うたことば歳時記

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『蹇蹇録』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面 

2020-07-31 20:35:25 | 私の授業
蹇蹇録


原文
 就中(なかんずく)、露国政府は、既(すで)に此(この)方面の諸港に碇泊(ていはく)する同国艦隊に対して、二十四時間に何時(いつ)にても出帆し得べき準備を為(な)し置くべき旨(むね)、内命を下せりとの一事は、頗(すこぶ)る其(その)実(じつ)あるが如し。左(さ)れば此際(このさい)我政府の措置如何(いかん)は、実に国家の安危(あんき)栄辱(えいじよく)の上に重大なる関繋(かんけい)を有するを以て、固(もと)より暴虎(ぼうこ)馮河(ひようが)の軽挙を戒むべきは勿論(もちろん)なれども・・・・
 第一策に就(つい)ては、当時我征清軍は全国の精鋭を悉(つく)して遼東半島に駐屯し、我強力の艦隊は悉(ことごと)く澎湖島(ほうことう)に派出し、内国海陸軍備は殆(ほとん)ど空虚なるのみならず、昨年来長日月の間、戦闘を継続したる我艦隊は固(もと)より、人員軍需(ぐんじゆ)共に既に疲労欠乏を告げたり。今日に於て三国連合の海軍に論なく、露国艦隊のみと抗戦するも、亦甚(はなは)だ覚束(おぼつか)なき次第なり。
 故に今は第三国とは、到底和親を破るべからず。新に敵国を加ふるは、断じて得策に非(あら)ずと決定し、次に其第三策は意気寛大なるを示すに足(た)る如きも、余りに言ひ甲斐なき嫌(きらい)ありとし、遂に其第二策、即ち列国会議を招請して、本問題を処理すべしと、(四月二五日の広島における御前会議で)廟議粗々(あらあら)協定し、伊藤総理は即夜広島を発し、翌廿五日暁天(ぎようてん)、余を舞子に訪(と)ひ、御前会議の結論を示し、尚(な)ほ余の意見あらば之を聴かむと云へり。・・・・
 然(しか)れども伊藤総理が御前会議の結論として齎(もた)らし来れる列国会議の説は、余の同意を表するに難(かた)しとしたる所たり。其理由は、今茲(ここ)に列国会議を招請せむとせば、対局者たる露独仏三国の外(ほか)、少(すくなく)とも尚(な)ほ二三大国を加へざるべからず。而して此(この)五六大国が所謂(いわゆる)列国会議に参列するを承諾するや否や。良(よ)しや、孰(いず)れもこれを承諾したりとするも、実地に其会議を開く迄には許多(あまた)の日月を要すべく、而して日清講和条約批准(ひじゆん)交換の期日は既に目前に迫り、久しく和戦未定の間に彷徨(ほうこう)するは、徒(いたずら)に事局の困難を増長すべく、又凡(およ)そ此種の問題にして、一度列国会議に附するに於ては、列国各々自己に適切なる利害を主張すべきは必至の勢(いきおい)にして、会議の問題果して遼東半島の一事に限り得べきや。或は其議論、枝葉より枝葉を傍生(ぼうしよう)し、各国互に種々の注文を持ち出し、遂(つい)に下之関(しものせき)条約の全体を破滅するに至るの恐なき能(あた)はず。是れ、我より好むで更に欧州大国の新干渉を導くに同じき非計なるべしと云ひたるに、伊藤総理、松方・野村両大臣も亦、余の説を然りと首肯(しゆこう)したり。・・・・
 之を約言すれば、三国に対しては遂に全然譲歩せざるを得ざるに至るも、清国に対しては、一歩も譲らざるべしと決心し、一直線に其方針を追ふて進行すること、目下の急務なるべしとの結論に帰着し、野村内務大臣は即夜舞子を発し、広島に赴き、右決意の趣を聖聴に達し、尋(つい)で裁可を得たり。

