うたことば歳時記

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『歌よみに与ふる書』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2020-05-29 16:21:44 | 私の授業
歌よみに与ふる書


原文
 仰(あおせ)の如く、近来和歌は一向に振ひ申さず候。正直に申し候へば、万葉以来、実朝以来、一向に振ひ申さず候。実朝といふ人は三十にも足(た)らで、いざ是(これ)からといふ処にて、あへなき最期を遂げられ、誠に残念致(いたし)候。あの人をして今十年も活かして置いたなら、どんなに名歌を沢山残したも知れ申さず候。兎(と)に角(かく)に第一流の歌人と存(ぞんじ)候。強(あなが)ち人丸(ひとまろ)(柿本人麻呂)赤人(あかひと)(山部赤人)の余唾(よだ)を舐(ねぶ)るでも無く、固(もと)より貫之定家の糟粕(そうはく)(残った粕(かす)、命のない外形)をしゃぶるでも無く、自己の本領屹然(きつぜん)(そびえること)として、山嶽と高きを争ひ、日月と光を競ふ処、実に畏るべく尊むべく、覚えず(思わず)膝を屈するの思ひ之(これ)有(あり)候。古来凡庸の人と評し来りしは、必ず誤なるべく、北条氏を憚(はばか)りて韜晦(とうかい)(才能を包み隠すこと)せし人か、さらずば大器晩成の人なりしかと覚(おぼえ)候。
 人の上に立つ人にて、文学技芸に達したらん者は、人間として下等の地に居るが通例なれども、実朝は全く例外の人に相違之(これ)無(なく)候。何故と申すに、実朝の歌は只(ただ)器用といふのでは無く、力量あり、見識あり、威勢あり、時流に染まず、世間に媚(こ)びざる処、例の物数奇(ものすき)連中や、死に歌よみの公卿達と、迚(とて)も同日には論じ難(がた)く、人間として立派な見識のある人間ならでは、実朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。真淵(まぶち)(賀茂真淵)は力を極みて実朝をほめた人なれども、真淵のほめ方はまだ足らぬやうに存(ぞんじ)候。

 貫之(つらゆき)は下手(へた)な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に之有候。其(その)貫之や古今集を崇拝するは、誠に気の知れぬことなどゝ申すものゝ、実は斯(か)く申す生(せい)(私)も、数年前迄(まで)は古今集崇拝の一人にして候ひしかば、今日世人(せじん)が古今集を崇拝する気味合(きみあい)は、能(よ)く存(ぞんじ)申(もうし)候。崇拝して居る間は、誠に歌といふものは優美にて、古今集は殊に其(その)粋を抜きたる者とのみ存(ぞんじ)候ひしも、三年の恋一朝にさめて見れば、あんな意気地(いくじ)の無い女に今迄ばかされて居った事かと、くやしくも腹立たしく相成(あいなり)候。
 先づ古今集といふ書を取りて第一枚を開くと、直ちに「去年(こぞ)とやいはん今年とやいはん」といふ歌が出て来る。実に呆(あき)れ返った無趣味の歌に之有候。日本人と外国人との合(あい)の子を、日本人とや申さん、外国人とや申さんとしゃれたると同じ事にて、しゃれにもならぬつまらぬ歌に候             
解説
 『歌よみに与(あた)ふる書』は、俳人の正岡子規(まさおかしき)(1867 ~ 1902)が明治三一年(1898)の二月から三月にかけて、新聞「日本」に連載した歌論です。明治三十年には俳句雑誌『ほとゝぎす』(後に『ホトヽギス』)を創刊し、俳句の革新運動を始めていましたが、短歌の革新運動にも乗りだします。その契機となったのが、一連の『歌よみに与ふる書』なのです。余りに過激な論調に、読者からの質問や批判が殺到し、子規はそれに応える形で、十回まで連載をしました。
 子規は紀貫之と『古今和歌集』を批判していますが、最後までよく読めば、子規が最も厳しく批判しているのは、『古今和歌集』を十年一日の如く漫然と崇拝している歌人達であることがわかります。また子規の短歌・俳句論は、一般には主観を退け客観的な「写生」を重視したと説かれていますが、彼は『六たび歌よみに与ふる書』において、「生(せい)(私)が排斥するは主観中の理窟の部分にして、感情の部分にはこれ無く候」と述べています。子規が非難しているのはあくまで理屈をこねた短歌や俳句であって、自ずから湧いてくる主観まで退けているわけではありません。ただし「されば生は客観に重きを置く者にてもこれなく候。但し和歌俳句の如き短き者には、主観的佳句よりも客観的佳句多しと信じをり候」とは述べています。
 子規の言葉は大層力強いのですが、現実の生活では、明治三十年から脊椎(せきつい)カリエスという病で、寝たきりの状態が続いています。溢れ出る膿(うみ)を拭うのにも、激痛のため絶叫する程の闘病が続いていました。そして明治三十五年(1902)には三五歳で亡くなります。短歌や俳句の革新を迫る激しい言葉は、そのような病床から呻きと共に絞り出されました。子規は『歌よみに与ふる書』を連載した年に、「神の我に歌をよめとぞのたまひし病に死なじ歌に死ぬとも」と詠んでいます。これは「歌に死ぬなら本望である」という決意表明でしょうが、実際の事でもあったのです。
 ここに載せたのは、前半は連載一回目の『歌よみに与ふる書』の冒頭部分で、源実朝を極めて高く評価しています。実朝は藤原定家から『万葉集』を贈られ、よく学んでいましたから、その影響を受けたことは確かです。ですから『万葉集』の研究に生涯を捧げた賀茂真淵は、実朝を高く評価していました。しかし実朝の『金槐和歌集』には、『万葉集』だけでなく、『古今和歌集』や『新古今和歌集』などから本歌取りした歌が極めて多く、真淵や子規の評価は少々過大かもしれません。
 後半は連載二回目の『再び歌よみに与ふる書』の冒頭部分です。批判されている歌は『古今和歌集』の巻頭の、「年の内に春は来にけり一年(ひととせ)を去年(こぞ)とや言はむ今年とや言はむ」という歌で、十二月中に新年の立春となることのおかしさを詠んでいます。これは年内立春といい、旧暦では二~三年に一度位の割で起きることで、珍しくはありません。子規が最も排撃したのは、まさにこの様な理屈っぽい歌でした。
 歴史上で革新的な業績を残した人の言動には、得てして過激なことが多いものです。抵抗が大きいだけに、それを打破するためには、激し過ぎるくらいのエネルギーが必要だからです。しかし行き過ぎがあったとしても、いずれ「歴史」と言う時間が、それを揺り戻してくれます。
 子規はさんざん紀貫之を貶していますが、最後に子規が褒めた貫之の歌を一首上げておきましょう。「思ひかね妹がり行けば冬の夜の河風寒み千鳥鳴くなり」(『拾遺和歌集』)。「恋しい思いに耐え兼ねて、愛する人のもとへ出かけて行くと、冬の夜の川風が寒いので、千鳥が鳴く声が聞こえる」という意味です。子規は『再び歌詠みに与ふる書』において、「此歌ばかりは趣味ある面白き歌に候。併し外にはこれ位のもの一首もあるまじく候」と述べています。


