うたことば歳時記

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運動部の素人顧問

2017-03-29 20:28:06 | 学校
 大田原高校の登山部の顧問と生徒が、訓練中に雪崩に巻き込まれ、8人が亡くなりました。本当に痛ましい事故で、御遺族の無念と哀しみはいかばかりか、本当に残念でなりません。ネット上にはラッセル訓練なら安全だと判断した現場責任者の顧問の判断を非難する声もありました。結果的にその判断が甘かったことは確かですから、そう言われるのもしかたがないのかもしれません。

 しかし長年教職にあり、運動部の顧問を経験してきた者として、顧問を非難する気にはなれないのです。私には、これと言って得意なスポーツはありません。高校時代に応援団にいましたが、応援団は事実上「体力増強部」のようなもので、毎日10㎞の長距離走と筋肉トレーニングばかりでしたから、筋力と持久力は人並み以上にありました。しかし種目としては何もできません。

 28歳で教職に就きましたが、専門的指導のできる体育課の先生が足らないため、若い男の先生というだけの理由で、運動部の顧問をたらい回しのように経験させられました。初めは女子バレー部、そして2年目からは、オートバイに乗れるという理由で、自転車部の顧問にさせられました。生徒が毎日往復数十㎞のコースを校外練習に出るのですが、それにオートバイでついて行くのです。いつも危険と隣り合わせで、実際、何回も事故に遭いました。先頭がこければ、後続もみな衝突します。私がカーブを曲がりきれずに水田に突っ込んで転落したこともありました。ガソリン代が出るわけでなし、事故に伴う修理代が出るわけでなし、練習に参加するために一カ月分の給与より高価な自転車を自腹で買いました。(月給に相当する自転車を、結局、2台買わざるを得ませんでした。もちろん学校は1円も出してくれません。しょっちゅうタイヤがパンクしてタイヤを交換していましたが、もちろん全て自腹です。)その他にはハンドボール部、水泳部、バドミントン部、柔道部、ラグビー部、サッカー部、応援部などでした。唯一指導らしき指導ができたのは、応援部だけでした。その他には文化部で、書道部、華道部、歴史同好会、文芸部なども経験しました。歴史同好会は私が創設したので、これは専門分野でした。

 体育の先生はみなそれぞれに専門種目があり、その種目の部がある限りは、その部以外の顧問にはなりません。ですから体育の先生は、経験する部の種類は1種目だけであることが多いのです。しかし専門外の私のような者は、特に男性の先生には、誰も持ち手のいない部活動が割り当てられるのです。その点で、女性の先生には、運動部の顧問が回ってくることは少なく、あっても事実上の副顧問のような存在のことが多いものです。男女差別だと思ったのですが、どうにもなりませんでした。
女性の先生に割り当てられるのは、体力的にはあまりきつくないものばかり。そんなことはないと言うなら、柔道やラグビーの公式戦を見てご覧なさい。女性の先生で正顧問をしている人は、まずめったにいません。40数年弱の教員生活で、柔道で一人見ただけです。

 素人の顧問は、色々苦労が絶えません。自分が全くできないことを指導できるはずもなく、ただひたすら練習が終わるまで立ち尽くして待っているだけです。準備体操とランニングくらいは一緒にできますが、50歳代になると、それさえも辛くなってきます。試合中にどのタイミングでタイムを請求してよいかわからない。試合の直前と直後に生徒が私の周囲に集まってきて、「先生、御指導をお願いします」と言われても、頑張れよと、ご苦労さんしか言えません。私の仕事は、時々自腹で冷たい飲み物を差し入れたり、試合や練習中の生徒の写真を撮って、生徒に分けてやるくらいのものでした。

 それでも事故や怪我がなければ、何とか耐えられるのですが、スポーツには怪我がつきものです。自転車・ラグビー・柔道部では、怪我が絶えませんでした。いずれもまかり間違えれば命に関わる事故がある部活動です。菅平で合宿をした時は、骨折した生徒を車に乗せて麓の町まで連れて行きます。教育委員会はタクシーで連れて行けというのですが、実際にはそんなことはしていられません。緊急事態に備えて、私は自家用車でバスを追いかけて参加するのです。柔道部の顧問は皆に嫌われます。怪我があった時には対処ができないからです。よく事故があった時、顧問がそこについていたのかと追求されていますが、放課後は会議や補習や教材研究や書類の作成などで、柔道場にいる時間は最初と最後くらいのもの。もっとも顧問がいたとしても事故は起きるのです。

