うたことば歳時記

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戦艦三笠見学

2017-11-23 19:13:50 | 歴史
先日、私の主催する生涯学習市民講座の行事として、戦艦三笠の見学をしてきました。私は軍事史に詳しいわけではありませんが、これから見学に行く方の参考になればと思い、私が見てきた範囲で簡単にお話ししましょう。

 京浜急行の横須賀中央駅で下車し、左斜め方向に延びる駅前通を突き当たるまで直進します。そして右折するとすぐに三笠公園入り口を示す大きなアーチがありますから、それを左折して下さい。突き当たりはアメリカ海軍基地の入口ですから入れるわけもなく、道なりに右折し、突き当たったところに戦艦三笠がお出迎えです。徒歩で15分ですから、歩いた方がよいでしょう。バスの便はほとんどないのと同じです。まずは東郷平八郎提督の像が立っていますが、そのお話しはもう少し後にしましょう。

 そもそも日清戦争後のこと、三国干渉によってロシアに屈した日本では、いずれロシアとの衝突は避けられないと、政府ばかりではなく国民も思っていました。そこで政府は、ロシアに対抗するために戦艦6隻、巡洋艦6隻からなる「六六艦隊計画」を立てたのです。戦艦三笠はその6隻の戦艦の一つとして、イギリスのヴィッカース社で建造され、明治35年5月に横須賀に到着したものです。ですから当時としては最新鋭の戦艦でした。

 排水量15,140t、全長131.7m、全幅23.2mの大きさですから、現在のイージス護衛艦と比較しても遜色ありません。機関15,000馬力もあり、最大速力は18ノット、時速では約32㎞。乗員は860名にもなりました。主砲 は40口径の30.5㎝連装砲。それが2基4門ありますが、同時に2発撃つことはできません。仰角は13度くらいで、最大射程距離は十数㎞ですが、レーダーもない当時の照準技術では、それ以上は必要ありませんでした。左右には90度旋回したそうです。副砲 40口径15.2㎝単装砲が14門、対水雷艇砲 40口径7.6㎝単装砲20門(現在は10門、4人で操作)、47ミリ単装砲16基がマスト上方に装備されていました。他に魚雷発射管 45㎝発射管4門あったそうです。また装甲の厚さは舷側で9インチ(229mm)、甲板で、3インチ(76mm)もあったそうです。戦艦大和の410㎜に比べれば薄いですが・・・・。 

 戦艦三笠が日露戦争の旅順口閉塞作戦や黄海海戦に参加し、日本海海戦で旗艦として大活躍したことは誰もが知っています。しかし戦争終結直後の明治38年9月11日、佐世保港内で弾薬庫の爆発事故のため沈没してしまいました。死者が339名にも上った大事故でしたが、着底したものを浮上させて修理し、第一次世界大戦にも参加しています。そして時代と共に老朽艦となり、ワシントン軍縮条約により廃艦が決定されてしまいます。そして大正12年の関東大震災により岸壁に衝突してまたまた着底し、ついに帝国海軍から除籍されてしまいました。除籍後は解体される予定だったのですが、記念すべき軍事遺物として保存運動が盛んとなり、現役に復帰できない状態にすることを条件に保存されることになったのでした。

 保存されるのはよいのですが、戦艦三笠の受難は太平洋戦争後にも続きました。敗戦後、当時のソ連の要求で解体処分されそうになりました。ソ連にしてみればバルチック艦隊を撃滅した憎っくき仇ですから、保存などもってのほかなのでしょう。しかし占領軍の中でも筋金入りの反共主義者であった米陸軍のウィロビー少将がこれを阻止してくれました。

 しかし、米軍は二度と船に利用しない条件で横須賀市に管理を移管。さらに企業に払い下げられてしまいました。払い下げを受けた企業は装備は勿論のこと甲板の上部構造まで撤去し、ダンスホール・喫茶店・映画館など、米兵を相手にするれる娯楽施設としてしまったのです。また後部砲塔のあったところには水族館が設けられるなど、かつての栄光ある軍艦としての偉観はすっかり失われてしまいました。

 戦艦三笠のこのような荒廃を救うきっかけとなったのは、三笠の建造をイギリスでよく知っていたイギリス人が、三笠の荒廃を嘆く文章をジャパンタイムズ紙に投稿したことでした。またそれをさらに増幅してくれたのが、何と米国太平洋艦隊司令長官のニミッツ元帥でした。彼はまた少尉候補生であった時、東郷元帥に会ったことがあり、軍人として大変に尊敬していましたから、三笠の惨状を知って激怒しました。ことあるごとに三笠のことを紹介する文章や本を著し、その原稿料や印税を三笠の復興のために寄附してくれました。また日本にあった米海軍で廃艦となるものを日本に寄贈させ、スクラップ代として復興費用にさせました。その金額は復興費用の六分の一に相当したというのですから、大きな助けとなりました。彼は空襲で被災した東郷神社の再建のためにも大金を寄附しています。三笠の復興が成ったのは、多くの関係者の努力の結果なのでしょうが、率先して先鞭を付け、経済的にも援助したのは、何と戦時中に「鬼畜米英」と呼ばれたかつての「敵国」の将軍だったのです。

