うたことば歳時記

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『風姿花伝』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2021-11-28 11:13:18 | 私の授業
風姿花伝


原文  この比(ころ)よりは、大方、せぬならでは、手立(てたて)あるまじ。「麒麟(きりん)も老(おい)ては駑馬(どば)に劣る」と申事あり。去乍(さりながら)、真(まこと)に得たらん能者(のうじや)ならば、物数(ものかず)は皆々失(う)せて、善悪見どころは少なしとも、花は残るべし。
 亡父にて候ひし者は、五十二と申しゝ五月十九日に死去せしが、その月の四日の日、駿河の国浅間(せんげん)の御前にて法楽(ほうらく)仕(つかまつ)る。その日の申楽(さるがく)、殊に花やかにて、見物の上下、一同に褒美(ほうび)せしなり。
 凡(およそ)その比(ころ)、物数をば早(はや)初心に譲りて、安(やす)き所を少な
〳〵と、色へてせしかども、花は弥(いや)増しに見えしなり。是(これ)、真(まこと)に得たりし花成(なる)が故に、能は枝葉も少く、老木(おいき)になるまで、花は散らで残りしなり。是、眼(ま)のあたり、老骨に残りし花の証拠なり。

現代語訳  この年頃(五十歳代)になれば、大概、何もしないということ以外には、これという方法はあるまい。「麒麟(きりん)も、老いてはのろい駄馬にもかなわない」という諺(ことわざ)がある程である。しかしながら、真に奥義を会得した能役者ならば、演目の数は(肉体が衰えて)ほとんど無くなり、善くも悪くも見せ場は少なくってしまうが、芸の奥深さである「花」は残るであろう。
 亡き父観阿弥は、五十二歳という年(至徳元年、1384年)の五月十九日に亡くなったが、同月四日に、駿河国の浅間(せんげん)神社の御神前で申楽能を奉納した。その日の能は殊の外(ほか)華やかであり、貴賤上下の見物人は、皆一様に賞賛したものである。
 およそその頃には、数々の演目を若い者に譲り、楽にできる演目を、少しずつ彩(いろど)りを添えて演じていたが、芸の奥深さはますます見とれるほどであった。これは真に体得した花であるが故に、枝葉である演技の動きは少なくなったが、高齢の老木になっても、「花」は散らずに残っていたのである。これこそ私が目の当たりに見た、老の身にもなお残った「花」の証(あかし)なのである。
解説 『風姿花伝(ふうしかでん)』は、能楽(猿楽・申楽(さるがく))を大成した世阿弥(ぜあみ)(1363~1443)が著した能の芸能理論書で、序章を別にして七篇から成っています。最初の三篇は応永七年(1400)頃までに成立し、その後応永二十五年(1418)までかかって増補改訂されました。世阿弥の子孫の能役者のために、秘伝の書物として書かれたため、公開されたのは明治の末年です。秘本であったからか保存状態がよく、第六・七篇は世阿弥の自筆本が残っています。
 書名の『風姿花伝』は、何とも美しい呼称です。第五篇に、「この芸、その風を継ぐといへども、・・・・その風を得て、心より心に伝ふる花なれば、風姿花伝と名付く」記されています。「風姿花伝」には色々な解釈が可能であるとは思いますが、この場合の「風」を「芸風」と理解するならば、「伝統の芸風により伝えられる花」と理解しました。次に鍵(かぎ)となるのは、「花」という言葉です。世阿弥には他に『花鏡』という著書もあり、「花」という言葉には思い入れがありました。第七篇「別紙口伝」には、「花と面白きとめづらしきと、これ三つは同じ心なり」と記されています。古語の「面白し」は「風情がある」、「めづらし」は「賞賛すべき」という意味ですから、花とは、「風情があり、素晴らしい演技の魅力」と理解してみました。
 『風姿花伝』にはこの「花」について、若い頃の「時分の花」(一時的な花)と「真(まこと)の花」が説かれています。若い時(少年期と青年期)には、若さゆえの鮮やかな演技の魅力があります。これが「花」であり、観客を感動させます。しかしそれは長続きせず、「やがて散る時分」があります。しかし若い頃に絢爛(けんらん)と華やいだ表面の花が枯れたとしても、精進すれば密(ひそ)やかに内面に咲くようになります。この「時分の花」から「真の花」の芸境に至る精進が、芸の道であるというのでしょう。
