埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。
43、北条時宗を励ました無学祖元
北条時宗が第18代執権となったのは、文永5年(1268)3月のことでした。同年正月には服属を促す元の国書を持った高麗の使者が大宰府に来ていますから、時宗はまさに元寇に対処するために執権となった様なものです。文永11年(1271)の文永の役は何とか切り抜けたものの、油断はできません。そして弘安の役が近付く弘安2年(1279)、遷化した建長寺の開山である蘭渓道隆の後任として、南宋から無学祖元を招きました。文永の役後、石塁を構築し、異国警固番役を創設し、服属を促す元の使者を二回も処刑して断固たる決意を示していましたが、やはり不安は隠せなかったのでしょう。時宗は信頼して帰依する祖元の許に参禅します。
虎関師錬が著して後醍醐天皇に献上した日本最初の仏教史書『元亨釈書』(巻八「宋国ノ祖元」)には、その時の様子が次の様に記されています。「(弘安)四年正月、平師(時宗)来り謁す。元(祖元)、筆を采(採)って書し、師に呈して曰く、『莫煩悩』(煩悩するなかれ)と。師曰く莫煩悩とは何の事ぞ」と。元曰く「春夏の間、博多擾騒せん。而して一風わずかに起って万艦掃蕩すべし。願はくは公、慮(おもんばかり)をなさざれ」と。果して海虜百万鎮西に寇す。風浪俄に来って一時に破没す」と。祖元は時宗に対して、あれこれと思い煩うなと激励したわけです。
この祖元の言葉には凄まじい迫力がありました。『元亨釈書』のこの記述の前には、次の様な逸話も記されています。徳祐元年(1275)、元軍が南宋に侵入した時のこと、温州の能仁寺に元の兵が侵入すると、人々は皆逃亡してしまったのですが、独り祖元は堂内で坐禅をしていました。そしてまさに祖元を切り捨てようとした時、祖元は泰然自若弱としてとして言葉を発しました。「乾坤(けんこん)孤筇(こきょう)を卓(た)つるも地なし、喜び得たり、人は空にして、法もまた空なることを、珍重す、大元三尺の剣、電光影裏に春風を斬る」。この言葉は「臨刃偈」と呼ばれていて、恐らくは祖元の創作ではないでしょう。「この広い天地のどこにも、杖一本を立てる余地もない。しかし嬉しいことには、人ばかりか法もまた空なのだ。元の兵よ、お前さんの刀は立派なものだ。斬りたければ斬ればよかろう。私を斬ったとて、春風を斬る様なものさ」というのです。元の兵は感動のあまり思わず礼をして去った、というとです。この逸話がどこまで史実であるかどうかは、確認のしようがありません。元の兵に高僧の言葉の意味がわかったとも思えません。もし事実というなら、泰然自若とした雰囲気に呑まれたのでしょう。しかし『元亨釈書』は元亨2年(1322)の書物ですから、元寇後それ程時間が経過しているわけではありません。史実かどうかはともかくとして、その様に伝えられ、その様に理解されていたこと自体は事実でしょう。時宗が元と対峙するに当たり、祖元が自分の体験を語らなかったはずはありません。その祖元の言葉であるからこそ、「莫妄想」の言葉は時宗を力強く励ましたはずです。弘安7年(1284)、時宗は34歳で亡くなりました。満年齢なら32歳です。弘安の役は弘安4年(1281)ですから、まさに元寇に対処するためだけの人生でした。
近年流行の「主体的対話的で深い学び」の授業では、この様な逸話はスルーされてしまいます。まあ教科書に書くわけにはいかないでしょうし、大学入試に出題もできません。しかし歴史は感情を持った人間の営みの集成ですから、私はこのような逸話を大切にしています。『元亨釈書』については普通に学習しますから、定期考査で『元亨釈書』が正解となる問題が出されることはあるでしょう。しかしそこで止まってしまえば、歴史の面白さは伝えられません。歴史事実としては怪しいという批判はあるでしょうが、史実かどうかはともかく、出典をはっきりさせて、その様に記されているということをことわりながら語るなら、むしろ授業を活性化し、生徒の関心を惹き付けることができます。円覚寺が元寇戦没者慰霊の寺として、祖元を開山に時宗が建立したこと。鎌倉五山の第二位であること。舎利殿が代表的な禅宗様建築であること。虎関師錬が日本最初の仏教史書として『元亨釈書』を著したことなどには必ず授業で言及します。しかしそれだけで終わってしまうと、暗記学習になる危険があります。しかしそこに祖元と時宗の話が加われば、これらのバラバラな知識がつながって、はっきり記憶に残ることでしょう。
