うたことば歳時記

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『後世への最大遺物』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2021-03-29 20:38:53 | 私の授業
後世への最大遺物

原文
 然(しか)しながら私に爰(ここ)に一つの希望がある。此(この)世の中をずっと通り過ぎて安らかに天国に往(ゆ)き、私の預(予)備学校を卒業して、天国なる大学校に這入(はい)って仕舞(しま)ったならば、それで沢山(たくさん)かと己(おの)れの心に問ふて見ると、其(その)時に私の心に清い慾(よく)が一つ起て来る。即(すなわ)ち私に五十年の命を呉(く)れた此(この)美しい地球、此美しい国、此楽しい社会、此我々を育てゝ呉(く)れた山河、是等(これら)に私が何も遺(のこ)さずには死んで仕舞(しま)ひたくないとの希望が起って来る。どうぞ私は死んでから啻(ただ)に天国に往(ゆ)くばかりでなく、私は茲(ここ)に一(ひとつ)の何かを遺(のこ)して往きたい。・・・・
 茲(ここ)に至って斯(こ)う云ふ疑問が出て来る。文学者にもなれず、学校の先生にもなれなかったならば、夫(それ)ならば私は後世に何をものこす事は出来ないかといふ問題が出て来る。何か外(ほか)に事業は無いか、私も度々(たびたび)夫(それ)が為に失望に陥ることがある。然(しか)らば私には何にも遺すものはない。事業家にもなれず、金を溜(ため)ることも出来ず、本を書くことも出来ず、物を教へることも出来ない。さうすれば私は無用の人間として、平凡の人間として消えて仕舞はなければならぬか。・・・・
 然(しか)れども私は夫(それ)よりもっと大きい、今度は前の三つと違ひまして、誰にも遺す事の出来る最大遺物があると思ふ。夫(それ)は実に最大遺物であります。金も実に一つの遺物でありますけれども、私は之(これ)を最大遺物と名づける事は出来ない。事業も実に大遺物たるには相違ない。殆(ほとん)ど最大遺物と云ふても宜(よろし)うございますけれども、未だ之(これ)を本当の最大遺物と云ふ事は出来ない。文学も先刻お話した通り実に貴いものであって、我が思想を書いた物は、実に後世への価値ある遺物と思ひますけれども、私が之を以て最大遺物といふ事は出来ない。最大遺物といふ事の出来ない訳は、一つは誰にも遺す事の出来る遺物でないから、最大遺物といふことは出来ないのでは無いかと思ふ。夫(そ)ればかりで無く、其(その)結果は必ずしも害のないものではない。・・・・
 それならば最大遺物とは何であるか。私が考へて見ますに、人間が後世にのこす事の出来る、さうして是は誰にも遺す事の出来るところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。夫(それ)は何であるかならば、勇ましい高尚なる生涯であると思ひます。是が本当の遺物ではないかと思ふ。他の遺物は誰にものこす事の出来る遺物ではないと思ひます。