 『風姿花伝』には、能の修業法から始まり、演技や演出、能の歴史や美しさなどについて叙述されています。あくまでも能楽について述べていますが、「能」を他の芸能に置き換えれば、そのままその芸能の理論書となり、芸能を越えて「道」に置き換えれば、そのまま教育論や人生論にもなります
 世阿弥の父観阿弥は、春日神社を本所とする、結崎(ゆうざき)座に属していました。そして応安七年(1374)に京の今熊野(いまくまの)社に奉納された演技が、第三代将軍足利義満(十七歳)に注目されました。飛び切りの美少年であった世阿弥に対する、義満の寵愛ぶりは尋常ではなく、観阿弥・世阿弥(十二歳)父子はその庇護を受けるようになりました。しかし応永十五年(1408)に義満が没すると、義満を快く思わない将軍が続き、世阿弥の出番は激減します。そして永享六年(1434)には、七二歳で佐渡に流されてしまいます。その後のことは不明だったのですが、近年、奈良県の曹洞宗補厳寺(ふがんじ)(現田原本町(たわらもとちよう))の禅僧竹窓(ちくそう)智厳(ちごん)に帰依し、田畑施入帳に世阿弥夫妻の法名と忌日が確認され、後に故郷の大和国に帰ったことが明らかになりました。
 ここに載せたのは、第一篇「年来稽古(けいこ)条々」の一部で、年齢に応じた稽古の心得が説かれています。まずは七歳の幼年期から稽古を始め、「心のまゝ」に自由にやらせるべきである。十二~十三歳の少年期になると、稚児(ちご)であるというだけで、姿や声がそのまま「花」となるが、それは「時分の花」である。そしてそれに気を取られずに、基本を丁寧に稽古せよ。十七~十八歳になると声が変わり、身体が大きくなる。そのため一時的な花が失われるので、最初の壁に直面する。それで「生涯にかけて能を捨てぬ」と覚悟を決めて稽古しなければならない。ここで諦めると、そのまま芸の上達は止まってしまう。二四~二五歳の青年期になると、芸の要である声と身体が安定し、芸の品位が定まり始める時期である。褒められて舞い上がってしまうことがあるが、これは本人のためにならない。この時期の「花」はまだ「真の花」ではなく、ようやく「初心」の段階である。三四~三五歳は芸の全盛期で、この時期に一流と認められないならば、「真の花」を会得できない。芸の上達はこの頃までであり、四十歳代には芸は衰え始める。四四~四五歳になると、演じ方が変わる。「身の花」(身体的な「花」)も「よそめの花」(観客から見た「花」)も次第に失われる。大切なことは良き助演者を得ることである。若い助演者に「花を持たせ」、身体の衰えを見せるような演技をしてはならないと説きます。そうしてここに載せた五十歳代の、何もしないのに「花」は残っている境地に続くのです。
 五十歳代になると無駄な動きは一切なく、わずかな動きの中に風格が滲み出るような存在になるのでしょう。これは剣道に譬えるとわかりやすいと思います。激しい打撃戦となる全日本選手権大会では、四~五段の壮年の剣士が勝つことが多いのですが、七~八段級の高齢の剣士は、見かけは静かに構えているだけでも、隙がないので、そう易々(やすやす)とは打ち込めないそうです。ただし現在とは平均寿命が違いますから、年齢の数字をそのまま現代に当てはめられません。古来四十歳から十年ごとに長寿の祝いが行われましたから、その頃の五十歳代は、現代ならば七十~八十歳代かもしれません。
 室町文化には、今日の「和風」文化の起原となったものがたくさんあります。能楽・水墨画・書院造・庭園・俳諧・生け花・茶の湯・禅などは、いずれも代表的「和風」文化ですが、どれも動作・色・装飾・植栽・言葉などを極限まで削ぎ落とし、象徴的に美や奥義を表現することが共通しています。能楽ならば、役者の動作、「作り物」(大道具)や能舞台の設(しつら)えを見れば、それは一目瞭然です。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『風姿花伝』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。