 ニミッツ元帥は後に三笠公園に記念樹としてオリーブの木を寄贈しています。その木は公園に置かれた蒸気機関車のそばに育っていますから、探してみて下さい。ニミッツと言えば、現在は空母の名前として知られていますね。ちょうど先頃には北朝鮮に圧力をかけるため、日本海で演習を行っていました。アメリカでは大統領や提督の名前は、軍艦の名前によく採られています。それだけ敬意を払われているということなのでしょう。別に安倍首相がどうのこうのと言うつもりでは全くありませんが、護衛艦の名前が歴代首相の名前から採られたのでは、どう見ても強そうではありませんね。

 三笠の復原にあたり資金の困難もさることながら、装備の復原は困難が予想されました。しかし幸いなことに、三笠建造より10年後に同じイギリスで建造されたチリの軍艦が廃棄処分されることになり、チリ政府が部品を寄贈してくれることになったのです。こうして昭和36年、日本海海戦が始まった記念日である5月27日に復元記念式が行われたのでした。

 さて早速見学することにしましょう。まずは先程の東郷元帥の銅像を見ましょう。軍刀と双眼鏡を握りしめている姿は、戦闘中の艦橋での姿を表しています。この軍刀と双眼鏡は見学の見所の一つなのですが、詳しくは後でお話しします。東郷元帥が見つめている方向は、ちょうど対馬の方角だそうです。それは、秀吉の朝鮮出兵に際して、亀甲船を用いて日本水軍を打ち破った李舜臣の銅像が、戦場の方を向いて立てられていることを思い出させてくれます。

 入場料は大人600円、高齢者は確か500でした。まずは後部甲板に上り、後部主砲の前にある主砲の砲弾を見てみましょう。これで重さが400㎏もあるそうです。これが仰角13度くらいで10㎞は飛んだそうです。

 さて順路にしたがって無線電信室へ行きましょう。ここではまず甲板の床を注目して下さい。この辺りだけは木製の床の材質が違っていますね。なんと建造当時そのままのチーク材の床が残っているのです。表面からはわかりませんが、厚さは十数㎝もある堅牢なものです。インドから東南アジアの特産で、現在も高級家具の材料として栽培されているのですが、イギリス製の軍艦に用いられているのは、やはりイギリスがその地域に多くの植民地を持っていたことを背景に理解することができます。

 また灰色のペンキが塗られた上部構造を御覧下さい。このあたりはリベットによって鉄板が接続されています。それは建造当時以来の構造物であることを表しています。当時はまだ溶接の技術がありませんでした。ですから、船内の溶接接合の見られる部分は、復原工事によるものと言うことができます。他にも部分的にリベット接合が残っていますので、注意してみて下さい。

 通信室では通信の様子が再現され、モールス信号の一覧表が貼られています。戦闘が始まる前、午前2時45分、仮装巡洋艦信濃丸がバルチック艦隊の病院船を発見し、敵艦発見を打電したことはよく知られています。しかし当時の無線機の性能では、朝鮮半島南端の鎮海湾に待機する戦艦三笠までは電波が届かず、途中で2艦の中継により、ようやく届いています。

 無線通信では、電文をそのままモールス信号に置き換えると、敵に漏れる恐れがあり、また送受信に時間がかかるため、予め暗号が決められています。例えば、「敵ノ第2 艦隊見ユ」は「タ」で、地点番号(連合艦隊が朝鮮半島から日本海にかけて、緯度、経度10 分毎に付けた3 桁の数値)203は「モ203」、「敵ハ対州東水道ニ向フガ如シ」は「ヒ」で表されることになっていました。ですから「敵ノ第2 艦隊203 地点ニ見ユ」ならば、「タ」を連続送信し、「タタタタ モ203」となるということだそうです。

 うっかり見過ごしてしまいそうですが、副砲を見る前に、すぐ側にある機雷に注目しましょう。爆薬を満たして海中に仕掛け、接触すると爆発して、軍艦をも沈めてしまう破壊力を持っています。実はこの機雷によって、連合艦隊は危機に瀕したのです。日露戦争が始まってすぐのこと、連合艦隊が旅順港を封鎖している時、六六艦隊の中の戦艦「初瀬」「八島」が相次いでロシアの機雷に触れ、沈没してしまったことがありました。さらに、同じ日に巡洋艦吉野と春日が濃霧の中で衝突し、沈没と大破をしてしまいました。その後も、衝突や触雷が相次ぎ、連合艦隊は6日間で7隻の船を戦わずに失ってしまったのです。6隻しかない戦艦の中で、三分の一が失われたのですから、日本にとっては大打撃でした。それほどに機雷は威力のある物だったのです。

 次いで、15㎝副砲の操作の様子が展示され、兵4人と指揮官一人で操作しています。一人で砲弾を持っていますが、重さは45㎏もあったそうです。射程距離は7~8㎞ですが、実際には彼我の距離が6㎞くらいで撃ち合っていますから、十分に効果がありました。二日間の砲撃戦で合計1200発も撃ったそうです。ここにハンモックを引っかけて、10人が寝起きしていたそうです。ハンモックを懸けるフックを探してみましょう。