 年配になると、学校では校務分掌委員の役目が回ってくることが多いものです。これは翌年度の担任や副担任、部活動顧問、進路・教務・生徒会・管理などの分掌について、先生たちの希望調査をもとに調整をする役目です。結局は引き受け手のない役目は、分掌委員が被ることが多くなります。その結果、私はできもしないのに柔道部の顧問ばかりが回ってきていました。女性の柔道部顧問は、まずめったにお目にかかりません。

 今は退職して非常勤講師ですから、部活動の顧問はもうありません。今振り返って、よくまあ懲戒免職にならなかったものと、感慨深く思っています。目を離した隙に起きた事故を何回も経験しているからです。死者が出れば、その時顧問はどうしていたのかと追求されたでしょう。年間練習計画はできていたのかと問われても、ルールを覚える所から始まるのですから、また技術指導は全くできないのですから、具体的な計画書など書けるわけがありません。正直な所、自分で書いたことは一回もありませんでした。全て前任者が書いたものの丸写しです。幸いにも命に関わる事故はありませんでしたが、本当に薄氷を踏むような教員生活でした。

 一般の方には実情はなかなか理解してもらえないでしょうね。とにかく忙しすぎるのです。何から何までやらなくてはならないのです。そして責任だけは「教育者」という理由で、人並み以上に追求されるのです。大田原高校の山岳部の顧問の先生を、とても非難をする気にはなれません。




追記1

大田原高校山岳部の遭難については、顧問の不手際を非難する報道が続いています。特に山のベテランの人からそのような指摘がなされているようです。しかし顧問は素人であることが多く、専門家ではありません。山岳部の顧問ではないか、と言われても、雪崩についての基礎知識はなかったのかと非難されても、上記のように、若い男性というだけで、危険のある顧問を否応なしにやらされるのです。ああすればよかった、これもしていなかったではないか、というような指摘は、もっともなこともあるのでしょうが、素人顧問には無理な話なのです。部活動の顧問とは、もともとその様な構造的問題を抱えているのです。非難している人に問いたいのです。あなたは全く経験のない部活動の顧問を割り当てられて、事故が起きたら責任をとれるのですか。私の場合はたまたま生徒の骨折程度ですみましたが、まかり間違えば大事故になったかもしれないのです。生徒が絞め技で失神しても、蘇生させる方法は全く知りません。たまたま息を吹き返してくれたのでよかったのですが、あのまま死んでしまったかも知れません。その時、柔道部の顧問なのに、蘇生法も知らないのかと非難されても、どうしようもありません。学校では割り当てられる部の顧問を、事実上拒否はできないのです。特に男の先生はそうなのです。このあたりに、男女逆差別を感じてしまいます。まあそれは別の問題なのでしょうが・・・・。



追記2(平成29年10月16日)、

 今朝のニュースで、今年3月、栃木県那須町で雪崩が発生し高校生ら8人が犠牲になった事故について、県の検証委員会が最終報告書をまとめまたことが発表されていました。「公私がどうだったからという個人的なものではなく、組織的に協働が行われていなかった」ということで、顧問個人の責任追及にならなかったことは良かったと思います。また事故の再発を防ぐために、登山や訓練の計画を厳しくチェックすることや、顧問の教師らに対する研修を充実させることなどを提言されています。「すべての部活動で危機管理マニュアルを作成し、参加者の能力などに応じた適切な登山計画を管理し、それらの計画を県の教育委員会が厳しくチェックすること」「顧問などの指導者に対する専門家や専門機関による研修を充実させること」などが求められているのですが、これだけでは実際にはあまり役に立ちそうもないと思いました。
 素人の私が、ただ若くて元気だからというだけの理由で、山岳部顧問にさせられたとしましょう。しかしお義理程度に行われる冬山登山の講習会に参加したところで、素人であることにかわりありません。装備を購入する費用は自腹でしょうし、一冬に1~2回経験した程度では、危機に直面して生徒を適切に指導できる自信などありません。それならどうしたらよいか。冬山登山のように特殊技能を必要とする危険を伴う部活動指導については、その時だけでも山岳会に所属するベテランの人を指導者として招聘し、野球部の部長と監督の関係のように、二人で指導する体制を確立するしか方法はないと思います。