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『玉勝間』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面 

2020-05-21 08:16:19 | 私の授業
玉勝間


原文
 おのれ古典(いにしえぶみ)を説くに、師の説と違(たが)へること多く、師の説のわろき事あるをば、わきまへ言ふことも多かるを、いとあるまじき事と思ふ人多かめれど、これすなはち我が師の心にて、常に教へられしは、「後によき考えの出来(いでき)たらむには、必ずしも師の説に違(たが)ふとて、なはゞかりそ」となむ、教へられし。此(こ)はいと貴(とうと)き教へにて、我が師の世にすぐれ給へる一つなり。
 おほかた古(いにしえ)を考ふる事、さらに一人二人の力もて、こと〴〵く明(あき)らめ尽くすべくもあらず。またよき人の説ならむからに、多くの中には誤りもなどかなからむ。必ずわろきことも混じらではえあらず。その己(おの)が心には、「今は古の心こと〴〵く明らかなり。これをおきては、あるべくもあらず」と、思ひ定めたることも、思ひの外(ほか)に、又人の異なるよき考へも出来(いでく)るわざなり。あまたの手を経(ふ)るまに〳〵、先々の考えの上を、なほよく考へきはむるからに、次々に詳しくなりもてゆくわざなれば、師の説なりとて、必ずなづみ守るべきにもあらず。よきあしきを言はず、ひたぶるに古きを守るは、学問の道には、言ふかひなきわざなり。
 又己(おの)が師などのわろきことを言ひ表すは、いとも畏(かしこ)くはあれど、それも言はざれば、世の学者その説に惑ひて、長くよきを知る期(ご)なし。師の説なりとて、わろきを知りながら、言はずつゝみ隠して、よさまに繕(つくろ)ひをらむは、たゞ師をのみを貴(とうと)みて、道をば思はざるなり。
 宣長は道を貴(とうと)み古を思ひて、ひたぶるに道の明らかならむ事を思ひ、古の意(こころ)のあきらかならむことを主(むね)と思ふが故に、わたくしに師を貴(とうと)むことわりの欠けむことをば、えしも顧みざることあるを、猶(なお)わろしと、謗(そし)らむ人はそしりてよ。其(そ)はせむかたなし。我は人に謗られじ、よき人にならむとて、道を曲(ま)げ、古の意(こころ)をまげて、さてあるわざはえせずなむ。これすなはち我が師の心なれば、かへりては師を貴(とうと)むにもあるべくや。其(そ)は如何にもあれ。