キリシタン版『イソップの寓話』(ESOPONO FABVLAS)高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2021-11-15 07:07:35 | 私の授業
ESOPONO FABVLAS(イソップの寓話)


ローマ字原文
Xemito, aritono coto.     
Aru fuyuno nacabani aridomo amata anayori gococuuo daite
fini saraxi, cajeni fucasuruuo xemiga qite coreuo morŏta:
arino yŭua: gofenua suguita natcu, aqiua nanigotouo
itonamaretazo? xemino yŭua: natcuto, aqino aidaniua
guinquiocuni torima guirete, sucoximo fimauo yenandani
yotte, nanitaru itonamimo xenandatoyŭ: ari guenigueni
sonobun gia: natcu aqi vtai asobareta gotoqu, imamo fiqio
cuuo tcucusarete yocarŏzutote, sanzanni azaqeri sucoxino
xocuuo toraxete modoita.
※開音の発音記号が付けられているŏ・ŭがありますが、あ まり気にせずに読み過ごして下さい。

国字原文
せみ(蝉)と あり(蟻)との こと
ある ふゆ(冬)の なかば(半)に あり(蟻)ども あまた(数多) あな(穴)より ごこく(五穀)を だ(出)いて ひ(日)に さら(曝)し、かぜ(風)に ふ(吹)かするを せみ(蝉)が き(来)て これを もろ(貰)た。あり(蟻)の ゆ(言)うは、「ごへん(御辺)は す(過)ぎた なつ(夏)、 あき(秋)は なにごと(何事)を いとな(営)まれたぞ?」 せみ(蝉)の ゆ(言)うは、「なつ(夏)と、 あき(秋)の あいだ(間)には ぎんきょく(吟曲)に とりま ぎれ(紛)て、 すこ(少)しも ひま(暇)を え(得)なんだに よって、なに(何)たるいとなみ(営)も せなんだ」とゆ(言)う。あり(蟻)「げにげに そのぶん(分)じゃ。なつ(夏) あき(秋) うた(歌)い あそ(遊)ばれた ごと(如)く、 いま(今)も ひ(秘)きょく(曲)を つ(尽)くされて  よからうず」とて、さんざん(散々)に あざけ(嘲)り すこ(少)しの しょく(食)を と(取)らせて もど(戻)いた。