現代語訳
 とりわけロシア政府が、この極東方面の多くの港に碇泊している同国艦隊に対して、(出撃命令が出されれば)二四時間以内にいつでも出航できるように準備をせよと、密かに命令を下しているということは、確かに事実のようである。そうであるからこの際、我が日本政府の対応次第では、国家の安寧と危機、栄光と屈辱に重大な影響があるので、もとより無謀な軽挙は、これを戒めなければならないのはもちろんであるが・・・・。
 (四月二四日の広島の御前会議で議論された)第一案についてであるが、当時、日本の清国遠征軍は、全国の精鋭を悉(ことごと)く遼東半島に駐屯させ、我が国の強力な艦隊は、悉く(台湾の近くの)澎湖(ほうこ)諸島辺りに派遣されていて、国内の陸海の軍備はほとんど空の状態であるばかりでなく、昨年来の長期間戦い続けてきた我が艦隊だけでなく、人員も軍需物資も共に疲労欠乏している。今日においては、露・仏・独三国連合海軍は言うまでもなく、ロシア艦隊だけでも、抗戦して勝てる見込みはないというわけである。
 それゆえ現在は、(清国以外の)第三国との友好関係を害(そこ)なってはならない。新たに敵国を増やすことは、決して得策ではないと決定し、次に第三案(勧告受諾案)は、日本の寛大さ表すには十分ではあるが、余りに不甲斐ないと非難される恐れがあるので、遂に第二案、つまり列国会議を招請し、この問題を解決すべきであると、御前会議で大まかに決定し、伊藤総理はその夜のうちにすぐに広島を出発。翌二五日未明、舞子にいる私を訪ねて来られ、御前会議の結論を示し、なお私の意見があるなら聴こう言われた。・・・・
 しかし伊藤総理が御前会議の結論としてもたらした列国会議招請案には、私はとうてい同意できないところである。その理由は、今ここで列国会議を開催しようとするなら、当事国であるロシア・ドイツ・フランス三国のほか、少なくともさらに二三の大国を加えないわけにはいかない。そうだとして、はたしてその五六カ国の大国が、いわゆる「列国会議」に参加することを承諾するだろうか。たとえいずれも承諾したとしても、実際に会議を開催するまでにはさらに長い時間が必要であろうし、日清講和条約批准書を交換する期限はもう目前に迫っていて、いつまでも講和とも戦争継続とも定まらずに迷う状態が続けば、情勢はますます厳しさを増すであろう。またおよそこのような外交問題については、一旦列国会議で議論すると、列国は必ずそれぞれ自国に都合のよい利益を主張するのは必至であるから、会議の議題が果たして遼東半島問題だけに限ることができるであろうか。あるいは枝葉末節な問題からさらに別な問題が派生し、各国がそれについていろいろな注文を付け、ついには(せっかく調印した)下関講和条約そのものが、台無しになってしまう恐れがある。このようなことは、わざわざ好き好んでヨーロッパの大国の新たな干渉を招くのと同じことで、得策ではないと言ったところ、伊藤総理も、松方正義蔵相・野村靖内相の両大臣も、私の主張をもっともであると納得してくれた。・・・・
 これを要約すれば、三国に対しては遂に全て譲歩せざるを得ないことになっても、清国に対しては一歩も譲歩しないと決心し、ひたすらにその方針で進めることが、目下の急務であるとの結論に達し、野村内相はその(二五日の)夜のうちに舞子を発(た)って(大本営のある)広島に赴き、決意の趣旨を奏上し、次いで天皇の裁可を得たことであった。

解説
 『蹇蹇録(けんけんろく)』は、第二次伊藤内閣の外務大臣であった陸奥宗光(むつむねみつ)(1844~1897)が、日清戦争終了後の明治二八年(1895)に執筆した、回想録的外交記録です。宗光は巻末にその叙述目的について、「去年、朝鮮の内乱以来、延(のべ)て征清の役に及び、竟(つい)に三国干渉の事あるに至るの間、紛糾複雑を極めたる外交の顛末(てんまつ)を概叙し、以て他年遺忘に備へむと欲するのみ」と記しています。彼は下関講和会議の時は既に肺を患って体調は最悪であり、三国干渉後は大磯で静養していたのですが、当事者として記録を残すことを人生最後の責務と思い、三カ月に満たない短期間で執筆し、大晦日に脱稿しています。書名の「蹇蹇(けんけん)」とは、「心身を労し全力を尽くして、君主に忠実に仕える」という意味です。
 下関講和条約が調印されたのは、明治二八年(1895)四月十七日のこと。日本全権は首相の伊藤博文と外相の陸奥宗光です。そして四月二十日には広島にあった大本営において、明治天皇の裁可を得ました。ところが四月二三日、東京駐在のロシア・ドイツ・フランスの三国の公使が外務省を訪れ、舞子(現神戸市)で病気療養中の陸奥宗光外相に代わり、林董(はやしただす)外務次官に対し、遼東還付を勧告する覚書を手渡します。
 その頃ロシアの極東艦隊は、命令さえ下れば翌日には出撃し、ただちに日本沿岸を砲撃できる臨戦態勢にありました。そのような状況下、翌四月二四日、広島で御前会議が開かれ、①勧告拒絶、②列国会議招請、③勧告受諾の三案が検討されたのですが、最終的には列国会議案を方針とすることが承認されました。①案を採用すれば、ロシア極東艦隊は直ちに日本に攻撃を加えてくる可能性が高く、艦船がほぼ出払っている日本には勝ち目がありません。かといって③案では世論が納得しません。伊藤首相が消去法により、②案の他に選択肢はないと考えたのも無理はありません。
 そしてその決定は翌二五日未明、伊藤首相によって舞子で療養中の陸奥宗光にもたらされました。夜行列車で取るものも取りあえず、駆けつけたのでしょう。御前会議の仮決定を聞き、宗光は清国が三国干渉の混乱を口実に条約批准を拒否し、条約自体が消滅しまう危険を強調し、②案には猛烈に反対します。陸奥宗光も①案は絶対避けなければならないことは理解していましたから、残されたのは③案だけでした。イギリスにしてみれば、三国と対立してでも、日本に肩入れする利益はありませんから、当然のことです。日本が最もあてにしていたイギリスが後ろ盾になってくれなければ、仮に列国会議を開催できたとしても、進展がないことは明白です。案の定、四月二九日には、イギリス外相は駐英日本公使に対して、局外不干渉方針を伝えてきましたから、もう選択の余地はありませんでした。
 結局、日本政府は五月四日に京都で閣議を開き、正式に遼東半島の放棄を決定します。そして天皇は既に二七日には広島から京に遷っていましたから、伊藤首相が直ちに参内(さんだい)して明治天皇の裁可を受け、翌五日には三国の駐日本公使に通告します。そして五月八日、批准書が交換されました。そして『蹇蹇録』には、翌九日に「三国政府が我政府の回答に対し、満足する旨を宣言」したと記されています。
 伊藤首相が京都にいた時、対外強硬策を主張する者達が三国干渉に憤慨して、談判に押しかけたことがありました。伊藤首相が、「今は諸君の名案卓説を聞くよりはむしろ、軍艦大砲を相手として熟議せざるべからず」と答えると、誰一人として抗弁できなかったと、『蹇蹇録』に記されています。「戦争に於る勝利は、外交に於て失敗せり」と非難するのは簡単ですが、陸奥宗光は予想されるそのような非難に対して、「畢竟(つまるところ)我に在てはその進むべき地に進み、その止まらざるを得ざる所に止まりたるものなり。余は何人(なんぴと)を以てこの局に当らしむるも、また決して他策なかりしを信ぜむと欲す」と、結論のように巻末に記しています。