解説
 『後世(こうせい)への最大遺物(さいだいいぶつ)』は、内村鑑三(1861~1930)が明治二七年(1894)七月、青年キリスト教徒のために箱根で催された、「基督(きりすと)教徒第六夏期学校」において行った講演記録です。内村鑑三は札幌農学校の二期生で、キリスト教に触れ、後に思想家・宗教家として社会に大きな影響を与えました。
 彼は『後世への最大遺物』において、次のように告白します。若い頃には、歴史に名を遺(のこ)す人になりたいと思った。しかしキリスト教に触れてからというもの、神の前で清く立派に生涯を終え、天国に救われたいと思うようになった。しかし次第に考えが変わり、良い意味で歴史に名を遺すということは、キリスト教徒も持つべき考えであると思い直すようになった、といいます。鑑三は、賞賛や名誉ためではなく、「私がどれ程此地球を愛し、どれ丈(だけ)此世界を愛し、どれ丈同胞を思ったかと云ふ記念物を此世に置いて往きたい」と考えて、それを「後世への遺物」と名付けたのです。
 それなら何を遺せばよいのでしょうか。まず初めに上げられたのは「金(かね)」です。彼は、「億万の富を日本に遺して、日本を救って遣(や)りたいと云ふ考を有(も)って居りました」と言っています。しかし「遺しやうが悪いと随分害を為(な)す」とも説いています。要は使い方が問題だというわけです。
 二つ目には「事業」を上げ、「金」を良い目的で使う「事業」の方が、「金」より良い遺物であると説いています。ちょうど箱根で開催されたことから、十七世紀に箱根の山にトンネルを開削して、芦ノ湖の水を深良(ふから)村に導いた箱根用水を例に上げています。ひたすら人力で火山を一二八〇mも掘り抜く難工事の結果、多くの水田が潤されました。しかしこのような事業は、誰にでもできるとは限りません。
 そこで三つ目には「思想」を上げています。金にも事業にも縁がないなら、文学者や教育者となって、思想という種を播いておけば、いずれ芽生えてその思想を実行する人が現れることを信じ、思想を遺すというのです。その実例として、十七世紀のイギリスの哲学者ジョン・ロックを上げています。彼は、政府は人々の委任により政治を行うが、国民は政府が契約目的に反する時には、政権担当者を更迭できると説きました。この政治思想は後にイギリスの名誉革命を正当化する理論となり、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言にも大きな影響を与えました。
 また鑑三は身近なところでは、札幌農学校の「クラーク先生」を上げています。クラークは植物学者としてはともかく、「植物学といふ学問のInterestを起す力を持った人でありました」と述べています。ただし鑑三が入学した時には、クラークは既に米国に戻っていました。三つ目の遺物とは、形には残らなくても、良き感化を人の心の中に遺す事なのです。
 これら三つを順に並べてみると、同じようなことを説いていた、後藤新平という大正・昭和前期の政治家を連想します。彼は板垣退助が岐阜で暴漢に刺された時、診察した医者なのですが、後に内務省衛生局長、台湾の民生局長となり、台湾の近代化を推進しました。また関東大震災後には、復興院総裁・東京市長として東京の復興に尽力します。余りにも桁外れの復興計画は縮小されましたが、延焼を防ぐための幅の広い道路や鉄橋への架け替えなど、その功績は今もなお残っていて、東京の昭和通りはその良い例です。その後藤新平は、「財を遺すは下、事業を遺すは中、人を遺すは上なり。されど財無くんば事業保ち難く、事業無くんば人育ち難し」と人に語ったそうです。
 しかし鑑三は、これらの三つの遺物は誰もが遺せるものではなく、また使いようによっては害ともなるので、「最大遺物」ではないと言います。事実、特に思想は金や事業どころではなく、政治・思想的弾圧により桁外れの犠牲者を出してきたことは、世界史・現代史を見れば明らかです。
 そして鑑三は、「勇ましい高尚なる生涯」こそ、「後世への最大遺物」であると結論しています。その例として、十九世紀のイギリスの歴史家トーマス・カーライルを上げています。彼は生涯の仕事としてフランス革命の『革命史』という書物を書くのですが、完成した原稿を友人にせがまれて一晩だけ貸しました。ところが何も知らない友人の使用人が、翌朝、ストーブの焚き付けに全て燃やしてしまったのです。一旦は呆然として希望を失うのですが、猛然と自らを励まして再び書き直し、出版することができたのでした。
 これは思想を遺すことではないかと思われるかもしれませんが、鑑三の見方は違います。「或(あるい)は其(その)本が残って居らずとも、彼は実に後世への非常の遺物をのこしたのであります」と説いて、結果としての『革命史』という書物よりも、絶望の中から再び立ち上がって書き直そうとしたことの方が、はるかに価値があるというのです。
 明治時代の社会や教育や文化において、キリスト教が果たした役割は極めて大きいものがありました。内村鑑三のように直接に宗教的活動はしなくても、信仰に裏付けられた堅い信念により「後世への最大遺物」を遺した人は、枚挙に暇(いとま)がありません。『後世への最大遺物』は、そのような人達のエネルギー源がどのようなものであったか、理解する手掛かりになることでしょう。

昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『後世への最大遺物』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。




























『古今著聞集』 高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2021-03-26 09:43:49 | 私の授業
古今著聞集

原文
 嵯峨天皇と弘法大師と、つねに御手跡(ごしゆせき)を争はせ給ひけり。或る時、御手本あまた取出させ給ひて、大師に見せ参らせられけり。その中に殊勝の一巻ありけるを、天皇仰事(おおせごと)有けるは、「是(これ)は唐人の手跡なり。その名を知らず。いかにもかくは学びがたし。めでたき重宝(ちようほう)なり」と、頻(しきり)に御秘蔵ありけるを、大師よく〳〵言はせまゐらせて後、「是は空海が仕(つこ)うまつりて候ふ物を」と、奏せさせ給ひたりければ、天皇さらに御信用なし。大きに御不審ありて、「いかでかさる事あらん。当時書かるゝ様に、甚(はなは)だ異(い)するなり。梯(はし)立てゝ及ぶべからず」と勅定(ちよくじよう)有ければ、大師、「御不審、まことに其のいはれ候。軸を放ちてあはせ目を御叡覧(えいらん)候べし」と申させ給ひければ、則(すなわち)放ちて御覧ずるに、「其年(そのとし)其日、青龍寺において之(これ)を書す、沙門(しやもん)空海」と記せられたり。
 天皇此時御信仰有て、「誠に我にはまさられたりけり。それにとて、いかにかく当時の勢(いきお)ひには、ふつと変はりたるぞ」と尋ね仰られければ、「其事は国によりて、書替へて候也。唐土(もろこし)は大国なれば、所に相応して勢(いきおい)かくの如し。日本は小国なれば、それに従ひて、当時のやうを仕(つこ)うまつり候也」と申させ給ひければ、天皇大きに恥ぢさせ給ひて、其後は御手跡あらそひもなかりけり。