 続いて補助砲が4門並んでいます。4人で操作したのですが、射程距離は4㎞に届かなかったので、接近戦では活躍したことでしょう。この辺りで天井を見てみましょう。あちらこちらにフックが付いていますね。ここだけとは限らず、船内のあちこちに見られるのですが、これはハンモックを吊るすためのものです。ハンモックはマントレットととも言い、860人の乗員のうち、中尉以下の830人がこれで寝起きしていました。船が横揺れしても水平を保ってくれるので、船上では寝心地がよかったのかもしれません。起床合図とともにハンモックを仕舞うのですが、そのスピードで兵の練度がわかったということです。自衛隊でも、起床らっぱと同時に飛び起き、まるで定規で計ったかのように皺一つなく寝具を畳みます。ほんのわずかでも皺があったりずれたりしていると、上官から厳しく指導されるそうです。このハンモックは、戦闘時には砲弾などの破片が金属部分に当たってはね返って乗員を負傷させることがないように、艦橋など要所に縛り付けられます。戦闘中の艦橋を描いた絵によく描かれていますから、後程確認してください。

 男子トイレの手前左舷には、簡易調理場と便所の跡があります。木の床ではないのですぐにわかるでしょう。調理場の壁際には、ダストシュートがあります。詳しいことは知りませんが、これだけの広さで860人の食事を賄えるはずはありませんから、別にもっと広い調理場があったことと思います。その隣で床がタイル張りになっているところは便所の跡です。もちろん個室などはなく、古い写真を見ると、ただ穴が開いていただけのようです。もちろん女性は乗りませんから、これで十分だったのでしょう。

 前部甲板に行く手前に、Z旗の解説があります。日本海海戦が始まる直前の午後1時55分、彼我の距離12㎞の時、旗艦三笠に「Z旗」が翻えりました。それは「皇国ノ興廃、此ノ一戦ニアリ。各員一層奮励努力セヨ」という意味であったことはよく知られています。船舶間での通信に利用される世界共通の旗である国際信号旗は、旗一つにアルファベットや数が一つずつ対応し、また1つの旗にある特定の意味をもたせてもいます。黒・黄・青・赤の4色からなるこの旗は、アルファベットのZに対応するばかりではなく、エンジントラブルのため漂流中で、引船がほしいということを表します。それがなぜ「皇国の荒廃・・・・」となるのでしょうか。それはこの旗が上がればこういう意味であると、予め決めておいたからなのです。

 先頭に先立って全軍を鼓舞するような信号機を掲げることについては、東郷平八郎のイギリス留学と関係があります。東郷元帥はネルソン提督を尊敬していたのですが、これはナポレオン戦争の最中、フランス・スペイン連合艦隊を撃破するために、ネルソン率いるイギリス艦隊が出撃した際、ネルソンが『英国は各員がその義務を尽くすこと期待する』(England expects that every man will do his duty.)という信号旗を掲揚したことに倣ったものなのです。イギリス留学経験の長い東郷は当然のことながらこの故事を熟知していたのでしょう。ただしネルソンの時は一字一字信号旗を上げましたから、全文を伝えるにはかなり時間がかかったことでしょう。

 ちなみにネルソンはこのトラファルガーの海戦で、敵に銃で狙撃されて戦死しています。彼はそれまでの戦いで既に右目と右腕を失っていました。当時の船の戦いは小銃で狙えるほどの接近戦でしたから、司令長官が丸腰で甲板を歩き回るのは狙ってくれと言わんばかりの危険なことだったのですが、彼は自身を安全な場所に置いて指揮するようなことはしませんでした。その結果狙撃されてしまったのです。東郷司令長官も戦闘中は安全な司令塔に入ることを拒否し、敢えて危険な艦橋に身をさらしていましたが、彼としては尊敬するネルソンの生きざまに倣おうとしたのでしょう。ただ艦隊決戦では司令官の果たす役割は地上戦よりもはるかに大きく、万が一司令官が倒れれば、艦隊は整然として連携の取れた運動ができなくなってしまいがちです。戦艦三笠では結局113名の死傷者が出るのですが、司令長官が負傷しなかったということは、本当に運もよかったということになるでしょう。

 Z旗は現在もマストに張られた綱の上の方に翻っています。

 それでは前部甲板に行ってみましょう。堂々たる主砲 は40口径の30.5㎝連装砲で、これは砲身の内径が30.5㎝で、砲身の長さが内径の40倍であることを表しています。砲弾は約10㎞飛ばすことができますが、ロシア側が砲撃を始めたのは彼我の距離約8㎞、連合艦隊が砲撃を開始したのは6500mでした。バルチック艦隊の砲撃の命中率は約3%、連合艦隊では猛訓練の結果、それよりは余程に高かったでしょうが、10㎞離れていては命中させることは極めて難しく、それ以上飛ばすことは意味がなかったと言えるでしょう。主砲は上に13度、下に10度、左右に90度動かすことができたそうですが、現在の主砲はセメントで作られた複製です。主砲が照準を合わせているような位置には、アメリカ海軍の高層住宅が建ち並んでいます。

