蹇蹇録
原文
就中(なかんずく)、露国政府は、既(すで)に此(この)方面の諸港に碇泊(ていはく)する同国艦隊に対して、二十四時間に何時(いつ)にても出帆し得べき準備を為(な)し置くべき旨(むね)、内命を下せりとの一事は、頗(すこぶ)る其(その)実(じつ)あるが如し。左(さ)れば此際(このさい)我政府の措置如何(いかん)は、実に国家の安危(あんき)栄辱(えいじよく)の上に重大なる関繋(かんけい)を有するを以て、固(もと)より暴虎(ぼうこ)馮河(ひようが)の軽挙を戒むべきは勿論(もちろん)なれども・・・・
第一策に就(つい)ては、当時我征清軍は全国の精鋭を悉(つく)して遼東半島に駐屯し、我強力の艦隊は悉(ことごと)く澎湖島(ほうことう)に派出し、内国海陸軍備は殆(ほとん)ど空虚なるのみならず、昨年来長日月の間、戦闘を継続したる我艦隊は固(もと)より、人員軍需(ぐんじゆ)共に既に疲労欠乏を告げたり。今日に於て三国連合の海軍に論なく、露国艦隊のみと抗戦するも、亦甚(はなは)だ覚束(おぼつか)なき次第なり。
故に今は第三国とは、到底和親を破るべからず。新に敵国を加ふるは、断じて得策に非(あら)ずと決定し、次に其第三策は意気寛大なるを示すに足(た)る如きも、余りに言ひ甲斐なき嫌(きらい)ありとし、遂に其第二策、即ち列国会議を招請して、本問題を処理すべしと、(四月二五日の広島における御前会議で)廟議粗々(あらあら)協定し、伊藤総理は即夜広島を発し、翌廿五日暁天(ぎようてん)、余を舞子に訪(と)ひ、御前会議の結論を示し、尚(な)ほ余の意見あらば之を聴かむと云へり。・・・・
然(しか)れども伊藤総理が御前会議の結論として齎(もた)らし来れる列国会議の説は、余の同意を表するに難(かた)しとしたる所たり。其理由は、今茲(ここ)に列国会議を招請せむとせば、対局者たる露独仏三国の外(ほか)、少(すくなく)とも尚(な)ほ二三大国を加へざるべからず。而して此(この)五六大国が所謂(いわゆる)列国会議に参列するを承諾するや否や。良(よ)しや、孰(いず)れもこれを承諾したりとするも、実地に其会議を開く迄には許多(あまた)の日月を要すべく、而して日清講和条約批准(ひじゆん)交換の期日は既に目前に迫り、久しく和戦未定の間に彷徨(ほうこう)するは、徒(いたずら)に事局の困難を増長すべく、又凡(およ)そ此種の問題にして、一度列国会議に附するに於ては、列国各々自己に適切なる利害を主張すべきは必至の勢(いきおい)にして、会議の問題果して遼東半島の一事に限り得べきや。或は其議論、枝葉より枝葉を傍生(ぼうしよう)し、各国互に種々の注文を持ち出し、遂(つい)に下之関(しものせき)条約の全体を破滅するに至るの恐なき能(あた)はず。是れ、我より好むで更に欧州大国の新干渉を導くに同じき非計なるべしと云ひたるに、伊藤総理、松方・野村両大臣も亦、余の説を然りと首肯(しゆこう)したり。・・・・
之を約言すれば、三国に対しては遂に全然譲歩せざるを得ざるに至るも、清国に対しては、一歩も譲らざるべしと決心し、一直線に其方針を追ふて進行すること、目下の急務なるべしとの結論に帰着し、野村内務大臣は即夜舞子を発し、広島に赴き、右決意の趣を聖聴に達し、尋(つい)で裁可を得たり。
現代語訳
とりわけロシア政府が、この極東方面の多くの港に碇泊している同国艦隊に対して、(出撃命令が出されれば)二四時間以内にいつでも出航できるように準備をせよと、密かに命令を下しているということは、確かに事実のようである。そうであるからこの際、我が日本政府の対応次第では、国家の安寧と危機、栄光と屈辱に重大な影響があるので、もとより無謀な軽挙は、これを戒めなければならないのはもちろんであるが・・・・。
(四月二四日の広島の御前会議で議論された)第一案についてであるが、当時、日本の清国遠征軍は、全国の精鋭を悉(ことごと)く遼東半島に駐屯させ、我が国の強力な艦隊は、悉く(台湾の近くの)澎湖(ほうこ)諸島辺りに派遣されていて、国内の陸海の軍備はほとんど空の状態であるばかりでなく、昨年来の長期間戦い続けてきた我が艦隊だけでなく、人員も軍需物資も共に疲労欠乏している。今日においては、露・仏・独三国連合海軍は言うまでもなく、ロシア艦隊だけでも、抗戦して勝てる見込みはないというわけである。