花筏・水面の花

2017-03-27 21:22:37 | うたことば歳時記
 そろそろ桜開花の知らせを聞くようになりました。桜について何か書きたいと思っていたところ、たまたま花筏(はないかだ)という美しい言葉に出会いました。中世までの和歌にはない言葉なので、私の脳裏にはあまり浮かんでこない言葉でした。それでネットで確認したところ、とんでもない解説を見つけました。まずはそのまま引用します。

 「その花筏という言葉の由来はというとなんとも驚きなのです。それは、川に流された骨壺(こつつぼ)のさまから来ているのです。その昔、言い伝えがあって、川に浮かべていた筏(いかだ)に、骨壺を紐で結んで流していたのですが、その筏に結んでいた紐が早くとれて、骨壺が川に流されていくと、早くあの世の極楽浄土にいくことができるということだったんです。その時に、骨壺といっしょに花も添えられており、その筏から紐で結ばれていた骨壺が川に流れていく様子から、花筏(はないかだ)という言葉が生まれました。
花筏(はないかだ)とは、散った桜の花びらが水面に浮き、それらが連なって流れていく様子のことです。」

 驚きました。こんな話は初めて聞きました。私にはとうてい信じられません。骨壺を川に流すという葬法は、全国隈無く調べれば、特定の地域にあるのかも知れません。しかし仮にあったとしても、現在の習俗では、起原として説明する根拠にはなり得ません。川に流す骨壺が語源であると断言するならば、文献上は室町時代の『閑吟集』という歌謡集に花筏という言葉が見られますから、それ以前の史料に骨壺を起原とすることを示す史料がある程度の数で存在しなければならないのです。

 私の記憶では『閑吟集』より古い史料は思い浮かびません。ひょっとしたらあるかも知れませんが、少なくとも中世までの主な和歌集には見当たりません。しかし私の見落としでもしあったとしても、普遍的なものではありません。私は日本史の高校教諭として、それなりに一生懸命幅広く日本の歴史的文化を学んできたつもりですが、いまだかつて聞いたことがありません。

 そもそも確かな根拠や史料や出典を明示しないネット情報は、まず疑ってかかった方がよいと思います。特に「・・・・と伝えられている」というように、伝承・伝聞を根拠としている情報は、まず怪しいと思って読んでいます。大学の史学科で徹底して史料批判の重要性を学んできましたから、このことについては常に気をつけています。

 ただ現在、筏と川の流れと桜の花をあしらった漆器の小さな納骨容器が、花筏と称して販売されていることは事実です。ひょっとしたら上記のネット情報にヒントを得たのかも知れません。まあ作る人の自由であり、なかなか美しいものなので、それはそれでよいと思います。しかしそのうち既成事実化してしまうことを恐れるばかりです。

 「花筏」を詠んだ古歌は見当たりませんが、水面に浮かぶ桜の花を詠んだ歌なら、探し出すことはできます。

①枝よりもあたに散りしく花なれば落ちても水の泡とこそなれ (古今集 春 81)
②吹く風を谷の水としなかりせばみ山がくれの花を見ましや (古今集 春 118)
③花さそふ嵐や峰をわたるらん桜なみよる谷川の水 (金葉集 春 57)
④水上に花や散るらん山川のゐぐひにいとどかかる白波 (金葉集 春 62)
⑤水の面に散りつむ花を見る時ぞはじめて風はうれしかりける (金葉集 春 63)
⑥桜さく木の下水は浅けれど散りしく花の淵とこそなれ (詞花集 春 39)
⑦散る花にせきとめらるる山川の深くも春のなりにけるかな (詞花集 春 44)
➇池水にみぎはの桜散りしきて波の花こそさかりなりけれ (千載集 春 78)
⑨桜散る水のおもにはせきとむる花のしがらみかくべかりける (千載集 春 99)
⑩山風に散りつむ花し流れずはいかで知らまし谷の下水 (千載集 春 100)
⑪花さそふ比良の山風吹きにけり漕ぎゆく舟の跡見ゆるまで (新古今 春 128)

