うたことば歳時記

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八月中旬(お盆)にはなぜ帰省するの

2023-08-11 13:52:29 | 年中行事・節気・暦
毎年8月中旬には、日本中で帰省ラッシュとなります。また休暇を利用して国内外に旅行に行くことが多いものです。それにしても日本ではなぜこの時期にこのように人の移動が集中するのでしょう。お盆には先祖の供養が行われる風習があり、故郷を離れている人が、祖先の墓のある故郷に帰るからということもあるでしょう。しかしそれだけではありませんでした。

 お盆は旧暦の7月15日を中心として、その前後3~4日間に行われていました。しかし明治6年に太陽暦が採用されると、太陰暦(旧暦)が太陽暦(新暦)よりほぼ1カ月遅れるため、お盆が月遅れの8月15日に行われることが多くなりました。しかもたまたまこの日は終戦記念日に当たるため、戦没者慰霊を兼ねて、8月15日に先祖を供養することが普通になっているのです。

 ところで江戸時代までは、お盆の次の日である旧暦7月16日と、小正月の1月15日の翌日である1月16日は、故郷を離れている商店などの奉公人の休日とされていました。これは藪入りと呼ばれるのですが、その意味について、ネットにはもっともらしい説明が見られます。しかしいずれも文献史料の裏付けはなく、実際の所はよくわかっていません。この日には奉公人は新しい服と小遣いを主人から与えられ、故郷に帰ったり、盛り場に遊びに行くなどして、楽しく過ごすという習慣がありました。ですから大層嬉しいことがあると、「正月とお盆が一緒に来たような・・・・」という表現を今でもすることかがあります。

 そういうわけで、明治時代になっても正月とお盆が年に2回の休暇となる風習が続けられ、商家だけでなく、一般の企業やお役所も、一斉に休暇となる制度となって普及したわけです。

ツクツクホウシの鳴き声

2023-08-06 18:15:13 | うたことば歳時記
かなり前にツクツクホウシについて投稿したことがあったのですが、多少史料を追加したので、再度投稿します。

 8月も中旬になると、ツクツクホウシの鳴き声をよく聞くようになります。我が家の周辺では、蝉の仲間では鳴き始める時期が最も遅く、この蝉の声を聞くと「秋」の到来を実感させられるのです。

 ところでこの蝉の鳴き声を文字に表すとどうなるのでしょうか。注意して聞いていると、まず「ジー」と1回鳴いてから、「ツクツクホーシ ツクツクホウシ ツクツクホウシ」と十数回繰り返します。そして「オイヨース、オイヨース」と数回鳴き、また最後は「ジー」と鳴いて終わります。まるで起承転結でもあるかのように、その鳴き方は4部に分かれているのです。鳴き始めてから鳴き終わるまでの時間はそれほど長くはないので、子供の頃に鳴き声を頼りに探しても、探しているうちに鳴き止んでしまい、他の蝉より警戒心が強いこともあって、なかなか捕らえられませんでした。その頃は私はこの蝉を「オーシン」と呼んでいました。

 この蝉の鳴き声について、一つ疑問がありました。どうでもよいことなのですが、「ツクツクホウシ」か「クツクツホウシ」なのかということです。高齢者に聞いてみると、この二通りの聞き方があるからです。本当にどうでもよいことですね。私は平安時代の国語辞書である『倭名類聚鈔』という書物を好きでよく眺めているのですが、それには「蛁蟟 陶隱居本草注云 凋遼二音字亦虭蟧。久都々々保宇之。八月鳴者是」と記されていました。つまり「クツクツホウシ」と聞いているわけです。

 『蜻蛉日記』には、「さながら八月になりぬ。ついたちの日、・・・・くつくつぼうしいとかしがましきまでなくを聞くにも、我だにものはといはる」と記されていているのですが、「つくつくほうし」と記されていることもあり、あまり厳密に表記しているわけではなさそうです。

 鎌倉時代の字書である『字鏡抄』や室町時代の『温故知新書』には、「クツクツホウシ」と「ツクツクホウシ」の両方が記されているそうです。あいにく簡単には閲覧できない貴重な書物のため、私自身は直接見て確認してはいないのですが、そのことに触れている論文の論証の緻密さからすれば、間違いのない情報と思われます。

 江戸時代の新井白石が表した博物事典である『東雅』の卷20には、『倭名類聚鈔』を引用して「蛁蟟クツクツボウシ。八月鳴者也。・・・・クツクツボウシとは。今俗にツクツクボウシといふも。其鳴聲をかたとりていふなり。」と記されています。余談ですが、新井白石の博学には、本当に心底から驚かされます。正徳年間の幕政に関与する政治的手腕と見識を持つだけでなく、キリスト教の宣教師を尋問して得た知識をもとにしながら、キリスト教や世界地理の書物を著したり、有力武家の祖先を調べ上げたり、古事記や日本書紀について論評したり、歴史学に時代区分というそれまでにはなかった考え方を導入したり、そして本業である朱子学についても他の追随を許しません。日本史上の3人の博学な人物を上げるとすれば、私は迷うことなく新井白石を上げるでしょう。