それゆえ現在は、(清国以外の)第三国との友好関係を害(そこ)なってはならない。新たに敵国を増やすことは、決して得策ではないと決定し、次に第三案(勧告受諾案)は、日本の寛大さ表すには十分ではあるが、余りに不甲斐ないと非難される恐れがあるので、遂に第二案、つまり列国会議を招請し、この問題を解決すべきであると、御前会議で大まかに決定し、伊藤総理はその夜のうちにすぐに広島を出発。翌二五日未明、舞子にいる私を訪ねて来られ、御前会議の結論を示し、なお私の意見があるなら聴こう言われた。・・・・
しかし伊藤総理が御前会議の結論としてもたらした列国会議招請案には、私はとうてい同意できないところである。その理由は、今ここで列国会議を開催しようとするなら、当事国であるロシア・ドイツ・フランス三国のほか、少なくともさらに二三の大国を加えないわけにはいかない。そうだとして、はたしてその五六カ国の大国が、いわゆる「列国会議」に参加することを承諾するだろうか。たとえいずれも承諾したとしても、実際に会議を開催するまでにはさらに長い時間が必要であろうし、日清講和条約批准書を交換する期限はもう目前に迫っていて、いつまでも講和とも戦争継続とも定まらずに迷う状態が続けば、情勢はますます厳しさを増すであろう。またおよそこのような外交問題については、一旦列国会議で議論すると、列国は必ずそれぞれ自国に都合のよい利益を主張するのは必至であるから、会議の議題が果たして遼東半島問題だけに限ることができるであろうか。あるいは枝葉末節な問題からさらに別な問題が派生し、各国がそれについていろいろな注文を付け、ついには(せっかく調印した)下関講和条約そのものが、台無しになってしまう恐れがある。このようなことは、わざわざ好き好んでヨーロッパの大国の新たな干渉を招くのと同じことで、得策ではないと言ったところ、伊藤総理も、松方正義蔵相・野村靖内相の両大臣も、私の主張をもっともであると納得してくれた。・・・・
これを要約すれば、三国に対しては遂に全て譲歩せざるを得ないことになっても、清国に対しては一歩も譲歩しないと決心し、ひたすらにその方針で進めることが、目下の急務であるとの結論に達し、野村内相はその(二五日の)夜のうちに舞子を発(た)って(大本営のある)広島に赴き、決意の趣旨を奏上し、次いで天皇の裁可を得たことであった。
解説
『蹇蹇録(けんけんろく)』は、第二次伊藤内閣の外務大臣であった陸奥宗光(むつむねみつ)(1844~1897)が、日清戦争終了後の明治二八年(1895)に執筆した、回想録的外交記録です。宗光は巻末にその叙述目的について、「去年、朝鮮の内乱以来、延(のべ)て征清の役に及び、竟(つい)に三国干渉の事あるに至るの間、紛糾複雑を極めたる外交の顛末(てんまつ)を概叙し、以て他年遺忘に備へむと欲するのみ」と記しています。彼は下関講和会議の時は既に肺を患って体調は最悪であり、三国干渉後は大磯で静養していたのですが、当事者として記録を残すことを人生最後の責務と思い、三カ月に満たない短期間で執筆し、大晦日に脱稿しています。書名の「蹇蹇(けんけん)」とは、「心身を労し全力を尽くして、君主に忠実に仕える」という意味です。
下関講和条約が調印されたのは、明治二八年(1895)四月十七日のこと。日本全権は首相の伊藤博文と外相の陸奥宗光です。そして四月二十日には広島にあった大本営において、明治天皇の裁可を得ました。ところが四月二三日、東京駐在のロシア・ドイツ・フランスの三国の公使が外務省を訪れ、舞子(現神戸市)で病気療養中の陸奥宗光外相に代わり、林董(はやしただす)外務次官に対し、遼東還付を勧告する覚書を手渡します。
その頃ロシアの極東艦隊は、命令さえ下れば翌日には出撃し、ただちに日本沿岸を砲撃できる臨戦態勢にありました。そのような状況下、翌四月二四日、広島で御前会議が開かれ、①勧告拒絶、②列国会議招請、③勧告受諾の三案が検討されたのですが、最終的には列国会議案を方針とすることが承認されました。①案を採用すれば、ロシア極東艦隊は直ちに日本に攻撃を加えてくる可能性が高く、艦船がほぼ出払っている日本には勝ち目がありません。かといって③案では世論が納得しません。伊藤首相が消去法により、②案の他に選択肢はないと考えたのも無理はありません。