解説
 『エソポのハブラス』( ESOPONO FABVLAS)は、現代日本語に直せば「イソップの寓話(ぐうわ)(教訓的譬え話)」という意味で、文禄二年(1593)、イエズス会宣教師により天草のコレジオ(聖職者養成神学校)で印刷されました。他にも多くの教義書・祈祷文や日本文芸がローマ字や国字で刊行され、「キリシタン版」「天草版」と呼ばれています。印刷には、天正遣欧使節がローマから持ち帰った活版印刷機が用いられました。
 もともと部数は少なかったでしょうが、江戸時代末期のイギリス外交官アーネスト・サトーが本国に持ち帰ったので、大英図書館に世界でたった一冊だけ現存しています。口語が発音のままに、発音記号を伴ったローマ字で書き表されているのですから、当時の会話体や発音を知ることのできる史料として、極めて貴重なものです
 わかりやすいところでは、今日のハ行が、当時はfa fi fu fe foと発音されていたことを確認できます。ここに載せた部分では、「冬」を「fuyu」、「日」を「fi」、「暇」を「fima」などの例があります。他に天草版の平家物語では、「平家物語」が「FEIQE MONOGATARI」、「日本」が「NIFON」と表記されているのはよく知られています。因みに奈良時代より前は、ハ行はp音で発音され、奈良時代にはf音、桃山から江戸時代にかけて h音に変わったとされています。
 また当時のオの長音には、口を大きく開けてアウに近い発音をする開音「ŏ」と、口をすぼめてオウ・オーと発音する合音「ô」があり、キリシタン版では区別されています。開長音は十七世紀には使われなくなり、「o」に統合されました。オー・コー・ソーを、旧仮名遣いではアウ・カウ・サウなどとも表記するのは、開長音があった名残です。
 キリシタン版の『エソポのハブラス』には七十の話が収められています。「犬が肉を含んだ事」「獅子と鼠の事」「孔雀(くじやく)と烏の事」「鳩と蟻の事」「童の羊を飼うた事」「蝉と蟻の事」などは、現在でもよく知られています。また江戸時代初期の慶長年間には、キリシタン版とは別系統の『伊曾保(いそほ)物語』が何種類も木活字で刊行されました。これは明らかに日本人のためのものです。十七世紀半ばに、挿画・振り仮名・増刷が容易な整版本の刊行が始まると、万治二年(1659)には、絵入りの『伊曾保物語』が出版され、その後は庶民的な読み物として流布しました。その中には「京といなかのねずみの事」「獅子王とねずみの事」「かはづが主君を望む事」「烏(からす)と孔雀(くじやく)の事」「蟻と蝉の事」「鳩と蟻の事」「ねずみども談合の事」などがあります。また明治五~八年(1872~75)には、英訳本から翻訳し直され、西洋文芸の『伊蘇普(いそつぷ)物語』として出版されました。また「兎と亀の話」(童謡「うさぎとかめ」の本(もと)になった話)や「獅子(しし)と鼠(ねずみ)の事」などのように、小学校の教科書に採用された話もあり、広く流布しました。
 ここに載せたのは「蝉と蟻」の話で、キリシタン版原文と、国字に直したものを載せました。この話は明治期の『伊蘇普(いそつぷ)物語』では、「蟻と螽(きりぎりす)」に改変されています。これは蝉が生息しない北欧ではきりぎりすに改められ、その英語版が明治初期に日本に伝えられて翻訳されたからです。
 原作の改変は、キリシタン版にもあります。そもそも『エソポのハブラス』は、宣教師の日本語習熟と、教化の方便とすることが目的でしたから、信仰的に相応しくない話を改作したり、低俗な話は収録されませんでした。原作では、冬の食べ物を欲しがる蝉に向かって、「冬も歌って過ごしたらよかろう」と、冷たく突き放すのですが、キリシタン版では、蟻は蝉を嘲(あざけ)って一度は突き放すものの、最後には少し食糧を分けてやることになっています。
 万治二年の『伊曾保物語』では、「 いやしき餌食を求て、何にかはし給ふべきとて、あなに入ぬ」となっており、また明治期の『伊蘇普物語』でも、蟻は「永の夏中踏歌(まいうた)ひて、徒(いたずら)に日を消(おく)りしものは、冬になりては飢(うう)べきはづなり。我は知らず」と素気なく、原作に近い筋書きになっています。現代の童話では教育的配慮から、食糧を分けてやる優しい蟻になっていることがありますが、賛否両論があることでしょう。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『イソップの寓話』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。

『徒然草』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面 改訂版

2021-11-08 19:53:05 | 私の授業

徒然草


原文 
 花は盛(さかり)に、月は隈(くま)なきをのみ、見るものかは。雨に対(むか)ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行方(ゆくえ)も知らぬも、猶あはれに情(なさけ)深し。咲きぬべきほどの梢(こずえ)、散り萎(しお)れたる庭などこそ、見所多けれ。歌の詞書(ことばがき)(事書)にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障(さわ)ることありて、まからで」なども書けるは、「花を見て」と言へるに劣れることかは。花の散り、月の傾(かたぶ)くを慕ふ習(なら)ひはさることなれど、殊(こと)に頑(かたくな)なる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などは言ふめる。・・・・
 望月の隈なきを千里(ちさと)の外(ほか)まで眺めたるよりも、暁近くなりて待ち出でたるが、いと心深う、青みたるやうにて、深き山の杉の梢(こずえ)に見えたる、木の間の影、うちしぐれたる村雲隠れのほど、又なくあはれなり。椎柴(しいしば)・白樫(しらかし)などの、濡(ぬ)れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身に沁(し)みて、心あらむ友もがなと、都恋しう覚ゆれ。
 すべて、月花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家に立ち去らでも、月の夜は閨(ねや)のうちながらも思へるこそ、いとたのもしうをかしけれ。よき人は、偏(ひと)へに好(す)けるさまにも見えず、興(きよう)ずるさまも等閑(なおざり)なり。片田舎の人こそ、色こく、万(よろず)はもて興ずれ。花の本には、ねぢ寄り立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒飲み連歌して、はては、大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手足さし浸して、雪にはおり立ちて跡つけなど、万の物、よそながら見ることもなし。