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『日本往生極楽記』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面  

2020-07-26 11:47:37 | 私の授業
日本往生極楽記

原文
 沙門弘也(空也(くうや))、父母を言はず、亡命して世に在り。或(あるい)は云ふ、潢流(こうりゆう)より出(い)でたりと。口に常に弥陀仏を唱(とな)ふ。故に阿弥陀聖(あみだひじり)と号(なづ)く。或は市中に住みて仏事を作(な)し、又市聖(いちのひじり)と号く。嶮(けわ)しき路に遇(あ)ひては即ち之(これ)を鏟(けず)り、橋無きに当りては亦之を造り、井無きを見ては則(すなわ)ち之を掘る。号(なづ)けて阿弥陀の井と曰ふ。・・・ 
 一鍛冶(かじ)の工(たくみ)、上人に遇(あ)ふ。金を懐(いだ)きて帰り、陳(の)べて曰く。「日暮れ路遠くして、怖畏(いふ)无(な)きに非(あら)ず」と。上人教へて曰く。「阿弥陀仏を念ずべし」と。工人中途、果して盗人に遇(あ)ふ。心竊(ひそか)に念仏して、上人の言の如くす。盗人来り見て、市聖(いちのひじり)と称して去る。・・・・
 上人遷化(せんげ)の日、浄衣(じようえ)を著(き)、香爐(こうろ)を擎(ささ)げ、西方に向ひ、以て端坐し、門弟子に語りて曰く。「多くの仏・菩薩、来迎(らいごう)引摂(いんじよう)したまふ」と。気絶(た)えて後、猶(なお)香爐を擎(ささ)げたり。此時、音楽空に聞こえ、香気室に満てり。嗚呼(ああ)、上人、化縁(けえん)已(すで)に尽きて極楽に帰り去る。
 天慶(てんぎよう)以往、道場聚落(しゆうらく)に念仏三昧(ざんまい)を修すること希有(けう)なりき。何(いか)に況(いわん)や、小人愚女多くこれを忌(い)む。上人来りて後は、自ら唱(とな)へ、他をして之を唱へしむ。爾後(じご)世を挙げて念仏を事と為(な)す。誠に是(これ)上人の衆生を化度(けど)するの力也。

現代語訳
 修行者空也は、その父母(出生)については何も語らず、本籍を離れていた。或いは皇族の流れを汲むとも言われた。常に念仏を唱えていたので、世の人は「阿弥陀聖(ひじり)」と呼んでいた。あるいは都の市(いち)に住んで仏に仕えていたので、「市(いち)の聖」とも呼んでいた。険しい道があればこれを削って平らかにし、橋がない所に行き当たれば橋を架け、井戸がないのを見れば井戸を掘ったので、人々はそれを「阿弥陀の井戸」と呼んだ。・・・・
 ある時、一人の鍛冶屋が空也上人に出会った。大金を懐(ふところ)に抱えて帰るところで、空也上人に「もう日が暮れましたが、帰路はまだ遠く、心配でございます」と申し上げた。すると空也上人は「(恐ろしい時には)阿弥陀如来を念じなされ」と教えた。そして案の定、鍛冶屋は途中で盗人に出遭ってしまった。それで空也上人に教えられた様に、心密かに阿弥陀如来を念じたところ、盗人は「これは市の聖であったか」と言って、どこかへ行ってしまった。・・・・
 空也上人が亡くなる日、上人は浄衣(じようえ)を身に着け、香炉を捧げ持ち、西の方角に向いて正坐し、弟子達に「諸仏諸菩薩が、極楽から迎えに来られる」と言われた。そして意識がなくなった後も、なお香炉を捧げ持ったままであった。その時、空には音楽が聞こえ、部屋には芳香が満ちていた。ああ、空也上人は人々を仏に導く因縁を果たし終え、極楽にお帰りになられたのであった。
 天慶の頃より前は、念仏道場にやって来てひたすら念仏を修する人は、大変少なかった。まして子供や女供は、念仏を唱えようとはしなかった。しかし空也上人が来てからというもの、自ずから念仏を唱え、また人にも勧めて念仏を唱えるようになった。それ以来、世の中の人がみな念仏を唱えるようになったのは、実に空也上人が人々を感化する徳によるものである。

