うたことば歳時記

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再び「ハレルヤ」という言葉について

2021-09-25 06:52:24 | その他
 「パプリカ」という子供向けの応援歌が、また話題になっています。私はこの方面のことに全く関心がないのですが、歌詞の中に「ハレルヤ」という言葉があることが気になります。歌詞は次のようです。「プリカ 花が 咲いたら 晴れた 空に 種を 蒔こう ハレルヤ 夢を 描いたなら 心 遊ばせあなたにとどけ・・・・」。歌の雰囲気もダンスも好感が持て、とてもよい作品に仕上がっていることには、何の異論もありません。しかし作詞者も歌っている人達も、「ハレルヤ」の意味を知っているのでしょうか。

 私は若い頃イスラエルに住んでいたことがあり、ヘブライ語を少し理解できます。「ハレルー」とは「賛美せよ」、「ヤー」とは「ヤーヴェの神」のことです。ですからユダヤ教とキリスト教に共通する「神」を誉め讃える神聖な言葉なのであって、信者はめったやたらに口にする言葉ではありません。日本人は一見して信心深く見えても、宗教には全く無頓着ですから、何の疑問もなく「ハレルヤ」という言葉を使っています。昔ポンキッキという子供番組で、「お天気ボーイズ」という歌がはやり、「ハレルヤ」を「晴れるや」と茶化した歌があったことにもよく現れています。そう言えば「恋のハレルヤ」という歌もありました。
 
 「パブリカ」の英語バージョンがあるそうで、歌詞が心配になり調べてみると、「ハレルヤ」は「パプリカ」に置き換えられていました。さすがにそのままではまずいということに気が付いた人がいたのでしょう。イスラム教徒は「ハレルヤ」の意味を知っているでしょうから、口が裂けても歌うわけにはいきません。イスラム教の神を讃える「○ッラー アクバル」と直せばいいという問題でもないでしょう。

 数年前、定時制高校に勤務していた頃、私の担当するクラスには、フィリピン人・インドネシア人・ペルー人の生徒がいました。フィリピンとペルーの生徒はカトリック教徒でしたが、インドネシアの生徒はイスラム教徒でした。特定の宗教を信じていないのは、全て日本人でした。音楽の授業で「パプリカ」を歌わせたらどんなことになるのかと考えたことがあります。事情を知らない日本人の先生なら、歌わせるかもしれません。しかしイスラム教徒の生徒に歌わせるということは、絶対に食べない豚肉を強制的に食べさせるのと同じことであるのを、どれだけ日本人は理解しているのでしょうか。

 以前、愛知県で表現の不自由展が開催され、天皇陛下の写真を燃やして足で踏みつける映像が問題になりました。これを展示した大浦さん、あなたが率先してインドネシアの子供達にパプリカを教えてご覧なさい。「表現の自由」を叫びながらやってご覧なさい。憲法違反にはなりませんから。インドネシアではかつて味の素の原材料に豚が使われているという噂が流れ、大騒ぎになったことがありました。因みにインドネシアはイスラム教徒が世界で最も多い国です。

 悪意のないことは理解できます。しかし宗教的屈辱を与えることは、事と場合によっては○人事件を引き起こしているということを知らなければなりません。大げさなことではなく、実際に日本国内で起きているのです。

 今さら「パプリカ」を歌うべきではない などと融通の利かないことを主張するつもりは毛頭ありません。楽しそうに踊っている子供達を非難する気など微塵もありません。しかし日本人の宗教的無頓着・鈍感さには、何とかならないものかと、溜息が出るのです。人が心の中で大切に思っているものを、悪意はないとはいえ、結果として平然と踏みにじる日本人の鈍感さは、とうてい世界には通用しません。

 以前、「うたことば歳時記  ハレルヤという言葉」と題して、拙文を公表していますから、合わせて御覧下さい。

春分・秋分の日にはどうしてお墓参りをするの?(子供のための年中行事解説)