 主砲より前方には、碇をつなぐ極太の鎖があります。試しに鎖を持ち上げてみて下さい。何とか少し動かすことはできました。碇は舷側のアンカーベッドに横たわっています。よくもまあこんなに大きな碇を上げたり下ろしたりしたものだと驚きました。

 舳先には、16弁で八重の菊の紋章が取り付けられています。ただし甲板からでは全容が見えないので、あとで下船してから見てみましょう。これはさすがに複製で、本物は中甲板の展示室に飾られています。ちなみに戦艦三笠の向きは、皇居の方角です。

 さて少し後ろに戻り、急な階段を上って司令塔の方に行きます。階段の角度は70度くらいはありそうです。十分に気を付けて下さい。司令塔は戦闘中に艦隊の司令部要員が安全のために入るところで、厚さは35㎝もある鋼鉄製でした。現在のものは複製ですから、中空になっています。当然のことながら視野は狭くなり、戦況は見にくくなってしまいます。東郷長官は何度も中に入るように進言されるのですが、見えにくいからという理由で、決して中には入りませんでした。おそらくは、尊敬するネルソン提督が激戦の最中にも甲板に身を晒していたため、狙撃されて戦死したことを思い、意地でも入るつもりはなかったのでしょう。

 司令塔の上部にはの艦橋があります。艦橋は英語でブリッジとも言うように、初期の物は囲いもなくまるで橋のようであったことによる呼称です。艦橋の前の方には操舵室があり、磁気羅針盤、操舵輪と、エンジンテレグラフが備えられています。もちろん同じ物が司令塔の中にもあり、どちらでも指揮を執れるようになっています。エンジンテレグラフとは、操船者が機関室に機関停止・前進・後進・微速・半速・全速など運転の指示を連絡するための装置で、AHEAD(前進)とASTERN(後進)の表記を探してみましょう。軍艦では決して「後退」とは言いません。いかにも負けて退くようなので、敢えて「後進」と言います。操舵室の後ろには海図室があります。またここには信号旗が置かれているのが見えます。指揮者の指示に従って素早く信号旗を掲揚し、司令官の命令を視覚的に伝えることができました。ですからここからZ旗を見上げてみるとよいと思います。

 この操舵室の屋上に最上艦橋があります。ここが絵図にも描かれ、東郷長官や艦長や参謀たちが詰めて、戦闘の指揮をとっていた場所です。絵図で見るよりは狭い印象を受けました。現在は東郷司令長官、加藤参謀長、伊地知艦長、秋山作戦参謀の立っていたプレートが示されています。平時には防護する物もないむき出しのままですが、戦時にはハンモックが縛り付けられ、金属小片が飛散するのを防ぐ役目がありました。ここには磁気羅針盤と測距儀と、伝声管が備えられています。

 測距儀はイギリス製で、基線長は1.5mあります。人には二つの目があり、それによって無意識にも距離を感覚的につかんでいるのと同じ原理ですね。基線長が長い程誤差が小さくなるので、後には戦艦大和には日本光学・現ニコン製の、15mの測距儀が搭載されていたそうです。保証された誤差は、1000mで1%、2000mで2%、3000mで3%で距離が遠くなるほど大きくなります。有名な東郷ターン開始時の8000mや、砲戦開始時の6500mの距離では、距儀の誤差と読み取り誤差とを併せて考えれば、この測距儀がどれだけ役に立 ったかは疑問も残ります。伝声管で叫ぶと、下の操舵室に伝わるように、パイプでつながっていました。

 ここから後部マストを見上げてみましょう。マストトップには大将旗が翻っています。これが掲げられているからこそ「旗艦」と呼ばれるわけですね。よく軍艦旗と間違えられますが、大将旗は八条旭日旗、軍艦旗は十六条旭日旗です。軍艦旗は船尾に掲げられていますが、戦闘中はマストに高く掲げられたのでしょう。現在自衛隊でも、平時には自衛官旗は船尾に掲揚されますが、実際の戦闘時、またそれを想定した訓練時にはマストに掲揚されることになっています。

 最上艦橋弧に立ったら、辺りの景色を観察して下さい。すぐ近くに見える島は猿島です。その右手奥の方には、防衛大学や観音埼灯台のある走水の台地が見えます。防衛大学の建物もかすかに見えます。対岸の房総半島も見えるでしょう。やや左奥の高層ビルが見えるのは君津だと思います。房総半島までは十数㎞離れています。防衛大学まではおよそ5㎞離れています。東京湾を出入りする大型船が見えるでしょうが、そこまでの距離は10㎞はありません。実はこのことがとても重要なのです。日本海開戦当日の視程は約5海里(9㎞)でした。バルチック艦隊の砲撃は彼我の距離8㎞で開始され、連合艦隊の反撃は6500mで開始されました。そのことを踏まえながら、沖を通過する大型船や防衛大学の建物を見てみると、日本海海戦開始時の距離感覚をさらに実感をもって理解できるからです。

