うたことば歳時記

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北条時宗を励ました無学祖元 日本史授業に役立つ小話・小技43

2024-05-27 10:15:17 | 私の授業
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

43、北条時宗を励ました無学祖元
 北条時宗が第18代執権となったのは、文永5年(1268)3月のことでした。同年正月には服属を促す元の国書を持った高麗の使者が大宰府に来ていますから、時宗はまさに元寇に対処するために執権となった様なものです。文永11年(1271)の文永の役は何とか切り抜けたものの、油断はできません。そして弘安の役が近付く弘安2年(1279)、遷化した建長寺の開山である蘭渓道隆の後任として、南宋から無学祖元を招きました。文永の役後、石塁を構築し、異国警固番役を創設し、服属を促す元の使者を二回も処刑して断固たる決意を示していましたが、やはり不安は隠せなかったのでしょう。時宗は信頼して帰依する祖元の許に参禅します。
 虎関師錬が著して後醍醐天皇に献上した日本最初の仏教史書『元亨釈書』(巻八「宋国ノ祖元」)には、その時の様子が次の様に記されています。「(弘安)四年正月、平師(時宗)来り謁す。元(祖元)、筆を采(採)って書し、師に呈して曰く、『莫煩悩』(煩悩するなかれ)と。師曰く莫煩悩とは何の事ぞ」と。元曰く「春夏の間、博多擾騒せん。而して一風わずかに起って万艦掃蕩すべし。願はくは公、慮(おもんばかり)をなさざれ」と。果して海虜百万鎮西に寇す。風浪俄に来って一時に破没す」と。祖元は時宗に対して、あれこれと思い煩うなと激励したわけです。
 この祖元の言葉には凄まじい迫力がありました。『元亨釈書』のこの記述の前には、次の様な逸話も記されています。徳祐元年(1275)、元軍が南宋に侵入した時のこと、温州の能仁寺に元の兵が侵入すると、人々は皆逃亡してしまったのですが、独り祖元は堂内で坐禅をしていました。そしてまさに祖元を切り捨てようとした時、祖元は泰然自若弱としてとして言葉を発しました。「乾坤(けんこん)孤筇(こきょう)を卓(た)つるも地なし、喜び得たり、人は空にして、法もまた空なることを、珍重す、大元三尺の剣、電光影裏に春風を斬る」。この言葉は「臨刃偈」と呼ばれていて、恐らくは祖元の創作ではないでしょう。「この広い天地のどこにも、杖一本を立てる余地もない。しかし嬉しいことには、人ばかりか法もまた空なのだ。元の兵よ、お前さんの刀は立派なものだ。斬りたければ斬ればよかろう。私を斬ったとて、春風を斬る様なものさ」というのです。元の兵は感動のあまり思わず礼をして去った、というとです。この逸話がどこまで史実であるかどうかは、確認のしようがありません。元の兵に高僧の言葉の意味がわかったとも思えません。もし事実というなら、泰然自若とした雰囲気に呑まれたのでしょう。しかし『元亨釈書』は元亨2年(1322)の書物ですから、元寇後それ程時間が経過しているわけではありません。史実かどうかはともかくとして、その様に伝えられ、その様に理解されていたこと自体は事実でしょう。時宗が元と対峙するに当たり、祖元が自分の体験を語らなかったはずはありません。その祖元の言葉であるからこそ、「莫妄想」の言葉は時宗を力強く励ましたはずです。弘安7年(1284)、時宗は34歳で亡くなりました。満年齢なら32歳です。弘安の役は弘安4年(1281)ですから、まさに元寇に対処するためだけの人生でした。
 近年流行の「主体的対話的で深い学び」の授業では、この様な逸話はスルーされてしまいます。まあ教科書に書くわけにはいかないでしょうし、大学入試に出題もできません。しかし歴史は感情を持った人間の営みの集成ですから、私はこのような逸話を大切にしています。『元亨釈書』については普通に学習しますから、定期考査で『元亨釈書』が正解となる問題が出されることはあるでしょう。しかしそこで止まってしまえば、歴史の面白さは伝えられません。歴史事実としては怪しいという批判はあるでしょうが、史実かどうかはともかく、出典をはっきりさせて、その様に記されているということをことわりながら語るなら、むしろ授業を活性化し、生徒の関心を惹き付けることができます。円覚寺が元寇戦没者慰霊の寺として、祖元を開山に時宗が建立したこと。鎌倉五山の第二位であること。舎利殿が代表的な禅宗様建築であること。虎関師錬が日本最初の仏教史書として『元亨釈書』を著したことなどには必ず授業で言及します。しかしそれだけで終わってしまうと、暗記学習になる危険があります。しかしそこに祖元と時宗の話が加われば、これらのバラバラな知識がつながって、はっきり記憶に残ることでしょう。