2021-09-18 08:38:26 | 年中行事・節気・暦
春分・秋分の日にはどうしてお墓参りをするの?
 春分・秋分の「分」は「等しい」という意味で、昼と夜の長さが同じことを意味しています。またこの日には太陽は真東から上り、真西に沈みます。しかしなぜそのような日に墓参りをする風習があるのでしょう。
 春分・秋分の日は「彼岸」(ひがん)とも呼ばれます。もう少し正確には、彼岸とは春分・秋分を中日として、その前後各3日、合計7日間を指しています。本来は梵語(古代インドの言葉)で「完全な」という意味を表す、paramita(漢字では「波羅蜜多」と音訳)を漢語に意訳した「至彼岸」(彼岸に至る)を省略した言葉です。「彼岸」という言葉そのものは「彼の岸」(かのきし)、つまの「向こう岸」という意味で、仏教の世界では悟りの世界、あるいは阿弥陀如来のいる極楽浄土という意味で使われています。つまり現世を「こちらの岸」と理解して「此岸」(しがん、このきし)と表し、水(川や池)に隔てられた仏の世界を「向こう岸」、つまり彼岸と表しているわけです。その仏の世界に到達すること、極楽浄土に往生することこそが、「完全な」救いであるというわけです。
 それならなぜ彼岸に墓参りなどの仏事が行われるのでしょうか。それは浄土信仰と密接な関係があります。「浄土」にはいくつかの種類があるのですが、一般に「浄土」といえば、阿弥陀如来のいる西方極楽浄土と理解されています。極楽は真西の彼方にあると信じられていたわけです。現世で煩悩に苦しむ衆生(しゅじょう、人々)は、ひたすら阿弥陀如来の本願にすがり、極楽に往生することを願いました。そしてそのために人々は阿弥陀如来像を刻んで礼拝してきました。そして礼拝するときにはあたかも西方極楽浄土にいるかのように、阿弥陀如来像を真東に向けて安置し、拝む人が真西を向くように配置されました。このように極楽往生を願う信仰にとっては、西という方角が決定的に重要な意味を持ってきます。平等院鳳凰堂などの阿弥陀堂を拝観することがあれば、方角に注意してみましょう。
 西が重視されることは、現在では墓地の値段にも反映されることがあります。霊園では、拝む時に西を向く墓地が、そうでない墓地より価格が高い場合があります。それは拝む時に極楽浄土のある西を向くことになるからです。彼岸の夕方、拝む彼方に夕日が沈み極楽浄土の方角を指し示してくれると、神秘的な印象を強くすることでしょう。もっとも公営の霊園ではそのような差がないこともあります。
 しかし西の方角を正確に指し示すことなど、普段はできません。手の平に乗る小さな方向磁石では、およその方角を知ることができるだけで、正確な真西を知ることはできません。しかし彼岸の日だけは、何の苦労もなくそれがわかる。つまり真西に沈む太陽の真中が真西になるわけです。ですから極楽浄土に往生を願う人達は、特別な思いで彼岸の夕日を見たことでしょう。また太陽を神聖視する日本の伝統的太陽観も大きく影響したことでしょう。日本人にとっては、太陽は単なる天体ではなく、「お日様」なのです。