 日本海海戦とは全く関係がないのですが、せっかくの機会なので、ここで日本武尊と弟橘姫の故事を思い出しましょう。日本武尊と弟橘姫は、焼津で賊に謀られて火攻めに遭います。しかし草薙剣で枯れ草をなぎ払い、窮地を脱しました。そしてこの走水から房総に渡ろうとするのですが、海が荒れて渡れません。その時妃の弟橘姫は海神の怒りを鎮めようと、率先して海に飛び込み、人身御供となりました。その時詠んだ歌が「さねさし さがむの小野の 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも」という歌でした。焼津で周囲から火が迫ってくる危機の中、日本部尊から名前を呼ばれて助け出されたことを詠んでいるのです。最愛の夫の危機に当たり、今こそその愛に応えるべき時であると、身を投げ出したのです。聖書の中に「人、愛する者のためにその命を捨つる。これより大いなる愛はなし」と記されていますが、それを実践したわけです。

 古代の行政区画では、東海道は、・・・駿河・相模から海を渡って安房・上総・下総・武蔵・常陸へとつながっていました。ただし武蔵は初期には東山道に属していました。現代の感覚からすれば、相模から武蔵、さらに下総・上総・安房へと行くのが自然です。しかしそれでは上と下が逆になってしまいます。都に近い順に上・下となるのですから、房総半島の先端の方が上総、付け根の方が下総なのは、かつては東海道は三浦半島から海を越えて房総半島に至っていたことを表しているのです。それならなぜ遠回りをするようなルートになっていたのでしょう。それは古東京湾には大きな河川が集中して流入していたため、沿岸は大湿地帯であり、橋もなく、舟の備えも十分でない時代には、通るに通られない交通の難所だったからです。最大の水量をもつ利根川は、古東京湾に注いでいたことを考えれば、納得できることでしょう。しかし次第に東国の開発が進み、舟の便もよくなるにつれて、三浦半島を経由しない東海道通交が自由にできるようになったのです。走水から対岸の房総半島を眺めながら、そんなことも思い出してみました。

これで上甲板の主な見ものは見学しましたので、階段を降りて中甲板の展示を見学しましょう。ここに展示されている物には、みな丁寧に解説が付けられていますから、今さら私が解説する程のことはないのですが、個人の独断と趣味により、私が興味をもったいくつかの物についてだけお話ししましょう。

 何と言っても最大の見ものは、「三笠艦橋の図」でしょう。この「三笠艦橋の図」は関東大震災で焼失してしまったのですが、原作者である東条鉦太郎画伯本人が描きなおしてくれたので、本物を見ることができるのです。先程も少しお話しした防弾のために丸めたハンモックが艦橋に括り付けられていますね。マストに高く掲げられたはずのZ旗が艦橋と同じ高さに描かれています。それはZ旗が降ろされつつある戦闘開始直前の午後1時57分頃、艦橋上の各将兵の位置を正確に書き留めた記録に基づいているからです。本来はZ旗は現在翻っている高い位置に見えたのですが、画家としてはやはりZ旗を画面に描きいれたかったのでしょう。そのためには降下している瞬間しかなかったということです。
 艦橋上では羅針盤が鉄を近づけて誤差が生じないように、普通は長・短剣を外して上るのですが、東郷長官だけは皇太子(後の大正天皇)から下賜された長剣「一文字吉房」(後鳥羽上皇の命によって作られた銘刀)を握りしめて立っています。決死の覚悟の表れですから、問題にはされなかったのでしょう。を表している。なおこの銘刀は東郷神社の宝物となっていましたが、現在は刀身は東郷神社から「刀剣博物館」に委託保管されています。

 日本海海戦と言えば、丁字戦法とか東郷ターンが余りにも有名です。このことについては余りにも多くの記述があり、今さら私がわかったかのような顔をして解説する程のことはないでしょう。二つの艦隊がすれ違いざまに砲撃し合うだけでは、敵を撃滅させることはできません。一旦すれ違ってしまえば、反転して追跡しても追いつけません。ですから一隻たりともウラジオストクに行かせてはならない連合艦隊としては、絶対にバルチック艦隊をやり過ごしてしまう可能性のある反攻戦は避けなければなりません。そのためには常にバルチック艦隊の先頭を抑えるような位置関係を維持し、逃がさないようにしたかったわけです。そこで両艦隊が急速に接近しつつあった距離8000mで「取り舵いっぱい」を命じ、バルチック艦隊の進行を妨げるような位置を採ろうとしたわけです。実際には丁の字ではなく、片仮名のイの字のような形と言った方がよいでしょう。このあたりの艦隊の動きについては、ジオラマの展示がありますから、解説を聞きながら御覧下さい。しかし夜間の水雷艇も大活躍していますから、この丁字戦法を過度に評価するべきではないと思います。日本海海戦作戦の象徴的な位置づけであると理解したらよいと思っています。

 東郷長官の双眼鏡が展示されていますので、これも見逃せません。レーダーのない時代、目視が決定的な役割を果たしたのですから、双眼鏡の重要性は極めて大きなものでした。接眼レンズの部分が左右に二つあり、倍率を5倍と10倍に変えることができるようになっています。索敵には広い視野が見える低倍率が便利ですし、一旦発見すれば、高倍率の方が大きく見えます。このようなプリズムを用いた当時の最先端の双眼鏡は、大学卒の初任給が30~40円の頃、年収に近い程の高い買い物だったということです。