解説
 『日本往生極楽記(にほんおうじようごくらくき)』は、文人官僚である慶滋保胤(よししげのやすたね)(?~1002)が著した、日本最初の往生伝(おうじようでん)です。保胤と親しかった『往生要集(おうじようようしゆう)』の著者である源信(げんしん)は、その下巻に「我朝の往生者、亦其の数有り。具(つぶさ)には慶氏の日本往生記に在り」と記して推奨しています。往生伝とは、極楽浄土に往生したとして敬慕されていた人々の、伝記を集めた書物で、唐では盛んに編纂されていました。「日本」を冠しているのは、「唐に倣って日本でも」ということを意図したからなのでしょう。聖徳太子・行基・円仁や空也から「一老婦」「一婦女」に至るまで、四五人の話が収められています。
 往生伝には一つの型があります。日頃から往生極楽を願い、いよいよ臨終となると、不思議な徴(しるし)が現れて入滅する。その徴には、生きるが如き顔、衣の如く軽い身体、部屋に満ちる香気、天女の姿、空から聞こえる音楽、紫色の瑞雲、諸仏の来迎などがあります。そしてその徴こそが極楽往生の証拠である、というわけです。
 ここに載せたのは空也伝の一部です。空也(903?~972)は出生について一切語らず、皇族出身であると語り伝えられました。二十歳頃に剃髪し空也と称しますが、正式に得度してはいませんでした。その後、念仏を勧め、福祉的菩薩行をしながら諸国を巡ります。そして三六歳の頃に京に戻り、人々が群集する市で念仏を勧め、「市の聖」と呼ばれていました。
 空也が創建した西光寺、後に改称された六波羅蜜寺には、僧形の彫刻が残っていますから、出家した僧侶と思われていますが、比叡山で受戒して正式に僧侶となったのは四六歳の頃です。ですから京市中での活動を始めた頃は、ひたすら市中で菩薩行をする、「沙門(しやもん)」「沙弥(しやみ)」と呼ばれる、若い民間の修行者に過ぎませんでした。僧となってからも沙弥の名である「空也」で通したのは、庶民のために庶民と共に生きることこそ、己の使命としていたからにほかなりません。漢学者として当代第一級の文人官僚である源為憲(ためのり)が、空也の一周忌に書いた「空也上人誄(るい)」(しのびごと)には、比叡山の「戒壇院に登り大乗戒を受け、度縁(どえん)交名(きようみよう)して光勝と注す。然るに沙弥の名を改めず」と記されています。受戒して正式な僧となり、得度したことを証明する文書(度縁)には「光勝」と署名はしたが、沙弥の頃に名乗っていた「空也」の名のまま改めなかった、というのです。
 末法思想の流行する中で、庶民に念仏を勧めて歩いた半僧半俗の民間修行者は、「阿弥陀(あみだ)聖(ひじり)」とも呼ばれ、念仏を勧めつつ、貧民の救済や、野原に累々と遺棄された遺体の埋葬を、厭うことなく行っていました。空也より半世紀前の記録ですが、『続日本後紀』という歴史書の承和九年(842)十月には、鴨河原あたりで五千五百もの髑髏(どくろ)を拾い集めて火葬したと記されています。空也もこのような葬送を行う「聖」の一人だったでしょう。慶滋保胤は空也より一世代若いだけですから、このような空也の姿を保胤は実際に目撃したはずです。聖徳太子以来数え切れない修行者や僧侶がいる中で、奈良時代の聖であった行基と共に、空也が選ばれているのは、保胤がそのような活動に余程感動したからにほかなりません。
 「天慶年間(938~947年)には念仏信仰がそれ程広まっていなかったが、空也が活動を始めるとみな唱えるようになった」と記されていますが、「天慶」年間は平将門・藤原純友の乱の頃で、末法元年(1052)よりまだ百年以上前のことです。空也の教化の影響は大きく、大納言藤原師氏や前掲の源為憲(ためのり)らの貴族や、庶民、盗賊・囚人に至るまで及びました。『日本往生極楽記』には、盗賊が空也と錯覚したと記されていますから、空也の教化は、そのような階層にも及んでいたわけです。事実、平安末期の仏教説話集『打聞集』(1134年)には、空也が囚人教化のために、獄舎の門に尊像を刻んだ八尺の石塔を立てたことが記されています。囚人達はその尊像を拝し、苦しみから抜け出す因縁を得られると感激したことでしょう。空也は、天禄三年(972)、西光寺において七十歳(?)で入滅しました。源為憲は前掲の「空也上人誄(るい)」に、「赫々(かくかく)たる聖人、其の徳測ることなく、素(もと)より菩薩行なり」と讃えています。
 空也の念仏は、あくまでも天台宗の諸修行の中の一つです。この頃にはまだ他の修行を棄ておいても念仏に専念する、専修念仏とはなっていません。それでも多くの行の中から念仏を特に重視していることが覗えます。そしてこの延長線上に、念仏に専修することを説いて浄土宗の宗祖となる法然が現れ、空也を「我が先達」と敬慕し、時宗の宗祖となる一遍が現れることになります。鴨長明著『発心集』(第七第二話)に、「わが国の念仏の祖師と申すべし」と記されている様に、空也こそは日本の浄土信仰の原点の一つだったのです。
 最後に「市の聖」空也が市の門に書き付け、『拾遺和歌集』に収められた和歌を一首紹介しておきましょう。
 一たびも南無阿弥陀仏といふ人の蓮(はちす)の上にのぼらぬはなし


昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『日本往生極楽記』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。