 ただ平安時代から彼岸に墓参りをするという習慣があったわけではありません。あくまでも極楽浄土を身近に感じる日であり、「彼岸会」(ひがんえ)と呼ばれる法会を行うにはふさわしい日という程度の理解でした。彼岸会の起源は聖徳太子(厩戸皇子、うまやどのみこ)であると解説されることがありますが、史料的根拠は何一つありません。文献上最初の彼岸会は、『日本後紀』という歴史書の大同元年(806年)三月辛巳の日に記されています。文言としてはどこにも「彼岸」の文字はないのですが、その期日からして彼岸会の初見と考えてよいでしょう。ただしこの日の彼岸会は怨霊の慰霊が目的でした。平安時代には、彼岸はせいぜい仏事を行うにふさわしいよい日である、という程度の認識でした。中世になると次第に写経をしたり祖先の供養が行われるようになりますが、一斉に墓参りをするような風習はまだありませんでした。祖先の供養は、専ら盂蘭盆会(うらぼんえ、いわゆるお盆)に行うべきものだったのです。
 江戸時代になると、彼岸に寺に参詣し、夕日を眺めることは盛んに行われましたが、一斉に墓参りをするような風習はまだ始まっていません。江戸時代最大の歳時記である『俳諧歳時記栞草』(はいかいさいじきしおりぐさ、1851年)の「墓参」の項にも、盂蘭盆の墓参は記されていても、彼岸のことは全く触れられていません。ただし彼岸に牡丹餅を贈答する風習が、江戸時代の末期には始まっていたことは確認できます。
 彼岸に国民こぞって墓参をするようになるのは、明治になってから、この日に春季皇霊祭(しゅんきこうれいさい)・秋季皇霊祭が行われるようになったことによっています。皇霊祭とは宮中祭祀の一つで、歴代の天皇・皇后・皇族の命日を春分・秋分の日にまとめ、一括して祭ること、つまり皇室の祖霊をまつるものでした。太陽暦が採用された明治6年の暦を見ると、個々の命日に祭祀を行なっていたことが記されています。たとえば、1月1日は天智天皇、2日は清和天皇、3日は崇神天皇、4日は安寧天皇、5日は元明天皇、6日は武烈天皇という具合に、一年中続いていたわけですから、これではいくら何でも忙しすぎます。そこで一括して半年ごとに祭祀を行うようにしたわけです。宮中でこのように春秋の彼岸に祖先の供養をし、その日が祭日になりますので、次第に民間でも皇霊祭にならって祖先を供養するという風習が広まるようになったのです。ただし彼岸に祖先の霊をまつるという風習は日本独自のもので、同じ仏教の伝わった中国や韓国にはありません。
 ですから歴史的に長く中国文化の影響を受けていた沖縄では、墓参りをするのは春秋の彼岸ではなく、中国で墓参りをする風習のある清明節(せいめいせつ、4月4日か5日)を、沖縄風に「清明」(しーみー)とか「御清明」(うーしーみー)と呼び、この日一族こぞって墓参りをする風習があります。この日はお墓の前の広場に御馳走を持ち寄り、半日を楽しく過ごしながら一族のつながりを確認し合い、陰気な雰囲気は全くありません。
 春分と秋分の日には、ある特定の場所に立って夕日の沈む位置を確認してみましょう。それが真西の方角なのですから。ただし立つ位置が変わってしまうと、翌年の目安にはなりません。その日以外におよその西の方角を知るには、次のような方法もあります。デジタルではない長針・短針のある時計を使います。まず短針を太陽の方角に向けます。そして文字盤の12と短針の作る角度の二等分線の方向が、常に南北を示します。その線に直行する方角が必ず東西になるわけです。阿弥陀如来像をまつる寺に参拝することがあれば、この方法を試してみましょう。きっと拝む人が西を向くように、阿弥陀如来像は東を向いているはずです。