現代語訳
嵯峨天皇と弘法大師とは、常々書の巧みさを競っていらっしゃいました。ある時、天皇がお手本としている書跡を多数取り出され、大師にお見せになりました。その中に殊の外(ほか)勝(すぐ)れた一巻があり、天皇は、「これは唐人が書いた書跡である。その名は知らないが、とてもこのように書くことはできない。実に素晴らしい宝物である」と仰せられ、頻りに珍重している御様子でした。大師は、存分に天皇にお話させておいてから、「実はこれは空海が書いたものでございますが」と申し上げたのですが、天皇は全く御信用にはなりません。そして大層御不審の様子で、「どうしてそのようなことがあるだろうか。近頃(「当時」は「今の」という意味)そなたの書いているものとは全く異なっているではないか。梯子(はしご)を掛けても及ぶものではない」と仰せられました。すると大師は「御不審はもっともなことではございますが、軸を紙から外して、紙の合わせ目を御覧下さい」と申し上げました。そこで天皇が軸を外して御覧になられると、「某年某月、青龍寺においてこれを書す、沙門(僧)空海」と書いてあるではありませんか。
 さすがに天皇はようやく御信用になられ、「まことにそなたは我より勝(まさ)っておる。しかしそれにしても、なぜ今の筆勢とは全く違っているのか」とお尋ねになられましたので、大師は「それは国により書きかえているからでございます。唐は大国でありますので、それに相応しくこのような筆勢で書けるのでございます。日本は小国でございますので、それに合わせて今のような書き方になってしまうのでございます」と申し上げました。それで天皇は大いに恥じ入られ、その後は二度と大師と書跡のことで競うことはなくなりました。