『夢の代』高校生に読ませたい歴史的名著の名場面

2020-07-24 13:28:57 | 私の授業
夢の代


原文
 元来、人及び禽獣(きんじゆう)・魚虫・草木といへども、少しづゝのそれ〴〵の差異はあるべきなれども、天地陰陽の和合むし立てにより、生死熟枯(じゆくこ)するもの、みな理を同じくして、天地自然のもの也。山川水火といへども、みな陰陽の外(ほか)ならず。別に神なし。
 又生熟するものは年数の短長はあれども、大ていそれ〴〵の持前ありて、死枯せざるはなし。生(しようず)れば智あり、神あり、血気あり、四支・心志・臓腑(ぞうふ)みな働き、死すれば智なし、神なし、血気なく、四支・心志・臓腑みな働らくことなし。然れば何(いず)くんぞ鬼あらん。又神あらん。生(いき)て働く処、これを神とすべき也。 ・・・・
 考へてみれば、異類異形の物も生(うま)るべきに、人は人を生み、犬は犬を生み、烏(からす)はからすを生む。狐(きつね)が狸(たぬき)を生まず、鳩(はと)が雀(すずめ)も生まず、梅の木に牡丹(ぼたん)も咲(さか)ず、瓜(うり)のつるに茄子(なす)も出来ざる也。扨(さて)も奇妙なるやうなれども、みな一定の理ありて、その中に存すること、亦奇ならずや。しかれば則(すなわち)、このあらゆる道理の外(ほか)に、あに神あらんや、あに仏あらんや。唯この陰陽の徳を以て万物を生々し、奇々妙々なるやうにして、亦奇々妙々ならず。不思議なるやうにて、亦不思議ならず。自然と道理そなはりて、生を遂(とぐ)る処をさして、聖人これを神と名(なづ)く。この神の外に神なし。人の死したるを鬼と名づく。これ亦死したる後は性根(しようね)なし、心志なし、この鬼の外に鬼なし。皆これこの理なり。この外(ほか)に何をか求め、何をか穿(うが)たん。

現代語訳
 もともと人や動物・魚虫・植物といえども、それぞれに少しずつ違いはあるだろうが、天地にある陰陽二気の相互作用により、生まれては滅び、熟しては枯れるが、それはみな同じ道理であり、それが自然のことである。山や川、水や火なども、全ては陰陽の働きに外(ほか)ならず、別段に神秘な秘密があるわけではない。
 また命あるものには、年数の長短はあるが、それぞれ固有の寿命があり、滅びないものなど何もない。生きていればこそ「智」があり、「神」(神秘)があり、「血気」があり、手足も「心志」(頭脳・精神)も内臓もみな機能するが、死ねば「智」もなく、「神」もなく、「血気」もなく、手足も「心志」も内臓もみな機能しない。そういうわけであるから、どうして「鬼」(霊魂)などがあるだろうか。また「神」(神秘)などがあるだろうか。生きて機能していること、これこそ「神」(神秘)とするべきものなのである。・・・・
 考えてみれば、異類異形のものが生まれてもよいのに、人は人を生み、犬は犬を生み、烏(からす)は烏を生む。狐は狸を生まず、鳩は雀を生まず、梅の木に牡丹(ぼたん)は咲かず、瓜(うり)の蔓(つる)に茄子(なす)はならない。何とも奇妙のようであるが、みな同じ道理であり、その道理の中にあることは、また奇妙ではないか。そうであるから、(人や動植物を生成させる)あらゆる道理以外に、どうして「神」があろうか、どうして「仏」があろうか。ただこの陰陽の働きにより万物が生まれるのであるが、これは奇妙のようであるが、決して奇妙ではなく、不思議のようであるが、決して不思議ではない。
 (生きているものには)自然の道理が具(そな)わっていて、それにより生命が営まれることを指して、古の聖人はこれを「神」と名付けたのである。これ以外に「神」というものはない。人が死ねばそれを「鬼」と呼ぶ。これまた死んでしまえば「性根(しようね)」もなく、「心志」もない。この「鬼」以外に、「鬼」など存在しないのである。全ての事は皆この道理に基づいている。これ以外に、いったい何を求め、追求しようというのか。(何もないではないか)。