有田焼の上絵付け焼 日本史授業に役立つ小話・小技42

2024-05-21 09:04:32 | 私の授業
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

42,有田焼の上絵付け焼                                      寛永期の文化では、有田の酒井田柿右衛門が上絵付の技法で赤絵を完成させたことを学習します。そこまではよいとして、生徒が上絵付の有田焼をどの程度理解しているか、私の知る限りでは心許ないものでした。もちろん現代の物ですが、身近な日用品にいくらでもあるのに、それに気付いていないのです。それは生徒の責任ではなく、気付かせない授業者の責任です。「現代の物では・・・・」と言われるかもしれませんが、現代もなお継承されているところに意味があるのであり、もし授業者がそこに気付かないなら、経験の幅が悲しくなる程に狭すぎます。敢えて過激な表現をしていますが、それは奮起を期待するためであって、悪意があるわけではありません。
 そもそも陶磁器に描かれる絵には、下絵と上絵があります。まずは600~800度くらいの温度で素焼をした後、本焼をすると藍色に発色する呉須(ごす)・酸化コバルトで絵や輪郭を描き、透明の釉薬をかけて1,200~1,300度くらいの高温で本焼をします。磁土で整形した器はこの温度で磁器となるわけです。この時に描かれる絵は、釉薬の下になるので下絵と呼ばれます。そしてその後で色絵具で絵柄を描くのですが、本焼をして透明になった釉薬の上に描くので、その絵は上絵と呼ばれ、上絵を描くことを上絵付と言います。陶芸用の色絵具は高温になると変色したり、溶けて流れてしまう物が多いため、低温で焼かなければなりません。しかし低温では磁器にはなりませんから、色絵を施す前に高温で焼いておき、その後で色絵具で絵付をしてから低温でもう一度焼くわけです。その様な技法で作られますから、表面をよくよく観察すれば、藍色が透明な釉薬の下にあり、色絵がその上にあることはすぐにわかります。要するに、下絵は本焼き前に描く、上絵は本焼き後に描くと理解すればよいでしょう。
 そこで上絵付という物を理解させるために、実物を見せて上絵であることを観察させたいのです。もちろん骨董市に行けば、江戸時代の小品や傷物なら千円単位で買うことはできます。しかし高価な骨董品を見せる必要はありません。リサイクルショップに行けば、現代の物ですが、百円単位でいくらでも入手できます。否、現代の日用品の中から有田焼の色絵を探し出せることの方に、意味があるのだと思います。歴史そのものではなく、歴史の痕跡ですが、この現代というものが、歴史という大地に支えられた薄皮であることに気付くことに、意義があるのです。