牡丹餅とお萩は違うものなの?(子供のための年中行事解説)

2021-09-08 16:42:44 | 年中行事・節気・暦
牡丹餅とお萩は違うものなの?
 春と秋の彼岸には、牡丹餅(ぼたもち)やお萩を食べるという風習があります。江戸時代の初期には、彼岸には「茶の子」と称して茶菓でもてなす風習があったことを確認できますから、その風習が変化したものかもしれません。最近ではお盆に食べることもあるようです。同じようなものにも見えるのですが、名前が異なることには何かわけでもあるのでしょうか。食物事典や伝統的年中行事の解説書などにはほぼ例外なく、「春の彼岸の頃に咲く牡丹の花に似ているから牡丹餅、秋の彼岸の頃に咲く萩の花に似ているからお萩と呼ぶ」と説明されています。中にはさらに詳しく、春は牡丹餅、夏は夜船、秋はお萩、冬は北窓と、四季それぞれに呼び名が異なっていたという解説もあります。また秋は粒餡(つぶあん)のお萩、春は漉餡(こしあん)の牡丹餅という説、大きいのが牡丹餅、小さいのがお萩という説もあります。その他にも地方によって様々な呼称とその理由があり、何が本当なのかすっかりわからなくなっています。いったい本当はどうなっていたのでしょうか。
 まず萩は秋の彼岸の頃に咲くからよいとしても、牡丹は新暦では4月の末から5月にかけて咲く花で、春の彼岸の頃の3月下旬には絶対に咲きません。江戸時代の歳時記には、牡丹は一つの例外もなしに夏の花として記されていますから、江戸時代に牡丹の開花期によって「牡丹餅」と呼ばれたという説明は成り立ちません。また現在は春秋の彼岸に食べるものと理解されていますが、そもそも江戸時代には、彼岸に牡丹餅やお萩を食べるようになるのは江戸時代も終わりの頃で、それ以前には彼岸に食べる風習はありませんでした。
 牡丹餅とお萩について記された文献史料は数え切れない程あるのですが、それらを片端から読んでみると、九分九厘の文献史料で季節による名前の使い分けはなく、春も秋も牡丹餅ばかりです。江戸時代の庶民文芸である川柳には、数え切れない程多くの牡丹餅が詠まれているのですが、秋でも冬でも全て「牡丹餅」となっていて、「お萩」は見当たりません。まして「夜舟」「北窓」などは存在すらしません。また大皿にたくさん盛り付けた様子が、大きな花びらが重なって咲いている牡丹の花に似ているので牡丹餅というという記述もあります。
 それなら「お萩」という名前はあったのでしょうか。もともとは「お萩」は「萩の餅」と呼ばれていました。江戸時代の初期にイエズス会のポルトガル人宣教師が編纂した『日葡辞書』(日本語・ポルトガル語辞書)には「Faguino Fana」(萩の花)として載せられています。また小豆の粒の残る餡をまぶした様子が、萩の花に似ているからであると、はっきり記述されている史料がいくつもあります。つまり「萩の餅」という名前は、本来は季節には関係なく、見た目による名前だったのです。これは公家などの上流階級で、プライドの高い人達が使う言葉とされていました。公家は「牡丹餅」という名前は下品であるとして絶対に食べることはなく、実際には同じものであるのに「萩の餅」という名前なら食べていたのです。一般庶民の間でも、「牡丹餅」は下品であるので、客人には恥ずかしくて御馳走することができないという記述もあります。また『女大学』という女性のための教育書には、「お萩」という名前は「萩の餅」の女言葉であると記されているのですが、これは欠き餅を女性が「おかき」と呼んだのと同じことです。また餡については、秋は粒餡、春は漉し餡と使い分けているとか、大きさによって名前が異なるとする文献史料の存在は確認できていません。