43、北条時宗を励ました無学祖元
北条時宗が第18代執権となったのは、文永5年(1268)3月のことでした。同年正月には服属を促す元の国書を持った高麗の使者が大宰府に来ていますから、時宗はまさに元寇に対処するために執権となった様なものです。文永11年(1271)の文永の役は何とか切り抜けたものの、油断はできません。そして弘安の役が近付く弘安2年(1279)、遷化した建長寺の開山である蘭渓道隆の後任として、南宋から無学祖元を招きました。文永の役後、石塁を構築し、異国警固番役を創設し、服属を促す元の使者を二回も処刑して断固たる決意を示していましたが、やはり不安は隠せなかったのでしょう。時宗は信頼して帰依する祖元の許に参禅します。
虎関師錬が著して後醍醐天皇に献上した日本最初の仏教史書『元亨釈書』(巻八「宋国ノ祖元」)には、その時の様子が次の様に記されています。「(弘安)四年正月、平師(時宗)来り謁す。元(祖元)、筆を采(採)って書し、師に呈して曰く、『莫煩悩』(煩悩するなかれ)と。師曰く莫煩悩とは何の事ぞ」と。元曰く「春夏の間、博多擾騒せん。而して一風わずかに起って万艦掃蕩すべし。願はくは公、慮(おもんばかり)をなさざれ」と。果して海虜百万鎮西に寇す。風浪俄に来って一時に破没す」と。祖元は時宗に対して、あれこれと思い煩うなと激励したわけです。
この祖元の言葉には凄まじい迫力がありました。『元亨釈書』のこの記述の前には、次の様な逸話も記されています。徳祐元年(1275)、元軍が南宋に侵入した時のこと、温州の能仁寺に元の兵が侵入すると、人々は皆逃亡してしまったのですが、独り祖元は堂内で坐禅をしていました。そしてまさに祖元を切り捨てようとした時、祖元は泰然自若弱としてとして言葉を発しました。「乾坤(けんこん)孤筇(こきょう)を卓(た)つるも地なし、喜び得たり、人は空にして、法もまた空なることを、珍重す、大元三尺の剣、電光影裏に春風を斬る」。この言葉は「臨刃偈」と呼ばれていて、恐らくは祖元の創作ではないでしょう。「この広い天地のどこにも、杖一本を立てる余地もない。しかし嬉しいことには、人ばかりか法もまた空なのだ。元の兵よ、お前さんの刀は立派なものだ。斬りたければ斬ればよかろう。私を斬ったとて、春風を斬る様なものさ」というのです。元の兵は感動のあまり思わず礼をして去った、というとです。この逸話がどこまで史実であるかどうかは、確認のしようがありません。元の兵に高僧の言葉の意味がわかったとも思えません。もし事実というなら、泰然自若とした雰囲気に呑まれたのでしょう。しかし『元亨釈書』は元亨2年(1322)の書物ですから、元寇後それ程時間が経過しているわけではありません。史実かどうかはともかくとして、その様に伝えられ、その様に理解されていたこと自体は事実でしょう。時宗が元と対峙するに当たり、祖元が自分の体験を語らなかったはずはありません。その祖元の言葉であるからこそ、「莫妄想」の言葉は時宗を力強く励ましたはずです。弘安7年(1284)、時宗は34歳で亡くなりました。満年齢なら32歳です。弘安の役は弘安4年(1281)ですから、まさに元寇に対処するためだけの人生でした。
近年流行の「主体的対話的で深い学び」の授業では、この様な逸話はスルーされてしまいます。まあ教科書に書くわけにはいかないでしょうし、大学入試に出題もできません。しかし歴史は感情を持った人間の営みの集成ですから、私はこのような逸話を大切にしています。『元亨釈書』については普通に学習しますから、定期考査で『元亨釈書』が正解となる問題が出されることはあるでしょう。しかしそこで止まってしまえば、歴史の面白さは伝えられません。歴史事実としては怪しいという批判はあるでしょうが、史実かどうかはともかく、出典をはっきりさせて、その様に記されているということをことわりながら語るなら、むしろ授業を活性化し、生徒の関心を惹き付けることができます。円覚寺が元寇戦没者慰霊の寺として、祖元を開山に時宗が建立したこと。鎌倉五山の第二位であること。舎利殿が代表的な禅宗様建築であること。虎関師錬が日本最初の仏教史書として『元亨釈書』を著したことなどには必ず授業で言及します。しかしそれだけで終わってしまうと、暗記学習になる危険があります。しかしそこに祖元と時宗の話が加われば、これらのバラバラな知識がつながって、はっきり記憶に残ることでしょう。