 江戸時代の百科事典的随筆である『嬉遊笑覽』(十二禽蟲)には、「重ねていふ聲は、くつ〳〵も、つより言へばつく〳〵となる。つく〳〵ほうしも、ほうしより聞なすときは、ほうしつく〳〵となれり」と記されていて、その聞きなしは、ツクツクホウシ・クツクツホウシ・ホウシツクツクと、様々に聞いています。要するにそれ程こだわるわけではなさそうです。

 閑話休題、現在ではツクツクボウシと呼ぶことが一般的ですが、生き物の名前やその鳴き声には地方によって様々ですから、調べもしないで断定することはできません。要するにどう聞いたかであって、クツクツでもツクツクでも、両方平行して行われていたのでしょう。ただ次第にツクツクの方が優勢になったようです。

 さてツクツクホウシにしてもクツクツホウシにしても、鳴き声を仮名で書き取っただけで、それ自体に意味を持たせているわけではありません。「ホウシ」は「法師」であるでしょうが、「クツクツ」「ツクツク」に意味があったのかどうかは、私にはわかりません。ただツクツクホウシを詠んだ古歌の中には、その鳴き声を意味のある言葉に置き換えて理解する聞き成しが含まれているものがあります。

①蝉の羽のうすきこころといふなればうつくしやとぞまづはなかるる (元良親王集 11)
②我が宿の妻は寝よくや思ふらんうつくしよしといふ虫ぞなくなる (大弐高遠集 118)
③女郎花なまめき立てる姿をやうつくしよし蝉のなくらん (散木奇歌集 342)
①~③に共通しているのは、「うつくし」という言葉です。古語の「うつくし」は現在の「美しい」と少々ニュアンスが異なり、「可愛らしい」とか「愛らしい」といった意味です。①は、蝉の羽が透明であることを、蝉が自分で「うつくし」と言って鳴いているという意味でしょうか。②には、「屋の端つまに、つくつくぼふしの鳴くを聞きて」という詞書きが添えられています。自宅の屋根の端(妻)の部分、つまり軒端に蝉がとまって鳴いていたのでしょう。端が妻をかけています。我が家の妻は共寝に良いと思うのだろうか、「うつくし」と言って虫が鳴いているよ、という意味です。自分の妻の可愛らしいことをのろけているわけです。③には「人人まうできて歌詠みけるに蝉を詠める」という詞書きが添えられています。女郎花が美しく咲いているのを、可愛らしくてよいことだと蝉が鳴いている、というのです。女郎花はその名の如く、美しい女性に見立てて詠むのが常套でした。それに蝉が「うつくし」と鳴くことを結び付けたわけで、まあ戯れに詠んだ歌なのでしょう。①から③にはどこにもツクツクホウシであるとは詠まれていませんが、鳴き方からしてツクツクホウシ以外には思い当たりません。平安から鎌倉期にかけて、ツクツクホウシは「うつくし」とか「うつくしよし」と聞き成されていたことがわかります。

 また1775年に編纂された方言を集めた『物類称呼』の巻二には、「蛁蟟、つくつくばうし・・・・近江にてつくしこひしと云」と記されています。「つくしこひし」は「土筆恋し」ともとれるのですが、どうも「筑紫恋し」らしいのです。江戸時代の1787~1788年に俳人横井也有(やゆう)が著した俳文集『鶉衣』(うずらごろも)の「百虫譜」には、「つくつくはうしといふせみは、つくし恋しともいふ也。筑紫の人の旅に死して此物になりたりと、世の諺にいへりけり。こえは蜀魄の雲に叫ふにもおとるへからす。」と記されています。筑紫出身の人が旅先で、故郷が恋しいといって亡くなった。そしてその人の魂は蝉になり、「筑紫が恋しい」と言って鳴いている。その声は時鳥が空に鳴く声にも負けないほどである、というのです。ここには何か言い伝えがありそうですが、今となってはわかりません。その伝承は近江国に伝えられたのでしょう。

 1709年に本草学者貝原益軒が著した博物学書である『大和本草』巻14には、「蛁蟟 クツクツホウシ ・・・・ツクシヨシトナクト云うモノ也」と記されていますから、「ツクツク」を「筑紫」と聞き成すことは、江戸時代の初めからあったと見てよいと思われます。

 こうしてツクツクホウシの鳴き声について歴史的文献で遊んでみると、いろいろ面白いことがわかってきました。「うつくしよし」と聞くのは現代人には少々無理としても、北九州出身の人が故郷を離れて聞き、故郷を懐かしく思い起こすことはあってもよいのかなと思います。北九州出身の人が身近にいたら、是非拡散してください。