現代語訳
 私が古典を説くに当たり、師(賀茂真淵)の説と違うことが多く、師の説に誤りがあるのを、見分けて言うことが多いのだが、(弟子として)とんでもないことだと思う人が多いようである。しかしこれは私の師の意図するところであり、いつも教えて下さったのは、「あとで良い考えが出て来た時には、必ずしも師の説と違うからといって、遠慮することはない」ということであった。これは大層尊い教えであり、私の師が学問の世で優れておられたことの一つである。
 そもそも古(いにしえ)を研究することは、一人二人の力で、全てを明らかにし尽くせるものではない。また優れた学者の説でも、多くの説の中には、どうして誤りが無いと言えようか。いや、決して誤りが混じらないというわけにはいかないものである。その人自身の心には、「今はもう古の精神は、全て明らかである。自分の説の外(ほか)に、正しい説はあるはずもない」と思い込んでも、思いがけなく、他の人の違う良い考えが出てくるものである。(学問とは)多くの人の手を経ることにより、前の人々の考え以上のことを、さらによく考え究めるので、次第に詳しくなるのであるから、師の説だからといって、必ずこだわり守らねばならないというわけではない。その説の良し悪しを問題にせず、ひたすら旧説を守るのは、学問の道では意味がない。
 また自分の師の誤りをはっきりと言うのは、大層畏れ多いことではあるが、それを言わなければ、世の中の学者はその説に惑わされ、長い間良い説を知る時がない。師の説だからといって、誤りを知りながら言わずに包み隠し、体裁を取り繕うのは、ただ師を敬っているだけであって、学問の道を思っていないのである。
 私、宣長は、学問の道を尊び、古を思い、ひたすらに古の意(こころ)が明らかになることを思い、古の精神が明らかになることを第一に考えているから、個人的には師を敬うという道理が欠けていることを、顧みなていられないことがある。それを悪いことであると、非難する人はすればよろしい。それは仕方がないことである。私は人に非難されまい、良い人になろうとして、(かえって)学問の道を曲げ、古の意(こころ)を曲げてまで、そのままでいることは、とうていできないのである。これはとりもなおさず我が師の教えであるから、むしろ師を敬うことではないか。そんなことはどうでもよい。

解説
 『玉勝間(たまがつま)』は、国学者である本居宣長(もとおりのりなが)(1730~1801)の随筆で、寛政七年(1795)から、宣長没後の文化九年(1812)の間に、順次出版されました。「かつま」とは編み目の細かい籠のことで、宣長自身が「玉賀都万(たまがつま)」と訓(よ)んでいます。巻頭に「言草(ことくさ)のすゞろにたまる玉がつまつみてこゝろを野べのすさびに」という歌が記されています。「草稿がたまったので、摘んで籠に編もう。そして思うことを述べれば、野辺の楽しい遊びとなることだろう」という意味です。
 ここに載せたのは、二の巻の 「師の説になづまざること」という話です。宣長が師の真淵と会ったのは、宝暦十三年(1763)五月二五日の夜一回だけです。真淵が主君の田安宗武(たやすむねたけ)(松平定信の父)の命により、大和国の古跡調査の帰路、宣長のいる松坂に宿泊したのですが、その時宣長は宿所を訪ねました。時に宣長三四歳、真淵六七歳でした。そして明和六年(1769)に賀茂真淵が亡くなるまで足かけ七年にわたり、数十通の手紙の往復による師弟の交流が続きました。
 宣長が真淵の説を否定したことでよく知られているのは、真淵が『万葉集』を男性的でおおらかな歌風であるとして、それを「ますらをぶり」と称して高く評価し、平安時代の文芸を女性的で優美繊細であるとして、「たをやめぶり」と称して貶(おとし)めたのに対して、宣長は勅撰和歌集や『源氏物語』を高く評価したことです。そして宣長は、「見る物聞く事なすわざにふれて情(こころ)の深く感ずる事」(『石上(いそのかみ)私淑(ささめ)言(ごと)』、目に見、耳に聞いて自ずから生じるしみじみとした情趣)を「ものゝあはれ」と称し、平安時代以来の日本文芸の美的概念を提唱しました。また宣長が古今調・新古今調の歌を送って添削を求めると、巧みな歌は賤しいとして、万葉調でない事に激怒し、『万葉集』について師説と異なる説を書き送ると、「向後(今後)小子に御問も無用の事也」と、絶縁ともとれる程に叱責する返事を送っています。
 しかし破門寸前まで叱責されても、師弟の絆は切れませんでした。真淵がいろいろ書き込んだ『古事記』などを貸して欲しいという、宣長の虫のよい要求にも応えていますし、宣長の質問状に対して、余白に朱書して答えています。それに対して宣長も、江戸に住んでいた弟を通して、真淵に対して謝金や松坂の名物を贈って感謝しています。宣長の師に対する敬意がより勝(まさ)っていたのでしょう。真淵に出会ったことが契機となった『古事記』の研究は、三十余年後に『古事記伝』として結実します。
 なお『玉勝間』にはこの「師の説になづまざる事」に続き、「わがをしへ子にいましめおくやう」という話が記されています。そこには、「良い考えが浮かんだなら、たとえ師(宣長)説と違っていても、その良い考えを広めよ。私が教えるのは道を明らかにすることであって、師を敬うのは私の意図するところではない」と述べています。宣長は、師から学んだことを、身を以て弟子に伝えようとしているのです。