 探せばもっとあるでしょうが、取り敢えずはこのくらいにしておきましょう。

 ①は詞書きによれば、東宮御所周囲を流れる御溝水(みかわみず)という幅の狭い流れに散った花びらを詠んだものです。はかなく散ってしまつた花なので、落ちて水に浮いてもはかない泡となることだ、という意味です。花の命は短くて、すぐにはかなく散ってしまう。そのはかない花だからこそ、水に浮いてもはかなく消えてしまう泡のようだ、というのです。水に流れる花の美しさよりも、花の儚さを惜しむ趣向になっています。

 ②は、もし風と谷川の水がなかったならば、奥山に人知れず咲いている花を見ることができようか、という意味です。目の前に桜の花が咲いているわけではありません。花びらが流れてくるので、上流には咲いていることがわかるというのです。こんな場面は、今でも身近にありそうですね。流れてくる花を見て、見えない桜の木を思い浮かべるなんて、なかなか風流なものです。

 ③は、強い風が峰を越えて吹いているのだろう。水面に浮かぶ桜の花びらが、波のように寄っている谷川の水であることよ、という意味です。まず、花が風に散るのは風が誘っているからというのです。「風誘ふ」 という表現は大変に好まれたようで、慣用句のようになっています。⑩にも同じ表現があります。そう言えば江戸時代の歌ですが、赤穂事件で切腹した浅野内匠頭長矩の辞世にも詠まれていますね。「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」。「桜なみよる」もなかなか美しい表現です。風に草花が靡く様子を表すのに応用できそうです。パクリにならない程度に使って見たいと思います。公園の池の岸に桜が咲いていて、池の岸に花びらが寄せられてくる場面は、これも身近にありそうです。そんな場面を見ることがあれば、「桜なみよる」という句を思い出して下さい。

 ④は、上流で桜の花が散っているのだろうか。堰杭(いぐい)に堰き止められた花びらが一層白波のように見えることだ、という意味です。堰杭とは、川を堰き止めるために打ち込まれた杭のことでしょう。白い物を白波に見立てるのは常套で、他にはよく卯の花が白波に見立てられます。これも②と同じで、目の前に桜の花は見えません。川を流れ下る花というなら、②や④はまさに花筏ですね。

 ⑤は、水面に降り積むほどに花びらが浮かんでいる美しさを詠んでいます。「月に叢雲 花に風」という諺があるように、普通は花に吹く風は嫌われるものです。「風よ、花を散らすな」という歌は、枚挙に暇がありません。ただし梅に吹く風は香を運ぶのでそうでもないのですが。普通は厭われる花に吹く風を、逆転の発想で詠んでいるところが新鮮です。

 ⑥は、桜の花が咲いている木の下の流れは浅いけれど、花びらが積もって淵のようになっている、というのです。作者の狙いは「浅い」と「深い淵」の対比にあるのでしょうが、少々言葉の遊びになってしまっています。まあそれはそれとして、川の流れを覆うほどに花びらが覆っているのでしょう。

 ⑦は、散る花びらに堰き止められて、山の川が淵のように深くなるように、春も深くなってしまったことだ、という意味です。花びらが堰き止められるという発想は、④にもありましたね。季節が深まるという表現は、現代では秋によく見られることで、他の季節についてはあまり使われていません。しかし古には普通に見られる表現でした。「○○が深いように季節が深まる」という表現は常套的で、「夏草が深くなるように夏が深まる」という言い方をします。これも現代人にとっては言葉の遊びなのでしょうが、同音異義語を上手く活かして詠むことは、しばしば見られる技法でした。現代短歌を詠む人は、っと嫌がるでしょうね。現代短歌では「何を詠むか」が問われますが、古歌では「如何に詠むか」ということが重要だということなのでしょう。

 ➇はわかりやすい歌ですね。池の辺の桜が水面に散りしいて、水面は花盛りであることよ、という意味です。これは花を波に見立てるのではなく、水が見えないほどに花が覆っているので、「花の波」そのものなのでしょう。