解説
 『夢の代(ゆめのしろ)』は、大坂の升屋という米の仲買商の番頭である山片(やまがた)蟠桃(ばんとう)(1748~1821)が、晩年に著した随筆的思想書です。「蟠桃(ばんとう)」とは、「神仙の世界にある曲がりくねった桃の木」のことですが、「番頭」を掛けたとされています。書き始めたのは五五歳の享和二年(1802)で、視力がなくなった六十歳の頃にはほぼ脱稿しました。しかしその後も口述筆記により、文政四年(1821)に七四歳で亡くなるまで改訂し続けました。
 蟠桃はその序文の中で、大坂町人が共同で設立した懐徳堂で、中井竹山とその弟である中井履軒(りけん)に学んだことを、眠気を堪(こら)えながら書いたので『夢の代』と名付けたと書いています。またここに載せた「無鬼論」にも、「この書、外人(外(ほか)の人)に知らしむるにあらず。唯昼寝の代りに書置きて子孫にのこし、吾(わが)曾孫をして異端に陥らしめざるの警戒とするのみ」と記していますから、公表するつもりはありませんでした。
 具体的には、地動説・潮の干満・太陽暦採用・万有引力・西洋文字の能率性・世界地誌・地球上における日本の地理的位置・植民地主義批判・神代史批判・古代日中韓交流・源氏物語・土佐日記・太平記・刑罰と貨幣制度・冠婚葬祭・海外貿易・官位・度量衡・封建制と郡県制の優劣比較・農民の尊重・米価変動・備蓄米の必要性・四書五経・仏教批判・迷信排斥・健康法など、実に幅広い内容です。
 彼は学者ではありません。本職はあくまでも商人であり、仙台藩への大名貸の大金が返済されず、潰れそうになった升屋の経営と、仙台藩の財政再建に活躍しています。そのような激務の傍らに、懐徳堂で学んでいたのです。蟠桃は天文学者・数学者である麻田剛立(ごうりゆう)にも学び、蘭学者の志筑忠雄が訳述した天文・物理学書の『暦象新書(れきしようしんしよ)』も学んでいます。懐徳堂の学問はもちろん朱子学が中心であり、『夢の代』に記された全てを、懐徳堂で学んだというわけではありませんが、大坂商人共立学塾とも言うべき懐徳堂の、教育水準の高さは驚くべきものでした。
 ここに載せたのは、『夢の代』の中の「無鬼論」の一部です。「無鬼論」は全十二巻中二巻にわたっていて、太陽系外の恒星もそれぞれに惑星を持っていることを推論した「太陽明界の説」と「無鬼論」について、蟠桃は序文の中で、「太陽明界の説、及び無鬼の論に至りては、余が発明なきにしもあらず」と記していますから、かなりの確信を持っていました。
 「鬼」と言うと、いわゆる節分の鬼や地獄の獄吏(ごくり)を思い浮かべますが、蟠桃の言う「鬼」はdemonではありません。そもそも「鬼」とは、邪馬台国の卑弥呼が「鬼道に事(つか)へ」と記されているように、神秘的なことを表す言葉であり、また死者の霊魂を意味することもありました。「無鬼論」の「鬼」とは、「死」の概念を含んだ神秘的・霊的な概念の総称です。また「神」という言葉も盛んに使われていますが、信仰の対象となるgodではありません。それは人や動物を生成させる天地自然の道理、あるいはその神秘的な働きを指しています。ですから死んでしまえば「神なし」というわけです。前野良沢が『解体新書』を著す際に、あまりにも不可思議な働きを持つ故に訳しようがなく、「神経」と翻訳したのも、やはり「神」が神秘的なことを意味する言葉だったからです。要するに蟠桃は、自然を唯物論的、合理的に理解しているわけです。
 蟠桃は『夢の代』の末尾に次の歌を遺しています。「地獄なし極楽もなし我もなしただ有る物は人と万物」、「神仏(かみほとけ)化物(ばけもの)もなし世の中に奇妙不思議の事は猶(なお)なし」。これこそ『夢の代』の結論であり、蟠桃が最も主張したかったことでした。蟠桃が人智を超越する神秘を徹底否定したことは、彼が実利を重視する商人であったことと無関係ではないでしょう。

昨年12月、清水書院から『歴史的書物の名場面』という拙著を自費出版しました。収録されているのは高校の日本史の教科書に取り上げられている書物を約100冊選び、独断と偏見でその中から面白そうな場面を抜き出し、現代語訳と解説をつけたものです。この『夢の代』も収められています。著者は高校の日本史の教諭で、長年の教材研究の成果をまとめたものです。アマゾンから注文できますので、もし興味がありましたら覗いてみて下さい。







出鱈目な「土用丑の鰻」の流布説

2020-07-21 19:04:53 | 年中行事・節気・暦
土用鰻についての出鱈目な説がますますひどいことになっているので、文献史料の裏付けによっていかに出鱈目であるか、丁寧に論証してみましょう。かなり以前に書いた文章ですので、難い表現があるのはお許し下さい。すでに「土用鰻の平賀源内起原説の出鱈目」という拙文を公開してありますから、お急ぎの方はまずはそちらを御覧下さい。


 夏の土用には面白い食文化が伝えられている。食欲もなくなる程に暑い時期であるからか、夏ばてや夏痩(なつやせ)防止のために鰻を食べるという風習である。鰻が夏痩防止に効果があるということは、『万葉集』の大伴家持の歌が根拠になっているようだ。それは「石麻呂(いわまろ)に 吾物申す 夏痩に よしといふものぞ  鰻(むなぎ)取り喫(め)せ」(『万葉集』3853)という歌で、大伴家持が痩(や)せている友人の吉田(よしだの)連(むらじ)石麻呂(いわまろ)に贈ったものである。 夏痩によいというので、鰻を捕って召し上がれ、という意味であり、石麻呂はいくら食べても太らないので、家持がからかって詠んだという説明まで付けられている。
 江戸時代にもこの故事はよく知られていて、『天保佳話(てんぽうかわ)』(1837)という書物には『万葉集』の大伴家持の歌を引用し、「夏の土用に鰻を食べるのは、鰻が夏痩を癒すものだからである」と記されている。確認したければ、「国会図書館デジタルコレクション天保佳話」と検索し、その22コマ目に載せられている。

 夏痩防止に鰻を食べよというこの歌のお蔭で、現在も夏の土用鰻は食習慣として続いている。しかし夏場の鰻には脂がのっていない。かえって冬の土用鰻の方が脂がのっていて美味いという人もいる。夏痩対策の夏の鰻は、鰻自身が夏痩しているのである。もっとも関東地方に多い江戸前の鰻は、白焼きしてさらにじっくりと蒸し、余分な脂を落とすので、夏痩した鰻でも十分なのかもしれない。

 そもそも夏の土用の丑(うし)の日にうなぎを食べることについて通説では、夏に売り上げの落ちた鰻屋が博学で知られた平賀源内(ひらかげんない)に相談したところ、「本日土用の丑の日」と書いて店先に貼り紙をするようにと言われ、そのようにしたところ大繁盛をしたということになっている。そしてこの話は青山白峰が著した『明和誌』(1822)という随筆に載せられているということになっているが、『明和誌』にはそのような記述はない。ただ「土用に入り丑の日にうなぎを食す。寒暑ともに家毎になす。安永天明の頃よりはじまる」と記されているだけである。これは「国会図書館デジタルコレクション『鼠璞十種』と検索し、その二巻の14コマ目で確認できる。