呉音・漢音・唐音  日本史授業に役立つ小話・小技41

2024-05-13 14:26:15 | 私の授業
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

41、呉音・漢音・唐音
 漢字の読み方には中国伝来の音読みと、大和言葉である訓読みがありますが、一言で音読みと言っても、日本に伝えられた時期により、呉音・漢音・唐音の区別があります。ただし呉・漢・唐はいずれも王朝名ではありませんから、その音の呼称と王朝の時期が一致するわけではありません。
 呉音とは、中国の南朝の系譜を引く読み方で、渡来人によって4~5世紀に日本に最初に伝えられた音です。漢音は北朝の系譜を引く読み方で、主に遣唐使や遣唐留学生・留学僧により、7世紀から平安時代初期に伝えられた音で、体系的に採り入れられましたから、漢字の音読みの大半が漢音です。唐音は平安時代中期から江戸時代に伝えられた音で、日本では既に漢音が定着していましたから、断片的な単語として採り入れられました。このように伝来の時期が異なりますから、どのような言葉にどの音が残っているかを調べてみると、文化の受容と密接な関係があることがわかります。
 仏教公伝は538年ですから、古い仏教用語には呉音がよく保存されています。それを実感させるために、授業では次のようなクイズを出したことがあります。「以下の仏教用語に読み仮名を振りなさい。利益・月光・変化・選択・食堂・安居・中食・救世」。答は「りやく・がっこう・へんげ・せんじゃく・じきどう・あんご・ちゅうじき・くぜ」と読みますが、仏教用語であるというヒントを示せば、法隆寺の救世観音や薬師寺の月光菩薩、法然の『選択本願念仏集』は学習しますから、「がっこう」や「くぜ」や「せんじゃく」はできれば、大いに褒めてやります。飛鳥寺の釈迦如来像があるのは安居院ですから、詳しく学習している生徒なら、「あんご」はできるかもしれません。法隆寺の伽藍図に「食堂」と記されているので、そこで昼食にしようとしたら、国宝建築だったなどという笑い話もありそうです。
 漢音については、桓武朝から嵯峨朝の時代に遣唐使が多く派遣され、唐風が模倣されましたから、漢音の言葉が最も多いのは自然なことです。特に桓武天皇は延暦十一年(792)11月、漢音を推奨する勅令を出しています。それは「勅す。明経の徒(儒学を学ぶ者)は、吳音を習ふべからず。発声・誦読、既に訛謬(かびゆう)を致せり。漢音を熟習せよ」というものですが、儒学の用語に漢音が多いのは、この勅の影響と見てよいと思います。ただ僧侶に対して漢音を奨励をしていないのは、長年の使用により定着していたり、仏教界の抵抗があったのでしょうか。仏教用語に呉音が多く残っていることから、そのようなことがあったと推測できます。
 唐音は遣唐使廃止以後の平安中期以後の音で、主に日宋貿易や禅宗の伝来によって伝えられましたが、江戸時代に長崎を経由して伝えられたものまで含まれています。宋の時代の音が多いので、宋音と呼ばれることもありました。唐音は漢音とは大きく異なるので、唐音の熟語には難読語が多く、国語の試験にもよく登場します。試みに次の言葉を読んでみて下さい。行脚(アンギャ)・行灯(アンドン)・椅子(イス)・様子(ヨウス)・外郎(ウイロウ)・胡散(ウサン)・和尚(オショウ)・看経(カンキン)・金子(キンス)・卓袱(シッポク)・提灯(チョウチン)・緞子(ドンス)・南京(ナンキン)・暖簾(ノレン)・普請(フシン)・蒲団(フトン)・饅頭(マンジュウ)・東司(トウス、禅院の便所)など、満点をとるのはなかなか大変そうです。
 唐音が日本人にはどれ程聞き慣れない音であるかは、京都宇治の黄檗宗万福寺で唱えられる般若心経を聞くと実感できます。「観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。舎利子。色不異空。空不異色。色即是空空即是色」は、「カンツザイプサ。ヘンシンポゼポロミトス。チャウケンウインキャイクン。トイチェクエ。セリツ。スェプイクン。クンプイスェ。スェチスクンクンチススェ」と聞こえます。これはユーチューブでも聞けますし、万福寺で唐音の振り仮名を付けた般若心経を買うこともできます。
 以前、漢字に音読みがあることは、古墳時代の大陸文化受容であるという小話を公表したことがありますが、詳しく見るならば、古墳文化以後も違う形で受容しているのです。私の授業ではここまで話をします。近年文科省に推奨されている「学び合い」の授業を私が絶対にやらないのは、これらのことを全く知らない生徒達が、わずかに用意されるプリントをもとに「学び合い」をしても、時間ばかりが掛かり、「深い学び」は到底できないからです。