 ⑨は注釈書では、花が水面に散り敷かぬように、落花を堰き止める柵(しがらみ)を空につくるべきだなあ、と訳していました。池の表の花びらを堰き止めるのでは、平凡になってしまうからというのです。うーん、そういう読み方もあるのかと思いましたが、私は少々無理かなと思います。平凡でも、ここは水面の花を堰き止められるように、柵をつくるべきである、という理解でよいのではと思います。確かに平凡ですが。

 ⑩は、山風に散らされた花が谷川の水を覆っているのでしょうが、花が流れるので、表面には見えない谷川の水が流れているのがわかる、というのでしょう。桜の花が散って流れるほどに、春が去って行く。春を惜しむ心も読み取ることができます。

 ⑪はよく知られた歌ですね。「比良の山」とは、琵琶湖の南寄りの西岸にある高い山々で、そこから琵琶湖に吹き下ろす風は、「比良の山風」と慣用的な歌言葉となっています。比良の山から吹き下ろす強い風が、桜の花を散らして、琵琶湖の水面が花に覆われているのでしょう。そこに花をかき分けるように小舟が一艘漕いで行くのですが、舟の航跡の部分だけに水面が見えるのです。このような場面は、「澪(みお)をひいて舟がゆく」と言いましょうか。舟が通ったあとにできる水の筋を澪と言います。舟でなくとも、水鳥が泳いで澪を-場面でもよいでしょう。大和絵のような美しい場面ですね。公園の池の辺に桜が咲いていて、ボートが浮かぶ花びらをかき分けてゆくという場面に出会うならば、ぜひ思い出して欲しい歌です。

 全体を通して感じることですが、花の散るのを惜しみつつも、水面の花の美しさを肯定的に見ていますね。陰鬱さはほとんど感じ取れません。流れる花びらに上流の花を思うとか、浮かぶ花びらを柵(しがらみ)と見るとか、岸に寄せ来る花びらを花の波・波の花と見るなどと言う理解が共有されていたようです。ただ「花筏」という言葉は見つかりませんでした。

 室町時代の流行歌の歌詞を集めた『閑吟集』という書物には、「吉野川の花筏 浮かれてこがれ候(そろ)よの 浮かれてこがれ候よの」という歌が見えます。
歌謡を集めたものに、次の歌があります。いわゆる流行歌ですから、それ程高尚なものではなく、庶民的な恋の歌と理解できます。「わたしゃあ吉野の花筏、心浮かれて、焦がれるばかり」という意味でしょう。「こがれる」は「焦がれる」と「漕がれる」を掛けています。女性が花で、竿を執る筏師が男で、その男に恋い焦がれ、川に浮き身を任せて恋に流されてゆくというのでしょう。

 閑吟集は1518年の成立ですが、既に歌謡として流布していたものを集めたのですから、「花筏」という雅語は、それよりもかなり早い時期には生まれていたものと思われます。鎌倉時代末から室町時代初期の和歌集を丁寧に探せば見つかるかも知れませんが、少なくとも新古今集までの八代集では見つかりませんでした。もし私の見落としでしたら教えて下さい。

 他にハナイカダという名前の木があるのですが、あいにく私はよくは知りません。知らないのにわかったように書くのは嫌なので、名前の紹介にとどめておきます。ネットで画像を見られますから、興味のある方は御覧下さい。

 今回は、ただ水面の桜の歌を並べただけで終わってしまって、申し訳ありません。非力を痛感しています。それより、これからお花見もあるでしょうから、是非とも水面の花も楽しんで下さい。

沖縄の祖先供養

2017-03-11 21:21:45 | その他
 もうすぐ春のお彼岸を迎えます。キリスト教徒の私でも、お彼岸には祖先の墓参りをします。彼岸に仏事を行う風習は平安時代からありましたが、不思議なことにこれは日本だけの風習で、かつて仏教国であつた韓国や中国には見られません。中国文化の影響の強い沖縄にも、彼岸に墓参りをする習慣はありません。

 沖縄では祖先の供養が行われないのかと疑問に思う人がいるかも知れませんが、沖縄の人たちは、本土の人たちよりはるかに手厚く祖先の供養をしているのです。私などは月に一回、花を手向けに墓参りをする程度ですが、このあたりの基準に照らせば、それでも熱心な方かも知れません。しかし沖縄の人に比べれば、比較するのが申し訳ないほど粗略なものと言わざるを得ないでしょう。