 一方、「春は牡丹餅、秋はお萩」と説いている書物が全くないわけではありません。しかし極めて少なく、それが人々に共通して受け容れられていたとはとても言うことができないほど、例外的なものです。『和訓栞(わくんのしおり)』(1777~1877年)という江戸時代後期から明治時代にかけて出版された国語辞典には、次のように記されています。それによれば、ある公家が戯れに、「牡丹餅は春の名、夜船は夏の名、萩の餅は秋の名、北窓は冬の名という。夜船と言うのは、着くのがわからないから。北窓と言うのは、月の光が差し込まないからである。貧しい者は隣知らずと言った」と記されています。夜舟と言うのは、乗客は眠っていて目的地に着いたのがわからないので、舟が「着く」と餅米を「搗く」(つく)を、北窓は月の光が差し込まないので、「月入らず」と「搗き要らず」(つきいらず)を掛けているわけです。牡丹餅(お萩)は蒸した餅米を少し搗くだけで、米粒の形が残っています。それであまり搗かないことを「着く」や「月」に掛けて、「着いたことがわからない夜舟」、「月の光が入らない北の窓」と洒落ているわけです。知識人が戯れに言葉遊びとして紹介したという設定なのですが、これは逆に四季による使い分けが普及していなかったことを逆に証明しているようなものです。誰もが知らないことだからこそ、蘊蓄(うんちく)を傾け得意顔で解説するからです。誰もが知っていたら、わざわざそのような話をするわけがないではありませんか。
 おなじような話は、『軽口機嫌嚢(かるくちきげんぶくろ)』(1728年)という笑話集にものせられているのですが、物知りの客が牡丹餅を振る舞われた際に、「皆さんはご存知ないようなので、教えてさしあげよう」とばかりに、自慢げに語ったという設定となっています。つまりこれも言葉遊びに過ぎないのであって、広くそのように呼ばれてはいなかったことを示しています。
 明治時代の文献史料では、『東京風俗志』(1901年)には、春の彼岸には「萩の餅」、『東京年中行事』(1911年)には、春の彼岸には「牡丹餅」、秋の彼岸には「萩の餅」を食べるという記述があります。また同書には「餅の名や秋の彼岸は萩にこそ」という俳句が収録されていますから、明治時代に季節による使い分けが始まった可能性があります。
 それならなぜ牡丹餅は賤しい食べ物とされていたのでしょう。実は江戸時代の「ぼた」という言葉は、女性の容姿をあざける差別用語だったのです。これは江戸時代の国語事典にはっきりと記され、そのような意味で「ぼた餅」が詠まれている川柳がたくさんあります。「ぼたもちとぬかしたと下女憤り」「ぼたもちのくせに黄粉をたんとつけ」という川柳の意味は、説明しなくても理解できるでしょう。ところがたまたまなのですが、「ぼた」という言葉は「萩」のことも意味する同音異義語でもあるのです。そこで花の名前による「萩の餅」になぞらえて、「ぼた餅」の「ぼた」に「牡丹」の字を当てはめ、露骨な差別用語であることを隠しているわけです。しかし隠したところでもともとは女性に対する差別用語であることは誰でも知っていますから、「牡丹餅」という名前では上品な客人には恥ずかしくて御馳走できなかったり、上流階級であるというプライドのある人は、「萩の餅」という名前にこだわっていたわけです。このことは『俚言集覧(りげんしゆうらん)』という江戸時代の口語辞典にもはっきりと記されています。
 餡の違いについては、秋の小豆は乾燥しきっていないため、粒餡(つぶあん)でも皮が気にならないのですが、年を越した春の小豆では漉餡(こしあん)の方が舌触りがよいため、秋は粒餡で、春は漉し餡で作ると説明されることがあります。しかしこれは現代の菓子職人がより美味しいものを追求した結果なのであって、江戸時代にはその様な使い分けに言及した文献史料はありません。むしろ萩の花に似ているというのですから、粒餡が普通であったと考えられます。
 長くなりましたが、要するに「春は牡丹餅、秋はお萩」という呼び方は、せいぜい明治時代末期以後のものであり、本来は季節による使い分けはなく、主に上流階級が「萩の餅」、庶民は「牡丹餅」、女性は「お萩」と呼んでいました。ですから春は牡丹餅、秋はお萩と名前を使い分けていたとか、大きさや餡の種類により名前が異なっていたという解説は、歴史的には全て誤りなのです。
 それなら現在は何と呼べばよいのでしょう。「ぼた」が差別用語であると理解する人はいませんから、個人の自由でよいと思います。私は江戸時代以前から「萩の餅」という名前が使われていましたから、その様に呼んでいます。もし「春は牡丹餅、秋はお萩が正しい」と言われたら、「実は歴史的にはね・・・・」と説明してみるのも面白いと思います。ここでお話したことには、確かな文献史料の裏付けがありますから、安心して信じて下さい。