解説
 『古今著聞集(ここんちよもんじゆう)』は、鎌倉時代中期の建長六年(1254)、橘(たちばなの)成季(なりすえ)(?~?)により編纂された説話集で、「著聞」とは「よく知られた話」という意味です。成季は、鎌倉幕府第四代将軍九条頼経の父である関白九条道家に仕えたことがあり、国司などを歴任し、文武両道に秀でた中級官僚です。編纂の目的について、跋文(ばつぶん)に「いにしへより善きことも悪しきことも記(しる)しおき侍らずば、誰か古きを慕ふ情(なさけ)を残し侍るべき」と記されています。編纂に際しては、平安時代の貴族の日記などを丹念に読んだり、多くの人から直接取材するなどして、誠実に材料を集めています。現在伝えられている二十巻本には、七二六もの説話が収録されていて、平安時代末期の説話集である『今昔物語集』の一千余話に次ぐ大説話集です。
 『古今著聞集』は類別に巻が立てられ、また年代順に整然と並べられています。その題目の分類は、神祇(じんぎ)(神道)・釈教(仏教)・政道忠臣と公事(政治)・文学・和歌・管弦歌舞・能書(書道)と術道・孝行恩愛と好色・武勇と弓箭(きゆうせん)・馬芸と相撲(すまい)強力(ごうりき)・図画と蹴鞠(けまり)・博(ばく)奕(ち)と偸盗(ちゆうとう)(窃盗)・祝言(しゆうげん)(祝儀)と哀傷・遊覧・宿執(年来の確執)と闘諍(とうじよう)(争い)・興言利口(座興話)・怪異と変化(へんげ)・飲食・草木・魚虫禽獣・跋文(ばつぶん)(後書き)、等々実に幅が広いものです。登場するのは、天皇・貴族・役人・武人・僧侶・芸術家・詐欺師・盗賊から、果ては天狗・鬼、さらには犬や猿に及び、古くから歴史的逸話の宝庫として、広く親しまれてきました。
 ここに載せたのは、巻七の「嵯峨天皇、弘法大師と手跡を争ふ事」という話です。嵯峨天皇は漢詩文や唐風書道などの唐風文化に、格別に造詣が深かったのですが、空海はそれ以上に本場仕込みの唐風教養を身に付けていましたから、歴然とした身分の差がありながら、共通の話題により親しく交わりました。それにしても空海には、どこか人を喰ったような性癖があり、「空海ならさもありなん」と思える逸話です。嵯峨天皇も、「初めからそう言えばよいものを、空海は人が悪い」と思ったことでしょう。
 ここに載せた逸話が決してあり得ない話ではないことは、『経国集』という勅撰漢詩集に、「海公(空海)と茶を飲み、山に帰るを送る」という、嵯峨天皇の詩が収められていることでも察しが付きます。それは「道俗相分れて数年を経たり、今秋晤語(ごご)(向き合って話すこと)するも亦た良縁。香茶(こうさ)酌(く)み罷(や)みて日云(ここ)に暮れ、稽首(けいしゆ)(深々と礼をすること)して離を傷(いた)み雲煙を望む」という詩です。これは二人が喫茶歓談して夕暮となり、高野山に帰る空海を見送る時に、別れを惜しんで嵯峨天皇が詠んだものです。「雲煙を望む」というのですから、姿が見えなくなるまで嵯峨天皇が空海を見送ったのでしょうか。立場上、実際にそこまではしなくても、気持ちとしてはそうなのでしょう。天皇と僧侶という身分立場を隔ててはいても、二人はまるで茶飲み友達ではありませんか。
 『古今著聞集』にはこの話に続き、空海が大内裏の門の額を書く話が載せられています。大内裏の十二の門のうち、南面の三門は弘法大師が、西面の三門は小野美材(よしき)が、北面の三門は、空海と共に入唐した橘逸勢(たちばなのはやなり)が嵯峨天皇の命によって書き、東面の三門は嵯峨天皇が親しく書きました。後に三跡(三蹟)に数えられる小野道風が空海の書いた額を見て、「美福門は田広し」(福の字の田が横広過ぎてバランスが悪い)。「朱雀門は米雀門」(朱の字が米の字のようで、米雀門に見える)と嘲(あざけ)ったので、「やがて中風して、手わなゝきて、手跡も異様に」なりました。そこで勅により額の修飾を命じられた三跡の一人藤原行成が、弘法大師像に香華(こうげ)を献げ、祭文を読んでから修理をしたという話です。