 また源内が「風来山人」の名前で著した『里のをだまき評』という書物に「土用の丑の日に鰻を食べると滋養になる」と書かれているという説もあるが、そのような記述もない。ただ「江戸前うなぎと旅うなぎ(江戸の外からもたらされた鰻)程旨味も違はず」と記されているだけである。土用の丑の日に鰻を食べる風習が一般に広まったことは事実であるが、源内の助言から始まったというのは、全く根拠がないのである。

 しかし天保十一年(1840)頃に橋本養邦(おさくに)が描いた『江戸年中風俗之絵』には、夏の土用の鰻屋に「今日うしの日」と書かれた広告が貼られている場面がはっきりと描かれている。「国会図書館デジタルコレクション『江戸年中風俗之絵』と検索し、その2巻の7コマ目にはっきりと描かれているのが見られる。源内起原は根拠がないが、夏の土用に「今日うしの日」という広告が張り出されていたことは事実なのである。

 「天保年間の土用鰻」ということについて、それを補強する史料がある。山形商工会議所が大正十二年(1923)に出版した『山形経済志料.』の第二集に、「土用鰻の事」と題する話が載せられている。それは父の鰻屋を嗣いだ二代目鰻屋で、嘉永三年(1850)生まれの柴田彦兵衛が父から聞いた話を語っているものである。それによれば「天保年間以前には丑の日になつたとて別に鰻を食べるやうな事はなく、商売は至て閑散なものであつた。それが天保年間以来弗々(ふつふつ)売れるやうになり、天保の末弘化嘉永年間には最も繁盛し、土用の丑の日には何んでも彼でも鰻でなければならぬと言ふやうになつた。その由来は詳(つまびら)かではないが、丑の日に食べると其年は決して病疫に襲はれぬと伝へられてゐるのだ。」。これは大変珍しい記録で、「国会図書館デジタルコレクション『山形経済志料』」と検索し、2巻の25~26コマ目で読むことができる。

 そのほかにも天保年間の『娘消息』という通俗小説にも「土用鰻」という表現がある(国会『娘消息』初下18左2・3行)から、天保年間には土用鰻が庶民の行事食として定着していたことを確認できる。これは「国会図書館デジタルコレクション『娘消息』」と検索し、初編下の18コマ目左ページ2~3行目にある。

 ただ土用の丑の日には本来は鰻を食べなかったという、全く正反対の説がある。『風俗画報』一五九号(1898)には、次の様に記されている。「往古、土用中の丑の日に鰻を食すれば、大悲(だいひ)利他(りた)不尽天(ふじんてん)の如く諸願満足を主る虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)の忌諱(きき)に触(さわ)ると云て、世上普通の人は皆この日鰻を食せざりしなり。而して日常膳に魚肴(さかな)を上(のぼ)すこと能はざる貧人は、この日に限り廉価を以て鰻を食し得るに因り、皆争てこれを求めり。何れの鰻店もこの機に乗じ、これ等貧人の注意を喚起するが為めに、紙牌(しはい)を店頭に掲げ、以てこれを待ちしが、今は全く反対になりしこそ笑(おか)しけれ」。

 虚空蔵菩薩信仰の禁忌として、土用丑の日には鰻を食べない風習があったため、この日ばかりは鰻があまり売れないので鰻の値段が下がる。それで貧しい人がそれを狙って鰻を買い求めるので、鰻屋が店頭に丑の日に廉売する広告を掲げるようになり、今は本来の禁忌の意味が忘れられてしまい、皆が土用鰻を食べる様になったというのである。古くから鰻は虚空蔵菩薩の乗り物であるとか、虚空蔵菩薩は丑年と寅年生まれの人の守り本尊であるという俗信があり、虚空蔵菩薩信仰に縁のある人や地域では、鰻を食べることが禁忌とされてきたことは事実である。これも話としてはなかなか面白い。しかし『風俗画報』の情報は玉石混淆であり、現在はこれを考証する材料を持ち合わせていないため、一つの説として紹介するに留めておく。

 現在では鰻は夏の土用の行事食ということになっているが、近年に寒の土用にも鰻を食べる風習が始まっている。長野県の岡谷には、「寒の土用 丑の日 発祥の地」と刻まれた石碑まであるという。確かに夏の鰻より冬の鰻の方が脂が乗っている。それで町興しや観光的視点から二匹目の泥鰌(どじよう)ならぬ二匹目の鰻を狙って、そのような食文化を広めようというのであろう。

 しかし寒の土用に鰻を食べることは、とっくに江戸時代から行われている。既に引用したように、『明和誌』には「寒暑共に」土用鰻を食べることが記されていた。『東都歳時記』にも、「十一月・・・・寒中丑の日・・・・諸人鰻を食す」と記されている(国会『江戸歳時記』秋冬51左)。石碑までできてしまうと、もう既成事実化して独り歩きしているのであろう。「復興の地」なら理解できるが、「発祥の地」は歴史の捏造である。寒中の土用鰻は近年になって始められたことではなく、本来は江戸時代に普通に行われていたことなのである。そうすると夏痩防止の土用鰻は後付けの理屈である可能性が高く、土用との関係に何か意味がありそうである。