鎌倉幕府はいつできた? 日本史授業に役立つ小話・小技40

2024-05-10 21:02:06 | その他
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

40、鎌倉幕府はいつできた?
 かつては鎌倉幕府成立の年代は1192年とされていましたが、最近は1185年であるという解説がネット上に溢れています。しかし私は賛同できません。この問題の鍵は、「幕府」とは何かということにあります。それが決まらなければ、幕府の成立時期を論ずることはできません。鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府と言う時、その「幕府」は、一般には武家政権という意味に理解できます。しかし単なる武家政権ならば、安土幕府や大坂幕府があってもよさそうですのに、そうは言いません。それなら「○○幕府」と呼ばれているものに共通することは何かと言えば、首長が将軍という職に就いていたことなのです。事実、江戸幕府の成立については、征夷大将軍の任官の1603年として、教科書に記されているではありませんか。実際には1600年の関ヶ原の戦いで勝負は着いていましたから、「1600年に幕府確立」でよいと思います。
 そもそも「幕府」とは中国の言葉で、地方官が執務する天幕とか、戦場において陣幕に囲まれた最高指揮者の居所を意味していました。頼朝が将軍と呼ぶに相応しい役職に就いたのは建久元年(1190)のこと。頼朝が上洛した際、後白河法皇の強い勧めにより右近衛大将に任じられました。当時は「近衛大将」は「将軍」とも呼ばれることがありましたから、この時、頼朝の居所は「幕府」になったのです。もっともその十日後の離洛に際して辞職してしまうのですが、右近衛大将は在京していなければなりませんから、やむを得なかったのでしょう。しかし箔がついたことは大いに意味がありました。「前右近衛大将」という肩書きを頼朝が気に入ったかどうかはわかりませんが、征夷大将軍となった後も、頼朝は「右大将家」と呼ばれています。もっとも頼朝を後々「右大将」と呼んだのは、頼朝が好んで自称したのではなく、頼家をその官職によって左衛門督(さえもんのかみ)、実朝を右大臣と呼んで識別するための呼称に過ぎないと考えることもできます。
 それはともかくとして、頼朝が右近衛大将となって以後、頼朝の政庁は「幕府」と呼ばれることがありました。その例は、『吾妻鑑』の中にたくさん見ることができます。例えば、建久二年(1191)三月には、「鎌倉に大火災出で来る。若宮、幕府殆んど其の難を免る不可と云々。」などと記されているのです。この場合の幕府は、明らかに頼朝の館やその政庁を指しています。将軍様がいらっしゃるのですから、そこが幕府なのです。
 建久3年(1192年)、頼朝は九条兼実に働きかけて、後鳥羽天皇から征夷大将軍に任ぜられています。以前は頼朝が征夷大将軍に任官したいと願っていたにもかかわらず、後白河法皇が認めなかったとされていました。しかし近年確認された平安末期の藤原忠親という貴族の日記(山槐記)の抜き書き(三槐荒涼抜書要)の記述から、そうではなかったことがわかってきました。それによれば、頼朝は武家の棟梁に相応しい官職として、「大将軍」を望んだところ、かつて坂上田村麻呂に授けた征夷大将軍が縁起がよいのでよかろうと授けたということです。(建久三年七月九・十二日に記述されている)。当時の格式からすれば、征夷大将軍は田村麻呂の前例があるとはいえ、臨時の令外官でしたから、従三位以上の高位の者が任官する右近衛大将の方が格上なのですが、頼朝がなぜ征夷大将軍で満足したのかは、私には説明ができません。思うに、鎌倉に拠点を置く頼朝にしてみれば、本来は在京する右近衛大将より、地方に派遣されて裁量権の大きい征夷大将軍の方が、何かとやりやすいと考えたのかも知れません。まあそれはともかくとして、その後、征夷大将軍職は頼家・実朝に継承され、次第に武家政権の棟梁に相応しい官職となっていったのでした。
 現在では「幕府」とは、武家政権を意味するものと理解されています。それなら鎌倉武家政権が成立したのをいつのことと理解すればよいのでしょうか。幕府の初期の主要機関としては、侍所・公文所(後に政所)・問注所・守護・地頭などがありますが、侍所は1180年、公文所と問注所は1184年、守護・地頭は1185年に置かれました。そして1185年には平氏が滅亡しています。1185年説が有力なのは、この年までに鎌倉政権の主要な機関が成立していて、しかも平氏が滅亡した年であるという事によっています。
 長くなりましたので、そろそろ結論を出さないといけません。まず「幕府」を狭義に「将軍の居所」と理解するならば、頼朝が将軍や大将になっていないといけませんから、幕府が成立したのは、頼朝が右近衛大将に任官した1190年か、征夷大将軍に任官した1192年とすることができます。まあ名目上の幕府成立と理解してもよいと思います。また「幕府」を広義に武家政権と理解するならば、平家を滅ぼし、西日本はともかく、東国に守護・地頭を置くことを承認させた1185年を以て、事実上幕府が成立をしたと理解することができます。もちろん1180年でも、武家政権の理解の仕方によっては有り得ることです。実質的な幕府の成立と理解できるでしょう。要するに1192年説が誤っていたので訂正されたというのではなく、幕府というものをどのように理解するかにより、成立時期が異なってくるというわけです。
 一般には「頼朝が鎌倉に幕府を開いた」と表現されることが多いのですが、考えてみればおかしな言葉遣いと思いませんか。まるで開店準備が整ったので、ある日、新しい店舗を開店したみたいではありませんか。武家政権としての機構は次第に整ってきたのであって、初めに構想があったわけではないでしょう。以上の様なわけで、私は「幕府」の狭義と広義の意味を解説した上で、鎌倉幕府の成立年については、名目的には1190年か1192年、実質的には1185年、或いは1180・1184年であり、1192年が誤っているわけではないと指導しています。こういう話をすると、生徒は不安に思うのか、入試に出題されたらどの様に答えればよいのかと質問されます。しかし全く心配無用です。幕府成立の年を直接答えさせる問題は絶対に出題されません。なぜなら解釈により学説が分かれていることを出題すれば、必ずクレームを付けられるからです。ただし1185・1192年に何があったかは理解しておかなければなりません。
 ネット上では、以前は鎌倉幕府の成立は1192年であったが、それは誤りであり。1185年が正しいと説明されることが多いのですが、そもそもその説明自体が正しくありません。それでもその様に指導している授業者はかなりいそうです。
 なお『三槐荒涼抜書要』は、国立公文書館のデジタルアーカイブで閲覧できます。読みやすいのでぜひ御覧下さい