現代語訳
桜の花は満開の頃、月はかげりのない満月だけを愛でるものだろうか。雨の日に(見えない)月に思いを馳せ、家に閉じこもって春の移ろいを知らないでいるのも、やはりしみじみとした趣がある。今にも花が咲きそうな梢(こずえ)や、散って萎れた(花びらの敷いた)庭などには、見所が多いものである。和歌の前書きに、「花見に出かけたが、早くも散ってしまったので」とか、「わけあって花見に行けずに」などと書いてある歌は、「花を見て」と書いてある歌より劣ることがあるだろうか。花が散り、月が傾くのを惜しむということはもっともであるが、心が殊の外頑(かたくな)な人は、「この枝もあの枝も花が散ってしまった。もう見る程のこともない」などと言うようだ。・・・・
かげりのない満月を、遠くまで望むように眺めるよりも、夜明け近くに姿を見せる有明けの月が、大層趣深く青みを帯びて、深い山の杉の梢に掛かって見えたり、月の光が木の間から洩れて来たり、またさっと時雨(しぐれ)を降らせた叢雲(むらくも)に月が隠れている様子など、比べようもなく趣が深い。椎の枝や白樫の濡(ぬ)れた葉の滴(しずく)に、月影が宿ってきらめいている様子は、身に沁(し)みる程の美しさであり、この風情をわかる友がいればよいのにと(共に眺められたらよいのにと)、(そのような人がいる)都を恋しく思うのである。
およそ月や花は、ただそのように目だけで見るものだろうか。春は家に居ながら花を思い、月の夜には寝室の中からでも月に思いを馳せることこそが、心豊かな趣というものである。心ある人というものは、風情に心を寄せる様子をやたらに表に見せたりはしないし、愛でる様子も(表面上は)あっさりとしている。(それに対して)田舎者ほど、しつこく万事騒ぎ立てるものだ。花の木の下ににじり寄るようにして立ち寄り、脇目もふらずに見つめ、酒を飲んでは連歌をして、挙句には大きな枝を心なく折り取る。湧水には手足を浸したり、新雪には降りて足跡をつけるなど、あらゆる物を、よそながら見るということがない。

解説 
 『徒然草(つれづれぐさ)』は、鎌倉時代末期に占部兼好(うらべけんこう)(1280年代?~1352以後)が著した随筆です。兼好は若い頃は天皇に近侍する蔵人となったり、左兵衛佐(さひようえのすけ)という中級武官でしたが、三十歳前後で出家します。
 『徒然草』には実に様々な人間像が登場します。序段を読むと、無常観に根ざした隠棲文芸かと思きや、第一段では、「理想の男性像は、達筆であり、歌が上手で、酒も程よく飲めること」と言い、第三段では、「色好みでない男は、人としてどれ程立派でも、底の抜けた玉の杯のようなものである」と説き、第八段では、男の色好みを諫めつつも、女の肉体の魅力に納得してしまうなど、俗な姿を曝しています。若い頃にはさもありなんと読み進めると、第三八段では、名誉や利益に心を奪われることの愚かさを説いています。年を重ねるに従い、世俗の埃(ほこり)も払われるのかと思いきや、第二四〇段では人目を忍んで女に逢う話になります。そしてまたまた第二四一・二四二段では、無欲に生きることを説くなど、様々に人間の赤裸々な姿を正直に曝(さら)しています。
 ここに載せたのは第一三七段で、花や月の風情について説いています。まずは、完全無欠なものもそれはそれでよいのですが、どこか陰翳(いんえい)があるもの、不完全なものに深い趣があると説いています。
 二つ目には、想像を膨らませて見る感性を説いています。雨の日や、夜の床で見えない月を思い、家の中で花や春の移ろいに思いを馳せることは、直に月や花を見ることに劣らないというのです。美しいものを直に「見る」のと、それを見ずに「思う」ことを比べれば、現代人なら「見る」方がよいと思うでしょう。しかし「思う」(想像)ことにより増幅される風情を良しとする感性を説いています。有名な古歌や故実・歌枕を踏まえて和歌を詠むことは、そのよい例でしょう。もっともその風情を理解するためには、故実や古歌などに通じていなければなりませんが。
 また三つ目には、風情のわかる人とわからない人が対比されています。四季の移ろいの情趣を理解し、それに相応しい振る舞いができることは、文化人必須の素養でした。そして洗練された季節の感性を持つ人こそが、「心ある人」と評価されたものでした。それに対して風情のわからない「心なき」田舎者は、目に見える表面的な美しさを騒がしく愛でるだけであると嘆いています。