月見には何をお供えするの?(子供のための年中行事解説)

2021-09-05 06:57:18 | 年中行事・節気・暦
月見には何をお供えするの?
 古い時代の庶民の月見がどのようなものであったかは、史料がほとんどないのでよくわかりません。しかし江戸時代になると多くの文献史料が残され、月見に供えるものまでよくわかるようになります。主役は月見団子です。団子を供える理由については、十五日の望月(もちづき、満月)であるので、丸い餅の団子を供えたと理解するのが自然ですが、文献史料の裏付けがあるわけではありません。その他には里芋やすすき(芒・薄)を供えるのが最も一般的でした。江戸時代の『俳諧歳時記』(1803年)という書物には、「御神酒(おみき)と尾花(すすき)を月に供え、団子と芋と豆を盛り、またそれを互いに贈り合う。また必ず芋を食べるので『芋名月』という」と記されています。この場合の「芋」は里芋のことです。「衣かつぎ」(正しくは「衣被き」・「きぬかづき」であって、「衣を担ぐ」わけではない)にして食べることもありました。これは小さな里芋の皮をむかずにゆで、皮をつるりとむいて味噌などをつけて食べます。『長崎歳時記』(1757年)には里芋と共に「琉球芋」と呼ばれた薩摩芋の煮物を供えると記されていますが、これは九州ならではのことなのでしょう。
『守貞謾稿』(もりさだまんこう)という江戸時代末期の風俗解説書には、江戸・京・大坂の月見の様子が詳細に記されています。「江戸では、机上にすえた三方に団子を盛り、また必ずすすきを生ける。千日紅などの秋草を添えることもある。京・大坂では机の上の三方に団子を盛るのは江戸と同じだが、団子の形が(里芋の)小芋のように片方を少し尖らせるようにこしらえる。そして豆粉(きなこ)に砂糖を加えて団子にまぶし、醤油で煮た小芋と一緒に、12個を盛って三方に盛る。閏月のある年には13個を盛る」、ということです。十五夜にちなんで、江戸時代には15個供えることもあったようです。「大家から鉄砲玉が十五来る」(『誹風柳多留』12-17)という川柳がありますが、けちな大家が店子(たなこ、長屋の住人)に配る月見団子が「鉄砲玉」のように小さいと皮肉っているのです。『東京年中行事』(1911年)では、15個となっていて、現在でも15個供えることが多いようです。もっとも江戸時代の団子は、絵図で見る限りは、一つが直径5㎝から握りこぶし程の大きさがあります。
 近現代の月見団子は地域差がとても大きく、とても一くくりにはできません。関東から中部地方にかけては、白く丸い形が広まっています。葬儀用の枕団子と同じようにならないように、真丸ではなく少し押しつぶした形もあります。富山から新潟・山形の日本海側には、あん入りの白い団子、京阪地方では里芋のように片方が少し尖った形をしています。このことは『守貞謾稿』に記されているように、江戸時代以来の伝統です。ただ現代ではその上にあんがのせられています。四国・瀬戸内地方では、団子を串刺しにして供えるとのことです。
 団子の他には、江戸時代にはすすき(芒、薄)を供える地域もありました。年中行事の解説書やネット情報には、すすきは月の神を招くための依代(よりしろ、神霊を招き寄せるための目印)であると説明されています。また茎が中空のため、神が宿るとか、すすきの鋭い切り口が魔除けになるとか、収穫にはまだ早い稲穂に見立てるなど、さまざまな説がとなえられています。また月は豊作をもたらす神として信仰されていたので、稲穂に見立てたすすきを供えると説明されることがあります。しかしそのような理解があったことを示す文献は、江戸時代の主な歳時記・年中行事の解説書や辞書類には何一つありません。そもそも日本では月が豊作の神であるという信仰はありませんでした。古老がそのように言っていたという可能性はありますが、歴史的文献の裏付けはありません。おそらくは誰かがもっともらしく解説したことが、根拠の確認もしないで垂れ流された結果なのでしょう。
 さて「すすき」を知らない日本人はまずいないでしょうが、実はこれがかなり怪しいのです。本人はすすきと思っていても、そっくりのおぎ(荻)である場合がとても多いからです。荻という字は荻野・荻原・荻窪・荻島など、人名にはよく見られるのですが、植物としてのオギを正しく知っている人は少ないのではないでしょうか。
 オギは河川敷や水田の近くなど、湿地に近いところに群生します。しかしススキはそれより乾燥気味の所に株立ちして生育します。またオギは長い地下茎を縦横に伸ばし、あたり一面に所狭しと群生しています。それに対してススキには発達した地下茎がなく、株を作って繁茂します。一面に生えているように見えても、株ごとに独立しているのです。そういうわけで、生えている場所と、株立ちするか否かで、100m離れた所からでも識別できます。ところが穂を1本採ってきて見せられると、別の方法で識別しなければなりません。しかしこれも簡単です。穂は長さ1㎝にも満たない毛針のような小花が連なってできていますが、それをルーペで拡大して見ると、ススキには1本だけ長いのぎ(禾)があるのに対して、オギにはそれがありません。次回のお月見では、ススキかオギかよく観察してみましょう。
 現代の月見でも、月見団子を供えるでしょう。数は月の数である12でも、十五夜にちなんで15でも、どちらでもよいでしょう。形には地域独特の風習があるはずです。もちろん江戸時代以来のススキも供えましょう。ススキがなければオギでもよいでしょう。他には秋の風情を感じさせる秋草もよい。また里芋や栗や柿や枝豆など、季節の農作物をお好みで供えます。子供は飲めませんが、御神酒を供えてもよいと思います。


どうして秋の名月は「十五夜の月」と呼ばれるの?(子供のための年中行事解説)