 ここには期せずして、三筆の嵯峨天皇・空海・橘逸勢と、三跡(三蹟)の小野道風と藤原行成が登場しています。ただし「三筆」という言葉が当時からあったわけではありません。「三筆」「三跡」という言葉の初見は、恐らく江戸時代の元禄五年(1692)に出版された『和漢名数』あたりが最初でしょう。しかし「三筆」「三跡」という名数の本になる能筆家としての評価が、当時からあったということになります。
 道風が中風になったとされたのは、彼の筆跡が震えているように見え、「道風の震(ふる)ひ筆」と言われたことによっています。室町時代の『鉢かづき』という御伽草子に、「御筆のすさび、道風のふるひ筆もかくやらんと、目をおどろかすばかりなり」と記されていますから、実際にはともかく、そのような伝承が鎌倉時代からあったようです。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『古今著聞集』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。


立春大吉(改訂版)

2021-03-23 09:13:19 | 年中行事・節気・暦
 以前、「立春大吉」という題で拙文を公開していましたが、新史料を加えて改訂しましたので、以前の文は廃棄し、改めて投稿いたします。既に立春を過ぎていて、少々間の抜けたことになりますが、お許し下さい。
 
 節分には古来の伝統的風習が行われているのに、立春にはこれといったことがありません。本来ならば元日と共に新年の起算日ですから、もっとそれらしい行事や風習があってもよさそうですのに、太陽暦になってからは、一年の始まる日という意味がすっかり忘れられてしまっています。せいぜい「立春大吉」と書かれた札を戸口に貼る風習くらいのものでしょうか、

 年中行事などの解説書やネット情報には、これは一般には曹洞宗寺院から始まった風習であるとされています。そして「立春大吉」という文字は書き様によっては左右対称になるため、家の中に入った鬼が振り返ると「立春大吉」と読める札があり、まだ家の中に入っていなかったと勘違いして出て行ってしまうと説明されています。しかし私は数十年間、江戸時代の歳時記類を中心として各種の文献を読んで来ましたが、このような理解を見たことがありません。万一私の見落としも有り得ますが、江戸時代に広く共有されていなかったことは間違いありません。そもそもガラスに貼るわけではありませんから、透けて裏文字が読めるはずはありません。おそらく誰かが面白半分にもっともらしく説いたことが、拡散されたものなのでしょう。

 「・・・・と言われています」という解説をする年中行事解説書の著者に尋ねてみたい。あなたの説くことの史料的根拠を、自分の目で確認したことがあるのですか。先行する情報を鵜呑みにして摘まみ食いしているだけではありませんか。もし本当に歴史的な根拠があるならば、そこまで書かなければ、第三者は検証のしようがないではありませんか。私は学者・研究者ではありませんが、相当の量の文献史料を読んでいます。見落としの可能性もあるでしょうが、少なくとも広く共有されてはいません。もしそのような風習が広く行われていたとしたら、私の検索の網に引っかかってくると思います。