平家物語

『自助論』(西国立志編)高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2021-11-02 19:38:00 | 私の授業
西国立志編(自助論)


英語原文
"Heaven helps those who help themselves," is a well-tried maxim, embodying in a small compass the results of vast human experience. The spirit of self-help is the root of all genuine growth in the individual; and, exhibited in the lives of many, it constitutes the true source of national vigor and strength. Help from without is often enfeebling in its effects, but help from within invariably invigorates. Whatever is done for men or classes, to a certain extent takes away the stimulus and necessity of doing for themselves; and where men are subjected to over-guidance and over-government, the inevitable tendency is to render them comparatively helpless.

日本語原文
 天は自ら助くるものを助くと云へる諺(ことわざ)は、 確然経験したる格言なり。僅(わずか)に一句の中に、歴(あまね)く人事成敗の実験を包蔵せり。自ら助くと云ことは、能(よ)く自主自立して、他人の力に倚(よら)ざることなり。自ら助くるの精神は、凡(およ)そ人たるものゝ才智の由(より)て生ずるところの根原なり。推(おし)てこれを言へば、自ら助くる人民多ければ、その邦国、必ず元気充実し、精神強盛なることなり。他人より助けを受て成就せるものは、その後、必ず衰ふることあり。しかるに、内、自ら助けて為(なす)ところの事は、必ず生長して、禦(ふせぐ)べからざるの勢あり。蓋(けだ)し我、もし他人の為に助けを多く為(な)さんには、必ずその人をして、自己励(はげ)み勉(つと)むるの心を減ぜしむることなり。是故(このゆえ)に師伝の過厳なるものは、その子弟の自立の志を妨ぐることにして、政法の群下を圧抑(あつよく)するものは、人民をして扶助を失ひ、勢力に乏(とぼし)からしむることなり。

現代語訳
 「天は自ら助ける者を助ける」という諺(ことわざ)は、確かな裏付けのある(原著者註「シカトタメシココロミ」られた、しっかりと試みられた)格言である。短い一句の中に、人の行いの実験(原著者註「タメシ」)がこめられている。「自ら助ける」ということは、自分の意志により自分の力で立ち、他人の力に依存しないことである。自助の精神とは、総じて人の才能や知恵を生み出す根原である。さらに言えば、自主自立する人民が多ければ、その国には必ず覇気(はき)が充満し、精神が頗(すこぶ)る盛んとなる。
 他人から助けられて成し遂げることは、いずれ必ず衰えるものである。しかし自分の努力により行うことには、必ず自ずと発展成長し、抑えることのできない勢いがある。思うに、もし私が誰かを助け過ぎたりすれば、必ずやその人の自分で努力しようという意志を、弱めてしまうことになる。それ故に、師が子弟に対して過剰に指導すること(原著者註「カシヅキノキビシスギル」)は、反(かえ)ってその子弟の自立しようという志を妨げることになる。また政治や法律が人々を抑圧すると、人々は扶(たす)けを失い、自助自立の勢いを失わせることになる。

