後世への最大遺物
原文
然(しか)しながら私に爰(ここ)に一つの希望がある。此(この)世の中をずっと通り過ぎて安らかに天国に往(ゆ)き、私の預(予)備学校を卒業して、天国なる大学校に這入(はい)って仕舞(しま)ったならば、それで沢山(たくさん)かと己(おの)れの心に問ふて見ると、其(その)時に私の心に清い慾(よく)が一つ起て来る。即(すなわ)ち私に五十年の命を呉(く)れた此(この)美しい地球、此美しい国、此楽しい社会、此我々を育てゝ呉(く)れた山河、是等(これら)に私が何も遺(のこ)さずには死んで仕舞(しま)ひたくないとの希望が起って来る。どうぞ私は死んでから啻(ただ)に天国に往(ゆ)くばかりでなく、私は茲(ここ)に一(ひとつ)の何かを遺(のこ)して往きたい。・・・・
茲(ここ)に至って斯(こ)う云ふ疑問が出て来る。文学者にもなれず、学校の先生にもなれなかったならば、夫(それ)ならば私は後世に何をものこす事は出来ないかといふ問題が出て来る。何か外(ほか)に事業は無いか、私も度々(たびたび)夫(それ)が為に失望に陥ることがある。然(しか)らば私には何にも遺すものはない。事業家にもなれず、金を溜(ため)ることも出来ず、本を書くことも出来ず、物を教へることも出来ない。さうすれば私は無用の人間として、平凡の人間として消えて仕舞はなければならぬか。・・・・
然(しか)れども私は夫(それ)よりもっと大きい、今度は前の三つと違ひまして、誰にも遺す事の出来る最大遺物があると思ふ。夫(それ)は実に最大遺物であります。金も実に一つの遺物でありますけれども、私は之(これ)を最大遺物と名づける事は出来ない。事業も実に大遺物たるには相違ない。殆(ほとん)ど最大遺物と云ふても宜(よろし)うございますけれども、未だ之(これ)を本当の最大遺物と云ふ事は出来ない。文学も先刻お話した通り実に貴いものであって、我が思想を書いた物は、実に後世への価値ある遺物と思ひますけれども、私が之を以て最大遺物といふ事は出来ない。最大遺物といふ事の出来ない訳は、一つは誰にも遺す事の出来る遺物でないから、最大遺物といふことは出来ないのでは無いかと思ふ。夫(そ)ればかりで無く、其(その)結果は必ずしも害のないものではない。・・・・
それならば最大遺物とは何であるか。私が考へて見ますに、人間が後世にのこす事の出来る、さうして是は誰にも遺す事の出来るところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。夫(それ)は何であるかならば、勇ましい高尚なる生涯であると思ひます。是が本当の遺物ではないかと思ふ。他の遺物は誰にものこす事の出来る遺物ではないと思ひます。
解説
『後世(こうせい)への最大遺物(さいだいいぶつ)』は、内村鑑三(1861~1930)が明治二七年(1894)七月、青年キリスト教徒のために箱根で催された、「基督(きりすと)教徒第六夏期学校」において行った講演記録です。内村鑑三は札幌農学校の二期生で、キリスト教に触れ、後に思想家・宗教家として社会に大きな影響を与えました。
彼は『後世への最大遺物』において、次のように告白します。若い頃には、歴史に名を遺(のこ)す人になりたいと思った。しかしキリスト教に触れてからというもの、神の前で清く立派に生涯を終え、天国に救われたいと思うようになった。しかし次第に考えが変わり、良い意味で歴史に名を遺すということは、キリスト教徒も持つべき考えであると思い直すようになった、といいます。鑑三は、賞賛や名誉ためではなく、「私がどれ程此地球を愛し、どれ丈(だけ)此世界を愛し、どれ丈同胞を思ったかと云ふ記念物を此世に置いて往きたい」と考えて、それを「後世への遺物」と名付けたのです。
それなら何を遺せばよいのでしょうか。まず初めに上げられたのは「金(かね)」です。彼は、「億万の富を日本に遺して、日本を救って遣(や)りたいと云ふ考を有(も)って居りました」と言っています。しかし「遺しやうが悪いと随分害を為(な)す」とも説いています。要は使い方が問題だというわけです。