 沖縄では彼岸には火の神(ヒヌカン)や仏壇(トートーメー)に供物を供え、家内安全や厄除けを祈願することはありますが、特に墓参をするわけではありません。しかし春の彼岸からほぼ2週間後の清明に、一族こぞって墓前での供養をします。清明とは二十四節気の一つで、春分の次の節気にあたり、今年は4月4日ですが、5日の年もあります。沖縄ではこれを「清明」と書いて「シーミー」と呼んでいます。

 沖縄で清明の墓参の起原については、18世紀半ばに書かれた『球陽』という歴史書には、「二月十二日始メテ毎年清明ノ節上王陵ニシテ奉祭スルコトヲ定ム」と記されています。

 「清明」に墓参をすることは、もともとは中国の風習で、「清明」という言葉は、張擇端の描いた「清明上河図」という絵巻物でもよく知られていますね。「清明上河」とは、「清明の日の川の辺」という意味で、宋の首都である開封の繁栄が描かれています。ただし墓参の場面は見当たりません。

 そもそも沖縄の墓地は、本土の墓地とは全く様子が異なります。初めて見る人は、その大きいことや住宅と混在していることに驚くことでしょう。沖縄の墓は、ギリシア文字のΩという字に似ている亀甲墓と、三角に尖った屋根のある破風墓が基本形です。

 沖縄の古い墓は、山の陰や崖下の窪みや自然の洞穴を利用したものでした。その後手狭になると奥に穴を掘り進め、内部を広くして一族で共用する墓が営まれるようになりました。亀甲墓の起原は、1687年に琉球王国の尚清王の第七子朝儀を初代とする伊江家の墓まで遡れます。また破風墓の起原は、1501年に、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために営んだ墓にまで遡れます。しかしこれらの墓はあくまで貴族階級のもので、庶民に許されるようになったのは、廃藩置県後のことでした。それ以前は「祖先が苦しむから」といって
土葬はせず、海岸をのぞむ洞穴などで風葬することが一般的でした。そして3~4年後には洗骨して墓に葬るのですが、これによって祖先は一族の守護霊となったとみなされたのです。

 このような独特の形の大きな墓が、至るところに見られます。初めて沖縄に旅をする人は、余りの多さに驚くことでしょう。ただ陰気臭さは全くなく、からっと開放的なのです。清明の前後の休日には、一族がその墓の前に集まり、祖先を供養した後、持ち寄った重箱入りの御馳走を食べながら、まるでピクニックのような気分で楽しく半日を過ごすのです。立派な墓の前には、そのための広場さえ設けられています。子供達はそこでお年寄りから祖先の話を聞かされ、またその供養の仕方を見せられて、祖先を敬い、墓と供養を継承してゆくべきことを、知らず知らずのうちに学んでゆくのです。こうして祖先の供養を通して、一族の団結は強められるのでしょう。

 もっとも近年では墓地の不足や核家族化により、大きな墓を新設することが難しくなりつつあるようで、霊園墓地の家族墓が増えているようです。

 沖縄の祖先供養は、旧盆にも盛大に行われます。墓に詣でる清明と異なり、盆は家に祖先の霊を迎える行事です。まず初日は「お迎え」(ウンケー)と称して、夕方に門で迎え火を焚いて祖霊を迎えます。古くは松の葉を燃やしていましたが、現在は線香を用いることが多いそうです。次の日を「中日」(ナカヌヒー)と言い、御馳走でもてなします。実際には親族が集まり、御馳走を食べながら楽しく過ごすのです。重箱には、餅と、豚の三枚肉・蒲鉾・揚げ豆腐・魚の天ぷら・昆布・こんにゃく・牛蒡などがぎっしりと詰められています。内地で食べる御萩や牡丹餅はありません。その他には、団子・菓子・各種の果実・葉生姜などを供えます。ここでも高齢者は祖先を知らない子供達に祖先の話を語って聞かせます。これを「語り供養」といい、何よりの供養になると考えられています。