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『枕草子』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面 

2020-05-13 09:02:23 | 私の授業
枕草子


原文
 例ならず仰せ言などもなくて、日比(ひごろ)になれば、心細くてうちながむる程に、長女(おさめ)、文(ふみ)を持て来たり。「御前(おまえ)より、宰相(さいしよう)の君して、忍びて給はせたりつる」と言ひて、こゝにてさへひき忍ぶるもあまりなり。人づての仰せ書きにはあらぬなめりと、胸つぶれて疾(と)く開(あ)けたれば、紙にはものも書かせ給はず、山吹の花びらたゞ一重を包ませ給へり。
 それに、「言はで思ふぞ」と書かせ給へる、いみじう、日比の絶間(たえま)嘆かれつる、みな慰めてうれしきに、長女(おさめ)もうちまもりて、「御前には、いかゞ、ものゝをりごとに、おぼし出できこえさせ給ふなるものを。誰もあやしき御長居(ながい)とこそ侍るめれ。などかは参らせ給はぬ」と言ひて、「こゝなる所に、あからさまにまかりて、参らむ」と言ひて往(い)ぬる後、御返事(おんかえりごと)書きて参らせむとするに、この歌の本(もと)さらに忘れたり。
 「いとあやし。同じ故事(ふるごと)と言ひながら、知らぬ人やはある。たゞこゝもとにおぼえながら、言ひ出でられぬはいかにぞや」など言ふを聞きて、前に居たるが(能因本では「小さき童が」)、「『下ゆく水』とこそ申せ」と言ひたる、などかく忘れつるならむ。これに教へらるゝもをかし。

現代語訳
 いつもと異なり、(「参れ」という)仰せのお言葉もないままに、何日も経ちますので、心細く物思いにふけっておりますと、長女(おさめ)(下級女官の長)が手紙を持って来ました。「中宮様から宰相の君(中宮の女房の一人?)を通して、こっそりと下されたお手紙でございます」と言って、ここ(私の家)に来てさえも人目を避けようとしているのは、あまりのことです。人伝(ひとづて)の御言葉ではない(代筆ではない)ように思われ、胸をどきどきさせながらすぐに開けたところ、紙には何もお書きにならず、山吹の花びらただ一枚をお包みになられています。
 それには「言はで思ふぞ」(言葉に出さなくても、あなたのことを思っています)とお書きになられているのを見ると、本当にまあ、しばらくの間御無沙汰して寂しかったことも、全て慰められて喜んでいると、長女も私を見つめて、「中宮様には、どれ程か何かにつけて、(あなた様のことを)思い出していらっしゃるそうですのに。(女官達は)誰もが、あなた様の里居(さとい)が長いのを、訝しく思っております。どうして(中宮様のもとに)参上なさらないのですか」と言って、「(お返事を書くのに時間がかかるでしょうから)その辺にしばらく寄ってから戻って参りましょう」と言って立ち去った後、御返事を書いて差し上げようとしたのですが、この歌の上の句をすっかり忘れてしまいました。
 「何ともおかしなことです。古い歌とはいえ、この歌を知らない人がいるでしょうか。ここら辺りまで思い出していながら、言い出せないのはどうしたことでしょう」と私が言うのを聞いて、私の前にいる幼い女の子が、「それは『下行く水の』と申します」と言いました。どうしてこれ程までに忘れてしまったのでしょうか。(こういうことを)小さな子に教えられるというのも、(我ながら)おかしなことです。