 ただし江戸時代に禅寺の門に「立春大吉」と書いた札を貼る習慣があったことは本当です。禅門の右の柱には「立春大吉」、左の柱には「鎮火防燭」「鎮防乃燭」などと書いた札を貼るのですが、左柱の句は難解であることから、「立春の 片方読めぬ 寺の門」(『川柳評万句合勝句刷』宝暦十三年)、「立春大吉 片々は 読めねえ」(『誹風柳多留』六五・18)という川柳が詠まれています。「鎮火防燭」「鎮防乃燭」はいずれも防火の呪いでしょう。

 面白いことにこの風習は、韓国では日本より広く行われています。韓国で直接目撃したわけではありませんが、インターネットの画像で韓国の風習を見ると、普通に行われているようです。「立春大吉」と対になっているのは、「建陽多慶」が多いのですが、「鎮防乃燭」も確認できます。

 この韓国の風習がいつ頃まで遡れるのか確認するためには、韓国の古い年中行事の文献史料を調べなければならないのですが、私の能力を超えているので、諦めていました。しかしふと思い直して、朝鮮の李朝末期の年中行事や風習を記録した『東国歳時記』(1849年に成立)を読んでみると、なんとはっきり書いてあるではありませんか。同書は平凡社の東洋文庫に収められていて、韓国人が日本語に翻訳していますから、私でも理解できました。

 それによれば、立春の日に、宮中以下、庶民の家に至るまで、目出度い言葉や魔除けの言葉の対句を書いて門に貼ると記されています。そしてその様な言葉がたくさん上げられているのですが、わかりやすいものをいくつか拾ってみましょう。「去千災・来百福」「立春大吉・建陽多慶」「父母千年寿・子孫万代栄」「天下太平春・四方無一事」「災従春雪消・福遂夏雲興」「鶏鳴新歳徳・犬吠旧年災」。こうして比べてみると、日本の風習は、明らかに朝鮮から伝えられたものであることがわかります。

 立春には目出度い言葉を書いた札を戸口に貼る風習の起源は、中国の6世紀の風習を記録した『荊楚歳時記』に見られます。それには「立春の日・・・・春に宜しき字を門に貼る」と記されて、古くからの風習であることが確認できるのです。ただこの風習が平安時代から中世に、日本で行われたことを確認できていません。私が見逃しているのかもしれませんから、断定は避けますが、日本では定着しなかったようです。しかし確実に江戸時代には行われていますから、朝鮮通信使など、江戸時代の日朝交流の過程で伝えられたのではと思っています。前掲の『東国歳時記』には25もの目出度い言葉の対句が記録されていますから、その数から考えて、朝鮮から日本に伝えられたとするのが自然です。

 奈良時代に『荊楚歳時記』が日本に伝えられていながら、この風習はなぜ日本に定着しなかったのか。あるいは私が見逃しているのか。江戸時代に朝鮮から伝えられたというなら、どの様にして伝えられたのか、検証しなくてはならないことがいくつもあります。現在の私の力では及ばないことであり、問題点の提起に止めて置かざるをえません。

 どちらにしても、「立春大吉」の札が左右対称に見えるので、鬼が勘違いして出て行くという説明には、何の歴史的根拠もなく、誰かが面白半分にまことしやかに説いたものが、検証されずに垂れ流されたとしか言えないでしょう。


『梅松論』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2021-03-22 18:14:48 | 私の授業
るなり。
 第一に、御心強(ごしんきよう)にして、合戦の間、身命を捨て給ふべきに臨む御(おん)事(こと)、度々(たびたび)に及ぶといへども、咲(えみ)を含みて怖畏(いふ)の色なし。第二に、慈悲天性にして、人を悪(にく)み給ふ事を知り給はず。多く怨敵(おんてき)を寛宥(かんゆう)ある事、一子(いつし)の如し。第三に、御心(みこころ)広大にして、物惜(ものおしみ)の気なし。金銀土石をも平均に思食(おぼしめ)して、武具御馬以下の物を、人々に下し給ひしに、財と人とを御覽じ合ひる事なく、御手に任せて取り給ひしなり。八月朔日(ついたち)などに、諸人の進物共(ども)数も知らずありしかども、皆人に下し給ひし程に、夕(ゆうべ)に何ありとも覚えずとぞ承りし。実(まこと)に三つの御體(おんてい)、末代に有り難き将軍なり」と、国師、談議の度毎(たびごと)にぞ仰せ有りける。