そしてその決定は翌二五日未明、伊藤首相によって舞子で療養中の陸奥宗光にもたらされました。夜行列車で取るものも取りあえず、駆けつけたのでしょう。御前会議の仮決定を聞き、宗光は清国が三国干渉の混乱を口実に条約批准を拒否し、条約自体が消滅しまう危険を強調し、②案には猛烈に反対します。陸奥宗光も①案は絶対避けなければならないことは理解していましたから、残されたのは③案だけでした。イギリスにしてみれば、三国と対立してでも、日本に肩入れする利益はありませんから、当然のことです。日本が最もあてにしていたイギリスが後ろ盾になってくれなければ、仮に列国会議を開催できたとしても、進展がないことは明白です。案の定、四月二九日には、イギリス外相は駐英日本公使に対して、局外不干渉方針を伝えてきましたから、もう選択の余地はありませんでした。
結局、日本政府は五月四日に京都で閣議を開き、正式に遼東半島の放棄を決定します。そして天皇は既に二七日には広島から京に遷っていましたから、伊藤首相が直ちに参内(さんだい)して明治天皇の裁可を受け、翌五日には三国の駐日本公使に通告します。そして五月八日、批准書が交換されました。そして『蹇蹇録』には、翌九日に「三国政府が我政府の回答に対し、満足する旨を宣言」したと記されています。
伊藤首相が京都にいた時、対外強硬策を主張する者達が三国干渉に憤慨して、談判に押しかけたことがありました。伊藤首相が、「今は諸君の名案卓説を聞くよりはむしろ、軍艦大砲を相手として熟議せざるべからず」と答えると、誰一人として抗弁できなかったと、『蹇蹇録』に記されています。「戦争に於る勝利は、外交に於て失敗せり」と非難するのは簡単ですが、陸奥宗光は予想されるそのような非難に対して、「畢竟(つまるところ)我に在てはその進むべき地に進み、その止まらざるを得ざる所に止まりたるものなり。余は何人(なんぴと)を以てこの局に当らしむるも、また決して他策なかりしを信ぜむと欲す」と、結論のように巻末に記しています。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『蹇蹇録』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。
原文
就中(なかんずく)、露国政府は、既(すで)に此(この)方面の諸港に碇泊(ていはく)する同国艦隊に対して、二十四時間に何時(いつ)にても出帆し得べき準備を為(な)し置くべき旨(むね)、内命を下せりとの一事は、頗(すこぶ)る其(その)実(じつ)あるが如し。左(さ)れば此際(このさい)我政府の措置如何(いかん)は、実に国家の安危(あんき)栄辱(えいじよく)の上に重大なる関繋(かんけい)を有するを以て、固(もと)より暴虎(ぼうこ)馮河(ひようが)の軽挙を戒むべきは勿論(もちろん)なれども・・・・
第一策に就(つい)ては、当時我征清軍は全国の精鋭を悉(つく)して遼東半島に駐屯し、我強力の艦隊は悉(ことごと)く澎湖島(ほうことう)に派出し、内国海陸軍備は殆(ほとん)ど空虚なるのみならず、昨年来長日月の間、戦闘を継続したる我艦隊は固(もと)より、人員軍需(ぐんじゆ)共に既に疲労欠乏を告げたり。今日に於て三国連合の海軍に論なく、露国艦隊のみと抗戦するも、亦甚(はなは)だ覚束(おぼつか)なき次第なり。
故に今は第三国とは、到底和親を破るべからず。新に敵国を加ふるは、断じて得策に非(あら)ずと決定し、次に其第三策は意気寛大なるを示すに足(た)る如きも、余りに言ひ甲斐なき嫌(きらい)ありとし、遂に其第二策、即ち列国会議を招請して、本問題を処理すべしと、(四月二五日の広島における御前会議で)廟議粗々(あらあら)協定し、伊藤総理は即夜広島を発し、翌廿五日暁天(ぎようてん)、余を舞子に訪(と)ひ、御前会議の結論を示し、尚(な)ほ余の意見あらば之を聴かむと云へり。・・・・