 話は脱線しますが、昆布が採れないのに、沖縄の昆布消費量は、富山県に次ぐほど多いのです。これは江戸時代に越中の北前船が運ぶ蝦夷地の昆布を、直接ではありませんが琉球貿易によって大量に入手し、中国に輸出していたことの名残です。帰路には中国から漢方薬の原材料を輸入し、これまた間接的にでしょうが越中にもたらされ、越中の製薬業の発展へとつながっていました。

 三日目には「御送」(ウークイ)と称して、また線香を焚いて祖霊を送り出します。その時、砂糖黍の幹を杖として供えます。砂糖黍は風で倒されても不思議に立ち上がるので、高齢な祖霊が転んでも自分で立ち上がれるようにという意味が込められています。お腹がすいた囓れば良いということもあるのでしょうか。

 日常的には、新聞に大きく葬儀の広告が載り、手厚く死者を弔う様子を見ることができます。何しろ新聞の一面全体が毎日葬儀の広告で埋め尽くされます。そして喪主の他に、その家族・親族・友人・地域の関係者の名前がずらりと並び、葬儀の日時と場所が記されているのです。沖縄の人に直接聞いたことなのですが、まず朝刊のこの広告欄を見て、義理を欠いてはならない葬儀の有無を確認してから、ようやく一般の記事を読むそうです。本土の人にとっては、本当に驚くことばかりです。沖縄に行ったら、ホテルのロビーで新聞を御覧になって下さい。

 とにかく沖縄の人は、祖先を大切にしていて、それによって一族の絆が強められているのですが、学ぶべきことがたくさんあると思いました。それでも、我が家の墓の前で楽しく飲み食いをすれば、田舎のことですから、きっと顰蹙をかうことでしょう。

 以上の話は、何回かの沖縄旅行で経験したことや、かつて一緒に住んでいた沖縄出身の友人から聞いたことです。沖縄と言っても広いので、違う風習もあるかも知れませんが、その点は御容赦下さい。


桜狩り

2017-03-05 21:25:46 | うたことば歳時記
まだ少し早いですが、桜のお話しを一つ。

 今はあまり使われなくなりましたが、桜の花を愛でるために少々遠出をすることを「桜狩り」と言います。そう言えば同じようにもみぢを愛でるた「紅葉狩り」もあります。そこで古語辞典を検索してみると、「桜の花を尋ねて山野を歩き回ること」とあり、「狩る」で検索してみると、「山野に入って花木を探し求めること」と記されています。ネット情報では、「狩りをするわけでもないのに『狩り』というのは、草花や自然をめでることを意味していたから」というような、ピント外れの解説がいくつかありました。

 「狩る」ことは草花を愛でることと言われると、私は一寸首をひねってしまいます。「○○狩り」と言う言葉は他にもいくつかあります。潮干狩り・蛍狩り・茸狩り・鷹狩りなどが思い当たりますが、いずれも獲物を狙って山野を歩き回ることが共通しています。

 現代人のモラルからすれば、桜やもみぢを眺めに行って、枝を折って持ち帰ることは許されないことです。また古くから「桜きる馬鹿、梅きらぬ馬鹿」と言うように、桜の枝を剪定すると、切り口から腐りやすくなり、また桜のつぼみは枝の先端に多くつくので、花が咲かなくなるため、(梅は樹形を整えるためには剪定が欠かせず、梅は剪定してもすぐに回復して花のつく枝が伸びてくる)桜の枝を折り取ることを戒めたものでした。

 ところが花見の古歌を探してみると、枝を折る歌が沢山あるのです。それに対して梅の枝を折る歌はあまり見かけません。そもそも「桜狩り」はあっても「梅狩り」という言葉はありません。