 双眼鏡のそばには、東郷長官直筆の掛け軸があります。「皇国興廃在此一戦各員一層奮励努力」と書かれていて、Z旗の意味していたことを漢文で表したものです。東郷元帥となってから、各地で揮毫を求められるたびにこの言葉を書いたようで、その筆跡は各地に残っています。運筆は力強く、いかにもという印象ですが、純粋に墨蹟として見た場合、其れほど上手な字ではありません。しかしこの場合は東郷長官が書いたことに意味があるのですから、観賞の対象ではないのでしょう。

 またそのそばに、主砲を薄く輪切りにしてできた額に飾られた写真があります。ここでは写真そのものよりも、砲身の内側には、螺旋状の溝(ライフリング)があることに注目しましょう。薄い断面なので、その溝は歯車のような形が見ることができます。この螺旋の溝によって砲弾に回転が加えられ、弾道が安定して命中率が高くなるというわけです。このような大砲をライフル砲と言い、軍艦の大砲にはしばしば見られるものです。反対に内面が平滑な砲を滑腔砲と言います。

 もう一つ貴重なものは、菊の紋章の艦首飾りでしょう。ここに展示されているものは本物で、実際の艦首にあるのはレプリカです。場所が場所だけに、だれもも取り外しができなかったからでしょうか。よくもまあ本物が残っていたものです。この際、花弁の数を確認しておきましょう。16枚あるのですが、花弁とか弁の合間にも重なって八重菊になっていますが、十六弁八重菊と呼びます。

 展示されているものはもっともっとたくさんあるのですが、みな解説がついていますから、あとはそれに任せることとしましょう。

 その他には、東郷長官の公室、私室とベッド、浴室やトイレ、士官室などものぞいてください。イギリス風の重厚な家具が並んでいます。艦尾の出口に近いところに、東郷長官の等身大肖像画があります。身長は153cmしかありません。明治期には男性の平均身長は160cmくらいでしょうから、当時としても小さい体格でした。勲章を飾り立てていますが、伯爵で位階は従一位とのことです。従一位の有名人と言えば、徳川家康がいますね。その上は正一位ですが、これは稲荷大明神だけですから、事実上の最高位と言ってよいでしょう。

 さあだいたいこれで私の戦艦三笠の御案内は終わりにしましょう。もっともっと時間をかければ見るべきものはあるのでしょうが、あとはそれぞれで確認してください。

 最後に一つおまけのお話です。横須賀中央駅の方に帰る途中、横須賀名物の海軍カレーを食べることもあるかもしれませんね。日露戦争のころから、栄養バランスの良い食事として横須賀鎮守府がカレーライスを兵食として採用しました。確かに炭水化物・野菜・肉を一度に摂れますし、調理も片付けも簡単ですから、水を節約する艦内では適した料理と言えるでしょう。

 海上自衛隊では、毎週金曜日の昼食はカレーライスと決まっています。週休が一日だけの頃は土曜日でしたが。副食として、サラダ、牛乳、ゆで卵等が付くそうです。週に一度食べるわけは、長い単調な海上勤務では交代勤務で曜日感覚が薄れることから、金曜日に同じメニューを食べることで感覚を呼び戻すためでもあるそうです。海軍カレーのお店はあちこちにあるのですが、最近よく見かけるインド風のカレーとは全く異なるものです。それもそのはず、イギリスから伝えられたものだからです。

 ところであなたのお宅でカレーライスに入れる肉は牛肉ですか、それとも豚肉ですか。関西では専ら牛、関東では豚です。当日見学に参加してくれた人はほとんど豚肉でした。何人か牛肉がいたのですが、尋ねてみると、みな親が関西出身でした。我が家では豚ですが、それはもっと別の理由です。牛肉は高いので、食べたくても買えないだけのことでした。同じことは肉じゃがの肉にも当てはまります。さてあなたはどっちですか。


アクティブラーニング批判

2017-11-09 14:44:36 | 私の授業
 私は埼玉県の高校で長年地歴課の教職にありましたが、すでに数年前に定年退職しています。しかしまだ若い先生とは交流があり、最近はアクティブラーニングでなければ夜も日も明けぬとばかりに、一斉講義式の授業の批判を耳にします。しかしそんなにいい加減な授業をしたとは思っていませんから、その批判は素直には受け入れられないのです。 


 先日、近所の小学校で、小学校6年生に話をする機会がありました。「読み聞かせ」と称して、学校近隣のボランティアが学期に数回、朝の20分程の時間に、生徒を対象として楽しいお話しをするのですが、私も参加しています。対象が小学生ですから、内容的に深いことはできないことはご了解下さい。その経験を通して、アクティブラーニングについてあらためて問題点を感じました。