解説
 『枕草子(まくらのそうし)』は、一条天皇が寵愛するの中宮定子(後に皇后、977~1001)に仕えた、清少納言(?~?)の随筆です。書名の「草子」とは、巻子(かんす)(巻物)に対する「冊子(さつし)」が訛った言葉ですから、鍵は「枕」にあります。そのヒントは、伝本により多少文言が違いますが、『枕草子』の巻末にあります。定子が兄の内大臣伊周(これちか)から美しい紙をもらったのですが、定子が「これに何を書きましょうか。お上(一条天皇)は『史記』を書写しておられますが」と言うと、少納言は「枕にこそは侍らめ」(「枕でございましょう」)と答えました。そして「さは、得てよ」(「それなら、そなたにつかわそう」)と、定子は少納言に紙を与えます。そしてそれがきっかけで書いたということになっているのですが、「枕」の解釈については、寝具、枕元、季節、歌枕、枕元に置く備忘録など、諸説があります。
 清少納言が宮仕えを始めたのは正暦四年(993)で、定子は十七歳、清少納言は二八歳前後のことです。明朗快活で賢い定子は、才智にあふれ、打てば響く対応のできる清少納言が大のお気に入り。しかし長徳元年(995)、定子の父である藤原道隆が四三歳で亡くなってしまいます。すると翌年正月、定子の兄伊周(これちか)と弟の隆家の従者が、花山法皇を弓で射て、従者の童二人を殺してしまうという不祥事を起こしてしまいます。そして四月には大宰権帥(だざいのごんのそち)として左遷されることになり、失意の定子は妊娠中にもかかわらず、即日宮中を出て実家の二条の宮に移り、自ら落飾(出家)してしまいます。そしてさらに六月には、定子の住む二条の宮が全焼してしまうのです。この頃、清少納言は、伊周と対立していた道長に近い立場であるという風評により、中宮の女房達から嫌われて、一時期宮仕えを中断したことがありました。そして同年十二月、定子は第一皇女を出産します。
 後盾となる父と兄弟と家を失った定子は、朝廷内に居場所がなくなりました。しかし長徳三年(997)、一条天皇は周囲の反対を押し切って再び定子を宮中に迎え、長保元年(999)に定子は一条天皇の第一皇子を出産します。これに危機感を覚えたのが道隆の弟の道長でした。何と同日に道長は娘の彰子を女御(にようご)とし、翌年二月にはさらに彰子を中宮としたので、定子は横滑りして皇后ということになったのです。「中宮」は本来は皇后の宮殿のことですから、この場合は両者は事実上同格となります。しかし同年十二月十五日、定子は第二皇女出産し、翌日には二四歳の若さで亡くなってしまったのです。清少納言が宮仕えを辞去したのは、その翌年のことでした。
 ここに載せたのは一三六段(新日本文学大系)で、江戸時代によく読まれた能因本では一四六段です。清少納言は一時期、前記のような理由で出仕を中断し、里居(さとい)をしていたのですが、定子にとってはそれが寂しくてなりません。それで再出仕を促すために、その心を伝えようと、「心には(地下水のように)下ゆく水のわきかへり言はで思ふぞ言ふにまされる」(『古今和歌六帖』)というよく知られた歌の一句を、微細な文字で認(したた)めた山吹の花びらを包んでよこしたのです。「口にこそ出しませんが、あなたを思う心は口に出すよりまさっているのです」という、定子の優しく機知にあふれた愛情を、清少納言は一瞬にして悟り、思わず涙があふれたという場面です。
 山吹には隠された意味がありました。いわゆる山吹色は梔子(くちなし)の実で染められる色で、梔子はその音から「口無し」と理解されていました。つまり「言葉には出して言わない」ことを色で表しているのです。『古今和歌集』(1012番歌)には、梔子を返事のない恋人と理解する歌があり、当時の和歌を詠む程の人になら、誰もが知っていることでした。それでも咄嗟に梔子色の山吹の花を思い付いた定子の機知と、それを即座に理解する清少納言だからこそ成り立つことなのです。なおなおここには載せていない部分の記述から、季節は秋ではないかとの指摘があるのですが、山吹は季節外れの狂い咲きが大層多い花で、決してあり得ないことではありません。
 「まづ知るさま」は、『古今和歌集』(941番歌)の「世の中に憂きもつらきも告げなくにまず知るものは涙なりけり」という歌によるもので、「涙を流して泣く」ことを表しています。このように『枕草子』の魅力の一つは、定子と清少納言の愛情と信頼に結ばれた主従関係と、そこに、綺羅(きら)、星の如く散りばめられた機知なのです。



昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『枕草子』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。