 ①いしばしる滝なくもがな桜花手折りてもこん見ぬひとのため (古今集 春 54)
 ②見てのみや人に語らむ桜花手ごとに折りて家づとにせん (古今集 春 55)
 ③山守はいはばいはなむ高砂の尾上の桜折りてかざさむ (後撰集 春 50)
 ④桜花今夜かざしにさしながらかくて千歳の春をこそ経め (拾遺集 春 286)
 ⑤折らば惜し折らではいかが山桜けふをすぐさず君に見すべき (後拾遺 春 84)
 ⑥みやこ人いかがと問はば見せもせむこの山桜一枝もがな (後拾遺 春 100)
 ⑦咲かざらば桜を人の折らましや桜のあたは桜なりけり (後拾遺 雑 1200)
 ⑧よそにては惜しみに来つる花なれど折らではえこそ帰るまじけれ (金葉集 春 54)
 ⑨万代とさしてもいはじ桜花かざさむ春し限りなければ (金葉集 賀 309)
 ⑩桜花手ごとに折りて帰るをば春のゆくとや人は見るらん (詞花集 春 31)
 ⑪一枝は折りて帰らむ山桜風にのみやは散らしはつべき (千載集 春 94)
 ⑫仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば (千載集 雑 1067)

 ①は、桜を見に来られない人のために、桜の枝を折りたいのだが、滝があって折ることができないという。②は、見てきたよという言葉だけでは桜の美しさを伝えられないから、家への土産(家づと)に枝を折って持ち帰ろう、というのです。③は、山の管理人はとやかく言うなら言ってもよいから、桜を折って髪に挿そう、というのです。花の一枝を折って髪や冠に挿すことを「かざし」と言います。意味は「髪挿し」で、後に「かんざし」と変化することは察しがつくことでしょう。本来は長寿を祈る呪術でしたが、次第に装飾となっていきます。④も同じくかざしを詠んでいます。桜のかざしを挿すので、千年も長生きできるというのです。⑤は、折るのは惜しいが、折らないと今日という日を過ぎずにその美しさをあなたに見せることができるだろうか、というのです。⑥は、都人が、山の桜はどうでした尋ねたらね見せもしたいので、一枝ほしい、というのです。⑦は、桜の枝が折られてしまうのは、桜が美しく咲くからで、咲かなければ折られることもないと理屈を言っています。⑧は、遠くで見ていた時には花が惜しいと思っていたのに、いざ来てみたら、惜しむどころか、枝を折って持ち帰らずにはおれない、というのです。⑨もかざしを詠んでいます。万代と限っては言いますまい。桜をかざしに挿して過ごす春は、果てしなく続くのだから、というわけです。かざしが長寿のまじないであることがわかりますね。⑩は、皆が手に手に桜の枝を以て帰ってゆくのを見て、人は春が去ってゆくと思うだろうか、というのです。花見の帰りに、皆が桜の枝を持っていたことがわかりますね。桜が散れば春が終わるという理解が前提になっているわけです。⑪は、いずれ風が散らしてしまうのだから、一枝くらいは持って帰ろう、という。⑫は西行のよく知られた歌で、自分が死んだら、大好きな桜の花を供えてほしい、というのです。どこにも枝を折るとは詠まれていませんがね供える以上は折るということなのでしょう。

 いかがですか。あまりに多いので一部しか載せませんでしたが、結構大胆に折って持ち帰っている様子がわかるでしょう。現代人の感覚では顰蹙をかいそうですが、当時の倫理観ではそのようなことはなく、土産に持ち帰るのが当たり前だったようです。

 もう一つ確認しておきたいのは、桜は山に自生していたので、桜を愛でるには遠出をする必要があったということです。梅は唐伝来の花木ですから、野生の梅はありませんでした。それで庭に植えて観賞するものでしたから、「軒端の梅」という言葉ができるのです。しかし桜はもともと野生でしたから、庭に植えられることは多くはありませんでした。もちろん庭の桜を詠んだ歌はありますが、梅ほど多くはなく、「軒端の桜」とは詠まれないのです。ですから桜の美しさを伝えるためには、どうしても一枝折って持ち帰りたくなるのです。

 桜狩りとはただ桜を観賞することではなく、桜を求めて山や野に分け入り、十分に桜を堪能するだけでなく、ついでに枝を折り取って持ち帰ることだったと言うことができるでしょう。辞書には「狩る」とは「花や木を探して観賞すること」と説明されていますが、私ならもっと強く、「花や木を探し求めて山野に分け入り、それを採って愛でること」と説明したいところです。ただ眺めて愛でるのではなく、動物を狩るように手に採って愛でるからこそ、「桜狩り」と呼ばれたのでしょう。