二つ目には「事業」を上げ、「金」を良い目的で使う「事業」の方が、「金」より良い遺物であると説いています。ちょうど箱根で開催されたことから、十七世紀に箱根の山にトンネルを開削して、芦ノ湖の水を深良(ふから)村に導いた箱根用水を例に上げています。ひたすら人力で火山を一二八〇mも掘り抜く難工事の結果、多くの水田が潤されました。しかしこのような事業は、誰にでもできるとは限りません。
そこで三つ目には「思想」を上げています。金にも事業にも縁がないなら、文学者や教育者となって、思想という種を播いておけば、いずれ芽生えてその思想を実行する人が現れることを信じ、思想を遺すというのです。その実例として、十七世紀のイギリスの哲学者ジョン・ロックを上げています。彼は、政府は人々の委任により政治を行うが、国民は政府が契約目的に反する時には、政権担当者を更迭できると説きました。この政治思想は後にイギリスの名誉革命を正当化する理論となり、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言にも大きな影響を与えました。
また鑑三は身近なところでは、札幌農学校の「クラーク先生」を上げています。クラークは植物学者としてはともかく、「植物学といふ学問のInterestを起す力を持った人でありました」と述べています。ただし鑑三が入学した時には、クラークは既に米国に戻っていました。三つ目の遺物とは、形には残らなくても、良き感化を人の心の中に遺す事なのです。
これら三つを順に並べてみると、同じようなことを説いていた、後藤新平という大正・昭和前期の政治家を連想します。彼は板垣退助が岐阜で暴漢に刺された時、診察した医者なのですが、後に内務省衛生局長、台湾の民生局長となり、台湾の近代化を推進しました。また関東大震災後には、復興院総裁・東京市長として東京の復興に尽力します。余りにも桁外れの復興計画は縮小されましたが、延焼を防ぐための幅の広い道路や鉄橋への架け替えなど、その功績は今もなお残っていて、東京の昭和通りはその良い例です。その後藤新平は、「財を遺すは下、事業を遺すは中、人を遺すは上なり。されど財無くんば事業保ち難く、事業無くんば人育ち難し」と人に語ったそうです。
しかし鑑三は、これらの三つの遺物は誰もが遺せるものではなく、また使いようによっては害ともなるので、「最大遺物」ではないと言います。事実、特に思想は金や事業どころではなく、政治・思想的弾圧により桁外れの犠牲者を出してきたことは、世界史・現代史を見れば明らかです。
そして鑑三は、「勇ましい高尚なる生涯」こそ、「後世への最大遺物」であると結論しています。その例として、十九世紀のイギリスの歴史家トーマス・カーライルを上げています。彼は生涯の仕事としてフランス革命の『革命史』という書物を書くのですが、完成した原稿を友人にせがまれて一晩だけ貸しました。ところが何も知らない友人の使用人が、翌朝、ストーブの焚き付けに全て燃やしてしまったのです。一旦は呆然として希望を失うのですが、猛然と自らを励まして再び書き直し、出版することができたのでした。
これは思想を遺すことではないかと思われるかもしれませんが、鑑三の見方は違います。「或(あるい)は其(その)本が残って居らずとも、彼は実に後世への非常の遺物をのこしたのであります」と説いて、結果としての『革命史』という書物よりも、絶望の中から再び立ち上がって書き直そうとしたことの方が、はるかに価値があるというのです。
明治時代の社会や教育や文化において、キリスト教が果たした役割は極めて大きいものがありました。内村鑑三のように直接に宗教的活動はしなくても、信仰に裏付けられた堅い信念により「後世への最大遺物」を遺した人は、枚挙に暇(いとま)がありません。『後世への最大遺物』は、そのような人達のエネルギー源がどのようなものであったか、理解する手掛かりになることでしょう。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『後世への最大遺物』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。