『万葉集』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面  

2020-05-10 13:11:38 | 私の授業
万葉集


原文
東野炎立所見而反見為者月西渡

現代語訳
 東の方を望むと、野原には「炎」が立っていて、振り返って西の方を望むと、月がまさに沈もうとしている

解説
 『万葉集(まんようしゆう)』は、現存最古の和歌集で、年代の明らかな最も新しい歌は、天平宝字三年(759)正月に詠まれた巻末の大伴(おおともの)家持(やかもち)の歌ですから、それ以後の成立です。天皇や貴族から下級官人、防人・東国の庶民など様々な身分の人の歌が、四千五百三十余首も収められていますから、その編纂には多くの人が関わったはずです。中でも大伴家持が主体的に関わったとされていますが、末尾が大伴家持の歌であることは、それを物語っています。特に防人の歌が注目されますが、ヤマト政権以来の武門の名族ある大伴氏の家持は、兵部省の高級官僚であったことがあり、直に防人に接することができましたから、防人情報を得やすい立場であったことによっているのでしょう。
 万葉仮名で記されていることは、もう説明の必要もないでしょう。一字一音が基本で、例えば、以(い)、呂(ろ)、波(は)は漢字の音で、蚊(か)、女(め)、毛(け)、は訓で読んでいます。覧(らむ)、鴨(かも)のように一字で二音を表すこともあます。嗚呼(あ)、五十(い)のように、二字で一音を表すこともありますが、その名残で、現在でも「五十嵐」と書いて「いがらし」と読みます。
 万葉仮名で書き取られた歌は、詠んだ本人や書き取った官僚は読めたでしょうが、時間が経つにつれて、次第に読めなくなりました。平仮名や片仮名が普及して、万葉仮名が使われなくなるのですから無理もありません。そこで村上天皇の天暦年間(947~957)に、『後撰和歌集』の撰者でもあった源順(みなもとのしたごう)ら五人の歌人(「梨壺(なしつぼ)の五人」)が、『万葉集』の歌約四千首に読み仮名をふりました。その後幾人かの歌人が、何代にもわたり読み仮名を付け、鎌倉時代の中頃、天台僧仙覚(せんがく)は本格的な註釈本として、『萬葉集註釈』という書物を著しました。彼はそれまでに断片的に伝えられていた『万葉集』の古写本を回収校合して定本を作り、読み仮名を付けたのです。これは江戸時代の国学者である契沖(けいちゆう)や賀茂真淵から現代に至るまで、万葉集研究の最も基礎となるテキストとなっています。つまりもし仙覚の業績がなかったら、私達は、『万葉集』の全容を知ることはできないのです。
 ここに載せたのは柿本人麻呂の歌で、『万葉集』の解読がいかに難しいかをよく理解できる歌です。三一音節の短歌をたった十四字で表記していますから、一字を数音節で読んだり、音を補いながら読まなければなりません。一般には「ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」と読まれていますが、これはあくまでも江戸時代の国学者である賀茂真淵の説に過ぎません。仙覚は、「あづまのゝけぶりの立てるところ見てかへりみすれば月かたぶきぬ」と読んでいて、かなり異なっています。
 原文では東と西が対であると考えれば、「あづまの」(東野)ではなく、「ひむがしのの」(東の野)と読めます。また仙覚は「炎」を「けぶり」と読み、「煙」と理解しています。一方真淵は「かぎろひ」と読み、「陽炎(かげろう)」と理解していて、『万葉集』で他に詠まれている「かぎろい」も、みな「陽炎」の意味です。しかし冬の未明には、絶対に陽炎は見えません。そのため古語辞典では、「かぎろひ」を「日の出前の東の空が赤く染まっている様子、曙光のことと」と苦しい説明をしていますが、これは真淵説を根拠にしていますから、断定できません。
 そこで「炎」が「けぶり」と「かぎろい」のどちらであるかを、「炎」が導く動詞により検証してみました。すると、動詞を導く「かぎろひ」が詠まれた歌は、私の数え漏れの可能性もありますが、四首あり、みな「燃ゆ」を導いています。一方「煙」を詠む四首は、みな「立つ」を導いています。すると「炎」は「煙」と理解するのが自然であると考えました。しかし「炎」を「かぎろい」と読みたくなる歌もありました。(「炎(かぎろい)乃(の)春(はる)尓(に)之(し)有(あれ)者(ば)」(1047番)。また月が西に行くことを、「渡る」とも「傾く」とも表現する歌がありますが、「渡る」の方が用例は多く、素直に「月西に渡る」と読みたくなります。また仮に「傾く」と読むとしても、「かたぶきぬ」とも、無理すれば「かたぶきけり」とも読めます。
 以上の結果、とり敢えず「ひむがしの野にけぶり立つ所見てかへり見すれば月西に渡る」と読んでみましたが、これも私の仮説に過ぎません。いずれにせよ、『万葉集』の訓読の難しさと、定説でも、疑問をもって考えることが大切であるということを理解できればよいと思います。










