日に作申也」(『年中恒例記』)

 「門松」とは言うものの、現在の門松は見かけ上は竹が主役になっているものもあります。門松に竹が加えられた時期は、はっきりとはわかりません。ただ上杉氏に伝えられた桃山時代の「洛中洛外図屏風」の左隻中央やや下部に、軒先に届くほどの門松が並んでいる場面が画かれていますが、竹は見当たりませんから、江戸時代になってからでしょう。ただし竹が松と並んで長寿のシンボルと理解されるのは、「色変へぬ 松と竹との 末の世を いづれ久しと 君のみぞ見む」(『拾遺和歌集』275)という歌があるように、平安時代以来のことではあります。

 門松が長寿を祈念する呪物であるという理解は、江戸時代にも継承されています。子供のための節供解説書である天保年間の『五節供稚童講釈』初編には、「正月門松立つる事は、松は千歳、竹は万代を契るものゆゑに、門に立てて千代よろづを祝ふなり」、と記されています。少なくとも江戸時代までは、門松が年神の依代であるという理解は見当たりません。

 江戸時代になると、絵画的史料がたくさん残されています。『諸国図会(ずえ)年中行事大成』には、「門の左右に松と竹を一本ずつ立て、さらに上に竹を横たえて、様々な縁起物の飾りを取り付ける。また家の中のあちらこちらにも松や注連縄の輪飾を懸ける」、と記されています。天保年間から幕末にかけて執筆された『守貞謾稿(もりさだまんこう)』には、現代でもよく見かける三本の太い竹を斜めに削(そ)いで、周囲に松の枝を添えたタイプの物も描かれています。また同書や『長崎歳時記』には、「立派な門松を飾るのはそれなりの家だけであって、一般には松を左右に一本ずつ、戸口の柱に釘で打ち付け、簡単な注連縄を張るだけである」、と記されています。しかし現在でも門松は地域によってその形態は異なっていますから、当時も地域による相違があったことでしょう。

史料「江戸時代の門松」
①「門松飾藁、今日より十五日まで、門前左右に各松一株竹一本を立、上に竹二本を横たへ、飾藁(わら)を付、是(これ)に昆布、炭、橙、蜜柑(みかん)、柑子(こうじ)(小蜜柑の一種)、柚(ゆず)、橘(たちばな)、穂俵(ほだわら)(海草のホンダワラ)、海老、串柿、楪(ゆずりは)、穂長(裏白)を付る。・・・・また根引松を門に立、間口に応じ注連縄を張り、其(その)余裏口、井戸、竈(かまど)、神棚、湯殿、厠(かわや)に至迄(まで)松を立、輪飾とて注連を輪にして懸る也。」(『諸国図会(ずえ)年中行事大成』)

②「商家の内富(とめ)るものは、まま門松立て並べたるもあれども、多くは質素を守り、打付松とて枝松を戸口の左右に打付け、竹を立てそへ、注連飾りをす。」(『長崎歳時記』)

 今日の立派な門松には、三本の太い竹を節の少し上で横に切った寸胴型と、斜めに切ったそぎ型の二つのタイプがあります。この由来について、ネット情報では徳川家康と武田信玄が関わっていると説かれていて、一応根拠となる出典があります。それは『江戸府内絵本風俗往来(えどふないえほんふうぞくおうらい)』という書物で、江戸時代末期の風俗を、菊池貴一郎という好事家が明治時代になってから書き、明治三十八年に出版したものです。その冒頭には、以下のようなことが記されている。それは徳川家康と武田信玄が戦って家康が敗れた、三方ヶ原の戦の翌年正月のことである。武田方から「松かれて 竹たぐゐ(たぐひ)なき あした哉」という句が送られてきた。これは「松平(徳川の旧姓)の松が枯れて、武田が比類のない程に繁る元旦であることよ」、という意味です。要するに松平氏(徳川氏)は滅び、武田氏がいよいよ繁栄することを意味しています。この句は連歌の発句ですから、これに続く附け句を詠んでみよということなのでしょう。これに対して家康に近侍する酒井左衛門尉が、「これは間違いで、『松かれで 武田首なき 旦(あした)かな』と読むべきものであると答えました。昔は歌には濁点を付けずに書き表し、読む時に必要に応じて濁点を補いつつ読むものであったので、そのように読むことも可能です。その前の年、三方ヶ原の戦で敗れた家康が浜松城に逃げ帰ったのですが、城内には篝火(かがりび)が焚かれ、城門も開け放たれたままだったので、家康を追撃して来た武田勢は、きっと謀略があるだろうと警戒して引き揚げたため、家康はかろうじて窮地を脱しました。その直後に例の元旦の歌が送られてきたので、「竹は葉なしにて、竿に同じ穂先を切り、松をそへる。松の根廻りへ四本の杭を打並て、太縄にて松の根をつなぎ固めたり」という形が、「松、武田の首を打し俤(おもかげ)なり」として、「御吉例と相な」ったということです。