原文
然(しか)しながら私に爰(ここ)に一つの希望がある。此(この)世の中をずっと通り過ぎて安らかに天国に往(ゆ)き、私の預(予)備学校を卒業して、天国なる大学校に這入(はい)って仕舞(しま)ったならば、それで沢山(たくさん)かと己(おの)れの心に問ふて見ると、其(その)時に私の心に清い慾(よく)が一つ起て来る。即(すなわ)ち私に五十年の命を呉(く)れた此(この)美しい地球、此美しい国、此楽しい社会、此我々を育てゝ呉(く)れた山河、是等(これら)に私が何も遺(のこ)さずには死んで仕舞(しま)ひたくないとの希望が起って来る。どうぞ私は死んでから啻(ただ)に天国に往(ゆ)くばかりでなく、私は茲(ここ)に一(ひとつ)の何かを遺(のこ)して往きたい。・・・・
茲(ここ)に至って斯(こ)う云ふ疑問が出て来る。文学者にもなれず、学校の先生にもなれなかったならば、夫(それ)ならば私は後世に何をものこす事は出来ないかといふ問題が出て来る。何か外(ほか)に事業は無いか、私も度々(たびたび)夫(それ)が為に失望に陥ることがある。然(しか)らば私には何にも遺すものはない。事業家にもなれず、金を溜(ため)ることも出来ず、本を書くことも出来ず、物を教へることも出来ない。さうすれば私は無用の人間として、平凡の人間として消えて仕舞はなければならぬか。・・・・
然(しか)れども私は夫(それ)よりもっと大きい、今度は前の三つと違ひまして、誰にも遺す事の出来る最大遺物があると思ふ。夫(それ)は実に最大遺物であります。金も実に一つの遺物でありますけれども、私は之(これ)を最大遺物と名づける事は出来ない。事業も実に大遺物たるには相違ない。殆(ほとん)ど最大遺物と云ふても宜(よろし)うございますけれども、未だ之(これ)を本当の最大遺物と云ふ事は出来ない。文学も先刻お話した通り実に貴いものであって、我が思想を書いた物は、実に後世への価値ある遺物と思ひますけれども、私が之を以て最大遺物といふ事は出来ない。最大遺物といふ事の出来ない訳は、一つは誰にも遺す事の出来る遺物でないから、最大遺物といふことは出来ないのでは無いかと思ふ。夫(そ)ればかりで無く、其(その)結果は必ずしも害のないものではない。・・・・
それならば最大遺物とは何であるか。私が考へて見ますに、人間が後世にのこす事の出来る、さうして是は誰にも遺す事の出来るところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。夫(それ)は何であるかならば、勇ましい高尚なる生涯であると思ひます。是が本当の遺物ではないかと思ふ。他の遺物は誰にものこす事の出来る遺物ではないと思ひます。
解説
『後世(こうせい)への最大遺物(さいだいいぶつ)』は、内村鑑三(1861~1930)が明治二七年(1894)七月、青年キリスト教徒のために箱根で催された、「基督(きりすと)教徒第六夏期学校」において行った講演記録です。内村鑑三は札幌農学校の二期生で、キリスト教に触れ、後に思想家・宗教家として社会に大きな影響を与えました。
彼は『後世への最大遺物』において、次のように告白します。若い頃には、歴史に名を遺(のこ)す人になりたいと思った。しかしキリスト教に触れてからというもの、神の前で清く立派に生涯を終え、天国に救われたいと思うようになった。しかし次第に考えが変わり、良い意味で歴史に名を遺すということは、キリスト教徒も持つべき考えであると思い直すようになった、といいます。鑑三は、賞賛や名誉ためではなく、「私がどれ程此地球を愛し、どれ丈(だけ)此世界を愛し、どれ丈同胞を思ったかと云ふ記念物を此世に置いて往きたい」と考えて、それを「後世への遺物」と名付けたのです。
それなら何を遺せばよいのでしょうか。まず初めに上げられたのは「金(かね)」です。彼は、「億万の富を日本に遺して、日本を救って遣(や)りたいと云ふ考を有(も)って居りました」と言っています。しかし「遺しやうが悪いと随分害を為(な)す」とも説いています。要は使い方が問題だというわけです。