原文
東野炎立所見而反見為者月西渡

現代語訳
 東の方を望むと、野原には「炎」が立っているのが見えるが、振り返って西の方を望むと、月がまさに沈もうとしている

解説
 『万葉集(まんようしゆう)』は、現存最古の和歌集で、成立年代には諸説があります。年代の明らかな最も新しい歌は、巻末の大伴家持の歌で、天平宝字三年(759)正月に詠まれていますから、少なくともそれ以後の成立です。天皇や貴族から下級官人、防人・庶民など様々な身分の人の歌が、四千五百三十余首も収められていますから、その編纂には多くの人が関わったはずです。中でも大伴家持が主体的に関わったとされていますが、末尾が大伴家持の歌であることは、それを物語っています。特に防人の歌が注目されますが、武門の名門である大伴氏の家持は、兵部省の高級官僚であったため、防人の情報を得やすい立場であったことと無縁ではないでしょう。
 万葉仮名で記されていることは、もう説明の必要もないでしょう。一字一音が基本で、例えば、以(い)、呂(ろ)、波(は)は漢字の音で、楽(ら)、女(め)、毛(け)、は訓で読んでいます。覧(らむ)、鴨(かも)のように一字で二音を表すこともあます。嗚呼(あ)、五十(い)のように、二字で一音を表すこともあり、現在でも「五十嵐」と書いて「いがらし」と読みます。
 万葉仮名は、詠んだ本人や書き取った官僚は読めたでしょうが、時間が経つにつれて、次第に読めなくなりました。平仮名や片仮名が発明され、万葉仮名が使われなくなるのですから無理もありません。そこで村上天皇の天暦年間(947~957)に、『後撰和歌集』の撰者でもあった源順(みなもとのしたごう)ら五人の歌人が、『万葉集』の歌約四千首に読み仮名をふりました。その後幾人かの歌人が、何代にもわたり読み仮名を付け、鎌倉時代の中頃、天台僧仙覚(せんがく)は本格的な註釈本として、『萬葉集註釈』という膨大な本を完成させました。彼はそれまでに断片的に伝えられていた『万葉集』の古写本を回収校合して定本を作り、読み仮名を付けました。これは江戸時代の国学者である契沖や賀茂真淵から現代に至るまで、万葉集研究の最も基礎となるテキストとなっています。つまりもし仙覚の業績がなかったら、私たちは、『万葉集』の全容を知ることはできないのです。
 ここに載せたのは柿本人麻呂の歌で、『万葉集』の解読がいかに難しいかをよく理解できる歌です。三一音節の短歌を十四字で表記していますから、一字を数音節で読んだり、音を補いながら読まなければなりません。一般には「ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」と読まれていますが、これは江戸時代の国学者である賀茂真淵の説です。仙覚は「あづまののけぶりの立てるところ見てかへりみすれば月かたぶきぬ」と読んでいます。
 仙覚は「あづまの」と読んでいますが、東が西と対になっているとすれば、「ひがし」(ひむかし)と読んだ方がよいと思います。「炎」については、仙覚は「けぶり」と読み、「煙」と理解していますが、真淵は「かぎろひ」と読み、「陽炎(かげろう)」と理解しています。しかし月がまだ西の空に残る未明に、陽炎が見えるはずはありません。古語辞典では「かぎろひ」は、「日の出前の東の空が赤く染まっている様子、曙光のことと」と説明されています。しかしこれは、真淵説を根拠にしていますから、真淵説が崩れれば成り立ちません。
 そこで「炎」が「けぶり」と「かぎろい」のどちらであるかを明らかにするために、「炎」がどの様な動詞を導くか検証してみました。すると、「かぎろひ」が詠まれた歌は、私の数え漏れの可能性もありますが、四首あり、みな「燃ゆ」を導いています。一方「煙」を詠む四首は、みな「立つ」を導いています。すると「炎」は「煙」と理解すべきであると考えました。また月が西に行くことを、「渡る」とも「傾く」とも表現する歌がありますが、「渡る」の方が用例は多く、素直に「月西に渡る」と読みたくなります。また仮に「傾く」と読むとしても、「かたぶきぬ」とも「かたぶけり」とも読めます。
 以上の検証の結果により、取り敢えず「ひむがしの野にけぶり立つ所見てかへり見すれば月西に渡る」と読んでみました。しかし「所見て」が、歌として不自然に感じられます。もちろんこの読み方はあくまでも仮説に過ぎません。ただこと程左様に、『万葉集』の訓読が難しく、定説とされていても、常に疑問を持って検証する必要があることを理解できれば、それでよいと思います。


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『万葉集』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。



高校生に読ませたい歴史的名著の名場面  小学唱歌集  

2020-05-05 11:45:25 | 私の授業
コロナ騒ぎで私の勤務校も休校となり、非常勤講師の私は授業がありません。それでプリント作りをしているのですが、どこにも出かけられず、かといってテレビを見るような暇つぶしは性に合いません。それでいずれ授業で配ろうと思い、「高校生に読ませたい歴史的名著の名場面」と題したプリントを書こうと思いました。本当ならば全文を読ませたいのですが、まだ古文漢文に不慣れな高校生にはとてもできません。それで面白そうな場面だけを引用しているわけです。