解説  
 『自助論(じじよろん)』は、もともとは一八五九年にイギリス人のサミュエル・スマイルズが著した『Self-Help』という書物の日本語名で、それを啓蒙思想家である中村正直(まさなお)(1832~1891)が訳述し、明治四年(1871)に『西国立志編(さいごくりつしへん)』と題して出版しました。内容は、自助の精神、新機器を発明創造する人、勤勉と忍耐、機会、学術の勉修、芸業の勉修、貴爵の家を起こす人、剛毅、職事を務める人、金銭の使い方、自ら修養すること、儀範(従うべき模範)、品行など多くの項目を掲げて論じ、その主題にそった個人の逸話をたくさん並べています。
 例えば、「瓦徳(ワツト)」の蒸気機関作製、「牛董(ニユートン)」が語った学問の工夫、「哥倫布(コロンブス)」が漂う海藻を見て陸地が近いことを知ったこと、「弗蘭克林(フランクリン)」の電気の実験、「発拉第(ファラデー)」が化学に志したこと、「倫賓斯敦(リビングストン)」(律賓斯敦)のアフリカ探検などは、世界史の逸話としてよく知られています。その他にも「阿克来(アークライト)」「士提反孫(スチブンソン)」「必答臥拉斯(ピタゴラス)」「日納爾(ジェンナー)」「話聖東(ワシントン)」「舌克斯畢(シェークスピア)」など、政治家・学者・軍人から職人に至るまで、多くの努力家・成功者たちの逸話が集成されています。
 また彼等の苦心談に交えて、多くの教訓が散りばめられています。例えば、「貧苦禍難は人の善師」、「金を借ることの危きこと」、「誘惑に抵抗すべきこと」、「心志あれば必ず便宜あり」、「苦労なければ希望なし」、「智識は失敗より学ぶ」など、少し説教臭くはありますが、時代を問わず万人に受け容れられる訓戒が、具体的な例を交えて語られています。
 また訳述の目的について、序文には次のように記されています。「就中(なかんずく)最要の教に曰く。『人たるものは、その品行を高尚にすべし。然(しから)ざれば、才能ありと雖ども、観(み)るに足らず。世間の利運を得るとも貴(とうと)ぶに足(た)ることなし』。我これ等の教を、世の少年に暁(さとさ)んと志ざし、この書を作れり」と。彼は熱心なキリスト教徒であり、その主張は信仰的倫理観に裏付けられています。
 中村正直は、幕臣の子として江戸で生まれました。そして『解体新書』訳述に関わった桂川甫周(ほしゆう)からは蘭学を、幕府の昌平坂(しようへいざか)学問所では儒学を学びました。また勝海舟から英華辞典を借りて筆写し、英語も自ら学んでいたことから、イギリス留学を志願し、慶応二年(1866)、幕府が英国に派遣する留学生の監督として同行します。しかし明治元年(1868)、幕府崩壊に伴い帰国せざるを得ませんでした。そして帰国に際し、イギリス人の友人「弗理蘭徳(フリーランド)」から餞別として『Self-Help』を贈られ、帰国する船中でこれを読み、「自助の精神」に大層感動します。自分を留学させてくれた幕府の崩壊に失望して帰国する船上で、幕臣であった彼自身が、この本によりどれ程か希望を見出したことでしょう。その自己体験が、翻訳出版の原動力の一つになるのです。正直はそれを贈られたことが、余程に印象に残ったのでしょう。日本で改訂・改版を重ねても、正直が贈られた原本の巻首扉に、「Professor Nakamura」に贈ることを英文で書いた友人の筆跡模写が、必ずそのまま掲載されています。
 その翻訳には多くの困難がありました。原文を大幅に省略したり、かなり意訳していますが、それは英語原文と比較すると、よくわかります。また既にヘボンが出版した『和英語林集成』という辞書はあったものの、学術語や抽象的概念については、英語に対応する日本語がまだ十分ではありません。また日本にまだない制度については訳しようがなく、school一つでも、「郷塾・郷学・学院・学校」などと、様々に訳しています。またgentlemanを「真正之君子」と訳していて、その苦心の程がうかがえますから、その他の苦心や工夫も、推して察しがつくでしょう。
 『西国立志編』は時代の潮流に乗り、明治期を通して百万部も売れました。ベストセラーというよりは、ロングセラーと言った方がよいかも知れません。同じ頃に出版された『学問のすゝめ』は三百万部売れたということです。しかしそれぞれが薄い小冊子ですから、分厚い『西国立志編』はそれに匹敵するものです。大正時代に活躍した政治学者の吉野作造は、「福沢が明治の青年に智の世界を見せたと云ひ得るなら、敬宇(けいう)(正直の号)は正に徳の世界を見せたもの」(『日本文学大事典』「西国立志編」の項)と評価しています。 
 ここに載せたのは『西国立志編』の冒頭部で、ここで説かれている自助の精神は、全体を一貫している理念です。「天は自ら助くる者を助く」という、いかにも漢籍由来でありそうな諺がありますが、原著者の序文にある「Heaven helps those who help themselves」を、彼が和訳したものなのです。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『西国立志編』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。