 半世紀近く歳時記の研究などをしているが、平賀源内説を立証できる文献史料など見たことがない。まことしやかにそのような解説をしている人にその根拠を尋ねれば、何一つ答えられないであろう。

 また「う」の付く物を食べるという風習があるとも説かれているが、そのような根拠は何一つない。みな俗説を検証もしないで摘まみ食いして垂れ流しているだけである。



高校生に読ませたい歴史的名著 『伊曽保物語』

2020-07-16 14:26:21 | 私の授業
最近の子供達は、イソップ物語などすっかり読まなくなってしまいました。教訓的な話は嫌われるのかもしれません。しかし長く読み継がれてきたということは、それなりの理由があるからで、一度は読んでおきたいものです。江戸時代にも読まれていたなんて、一寸意外かもしれませんね。

伊曽保物語
原文
京と田舎の鼠の事
 ある時、都の鼠、片田舎に下り侍りける。田舎の鼠ども、これをいつきかしづく事かぎりなし。これによつて田舎の鼠を召し具して上洛す。しかもその住所は、都の有徳者の蔵にてなん有りける。故に、食物足つて乏しき事なし。都の鼠申しけるは、「上方には、かくなんいみじき事のみおはすれば、いやしき田舎に住み習ひて、何にかはし給ふべき」など、語り慰む所に、家主、蔵に用の事ありて、俄に戸を開く。京の鼠は、もとより案内者なれば、穴に逃げ入ぬ。田舎の鼠は、もとより無案内なれば、慌て騒げども隠れ所もなく、からうじて命ばかり、助かりける。その後、田舎の鼠、参会して、この由を語るやう、「御辺(ごへん)は、『都にいみじき事のみある』と宣(のたま)へども、たゞ今の気遣ひ、一夜白髪といひ伝ふるべく候。田舎にては、事足らはぬことも侍れども、かゝる気遣ひなし」となん、申しける。 その如く、賤しき者は、上つ方の人に伴ふ事なかれ。もし、強ゐてこれを伴ふ時は、いたづがはしき事のみにあらず、たちまち禍ひ出で来るべし。
「貧を楽しむ者は、万事かへつて満足す」と見えたり。かるがゆへに、ことわざに云く、「貧楽」とこそ、いひ侍りき。

現代訳
 ある時、都に住む鼠が片田舎に行くことがありました。田舎の鼠達は大切にもてなしました。これに喜んだ都の鼠は、田舎の鼠を都に連れて行きました。都の鼠が住んでいるのは大金持ちの蔵なのです。そのため食べるものは有り余る程あり、飢えることがありません。そこで都の鼠が「京の都には、このように良いことばかり。みすぼらしい田舎に長年住まなくてもよいのに」と言ってからかっていたところ、家の主が蔵に用事があって、急に扉を開いたのです。都の鼠は前から慣れていましたから、いつもの穴に逃げ込んでしまいました。しかし田舎の鼠はわけがわからずあわてて逃げ回り、かろうじて命ばかりは助かりました。
 騒ぎが収まってから、田舎の鼠は都の鼠に言いました。「あなたは『都には良いことばかり』とおっしゃいましたが、余りにもぞっとして、一晩で白髪になるかと思いましたよ。田舎なら不自由することはあっても、これ程恐ろしいことはりません」とね。
 貧しい田舎者は都の人と一緒にならない方がよいものですよ。無理をすれば苦労するだけでなく、たちまち災難にあうことになりますから。身の丈を知れば、貧しくても何事にも満足できるものです。諺にも「貧を楽しむ」と言うではありませんか。

解説
 『伊曽保物語』は1593年(文禄2)、イエズス会宣教師が日本語習得のため、九州の天草でローマ字により印刷された『イソップ物語』の飜訳を最初として、江戸時代の17世紀中頃までに、仮名草子(仮名による読み物)として数種類の版が重ねられて普及しました。明治維新になると文明開化の風潮により、改めて西洋文明として受け容れられ、教科書や子供用の読み物となりました。
 天草版の『伊曽保物語』には70の話が収められています。例えば、「犬が肉を含んだ事」「獅子と鼠の事」「孔雀と烏の事」「鳩と蟻の事」「蝉と蟻の事」(現在では「蟻ときりぎりす」)などは現在でもよく知られています。また仮名草子の『伊曽保物語』にも「犬と肉の事」「かはつが主君を望む事」「蟻と蝉の事」「鳩と蟻の事」「鼠と猫の事」などが収められています。童謡「もしもし亀よ亀さんよ」のもとになった「兎と亀」も、もとはと言えばイソップ寓話の一つです。
 ここに引用した「京と田舎の鼠の事」は仮名草子に収められていて、現在では「都会の鼠と田舎の鼠」という題になっています。原作では、田舎の鼠が都会の鼠を食事に招き、畑で麦やトウモロコシや大根を食べたのですが、都会の鼠が町に来ればもっと美味しいものをたらふく食べられると、田舎の鼠を招待するという設定になっています。まあ多少の改変はありますが、粗筋はほぼ原作に添ったものになっています。
 身分制度のあった江戸時代ならば、身分に応じた生活をせよということを教える寓話として理解されたことでしょう。身分制度のない現代ならば、自然の豊かな田舎暮らしの方が楽しいという理解されることでしょう。時代の価値観により物語の解釈も異なることがあるというよい例かもしれません。

テキスト
○『伊曾保物語―天草本』 岩波文庫
○『万治絵入本 伊曽保物語』 岩波文庫
○『イソップ寓話集』 岩波文庫