 まずはその時の話を再現してみましょう。「 」内は、生徒や担任など、私以外の発言です。

 皆さんおはようございます。「おはようございます。宜しくお願いします」。みんな元気そうですね。今日はあまり見慣れないものを持ってきましたよ。何だかわかりますか。「石臼だ」。よく知っていましたね。びっくりしたなあ。石臼って、これで何するのかな。臼とは言ってもお餅を搗くわけではなさそうだし・・・・。「そば粉を作る」。えっ、そばの実を粉にするの。これまたよく知ってるね。見たことあるの。「テレビで見たことある」。あのね、そばの実は堅いから、こんなに小さな臼ではできないんだよ。そばや米を粉にする時は、もっともっと大きくて重い臼を使うんだよ。今、豆を粉にするって小さな声で聞こえたんだけど、言ったのだあれ。「はい、僕です」。大豆を粉にすると何になるか知ってるの。「うん、きな粉」。えっ、すごいね。よく知ってましたね。大人でも知らない人いると思いますよ。ひょっとしたら若い先生は知らないかもしれない。「前に、家庭科の授業で習ったから」。へえ、そうなんだ。いやいや、とっても驚きました。

 今日はね、お茶の話をしましょう。さっき校門のそばにお茶の花が咲いていたので、一枝持ってきました。ほら真っ白くてきれいな花でしょ。お茶の花はこれから冬にかけて咲くんですよ。花と一緒に、もうお茶の実も成っていたので、採って来ました。ほら、面白い形をしているでしょ。外側の殻を割ってみると、ほうら、中にまん丸い種が三つ入っています。みんなはもう地図記号は習ったのかな。「簡単なのはもう習っています」(担任)。そうですか。学校やお寺や神社や果樹園や田んぼくらいはわかりますね。この辺にはあまり見かけないけど、茶畑の地図記号も、今日覚えましょう。小さな点を三角に並べるんだけど、どうしてこの形が茶畑になるのか、考えたこともなかったと思うけど、お茶の実を見れば納得できるでしょ。小さな三つの点が三角に並んでいるのは、お茶の実の形を表しているんですよ。

 ところでお茶は何色かな。「緑」。うん、確かに緑色だけど、でもね、お茶の色は茶色じゃないのかな。茶の色だから茶色って言うか・・・・。でも、お茶は茶色じゃないね。なんだか変だよね。先生、もう6年生は英語を習っているんですか。「はい、少しはやっています」(担任)。それじゃあ英語で茶色は何て言うのかな。「ブラウン」。うん、そうだね、よくできました。実はね、昔のお茶は葉っぱをフライパンみたいなお鍋で炒って、飲む時には鍋で煮ていたので、茶色の飲み物だったんです。だから本当に茶色だった。お茶で白い布を染めると茶色になった。それとは別に乾燥させたお茶の葉を臼で粉にして、お湯を注いで飲むことも行われて、それが茶道のお抹茶になっていきました。現在私たちが普通に飲んでいる緑のお茶が作られるようになったのは、江戸時代のことです。摘んできたお茶の葉を蒸かして、それを弱火で炒りながら手で揉んで作ります。お茶にもいろいろな作り方があるんですよ。

 今日は埼玉県で生産されたお茶を持ってきました。みんなはお茶の生産が多い県はどこだか知っていますか。「静岡県」。そうですね。静岡のお茶は有名ですね。でもね、最近は鹿児島県のお茶が多くなっています。お茶は暖かい気候と雨が大好きな植物で、そういう気候の地方で栽培されていますね。取れ高は多くはないけれど、埼玉県もお茶が生産されているんですよ。どこか知ってるかなあ。「入間」。いやいや、これまたよく知ってるねえ。狭山という辺りでよく栽培されているので、狭山茶って呼ばれているんだけど、同じ埼玉県だから覚えておきましょうね。

 このお茶で抹茶を作ってみましょう。ところで抹茶の抹って、どういう意味かな。「粉」。そうですね。粉でいいんだけど、ただの粉よりももっともっと細かい粉のことかな。ではさつそくこの臼で作ってみましょう。さあ、みんな、よく見えるように、もっと近くに集まって。お茶を粉にする臼を茶臼と言います。まずは臼がどんな構造になっているかよくよく見てごらん。上半分をひっくり返してみると、石と石が接する面には、溝が刻まれているでしょう。この溝にお茶の葉がひっかかって、こすりあわされて、石の重みで細かくなるんです。ほら、こうやってお茶の葉を上の穴から落としてやります。そしてこうやって取っ手を時計と反対周りに回します。さあ誰かやってみませんか。「ほら、お前やれよ」。そう、全員にやってもらおうかな。何でも経験しておくことは大切なんですよ。悪いことでないなら、どんなことでもやっておく。きっと役に立ちますよ。「ねえ、先生にもやらせてよ」「先生、大人気ないねえ」。先生、生徒に言われちゃってますねえ。ここでちょっと、どうなっているか臼の上半分を持ち上げてみましょう。「わお、お抹茶になってる」。うん、実際には何回か繰り返さないと本当のお抹茶くらいにはならないんだけど、一回だけでもかなり細かくなっているでしょ。なめてもいいよ。「本当にお茶の香りがする」。「うまいよ、お前もなめてごらん」。そう、なんでも経験が大切だから、みんなやつてごらん。ほら恥ずかしがらずに。・・・・さあみんな臼を回してみたかな。こうやって臼を回して粉にすることを、臼をひくと言います。だから臼で何かを粉にすることを粉にひくという表現をします。覚えておいてね。

 ああ、もう時間がなくなっちゃいましたね。今日はいろいろ珍しい体験をしました。幅広く経験をして、幅広く疑問をもつて、いろんな知識を身に着けて下さい。それがきっと役に立つことがありますよ。それじゃあ今日はこの辺で終わりましょう。