実物やコピー資料をノートやプリントに貼らせる 日本史授業に役立つ小話・小技39

2024-05-06 08:19:39 | 私の授業
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

39、実物やコピー資料をノートやプリントに貼らせる
 私の授業の最大の特徴は、歴史的史料の実物や複製を活用することなのですが、時にはプリントやノートにそれらを貼らせることがあります。当然大きな物や立体的な物や高価な物は不可能ですから、制約があります。しかし今振り返ってみると、色々な物がありました。思い付くままに上げてみましょう。まず切手があります。もちろん使用済みなのですが、日本の郵便制度創設者である前島密なら1円ですから、未使用でも大した金額ではありません。切手や貨幣の小売店が集まって展示即売会をすることがあるのですが、そこでは同じ種類の使用済み切手が、100枚単位で廉価で売られています。切手には歴史的文化財の写真が多いので、文化史の学習に役立ちます。いくら使用済みでも記念切手は10円単位ですから、生徒の数だけ用意はできません。しかし各種1枚を買い集めてコピーをすれば、大した費用もかからずに貼らせられました。コピーでよければ、これまでに発行された全ての切手の図録がありますから、それが1冊あれば便利です。日本史ではありませんが、パピルス紙も貼らせました。東京の飛鳥山にある紙の博物館に売っていますから、取り寄せることができます。小さく切れば、いくらもかかりません。生糸は生徒の反応がよいものでした。ただ白い紙に白い生糸を数本貼っても見えないので、黒い台紙を予め配っておきます。それはコピー機をオープンにしたままでスイッチを押せばできます。江戸時代の古本や古文書で、保存する価値のないものがあれば、江戸時代の農業で楮を学習する際に使えます。細かい繊維が複雑に絡み合っているところを観察させるのですが、これは鋏で切らずに、手で引きちぎらせます。そうすると繊維がよく見えるからです。金箔を貼らせた時には大騒ぎになりました。ノートに糊を塗らせておいて、そこに割り箸でつまんでハラリと落としてやるのです。もちろん爪の先程ですが、案外安い物でした。金は食べても害はないと説明すると、中には弁当を広げて、振りかけてくれなどという生徒もいて、「金の糞が出る」と大騒ぎになったものです。室町時代の油座の話をした時は、荏胡麻の種を一粒ずつ取らせ、それをノートの上に置いて堅い物で押しつぶさせます。すると油が滲み出て、油の原料であったことを実感できます。同じことは江戸時代の農業の学習で、金肥の一つである油かすを実感させるため、夏に確保しておいた菜の花の種、要するに菜種を配って、荏胡麻と同じ様に体験させます。こうすれば油を絞った粕であることが実感できます。その他には、藍染めの布が手に入った時は、1㎝四方に切って貼らせたこともありました。
 今御紹介した物と少し性格が異なりますが、文化史学習で図説資料集を大胆に切り取って貼っている生徒もたくさんいました。ただ切り取ると学習に支障が出ますから、もう一冊確保しておかなければなりません。しかしこれは簡単に解決できました。卒業する生徒は図説資料集は必要なくなるので捨ててしまうことが多いのですが、最後の授業の時に寄付してもらうのです。そして次年度の生徒でノートに貼って活用したいという生徒にやるわけです。特に女生徒はきれいにまとめることが得意で、捨てるのが惜しくなる程のノートを創作していました。
 歴史漫画の面白い場面を貼らせたことはしばしばありました。漫画日本史には、歴史的事件の決定的瞬間は必ずあります。それをいくつも選んでまとめてプリントとして配っておいて、授業の進度に合わせて生徒が自主的に授業中にノートに貼ります。この場面で貼るようにと、いちいち指示はしません。その方が自分が考えることになるからです。生徒は自分で判断し、しかるべき場面をしかるべき時に切り取って貼っていました。時には吹き出しの台詞を空白にしておいて、台詞を自分で考えて書かせることもしました。絵の場面を見て、私の話を聞いていれば、どのように書けばよいか判断できるのです。ついでのことですが、一斉講義式の授業は生徒が受身になり、単なる知識の詰め込みになると批判されるのですが、私に言わせればそれは授業者が工夫もなく、ただ機械が話すように情報を垂れ流しているからに過ぎません。