然(しか)れども伊藤総理が御前会議の結論として齎(もた)らし来れる列国会議の説は、余の同意を表するに難(かた)しとしたる所たり。其理由は、今茲(ここ)に列国会議を招請せむとせば、対局者たる露独仏三国の外(ほか)、少(すくなく)とも尚(な)ほ二三大国を加へざるべからず。而して此(この)五六大国が所謂(いわゆる)列国会議に参列するを承諾するや否や。良(よ)しや、孰(いず)れもこれを承諾したりとするも、実地に其会議を開く迄には許多(あまた)の日月を要すべく、而して日清講和条約批准(ひじゆん)交換の期日は既に目前に迫り、久しく和戦未定の間に彷徨(ほうこう)するは、徒(いたずら)に事局の困難を増長すべく、又凡(およ)そ此種の問題にして、一度列国会議に附するに於ては、列国各々自己に適切なる利害を主張すべきは必至の勢(いきおい)にして、会議の問題果して遼東半島の一事に限り得べきや。或は其議論、枝葉より枝葉を傍生(ぼうしよう)し、各国互に種々の注文を持ち出し、遂(つい)に下之関(しものせき)条約の全体を破滅するに至るの恐なき能(あた)はず。是れ、我より好むで更に欧州大国の新干渉を導くに同じき非計なるべしと云ひたるに、伊藤総理、松方・野村両大臣も亦、余の説を然りと首肯(しゆこう)したり。・・・・
之を約言すれば、三国に対しては遂に全然譲歩せざるを得ざるに至るも、清国に対しては、一歩も譲らざるべしと決心し、一直線に其方針を追ふて進行すること、目下の急務なるべしとの結論に帰着し、野村内務大臣は即夜舞子を発し、広島に赴き、右決意の趣を聖聴に達し、尋(つい)で裁可を得たり。
現代語訳
とりわけロシア政府が、この極東方面の多くの港に碇泊している同国艦隊に対して、(出撃命令が出されれば)二四時間以内にいつでも出航できるように準備をせよと、密かに命令を下しているということは、確かに事実のようである。そうであるからこの際、我が日本政府の対応次第では、国家の安寧と危機、栄光と屈辱に重大な影響があるので、もとより無謀な軽挙は、これを戒めなければならないのはもちろんであるが・・・・。
(四月二四日の広島の御前会議で議論された)第一案についてであるが、当時、日本の清国遠征軍は、全国の精鋭を悉(ことごと)く遼東半島に駐屯させ、我が国の強力な艦隊は、悉く(台湾の近くの)澎湖(ほうこ)諸島辺りに派遣されていて、国内の陸海の軍備はほとんど空の状態であるばかりでなく、昨年来の長期間戦い続けてきた我が艦隊だけでなく、人員も軍需物資も共に疲労欠乏している。今日においては、露・仏・独三国連合海軍は言うまでもなく、ロシア艦隊だけでも、抗戦して勝てる見込みはないというわけである。
それゆえ現在は、(清国以外の)第三国との友好関係を害(そこ)なってはならない。新たに敵国を増やすことは、決して得策ではないと決定し、次に第三案(勧告受諾案)は、日本の寛大さ表すには十分ではあるが、余りに不甲斐ないと非難される恐れがあるので、遂に第二案、つまり列国会議を招請し、この問題を解決すべきであると、御前会議で大まかに決定し、伊藤総理はその夜のうちにすぐに広島を出発。翌二五日未明、舞子にいる私を訪ねて来られ、御前会議の結論を示し、なお私の意見があるなら聴こう言われた。・・・・
しかし伊藤総理が御前会議の結論としてもたらした列国会議招請案には、私はとうてい同意できないところである。その理由は、今ここで列国会議を開催しようとするなら、当事国であるロシア・ドイツ・フランス三国のほか、少なくともさらに二三の大国を加えないわけにはいかない。そうだとして、はたしてその五六カ国の大国が、いわゆる「列国会議」に参加することを承諾するだろうか。たとえいずれも承諾したとしても、実際に会議を開催するまでにはさらに長い時間が必要であろうし、日清講和条約批准書を交換する期限はもう目前に迫っていて、いつまでも講和とも戦争継続とも定まらずに迷う状態が続けば、情勢はますます厳しさを増すであろう。またおよそこのような外交問題については、一旦列国会議で議論すると、列国は必ずそれぞれ自国に都合のよい利益を主張するのは必至であるから、会議の議題が果たして遼東半島問題だけに限ることができるであろうか。あるいは枝葉末節な問題からさらに別な問題が派生し、各国がそれについていろいろな注文を付け、ついには(せっかく調印した)下関講和条約そのものが、台無しになってしまう恐れがある。このようなことは、わざわざ好き好んでヨーロッパの大国の新たな干渉を招くのと同じことで、得策ではないと言ったところ、伊藤総理も、松方正義蔵相・野村靖内相の両大臣も、私の主張をもっともであると納得してくれた。・・・・
これを要約すれば、三国に対しては遂に全て譲歩せざるを得ないことになっても、清国に対しては一歩も譲歩しないと決心し、ひたすらにその方針で進めることが、目下の急務であるとの結論に達し、野村内相はその(二五日の)夜のうちに舞子を発(た)って(大本営のある)広島に赴き、決意の趣旨を奏上し、次いで天皇の裁可を得たことであった。