2021-09-03 08:37:05 | 年中行事・節気・暦
どうして秋の名月は「十五夜の月」と呼ばれるの?
 月は形が満ちたり欠けたりして、日ごとに形が変化します。同じ形にもどるまで、つまり満月から次の満月までは、29.53日かかるのですが、ここではとりあえず約30日としておきましょう。だから一月(ひとつき)は30日を基準としているわけです。ついでのことですが、24時間で太陽(日)が一回りしますから、それを一日(いちにち)と呼ぶわけです。もし月と太陽が一緒に東の空から上ってくるとすると、月は太陽の明るさに隠れてしまって見えません。月は太陽の光の当たらない暗黒面を地球に向けているので、地球からは一日中見えないのです。次の日には、月は少し太陽より遅れて上ってきますが、やはりまだ太陽の光にまぎれて見えません。そして夕方に太陽が西に沈んでしまうと、遅れて上ってきた分だけ、ほんのわずかな時間ですが、細い細い月が西の空の低い位置に見えることがあります。旧暦ではこの日の月を新月と呼び、各月の「一日」(ついたち)としました。さらに次の日にはもっと遅れて上ってきますが、朝はまだ見えません。それでも夕方には太陽の光が弱くなり、新月よりも少し太くなって、前日に見えた位置よりほんの少しだけ高い西の空に見えます。三日目くらいになるともう少し太くなり、これがいわゆる「三日月」と呼ばれる月です。ですから三日月は必ず日没の前後に西の空に見えるのです。
 こうして一日ごとに月の形が満月に近付き、月の形が一巡する三十日の中間地点である十五日目、つまり「十五夜」の頃には、太陽が沈む頃に東の満月が空から上ってくるのです。ですから満月は必ず日没の前後に東の空に見えます。ただし実際には季節によって日没の時間が大きく変化しますから、あくまでも平均的なお話です。
 天文学的には、月が一巡するのは29.53日であり、月の地球を回る軌道が楕円で、地球に近い時には早く、遠い時には遅く動くため、必ずしも十五日目が満月になるとは限りません。実際には13.9~15.6日の幅があります。また天文学的には満月というのは月が地球を挟んで太陽と正反対の位置に来た瞬間のことですから、満月は一日単位で認定されるのではなく、瞬間として認定されます。それで日付が替わるのは午前0時なのですから、同じ夜でもカレンダー上では満月が1日前後することがあります。まあ天文学的には細かい計算があるのですが、それは専門家に任せておきましょう。いずれにせよ、満月は旧暦の十五夜に見えるということは、日常の生活感覚としてはおおむね正しいのです。
 江戸時代の俳人蕪村が詠んだ「菜の花や 月は東に 日は西に」という俳諧(俳句)があるのですが、この月の形を考えてみましょぅ。太陽が沈む時に東に見える月ですから、限りなく満月に近い月であることがわかるでしょう。西には茜色の日が沈みかけ、東にはやや赤みを帯びた満月が上ってくる。目の前には一面の菜の花畑が広がっている。何と美しい景色ではありませんか。(私の家の近くでは、毎年4月に1回だけ、この景色を見ることができます。)『朧月夜』(おぼろづきよ)という唱歌には、「菜の花畑に入り日薄れ・・・・春風そよふく空を見れば 夕月かかりて におい淡し」と歌われていますが、これも同じく満月に近い。この歌の作詞者の脳裏には、蕪村の句がかすめたかもしれません。滝廉太郎作曲『花』という唱歌には、「錦おりなす長堤(ちょうてい)に 暮るればのぼるおぼろ月」と歌われています。これも夕暮れ時に上ってくる月ですから、同じように満月に近い月です。(ネット情報で『花』の歌詞の解説を読んでみると、月の形にまで触れているものがほとんどなく、とても残念なことです。)この様に昔の人は、太陽と月の位置関係を常に意識していたのです。
 秋の月見の満月は、「ちゅうしゅうの名月」とも呼ばれます。「ちゅうしゅう」を漢字で書くと「中秋」「仲秋」と二通りの書き方があり、どちらが正しいのかと議論になることがあります。「中秋」とは秋の真中という意味で、旧暦では秋は7~9月の三カ月ですから、秋のちょうど真中は8月の15日です。しかし満月は既にお話した様に1日くらいずれることがありますので、8月15日のいわゆる「十五夜」が満月とは限りません。それに対して「仲秋」とは、秋三カ月の真中の月である8月全体のことですから(旧暦7月は孟秋、8月は仲秋、9月は季秋)、「仲秋の名月」は必ず旧暦8月の満月を指すわけです。ですから「十五夜」という言葉にこだわるならば「中秋の名月」、満月にこだわるならば「仲秋の名月」と言えばよいわけです。しかしそもそも歴史的には厳密に区別されず、混同されることも多いものでした。事実上同じようなものですから、そもそもどちらが正しいかという議論は意味がありません。私達は天文学的な観測をしているのではなく、名月を楽しんでいるのですから、どちらも正しいのです。