二つ目には「事業」を上げ、「金」を良い目的で使う「事業」の方が、「金」より良い遺物であると説いています。ちょうど箱根で開催されたことから、十七世紀に箱根の山にトンネルを開削して、芦ノ湖の水を深良(ふから)村に導いた箱根用水を例に上げています。ひたすら人力で火山を一二八〇mも掘り抜く難工事の結果、多くの水田が潤されました。しかしこのような事業は、誰にでもできるとは限りません。
そこで三つ目には「思想」を上げています。金にも事業にも縁がないなら、文学者や教育者となって、思想という種を播いておけば、いずれ芽生えてその思想を実行する人が現れることを信じ、思想を遺すというのです。その実例として、十七世紀のイギリスの哲学者ジョン・ロックを上げています。彼は、政府は人々の委任により政治を行うが、国民は政府が契約目的に反する時には、政権担当者を更迭できると説きました。この政治思想は後にイギリスの名誉革命を正当化する理論となり、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言にも大きな影響を与えました。
また鑑三は身近なところでは、札幌農学校の「クラーク先生」を上げています。クラークは植物学者としてはともかく、「植物学といふ学問のInterestを起す力を持った人でありました」と述べています。ただし鑑三が入学した時には、クラークは既に米国に戻っていました。三つ目の遺物とは、形には残らなくても、良き感化を人の心の中に遺す事なのです。
これら三つを順に並べてみると、同じようなことを説いていた、後藤新平という大正・昭和前期の政治家を連想します。彼は板垣退助が岐阜で暴漢に刺された時、診察した医者なのですが、後に内務省衛生局長、台湾の民生局長となり、台湾の近代化を推進しました。また関東大震災後には、復興院総裁・東京市長として東京の復興に尽力します。余りにも桁外れの復興計画は縮小されましたが、延焼を防ぐための幅の広い道路や鉄橋への架け替えなど、その功績は今もなお残っていて、東京の昭和通りはその良い例です。その後藤新平は、「財を遺すは下、事業を遺すは中、人を遺すは上なり。されど財無くんば事業保ち難く、事業無くんば人育ち難し」と人に語ったそうです。
しかし鑑三は、これらの三つの遺物は誰もが遺せるものではなく、また使いようによっては害ともなるので、「最大遺物」ではないと言います。事実、特に思想は金や事業どころではなく、政治・思想的弾圧により桁外れの犠牲者を出してきたことは、世界史・現代史を見れば明らかです。
そして鑑三は、「勇ましい高尚なる生涯」こそ、「後世への最大遺物」であると結論しています。その例として、十九世紀のイギリスの歴史家トーマス・カーライルを上げています。彼は生涯の仕事としてフランス革命の『革命史』という書物を書くのですが、完成した原稿を友人にせがまれて一晩だけ貸しました。ところが何も知らない友人の使用人が、翌朝、ストーブの焚き付けに全て燃やしてしまったのです。一旦は呆然として希望を失うのですが、猛然と自らを励まして再び書き直し、出版することができたのでした。
これは思想を遺すことではないかと思われるかもしれませんが、鑑三の見方は違います。「或(あるい)は其(その)本が残って居らずとも、彼は実に後世への非常の遺物をのこしたのであります」と説いて、結果としての『革命史』という書物よりも、絶望の中から再び立ち上がって書き直そうとしたことの方が、はるかに価値があるというのです。
明治時代の社会や教育や文化において、キリスト教が果たした役割は極めて大きいものがありました。内村鑑三のように直接に宗教的活動はしなくても、信仰に裏付けられた堅い信念により「後世への最大遺物」を遺した人は、枚挙に暇(いとま)がありません。『後世への最大遺物』は、そのような人達のエネルギー源がどのようなものであったか、理解する手掛かりになることでしょう。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『後世への最大遺物』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。