 私に与えられた時間は正味15分くらいですから、この程度しか話せませんでした。しかし子供たちは興奮するようにして臼をひいたり粉をなめていました。また私自身がよい経験をしたと思います。

 そこでいつも思うことは、一斉講義式授業とアクティブラーニングの授業のことです。一斉講義式の授業は一方的に知識を詰め込むだけの遅れた授業法で、これからの授業は生徒が主役となり、主体的に互いに学びあうものでなければならないというのです。先生は主にプリントや映像で資料を提供し、それをもとに生徒同士で考え学びあうというのですが、私には一斉講義式の授業が遅れた授業とは思えません。

 今日のように「茶」というテーマで学習するとしましょう。アクティブラーニング式でやるとどのような授業ができるのかわかりませんが、班ごとに茶臼や茶の花を用意するのは難しいでしょう。用意できても、使い方の説明は一斉にせざるを得ません。茶の花を見たこともなく、茶臼を触ったこともない生徒が、与えられた資料だけをあれこれこね回しても、私の茶の経験に及ぶはずがありません。まさに「群盲、象を撫でる」に等しい。たった15分の学びでしたが、その間、生徒たちはワクワクしながら話を聞き、体験し、学んでいました。班別に分け、プリント資料を与えられて、茶のことをよくは知らない者同士が学びあう学習よりも、はるかに中身の濃い学習ができたと思っています。「子供たちは経験を通してアクティブに学習していたのですから、すでにアクティブラーニングになっていたのでは」と言われるかもしれません。実際そうだと思います。しかし私は班にも分けず、一方的に私が子供にわかる言葉で「講義」をしていました。言葉のやり取りはありますが、あくまで主導権は私にあり、生徒を引きずっていったのです。私の気持ちとしては、一斉講義式の形でした。
 
 一斉講義式は「知識の詰め込み」だと非難されますが、それは授業者がそのような授業しかしてこなかったからだと思います。一斉講義式の形をとりながらでも、生徒をアクティブにすることは、工夫次第で出来るからです。

 アクティブラーニングの問題点は、文化史の授業に顕著に表れます。生徒はほとんど仏像にせよ絵画にせよ見たことはない。まして文献史料など読んだこともない。与えられた資料をもとに、よく知らない生徒が知らないものについてあれこれ考え教え合っても、どれ程実感をもって理解できるか大いに疑問です。例えば正倉院の螺鈿紫檀五絃琵琶について理解させようとしても、螺鈿を言葉でどのように説明するのですか。サザエやアワビの貝殻を持ち込んで、生徒が見ている前でハンマーで砕き、貝の内側の真珠層を見せた方が、余程によく理解させられます。破片を粘土に埋め込んで見せ、螺鈿装飾の原理を示すこともできます。

 また漆器や蒔絵について理解させようとする時、漆器を言葉でどう説明するのですか。もちろん一通りの説明はできるでしょう。しかし実際に漆器を触らせながら解説することの方がはるかに説得力があります。ウルシはかぶれることもありますから、実物を持ってくることはできません。しかしウルシとよく似たカシュー塗料を持ち込み、生徒の目の前で木製品に塗装することはできます。カシュー塗料はカシューナッツの木の実の殻から抽出した塗料で、漆とそっくりです。価格もそれ程でもないので、教材として大いに利用できます。黒い板の上にカシュウ塗料で何かの形を描き、その上に微細な粉末を蒔き散らし、息を吹きかけて余分な粉を吹き払えば、塗料を縫った部分にだけ粉が載るので、描いた模様が浮き出ます。蒔絵というものの原理はこれで理解させられます。漆器や蒔絵は歴史的に日本の重要な輸出品であり、英語ではjapanという国名でつうようするのですから、何としても実感をもって理解させたい。(普通名詞なので、頭文字は小文字)。私の授業ではこのようにして理解させますが、これと同じレベルの理解を、アクティブラーニングでできますか。漆器が何であるか全くわからない、まして蒔絵など見当も付かない生徒が、いくら教えあっても実物を見せ、また触らせながら理解させる一斉講義式の授業にかなうはずはありません。

 もちろん一斉講義式の授業でも、やり方によっては限りなく退屈な授業になりかねません。一斉講義式だからよいと言いたいわけではありません。理解させるための工夫をしないならば、また授業者の経験や理解が貧弱であるならば、一斉講義式ではただ眠くなるばかりで、余程アクティブラーニングの方がましなことになります。生徒が動いている分、眠くはならないでしょう。一斉講義式が批判されるようになったのは、授業者が理解させるための工夫もせず、自分自身の研修も深めず、十年一日としてただ言葉だけを弄んでいたからなのです。

 もちろんアクティブラーニングを全て否定するわけではありません。時にはそのような授業があっても、変化があって面白いでしょう。しかしどんな時代になっても、授業の基本は、授業者の深い理解と、豊富な経験と、弛まぬ工夫と、研鑽を積んだ上手な語り掛けによって成り立つものなのです。

 もし反論があるなら、アクティブラーニングの手法で、漆器の話をしていただきたいものです。私はいつでも受けて立つつもりです。