現代語訳
 ある時、夢窓疎石(むそうそせき)が話のついでに、足利尊氏と(その弟の)足利直義(ただよし)の人徳を一つ一つ誉め讃えたことがあった。まず将軍(尊氏)について話されたのは、・・・・治承の争乱(源平の戦)以来、右近衛大将(うこのえのだいしよう)の源頼朝が、征夷大将軍ともなって武家政治を専決したが、賞罰には私心を挟むことがなかったとはいえ、余りに罰が厳し過ぎ、(思いやりの心である)仁の徳に欠けるところが所々にござった。現在の征夷大将軍尊氏様は、仁の徳ばかりか、さらに大いなる徳を具(そな)えてござる。
 まず第一に、御心が勇猛で、合戦で再三命の危ういことに臨んでも、笑みを浮かべて、恐れおののくということがござらぬ。第二に、憐れみ深さは生まれながらのものにして、人を憎まれるということがござらぬ。多くの怨(うら)み深き敵を許されること、あたかも我が子の如くでござる。第三に、御心が広く、物を惜しむことがござらぬ。金や銀でさえ土や石と同じように思っておいでになる。武具や御馬などを人々に賜る時は、その財と人とを見比べられることもなく、御手づから下される。(八月一日には)多くの人からの八(はつ)朔(さく)の御進物が数知れず献上されるが、全て人に下されるので、夕方には何一つ残らないとのことでござる。これら三つの徳を兼ね具(そな)えられ、まことに今後末代まで、現れることなき将軍様でござると、夢窓国師は話のたびごとに話された。

解説
 『梅松論(ばいしようろん)』は、主に鎌倉時代末期から建武の新政にかけての戦乱の時代を、歴史物語風に、かつ軍記物語風に叙述した歴史書です。叙述されている期間は、古代から皇統分裂までは概略ですが、元弘元年(1331)に元弘の変が始まり、後醍醐天皇が笠置山(かさぎやま)に脱出してから、建武四年(1337)に新田義貞が入城した金ヶ崎城が落城するまでが詳述されています。さらに、ここに載せた夢窓疎石の足利尊氏評などが付け加えられ、尊氏の為人(ひととなり)を賛美して終わっています。成立は文和(ぶんな)元年(1352)から嘉慶(かけい)年間(1387~1389)の頃で、著者は不明ですが、史料としての信憑性は比較的高いとされています。
 冒頭部の叙述は、『大鏡』などいわゆる「鏡物」の歴史物語に倣(なら)ったもので、北野天満宮への参詣者が、足利尊氏の栄華の経緯を尋ねると、参籠中の老僧が答えるという設定で話が始まります。書名については、尊氏の繁栄を天満宮ゆかりの梅花に、その子孫の長久を樹齢の長い松に準(なぞら)えたもので、最末尾には、「所は北野なれば、将軍(尊氏)の栄華、梅と共に開け、御子孫長久、松と徳を等しくすべし。飛梅(ひばい)老松(ろうしよう)年旧(ふ)りて、松風吹けば梅花薫ずるを問ふと答ふとに準へて、『梅松論』とぞ申しける」と記されています。 
 ほぼ同時期の戦乱を叙述した『太平記』は、大覚寺統に比較的同情的な立場で、『梅松論』は持明院統寄りの立場で叙述されていると説明されることがあります。しかし『梅松論』では、持明院統からの即位は、大覚寺統の皇位継承を命じた後嵯峨上皇の遺勅に反するもので、鎌倉幕府の介入による「非義」の即位であるとしたり、また後醍醐天皇の隠岐脱出について、「君、今度隠岐国を出給ひし事は、知臣の謀(はかりごと)にもあらず。たゞ天の与(あた)へ奉るにて有ける」と記されているように、必ずしも持明院統寄り、反後醍醐天皇ではありません。将軍補任の記述がないのに、尊氏は最初から「将軍」と呼ばれているように、『梅松論』はあくまで足利尊氏賛美と、足利政権を正当化する意図のもとに叙述されています。
 ここに載せたのは、禅僧夢窓疎石(むそうそせき)の尊氏評で、『梅松論』のほぼ末尾近くに記されています。尊氏の為人(ひととなり)を絶賛しているのですが、『梅松論』の著述目的からすれば、割り引かなければなりません。しかし尊氏の事績を調べてみると、全くの作り話でもなさそうです。相国寺の僧瑞渓周鳳(ずいけいしゆうほう)の日記である『臥雲(がうん)日件録(につけんろく)』の享徳四年(1455)正月十九日には、「或時戦場に在りて飛矢雨の如し。近臣咎(とが)めて曰く、少しく之を避くべしと。尊氏咲(え)みて曰く、戦で矢を畏(おそ)るは則ち可ならんやと」と記されています。この話は尊氏没後の伝聞ですが、そのような評価が伝えられたことは事実と認められます。
 降伏して来た者を、処罰せずに重用したこともありますが、南北朝の戦ではしばしば寝返りがあり、尊氏自身も一時期は南朝と和睦しているくらいですから、これも割り引かなければなりません。欲がなく、気前よく恩賞を与えた例もあります。箱根竹の下の戦では、奮戦した者に感激の余りその場で所領を恩賞として与えたので、「これを見聞く輩(やから)、命を忘れ死を争ひて、勇み戦はむ事を思はぬ者ぞなかりける」と記されています。
 また建武三年(1336)、光明天皇擁立の二日後に、清水寺に奉納した尊氏自筆の願文には、「この世は夢の如くに候。尊氏にだう心(道心)たばたせ給候て、後生たすけさせをはしまし候べく候。猶(なお)々とく(疾く)とんせい(遁世)したく候。・・・・今生のくわほう(果報)をば直義にたばせ給候て、直義あんおん(安穏)にまもらせ給候べく候」と記されています。「現世は儚く、自分は出家するので、来世のことを助けてほしい。現世の果報は弟の直義に譲るので、直義を守ってほしい」という意味です。もっとも前年の十二月、尊氏は鎌倉の浄光明寺で出家しようとしたことが『梅松論』に記されていて、すぐに「出家する」と言い出すのは、尊氏の癖かもしれません。またこの願文以後、尊氏が弟の直義に政権運営の実権の大半を委譲したことは事実であり、『梅松論』にも「その後は政務の事においては一塵も将軍より御口入れの義なし」と記されています。ところが一般には、尊氏は信頼していた直義を毒殺したと理解されているようです。確かに『太平記』巻三十「慧源禅師(直義)逝去の事」には、急死したので毒殺されたのではとささやかれたとは記されています。しかし後に兄弟が抗争したことは事実でも、毒殺した確かな根拠はありません。
 ここには載せていませんが、疎石の尊氏評に続き、尊氏も自ら源頼朝の政道の厳しいことを、「誅罰繁(しげ)かりし事いと不便(ふびん)(不憫)なり」と批判し、さらに「天下治まらんこと本意(ほい)たる間、今度は怨敵をもよく宥(なだ)めて本領を安堵せしめ(所領の領有を保証し)、功を致さん輩に於ては殊更(ことさら)莫大の賞を行はるべきなり」と直義らに語ったと記されています。しかし将軍職には、頼朝が弟達を処断したように、情に流されず政務を処理する冷徹さも必要なのかもしれません。

昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『梅松論』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。






『懐風藻』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2021-03-15 13:38:04 | 私の授業
懐風藻


原文
 五言 臨終 一絶  大津皇子(おおつのみこ)
金烏臨西舎 (金烏(きんう) 西舎(せいしや)に臨み)
鼓声催短命 (鼓声(こせい) 短命を催(うなが)す)
泉路無賓主 (泉路(せんろ) 賓主(ひんしゆ)無し)
此夕離家向 (此(この)夕(ゆうべ) 家を離(さか)りて向ふ)

現代語訳
 五言詩 辞世の詩 一首 大津皇子
夕日は西の方にある家々を照らし
(夕刻を告げる)太鼓の音は、私が命を縮めること(自害すること)を急(せ)きたてている
(死後に辿るという)黄泉(よみ)への路では、(誰もが皆同じで)客も主人もなく(ただ独りである)
今日の夕暮れには、この世の家を離れて、(寂しく黄泉への旅へ)向かわなければならない

解説
 『懐風藻(かいふうそう)』は日本最古の漢詩集で、天平勝宝三年(751)に成立しました。編者は序文で「薄官」(下級官吏)と謙遜していますが、「文人の首(おびと)」と賞賛された淡海三船である可能性が高いとされています。漢詩ですから、『万葉集』に比べれば、作者の階層が限られるのはやむを得ず、「淡海(おうみ)」(天智朝)から「平都」(奈良朝)までの六四人の一一六首(序文では百二十首)の詩が収められています。よく知られている人としては、大友皇子・大津皇子・文武天皇・藤原不比等(ふひと)・長屋王・藤原房前(ふささき)・藤原宇合(うまかい)等がいます。書名について序文には、「先哲(昔の賢人)の遺風(遺された教え・詩風)を忘れざらむ」ために、「遺風を懐(おも)う藻(詩文の言葉)」と命名したと記されています。
 ここに載せたのは、大津皇子(663~686)の辞世の詩です。『懐風藻』には大津皇子の為人(ひととなり)について、「身体容貌(ようぼう)ともに優れて逞(たくま)しく、度量が大きく、幼時より学問を好み、詩文に優れていた。武を好んで剣術も巧みである。自由気ままで規則に縛られず、謙虚に人を篤(あつ)くもてなす。そのため信頼されていた」と記され、『日本書紀』でも同様に賞賛されています。また『日本書紀』には、大津皇子の自死の記述に続いて、「文筆(ふみつくること)を愛(この)みたまふ。詩(し)賦(ふ)の興(おこり)、大津より始れり」と記され、その詩才が高く評価されていました。
 このように大津皇子が人望を集めると、皇位継承問題が表面化します。鵜野讃良(うののさらら)皇后(後の持統天皇)には、大津皇子より一歳年長の草壁(くさかべ)皇子という息子がいました。皇后にしてみれば、草壁皇子の将来に不安を覚え、大津皇子の人望を疎(うと)ましく思っていたに違いありません。それでも草壁皇子が天武天皇九年(681)に皇太子となり、既に序列は定まっていました。
 ところが朱鳥元年(686)九月九日に天武天皇が崩御すると、皇后が皇位につかずにそのまま政務を執ります。そして同年十月二日、親友であったはずの川島皇子(天智天皇の子)の密告により、大津皇子が謀叛(むほん)の疑いにより捕えられてしまいました。『懐風藻』の編者は、謀叛の計画を知った川島皇子が、忠告して押し止めることもせずに密告したことを、厳しい言葉で非難しています。
 この事件に対する鵜野讃良(うののさらら)皇后の処断は迅速でした。大津皇子は弁明すら許されず、翌三日には自邸で自害に追い込まれたのでした。享年は二四歳です。『日本書紀』には「死を賜ふ」と記され、その死の直前に詠まれたのが、ここに載せた「臨終」の詩なのです。
 一般論として第一受益者が黒幕だとすると、草壁皇子の皇位継承を確実にするために、鵜野讃良(うののさらら)皇后が仕組んだと考えるのが自然です。連座した者は一人が伊豆に流罪となっただけで、密告した川島皇子が褒賞された形跡がなく、また皇后が処断を急いだことなどは、陰謀説を補強するものでしょう。しかし事件の三年後、草壁皇子が二八歳で亡くなってしまいます。草壁皇子の子である軽皇子(かるのみこ)(後の文武天皇)はまだ七歳ですから、孫が成長して即位するまではと、祖母である皇后が自ら正式に即位して、持統天皇とはなったのです。
 「金烏(きんう)」とは太陽のことですが、これは古代中国で、日本サッカー協会のシンボルマークともなっている三本脚の烏が、太陽に棲(す)んでいるとされていたことによっています。詩全体に「西」の方角が意識されていますが、それは日没が死を連想させ、また西方極楽浄土に往生することを踏まえているからでしょう。「泉」は死後の世界を意味する「黄泉」のことです。
 ただしこの詩は、大津皇子の真作でない可能性が極めて高いのです。隋に滅ぼされた陳(ちん)の最後の皇帝である陳後主(こうしゆ)(553~604)に、「鼓声推命役(鼓声催命短?)、日光向西斜、黄泉無客主、今夜向誰家」というそっくりの詩があります。それを飛鳥時代に呉から渡来した智蔵が日本に伝え、さらにその弟子である智光が撰述した、『浄名玄論略述』(七五〇年頃成立)という書物に、陳後主の詩として収録されているそうです。すると『懐風藻』が編纂された頃には、日本にこの詩と大津皇子の「臨終」の詩が並立していたことになります。そして第一句で鼓の音、第二句で斜光、第三句で黄泉、第四句で今夜の宿のない不安を詠むという、ほぼ同様な詩は「臨刑詩」と呼ばれ、処刑される直前に詠む辞世の詩として、十世紀から二十世紀に至るまで、中国や朝鮮で類型化して詠まれ続けました。考えられるのは、大津皇子が陳後主の詩を、智蔵あたりから学んでいて改作したか、後世の人が大津皇子の名前で改作したかのどちらかしかありません。しかしこれ以上のことになると、専門家に任せるよりほかはありません。
 『万葉集』には、「もゝづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨(かも)を今日のみ見てや雲隠(くもがく)りなむ」(416番歌)という、大津皇子の辞世の歌も収められています。これは自死が宣告され、自邸に赴く途中で「磐余(いわれ)の池に鳴く鴨」を見て、詠んだものとされています。しかし「雲隠る」という言葉は、『万葉集』では貴人の死ぬことを表す言葉であり、しかも自分の死に対して自分で使う言葉ではありませんから、いくら貴人とはいえ、大津皇子が自ら使うはずはありません。このように問題はありますが、取り敢えずここでは大津皇子の辞世と理解しておきましょう。

昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『懐風藻』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。