 あくまでも高校の日本史の授業の補足として書いているので、一般の人から見たら不十分なことはあるでしょうが、古典文学の専門家ではありませんのでお許し下さい。誤植・誤読・誤写・誤解があるかもしれませんが、見直す元気はあまりありません。それもお許しを

今回は一風変わって、日本最初の音楽の教科書を選びました。ここに取り上げた「庭の千草」と言う歌は、現在も多くの人に歌われる名曲ですが、なぜかその本当の意味はもう忘れられています。詳しくは「うたことば歳時記 庭の千草の秘密」と検索して下さい。

小学唱歌集
原文
    菊

一 庭の千草も。むしのねも。
  かれてさびしく。なりにけり。
  あゝしらぎく。嗚呼白菊。
  ひとりおくれて。さきにけり。

二 露にたわむや。菊の花。
  しもにおごるや。きくの花。
  あゝあはれ 〳〵。あゝ白菊。
  人のみさをも。かくてこそ。

現代訳
    菊

一  咲き乱れていた多くの草花もかれ、 虫の声も聞かれなくなり、
   誰もいなくなってしまった寂しい庭に、
   ああ白菊よ、 白菊の花よ、
   お前もただひとりのこされて、 咲いているのか、

二  なみだの露にはうな垂れる、菊の花
   しかし辛い霜には、 負けることなくけなげにも咲く菊の花
   ああ、何といじらしいことよ、ああ白菊の花よ 
   人のこころも、このようにありたいものだ

解説
 『小学唱歌集』は日本最初の音楽の教科書で、初編は奥付では明治14年(実際には15年)、第二編は明治16年、第三編は明治17年に発行されました。編集したのは明治12年に設けられた音楽取調掛で、中心となったのは掛長の伊沢修二でした。彼は明治8年にアメリカに留学して音楽教育を学び、明治11年に帰国します。そしてアメリカで師事したメーソンを日本に招聘し、『小学唱歌集』を編纂したのです。
 編集の基本方針は、「東西二洋音楽ヲ折衷シテ新曲ヲ作ル事」でした。もちろん日本にも伝統音楽はあります。しかし雅楽と俗謡の二極に別れていて、どちらにせよ学校教育にはふさわしくありません。そこでメーソンの助言もあり、西洋の楽曲に日本の歌詞を付けて、新しい和洋折衷の唱歌をたくさん作ったのです。そのため原曲の中にはキリスト教の賛美歌曲や欧米の民謡がたくさん採り入れられています。全91曲ある中で、現在でもよく知られている「蛍」(蛍の光)はスコットランド民謡、「見わたせば」(「むすんでひらいて」の曲)はアメリカの賛美歌、「蝶々」はドイツの曲、「あふげば尊し」はアメリカの卒業の歌、「菊」(「庭の千草」)はアイルランドの曲から採られています。
 ここに引用したのは「名場面」というよりは「名曲」と言うべきでしょうか。「菊」は第三編に収められていて、現在は「庭の千草」という題でよく知られています。
 一般には冬枯れの庭に咲き残った白菊を歌ったものと理解されていますが、実は伴侶に先立たれた人を励ます歌でもあるのです。歌詞は、孤独な晩年を「夏の最後の薔薇」になぞらえたアイルランドの『The Last Rose of Summer 』という歌を、里見義が日本語に翻案したものです。
 1番の歌詞の「かれて」とは表面上は「枯れて」なのですが、「遠ざかる」ことを意味する「離(か)れて」を掛けています。また「おくれて」は表面上は「遅れて」なのですが、「誰かが先に死んで取り残される」ことを意味する「後れて」を掛けています。ですから全体の意味は、共に咲き集った花や虫、つまり愛する者や友が一人去り、二人欠け、ついには独りぼっちになってしまったことを表しています。
 2番の歌詞の「露」は涙の比喩、「霜」は艱難の比喩です。この場合の「おごる」は驕り高ぶることではなく、強いものにも負けずに毅然としていることを意味していて、漢字では「傲る」と書きます。霜にも負けずに咲いている菊は、古来中国でも日本でも好んで詩歌に詠まれるテーマでした。ですから2番は、取り残された寂しさに涙がこぼれますが、人生の冬の厳しさには毅然と立ち向かって健気に生きる姿を表しています。そして亡くなった愛する人への一途な心も、この白菊のようでありたいものだと結んでいるのです。
 小学生にはそこまで深読みさせるのは無理なことです。表面の意味である冬枯れの庭の風情でさえも、小学生には難しいかもしれませんが、いずれ相応しい年齢になればわかることでしょう。裏に隠された意味については、現代の成人にもほとんど知られていません。こちらはそのような年齢と立場に置かれれば、あらためてしみじみと歌えることでしょう。

テキスト
○「国会図書館デジタルコレクション『小学唱歌集』第三編」を検索、34コマ目