 ところがネット情報には、怒った家康が門松の竹を「武田の首」に見立てて削ぎ落とし、そぎ型の門松が誕生したと説かれています。しかしどのように丁寧に読んでも、その様なことは書かれていません。天保年間の『武家年中行事』(三田村鳶魚著『江戸年中行事』所収)には同じ話が載せられていて、それによればそぎ型であることがわかります。ただしこれにも家康が怒って削ぎ落としたとは記されていません。ネット情報には一般に根拠のないものが多いのですが、史実かどうかはともかくとして、この逸話には立派に出典があるわけです。『江戸府内絵本風俗往来』は入手の難しい本ですが、国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます。三田村鳶魚著『江戸年中行事』は中公新書に収められています。

 以上のような逸話が伝えられていたのは事実ですが、おそらく史実ではないでしょう。江戸時代には家康は「神君」として神格化された存在であり、話もあまりにも出来すぎであり、とうてい信用できるものではありません。むしろ江戸時代の末期の『守貞謾稿』にそぎ型の図を掲げ、「図のごとく、太きそぎ竹に小松を添ふるもあり。・・・・医師などこの制多し」と注釈されていることの方が余程に信用できます。

 門松や注連飾を飾る時期については、室町時代の『年中恒例記』では大晦日、『江戸府内絵本風俗往来』(中編巻七)には28日、『東都歳時記』には28日か29日、天明年間の上野国高崎付近の風俗を叙述した『閭里(りより)歳時記』(『民間風俗年中行事』所収)には29日から大晦日にかけて、『武家年中行事』では、江戸城の門松は29日、江戸時代後期の文化年間の風俗調査である『諸国風俗問状答(しよこくふうぞくといじようこたえ)』の和歌山からの報告によれば30日に飾り付けると記されています。『東京年中行事』では、「二十日にもなれば、もう気の早い家にては門松を立て飾る」と記されています。

 ネット情報には29日は「二重苦」に通じるとか、大晦日に飾るのは「一夜松」と称して、飾ってはいけない日とするものが多いのですが、この手の脅迫めいた情報には何の根拠もなく、歴史的なものでもありませんから、全く気にする必用はありません。概してこのような脅迫的年中行事情報は、江戸時代には極めて少ないものです。ネット情報の鬱陶しさは、「あなたは御存知ないでしょうから、教えて差し上げますよ」と言わんばかりに、年中行事にやたらに自前の禁忌を持ち込み、それにそわないことに対して縁起が悪いとか言って、不安を煽ることです。もし29日に門松を立てようものなら、ひそひそと「常識がない」と陰口を言うことでしょう。しかしもしそう言われたら、その根拠を尋ねてみましょう。必ずや「昔からそのように言われている」ということ以上は言えないことでしょう。

 取り払う時期は、『諸国図会年中行事大成』では正月15日まで立てる、『東都歳時記』では14日、『守貞謾稿』には、「江戸も昔は、十六日に門松注連縄等を除き納む。寛文二年(1662年)より、七日にこれを除くべきの府命(幕命)あり。今に至りて七日これを除く。これ火災しばしばなる故なり。京坂は今も十六日にこれを除く。」と記され、『東京風俗志』では6日、『東京年中行事』では14日とされています。要するにいつ飾ろうと、いつ取り除こうと自由なのです。む

 それにしても門松の年神依代起原説を説く人は、一体何を根拠に書いているのでしょうか。書く内容に責任の問われない無記名のお気軽なネット情報がその程度であることはやむを得ませんが、名前を明らかにしている場合や、伝統的年中行事の解説書の著者達は、そうはいきません。歴史的文献史料も確認もせず、年中行事事典の類を適当に摘まみ食いしているだけなのです。門松は平安時代に出現しているのですから、平安時代の文献史料に、そのように理解できる史料がなくてはなりません。反論を期待しているので、敢えて過激な言葉を選んでいますが、出せるものなら出してほしいものです。私が是に示した史料を否定し、なおかつ年神依代起原説を証明する文献史料を示せるのですか。挑発するようですが、根拠もなく出鱈目な解説を広めることに、私は学問的な義憤を感じています。反論にはいつでも受けて立つ用意があります。