解説
『蹇蹇録(けんけんろく)』は、第二次伊藤内閣の外務大臣であった陸奥宗光(むつむねみつ)(1844~1897)が、日清戦争終了後の明治二八年(1895)に執筆した、回想録的外交記録です。宗光は巻末にその叙述目的について、「去年、朝鮮の内乱以来、延(のべ)て征清の役に及び、竟(つい)に三国干渉の事あるに至るの間、紛糾複雑を極めたる外交の顛末(てんまつ)を概叙し、以て他年遺忘に備へむと欲するのみ」と記しています。彼は下関講和会議の時は既に肺を患って体調は最悪であり、三国干渉後は大磯で静養していたのですが、当事者として記録を残すことを人生最後の責務と思い、三カ月に満たない短期間で執筆し、大晦日に脱稿しています。書名の「蹇蹇(けんけん)」とは、「心身を労し全力を尽くして、君主に忠実に仕える」という意味です。
下関講和条約が調印されたのは、明治二八年(1895)四月十七日のこと。日本全権は首相の伊藤博文と外相の陸奥宗光です。そして四月二十日には広島にあった大本営において、明治天皇の裁可を得ました。ところが四月二三日、東京駐在のロシア・ドイツ・フランスの三国の公使が外務省を訪れ、舞子(現神戸市)で病気療養中の陸奥宗光外相に代わり、林董(はやしただす)外務次官に対し、遼東還付を勧告する覚書を手渡します。
その頃ロシアの極東艦隊は、命令さえ下れば翌日には出撃し、ただちに日本沿岸を砲撃できる臨戦態勢にありました。そのような状況下、翌四月二四日、広島で御前会議が開かれ、①勧告拒絶、②列国会議招請、③勧告受諾の三案が検討されたのですが、最終的には列国会議案を方針とすることが承認されました。①案を採用すれば、ロシア極東艦隊は直ちに日本に攻撃を加えてくる可能性が高く、艦船がほぼ出払っている日本には勝ち目がありません。かといって③案では世論が納得しません。伊藤首相が消去法により、②案の他に選択肢はないと考えたのも無理はありません。
そしてその決定は翌二五日未明、伊藤首相によって舞子で療養中の陸奥宗光にもたらされました。夜行列車で取るものも取りあえず、駆けつけたのでしょう。御前会議の仮決定を聞き、宗光は清国が三国干渉の混乱を口実に条約批准を拒否し、条約自体が消滅しまう危険を強調し、②案には猛烈に反対します。陸奥宗光も①案は絶対避けなければならないことは理解していましたから、残されたのは③案だけでした。イギリスにしてみれば、三国と対立してでも、日本に肩入れする利益はありませんから、当然のことです。日本が最もあてにしていたイギリスが後ろ盾になってくれなければ、仮に列国会議を開催できたとしても、進展がないことは明白です。案の定、四月二九日には、イギリス外相は駐英日本公使に対して、局外不干渉方針を伝えてきましたから、もう選択の余地はありませんでした。
結局、日本政府は五月四日に京都で閣議を開き、正式に遼東半島の放棄を決定します。そして天皇は既に二七日には広島から京に遷っていましたから、伊藤首相が直ちに参内(さんだい)して明治天皇の裁可を受け、翌五日には三国の駐日本公使に通告します。そして五月八日、批准書が交換されました。そして『蹇蹇録』には、翌九日に「三国政府が我政府の回答に対し、満足する旨を宣言」したと記されています。
伊藤首相が京都にいた時、対外強硬策を主張する者達が三国干渉に憤慨して、談判に押しかけたことがありました。伊藤首相が、「今は諸君の名案卓説を聞くよりはむしろ、軍艦大砲を相手として熟議せざるべからず」と答えると、誰一人として抗弁できなかったと、『蹇蹇録』に記されています。「戦争に於る勝利は、外交に於て失敗せり」と非難するのは簡単ですが、陸奥宗光は予想されるそのような非難に対して、「畢竟(つまるところ)我に在てはその進むべき地に進み、その止まらざるを得ざる所に止まりたるものなり。余は何人(なんぴと)を以てこの局に当らしむるも、また決して他策なかりしを信ぜむと欲す」と、結論のように巻末に記しています。
昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『蹇蹇録』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。